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title: "大寶積經 · 13 佛為阿難說處胎會"
description: "大宝积经是唐代高僧菩提流志翻译的一部重要佛教经典，属于大乘佛教宝积部核心典籍。该经汇集了早期大乘佛教的多部经典，形成于公元2-4世纪，内容涵盖菩萨修行、般若智慧、净土思想等大乘教义。菩提流志奉唐玄宗之命于8世纪完成汉译，共120卷，系统阐述了大乘佛教的修行次第与解脱之道。作为大乘佛教的重要集成经典，大宝积经在中国佛教史上具有崇高地位，对汉传佛教各宗派尤其是华严宗、净土宗的发展产生深远影响，是研究大乘佛教思想体系的关键文献。"
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## 大寶積經卷第五十五

> 大宝積経 第五十五巻

大唐三藏菩提流志奉詔譯

> 大唐三蔵菩提流志、詔を奉じて訳す

### 佛為阿難說處胎會第十三

> 仏が阿難に胎内のことを説かれた会 第十三

如是我聞：

> このように私はお聞きしました。

一時佛在舍衛國祇樹給孤獨園。尊者阿難於日晡時從禪定起，與五百比丘俱詣佛所，合掌恭敬，頂禮佛足，却住一面。爾時世尊即告阿難及諸比丘：「我有法要，初中後善，其義微妙純一無雜，具足清白梵行之相，所謂入母胎藏修多羅法。應當諦聽，善思念之。我今為汝分別解說。」阿難白佛言：「唯然世尊！願樂欲聞。」

> ある時、仏陀はシャーラス国の祇園精舎に滞在されました。夕暮れ時、尊者の阿難は禅定から立ち上がり、五百人の比丘たちと共に仏陀のもとへ向かい、合掌して敬礼し、仏陀の足に頭を触れ、その後、一方に立っていました。その時、世尊は阿難と比丘たちに告げられました。「私には、法の要があり、初めも中も終わりも善く、その意味は微妙で純一、雑じり気がなく、完全に清らかで梵行の相を具えています。すなわち、『母の胎内に入る経典』という教えです。よく聴き、よく思惟しなさい。今、あなたたちに詳細に説き明かしましょう。」 阿難は仏陀に答えました。「はい、世尊。喜んでお聴きいたします。」

爾時世尊告阿難言：「若有眾生欲入胎時，因緣具足便得受身，若不具足則不受身。云何名為緣不具足？所謂父母起愛染心，中陰現前求受生處，然此父母赤白和合或前或後而不俱時，復於身中各有諸患，若如是者則不入胎。其母胎藏或患風黃血氣閉塞，或胎閉塞或肉增結，或有醎病或麥腹病，或蟻腰病或如駝口，或車轅曲木或如車軸，或車轂口或如樹葉，或曲繞旋轉狀如藤笋，或胎藏內猶如麥芒，或精血多泄不暫停住，或滯下流水或胎藏路澁，或上尖下尖或曲或淺或復穿漏，或高或下或復短小及諸雜病，若如是者不得入胎。若父母尊貴有大福德、中陰卑賤，或中陰尊貴有大福德、父母卑賤，或俱福德無相感業，若如是者亦不受胎。如是中陰欲受胎時，先起二種顛倒之心。云何為二？所謂父母和合之時，若是男者，於母生愛、於父生瞋，父流胤時謂是己有。若是女者，於父生愛、於母生瞋，母流胤時亦謂己有。若不起此瞋愛心者，則不受胎。

> 爾時に世尊は阿難に告げられた。 「もしも衆生で、母胎に入ろうとする者がいるならば、因と縁が整えばその身を受け、整わなければ身を受けることはない。では、どのような状態を『縁が整わない』と言うのか。 すなわち、父母に愛欲の心が起こり、中陰の者が現れて受生の場所を求める時、この父母の赤白（精血）が和合しても、そのタイミングが前後して同時でない場合がある。あるいは、父母それぞれの身に様々な病いがある場合、このような時は胎に入らない。 母の胎内に、風・黄・血気の閉塞があったり、胎そのものが塞がっていたり、肉が増えて固まっていたり、鹹（しお）の病・麦腹の病・蟻腰の病・駱駝の口のような病、車の轅（ながえ）のような曲がった木、車の軸のような形、車の轂（こしき）の口、木の葉のよう、あるいは蔓（つる）のように巻き回ったり竹の子のよう、あるいは胎内が麦の芒（のぎ）のように尖っていたり、精血が多く漏れて止まらず、下に流れたり水が出たり、胎の道が滞り、上が尖り下が尖り、曲がっていたり浅かったり、また穴が開いていたり、高かったり低かったり、短かったり、その他さまざまな病気がある。このような時は胎に入ることはできない。 また、父母が高貴で大いなる福徳を持つが、中陰の者が卑賤である場合、あるいは中陰の者が尊く大いなる福徳を持ち、父母が卑賤である場合、あるいは双方とも福徳があるが感応し合う業がない場合、このような時もまた胎を受けることはない。 このように中陰の者が胎を受けようとする時、まず二種の顛倒（さかさま）の心を起こす。その二種とは何か。 すなわち、父母が和合する時、もし男の胎であれば、母に対して愛の心を起こし、父に対して怒りの心を起こす。父の精（胤）が流れ出る時、それを自分自身のものと思う。 もし女の胎であれば、父に対して愛の心を起こし、母に対して怒りの心を起こす。母の精（胤）が流れ出る時、それもまた自分自身のものと思う。 もしこの怒りと愛の心を起こさなければ、胎を受けることはない。」

「復次阿難！云何得入母胎？所謂父母起愛染心，月期調順中陰現前，無有如上眾多過患，業緣具足便得入胎。如是中陰欲入胎時，復有二種。云何為二？一者無有福德，二者有大福德。其無福者覺觀心起，所見境界便作是念：『我今值遇風寒陰雨，大眾憒閙眾威來逼。』便生恐怖。『我今應當入於草室及以葉室，或隱牆根，或入山澤叢林窟穴。』復更生於種種諸想，隨其所見便入母胎。大福德者亦生是念：『我今值遇風寒陰雨，大眾憒閙眾威來逼。』亦生恐怖，即上高樓或登大閣，或入殿堂及以床座，亦生諸餘種種之想，隨其所見便入母胎。」

> 「また、阿難よ。どのようにして母胎に入るのか。いわゆる父母が愛欲の心を起こし、月経が順調で、中有が現れ、先に述べたような多くの過ちや障りがなく、業の縁が整えば、胎内に入ることができる。このように中有が胎内に入ろうとするとき、さらに二つの種類がある。その二つとは何か。一つは福徳のない者、二つは大いなる福徳のある者である。福徳のない者は、分別の心が生じ、見る境に対してこう思う。『私は今、風や寒さ、陰りの雨に遭い、大勢の人々が騒ぎ、多くの威勢に迫られている。』そして恐れをなす。『私は今、草の部屋や葉の部屋に入るべきだ。あるいは壁の根元に隠れ、あるいは山や沢、林や洞窟に入るべきだ。』さらに様々な思いを起こし、その見るところに従って母胎に入る。大いなる福徳のある者もまたこう思う。『私は今、風や寒さ、陰りの雨に遭い、大勢の人々が騒ぎ、多くの威勢に迫られている。』そして同じく恐れをなす。すると高い楼閣や大きな殿舎に上り、あるいは殿堂や寝床に入り、また他の様々な思いを起こし、その見るところに従って母胎に入る。」

佛告阿難：「如是中陰初受胎時名歌羅邏，皆依父母不淨及過去業而得受身。如是之業及以父母諸緣之中各不自生，和合力故而便受身。譬如以器盛酪及人繩等即便出蘇，諸緣之中皆不可得，和合力故蘇乃得生。歌羅邏身亦復如是，因緣力故便得受胎。

> 仏は阿難に告げられた。「このように、中陰が最初に胎内に宿る時を『迦羅邏』と呼ぶ。それはすべて、父母の不浄なものと、過去の業によって身を受けるのである。このような業と父母の様々な縁の中では、それぞれが単独で生じるのではなく、和合する力によって身を受けるのだ。例えば、器に酪を入れ、人の手や縄などによって蘇を搾り出すようなものである。様々な縁の中には、それぞれ単独では得られないが、和合する力によって蘇が生じるのと同じである。迦羅邏の身もまたこれと同じで、縁の力によって胎内に宿るのである。」

「復次阿難！譬如依止青草牛糞及以棗酪而各生蟲，一一之中蟲不可得，因緣力故蟲乃得生。此蟲生時青黃赤白，各隨所依而作其色。是故當知，父母不淨而生此身，諸緣中求皆不可得亦不離緣，和合力故而便受胎。此身生時，與其父母四大種性亦無差別，所謂地為堅性、水為濕性、火為熱性、風為動性。歌羅邏身若唯地界無水界者，譬如有人握乾󰉓灰終不和合。若唯水界無地界者，譬如油水其性潤濕，無有堅實即便流散。若唯地水無火界者，譬如夏月陰處肉團，無日光照則便爛壞。唯地水火無風界者則不增長，譬如有人及其弟子能善炊糖，諸有所作而令其內悉使空虛，若無風力終不成就。如是四大互相依持而得建立，是故當知歌羅邏身，因於父母四大業風而得生者亦復如是，眾緣之中皆不可得，和合力故而便受身。

> また、阿難よ、例えば、青草や牛糞、棗や酪などに依ってそれぞれ虫が生じるが、その一つ一つの中に実体としての虫はない。縁（条件）の力によって虫が生まれるのである。この虫が生まれる時、青・黄・赤・白と、それぞれ依るものに従ってその色を成す。それゆえ、知るべきである。父母の不浄によってこの身は生じるが、様々な縁の中に求めるも得られず、しかも縁を離れてもいない。縁が和合する力によって受胎するのである。 この身が生まれる時、その父母の四大（地・水・火・風）の種性と何ら異なることはない。すなわち、地は固さの性質、水は湿り気の性質、火は熱さの性質、風は動きの性質である。 胎児の身（歌羅邏）が、もし地の要素のみで水の要素がなければ、例えば人が乾いた灰を握っても決してまとまらないようなものである。もし水の要素のみで地の要素がなければ、例えば油や水のようにその性質は湿潤で、固さがなければすぐに流れ散ってしまう。もし地と水の要素だけで火の要素がなければ、例えば夏の日の陰にある肉の塊が、日の光が当たらなければ腐って壊れてしまうようなものである。もし地・水・火の要素だけで風の要素がなければ成長しない。例えば、ある人とその弟子たちが巧みに糖を炊く時、様々な作業によってその内部をすべて空にするが、もし風の力がなければ決して成就しないようなものである。 このように、この四大は互いに依り支え合って成り立っている。それゆえ、知るべきである。胎児の身が父母の四大と業の風によって生まれるのもまた同じである。様々な縁の中ではいずれも得られないが、和合の力によって身を受けるのである。

「復次阿難！譬如新淨種子善能藏積不為蟲食，無有爛壞乾焦穿穴。或復有人選擇良田潤沃之處下此種子，令一日中牙莖枝葉扶踈蔭映花果滋茂皆具足不？」

> 「また、阿難よ、たとえば、新しい清らかな種が、よく蓄えられていて、虫に食われず、腐ったり枯れたり穴が開いたりしていないとしよう。そして、ある人が、良い土地で潤いのある肥沃な場所を選んで、この種を蒔いたなら、一日のうちに芽や茎、枝や葉が生い茂り、陰を作り、花や果実が豊かに実り、すべてが完全に揃うであろうか？」

「不也。世尊！」

> いいえ、世尊。

佛告阿難：「歌羅邏身亦復如是，皆從因緣次第生長，不得一時諸根具足。是故當知，雖從父母而有此身，諸緣中求皆不可得，和合力故而便受生。

> 仏は阿難に告げられた。「胎内の命もまた、これと同じで、すべて縁（原因と条件）によって次第に成長するものであり、一時にすべての感覚器官が備わることはないのです。それゆえに知るべきです——父母によってこの身があるとはいえ、さまざまな縁の中から求めても、どこにもその実体は得られません。縁が寄り集まる力によって、こうして生を受けるのです。」

「復次阿難！譬如明眼之人持日光珠置於日中，以乾牛糞而懸其上，去珠不遠火便出生，不即牛糞及以日光各能生火亦不相離，因緣力故火便出生。從於父母所生之身亦復如是，歌羅邏身名之為色，受想行識說之為名，名色五陰剎那受身，已經諸苦我不讚歎，況復長時輪迴諸有。譬如少糞猶尚臭穢，何況於多！如是五陰歌羅邏身誰當愛樂？

> 「また、阿難よ、たとえば、目の見える人が日光の珠を日の下に置き、乾いた牛の糞をその上に吊るすと、珠から遠くないところに火が生じます。牛の糞も日光も、それぞれ単独で火を生じることはなく、また互いに離れていることもありませんが、因縁の力によって火が生まれるのです。父母から生まれたこの身もまた同じです。歌羅邏（受精卵）の身を『色』と呼び、受・想・行・識を『名』と呼びます。この名と色という五蘊は、一瞬のうちに身を受け、すでに様々な苦しみを経ています。私はこれを褒め称えることはありません。ましてや長い時を経て輪廻のさまざまな生存に漂うことはなおさらです。たとえば、少しの糞でもなお臭く汚れるのに、ましてや多い場合はなおさらです。このように、五蘊からなる歌羅邏の身を、誰が愛し楽しむことがありましょうか。」

「復次阿難！如是之身處在母胎，凡經三十八七日已方乃出生。

> さらに、阿難よ。この体は母の胎内にあって、実に三十八の七日の期間を経て、ようやく生まれ出るのである。

「第一七日處母胎時名歌羅邏，身相初現猶如生酪，七日之中內熱煎煮四大漸成。

> 第一の七日間、母の胎内にいるとき、これを「羯羅藍（かりら／かろら）」といいます。体の形は最初、できたてのヨーグルトのように現れます。この七日間、内側の熱によって煮詰められながら、四つの要素（四大）が徐々に形づくられていきます。

「第二七日處母胎時，所感業風名為遍滿。其風微細吹母左脇及以右脇，令歌羅邏身相漸現，狀如稠酪、或似凝酥，內熱煎煮便即轉為安浮陀身，如是四大漸漸成就。

> 第二の七日（受精から1週間後）に母の胎内にいるとき、感じる業の風は「遍満」と名付けられています。この風は微細で、母の左脇と右脇に吹き、受精卵（カララ）の姿が徐々に現れます。その様子は濃いヨーグルトのようであり、または固まったバターのようです。内側から熱で煎られ煮られるようにして、やがて安浮陀（あんぶだ）の身へと変わります。このようにして、四大（地・水・火・風）が次第に形成されていきます。

「第三七日處母胎時，復感業風名為藏口。由此風力令漸凝結，其安浮陀轉為閉手，狀如藥杵而復短小。於其胎中內熱煎煮，如是四大漸漸增長。

> 第三七日（三八日目）に母胎に宿るとき、さらに「蔵口（ぞうく）」という業風の影響を感じる。この風の力によって次第に凝り固まり、安浮陀（あんふだ）は閉手（へいしゅ）へと変化する。その形は薬のすりこぎのようで、やや短い。胎内では熱がこもって煮えたぎるように感じられ、このようにして四大（しだい）が少しずつ成長していく。

「第四七日處母胎時，復感業風名為攝取。由此風力能令閉手轉為伽那，狀如溫石，內熱煎煮四大漸增。

> 第四七日、母の胎内にいるとき、また「摂取」という業の風を感じる。この風の力によって、手を閉じた形の「伽那」という状態に変わる。その様子は温かい石のようであり、内側で熱が煎り煮えるようにして、四大が次第に増していく。

「第五七日處母胎時，復感業風名為攝持。由此風力能令伽那轉為般羅奢佉，諸皰開剖兩髀兩肩及其身首而便出現，如春陽月天降時雨樹木枝條而便出生。因業風力，諸皰現時亦復如是。

> 胎内の第五七日（六週目）には、さらに「摂持」という名の業の風が感じられます。この風の力によって、伽那（肉塊）は般羅奢佉（手足の芽）へと変わります。そして、様々な隆起が開かれ、両腿・両肩・頭部が姿を現します。まるで春の陽気な月に、天から適時に雨が降り、木々の枝が芽吹くように。業の風の力によって、こうした隆起が現れるのも、まさに同じことです。

「第六七日處母胎時，復感業風名之為飯。由此風力四相出現。云何為四？所謂兩膝、兩肘，名為四相。

> 第六七日目に母胎にいる時、さらに業の風が現れ、これを「飯」と名づける。この風の力によって四つの相が現れる。その四つとは何か。すなわち、両膝と両肘、これを四つの相と名づける。

「第七七日處母胎時，復感業風名為旋轉。由此風力四相出現，所謂手足掌縵之相，其相柔軟猶如聚沫。

> 母胎の中にある第七週目には、さらに「旋転」と呼ばれる業の風が感じられます。この風の力によって、四つの相が現れます。すなわち、手と足の指の間に水かきのような相が現れ、その相は泡のように柔らかいのです。

「第八七日處母胎時，復感業風名為翻轉，由此風力二十相現，所謂手足二十指相而便出生。如天降雨樹木枝條漸得增長，業風力故諸相現前亦復如是。

> 母胎に入ってから第四十九日目には、さらに「反転」という名の業の風が感じられます。この風の力によって二十の相が現れます。すなわち、手足の二十本の指の形が整い、そのまま誕生します。ちょうど天から雨が降り注ぎ、木々の枝が徐々に成長するように、業の風の力によって諸々の形が現れるのも、また同じことなのです。

「第九七日處母胎時，復感業風名為分散。由此風力現九種相。云何為九？所謂眼耳鼻口、大小便處名為九相。

> 第九の七日、母の胎内にいる時、さらに「分散」という業の風を感じる。この風の力によって、九つの相が現れる。その九つとは、すなわち、目、耳、鼻、口、そして大小便の出口である。これらを九相という。

「第十七日處母胎時，復感業風名為堅鞕，由此風力即便堅實。復有一風名為普門，吹其胎身悉令脹滿猶如浮囊。

> 第十七日に母胎にいる時、また業風という名の風を感じる。その風の力によって、胎児はさらに固くなる。また普門という名の風があり、その風が胎児の身体を吹いて、まるで浮き袋のように全体を膨らませる。

「十一七日處母胎時，復感業風名曰金剛。由此風力在於胎中或上或下，令其身孔皆得通徹。又以風力使懷胎者，或復悲喜行住坐臥，其性改常運動手足，令胎身孔漸漸增長，於其口中而出黑血，復於鼻中出穢惡水。此風迴轉於諸根已而便息滅。

> 胎内にいる十一週目の時、また「金剛」という名の業の風を感じます。この風の力によって胎児は子宮の中で上下に動き、身体の穴という穴はすべて通じるようになります。また、この風の力によって妊娠している女性は、悲しんだり喜んだり、歩いたり、立ったり、座ったり、横になったりと、普段とは違う気性になり、手足を動かすことで胎児の身体の孔は次第に大きくなっていきます。そして口からは黒い血が出て、鼻からは汚れた水が出ます。この風が様々な感覚器官を巡った後、やがて静まります。

「十二七日處母胎時，復感業風名為曲口。由此風力左右脇間生大小腸，猶如藕絲及緊紡線置在於地，十八周轉依身而住。復有一風名為穿髮，由此風故，三百二十支節及百一穴生在身中。

> 母胎にいる第二七日（胎内で七週目）、さらに「曲口」という業の風が感じられる。この風の力によって、左右の脇の間に大小の腸が生じる。それは、蓮の茎の糸や、しっかりと紡がれた糸が地面に置かれ、十八回も転がるようにして、体に沿ってとどまる。また、「穿髮」という風があり、この風によって三百二十の関節と百一の穴が体内に生じる。

「十三七日處母胎時，復感業風名作飢渴。由此風力胎身虛羸生飢渴想。其母飲食所有滋味，於身穴中及以臍輪資持潤益。」

> 母親のお腹の中にいる十三週目、胎児は「飢えと渇きを引き起こす」という業の風を感じます。この風の力によって、胎児の身体は弱々しくなり、飢えや渇きを感じるようになります。母親が食べ物や飲み物を摂ると、その味わいが身体の中の通り道や臍の緒を通して、胎児に栄養と潤いをもたらすのです。

爾時世尊以偈頌曰：

> その時、世尊は詩句（偈）をもってこう語られた。

「其子處母胎， 已經十三七，身即覺虛羸， 便生飢渴想。母所有飲食， 滋益於胎中，由此身命存， 漸漸而增長。

> 子が母の胎内にいること、 すでに十三の七週間が過ぎると、 その身は弱りやつれを感じ、 飢えや渇きの思いを抱くようになります。 母がとる食べ物や飲み物は、 胎内の子を養い、 それによって命は保たれ、 少しずつ成長していくのです。

「十四七日處母胎時，復感業風名為線口。由此風力生九百筋，於身前後及以左右而交絡之。

> 母胎にいる十四週目の頃、さらに「線口」という業の風が感じられます。この風の力によって、九百本の筋（すじ）が生じ、身体の前後や左右に交わり絡み合っていくのです。

「十五七日處母胎時，復感業風名為蓮花。由此風力生二十脈，飲食滋味流入此脈潤益其身。何者二十？於身前後及以左右各有五脈，此一一脈皆有四十枝派小脈，如是等脈各各復有一百枝派。身前二萬名曰商佉此云蠃，身後二萬名之為力，身左二萬名為安定，身右二萬名為具勢。如是八萬大小支脈生於此身。其脈復有種種之色，所謂青黃赤白酥酪油色。是八萬脈一脈一根，於其根上生於一孔，或復二孔乃至七孔，一一皆與毛孔相連，猶如藕根生諸孔穴。

> 「胎内にいる第十五週目、またもや業の風が生じ、これを蓮華の風と名づけます。この風の力によって二十の脈が生じ、飲食物の滋養分がこの脈に流れ込んで、胎児のからだを潤し養います。その二十の脈とは何か。からだの前後、左右にそれぞれ五つの脈があり、この一つ一つの脈には、さらに四十の枝分かれした小脈があります。そして、それらの脈には、それぞれさらに百の枝分かれした脈があります。からだの前側の二万は商佉（ほら貝）と名づけ、後ろ側の二万は力と名づけ、左側の二万は安定と名づけ、右側の二万は具勢と名づけます。このようにして、八万の大小の枝分かれした脈がこのからだに生じます。その脈には、青、黄、赤、白、酥酪、油など、さまざまな色があります。この八万の脈は、一本一本に根があり、その根の上に一つの孔が生じ、あるいは二つ、七つまでの孔が生じます。これらの孔は、すべて毛穴とつながっており、ちょうど蓮根がさまざまな孔を持つようなものです。」

「十六七日處母胎時，復感業風名為甘露。由此風力令此眼耳鼻口胸臆心藏四邊九孔之處悉令開發，出入氣息上下通徹無有障礙。若有飲食滋潤其身，有停積處復能銷化從下流出。譬如窯師及其弟子，能善調泥安布輪繩下上迴轉，所造器物而得成就。此亦如是，皆由風力及善惡業，令眼耳等漸漸具足。

> 妊娠16週目から17週目にかけて、胎児はさらに「甘露」という名の業風（カルマの風）の影響を受けます。この風の力によって、赤ちゃんの目、耳、鼻、口、胸、心臓、そして体にある四つの側面と九つの穴（九孔）がすべて開かれていきます。呼吸もスムーズに上下に行き渡り、どこにも滞りがありません。母親が取った飲食物が赤ちゃんの体に栄養を与え、溜まったものは消化され、下から排出されます。 これはまるで、陶芸家とその弟子が上手に粘土をこね、ろくろの上で縄を操り、上下に回しながら美しい器を作り上げていくようなものです。全く同じように、風力と善悪の業による力によって、赤ちゃんの目や耳などの器官が少しずつ完璧に整えられていくのです。

「十七七日處母胎時，復感業風名髦牛面。由此風力令其兩眼而得光潔，耳鼻諸根漸漸成就。譬如有鏡塵翳所覆，或取塼末及以油灰磨拭令淨。是故當知，以業風力吹其眼等使得明淨，亦復如是。

> 母胎にいる十七週目、再び「もうぎゅうめん」という業の風が感じられます。この風の力によって、両眼が清らかに輝き、耳や鼻などの諸器官が徐々に完成していきます。ちょうど、鏡が塵や曇りで覆われているのを、煉瓦の粉や油灰で磨いてきれいにするようなものです。したがって、業の風の力がその眼などを吹いて明らかに清らかにするのも、これと同じであると知るべきです。

「十八七日處母胎時，復感業風名大堅強。由此風力令其諸根漸漸成就而復明淨。猶如日月雲霧覆蔽，猛風卒起吹令四散，而此日月忽然大明。以是業風吹其諸根轉更明淨，亦復如是。

> 母胎にいる第18週目、再び「大堅強」という業の風が吹く。この風の力によって、胎児の諸器官が次第に完成し、さらに明らかに清らかになる。ちょうど太陽や月が雲や霧に覆われていても、激しい風が急に吹いてそれらを四方に散らせば、太陽や月が突然に明るく輝くようになる。この業の風が諸器官を吹いて、さらに明らかに清らかにするのも、まったく同じである。

「十九七日處母胎時，由前風力眼耳鼻舌四根成就。初入胎時已具三根：一者身根，二者命根，三者意根。如是諸根悉已具足。

> 胎内にいる十九週目の時、すでに働いている風の力によって、目・耳・鼻・舌の四つの感覚器官が完成します。胎内に入った時には、すでに三つの根（感覚器官のはたらきのもと）が備わっていました。それは、一つ目は身根（触覚）、二つ目は命根（生命の維持）、三つ目は意根（心のはたらき）です。このようにして、すべての感覚器官とそのはたらきの基礎が完全に整うのです。

「二十七日處母胎時，復感業風名曰堅固。由此風力能於身中生種種骨，於左脚中生二十骨，復於右脚亦生二十，足跟四骨、膊有二骨、膝有二骨、髀有二骨、腰胯三骨、脊十八骨、肋二十四、胸十三骨、左右二手各二十骨、臂有四骨、肩有二骨、頷有二骨、髑髏四骨，及齒根等有三十二。譬如塑師及其弟子，先以堅木後以繩纏造諸形狀，雖未有泥，如是之時名為骨相。以業風力生諸骨時亦復如是。是故當知於七日中，除其小骨，大骨生者數有二百。

> 二十七日目、母の胎内にいる時、さらに「堅固」という業の風を感じる。この風の力によって、身体の中に様々な骨が生じる。左の足には二十の骨、右の足にも二十の骨が生じ、踵には四つの骨、すねには二つの骨、膝には二つの骨、太ももには二つの骨、腰には三つの骨、背骨には十八の骨、肋骨には二十四の骨、胸には十三の骨、左右の手にはそれぞれ二十の骨、腕には四つの骨、肩には二つの骨、顎には二つの骨、頭蓋骨には四つの骨、そして歯の根などに三十二の骨がある。 例えば、塑像師とその弟子が、まず堅い木を芯にして、その上に縄を巻きつけて様々な形を作り、まだ粘土を塗っていない段階がある。その時、これを骨格の形という。業の風の力によって様々な骨が生じるのも、まさにこれと同じである。したがって、この七日間の間に、小さな骨を除いて、生じる大きな骨の数は二百あると知るべきである。

「二十一七日處母胎時，復感業風名為生起。由此風力能令其子生於身肉。譬如泥師及其弟子能善調泥泥諸牆壁，此由業風能生身肉亦復如是。

> 第二十一七日、母の胎内にいる時、さらに「生起」という業の風を感じます。この風の力によって、子は身肉を生じます。例えば、陶芸家とその弟子が巧みに粘土を調えて壁に塗るように、この業の風が身肉を生じるのもまた同じです。

「二十二七日處母胎時，復感業風名曰浮流。由此風力能生身血。

> 母親の胎内にある第二十二七日目には、さらに「浮流」という業の風が感じられます。この風の力によって、からだの中に血が生じるのです。

「二十三七日處母胎時，復感業風名為淨持。由此風力能生身皮。

> 三七日、母の胎内に宿る時、また業の風「じょうじ」と呼ばれるものを感じる。この風の力によって身体の皮が生じる。

「二十四七日處母胎時，復感業風名曰持雲。由此風力令其皮膚皆得調勻光色潤澤。

> 二十四七日目、母の胎内に宿る時、さらに業風（ごうふう）を感じる。その名を持雲という。この風の力によって、その皮膚はすべて整えられ、均一となり、光沢と潤いを帯びる。

「二十五七日處母胎時，復感業風名曰持城。由此風力令其子身血肉增長漸漸滋潤。

> 母胎にあること二十五七日目には、また業の風「持城（じじょう）」と名づくものを感じます。この風の力によって、子の身は血肉が増え、次第に潤いを帯びて成長してまいります。

「二十六七日處母胎時，復感業風名曰生成。由此風力便即能生髮毛爪甲，一一皆與諸脈相連。

> 第二十六週、二十七週ごろの胎内では、さらに「生成」という業の風が働きます。 この風の力によって、髪の毛、爪、そして全身の脈とつながる様々な組織が形作られていきます。

「二十七七日處母胎時，復感業風名為曲藥。由此風力令其身相漸得成就。或於先世造諸惡業，於諸資具慳貪悋惜不肯惠施，或復不受父母師長教誨，由是業故而得種種不如意身。若以長大肥白柔軟之身為端正者，而便受得短小瘦黑堅鞕之身。若以短小瘦黑堅鞕之身為端正者，而便受得長大肥白柔軟之身。若於其身支分之中高下多少踈密為端正者，而便受得無有高下踈密不具足身。或復受得聾盲瘖瘂手足攣躄諸根不具，所有音聲人不喜聞，其身醜陋猶如餓鬼。以惡業故而受種種不如意身，父母親屬尚不憙見，況復餘人。若於前世造十善業，好行惠施，無有慳貪諂誑之心，父母師長所有言教即皆信受。以是因緣若得為人，則不受於如上諸惡業身，而便獲得種種殊妙之身，顏容端正諸相具足，所有言音而為眾人之所愛樂。是故當知由善業故，便得如是勝妙果報。阿難！如是之身，若是男者，蹲居母腹右脇而坐，兩手掩面向脊而住。若是女者，蹲居左脇兩手掩面背脊而住。生藏之下、熟藏之上內熱煎煮，五處繫縛如在革囊。其母多食或復少食、甘食澁食、乾食膩食、辛醎苦醋冷熱之食，或復婬欲、急行跳躑、久臥久坐，皆受苦惱。是故當知處母胎時，有如是等眾苦逼迫。我今略說人中尚爾，何況地獄，難可為喻。誰有智者於生死海當樂此身？

> 第二十七七日、母の胎内にいる時、再び業の風が起こり、これを曲薬と名づける。この風の力によって、その身の形が徐々に完成していく。 あるいは前世において、様々な悪業を造り、諸々の生活物資に対してケチで惜しみ、施しを行うことなく、また父母や師長の教えを受け入れなかった者もいる。そうした業によって、様々な望ましくない身体を得る。もし長く大きく、太って白く柔らかな身体を端正とするなら、短く小さく、痩せて黒く硬い身体を受ける。もし短く小さく、痩せて黒く硬い身体を端正とするなら、長く大きく、太って白く柔らかな身体を受ける。 身体の各部において、高低や大小、粗密などが揃っていることを端正とするなら、高低や粗密のない、欠けたところのない身体を受けることができない。あるいは聾・盲・唖・手足の不自由な者、諸根が不完全な者として生まれ、その声は人に喜ばれず、その姿は餓鬼のように醜い。悪業によって様々な望ましくない身体を受け、父母や親族でさえ見ることを好まず、ましてや他の人がどうであろう。 もし前世において十善業を修め、よく施しを行い、ケチや諂い・偽りの心がなく、父母や師長の教えをすべて信じ受けたならば、その因縁によって人として生まれる時、上記のような悪業の身を受けず、様々な素晴らしい身体を得る。顔かたちは端正で諸相を備え、その声は人々に愛され喜ばれる。 それゆえ、善業によってこのような勝れた果報を得るのだと知るべきである。 阿難よ、このような身体がもし男であれば、母の腹の中で右脇に蹲踞し、両手で顔を覆い背に向かって座る。もし女であれば、左脇に蹲踞し、両手で顔を覆い背に向かって座る。生蔵の下、熟蔵の上で内熱に煮られ、五つの所に縛られて、まるで革袋の中にいるようである。 母親が多く食べ、あるいは少なく食べ、甘いものを食べ、渋いものを食べ、乾いたものを食べ、油っこいものを食べ、辛いもの・塩辛いもの・苦いもの・酢っぱいもの・冷たいもの・熱いものを食べ、あるいは婬欲を行い、急に歩いたり跳ねたり、長く横たわったり坐ったりすれば、すべて苦しみを受ける。 それゆえ、母の胎内にいる時には、このような様々な苦しみに迫られているのだと知るべきである。私は今、人の世界についてさえ略説したが、地獄の苦しみはなおさら喩え難い。 生死の海の中で、誰が智慧ある者でありながら、この身体を喜ぶだろうか。

「二十八七日處母胎時，生於八種顛倒之想。何等為八？一乘騎想，二樓閣想，三床榻想，四泉流想，五池沼想，六者河想，七者園想，八者苑想，是故名為八種之想。

> 母胎にいる第二十八週目には、八つの誤った考えが生じます。その八つとは何か？第一に乗り物に乗る思い、第二に楼閣の思い、第三に寝台の思い、第四に泉の流れの思い、第五に池の思い、第六に川の思い、第七に園の思い、第八に苑の思いです。これらを八つの思いと呼びます。

「二十九七日處母胎時，復感業風名曰花條。由此風力令此胎身光色潤澤諸相分明，皆由過去所造諸業差別不同，隨其形類有種種色，或作白色、或復黑色、或不白不黑色、或作青色、或乾枯色、或潤澤色，如是色相而得成就。

> 母の胎内にいる第二十九七日には、「花條（はなのえだ）」と呼ばれる業の風が感じられます。この風の力によって、胎児の体は色艶よく潤い、様々な特徴がはっきりと現れてきます。これらはすべて、過去に作った様々な行い（業）の違いによるものです。その形や種類に応じて、白い色、黒い色、白でも黒でもない色、青い色、乾いた色、あるいは潤いのある色など、それぞれの色や姿が出来上がっていくのです。

「三十七日處母胎時，復感業風名為鐵口。由此風力髮毛爪甲皆得增長，亦復能現白黑諸光，從業緣起而生此相。

> 妊娠三十七日目、胎内にいる時、さらに「鉄の口」という名の業の風を感じる。この風の力によって、髪や毛、爪、歯が伸びていく。また、白や黒などの様々な光が現れるが、これらはみな、前世の行い（業）という縁によって生じる姿なのである。

「三十一七日乃至三十五七日處母胎時，身相長大漸漸增廣，人相具足。

> 母の胎内にいる三十一週目から三十五週目にかけて、赤ちゃんの体はだんだんと大きくなり、人の姿が完全に整っていきます。

「三十六七日處母胎時，生厭離心不以為樂。

> 母親の胎内にいる第三十六週から第三十七週目において、子どもは嫌悪の心を生じ、もはやそこに楽しみを見いだせなくなります。

「三十七七日處母胎時，便起五種不顛倒想。何者為五？一不淨想，二臭穢想，三囹圄想，四黑闇想，五厭惡想。其子處胎生如是等厭離之心。

> 母の胎内にいる三十七日の間、五つの正しい想念が生じます。その五つとは、①不浄の想い、②臭く汚れた想い、③牢獄のような想い、④暗黒の想い、⑤嫌悪の想いです。子は胎内にいる間に、このような厭離（離れたいと願う心）を起こすのです。

「三十八七日處母胎時，復感業風名曰拘緣。由此風力即便迴轉。復有一風名為趣下，能令其身頭向於下，長伸兩臂漸欲出生。然其此子或於前世曾經積集墮落之業，令其此身手脚縱橫不能轉側，惡業緣故於母腹中而便捨命，母於此時受大苦惱或復命終。若於前世修諸善業作長壽因，臨欲生時母子安隱，無有如上惡業諸苦。過於三十八七日已欲出胎時，受種種苦方乃得生。是故當知，受此身者實為大苦。初出胎時，若男若女，適生墮地或以手捧、或衣承接、或在床席、或在屋中、或復地上、或逈露處、或在日中、或冬夏時冷熱風觸此身，初生受大苦惱，如生剝牛觸於牆壁。或復露地隨在之處為蟲所食，亦如有人而為蚊虻諸蟲唼食，復加杖捶而鞭撻之。初出胎時，以煖水洗觸其身時，所受之苦亦復如是。兒既生已漸漸增長，母身所出雜血之乳而養育之。我於諸餘經中先已廣說。是故當知，此身皆是不淨眾苦之所成就。誰有智者於生死中，而當愛樂如是之身？

> 三十八週七日の間、母胎にいる時、また業の風が起こり、これを拘縁と名づける。この風の力によって、たちまち回転する。また一つの風があって、趣下と名づけ、その身をして頭を下に向け、両腕を伸ばし、次第に出産しようとする。しかし、この子はあるいは前世において堕落の業を積み重ねたことがあり、その身の手足を縦横に動かせなくし、転側することができない。悪業の因縁によって、母の腹中で命を捨てる。母はこの時、大きな苦しみを受け、あるいは命を終えることもある。もし前世において様々な善業を修め、長寿の因を造ったならば、臨んで生まれようとする時、母子ともに安らかで、上に述べたような悪業の苦しみはない。三十八週七日を過ぎて、胎を出ようとする時、様々な苦しみを受けて、ようやく生まれることができる。それゆえに知るべきである。この身を受けることは、実に大きな苦しみであると。 初めて胎を出る時、男であれ女であれ、生まれて地に落ちる。あるいは手で捧げられ、あるいは衣で受け止められ、あるいは床や敷物の上、あるいは家の中、あるいは地面の上、あるいは露わな場所、あるいは日の下、あるいは冬や夏の時、冷たい風や熱い風がこの身に触れる。生まれたばかりで大きな苦しみを受けることは、まるで生きている牛の皮を剥いで壁に触れるようなものである。あるいは露わな地で、虫に食われるままになることも、また人のように蚊や虻などの虫に刺され食われ、さらに杖で打たれ鞭で打たれるようなものである。初めて胎を出る時、暖かい水でその身を洗う時に触れる苦しみも、また同じである。子が生まれてから次第に成長し、母の身から出る雑血の乳で養育される。私は他の経典の中で既に広く説いている。それゆえに知るべきである。この身はすべて不浄の多くの苦しみによって成り立っている。誰が智者であって、生死のうちに、このような身を愛好するであろうか？

「復次阿難！初出胎時經於七日，八萬戶蟲從身而生，縱橫食噉。有二戶蟲名為舐髮，依髮食髮。有二戶蟲依眼食眼。有四戶蟲：一名鞍乘，二名有腭，三名發病，四名圓滿，依頭食頭。有一戶蟲名黑稻葉，依耳食耳。有一戶蟲名為藏口，依鼻食鼻。有二戶蟲：一名遙擲，二名遍擲，依脣唼脣。有一戶蟲名曰針口，依舌食舌。有一戶蟲名為利口，依於舌根而食舌根。有一戶蟲名為手圓，依腭食腭。有二戶蟲：一名手網，二名半屈，依止手掌食於手掌。有二戶蟲：一名遠臂，二名近臂，依臂食臂。有二戶蟲：一者名鐵，二名近鐵，依止咽喉食於咽喉。有二戶蟲：一名金剛，二名大金剛，依心食心。有二戶蟲：一者名羸，二名羸口，依肉食肉。有二戶蟲：一名具色，二名具稱，依血唼血。有二戶蟲：一名勇健，二名香口，依筋食筋。有二戶蟲：一名不高，二名下口，依止脊骨食於脊骨。有一戶蟲名曰脂色，依脂食脂。有一戶蟲名曰黃色，依膽食膽。有一戶蟲名曰真珠，依肺食肺。有一戶蟲名之為荻，依脾食脾。有五百戶蟲：一百戶蟲名之為月，一百戶蟲名為月口，一百戶蟲名為輝耀，一百戶蟲名為輝面，一百戶蟲名為廣大，依止左邊而食左邊。復有五百戶蟲亦如是名，依止右邊而食右邊。有四戶蟲：一名小穿，二名大穿，三名骨穿，四名骨面，依骨食骨。有四戶蟲：一名大白，二名小白，三名吸力，四名虎道，依脈食脈。有四戶蟲：一名意樂，二名師子力，三名兔腹，四名耽欲，依止生藏而食生藏。有二戶蟲：一名勇猛，二名勇猛主，依止熟藏食於熟藏。有四戶蟲：一名鹽口，二名網口，三名蘊口，四名鳥口，依小便處食小便處。有四戶蟲：一名應作，二名大作，三名碎末，四名臆皺，依大便處食大便處。有二戶蟲：一名黑面，二名可畏面，依髀食髀。有二戶蟲：一名疾癩，二名小癩，依膝食膝。有一戶蟲名為愚根，依膊食膊。有一戶蟲名為黑頭，依脚食脚。阿難！我今為汝略說，八萬戶蟲依止此身晝夜食噉，亦復能令氣力虛羸顏容憔悴，種種病苦皆集此身。復令其心憂悲熱惱，雖有良醫亦生迷惑，不知何藥能治此病。誰有智者於生死海，而當愛樂如是之身？

> 「さらに、阿難よ。人が母胎を出て七日が過ぎると、八万の虫がその身から生まれ、縦横無尽に食い荒らす。 二種の虫は「髪を舐めるもの」と呼ばれ、髪に付いて髪を食べる。二種の虫は、眼に付いて眼を食べる。 四種の虫がいる。一つは「鞍に乗るもの」、二つは「顎のあるもの」、三つは「病を起こすもの」、四つは「満ち足りたもの」と呼ばれ、頭に付いて頭を食べる。 一種の虫は「黒い稲葉」と呼ばれ、耳に付いて耳を食べる。一種の虫は「蔵する口」と呼ばれ、鼻に付いて鼻を食べる。 二種の虫がいる。一つは「遠くに投げるもの」、二つは「遍く投げるもの」と呼ばれ、唇に付いて唇を吸う。 一種の虫は「針の口」と呼ばれ、舌に付いて舌を食べる。一種の虫は「鋭い口」と呼ばれ、舌の根元に付いて舌の根元を食べる。 一種の虫は「手の丸いもの」と呼ばれ、顎に付いて顎を食べる。 二種の虫がいる。一つは「手の網」、二つは「半ば曲がったもの」と呼ばれ、手のひらに付いて手のひらを食べる。 二種の虫がいる。一つは「遠い腕」、二つは「近い腕」と呼ばれ、腕に付いて腕を食べる。 二種の虫がいる。一つは「鉄」、二つは「鉄に近いもの」と呼ばれ、喉に付いて喉を食べる。 二種の虫がいる。一つは「金剛」、二つは「大金剛」と呼ばれ、心臓に付いて心臓を食べる。 二種の虫がいる。一つは「痩せたもの」、二つは「痩せた口」と呼ばれ、肉に付いて肉を食べる。 二種の虫がいる。一つは「色を持つもの」、二つは「名を持つもの」と呼ばれ、血に付いて血を吸う。 二種の虫がいる。一つは「勇ましく健やかなもの」、二つは「香りの口」と呼ばれ、筋に付いて筋を食べる。 二種の虫がいる。一つは「高くないもの」、二つは「下の口」と呼ばれ、背骨に付いて背骨を食べる。 一種の虫は「脂の色」と呼ばれ、脂に付いて脂を食べる。一種の虫は「黄色」と呼ばれ、胆に付いて胆を食べる。 一種の虫は「真珠」と呼ばれ、肺に付いて肺を食べる。一種の虫は「荻」と呼ばれ、脾臓に付いて脾臓を食べる。 五百の虫がいる。百の虫は「月」、百の虫は「月の口」、百の虫は「輝き」、百の虫は「輝く面」、百の虫は「広大」と呼ばれ、体の左側に付いて左側を食べる。 さらに五百の虫も、同じように名付けられ、体の右側に付いて右側を食べる。 四種の虫がいる。一つは「小さな穴」、二つは「大きな穴」、三つは「骨の穴」、四つは「骨の面」と呼ばれ、骨に付いて骨を食べる。 四種の虫がいる。一つは「大いなる白」、二つは「小さな白」、三つは「吸う力」、四つは「虎の道」と呼ばれ、脈に付いて脈を食べる。 四種の虫がいる。一つは「心の楽しみ」、二つは「獅子の力」、三つは「兎の腹」、四つは「欲望にふけるもの」と呼ばれ、胃（生蔵）に付いて胃を食べる。 二種の虫がいる。一つは「勇猛」、二つは「勇猛の主」と呼ばれ、腸（熟蔵）に付いて腸を食べる。 四種の虫がいる。一つは「塩の口」、二つは「網の口」、三つは「積もる口」、四つは「鳥の口」と呼ばれ、小便をする場所に付いて小便の場所を食べる。 四種の虫がいる。一つは「なすべきこと」、二つは「大いなること」、三つは「粉々になるもの」、四つは「胸のしわ」と呼ばれ、大便をする場所に付いて大便の場所を食べる。 二種の虫がいる。一つは「黒い面」、二つは「恐ろしい面」と呼ばれ、ももに付いてももを食べる。 二種の虫がいる。一つは「速やかな癩病」、二つは「小さな癩病」と呼ばれ、ひざに付いてひざを食べる。 一種の虫は「愚かさの根」と呼ばれ、腕に付いて腕を食べる。一種の虫は「黒い頭」と呼ばれ、足に付いて足を食べる。 阿難よ。私は今、あなたのためにその一端を説いた。八万の虫がこの身に付き、昼も夜も食べ続けることによって、気力は衰え、顔色はやつれ、様々な病の苦しみがすべてこの身に集まる。さらに心には憂い悲しみ熱い悩みが満ち、たとえ名医がいても困惑し、どのような薬でこの病を治せるのか分からなくなる。誰が智慧ある者であって、生と死の海にあって、このような身を愛で楽しむことがあろうか。」

「復次阿難！從初生時乃至長大，衣食資養成立此身，然其壽命或經百年、或復短促。於百年中有三百時，謂春夏冬，春為熱際、夏為雨際、冬為寒際。此三時中各有四月，一年之中有十二月。於百年中千二百月，黑月白月二千四百，凡經晝夜三萬六千。一日再食，七萬二千，或有不食亦在其數，所謂或病或醉、或時斷食、或復瞋恨睡眠調戲諸餘事務及飲母乳，以此因緣名為不食。如是之身雖壽百年必歸磨滅，誰有智者於生死海而當愛樂？復次阿難！受於此身有二種苦。云何為二？一者眾病集身名為內苦，二者人與非人之所逼惱名為外苦。何者名為眾病集身？所謂眼耳鼻舌咽喉牙齒胸腹手足有諸病生，或復風癎涕唾癲狂乾消、上氣肺逆小便淋瀝、疥癩癰疽痃癖痔瘻、惡瘡膿血煎寒壯熱，種種諸病皆集此身。復有百一心黃之病、百一風病、百一痰病，風黃痰等和合共起復有百一。如是四百四病逼切其身名為內苦。復有外苦加害此身，所謂或在牢獄撾打楚撻、杻械枷鎖繫縛諸苦，或劓耳鼻及刖手足斫截其頭。不為諸天之所守護，即令非人諸惡鬼神夜叉羅剎而得其便。復為蚊虻蜂等毒蟲之所唼食，寒熱飢渴風雨並至，種種苦惱逼切其身。人中尚爾，況惡道苦難可具說。是故當知，皆由過去諸不善業受如是報。若為刀杖之所加害而造城壁及諸牆塹防衛其身，為惡風雨蚊虻蜂螫而求屋舍，為四百四病內苦外苦，而求飲食臥具醫藥田園室宅金銀七寶奴婢車乘資生之具供給所須，不稱其心便生苦惱；設獲珍財慳貪悋惜常加守護，或時散失復生大苦。阿難！此五陰身一一威儀行住坐臥無不皆苦。若長時行不暫休息是名為苦，住及坐臥各各長時亦復皆苦。若長時行而得暫住便生樂想，其實非樂。若長時住而得暫坐，若長時坐而得暫臥，妄生樂想，實無有樂。是故當知，此五陰身皆名為苦。若復有人，或為自利、或為利他、若自他俱利，應當厭患如是諸苦出家修學，則於涅槃解脫之法為不唐捐。若復有人或以衣服臥具醫藥資生之具供養彼者，獲大果報威德名聞。」

> 「また、阿難よ。人は生まれてから成長し、衣食によってこの身を養う。しかしその寿命は、長くて百年、あるいはもっと短い。百年の中に三百の時がある。すなわち春・夏・冬である。春は暑い時期、夏は雨の時期、冬は寒い時期である。この三つの時期には、それぞれ四か月ずつあり、一年には十二か月がある。百年の間に千二百か月、黒月・白月を合わせて二千四百、昼夜を経ること三万六千にのぼる。一日に二度食事をすると、七万二千回の食事となる。しかし、食べない時もある。例えば、病気、酔い、断食、怒り、眠り、遊び戯れ、その他の用事、あるいは母乳を飲む時などである。これらの理由で「食べない」と呼ばれる。このように、百年生きる身も必ず滅び去る。生と死の大海にあって、誰が賢者としてこの身を愛し楽しむだろうか。 また、阿難よ。この身を受けることには、二つの苦しみがある。何が二つか。第一に、様々な病が身に集まる「内の苦」、第二に、人や人ならざる者に悩まされる「外の苦」である。 何を「様々な病が身に集まる」というのか。すなわち、眼・耳・鼻・舌・咽喉・歯・胸・腹・手・足に様々な病が生じる。あるいは、風痫、鼻水、よだれ、狂気、痩せ衰え、咳、肺の逆上、小便のつまり、疥癬、できもの、痔瘻、悪い腫れ物、膿血、悪寒、高熱など、あらゆる病がこの身に集まる。さらに、百一の黄疸の病、百一の風の病、百一の痰の病があり、風・黄疸・痰などが混合して起こるものがさらに百一ある。こうした四百四の病が身を悩ます、これを「内の苦」という。 また、「外の苦」がこの身を害する。すなわち、牢獄に入れられ、打ち叩かれ、足枷や手枷、鎖に縛られる苦しみ、あるいは鼻や耳を切り落とされ、手足を切り、首をはねられることである。天々に守護されなければ、人ならざる悪鬼、夜叉、羅刹どもがつけ入る。また、蚊や虻や蜂などの毒虫に刺され食われる。寒さ暑さ、飢え渇き、風雨が共に襲い、様々な苦しみ悩みが身を責める。人間界でさえこうである。ましてや悪道の苦しみは、詳しく語ることなどできない。ゆえに知るべきである。これらは全て、過去の悪い行いによって、このような報いを受けているのだ。 もし刀や杖によって害を受けようものなら、城壁や塀や堀を造って身を守る。悪い風雨や蚊・虻・蜂の刺し傷から逃れるために家屋を求める。四百四の病という内の苦と外の苦のために、食べ物や寝具、薬、田畑、家、金銀、七宝、奴婢、車、生活の道具を求め、必要なものを供給する。しかし心のままにならなければ苦しみが生じる。たとえ財宝を得ても、貪り惜しんで守り続け、時に失えば大きな苦しみが再び生じる。 阿難よ。この五蘊の身は、その一つ一つの振る舞い、行・住・坐・臥のすべてが苦しみである。もし長く動き続けて少しも止まらなければ、これを苦しみという。立ち、座り、横たわることも、それぞれ長く続けば皆苦しみである。しかし、長く動いていて一時的に立ち止まれば「楽しい」と思う。実際には楽しくはない。長く立っていて一時的に座れれば、長く座っていて一時的に横になれれば、誤って楽しいと思う。実際には楽しくはない。ゆえに知るべきである。この五蘊の身は、すべて苦しみなのである。 もし人が、自分のため、他人のため、あるいは自他のために、これらの苦しみを厭い離れようとして出家し学び励むならば、涅槃の解脱の法に対して決して無駄にはならない。もし人が衣服や寝具、薬や生活の道具を供養するならば、大きな果報と徳と名声を得るであろう。」

佛告阿難：「於意云何？色是常耶？是無常耶？」

> 釈迦は阿難に問いました。 「どう思うか。色（物質的なもの）は永遠のものだろうか。それとも、永遠ではない、無常のものだろうか。」

阿難白佛言：「世尊！色是無常。」

> 阿難が仏に申し上げました。「世尊よ、色（物質的なもの）は無常です。」

佛言：「若無常者，為是苦耶？為非苦耶？」

> 仏は言われた。「無常であるならば、それは苦しみであろうか、それとも苦しみではないであろうか。」

阿難答言：「色即是苦。」

> 阿難は答えた。「色とはすなわち苦しみである。」

佛言：「若無常苦，是敗壞法。若有多聞諸聖弟子聞是說已，執於此身如是之色，即是於我及我所不？」

> 仏陀が言われた。「もしも無常であり苦しみであるならば、それは壊れゆく性質のものである。多くの教えを聞いた聖なる弟子たちが、この教えを聞いたならば、この身体やそのような色（物質的存在）について、『これが私である』とか『これは私のものである』と捉えるであろうか？」

「不也。世尊！色中無我亦無我所。」

> 「いいえ、世尊よ。色（物質的な現象）の中には、私（自我）も私のもの（所有）も存在しません。」

「復次阿難！於意云何？受想行識為是常耶？是無常耶？」

> 「また、阿難よ。あなたはどう考えるか。受・想・行・識は、常住のものだろうか。それとも無常のものだろうか。」

阿難白佛言：「世尊！皆是無常。」

> 阿難が仏に申し上げました。「世尊よ、すべては無常でございます。」

佛言：「若無常者，為是苦耶？為非苦耶？」

> 仏は言われた。「無常であるならば、それは苦しみであろうか、それとも苦しみではないであろうか。」

阿難答言：「如是四陰即名為苦。」

> 阿難は答えた。「そうです。これら四つの陰こそが、苦しみなのです。」

佛言：「若無常苦，是敗壞法。若有多聞諸聖弟子聞是說已，執於此身如是四陰，即是於我及我所不？」

> 仏は言われた。「もしそれが無常であり苦しみであるなら、それは壊れゆく性質のものである。多くの教えを聞いた聖なる弟子たちは、この説を聞いて、この身体や四つの構成要素（四陰）を、自己や自己の所有物と執着するであろうか。」

「不也。世尊！此四陰者實無有我及以我所。」

> 「いいえ、世尊よ、これらの四つの構成要素（四陰）には、実に自己（我）も自己のもの（我所）も存在しません。」

「復次阿難！如是我者不在過去現在未來、若內若外、若麁若細、若勝若劣、若近若遠，彼一切法悉亦非我及以我所。阿難！當知以如實智而觀察之，諸法無我。若有多聞諸聖弟子作是觀已，便生厭離而得解脫究竟涅槃。如是修學證此法時，生分已盡、梵行已立、所作已辦、不受後有。」

> さらに、阿難よ。このように、私（自我）というものは過去・現在・未来のいずれにも存在せず、内にも外にも、粗にも細にも、勝にも劣にも、近くにも遠くにもありません。それら一切の法は、すべて私（自我）ではなく、私のもの（我所）でもありません。阿難よ、知るべきです。真実の智慧をもって観察すれば、すべての法に自我はないのです。もし多くの教えを聞いた聖なる弟子たちが、このように観察すれば、厭離の心を生じ、解脱し、究極の涅槃に至ります。このように修行してこの法を体得するとき、生の要素は尽き、清浄な行いは完成し、なすべきことは成し遂げられ、再び生まれ変わることはありません。

佛說是經已，尊者阿難遠塵離垢得此法眼淨，五百比丘不受諸法漏盡意解。時諸大眾聞佛所說，皆大歡喜，信受奉行。

> 仏がこの教えを説き終えられた時、尊者アーナンダは煩悩の塵を離れて清らかな智慧の眼（法眼）を得ました。また、五百人の比丘たちはすべての執着から解放され、完全な悟りに至りました。その時、大勢の人々は仏の教えを聞いて、皆が大いに喜び、深く信じて実践しました。

## 大寶積經卷第五十五

> 大宝積経 第五十五巻