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title: "大寶積經 · 2"
description: "大宝积经是唐代高僧菩提流志翻译的一部重要佛教经典，属于大乘佛教宝积部核心典籍。该经汇集了早期大乘佛教的多部经典，形成于公元2-4世纪，内容涵盖菩萨修行、般若智慧、净土思想等大乘教义。菩提流志奉唐玄宗之命于8世纪完成汉译，共120卷，系统阐述了大乘佛教的修行次第与解脱之道。作为大乘佛教的重要集成经典，大宝积经在中国佛教史上具有崇高地位，对汉传佛教各宗派尤其是华严宗、净土宗的发展产生深远影响，是研究大乘佛教思想体系的关键文献。"
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## 大寶積經卷第二

> 大宝積経 巻第二

大唐三藏菩提流志奉制譯三律儀會第一之二

> 三律儀会 第一の二

「復次迦葉！當於爾時，有人詐現修菩薩行，便自顯揚生於放逸。生放逸已，謂勝獨覺及阿羅漢，住於非理，名不可治，當墮惡趣。復次迦葉！未來有人住於非業作非業故，取眾生相為說法故，處處遊行唯修似行，極似布施、持戒、安忍、精進、靜慮、般若波羅蜜熾盛流布。若有如實說是經者，則為他人憎嫌捨棄，於是經中起邪見想；是愚癡人不知此經呵責破戒，迦葉！當於爾時，皆為賊行之所穢污，是故彼人不思己過，能甚破壞正等菩提，由覆藏故懷羞而謗無上佛果。

> 「さらに、迦葉よ。その時、世の中には、菩薩の修行をしているふりをして、自分をひけらかし、放逸に陥る者が現れるでしょう。放逸に陥った後、彼らは独覚や阿羅漢よりも自分が優れていると思い込み、道理に反した行いをするので、治しようがなく、悪い世界に落ちるでしょう。 さらに、迦葉よ。未来には、本来の業（行い）に従わず、業でないことを行う人が現れるでしょう。彼らは衆生の姿に執着し、説法のためにあちこちを旅しながら、ただ形だけの修行をするのです。布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の波羅蜜が、まるで盛んに行われているかのように見せかけます。 もし誰かが、この経典をあるがままに説けば、他の人々に嫌われ、捨てられ、この経典に対して邪見を持つでしょう。愚かな人々は、この経典が戒律を破ることを戒めていると知らないのです。 迦葉よ、その時、世の中は盗人の行いで汚れています。それゆえ、その人々は自分の過ちを顧みず、完全な悟りを大きく壊してしまうのです。自分の過ちを隠そうとして恥じらいながら、無上の仏の悟りを誹謗するのです。」

「復次迦葉！當爾之際，不隨順僧、不知恩報而行開發。云何開發？謂開發他心。如來說彼數以語言誑惑他故，招致飲食。迦葉！當於爾時不護語言，訶毀如來別解脫戒，復與不護語人同其事業，不攝威儀住不淨處，為住不淨處者說諸法門，此法漸當為人輕賤。如是漸漸多有女人棄捨丈夫入於寺舍，為聞法故而便就坐。時有比丘即為宣說相似涅槃。迦葉！我觀爾時，有五百數非法之門，不修行人常當隨順，五百煩惱悉無所減，諸有所為與俗無別。當有如是大可畏事，而復於中希望利益，是故求菩提者不應親近諸比丘尼，亦不應行如是之行。常當捨離一切交遊，應一切時捨諸利養，受行乞食，捨所愛服受糞掃衣，棄捨一切樓閣房宇床鋪臥具，應住谿㵎巖窟樹下，捨離一切病緣醫藥資具所須，依陳棄藥，知諸眾生昔為親屬行大慈心，常應忍受捶打呵罵，終不捶打毀罵他人。捨離一切知友施主諸眷屬家，應當隨順自業行智，不應同彼在家俗人。常應順奉波羅提木叉教。

> 「また、迦葉よ。その時には、僧団に従わず、恩を知らずして、他者の心を開こうとする。何をもって開くというのか。それは他者の心を見通そうとすることである。如来は説く、彼らは言葉によって他人を惑わし、飲食を得ていると。迦葉よ。その時には、言葉を慎まず、如来の別解脱戒を非難し、また言葉を慎まない者どもと共に行動し、威儀を整えず、清らかでない場所に住み、そのような場所にいる者たちに法の教えを説くであろう。この教えは次第に人々に軽んじられるようになる。そして次第に多くの女性たちが夫を捨てて寺舎に入り、法を聞くために座るだろう。その時、比丘は彼女たちに似而非涅槃を説く。迦葉よ。私はその時、五百もの非法の門が存在し、修行しない者たちが常にそれに従い、五百の煩悩が少しも減らず、為すこと全てが俗人と変わらないのを見る。このような大いに恐るべき事態が起こるであろう。それでいて、その中に利益を求める者がある。ゆえに、菩提を求める者は比丘尼に近づくべきではなく、またそのような行いをしてはならない。常にすべての交わりを捨て、常にすべての利養を捨てて、乞食の行を受けるべきである。愛着する衣服を捨てて糞掃衣を受け、すべての楼閣・房舎・床や敷物を捨てて、渓谷や岩窟、樹の下に住むべきである。すべての病の縁となる医薬や必要な道具を捨てて、捨てられた薬に頼るべきである。一切の衆生がかつて親族であったことを知って大慈の心を行い、常に打たれたり罵られたりすることを耐え忍び、決して他人を打ち罵ってはならない。すべての知人や施主や親族の家を離れ、自らの業を知る智慧に従うべきであり、在家の俗人と同じようにしてはならない。常に波羅提木叉の教えに従い奉るべきである。」

「迦葉！世若有人於別解脫起違背想，則為於佛力無所畏而生違背。彼若於佛力無所畏生違背者，則於去來現在諸佛而生違背，由此未來所受異熟無量大苦。假使三千大千世界一切眾生受地獄苦，比前眾生所受苦毒，百分不及一千分不及一，百千俱胝乃至算數、譬喻、優波尼沙曇分亦不及一。若欲遠離如是苦惱，應當遠離如是種類惡行。比丘縱遠相去千踰繕那亦應遙避，何況近耶。若但聞名尚應棄捨，何況見聞而不遠離？是故應當親近一法。何等一法？謂一切法悉無所有。若得諸法無所有忍，則不親近供養承事如是惡人。是人復應親近二法。云何為二？謂求諸法本無所有及求諸法性，而亦不應起於求心。應云何求？如所求者都不可得，不可得中不應起無所得心猶如邪見，如是離一切三界心，順菩提行；離一切相心，順菩薩行。菩薩行者，謂前所說為菩薩行。是故聞此法已應捨離之，則於來世親得奉事彌勒世尊，心不貢高亦不卑劣，作是唱言：『快哉安樂。我得解脫魔之羂網及諸惡趣。』

> 「迦葉よ、もし世の人が、別解脱に対して『これは避けるべきだ』という否定的な見方を起こせば、それはすなわち仏の力や無所畏に対しても否定的な見方を起こすことになる。もし仏の力や無所畏に対して否定的な見方を起こせば、それは過去・未来・現在の全ての仏に対して否定的な見方を起こすことになり、その結果、未来において計り知れない大きな苦しみを受けることになる。たとえ三千大千世界の全ての衆生が地獄の苦しみを受けるとしても、このような者たちが受ける苦しみの毒に比べれば、百分の一にも満たず、千分の一にも、百千倶胝分にも、さらには計算やたとえ、優波尼沙曇分にも到底及ばない。 もしこのような苦しみから遠ざかりたいと思うなら、このような種類の悪行から遠ざかるべきである。比丘は、たとえ千由旬も離れていても、遠くから避けるべきである。ましてや近くにいる場合はなおさらである。ただ名を聞くだけでも捨てるべきなのに、ましてや見聞きしながら遠ざからないことがあろうか。 それゆえ、一つの法に親しむべきである。その一つの法とは何か。すべての法は全く実体がない、と知ることである。もしすべての法に実体がないという智慧を得たならば、そのような悪人に近づき、供養し、仕えることはない。 さらに、この者は二つの法に親しむべきである。その二つとは何か。すべての法はもともと実体がないことを求め、またすべての法の本性を求めることである。ただし、求める心すら起こしてはならない。どのように求めるべきか。求める対象は、そもそも得ることができないものである。得ることができない中で、「得ることができない」という心を起こしてはならない。それは邪見と同じだからである。 このようにして、三界のすべての心を離れ、悟りに向かう行いに順じ、あらゆる相の心を離れ、菩薩の行いに順じなさい。菩薩の行いとは、先に述べたことが菩薩行である。 ゆえに、この教えを聞いたなら、それに従って悪を捨て去りなさい。そうすれば、来世において弥勒世尊に直接お仕えすることができる。心は高ぶらず、卑下もせず、こう叫ぶであろう。『なんと素晴らしく、安らかであることよ。私は悪魔の網や、あらゆる悪い世界から解脱したのだ』と。」

「迦葉！若於後時聞是經典，不驚不怖，及見己身於中隨順，復能發心受持此教，佛知是人定當守護我之正法。迦葉！譬如長者財寶無量，子於家中乃至見一盛水之器，起父財想。彼於異時，其父喪亡資財散失，忽見其器尋自念言：『是我父物。』將置身邊或時藏舉。迦葉！當於爾時，諸比丘輩亦復如是，聞此經已作是念言：『此是如來柔軟微妙大梵音聲之所演說。』復有比丘聞已誹謗，持法比丘作如是言：『此最真實如來所說。』彼持法者人眾微少住處劣弱，將如是經晝夜藏舉極遭誹謗。如是等人我亦知見，悉皆付囑彌勒世尊，於最後時當為衛護如來法城，次後當為無礙大施。

> 「迦葉よ、後の世にこの経典を聞いても、驚いたり怖がったりせず、自分自身がそれに従い、さらに心を起こしてこの教えを受け持つ者を見たら、仏はその人が必ずわたしの正法を守ることを知っている。迦葉よ、たとえばある長者が無量の財宝を持っていて、その子が家の中で水を入れる器一つを見ても、父の財産と思うようなことがある。その後、父が亡くなり資財が散失しても、その器を見つけて『これは父のものだ』と思い、身の辺りに置いたり、しまい隠したりする。迦葉よ、その時になって、比丘たちもまた同じように、この経典を聞いて『これは如来の柔らかく微細で素晴らしい大梵音の声によって説かれたものだ』と思うだろう。またある比丘は聞いて謗り、法を護持する比丘は『これは最も真実で如来の説かれたものだ』と言う。その法を護持する者は仲間が少なく居住地も乏しく、このような経典を昼夜隠し持ち、大いに謗りを受ける。こうした人々をわたしは知り見ており、みな弥勒世尊に付嘱する。後の時に如来の法城を守護した後、やがて妨げない大施主となるだろう。」

「復次迦葉！若善男子聞是法已，隨其智慧而修行之，成就深信正見眾生，於當來世遇彌勒佛。初會之中具修梵行，於最後時亦當衛護如來法城。迦葉！我今普觀，乃至不見一人不親近我，於當來世五十年中，聞是經典不生誹謗，則能受持讀誦之者，無有是處。若於此時得見我身，及以奉事供養之者，彼於來世五十年中，當得讀誦受持是經。不待於我歎其功德，彼等自成一切智智同一體時，隨念於我心生歡喜，作如是言：『希有奇特釋迦牟尼佛！善能攝受護念我等。』是故迦葉！應學此法。學此法者，隨所樂求，一切功德皆不難證。」

> さらに、迦葉よ。もし善き男子がこの教えを聞き、自らの智慧に応じて実践し、深い確信と正しい見解を持つ者となれば、未来の世に弥勒仏に出会うであろう。その最初の法会において清らかな修行を完成させ、最後の時には如来の教えの砦を守り支えるであろう。迦葉よ、私は今、広く観察するが、私に近づかない者は一人もいない。未来の五十年の間に、この経典を聞いて誹謗せず、受け持ち、読誦する者がいるならば、それはないであろう。しかし、もしこの時に私の姿を見、供養し奉仕する者があれば、その者は来世の五十年の間に、この経典を受け持ち読誦することができるであろう。私がその功徳を称えるまでもなく、彼らは自ら一切智智の同一の体を得た時、私を思い、心に喜びを生じて、こう言うであろう。「なんと希有で不思議なことか、釈迦牟尼仏は、よく私たちを摂め取り、護り、念じてくださる」と。それゆえ、迦葉よ、この法を学びなさい。この法を学ぶならば、願い求めるままに、すべての功徳を得ることが難しくはない。

爾時大迦葉白佛言：「世尊！我已究竟無復志求。於此法中，退於阿耨多羅三藐三菩提。我於是中極為知足，終不能成一切智智。世尊！無上菩提是希有事，於我聲聞難為證得。」

> その時、大迦葉が仏に申し上げました。「世尊よ、私はすでに悟りを極め、もはやさらなる求道の心はございません。この教えにおいて、無上正等覚（阿耨多羅三藐三菩提）への志を退きました。私はこの境地に大いに満足しており、ついに一切智智を成就することはかないません。世尊よ、無上菩提は稀有なことであり、私のような声聞にとって証得するのは難しいことでございます。」

佛告大迦葉言：「我不為汝說，然今因汝為他敷演。汝今勿於如是大事而生疑惑，汝等亦當速證無上正等菩提。復次迦葉！若諸眾生成渴法心、成求法心，漸次皆證無上菩提。既證得已，為斷一切希求心故，與諸眾生宣說正法。迦葉！菩薩應當成就四法發大精進。何等為四？云何精進？所謂不求色受想行識，求無漏法。謂無地界，無水火風界。不說地界，不說水火風界。所有言說悉名表示，是表示法皆非實有，菩薩不應取表示法以為堅實。」

> 仏が大迦葉に告げられた。「私はあなたのために説くのではない。しかし、今、あなたのために他の者たちに説き示そう。あなたはこのような大事なことについて疑いを抱いてはならない。あなたたちもまた、速やかに無上の正等菩提を証得すべきである。さらに迦葉よ、もし衆生が法を渇仰する心、法を求める心を生じさせれば、徐々に皆、無上の菩提を証得する。それを証得した後は、一切の希求の心を断ち切るために、衆生に正しい法を説き示すのである。迦葉よ、菩薩は四つの法を成就して大いに精進すべきである。その四つとは何か。どのように精進するのか。すなわち、色・受・想・行・識を求めることなく、無漏の法を求めることである。地の界もなく、水・火・風の界もないと言う。地の界を説かず、水・火・風の界を説かない。すべての言葉による説示は、すべて概念の表現である。このような表現の法は、いずれも実在するものではない。菩薩は表現の法をとらえて、それが確固たるものであると見なしてはならない。」

時大迦葉白佛言：「世尊！我等於如來所實無疑惑。若他問言：『是表示法非真實者，佛之音聲言說表示，為虛妄耶？』若有此問，當云何答？」

> その時、大迦葉が仏に申し上げた。 「世尊よ、私たちは如来の教えに何の疑惑もございません。しかし、もし誰かがこう尋ねてきたなら、『この表示される法は真実ではなく、仏の声や言葉、表示は虚妄なのか？』と問われた場合、どのように答えるべきでしょうか？」

佛告大迦葉言：「於未來世有諸比丘，不修身戒、心不識義理，瞋恚熾盛言辭麁獷，於是經典不能受持如法讀誦。何以故？彼住色受想行識生心故。未來比丘住是經典表示法中，如住色受想行識生故。復有一類諸比丘等住在家法，於勝義諦無復志求，如生盲人以金華鬘冠飾其首而不自見。當於爾時，諸比丘輩亦復如是，聞是等經言說文字尚不受持，況復能入所修勝義。譬如幼童若男若女，為大丈夫之所訶叱。此幼男女於後異時，聞是人名驚恐怖畏。當於爾時，諸比丘等亦復如是，聞此等經如實說過，知已不悔樂好衣服，返於是經而生怖畏。迦葉！如繫蝦蟇在獼猴手，而此獼猴面不迴顧。當於爾時，諸比丘等亦復如是，聞此等經違背不顧，不住其前。迦葉！譬如野干為狗所逐，走趣塚間窟穴深坑。當於爾時，諸比丘輩亦復如是，聞說此經如野干走。野干走者，謂犯禁戒、誹謗是經，聞是經已退道還家，馳求欲境趣向女人，趣於鬪諍諠雜醫術及以斷事，而於其中多犯禁戒，我說此等如趣塚間；身壞命終墮於惡趣，如趣窟穴；馳騁劍葉刀刃槍林諸大地獄，如趣深坑。迦葉！當於爾時，諸比丘輩成就如是野干之法，不能悟入如是等經，但能毀謗稱揚過失，身壞命終墮大地獄。

> 仏は大迦葉に告げられた。 「未来の世には、多くの比丘たちが現れるであろう。彼らは身を修めず、戒を守らず、心は道理を識らず、怒りに満ちて言葉は荒々しく、この経典を受持し、正しく読誦することができない。なぜか。彼らは色・受・想・行・識に心をとどめて生きるからである。未来の比丘たちは、この経典の教えの形に執着し、あたかも色・受・想・行・識に執着するように生きるであろう。 また、ある種の比丘たちは在家の生活に安住し、最高の真理（勝義諦）を求める心を失ってしまう。それは、生まれつき目の見えない人が、黄金の花飾りを頭にのせても、それを見ることができないのと同じである。その時、比丘たちもまたそのようになる。このような経典の言葉や文字を聞いても、それを受持することさえできず、ましてやその教えの奥義を悟ることなどできないであろう。 例えば、幼い子どもが大人に叱られたとしよう。その子どもは後日、その大人の名前を聞いただけで恐怖におののく。その時、比丘たちもまたそのようになる。この経典が真実を説いていると知りながら、後悔もせず、むしろ良い衣服を好み、この経典に対して恐怖を抱くのである。 迦葉よ、まるで蛙が猿の手に捕まり、猿が振り返りもせずに去っていくようなものだ。その時、比丘たちもまたそのようになる。この経典を聞いても背を向け、その前に立とうとしない。 迦葉よ、また、野干（やかん）が犬に追われて、墓場や洞穴、深い穴へと逃げ込むように。その時、比丘たちもまたそのようになる。この経典を聞くと、野干のように逃げ去るのである。野干が逃げるとは、すなわち戒律を破り、この経典を誹謗し、これを聞いて悟りの道を捨てて家に帰り、欲望の対象を追い求め、女のもとへと赴き、争いや騒ぎ、医術や裁判沙汰に興じ、その中で多くの戒律を破ることをいう。私はこのような者たちを『墓場へ赴く』と言う。命終われば悪趣味に落ちる。これを『洞穴に赴く』と言う。刀の葉や刃の槍が生い茂る大地獄へと駆けていく。これを『深い穴に赴く』と言う。 迦葉よ、その時、比丘たちはこのような野干の法を身につけ、この経典の真意を悟ることができず、ただ誹謗し、欠点を誇張して語り、命終われば大地獄に堕ちるであろう。」

「復次迦葉！若有比丘作如是言：『若表示法非真實者，如來言說亦非實耶？』彼若說言：『佛之表示名為真實，諸表示法亦應名實。』有智比丘應問之曰：『大德！今者為執何事？為執空耶？為表示耶？』彼若說言：『我執表示。』應報之曰：『汝即是佛。何以故？汝有言說表示法故。』彼若說言：『我執於空。』應問彼言：『當為我說執何等空。何以故？不可言說名之為空。若執表示以為空者，或於我我所眾生壽者非空執空。』又問彼言：『汝意云何，樂一切法空不？』彼若答言：『我不喜樂一切法空。』智者言曰：『汝久忘失沙門釋子。何以故？佛說一切空無我故，不說有我眾生壽者數取趣故。』彼若說言：『一切法空，我樂空性。』應語彼言：『汝心尚樂一切法空，況復如來、應、正等覺。復次尊者！為眼是如來？耳鼻舌身意是如來？』彼若說言：『眼是如來，耳鼻舌身意是如來。』應語彼言：『汝於今者亦是如來。』彼若說言：『眼非如來，耳鼻舌身意亦非如來。』應語彼言：『仁者！汝作是言，眼表示非如來，乃至意表示非如來；即非表示是如來也，我於此處豈不悟耶！』彼若說言：『眼非如來亦不離眼而有如來，乃至意非如來亦不離意而有如來。』應語彼言：『如來所說十二處有，謂眼處色處乃至意處法處，此即眾生及眾生名字。仁者！為眼是如來非如來耶？乃至法是如來非如來耶？』彼若答言：『眼是如來乃至法是如來。』應告之曰：『如仁者言，一切眾生及山林大地應是如來。』彼若答言：『眼非如來乃至意非如來。』復應告曰：『如仁者言，如來即法及以非法。』彼若說言：『色非如來乃至法非如來。』應告彼言：『若如是者，豈以非法為如來乎？』彼若說言：『即以非法以為如來。』應告之曰：『若如是者，所有眾生，不孝父母、不敬沙門婆羅門及諸尊宿，殺害生命，犯不與取，行欲邪行，虛誑離間，麁惡雜穢，貪瞋邪見，應是如來。』彼若說言：『非非法而是如來。』應告之曰：『非法非非法應是如來。若非法非非法是如來者，則無表示。仁者！無可表示是如來耶！』迦葉！應當如是折伏愚人。我不見有世間人天能與如是如法說者而共對論，唯除瞋恚愚癡之人不堪忍者，雖為開示不生信心，毀呰空法棄捨而去。

> 「また、迦葉よ。もしある比丘がこう言ったとする。『表示される法が真実でないならば、如来の言葉もまた真実ではないのか？』と。その者が『仏の表示は真実と呼ばれる。だから、すべての表示される法もまた真実と呼ばれるべきだ』と言ったなら、智慧ある比丘はこう問いかけるべきだ。『尊者よ、今あなたは何に執着しているのか。空に執着しているのか、それとも表示に執着しているのか？』と。もしその者が『私は表示に執着している』と言ったなら、こう答えるべきだ。『あなたこそが仏である。なぜか。あなたには言葉があり、法を表示しているからだ』と。もしその者が『私は空に執着している』と言ったなら、こう問いかけるべきだ。『どのような空に執着しているのか、教えてほしい。なぜなら、言葉にできないものを空というのだから。もし表示を空だと執着するならば、それは私、我所、衆生、寿者において、空でないものを空と執着することになる』と。さらに問いかけるべきだ。『あなたの考えでは、一切の法が空であることを喜ぶか？』と。もしその者が『私は一切の法が空であることを喜ばない』と答えたなら、智慧ある者は言うべきだ。『あなたは長い間、沙門である仏弟子の立場を忘れている。なぜなら、仏は一切は空であり自我はないと説き、私、衆生、寿者、人があるとは説かなかったからだ』と。もしその者が『一切の法は空であり、私は空の性質を喜ぶ』と言ったなら、こう言うべきだ。『あなたはまだ一切の法の空を喜んでいる。ましてや如来、応供、正等覚者はなおさらである。また尊者よ、眼が如来なのか。耳、鼻、舌、身、意が如来なのか？』と。もしその者が『眼が如来であり、耳、鼻、舌、身、意が如来である』と言ったなら、こう言うべきだ。『今のあなたもまた如来である』と。もしその者が『眼は如来ではなく、耳、鼻、舌、身、意も如来ではない』と言ったなら、こう言うべきだ。『尊者よ、あなたは「眼の表示は如来ではなく、乃至、意の表示は如来ではない」と言う。では、表示されないものが如来であると、私はここで悟らないはずがあろうか！』と。もしその者が『眼は如来ではなく、また眼を離れて如来があるのでもない。乃至、意は如来ではなく、また意を離れて如来があるのでもない』と言ったなら、こう言うべきだ。『如来は十二処があると説かれた。すなわち、眼処、色処から、意処、法処に至るまでである。これが衆生であり、衆生という名前である。尊者よ、眼は如来なのか如来でないのか。乃至、法は如来なのか如来でないのか？』と。もしその者が『眼は如来であり、乃至、法は如来である』と答えたなら、こう告げるべきだ。『あなたの言葉通りなら、すべての衆生や山や林や大地も如来であることになる』と。もしその者が『眼は如来ではなく、乃至、意も如来ではない』と答えたなら、こう告げるべきだ。『あなたの言葉通りなら、如来は法であり、また非法でもあることになる』と。もしその者が『色は如来ではなく、乃至、法は如来ではない』と言ったなら、こう告げるべきだ。『もしそうなら、非法を以て如来とするのか？』と。もしその者が『即ち非法を以て如来とする』と言ったなら、こう告げるべきだ。『もしそうなら、すべての衆生で、父母に孝行せず、沙門やバラモンや諸々の尊宿を敬わず、生命を殺し、与えられていないものを取り、邪な淫行を行い、虚偽や離間の言葉、粗暴で汚れた言葉、貪欲、怒り、邪見を持つ者たちが、如来であることになる』と。もしその者が『非法ではないものが如来である』と言ったなら、こう告げるべきだ。『非法でも非非法でもないものが如来であるべきだ。もし非法でも非非法でもないものが如来であるなら、表示は存在しない。尊者よ、表示できないものが如来なのか！』と。迦葉よ、このようにして愚かな者を打ち負かすべきである。私は、世間の人間や天人のうち、このように法に叶った説法者と共に議論できる者を見たことがない。ただ、怒りや愚かさのために耐えられず、説き明かされても信心を起こさず、空の法を非難して捨て去る者だけは別である。」

「迦葉！汝等應當受持是經。於未來世有諸比丘持是經者，當得三名而為表示。何等為三？謂說斷滅、無物無蘊及無恭敬。當爾之時，如是經典為他誹謗。汝觀爾時，不恭敬佛、不恭敬法，但依表示名字語言虛荷僧名而無實德。雖稱佛號，於他開示而不能解，云何可得瞻奉如來？雖說佛法，而不能知如來意趣，云何得名為善說法？四雙八輩是佛弟子、聲聞之僧，但知其名，於彼功德不知其義，不能領受依名實德，為於衣服飲食臥具病藥緣故毀謗於法。菩薩於中應勤精進，於是等經深生希有樂欲之心，受持讀誦。何以故？是人來世為護法城。

> 迦葉よ、あなたがたはこの経典を受け持ち、守り伝えるべきである。 未来の世において、この経典を守る比丘たちは、三つの名をもって示されることとなる。その三つとは何か。すなわち、「断滅を説く者」「無・物・蘊がないとする者」「敬いの心がない者」と呼ばれる。 その時、このような経典は他者によって誹謗されるであろう。あなたはその時を見よ。仏を敬わず、法を敬わず、ただ表面の名や言葉に頼り、僧の名を空しく担いながら、実際の徳を備えていない。 仏の名を唱えても、他者に示しても理解できず、どうして如来を敬い拝むことができようか。 仏法を説いても、如来の意図するところを知らず、どうして善く法を説く者と言えようか。 四双八輩は仏の弟子であり、声聞の僧であるが、その名だけを知り、その功徳の意味を知らず、その名に応じた実際の徳を理解し受け入れることができない。 彼らは衣服、飲食、寝具、薬の施しのためだけに、法を誹謗するのである。 菩薩はその中にあって、精進に励み、このような経典に対して深く希有の思いと喜びの心を起こし、これを受持ち、読み誦すべきである。 なぜなら、その人は来世において、法の城を守る者となるからである。

「迦葉！我念過去九十一劫空無法時，如是等經不復流布。又念過去超於千劫有佛出世，號休息熱惱，住世八萬四千劫，成熟菩薩利益世間。又念過去，復有如來號無邊力，住世二十億劫。於二十億劫行菩薩道，然後證阿耨多羅三藐三菩提。迦葉！汝觀於佛，修習幾何難作之行攝諸眾生？

> 迦葉よ、私は過去九十一劫の間、法が空しく、そのような経典がもはや流布されなかった時代を思い起こす。 また、過去千劫を超えて、ある仏が世に出現されたことを思い起こす。その仏の名は休息熱悩といい、八万四千劫の間、世に留まり、菩薩たちを成熟させ、世間を利益された。 さらに過去、またある如来がおられた。その名は無辺力といい、二十億劫の間、世に住まわれた。その二十億劫の間、菩薩の道を行じ、後に阿耨多羅三藐三菩提を証得された。 迦葉よ、あなたは仏が、いかに多くの難行を修習し、衆生を摂受されたかを観じるがよい。

「復次迦葉！劫濁盡世，我等不應輕賤己身。何以故？於劫濁中，乃至一人能於我所信解此法，甚為希有。一切眾生不持刀杖追逐我等，亦為希有。何以故？此法即是善丈夫法，謂於諸行為無行想，難了知故。若有我見、眾生見、命見、數取趣見、有見，若依諸蘊起於戒見，若多聞見、佛見、法見、涅槃見，若有起於涅槃見者，如來悉知見為邪見。何以故？佛於涅槃而無分別亦無所得。若於涅槃起於分別及有所得，如來盡說名為邪見。若邪見者則名無智，若無智者名為損害，若損害者名曰愚夫，名愚夫者於大菩提則無樂欲，乃至遠離生天勝道。迦葉！於未來世當有比丘，年紀二十三十四十乃至百歲，為老所侵莊嚴衣服，雖剃鬚髮毀壞威儀，老病衰朽無有威光，趣向邪法。臨命終時，由罪意樂之所障蔽，熟思已犯懈怠不修，而於三處示現證得。何等為三？或矯現威儀，或復詐現修持淨行，或舉手自稱言我無與等。以此三處示現有證，斯人咸墮增上慢中，臨命終時心生追悔，既命終已生地獄中。是故迦葉！我今分明宣告汝等，我為汝等真善知識，樂欲利益哀愍汝輩，不令於後受大熱惱，如慕理迦唐言尾宿、畔地迦唐言路生、波利婆羅理迦唐言女梵志受諸苦毒。迦葉！我終不聽執著我見、眾生見、壽者見、補特伽羅見者於我法中而得出家。我若不許，強出家者，皆為是賊。食重信施，亦不成就真比丘戒。迦葉！寧當絕食至於六日，不於我法得出家已食重信施，起於我見、眾生壽者數取趣見乃至涅槃見。是故菩薩應發精勤，不應執著我眾生壽數取趣見、有見涅槃見，為斷一切見故應當說法。迦葉！如是等經，我今付囑諸菩薩等。何以故？彼等意樂同於我故。若彼意樂同於我者是我伴侶，我伴侶者則便堪能受我付囑。」

> 「また、迦葉よ。劫濁の世にあっても、私たちは自らを軽んじてはならない。なぜなら、劫濁の時代にあって、私の教えを信じ理解する者が一人でもいることは、非常に珍しいことだからだ。また、一切の衆生が武器を手に私たちを追いかけてこないこともまた、珍しいことである。なぜなら、この教えは善き人々の教えであり、あらゆる行いに対して「行い」という観念を持たないことであり、それを理解するのは難しいからである。 もし、我という見解、衆生という見解、命という見解、補特伽羅（人）という見解、存在するという見解、あるいは諸々の構成要素（蘊）に基づいて戒律の見解を持ち、あるいは多聞の見解、仏の見解、法の見解、涅槃の見解を持つならば、涅槃に対する見解さえも、如来はそれを邪見であると知り、見ている。なぜなら、仏は涅槃について分別せず、何も得ることがないからである。もし涅槃について分別し、何かを得ようとするならば、如来はそれらすべてを邪見であると説くのだ。 邪見を持つ者は無知と呼ばれる。無知な者は害をなす者と呼ばれる。害をなす者は愚か者と呼ばれる。愚か者は大いなる悟り（菩提）に対して喜びや望みを持たず、天界に生まれるという優れた道からも遠く離れてしまう。迦葉よ。未来の世には、年齢二十、三十、四十、あるいは百歳に達した比丘たちが現れるだろう。彼らは老いに侵され、衣服を飾り立て、髪や髭を剃りながらも威儀を損ない、老いて病み衰え、威光もなく、邪な法に向かう。臨終の時には、罪深い心の思いに覆われ、自らの過ちを深く考えても懈怠して修行せず、三つの点で悟りを得たと示す。三つとは何か。あるいは偽って威儀を装い、あるいは偽って清らかな行いを修めたように見せかけ、あるいは手を上げて「私に匹敵する者はいない」と自称することである。この三つの点で悟りを得たと示す彼らは、皆、増上慢（過剰な慢心）に陥り、臨終の時に心に後悔を生じ、命終えた後には地獄に生まれるのだ。 それゆえ、迦葉よ。私は今、はっきりとあなたがたに告げる。私はあなたがたの真の善き知識であり、あなたがたの利益を望み、哀れみ、後々に大きな苦しみを受けることがないようにするのだ。例えば、慕理迦（尾宿）、畔地迦（路生）、波利婆羅理迦（女梵志）が様々な苦しみや毒を受けたように。迦葉よ。私は決して、我という見解、衆生という見解、寿命ある者という見解、補特伽羅という見解に執着する者が、私の教えの中で出家することを許さない。もし私が許さないのに無理に出家する者は、皆、盗人である。彼らは大切な信施の食事を貪り、真の比丘の戒めを成就することもない。 迦葉よ。むしろ六日間絶食するほうがましであろう。私の教えの中で出家した後に、大切な信施の食事を貪り、我という見解、衆生、寿命ある者、補特伽羅（人）という見解、あるいは涅槃に対する見解を起こすよりも。それゆえ、菩薩は精進すべきであり、我、衆生、寿命、補特伽羅（人）という見解、存在するという見解、涅槃という見解に執着してはならず、あらゆる見解を断ち切るために、教えを説くべきである。 迦葉よ。このような経典を、私は今、諸々の菩薩たちに託す。なぜなら、彼らの意楽（心の向かうところ）が私と同じだからである。もし彼らの意楽が私と同じであるならば、彼らは私の伴侶であり、私の伴侶であれば、私の託したことを受けるにふさわしいのである。」

爾時世尊而說頌曰：

> その時、世尊は次のように詩句を説かれました。

「眾苦所逼迫， 都無能救護，唯除世導師， 無有戲論者。諸苦惱眾生， 修下劣邪道，漸增諸欲貪， 由斯墮惡趣。無導無救護， 住之嶮曠遠，趣向邪道中， 終無安隱處。譬如人持財， 求利行遠道，於中群賊起， 劫盡諸貲財。失財已空歸， 為利增熱惱，所貸他人財， 被債倍生苦。斯等亦如是， 為法故出家，本所持法財， 白業皆銷滅。唯淨剃鬚髮， 愚墮諸見中，執著我眾生， 補特伽羅想。說空法比丘， 不著數取趣，於此起謗心， 速墮於地獄。以瞋恚因緣， 遞互相誹謗，自犯畏人知， 妄宣他過失。身惡及口惡， 意業多諛諂，顛倒隨見流， 斯人生惡趣。造諸惡業已， 速疾往三塗，眾苦所燒然， 無能救護者。未來有比丘， 卒暴多瞋恚，逼惱諸出家， 趣向菩提者。此諸可畏眾， 誹謗如是經，不復能信受， 釋師子之教。互起瞋恚心， 遞共相苦切，更相揚過失， 惡名遍十方。虛加惡唱他， 於己便生恥，柔和者劣弱， 邪友勢力增。是知正法衰， 惡人多勢力，我之所愛子， 謂諸善比丘。應趣向餘方， 往求安隱處，從惡得解脫， 於此起悲心。宜於是經中， 當自審思念，佛有如是教， 當樂住餘方。正法滅壞時， 柔和者難得，相隨俱往詣， 如來稱歎所。或有言此處， 可離不可居，當詣大仙人， 得大菩提地。復有稱仁者， 汝實善為言，繞塔以求真， 是名世尊教。寧當至於彼， 悅意菩提地，不可恒此居， 沒於瞋迫所。比丘當詣彼， 為我故應行，見佛所遊方， 昔曾安止處。經行宴坐地， 若石及空閑，集已共諮嗟， 為之數啼泣。言是彼大仙， 經行受用處，昔日曾遊止， 轉無上法輪。有為悉無常， 我等今不見，人及非人等， 天龍皆會集，善化令歡喜， 何乃見空虛？時往道場中， 最勝菩提地，同來集會已， 當如理思惟。世尊於是處， 成無上佛果，驚怖惡魔軍， 猶如野干眾。是為道場地， 大覺所端居，過去及未來， 一切諸佛座，安處大雄尊， 億天所敬禮。七日加趺坐， 諦視菩提樹，瞻觀供養畢， 次往鹿林中，言此轉法輪， 聲聞於梵世。彼諸比丘等， 當為數悲啼，為欲調五人， 導師來至此。五人初見佛， 各起憂惱心，立制自相要， 我等勿為起。時大悲世尊， 哀愍群生類，為五比丘說， 甘露果時成。禮轉法輪方， 心悲數啼泣，次往涅槃處， 感佛最後身。於此雙林下， 利益群生類，碎身分支節， 於茲般涅槃。嗚呼大聖尊， 釋迦大寂滅，今但聞其名， 惜哉我不見。大師復於此， 最後度善賢，能以智先知， 此為最後度。或修時壽盡， 或發趣命終，或修已身亡， 彼皆生善趣。從於彼時後， 深廣法沈淪，持戒毀禁人， 皆當得供養。受他重信施， 速墮惡趣中，汝觀諸比丘， 有如是差別。智者修雖後， 速受人天身。是等照世燈， 憐愍世間者，大智諸菩薩， 慈心利眾生，常作勤修事， 勇躍心歡喜，當成大覺尊， 亦逢事彌勒，供養彼如來， 眾中蒙授記，隨心所憶念， 為彼大威神。我說誠實言， 安慰如是輩，彼雖不見佛， 而與見佛同。我昔求菩提， 禮敬於諸佛，若諸女人等， 趣無上菩提，我及無量佛， 皆當安慰彼，速成男子身， 得見於彌勒，供養彼如來， 所求悉如意。應學諸智者， 淨信而出家，堅固樂欲心， 多聞學持戒，於彌勒佛前， 得受其記莂。是故聞勝利， 起信修善賢，安住堅固心， 攝諸眾生類。誰於如是處， 求而不得之？有慧及精勤， 菩提不難證。修習慈悲念， 捨離諂曲心，常樂在空閑， 是則菩提道。若人於是法， 空說不能行，眾皆禮敬之， 此為可畏賊。若人為飲食， 及諸利養事，受持正法門， 互共相傳說，斯惡活命人， 名為空過世。於此捨人身， 惡趣受眾苦，或於佛法內， 假名為比丘。誹謗於契經， 善說解脫禁，言我具弘宣， 所有木叉教，雖為比丘像， 終失人天身。若誹謗人天， 及毀一切智，如是謗法人， 得罪復過彼。善防身語意， 令不起諸惡，能除此三行， 必當得涅槃。

> あらゆる苦しみに責められても、 誰一人として救ってくれる者はいない。 ただ世の導師（仏）だけが、 虚偽のない教えを説かれる。 苦しむ凡夫たちは、 劣った邪な道を修行し、 欲望への執着を次第に増し、 それによって悪道に堕ちる。 導きも救いもなく、 険しく遠い荒野に住み、 邪道へと向かう者には、 ついに安らぎの場所はない。 例えば人が財産を持ち、 利益を求めて遠くの道を旅する。 その途中で盗賊が現れ、 すべての財産を奪い尽くす。 財産を失って空しく帰り、 利益のために悩みは増す。 さらに他人から借りた金は、 返済の苦しみが倍になる。 彼らもまた同じで、 仏法のために出家したのに、 本来持つべき「法の宝」、 清らかな善行をすべて失ってしまう。 ただ頭を剃っただけで、 愚かにも様々な邪見に陥り、 「私」「衆生」「補特伽羅（個人）」と固く執着する。 しかし「空」を説く比丘は、 「個人」に執着しない。 そんな彼らを誹謗する心を起こせば、 たちまち地獄に堕ちる。 怒りの因縁によって、 互いに誹謗し合い、 自分の罪を知られるのを恐れ、 嘘をついて他人の過失を言いふらす。 身体の悪行、言葉の悪行、 心の悪業に偽りが多く、 歪んだ見解に流され、 そうした人は悪道に生まれる。 様々な悪業をなした後、 すぐに三悪道へと進む。 苦しみの炎に焼かれても、 誰も救ってくれる者はない。 未来には比丘たちが現れ、 粗暴で怒りが多く、 出家者や菩提を求める者たちを悩ませるだろう。 これらの恐るべき者たちは、 このような経典を誹謗し、 もはや信じ受け入れようとせず、 釈尊の教えを否定する。 互いに怒りの心を起こし、 お互いを厳しく責め合い、 互いの過失を言いふらし、 悪い評判を十方に広める。 嘘で他人を悪く言い、 自分は恥ずかしく思い、 柔和な者は弱く見られ、 悪友の勢力が増す。 こうして正法が衰え、 悪人が勢力を持つと知れ。 私（仏）が愛する子ら、 すなわち善き比丘たちよ。 あなたがたは他の地方へ向かい、 安らかな場所を求めるべきだ。 悪から逃れ解脱し、 その地に慈悲の心を起こせ。 この経典の中でよく考え、 自らよく反省せよ。 仏はこのように教えている。 安らかな他の地に住むことを喜べ。 正法が滅びる時には、 柔和な者は得難い。 共に集まって、 如来が称賛する場所へ行け。 ある者は言うだろう。「この場所は、 離れるべきであり、住むべきではない。 大仙人（仏）のもとへ行き、 大いなる菩提の地を得よう」と。 またある者は言う。「あなたは賢い。 よく言った。 塔を巡り真理を求めること、 これこそ世尊の教えだ」と。 むしろあそこに行くべきだ。 喜びに満ちた菩提の地へ。 ここにずっと留まり、 怒りに沈んではならない。 比丘よ、あの地へ行け。 私（仏）のために歩むべきだ。 仏がかつて遊行し、 滞在された場所を見よ。 経行や坐禅の地、 岩場や閑静な場所に集まり、 共に嘆き、涙を流せ。 「あそこは大仙人が、 経行に使われた場所だ。 昔、ここに滞在し、 無上の法輪を回された。 全てのものは無常である。 私たちは今、それを見ることができない。 人間や人間以外の者、 天竜の全てが集まり、 見事に教化され喜んだのに、 どうして今は空っぽなのだろうか？」と。 時に道場へ行き、 最も勝れた菩提の地に、 共に集まったなら、 理にかなった考えをせよ。 世尊はこの場所で、 無上の仏果を成就し、 悪魔の軍勢を恐れさせた。 それは野干（狐）の群れのように。 これが道場の地であり、 大いなる覚者が坐られた場所。 過去と未来の、 全ての諸仏の座である。 偉大なる尊師が安坐し、 億の天人が敬礼する。 七日間、結跏趺坐し、 菩提樹をじっと見つめられた。 瞻仰し供養を終えたなら、 次に鹿野苑へ行け。 「ここで法輪を転じ、 その声は梵天にまで届いた」と。 それらの比丘たちは、 数えきれぬほど泣き悲しむだろう。 五人の修行者を調御するため、 導師がここに来られたのだ。 五人は初めて仏を見て、 それぞれ憂い悩む心を起こし、 互いに取り決めをした。 「私たちは立ち上がってはいけない」と。 その時、大悲の世尊は、 全ての生きとし生けるものを哀れみ、 五人の比丘に甘露の法を説き、 果実が熟す時を成就された。 法輪を転じた場所に礼拝し、 心は悲しみで涙を流す。 次に涅槃の地へ行き、 仏の最後の姿を感じよ。 この沙羅双樹の下で、 全ての生きとし生けるものを利益し、 身を砕き手足を分けて、 ここで般涅槃されたのだ。 ああ、大聖なる尊師よ、 釈迦牟尼仏は大いなる寂滅に入られた。 今はただその名を聞くのみ。 惜しいかな、私は見ることができない。 大師はまたここで、 最後に善賢を度された。 智慧によってこれを事前に知り、 これが最後の度しだとされた。 ある者は修行し寿命を尽くし、 ある者は菩提心を起こして命を終え、 ある者は修行してから亡くなった。 彼らは皆、善趣に生まれる。 その時以降、 深く広い法は沈み滅び、 戒律を守る者も破る者も、 皆が供養を受けるようになる。 他人からの重い布施を受け、 たちまち悪趣に堕ちる。 あなたは比丘たちに、 このような違いがあるのを見るがよい。 賢者は後に修行しても、 速やかに人天の身を受ける。 彼らは世の中の灯明であり、 世の中を憐れむ者たちである。 大いなる智慧の菩薩たちは、 慈悲の心で衆生を利益し、 常に精進に励み、 勇躍し心に喜びを持つ。 やがて大いなる覚者となり、 弥勒仏にもお会いし、 その如来に供養し、 大衆の中で授記を受ける。 心に念じるままに、 彼らは大いなる威力を持つ。 私は誠実な言葉を語り、 そのような人々を慰める。 彼らは仏を見なくても、 仏を見たのと同じである。 私は昔、菩提を求め、 諸仏に礼拝した。 もし女性たちが、 無上の菩提を志すなら、 私と無量の仏は、 皆、彼女たちを慰め、 速やかに男子の身を得させ、 弥勒仏にお会いさせ、 その如来に供養し、 願いを全て叶えさせよう。 賢者たちに学び、 清らかな信を持って出家し、 堅固な喜びの心を持ち、 多くを聞き、学び、戒律を守り、 弥勒仏の前で、 授記を得るべきである。 だからこそ、この勝利を聞き、 信仰を起こし善を修め、 堅固な心に安住し、 全ての衆生を導け。 誰がこのような教えで、 求めても得られないことがあろうか？ 智慧と精進があるならば、 菩提を得ることは難しくない。 慈悲の念を修め、 偽りの心を捨て、 常に閑静な場所を楽しめ、 これが菩提への道である。 もし人がこの法を、 ただ空しく説いて行わなければ、 皆は彼を敬うだろうが、 彼は恐ろしい盗人である。 もし人が飲食のため、 あるいは様々な利養のために、 正法を受け持ち、 互いに語り伝えるなら、 そうした邪命で生きる人は、 「無駄に世を過ごす者」と呼ばれる。 この世で人の身を捨て、 悪趣で多くの苦しみを受ける。 あるいは仏法の中で、 偽りの名で比丘と呼ばれる者がいる。 彼らは経典や、 よく説かれた解脱の教えを誹謗し、 「私は全ての戒律の教えを、 広く宣べ伝えている」と言う。 比丘の姿をしていても、 ついに人天の身を失う。 もし人天を誹謗し、 あるいは一切智の仏を誹謗するなら、 そのような誹謗する者は、 さらに大きな罪を得る。 身・口・意の三つをよく防ぎ、 諸々の悪を起こさないようにせよ。 この三つの行為を除くならば、 必ず涅槃を得るであろう。

「復次迦葉！如來滅後，昔於佛所深種善根諸比丘等悉般涅槃，具勝意樂諸眾生類命終復盡。後五十歲正法滅時，當有比丘性懷貪著，猛利貪欲映蔽其心，樂離間語毒害於他，言詞麁獷慘勵顰蹙，住三法中。何等為三？所謂醫道、販易、親近女人。住此三法，退失四事。何等為四？謂退戒蘊、善趣、果證、如實見佛。由退此四，復成四法，不生厭離熾盛增長。云何為四？所謂嫉妬增長熾盛、瞋恚惡心增長熾盛、耽著種族增長熾盛、貪著飲食積聚眾味。愛樂衣服映蔽心故置之篋笥，專行此事以為常業，於沙門法空無所獲，亦不發生沙門證道。聞是等經當墮四處。何等為四？謂墮謗法，佛所不許而反說之，獨為女人宣說法要，毀謗如來別解脫戒。聞是等經轉加壞法，而墮生長惡業之中。迦葉！譬如惡狗以苦膽灌鼻。於意云何？彼狗倍生凶惡心不？」

> 「また、迦葉よ。如来が滅度した後、昔、仏のもとで深く善根を植えた比丘たちも皆、涅槃に入り、すぐれた意志と喜びを持つ衆生たちも命を終えて尽きてしまう。その後、五十年、正法が滅びようとする時、貪欲に執着する比丘たちが現れる。彼らは激しい貪欲に心を覆われ、離間の言葉を好み、他者を毒し、言葉は荒々しく、表情は険しく、眉をひそめる。彼らは三つの法にとどまる。三つの法とは、すなわち医術、商売、女人に親しむことである。この三つの法にとどまることで、四つの事柄を失う。四つの事柄とは、すなわち戒の集まり、善趣、果の証得、如実に仏を見ることを失うことである。これらの四つを失うことで、さらに四つの法が、厭離することなく、盛んに成長する。四つの法とは、嫉妬が盛んに成長すること、怒りと悪心が盛んに成長すること、家柄や集団に執着することが盛んに成長すること、飲食や様々な味に執着することが盛んに成長することである。衣服を好み、それに心を覆われるために、箱や箪笥にしまい込む。これらのことを日常の仕事とし、沙門の法においては何も得るものがなく、沙門の悟りも生じない。このような経典を聞く者は、四つの場所に堕ちる。四つの場所とは、すなわち法を謗る場所、仏が許さないことを逆に説く場所、ただ女人のためだけに法の要点を説く場所、如来の別解脱戒を謗る場所である。このような経典を聞けば、ますます法を壊し、悪業の成長の中に堕ちていく。迦葉よ、例えば、悪い犬に苦い胆汁を鼻に吹き込んだとする。あなたはどう思うか。その犬は、さらに凶暴な心を倍増させるだろうか？」

迦葉白佛言：「世尊！如是如是。」

> 迦葉が仏に申し上げました。「世尊、その通りでございます。」

佛告迦葉：「彼等惡人猶如惡狗及毘舍遮，見有比丘住淨意樂持是法者、說是法者、住於真實少欲之者、歎少欲者，於是人所不生歡喜而起厭背，心懷怯劣復生熱惱，以其瞋恚障蔽心故，作是念言：『我等住在非時非處，於非時中而為他人輕毀我等。』是故聞說如是等經，起於誹謗面加毀辱，瞋恚麁言此非佛教，此輩受用多欲因緣，非少欲者。迦葉！我種種名讚歎少欲及以喜足，名為易養亦名易滿，名淨除者、行頭陀者、極端嚴者。我亦讚歎住阿蘭若者、發精進者、遍淨命者。汝等不應多修貯聚箱篋等法。何以故？應當修習如是法故。汝等不應猶如銅鈸空有其聲，應順如來修行此法。又亦不應起重瞋恚，亦復不應攝取事物，應當住於無事無物。勿於處所生住著心，應無所住。不應自讚，亦不應畜牛驢等類，不應成就住懈怠處，應當發起殊勝精進，捨離不善攝受善法。迦葉！我種種名讚歎寂靜住阿蘭若不處憒閙，今於是中種種名說極淨除行。若有不住極淨除者、具大欲者、成罪惡者，即當誹謗諸有安住極淨除者。迦葉！譬如愚夫於四月中服蘇患渴，尋詣池所求水而飲。他人謂曰：『汝已服蘇，勿復飲水而致命終。』是時愚夫瞋蔽心故，毀呰罵詈不順他言，飲水而死。迦葉！如是如是，未來比丘貪著有見住不善行，有持法者作是教言：『此是應作；此不應作。』彼惡比丘瞋蔽心故，毀呰罵詈謗是經典。迦葉！今時尚有於如來所多興諍競，何況未來。汝且觀是賢護比丘，如來制戒令諸比丘受一坐食。瞋蔽心故，於夏三月不至我所。迦葉！今於我前尚有如是輕梵行者，況佛滅後，貪著飲食衣鉢病藥，睡眠所覆瞋恚猛利，如是比丘聞是法已，尚不恭敬如來大師，豈能敬彼持法比丘？迦葉！名為不善亦名極惡，如是法寶即當隱沒。於中若有求大利益善男子善女人信我教者，後滓濁世極覆藏時善人難得，時聞如是等甚深法已，應為如理者說、不為不如理者，為信者說、非不信者。我今亦為如理者說、非不如理者，為信者說、非不信者。迦葉！譬如惡馬不受被甲，若同良馬為被甲者反生驚怖，何況更聞螺貝鼓聲，能堪受者無有是處。如是如是，破戒比丘無有時分堪能忍受善丈夫法，猶如惡馬反生驚怖。迦葉！破戒比丘乃至聞說一言諸法無我，執我想故於中便生怖畏諍競，何況聞說被善甲耶？若被甲已，即能降伏百億魔軍，而令畢竟不生鬪諍。諸善比丘被精進甲，不破根本頭陀功德，淨除根本，無貪恚癡根本、無嫉妬根本，離欲根本、獨處性根本、󰣫寤根本，於一切時一切種中，不應發起恚貪之心，於種種物無所希求，如是被甲名無根本。若被如是種種甲已，應發無上菩提之心，於一切處不應執著況起我想，是故不應起於我想、眾生想、壽者想、數取趣想、女想男想、地水火風想、欲界色界無色界想、持戒想破戒想、空性想。取要言之，一切諸想皆不應起，以一切想無所得故。

> 仏が迦葉に告げられた。「かの悪人たちは、あたかも悪犬や毘舎遮の鬼のごとくである。清らかな意楽を持ち、この法を保ち、この法を説き、真実に安住し、欲の少ない者を賞賛する比丘を見ると、彼らは喜びを起こさず、嫌悪の心を抱く。心は臆病で劣り、熱悩を生じ、その瞋恚に心を覆われて、こう思う『我々は時ならず、場ならざるところにいる。時にあらずして、他人から軽く見られ、罵られるのだ』と。それゆえ、このような経典を聞くと、誹謗し、面と向かって辱め、瞋恚と粗い言葉で『これは仏の教えではない。この者たちは多くの欲望に因って受用する者であり、少欲の者ではない』と言うのだ。 迦葉よ。私は様々な名で、少欲と喜足を讃え、『養い易し』『満たし易し』『清らかに除く者』『頭陀を行ずる者』『極めて端厳なる者』と呼ぶ。また、阿蘭若に住む者、精進を発す者、清らかな命に遍く生きる者を讃える。あなたがたは、箱や篋などを多く蓄え集める法を修行してはならない。なぜなら、そのような法ではなく、こちらの法を修習すべきだからである。あなたがたは、銅鈸のようにただ音だけがして中身のないものであってはならず、如来に従ってこの法を修行すべきである。また、重い瞋恚を起こしてはならず、事物を摂取してもならず、何事もなく何ものもないところに住むべきである。場所に住着の心を起こさず、無住に住すべきである。自らを誇ってはならず、牛や驢馬などを飼育してもならず、懈怠の場所に住むことを成就せず、殊勝な精進を発起こし、不善を捨てて善法を摂受すべきである。 迦葉よ。私は様々な名で、寂静に住し、阿蘭若に住し、喧騒に処さないことを讃え、ここに様々な名で極めて清らかに除く行を説く。もし極めて清らかに除く行に住せず、大いなる欲を持ち、罪悪を成す者があれば、すなわち、極めて清らかに除く行に安住する者たちを誹謗するであろう。 迦葉よ。譬えば、愚かな者が四月の間に蘇を服して渇きに悩み、やがて池に赴いて水を求めて飲むようなものである。他人が彼に言う『あなたは蘇を服したのだから、再び水を飲んで命を終えてはならない』と。その時、愚かな者は瞋恚に心を覆われて、その言葉に従わずに罵り、水を飲んで死んでしまう。迦葉よ。そのように、未来の比丘たちは、有見に貪著し不善の行に住む。法を保持する者が『これは行うべきであり、これは行うべきではない』と教えると、その悪い比丘は瞋恚に心を覆われて、この経典を毀り罵り誹謗するのである。 迦葉よ。今でさえ、如来のもとで多くの争いを起こす者がある。まして未来においてはなおさらである。あなたはこの賢護比丘を見なさい。如来は戒を制して比丘たちに一坐食を受けさせたが、彼は瞋恚に心を覆われて、夏の三月の間、私のもとに来なかった。迦葉よ。今、私の前でさえ、このように梵行を軽んじる者がいる。まして仏の滅後、飲食や衣鉢や病薬に貪著し、睡眠に覆われ、瞋恚猛利なる比丘たちは、この法を聞いても、如来大師を敬わない。どうして法を保持する比丘を敬うことができようか？迦葉よ。これは不善と呼ばれ、極悪とも呼ばれる。このような法宝はやがて隠没するであろう。 その中で、もし大いなる利益を求める善男子、善女人で、私の教えを信じる者がいるならば、後の濁り世の極めて覆い隠される時には、善人は得難い。その時、このような甚深な法を聞いたならば、理に従う者に説くべきであり、理に従わない者に説いてはならない。信じる者に説くべきであり、信じない者に説いてはならない。私も今、理に従う者に説き、理に従わない者には説かない。信じる者に説き、信じない者には説かない。 迦葉よ。譬えば、悪馬は鎧を着けられるのを嫌がる。もし良馬と一緒に鎧を着けられようものなら、かえって驚き怖れる。まして螺貝や太鼓の音を聞いて、耐え忍ぶことができるはずがない。そのように、破戒の比丘には、善き丈夫の法に耐え忍ぶ時節がまったくない。あたかも悪馬のようにかえって驚き怖れるのである。迦葉よ。破戒の比丘は、『諸法は無我である』という一言を聞くだけで、我という想念があるために、その中に怖れや争いを生じる。まして善き鎧を着けるということを聞けばなおさらである。もし鎧を着ければ、百億の魔軍を降伏し、ついには争いをまったく生じさせなくなるであろう。 諸々の善き比丘は、精進の鎧を着け、根本の頭陀の功徳を破らず、根本を清らかに除き、貪りや瞋りや愚かさの根本なく、嫉妬の根本なく、欲を離れる根本、独り住む性の根本、覚醒の根本を持つ。一切の時、一切の種において、瞋恚や貪欲の心を起こさず、様々な物に希求するところがなく、このように鎧を着けることを『根本なし』と呼ぶ。もしこのような様々な鎧を着けたならば、無上の菩提心を発起すべきである。一切の処において執着せず、まして我という想念を起こすことなく、したがって我という想念、衆生という想念、寿者という想念、数取趣という想念、女という想念、男という想念、地・水・火・風という想念、欲界・色界・無色界という想念、持戒という想念、破戒という想念、空性という想念を起こすべきではない。要するに、一切の想念を起こすべきではない。一切の想念は無所得であるからである。」

「迦葉！貪若實有則應了知，近之令滅貪愛之心，非住一處無住可得，唯除妄語，是故如來名實語者。如來說之諸所有貪皆為非我，如是諸法是沙門法，諸沙門法皆無所得。若復有人著此想者，是人則為著我想等如須彌山，退失聖教，諸沙門法少不可生，亦復不能住沙門法。如是廣大最勝之法，於彼愚夫癡所衰損，少不應說。何以故？若執少法則當攝受極怖畏處，大地獄中住之一劫。迦葉！汝觀俱迦利比丘唐言惡時者、提婆達多比丘唐言天授、騫荼達羅比丘唐言鈌財、迦盧底輸比丘唐言器鬼宿、母達羅多比丘唐言海授、阿濕繁比丘唐言馬騰、布那婆蘇比丘唐言柳宿、蘇氣怛羅比丘唐言善星，是我給侍親對我前，聞我說法、見我經行、見我端坐、見我神足遊處虛空、見我降伏多千外道於大眾中摧彼邪法。如是等人尚於我所不生信樂，於步步間恒欲毀我，由是步步漸增其惡。復次，若說佛名信為實者，應持上器如須彌山，盛栴檀末而散其上。應作繖蓋猶如三千大千世界，持在空中而覆其上。何以故？為信佛故。何況信已捨欲出家，無所依倚修諸靜慮。迦葉！如是眾生於中忍可極為希有，能善護持佛所制戒，則能了知彼甘露法。如大眾中以其皮革及餘臭穢共製人像，或造種種諸雜面相，彩畫莊飾令極端嚴。有人持之置於面上，或以衣物纏裹遊行。豈以相貌謂為好耶？審知穢惡便生厭離。如是如是諸惡比丘，以如來威德容儀嚴整審諦觀察，方知極惡由自他我想而生貪愛。若人了知我想非實，聞是等經不生瞋恚。何以故？由為他人毀呰違逆，聞此等經倍增厭離。若有眾生心懷執著，當知即是邪見之人。若起邪見，於是等經如實教誨即生瞋恚。何以故？有我想者有瞋恚故。

> 「迦葉よ。もし貪欲が実在するならば、それをはっきりと知り、近づいて滅ぼすべきである。貪りの心は一箇所に留まることなく、とどまることのないものとして捉えられる。ただ虚偽の言葉を除いては、そのゆえに如来を『真実を語る者』と名付けるのである。如来が説くところの、あらゆる貪欲はすべて『私ではない』のであり、このように諸々の法は沙門の法である。あらゆる沙門の法は、何も得るところがないのである。 もし誰かがこの考えに執着するならば、その人は『私』という考えなどに、須弥山のように大きく執着することとなり、聖なる教えから退き失せてしまう。沙門の法は少しも生じることがなく、また沙門の法に住することもできない。このように広大で最勝の法は、あの愚かで痴に衰え損なわれた者たちには、少しも語るべきではない。なぜなら、もし少しばかりの法に執着するならば、それは極めて恐ろしい境遇に陥ることとなり、大地獄の中で一劫の間とどまることになるからである。 迦葉よ、汝は見なさい。俱迦利比丘<note>悪時という意味</note>、提婆達多比丘<note>天授という意味</note>、騫荼達羅比丘<note>欠財という意味</note>、迦盧底輸比丘<note>器鬼宿という意味</note>、母達羅多比丘<note>海授という意味</note>、阿濕繁比丘<note>馬騰という意味</note>、布那婆蘇比丘<note>柳宿という意味</note>、蘇気怛羅比丘<note>善星という意味</note>たちを。彼らは私に給仕し、私の面前で私が法を説くのを聞き、私が経行するのを見、私が端坐するのを見、私が神足通で虚空を遊行するのを見、私が多くの外道を降伏させ、大衆の中であの邪法を打ち砕くのを見た者たちである。 このような者たちでさえ、私に対して信楽を生じず、歩むごとに常に私を毀ろうと欲し、その歩みによって徐々に悪を増していったのである。 さらに、もし仏の名を聞いて真実と信じるならば、須弥山のような大きさの上器等を持ち、栴檀の粉末を盛ってその上に撒くべきである。また三千大千世界のような大きさの傘蓋を作り、虚空に掲げてその上を覆うべきである。なぜなら、仏を信じるからである。ましてや信じて欲を捨て出家し、何ものにも依拠せず静慮を修めることは、なおさらである。 迦葉よ、このような衆生が（この教えを）心に受け容れることは、極めて稀なことである。よく仏の定めた戒律を護り持つならば、かの甘露の法を了知することができるのである。 ちょうど大衆の中で、皮革やその他の臭い穢れをもって人形を作り、あるいは様々な雑多な面相を作り、彩色して飾り立てて極めて端厳にする。ある人がそれを顔に当てたり、衣服で包んで遊行させたりする。しかし、その姿かたちを見て『美しい』と言えるだろうか。よくよくその穢れた悪臭を確かめれば、厭離の心を生じるのである。 このように、このような悪い比丘たちも、如来の威徳と整った容儀をよくよく観察すれば、極めて悪しきものであり、自己や他者という考えから貪愛が生じるのだと知るのである。 もし人が『私』という考えが実在しないことを了知すれば、このような経典を聞いても怒りや恨みを生じない。なぜなら、他人から誹謗され逆らわれても、このような経典を聞くことで厭離の心が倍増するからである。 もし心に執着する衆生がいれば、それが邪見の人であると知るべきである。もし邪見を起こせば、このような経典の真実の教えに対して怒り恨みを生じる。なぜなら、私という考えがあれば、そこには怒り恨みがあるからである。」

「若有比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷，聞是等經瞋恚毀壞誹謗之者，即非沙門。雖復說有沙門名字，非我聲聞、我非彼師。何以故？是我聲聞則不妄語，我非妄語之師。何以故？如來是實語者，能如實說一切法空者。迦葉！如來能破我執、與之鬪諍，若與如來諍者名為惡魔，如來不許魔眾出家受具足戒。如有人言：『青雀小鳥生大龍象。』於意云何？如是之言為可信不？」

> 「比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷の中に、これらの経典を聞いて怒り、打ち壊し、誹謗する者がいるならば、その者は修行者ではありません。たとえ修行者という名前で呼ばれていても、私の声聞（弟子）ではなく、私もその師ではありません。なぜなら、私の声聞である者は虚偽のことを言わず、私は虚偽を教える師ではないからです。なぜなら、如来は真実を語る者であり、すべての法は空であると如実に説くことができるからです。迦葉よ、如来は我執を打ち破ることができ、それと戦うのです。もし如来と争う者があれば、それは悪魔と呼ばれます。如来は悪魔の仲間が出家して具足戒を受けることを許しません。例えば、誰かが『青い雀の小鳥が大きな竜や象を生んだ』と言ったとしましょう。あなたはどう思いますか？その言葉は信じられますか？」

迦葉白言：「不也。世尊！」

> 迦葉が申し上げました。「いいえ、世尊よ。」

佛告迦葉：「於意云何？為等類不？」

> 仏は迦葉に告げられました。「どのように思いますか。これらは同じ仲間と言えるでしょうか。」

迦葉白言：「非為等類。」

> 迦葉が申し上げました。「それは同じ仲間ではありません。」

「復次迦葉！又如說言：『妙翅鳥王生於飛鳥。』於意云何？為可信不？為等類不？」

> 「また、迦葉よ。たとえば、『妙翅鳥の王は鳥の仲間として生まれる』と言う言葉がある。あなたはどう思うか。これは信じられることだろうか。同類と言えるだろうか。」

迦葉白言：「不也。世尊！亦為非類。」

> 迦葉が申し上げました。「いいえ、世尊。それもまた、同じ種類のものではございません。」

「復次迦葉！又如說言：『螢火小蟲負須彌山飛空而去。』於意云何？為可信不？為等類不？」

> 「さらに迦葉よ、例えば、『小さな蛍が須弥山を背負って空を飛んでいく』と言う言葉がある。あなたの考えでは、これは信じられるだろうか。そう言うのは同じ仲間として当然だろうか。」

迦葉白言：「不也。世尊！亦為非類。」

> 迦葉が申し上げました。「いいえ、世尊。それもまた、同じ種類のものではありません。」

佛告迦葉：「如是惡人，若住我想乃至涅槃想者，稱我為師，轉為非類。迦葉！如有帝王安住國界，撫育群生快樂無極，種種飲食自然成辦，傍有侍臣奉王正化。時有一人眾未曾識，為財利故隨學臣法，不稟王命，自於大臣王等眾中詐宣王制，作如是言：『汝等應當止住於此。』或言：『汝等作如是事。』迦葉！如來法王亦復如是，王大千界，攝化一切三乘眾生，十力功德圓滿成就，作諸佛事安樂無邊，飲食供養自然豐足。於中一類眾未曾識，為活命故說我眾生乃至涅槃，不受如來無我聖教，作如是言：『如來所說，此事應作、此不應作。』於中有人信佛順教不誹謗者，聞其所說，謂是勝妙清淨福田，輟己資財及妻子分，殷重信心如法施與，乃至未覺諸過已來初無斷絕。如是惡人，同於眾人所未識者，飲食既終，於聚閙處日日談說王事、賊事、食事、婬事、女人事、醫方事、飲酒事、日月博蝕事、王者來去事、種族事等，或言吉日應行他所，當得飲食。如是等類種種言談推度晝夜，還僧伽藍，或經二宿乃至六夜，隨所住處亦常談說如是等事，無正念慧失壞威儀，昏癡睡眠涎唾流溢，隨所想像睡夢中見，或見己身往詣他所，疾行緩行種種諸事。既󰣫寤已互相向說，或夢汝身如是行坐，從如是處有得不得。復有說言：『此夢吉祥，宜時速往村邑王城。』至他家處出入往來搖動面目，苦逼惱故心不安和，無等引定貢高自舉，諸根穢雜與俗無殊，言不應時心多馳散，樂遊俗里諸族姓家，不能奉持別解脫戒，獨為女人宣說法要，於說法時心住貪染，而於是中增獲利養，染著之心猶如噬齧，愚癡耽愛增住增著，不生悔故，於別離時啼泣而去。又於二處開示他人。云何為二？得淨好施便讚歎之，得非淨好即便毀呰。相會遇時互看所得，復相問言：『施主今者為施何物？為施與誰？飲食資財幾多幾少？』迦葉！當知是謂不修行者。乃至命終之所言說，不修行者復有餘過，生惡意樂謂謗正法。迦葉！應於如是諸比丘輩生憐愍心。何以故？以其當受苦惱果故。」

> 仏は迦葉に告げられた。「このような悪人は、もし『我』という想いや、さらには『涅槃』という想いにとどまるならば、我を師と称しながらも、かえって仏の教えに背く者となる。迦葉よ、たとえば、ある帝王が国土を治め、民を慈しみ育て、限りない楽しみを与え、様々な食べ物や飲み物が自然に整い、そばには王の正しい教化を奉じる侍臣がいたとしよう。そこに、誰も知らない者が一人現れ、財利のために侍臣の真似事を学び、王の命令に従わず、大臣や王など大衆の中で偽りの王の命令を宣して、『お前たちはここにとどまれ』と言い、あるいは『お前たちはこうすべきだ』と言った。迦葉よ、如来の法の王もまた同じである。大千世界を統べ、三乗の衆生を教化し、十種の力と功徳を円満に成就し、様々な仏の行いを行い、限りない安楽をもたらし、食べ物や飲み物の供養は自然に豊かに満ちている。その中で、誰も知らないような者たちが、命をつなぐために、我・衆生、さらには涅槃について説きながら、如来の無我という聖なる教えを受け入れず、『如来が説かれたことには、これはすべきであり、これはすべきでない』などと言う。そのような者たちの中には、仏を信じ教えに従い誹謗しない人もいる。彼ら（悪人）の言葉を聞き、それを優れた清らかな福田であると判断し、自分の財産や妻子の分までも惜しみなく、誠実な信心をもって法の通りに施し、その過ちに気づくまで断絶することがない。このような悪人は、先の例で誰も知らなかった者と同じである。食べ物や飲み物が終わると、人が集まるところで毎日、王のこと、盗賊のこと、食べ物のこと、淫らなこと、女のこと、医術のこと、酒飲みのこと、日月食のこと、王の往来のこと、種族のことなどについて語り合い、あるいは吉日だから他所へ行くべきだ、そうすれば食べ物が得られるなどと言う。このような様々な話で昼夜にわたって推測し、僧院に戻っても、二晩、あるいは六晩まで、その住むところで常にこのような話をし、正しい念や智慧を失い、威儀を損ない、昏く愚かで、眠りに落ち、よだれを流す。そして思い描くままに眠りの中で夢を見る。あるいは、自分が他所へ行く様子を見る。速く歩いたり遅く歩いたり、様々な事柄である。目覚めると互いに話し合い、『あなたは夢の中でこのように歩いたり座ったりした』『あのようなところから得たものもあれば得られなかったものもある』などと言う。さらに、『この夢は吉兆だから、すぐに村や王城へ行くべきだ』と言う者もいる。他人の家に行き来し、顔や目を動かし、苦しみに悩まされ、心は安らかでなく、心の統一もなく、高ぶり自惚れ、様々な感官は汚れ乱れ、在家の人と何ら変わらない。言葉は時に合わず、心は散乱し、村里や様々な家柄の家を遊び歩き、別解脱の戒律を守り保つことができず、ただ女人に対してだけ法の要を説き、説法の時には心が貪りに染まり、その中でさらに利養を得ようとする。染まり執着する心は、まるでかじりつくようであり、愚かさに耽り愛着は増し、ますますとどまり執着し、悔いることがないため、別れる時には泣きながら去っていく。また、他の者に二つのことを示す。何が二つかというと、良い清らかな施しを得ればそれを称賛し、良くない施しを得ればそれをそしるのである。出会った時には互いに得たものを見合い、『施主は今、何を施したのか？誰に施したのか？食べ物や財物はいくらか？多いのか少ないのか？』と尋ね合う。迦葉よ、これが修行しない者というものである。命終わるまでの言葉もまたこのようである。修行しない者にはさらに他の過ちもある。悪い意欲を起こし、正しい法を誹謗するのである。迦葉よ、このような比丘たちに対しては、憐れみの心を起こすべきである。なぜなら、彼らはやがて苦しみの果報を受けるからである。」

爾時世尊而說頌曰：

> その時、世尊は次のように詩句を説かれました。

「愚夫緣活命， 隨學帝王臣，故往詣餘處， 詐宣王制令，至彼傳密言， 勿致王瞋罰。愚人於此處， 亦以活命緣，何況最勝佛， 於多百劫中，捨身支節等， 及作多難事。我非法王家， 僮僕被謫罰，亦無問者能， 為作為不作。施與比丘房， 上妙美珍饌，及施上妙衣， 一切恭敬與。勤苦求財物， 奉施持戒人，不以自供身， 亦不將供子，不如法住者， 食之便捨去，共相會遇時， 言我快意噉。所在聚集處， 說王事賊事，關邏鎮守事， 種種飲食論，說日月博蝕， 及王來去事。或言當得勝， 或說當敗亡，此非所應言， 常共數論說。極妙臥具上， 晝夜耽睡眠，晝往善人家， 求多富有處。言此施非少， 亦非為最上，尋思是事已， 安敷空坐談，愚惰不勤修， 如驢恒負重。而於眠夢中， 見所分別相，覺已宣示他， 相向益談說。言勿憂勿笑， 汝當得安樂，此事宜速成， 勿復生憂惱。數往於村邑， 動止無威儀，喻若行獼猴， 迴轉於面目。入於聚落內， 為女說法言，棄捨佛契經， 及善別解脫。既從施家出， 觀其物少多，見少則罵他， 亦毀他眷屬。於相會遇時， 發言互相問，得何物何食？ 相問答何事？略說如是事， 經於百年中，如是所尋思， 以為自活命。爭蒲桃酒味， 及以香華等，為藥療其身， 求之少病惱。假令有百佛， 無能奈彼何，棄捨所修行， 與在家無異，於身生保愛， 不離於我人。彼作是修行， 由斯墮惡趣，若人謗正法， 重苦所燒然，無覺慧愚夫， 與在家無別。若諸釋師子， 修實行聲聞，不以活命緣， 毀犯微少戒。智者不貪食， 常生重檐想，不淨觀修心， 以還施主債。捨離欲漏故， 了知一切想，我聽如是等， 此教中出家。智人不誹法， 於所說空性，數數起勤求， 不可得堅實。勇健大智人， 了知空性理，能怖畏魔軍， 彼堪銷供養。若能離貪染， 不毀於空性，佛子勇健人， 兩足中應供。正法不久住， 生世多愚癡，少柔和比丘， 求不放逸者，智者應生憂， 不久自磨滅。後於晝夜間， 談說曾有我，世間無救護， 唯除兩足尊，修行學處人， 悉皆當滅沒。彼不了如是， 所有密意言，則不恭敬佛， 及無上正法。正法當盡滅， 應速發精勤，乃至少時間， 聽聞當不久。」

> 愚かな人は、生きるために帝王の家来をまねます。 だから他の場所へ行き、王の命令を偽って伝えます。 そこで秘密の言葉を伝え、王の怒りや罰を受けないようにします。 愚かな人は、このような場合にも生きるために行動します。 ましてや最勝の仏は、多くの百劫の間に 身体の一部などを捨て、多くの困難な行いをなさいました。 私は法王の家の者ではありません。召使は罰せられ、 問う者もいなければ、なすもなさざるも自由になりません。 比丘に部屋を与え、素晴らしく美味しい食事を施し、 さらに上等な衣も与え、すべてを敬って差し出します。 苦労して財を得て、戒を守る人に捧げますが、 自分のために使わず、子のためにも使いません。 法に従って暮らさない者は、食べ終えるとすぐに立ち去り、 互いに会うときには「私は満足して食べた」と言います。 あらゆる集まる場所で、王のこと、盗賊のこと、 関所や守備のこと、さまざまな飲食の話をし、 日食や月食、王の出入りの話をします。 「勝つだろう」と言う者もいれば、「敗れて滅びる」と言う者もいます。 これらは本来言うべきことではないのに、繰り返し論じ合います。 極上の寝具の上で、昼夜眠りにふけり、 昼間は裕福な家を訪ねて物をもらおうとします。 「この施しは少なくないが、最上でもない」と言って、 そのことを考えた後、座を設けて無駄話をします。 愚かで怠け者で修行に励まず、いつも重荷を背負うろばのようです。 眠りの夢の中で分別された相を見て、 目覚めてから他人に語り、向かい合ってさらに話し合います。 「憂えるな、笑うな、おまえは安楽を得るだろう。 このことはすぐに成し遂げよ、再び憂い悩むな」と言います。 たびたび村に行き、所作や休息に威儀がなく、 まるで動き回る猿のように顔をあちこちに向けます。 集落の中に入り、女性に法を説きますが、 仏の経典や善い別解脱の教えを捨ててしまいます。 施しの家を出ると、その品物の多少を調べ、 少ないと施主を罵り、その家族も中傷します。 互いに会うときには言葉を交わして尋ね合います。 「何を得たか？何を食べたか？何を尋ね答え合ったか？」と。 かいつまんで言えば、このようなことを百年の間、 そうした思案を自分の生きがいとしています。 葡萄酒の味や香華などを争い、 薬で身体を癒そうとして、病や悩みの少なさを求めます。 たとえ百人の仏が現れても、彼らには手が出せません。 修行を捨て去り、在家の人と変わりません。 身体に執着して愛しみ、「私」や「人」という観念から離れません。 彼らはそのような修行をするので、悪趣に落ちます。 もし人が正法を誹謗すれば、重い苦しみに焼かれるでしょう。 目覚めも智慧もない愚か者は、在家の人と何ら変わりません。 しかし、釈迦獅子の真実の修行を行う声聞たちは、 生きるための理由で、ほんのわずかな戒も破りません。 智者は食べ物に貪らず、常に重い荷と思い、 不浄観で心を修めて、施主の恩を返します。 欲望の漏れを捨て離れたので、すべての想念を了知します。 私はこのような者たちを、この教えの中で出家させるのです。 智者は法を誹らず、説かれた空性に対して 繰り返し努力して求めますが、堅実なものは得られません。 勇健で大いなる智慧ある人は、空性の道理を了知し、 魔軍を畏怖させることができ、供養を受けるにふさわしい者です。 もし貪りや汚れを離れ、空性を毀らないなら、 その仏の子である勇健な人は、両足の生きものの中で供養されるべきです。 正法は長くはとどまらず、この世には愚か者が多く、 柔和な比丘や不放逸を求める者は少ないのです。 智者は憂いを抱くべきです。やがて彼ら自身も滅びていくからです。 その後、昼夜のうちに「かつて私があった」と語り、 世の中には救い手がなく、ただ両足尊（仏）を除いてはありません。 修行や学処を実践する人々は、みな消え去ってしまうでしょう。 彼らはこのように、すべての密意ある言葉を理解しないので、 仏と無上の正法を敬わないのです。 正法は滅びようとしています。速やかに精進を起こすべきです。 ほんの短い時間でも、この法を聞く機会は長くは続かないでしょう。

## 大寶積經卷第二

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