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title: "大寶積經 · 1"
description: "大宝积经是唐代高僧菩提流志翻译的一部重要佛教经典，属于大乘佛教宝积部核心典籍。该经汇集了早期大乘佛教的多部经典，形成于公元2-4世纪，内容涵盖菩萨修行、般若智慧、净土思想等大乘教义。菩提流志奉唐玄宗之命于8世纪完成汉译，共120卷，系统阐述了大乘佛教的修行次第与解脱之道。作为大乘佛教的重要集成经典，大宝积经在中国佛教史上具有崇高地位，对汉传佛教各宗派尤其是华严宗、净土宗的发展产生深远影响，是研究大乘佛教思想体系的关键文献。"
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## 大寶積經1 三律儀會1

> 大宝积经 三律仪会

### 三律儀會第一之一

> 三律儀会 第一の一

大唐三藏法師菩提流志奉　詔譯

> 大唐三蔵法師菩提流志奉　詔訳

如是我聞：

> 私はこのように聞きました。

一時佛住王舍城耆闍崛山。其山高峻嚴麗可觀，持諸雜種猶如大地，眾華卉木悉皆茂盛。其中復有天、龍、夜叉、毘舍闍、緊那羅等常所遊止。復有種種異類諸獸，所謂師子虎狼、麒麟象馬、熊羆之屬止住其中。復有無量百千眾鳥，所謂孔雀鸚鵡、鴝𩿦羅鳥、鳧鴈鴛鴦、命命等類依之而住。是諸眾生，以佛威力，不為貪欲瞋癡所惱，不相茹食；共相親愛猶如母子。是山王中多諸雜樹，叢林蓊欝枝葉繁榮，謂天木香樹、菴摩羅樹、甄叔迦樹、尼俱陀樹、栴檀沈水，如是等樹無不備有。復有水陸無量雜華，所謂阿提目多華、瞻婆香華、波吒羅華、婆師迦華、蘇曼那華、由提迦華、優鉢羅華、波頭摩華、俱物頭華、芬陀利華、迦羅娑華、摩訶迦羅娑華，如是等類諸雜名華，光飾山王處處充遍。是山王中常於夜半興大密雲，輕雷細雨，從初至末漸遍其山，八功德水流滋普洽，如𤛓乳頃廓然消散，涼風微動適悅身心。是山王中所住眾生及諸卉木，滋潤光澤如妙華鬘，微加水灑，光色鮮明倍更增勝。此山王中眾生草木，含滋發暉亦復如是。而此山中生諸軟草，靃靡右旋色香具足，青綠暉映如孔雀咽，其香喻若婆師迦華，其觸又類輕兜羅綿，枝葉華果繁榮茂盛，未甞有一不具足者。山地柔軟無傷趾步，下足之時陷深四指，舉足之時還復如故。其中多有陂泉池沼，清冷盈滿生雜蓮華，青黃赤白紅紫頗梨金火等色，大如車輪，香氣普熏一踰繕那。是山王頂生於大妙寶蓮華座，無降伏寶帝青金剛以為其莖，大吠琉璃為諸寶鐸，贍部檀金為廣淨葉，順時清淨栴檀為臺，瑪瑙寶王以為其鬚。其華縱廣猶如大海，十億阿修羅王常所執持，十億雜色摩尼寶網彌覆其上，十億龍王雨妙香雨，十億金翅鳥王口銜繒綵，十億緊那羅王至誠瞻仰，十億摩睺羅伽王虔恭俯視，十億乾闥婆王歌詠讚歎，十億百千諸大天帝興布瑞雲，而雨末香燒香、衣服華鬘、幢幡寶蓋，十億梵王曲躬恭敬，十億淨居天眾合掌頂禮，十億轉輪人王七寶侍從來至其所，十億海王從大海出而敬禮之，十億光明摩尼寶以為照曜，十億淨福摩尼寶珠為勝莊嚴，十億遍照摩尼寶為無垢藏，十億妙光摩尼寶為大照明，十億雜色摩尼藏寶而為遍照、贍部幢寶為善安持，十億金剛師子摩尼寶難勝莊嚴，十億日藏摩尼寶間錯廁填廣大嚴飾，十億不思議摩尼寶出種種色為妙莊嚴，十億如意寶出無盡莊嚴。是大蓮華從於如來超過世間善根所生，菩薩志意之所愛慕。遍現諸方，從如幻法出、善法業生，以無諍法性理趣莊嚴如夢法性，無行法印順無着理，遍滿十方一切法界，是順佛境功德所致。若於無量阿僧祇劫歎其色相功德莊嚴，不可窮盡。

> ある時、仏は王舎城の霊鷲山におられた。その山は高く険しく、厳かで美しく、眺めるにふさわしい。さまざまな種類のものが大地のようにあり、多くの花や草木はことごとく生い茂っていた。その中にはまた、天、龍、夜叉、毘舎闍、緊那羅などが常に遊び住んでいた。また、さまざまな異なる種類の獣たち、いわゆる獅子、虎、狼、麒麟、象、馬、熊、羆などがそこに住んでいた。また、無量百千の多くの鳥たち、いわゆる孔雀、鸚鵡、鴝𩿦羅鳥、鳧、雁、鴛鴦、命命鳥などの類が、それに依って住んでいた。これらの衆生は、仏の威神力によって、貪欲・瞋恚・愚痴に悩まされることなく、互いに食い合うこともなく、母と子のように互いに親しみ愛し合っていた。 この山の王の中には、多くの雑多な樹木があり、叢林は生い茂り、枝葉は繁っていた。天木香樹、菴摩羅樹、甄叔迦樹、尼俱陀樹、栴檀、沈水などのような樹木が、ことごとく備わっていた。また、水陸に無量の雑多な花があり、いわゆる阿提目多華、瞻婆香華、波吒羅華、婆師迦華、蘇曼那華、由提迦華、優鉢羅華、波頭摩華、俱物頭華、芬陀利華、迦羅娑華、摩訶迦羅娑華などのような、さまざまな名の花が、山の王を飾り、あちこちに満ちていた。 この山の王の中では、常に夜半に大きな密雲が起こり、軽い雷と細かい雨が、初めから終わりまで次第に山全体に広がり、八功徳の水が流れて普く潤した。牛乳を搾るほどの時間で、雲は晴れ渡り消え去り、涼風が微かに動いて、身心を快適に喜ばせた。この山の王の中に住む衆生と諸々の草木は、潤い光沢があり、妙なる花鬘のように、わずかに水をかけただけで、光と色が鮮やかになり、ますます増し勝れていた。この山の王の中の衆生と草木が、滋養を含んで輝きを放つ様もまた、このようであった。 そしてこの山中には、柔らかな草が生え、靡き右に旋り、色も香りも具わっていた。青く緑に輝き映えて孔雀の喉のようであり、その香りは婆師迦華に譬えられ、その触れ心地は軽い兜羅綿のようであった。枝葉花果は繁栄して茂り、一つとして具わらないものはなかった。山地は柔らかく、歩く足を傷つけることはなく、足を下ろすときは四指ほど沈み、足を上げると元のように戻った。その中には多くの陂泉や池沼があり、清く冷たく満ち溢れ、雑多な蓮華が生えていた。青、黄、赤、白、紅、紫、頗梨、金、火などの色で、車輪のように大きく、香気は一由旬に普く薫っていた。 この山の王の頂上には、大いなる妙なる宝の蓮華座が生じていた。無降伏宝の帝青金剛がその茎となり、大いなる吠瑠璃が諸々の宝の鈴となり、贍部檀金が広く清らかな葉となり、時に順って清浄な栴檀が台となり、瑪瑙の宝の王がその鬚となっていた。その華の縦広は大海のようであり、十億の阿修羅王が常にそれを執持し、十億の雑色の摩尼宝の網がその上を覆い、十億の龍王が妙なる香りの雨を降らせ、十億の金翅鳥王が口に繒綵をくわえ、十億の緊那羅王が至誠をもって仰ぎ見、十億の摩睺羅伽王が虔かにうつむいて視、十億の乾闥婆王が歌って讃歎し、十億百千の諸大天帝が瑞雲を興して、末香や焼香、衣服、華鬘、幢幡、宝蓋を雨のように降らせ、十億の梵王が腰を曲げて恭敬し、十億の浄居天の衆が合掌して頂礼し、十億の転輪人王が七宝の侍従を従えてその所に来至し、十億の海王が大海から出てそれを敬礼し、十億の光明摩尼宝が照らし、十億の浄福摩尼宝珠が勝れた荘厳となり、十億の遍照摩尼宝が無垢の蔵となり、十億の妙光摩尼宝が大いなる照明となり、十億の雑色摩尼蔵宝が遍く照らし、贍部幢宝が善く安らかに持ち、十億の金剛師子摩尼宝が難勝の荘厳となり、十億の日蔵摩尼宝が間違って填められ広大に厳かに飾り、十億の不思議摩尼宝が種々の色を出して妙なる荘厳となり、十億の如意宝が尽きることのない荘厳を出していた。 この大蓮華は、如来より出で、世間を超えた善根より生じ、菩薩の志意の愛慕するところであった。諸方に遍く現れ、幻の法より出で、善法の業より生じ、無諍の法性の理趣をもって荘厳し、夢の法性の如く、無行の法印をもって無着の理に順い、十方一切の法界に遍満する。これは仏の境涯に順う功徳によるものである。もし無量阿僧祇劫にわたって、その色相功徳荘厳を歎じても、尽きることはない。

爾時世尊於其華上結跏趺坐，與大比丘眾八千人俱，其名曰：尊者阿若憍陳如、尊者阿濕婆氏多、尊者摩史波、摩訶男、優陀夷、耶舍、富那、無垢、善臂、憍梵鉢提、優樓頻螺迦葉、那提迦葉、摩訶迦葉、舍利弗、大目乾連、阿那律、須菩提、離波多、富樓那彌多羅尼子、優波離、羅睺羅、難陀等而為上首，悉皆覺悟自性諦理，現證實際，入法本性，度諸有海。行於如來虛空之行，悉能永斷隨眠結縛，而於攝藏住無所住行空寂靜。於如來所永斷疑惑，入佛智海勝信道中，利益世間為不請友，常能衛護一切眾生，與諸有情為不捨友。通達佛法，所行境界守護聖法，誓願受持諸佛正教，現前得生如來種性，善能趣向一切智智。

> その時、世尊は蓮華の上に結跏趺坐し、八千人の大比丘たちと共におられた。その名は、尊者阿若憍陳如、尊者阿濕婆氏多、尊者摩史波、摩訶男、優陀夷、耶舍、富那、無垢、善臂、憍梵鉢提、優樓頻螺迦葉、那提迦葉、摩訶迦葉、舎利弗、大目乾連、阿那律、須菩提、離波多、富樓那彌多羅尼子、優波離、羅睺羅、難陀などが上首としており、彼らは皆、自性の真理を悟り、実際の境地を現証し、法の本性に入り、あらゆる迷いの海を渡っていた。彼らは如来の虚空の行を行じ、すべての煩悩の束縛を永遠に断ち切り、摂蔵に住しながらも、どこにも執着せず、空寂の境地を歩んでいた。如来の教えによって永遠に疑いを断ち切り、仏の智慧の海に入り、勝れた信仰の道を歩み、世間の利益のために、求められなくとも友となり、常に一切の衆生を守り護り、すべての有情と離れない友となっていた。彼らは仏法に通達し、歩むべき境界を守り、聖なる法を護持し、諸仏の正しい教えを誓って受け持ち、如来の種性を現前に生じさせ、一切智智へと善く向かうことができていた。

復有菩薩摩訶薩眾八千人俱，普賢菩薩、文殊師利菩薩等而為上首，所謂最上智智菩薩、最上寶智菩薩、一切語言智菩薩、無著智菩薩、花上智菩薩、日上智菩薩、月上智菩薩、無垢上智菩薩、金剛智菩薩、遠塵智菩薩、光幢菩薩、妙高幢菩薩、寶幢菩薩、無礙幢菩薩、華幢菩薩、淨幢菩薩、日幢菩薩、端嚴幢菩薩、離垢幢菩薩、遍照幢菩薩、陀羅尼威德菩薩、寶威德菩薩、大威德菩薩、金剛智威德菩薩、無垢威德菩薩、日威德菩薩、月威德菩薩、福山威德菩薩、智照威德菩薩、普勝威德菩薩、地藏菩薩、虛空藏菩薩、蓮華藏菩薩、寶藏菩薩、日藏菩薩、清淨功德藏菩薩、法海藏菩薩、遍照藏菩薩、齊藏菩薩、勝蓮華藏菩薩、日眼菩薩、淨眼菩薩、無垢眼菩薩、無礙眼菩薩、普明眼菩薩、善利智眼菩薩、金剛眼菩薩、寶眼菩薩、虛空眼菩薩、普眼菩薩、天冠菩薩、照法界摩尼冠菩薩、妙菩提摩尼冠菩薩、照十方冠菩薩、出現一切佛藏冠菩薩、超一切世間冠菩薩、普照冠菩薩、無映蔽冠菩薩、執持一切如來師子座冠菩薩、普照法界虛空冠菩薩、梵王髻菩薩、龍王髻菩薩、一切佛變化影像髻菩薩、妙菩提髻菩薩、一切願海音聲摩尼王髻菩薩、放一切如來圓光摩尼寶雷聲髻菩薩、一切虛空無差別表示摩尼寶網覆髻菩薩、一切如來法輪聲髻菩薩、一切三世名輪聲髻菩薩、大光菩薩、無垢光菩薩、寶光菩薩、離塵光菩薩、法光菩薩、寂靜光菩薩、日光菩薩、神變光菩薩、天光菩薩、福光菩薩、智光菩薩、法光明菩薩、神通光菩薩、光照菩薩、華光菩薩、寶光菩薩、覺光明菩薩、梵光菩薩、普照光菩薩、梵音菩薩、海音菩薩、地吼音菩薩、世間王音菩薩、山王音菩薩、山王相擊音菩薩、遍法界音菩薩、一切法海雷音菩薩、摧伏諸魔音菩薩、大悲理趣雲雷音菩薩、遍息一切世間苦惱音菩薩、法勝涌菩薩、殊勝涌菩薩、智勝涌菩薩、福須彌勝涌菩薩、功德最勝涌菩薩、名聞勝涌菩薩、普光勝涌菩薩、大慈勝涌菩薩、智照勝涌菩薩、如來種姓勝涌菩薩、光德菩薩、勝德菩薩、法涌德菩薩、遍照德菩薩、法德菩薩、月德菩薩、虛空德菩薩、寶德菩薩、光德菩薩、智德菩薩、婆羅帝王菩薩、法帝王菩薩、象帝王菩薩、梵帝王菩薩、山帝王菩薩、眾帝王菩薩、天帝王菩薩、寂靜帝王菩薩、不動帝王菩薩、最勝帝王菩薩、菩提寂靜聲菩薩、無著聲菩薩、地聲菩薩、大海聲菩薩、音聲菩薩、照法聲菩薩、虛空聲菩薩、一切聲菩薩、善根雷聲菩薩、發悟本願聲菩薩、摧一切魔軍聲菩薩、智須彌覺菩薩、虛空覺菩薩、清淨覺菩薩、無礙覺菩薩、開寤覺菩薩、照三世覺菩薩、寶覺菩薩、廣大覺菩薩、普光覺菩薩、法界理趣照覺菩薩，如是等菩薩摩訶薩八千人俱。皆悉安住普賢願行，所行無著者，普遍一切諸佛剎故。變無邊身者，親近一切佛如來故。所緣無際限境界清淨者，了知一切佛神變故。趣無量者，往詣諸佛現等覺處無休息故。無邊光明者，於一切法實相海中得無邊智光明故。無邊劫中說功德無盡者，辯才清淨故。等虛空界者，智所行境清淨故。無所依者，隨世意樂現色身故。能離翳者，了知無有眾生界故。虛空智慧者，放光明網遍法界故。究竟寂靜者，最寂靜心故。一切陀羅尼種性智境界者、於三摩地勇猛無畏者、眼住法界盡其際者、於一切法住無所得者、遊無邊智海者、已度智彼岸者、般若波羅蜜多者、般若波羅蜜多到一切世間波羅蜜者、於三摩地彼岸得自在者。

> また、八千人の菩薩摩訶薩が共に集いました。普賢菩薩、文殊師利菩薩をはじめとする上首の菩薩たちであり、その中には最上智智菩薩、最上宝智菩薩、一切言語智菩薩、無着智菩薩、花上智菩薩、日上智菩薩、月上智菩薩、無垢上智菩薩、金剛智菩薩、遠塵智菩薩、光幢菩薩、妙高幢菩薩、宝幢菩薩、無礙幢菩薩、華幢菩薩、浄幢菩薩、日幢菩薩、端厳幢菩薩、離垢幢菩薩、遍照幢菩薩、陀羅尼威徳菩薩、宝威徳菩薩、大威徳菩薩、金剛智威徳菩薩、無垢威徳菩薩、日威徳菩薩、月威徳菩薩、福山威徳菩薩、智照威徳菩薩、普勝威徳菩薩、地蔵菩薩、虚空蔵菩薩、蓮華蔵菩薩、宝蔵菩薩、日蔵菩薩、清浄功徳蔵菩薩、法海蔵菩薩、遍照蔵菩薩、斉蔵菩薩、勝蓮華蔵菩薩、日眼菩薩、浄眼菩薩、無垢眼菩薩、無礙眼菩薩、普明眼菩薩、善利智眼菩薩、金剛眼菩薩、宝眼菩薩、虚空眼菩薩、普眼菩薩、天冠菩薩、照法界摩尼冠菩薩、妙菩提摩尼冠菩薩、照十方冠菩薩、出現一切仏蔵冠菩薩、超一切世間冠菩薩、普照冠菩薩、無映蔽冠菩薩、執持一切如来師子座冠菩薩、普照法界虚空冠菩薩、梵王髻菩薩、龍王髻菩薩、一切仏変化影像髻菩薩、妙菩提髻菩薩、一切願海音声摩尼王髻菩薩、放一切如来円光摩尼宝雷声髻菩薩、一切虚空無差別表示摩尼宝網覆髻菩薩、一切如来法輪声髻菩薩、一切三世名輪声髻菩薩、大光菩薩、無垢光菩薩、宝光菩薩、離塵光菩薩、法光菩薩、寂静光菩薩、日光菩薩、神変光菩薩、天光菩薩、福光菩薩、智光菩薩、法光明菩薩、神通光菩薩、光照菩薩、華光菩薩、宝光菩薩、覚光明菩薩、梵光菩薩、普照光菩薩、梵音菩薩、海音菩薩、地吼音菩薩、世間王音菩薩、山王音菩薩、山王相撃音菩薩、遍法界音菩薩、一切法海雷音菩薩、摧伏諸魔音菩薩、大悲理趣雲雷音菩薩、遍息一切世間苦悩音菩薩、法勝涌菩薩、殊勝涌菩薩、智勝涌菩薩、福須弥勝涌菩薩、功徳最勝涌菩薩、名聞勝涌菩薩、普光勝涌菩薩、大慈勝涌菩薩、智照勝涌菩薩、如来種姓勝涌菩薩、光徳菩薩、勝徳菩薩、法涌徳菩薩、遍照徳菩薩、法徳菩薩、月徳菩薩、虚空徳菩薩、宝徳菩薩、光徳菩薩、智徳菩薩、婆羅帝王菩薩、法帝王菩薩、象帝王菩薩、梵帝王菩薩、山帝王菩薩、衆帝王菩薩、天帝王菩薩、寂静帝王菩薩、不動帝王菩薩、最勝帝王菩薩、菩提寂静声菩薩、無着声菩薩、地声菩薩、大海声菩薩、音声菩薩、照法声菩薩、虚空声菩薩、一切声菩薩、善根雷声菩薩、発悟本願声菩薩、摧一切魔軍声菩薩、智須弥覚菩薩、虚空覚菩薩、清浄覚菩薩、無礙覚菩薩、開寤覚菩薩、照三世覚菩薩、宝覚菩薩、広大覚菩薩、普光覚菩薩、法界理趣照覚菩薩などがおられます。 このような八千人の菩薩摩訶薩たちは、皆、普賢の願いと行いに安住し、その行いは無着であり、あらゆる仏国土に遍く行き渡るゆえです。無辺の身に変じるのは、すべての仏如来に親しく近づくためです。限りなく広がる清らかな境地を縁とするのは、一切の仏の神変を悟り知るためです。無量の世界へと趣くのは、諸仏が現に等覚を成じた場所へと休むことなく赴くためです。無辺の光明を放つのは、一切の法の実相の海において、限りない智慧の光明を得るためです。無辺の劫の中で功徳を説き尽きないのは、弁才が清浄であるからです。虚空界と等しいのは、智慧の行く境が清浄であるからです。何にも依らないのは、世の意楽に随って色身を現すからです。曇りを離れることができるのは、衆生界が存在しないことを悟り知るからです。虚空のような智慧を持つのは、光明の網を放って法界に遍く行き渡らせるからです。究竟の寂静に至るのは、最も静かな心を持つからです。一切の陀羅尼の種性と智慧の境地に住み、三摩地において勇猛で畏れなく、眼は法界に住してその果てまで見渡し、一切の法に住して得るものなく、無辺の智慧の海を遊泳し、智慧の彼岸に渡り、般若波羅蜜多を具え、般若波羅蜜多によって一切の世間の波羅蜜に至り、三摩地の彼岸において自在を得た方々です。

復有五百比丘尼俱，其名曰摩訶波闍波提比丘尼、瞿曇彌比丘尼、安隱比丘尼、優鉢羅華比丘尼、瘦瞿曇彌比丘尼、耶輸陀羅比丘尼等而為上首。

> また五百人の比丘尼が共におられました。その名は、摩訶波闍波提比丘尼、瞿曇彌比丘尼、安隱比丘尼、優鉢羅華比丘尼、瘦瞿曇彌比丘尼、耶輸陀羅比丘尼などで、彼女たちが上首としておられました。

復有五百優婆塞俱，其名曰善威德優婆塞、天威德優婆塞、慧光優婆塞、名稱威德優婆塞、超名稱威德優婆塞、善慧優婆塞、月德優婆塞、月歡喜優婆塞、大歡喜優婆塞、羅睺賢優婆塞、大賢優婆塞等而為上首。

> さらに、五百人の優婆塞（在家信者）が集まっていました。その主な者たちは、善威徳優婆塞、天威徳優婆塞、慧光優婆塞、名称威徳優婆塞、超名称威徳優婆塞、善慧優婆塞、月徳優婆塞、月歓喜優婆塞、大歓喜優婆塞、羅睺賢優婆塞、大賢優婆塞などです。

復有五百優婆夷俱，其名曰大光優婆夷、善光優婆夷、善身優婆夷、可樂身優婆夷、賢德優婆夷、月光優婆夷、光明優婆夷、勝光優婆夷、善眼優婆夷等而為上首。及餘無量天、龍、夜叉、乾闥婆、阿修羅、迦樓羅、緊那羅、摩睺羅伽等圍繞恭敬，而為說法。所謂廣說三律儀品一切如來毘奈耶法，開現一切諸菩薩行，明照法界入諸法門，能淨莊嚴一切佛剎，摧諸邪論降伏魔怨，令眾生界心得歡喜。開曉有情稠林之心，隨眾生意而為宣說，開示照曜眾生諸根，令其轉趣。

> また五百人の優婆夷（在家の女性信者）が共にありました。その名は、大光優婆夷、善光優婆夷、善身優婆夷、可樂身優婆夷、賢德優婆夷、月光優婆夷、光明優婆夷、勝光優婆夷、善眼優婆夷などであり、彼女たちが上首を務めていました。 さらに数限りない天、龍、夜叉、乾闥婆、阿修羅、迦樓羅、緊那羅、摩睺羅伽などが周りを取り囲み、恭しく敬いながら、仏は説法をされました。 説かれたのは、三律儀品（三つの戒律の章）に説かれる一切の如来の戒律の法を広く説き、一切の菩薩の行いを明らかに示し、法界を明るく照らして諸々の法門に入り、一切の仏の国土を清らかに荘厳し、諸々の邪な論を打ち砕き、魔の怨敵を降伏させ、衆生の心に歓喜を起こさせるものでした。 有情の煩悩の密林のような心を開き明かし、衆生の心に従って説き示し、衆生の諸々の根機を照らし開示して、彼らが正しい方向に向かうように導かれたのです。

爾時尊者摩訶迦葉從坐而起，偏袒右肩右膝著地，合掌向佛，白佛言：「世尊！若諸眾生求於佛法力無畏者，攝受何法而修行之？攝受何法增長成熟諸如來道？攝受何法取諸功德，增長證入阿耨多羅三藐三菩提，得不退轉？」

> その時、尊者マハーカッサパが座より立ち上がり、右肩をあらわにし、右ひざを地につけ、手を合わせて仏に向かい、仏に申し上げました。 「世尊よ、もし多くの衆生が仏の法の力と畏れなき境地を求めるならば、どのような法を受容し、修行すべきでしょうか。 どのような法を受容すれば、如来の道を成長させ成熟させることができるでしょうか。 どのような法を受容すれば、あらゆる功徳を得て、阿耨多羅三藐三菩提へと増長し、不退転の境地に至ることができるでしょうか。」

佛告大迦葉言：「善哉善哉！迦葉！汝今所問，多所安隱哀愍世間，義利饒益安樂人天，乃能問佛如是之事。汝今諦聽，善思念之。吾當為汝分別解說。」時大迦葉及諸大眾受教而聽。

> 仏陀は大迦葉に言われた。「善きかな、善きかな、迦葉よ。汝が今問うところは、多くの安穏をもたらし、世間を哀れみ、義と利とを豊かにし、人と天とを安楽ならしめる。よくぞ仏にこのようなことを問うた。汝よ、今よく聞き、善く思念せよ。我、汝のために分別して解き説かん。」時に大迦葉および諸の大衆は教えを受け、聴き入った。

佛告迦葉：「若諸眾生求佛智慧力無畏者，是等眾生無有少法為其可得，無所依倚種諸善根。迦葉！菩薩乃至求於阿耨多羅三藐三菩提時有所得者，即為著想。若著想者，於佛法外起有為想、於有為外起無為想，即於佛法而生想著及起解執，起解執時於佛法中堅住不捨。當知是人不名為向無上佛道。何以故？以於佛法起想執我而作勤修，則與我執數相應故而不捨離，則分別所分別。由是分別所分別處則為所害，若為所害則便馳騁，若馳騁者則有流轉，若流轉者則有貫穿，有貫穿者則有妄想，有妄想者則有分別，有分別者則增妄想，若增妄想則有遍計，若有遍計則離寂靜，若離寂靜則有隨逐，若有隨逐則有遊行，若有遊行則便失壞。云何失壞？謂失安隱。云何安隱？謂無分別。若失壞者則便常入，若常入者則便親近，若親近者則有隨眠，若有隨眠則有相續，若有相續則增相續，若增相續則遍相續，若遍相續語則狂亂，語若狂亂則便誑惑，若有誑惑則便憂惱，有憂惱者則有悔恨，若有悔恨則依倚無明為憂喜損害。而於是中無有少法可為依倚，然從妄想流澍生故為想繫縛，從想繫縛則想相續故名想縛。無有實處，一切貪處忿瞋癡處，皆是虛妄遍計分別增分別、計度增計度，是故彼人不能速得阿耨多羅三藐三菩提。迦葉！是名愛處。何名愛處？無有定法名之為愛；名為愛者，名愛處所。然有愛者但由堅著，若堅著時為虛空愛，若虛空愛生執著者，彼人即當得愛執著：我愛執著者、眾生愛執著者、善不善愛執著者。迦葉！是人則於一切空法起非空分別，則於非物而生物想。何謂為物？謂以菩提若以菩提為其物者，彼彼眾生由我想故而有我想，即非菩薩。於是中想若不可得，彼中想者亦不可得，是名我想無真實句，此即增語。所謂我想？若復有能圓滿薩埵則圓滿菩提。何謂菩提？所謂圓滿猶如於幻。云何如幻？謂說大我想者、大命想者，若復以想依止想者，則由非想依止非想。若以非想依非想者，則由狂醉故醉。若由狂醉故醉，則以苦逐苦。若以苦逐苦者，則彼彼如來皆說安住狂言馳騁者。何故名住狂言馳騁者？謂增作意。若增作意則有貢高，若有貢高則有言說，若有言說則便增說，若有增說如來記之是言說者、教授者、所持者。是故諸法皆從作意而得生長。迦葉！如上空中有雲聚起，不從東西南北四維上下而來。是故如來名實語者，知是雲聚非十方來，如實說之，以其義說、理相應說、以實理說。言雲聚者，則為非聚，故名雲聚。何名雲聚？以其各別起相狀故。云何種類各別相狀？以種種相皆是廣大迷惑相續，而於其中無少大相以為可得。汝觀雲聚起廣大相，則為非相。若非想者，但由畢竟廣大之相非實雲聚。迦葉！譬如有人語他人曰：『可共往詣蔭處坐耶？』智者言曰：『我不往坐。』彼作是言：『我於今者不作是說，但言是蔭。』爾時智者復語彼言：『汝言蔭者即是非蔭。』迦葉！汝觀彼人乃至隨俗猶能覺了。如是如是，迦葉！如來如實了知諸法真實理性，於大眾中正師子吼。復次迦葉！如來樂欲於隨順法住非順想，於諸眾生所有我想，於如來所是第一義。何以故？如來今者已知彼想，悉知一切眾生想者即為非想，此是最勝祕密之言。或有愚夫而生違背與如來諍，是故我言『世與我諍，我不與世諍』。云何名世？所謂眾生。何故眾生名之為世？如來了知如是世間，是故眾生名之為世。如彼愚夫異生之解，則便壞滅、極為所害。此是彼等常得信住，隨其世俗所謂無明。何以故？彼居大闇名住世者，若住世者則便有貪，若有貪者則便有瞋，若有瞋者則便有癡，若有癡者則為不淨，若不淨者則便相違。與誰相違？所謂如來及聲聞眾。若相違者則便乖背，若乖背者則重相違，重相違者則樂於有，樂於有者心則求之，求於有者則便遍求，若遍求者則不知足，不知足者則多所作，多所作者則便多欲，若多欲者彼則隨眠於三界中，若隨眠三界則令他隨眠，令他隨眠者彼則隨流亦隨流行者，若是隨流隨流行者則趣於死，若趣死者則不趣涅槃，不趣涅槃者則至非行處，至非行處者則趣地獄。如是迦葉！由不祥法與之相應，瞋忿毒心及不覆蔽，不覆蔽者不觀我想，不觀察者作一合想，不能銷滅我及我所。何名為我執？不實故住種種想造諸世業。若如是者，彼執我相以為其我。何名我所？謂貪欲，故名為我所。以於諸欲與身和合即起貪心，起貪著已能壞戒蘊，便於他所生不善心，由瞋覆蔽互相輕毀，及於財物攝為己有親近守護，是名我所。有我所者則有流轉，有流轉者則有迷惑，有迷惑者則有誹謗，有誹謗者則便有瞋，有瞋恚者則有吞害，有吞害者則為所燒，為所燒者則便遍燒，如是等過皆由貪欲。起男女想及以命想是我所有，名為我所。以是義故，說我所者則罵己身。一切愚夫以我隨眠為愚夫法，是故說之以為我所。迦葉！若有眾生不聞此法，而說菩提及菩薩行，則為非行。言菩薩行者，實無所行是菩薩行。

> 仏が迦葉に告げられた。「もし多くの衆生が仏の智慧と力と無畏を求めるならば、これらの衆生には得るべきわずかな法もなく、よりどころとするものもなく、もろもろの善根を植えるのである。迦葉よ、菩薩が阿耨多羅三藐三菩提（無上正等覚）を求める時でさえ、何か得るものがあると思うならば、それはすなわち想いにとらわれているのである。もし想いにとらわれるならば、仏法の外に有為の想いを起こし、有為の外に無為の想いを起こす。すなわち仏法に対して想いを生じ、理解への執着を起こすのである。理解への執着を起こす時、仏法の中に堅く住して捨てない。このような人は無上の仏道に向かっているとは言えないと知るべきである。なぜか。仏法に対して想いを起こし、自我を執着して勤め修行するゆえに、自我への執着とたびたび相応し、捨て離れないからである。すると分別が、分別されるものを生む。この分別されるものによって、害されることになる。もし害されるならば、駆け巡ることになる。もし駆け巡るならば、流転することになる。もし流転するならば、貫かれることになる。貫かれるならば、妄想がある。妄想があるならば、分別がある。分別があるならば、妄想が増す。もし妄想が増すならば、遍計（偏った考え）がある。もし遍計があるならば、寂静から離れる。もし寂静から離れるならば、追いかけるものがある。もし追いかけるものがあるならば、遊行（さまようこと）がある。もし遊行があるならば、やがて失って壊れる。どうして失って壊れるのか。安穏を失うからである。安穏とは何か。分別がないことである。もし失って壊れるならば、常に入り込むことになる。もし常に入り込むならば、親しむことになる。もし親しむならば、随眠（潜在的な煩悩）がある。もし随眠があるならば、相続（連続）がある。もし相続があるならば、相続が増す。もし相続が増すならば、相続が遍く行き渡る。もし相続が遍く行き渡るならば、言葉は狂乱する。言葉が狂乱するならば、やがて欺くことになる。もし欺くならば、憂い悩むことになる。憂い悩むならば、悔恨がある。もし悔恨があるならば、無明に依りかかって憂いと喜びに損害される。そしてこの中には、よりどころとするわずかな法もない。しかし妄想から流れ出て生じるゆえに、想いによって縛られる。想いによって縛られると、想いが相続するので、これを想縛という。実在する処はない。一切の貪りの処、怒りの処、愚かさの処は、みな虚妄であり、遍計分別であり、分別を増し、計度（はかり考えること）を増すのである。それゆえ、その人は速やかに阿耨多羅三藐三菩提を得ることができない。迦葉よ、これを愛処という。何を愛処というのか。定まった法として愛と呼ばれるものはない。愛と呼ばれるものは、愛の処所と呼ばれるのである。しかし愛があるのは、ただ堅く執着するゆえである。もし堅く執着する時、それは虚空への愛である。もし虚空への愛が執着を生むならば、その人はまさに愛執着を得るであろう。自我への愛執着、衆生への愛執着、善・不善への愛執着である。迦葉よ、この人は一切の空なる法に対して、空でないという分別を起こし、物でないものに対して物という想いを生じる。何を物というのか。菩提をもって物とするという。もし菩提をもってその物とするならば、彼らの衆生は自我の想いによって自我の想いを持つのであり、すなわち菩薩ではない。この中で想いが得られないならば、その中の想いもまた得られない。これを自我の想いは真実の言葉ではないという。これが増語（付け加えられた言葉）である。いわゆる自我の想いとは。もしまた、サットヴァ（衆生）を円満ならしめることができれば、菩提を円満ならしめるのである。何を菩提というのか。いわゆる円満は幻のようであるという。どうして幻のようであるのか。大我の想いを説く者、大いなる命の想いを説く者という。もしまた想いをもって想いに依り止まるならば、それは非想をもって非想に依り止まることによる。もし非想をもって非想に依り止まるならば、それは狂い酔うがゆえに酔うのである。もし狂い酔うがゆえに酔うならば、苦をもって苦を追うのである。もし苦をもって苦を追うならば、彼らの如来はみな、安住せず狂言に駆け巡る者であると説く。どうして安住せず狂言に駆け巡る者というのか。作意（心を向けること）を増すからである。もし作意を増すならば、貢高（思い上がり）がある。もし貢高があるならば、言説がある。もし言説があるならば、やがて言説を増す。もし言説を増すならば、如来はこれを記別する。これは言説する者、教授する者、保持する者である。それゆえ、もろもろの法はみな作意から生長を得るのである。迦葉よ、たとえば上空に雲が集まって起こるが、東西南北、四維上下から来るのではない。それゆえ如来は実語者と呼ばれ、この雲の集まりは十方から来るのではないと知り、如実にこれを説き、その義によって説き、理に相応して説き、実理をもって説くのである。雲の集まりと言うが、それは集まりではない。ゆえに雲の集まりというのである。何を雲の集まりというのか。それぞれ別々に相状を起こすからである。どうして種類がそれぞれ別々の相状なのか。もろもろの相はみな広大なる迷惑の相続であり、その中には得るべきわずかな大いなる相もない。汝、雲の集まりが起こす広大なる相を見よ。それは相ではない。もし非想であるならば、ただ畢竟の広大なる相によるのであって、実在の雲の集まりではない。迦葉よ、たとえばある人が他の人に言う。『共に陰るところに行って座ろうか？』智者は言う。『私は行って座らない。』彼はこう言う。『私は今、そうは言わない。ただ陰りと言うだけだ。』その時、智者はまた彼に言う。『汝の言う陰りは、すなわち陰りではない。』迦葉よ、汝、その人が世俗に随うことさえもよく覚了しているのを見よ。このように、このように、迦葉よ、如来はもろもろの法の真実の理性を如実に了知し、大衆の中で正しく師子吼するのである。また、迦葉よ、如来は随順の法に住することを楽欲し、順わない想いには住さない。もろもろの衆生の所有する自我の想いは、如来にとっては第一義である。なぜか。如来は今、かの想いを知ったからである。一切の衆生の想いをことごとく知ることは、すなわち非想である。これが最勝の秘密の言葉である。あるいは愚かな凡夫はこれに背き、如来と諍う。それゆえ私は言う。『世は我と諍うが、我は世と諍わない』と。何を世というのか。いわゆる衆生である。どうして衆生を世というのか。如来はこのような世間を知っている。それゆえ衆生を世というのである。かの愚かな凡夫の異生の解釈は、やがて壊滅し、ひどく害されることになる。これは彼らが常に信じて住するところであり、その世俗に随うところ、いわゆる無明である。なぜか。彼は大いなる闇の中に住み、世に住する者と呼ばれる。もし世に住するならば、貪りがある。もし貪りがあるならば、怒りがある。もし怒りがあるならば、愚かさがある。もし愚かさがあるならば、清浄でない。もし清浄でないならば、やがて相違する。誰と相違するのか。いわゆる如来および声聞の衆である。もし相違するならば、やがて背く。もし背くならば、重ねて相違する。重ねて相違するならば、有を楽む。有を楽むならば、心はこれを求める。有を求めるならば、やがて遍く求める。もし遍く求めるならば、足ることを知らない。足ることを知らないならば、多くを行う。多くを行うならば、やがて多くの欲がある。もし多くの欲があるならば、彼は三界の中に随眠する。もし三界に随眠するならば、他にも随眠させる。他にも随眠させるならば、彼は流れに随い、また流れに随って行く者である。もし流れに随い、流れに随って行く者であるならば、死に向かう。もし死に向かうならば、涅槃に向かわない。涅槃に向かわないならば、行くべきでないところに行く。行くべきでないところに行くならば、地獄に向かう。このように、迦葉よ、不吉な法と相応し、怒りの毒心と覆い隠さないことによる。覆い隠さない者は、自我の想いを観察しない。観察しない者は、一つに合した想いを作り、自我および我が所を消滅させることができない。何を自我執着というのか。不実であるがゆえに、もろもろの想いに住し、もろもろの世の業を造るのである。もしこのような者ならば、彼は自我の相を執着して、それを自我とする。何を我が所というのか。いわゆる貪欲である。ゆえに我が所という。もろもろの欲について、身と和合すればすなわち貪りの心を起こす。貪り執着を起こしたならば、戒の蘊を壊すことができ、すなわち他の者に対して不善の心を生じ、怒りに覆い隠され互いに軽く毀り、および財物について取り込んで己がものとし、親しみ近づき守り護る。これを我が所という。我が所があるならば、流転がある。流転があるならば、迷惑がある。迷惑があるならば、誹謗がある。誹謗があるならば、すなわち怒りがある。怒り恚があるならば、呑み込んで害することがある。呑み込んで害することがあるならば、焼かれることになる。焼かれるならば、すなわち遍く焼く。このような等の過失はみな貪欲による。男女の想いおよび命の想いを起こして、これが我の所有であるとする。これを我が所という。この義のゆえに、我が所を説くことはすなわち己自身を罵ることであると言う。一切の愚かな凡夫は、自我の随眠を愚かな凡夫の法とする。それゆえこれを我が所であると説くのである。迦葉よ、もし衆生がこの法を聞かずに、菩提および菩薩行を説くならば、それは行ではない。菩薩行と言うが、実には行うところがない。これが菩薩行である。

「復次迦葉！若諸菩薩得行圓滿無有缺減，清淨極清淨遍清淨者，是人則能說此大法，名有勢力勇猛精進，其所說法等於虛空而無積聚，為如理者、有功德者、能修行者，終不為彼不如理者、無功德者、不修行者。汝等應當受持此法，於是法中勿生執著。何以故？如來所說最為第一，為於最上應供有情而發問故，我以勝法而為解說。云何勝法？謂無法想。迦葉！如是菩薩具足護持最初淨戒，心不貢高、不造無間業、不犯比丘尼，亦不親近諸俗人家，遠離殺生及不與取欲邪行法，離虛誑語離間麁惡雜穢語言，遠離欲貪瞋恚邪見，既不自惱亦不惱他，不與欲俱亦不受欲，不為博戲亦不教化，終不親近不男之人，不往婬女寡婦處女之家、不近他妻，亦不親近羅捕魚鳥畋獵魁膾旃荼羅等，於飲酒人不執其手而與鬪諍。離此諸事，如避惡狗旃荼羅輩。由住慈心，於彼一切所遠離者乃至不起一念惡心。有二十處應當遠離。何等二十？謂離女人，亦不與他調戲麁言論義諍訟。於父母處及佛法僧，離不恭敬。若諸女人減二十眾，不為說法。除有男子，終不往詣比丘尼尼僧說法會處。不應問訊諸比丘尼。不與女人作其書疏。或為他人傳書送彼。應付丈夫勿付婦女。於一切時親族別請終不受之。不以欲心經須臾頃住女人前。又亦不應捨離本居，往其屏處而與女人共為談說。不得隨逐比丘尼行。若比丘尼所施衣服不應受用，除在四眾演說法時為說法故有施衣者。應生是心猶如大地，然後受之，不應別觀施者之面。若聞有尼勸導施衣，不應受用。若比丘尼勸請受食，設令病苦終不受之，況復無病。若有寡婦而來請食，僧數不滿亦不受之。又亦不應入尼眾內。不應喚彼比丘尼來。若比丘尼來喚菩薩，應離住處拱手仰頭背而捨去。若說法時有比丘尼來禮其足，無令足動，但應目視雙手掌中。善男子！不應唯身修習精進，亦當勤心正念一處，於諸境界勿起貪瞋，為求一切智故起堅牢誓。聞是法已，成就信心應當修學。迦葉！若有趣菩薩乘善男子善女人等適聞此法，不能生於如實深信，終不能得阿耨多羅三藐三菩提。何以故？由修學故證彼菩提，非不修學而能得證。若不修習得菩提者，猫兔等類亦應證得無上菩提。何以故？不正行者不能證得無上覺故。何以故？若不正行得菩提者，音聲言說亦應證得無上菩提，作如是言：『我當作佛！我當作佛！』以此證故，無邊眾生應成正覺。迦葉！若有眾生修學此行，甚為難有，猶尚不能經一晝夜專念在心，何況一劫乃至千劫。是故如來出現於世，甚為難事。迦葉！假使三千大千世界一切眾生，若經一劫百劫千劫乃至億百千劫，為一眾生同唱是言：『汝應作佛！汝應作佛！』是諸眾生悉共圍遶相續唱言：『當得成佛！當得成佛！』如是次第，出息入息猶可斷絕，彼所發言曾無間斷。如是之言，尚不能熟初菩提心，何況能證無上佛果？若能證者，無有是處。

> さらにまた、迦葉よ。もし諸々の菩薩が修行を円満にし、欠けるところなく、清らかで極めて清らかであり、あまねく清らかであるならば、その人はこの大いなる法を説くことができる。これを勢力ある勇猛精進と名づける。その説くところの法は虚空に等しく、積み重なることがない。それは理にかなった者、功徳ある者、修行できる者のためであって、決して理にかなわない者、功徳のない者、修行しない者のためではない。あなたがたはこの法を受持すべきであり、この法に対して執着を生じてはならない。なぜなら、如来の説くところは最も第一であり、最も勝れた供養を受けるに値する有情のために問いを発したからである。私は勝れた法をもって解き明かす。いかなる法が勝れているのか。それは法の想いがないことである。迦葉よ。このように菩薩は最初の清らかな戒律を具足して護持し、心が高ぶらず、無間業を造らず、比丘尼を犯さず、また諸々の俗人の家に親しまず、殺生を遠離し、与えられないものを取ること、邪な行いの法を遠離し、虚偽の言葉、離間の言葉、粗悪な言葉、雑穢な言葉を遠離し、欲の貪り、瞋恚、邪見を遠離する。自ら悩ますこともなく、他を悩ますこともなく、欲とともにせず、また欲を受けず、博戯をせず、また教化せず、決して不男の人に親しまず、淫女、寡婦、処女の家に行かず、他人の妻に近づかず、また羅捕、魚鳥、畋猟、魁膾、旃荼羅などに親しまず、酒を飲む人と手を執って争わない。これらの諸々の事柄を離れ、悪い犬や旃荼羅の輩を避けるようにする。慈しみの心に住するゆえに、彼ら一切の遠離すべき者に対しても、一つの悪しき心さえ起こさない。二十の処を遠離すべきである。いかなる二十か。すなわち、女人を離れ、また他と戯れ、粗い言葉で論議し、争わない。父母のところおよび仏・法・僧に対して、不恭敬を離れる。もし諸々の女人が二十衆に満たないならば、説法しない。男子がいる場合を除いて、決して比丘尼や尼僧の説法会のところに行かない。諸々の比丘尼に問訊してはならない。女人のために書簡を作ってはならない。あるいは他人のために書簡を送ってはならない。丈夫に渡すべきであり、婦女に渡してはならない。一切の時に親族の別請を受けない。欲の心をもって須臾の間でも女人の前に住してはならない。また本居を捨てて、屏処に行き、女人と共に談説してはならない。比丘尼の行いに随って行ってはならない。もし比丘尼が施す衣服があっても、受用してはならない。ただし四衆の前で説法する時に、説法のため衣服を施す者がいる場合は除く。大地の如き心を生じて、それを受けるべきであり、施主の顔を別に見てはならない。もし比丘尼が衣服の施しを勧めるのを聞いたならば、受用してはならない。もし比丘尼が食事を受けるよう勧請しても、たとえ病苦であっても決して受けず、ましてや無病であればなおさらである。もし寡婦が来て食事を請うても、僧の数が満たされていなければ受けず、また尼衆の中に入ってはならない。彼の比丘尼を呼んではならない。もし比丘尼が菩薩を呼ぶならば、住処を離れ、拱手して仰ぎ、背を向けて去るべきである。もし説法の時に比丘尼が来て足を礼するならば、足を動かさず、ただ両の掌の中を目視すべきである。善男子よ。ただ身をもって精進を修習するだけでなく、また心を励まして正念一処に勤め、諸々の境界に対して貪りや瞋恚を起こさず、一切智を求めるために堅固な誓いを起こすべきである。この法を聞いたならば、信心を成就して修学すべきである。迦葉よ。もし菩薩乗に趣く善男子・善女人などが、この法を聞いても、如実の深い信心を生じることができなければ、ついに阿耨多羅三藐三菩提を得ることはできない。なぜなら、修学によってこそかの菩提を証するのであり、修学しないで得られるものではないからである。もし修習しないで菩提を得るならば、猫や兎などの類いもまた無上菩提を証するはずである。なぜなら、正しく行わない者は無上の覚りを証することができないからである。なぜなら、もし正しく行わないで菩提を得るならば、音声や言葉もまた無上菩提を証するはずであり、『私は仏となろう。私は仏となろう』と言うだけで、この証によって無辺の衆生が正覚を得るはずである。迦葉よ。もし衆生がこの行いを修学するならば、非常に稀有なことである。一昼夜でも専ら心に念じ続けることが難しいのに、ましてや一劫、あるいは千劫にも及ぶことはできない。それゆえに如来が世に出現することは、非常に稀有なことである。迦葉よ。仮に三千大千世界の一切の衆生が、一劫、百劫、千劫、あるいは億百千劫の間、一人の衆生のために共に『汝は仏となるべきである。汝は仏となるべきである』と唱えたとする。それらの衆生が悉く共に囲み、相続して『仏となるであろう。仏となるであろう』と唱え続ける。このように次第に、出息入息さえ断絶することがあっても、彼らの発する言葉は決して間断することがない。このような言葉でも、初めの菩提心さえ熟させることはできないのに、ましてや無上の仏果を証することができるだろうか。もし証することができるならば、そのようなことはありえない。

「迦葉！我滅度後末法之時，及與汝等已般涅槃，不為諸天之所信護。當於爾時，多有眾生聞我功德發菩提心。於中或有諸比丘等，雖發無上菩提心已，而便安住二十法中。何等二十？所謂親附諸比丘尼，受不淨食，貪著美味，受比丘尼勸化飲食。迦葉！譬如今世多聞比丘住阿蘭若或聚落中勤修習法。於當來世諸比丘等亦復如是，於聚落間或阿蘭若，與比丘尼聚集言談問答法義。彼諸比丘及比丘尼，多生染心少生法心。迦葉！汝觀是輩得菩薩名，墮大危險取於惡趣。當於爾時初為法緣而相親附，互相見已欲火燒心，動於脣口表其欲念。彼相近時初為弟子，以阿闍梨法而申禮敬，自此之後當漸遣使，通致語言道路期會，或於街衢或在寺內遙相瞻視，於出入時問其所由，互稱親族結為姊妹。彼等由是數相見故而相習住，既習住已生於染心，生染心已共為穢事，為穢事已更以非梵行名而相呼召。由行非法退失菩提及以善趣，遠離涅槃棄捨如來，違背正法厭惡於僧。在於屏處，起欲恚害諸惡尋思，是人無有菩薩勝業四淨梵行，譬如今時勤修梵行諸菩薩眾，於未來世起欲恚害惡尋思者亦復如是。迦葉！當於爾時住是種類，所謂惡行賊行矯行。汝觀爾時毀禁戒者，聞是等經便生誹謗。若有已能住戒布施，生於歡喜發菩提心，後聞是經復生謗毀。汝觀爾時有此相貌，可為記驗。若聞是經而生誹謗，於中智者、修淨戒者、持正法者，知是經內說此比丘名不知法，即應捨離如是等人，此輩無心愛敬法故。

> 迦葉よ、私が滅度した後の末法の時代、そしてあなたたちがすでに般涅槃に入った後、天部の信頼と守護を得られない時が来るでしょう。その時、多くの衆生が私の功徳を聞いて菩提心を起こすでしょう。しかしその中には、比丘たちが無上の菩提心を起こしながらも、二十の法に安住してしまう者たちがいるのです。どのような二十の法かというと、比丘尼に親しく近づき、清らかでない食べ物を受け取り、美味に貪着し、比丘尼に勧められた飲食を受けることなどです。 迦葉よ、たとえば今の世では、多くの比丘が阿蘭若や聚落に住み、精進して法を修めています。しかし未来の世の比丘たちも同じように、聚落や阿蘭若で比丘尼と集まり、法義について話し合い問答するでしょう。その比丘たちも比丘尼たちも、多くは染心を生じ、法心を生じることは少ないのです。迦葉よ、あなたはこのような者たちが菩薩の名を得ながら、大きな危険に陥り悪趣に堕ちるのを見るでしょう。 その時、最初は法縁によって親しくなり、互いに会うと欲の火が心を焼き、唇や口を動かして欲念を表します。近づくときは最初は弟子として、阿闍梨の法によって礼敬を示しますが、その後は次第に使いを遣わし、言葉を伝え、道で待ち合わせたり、街中や寺内で遠くから見つめ合ったり、出入りの時に理由を尋ねたり、互いに親族を称して姉妹の契りを結んだりします。彼らはこうして何度も会ううちに親しくなり、親しくなると染心が生じ、染心が生じると共に穢れたことを行い、穢れたことを行った後は、非梵行という名で互いに呼び合うようになります。 このように非法を行えば、菩提と善趣を退失し、涅槃から遠ざかり、如来を見捨て、正法に背き、僧伽を厭うようになります。人目につかない場所で、欲や怒りや害悪の悪い思いを起こすのです。このような人には、菩薩の勝れた業である四つの清らかな梵行はありません。今、精進して梵行を修める菩薩たちが、未来の世で欲や怒りや害悪の悪い思いを起こす者たちも、同じようなものなのです。 迦葉よ、その時には、悪行・賊行・矯行といった種類の者が住むでしょう。あなたはその時、戒律を破る者がこのような経典を聞いて誹謗するのを見るでしょう。もし戒を守り布施をして、歓喜を生じて菩提心を起こした者でも、後にこの経典を聞いて再び誹謗するかもしれません。あなたはその時、このような相があるのを見て、記念とすることができるでしょう。もしこの経典を聞いて誹謗するならば、その中で智者であり、清らかな戒を持ち、正法を保つ者は、この経典の中でこのような比丘を「法を知らぬ者」と説いていることを知り、すぐにこのような人々から離れるべきです。この輩は、心から法を愛し敬うことがないからです。

## 大寶積經卷第一

> 大宝積経 巻第一