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title: "大寶積經 · 2"
description: "大宝积经是唐代高僧菩提流志翻译的一部重要佛教经典，属于大乘佛教宝积部核心典籍。该经汇集了早期大乘佛教的多部经典，形成于公元2-4世纪，内容涵盖菩萨修行、般若智慧、净土思想等大乘教义。菩提流志奉唐玄宗之命于8世纪完成汉译，共120卷，系统阐述了大乘佛教的修行次第与解脱之道。作为大乘佛教的重要集成经典，大宝积经在中国佛教史上具有崇高地位，对汉传佛教各宗派尤其是华严宗、净土宗的发展产生深远影响，是研究大乘佛教思想体系的关键文献。"
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## 大寶積經卷第九十四

> 大宝积经 第九十四卷

後秦三藏法師羅什譯善臂菩薩會第二十六之二

> 善き臂の菩薩の会　第二十六の二

「善臂！云何菩薩摩訶薩具足行禪波羅蜜？菩薩若眼見色不取其相，或時眼根為外緣所牽，應正行守護不令隨緣，不留心於無明貪著世間，護持是戒；爾時具足得眼根戒。耳聞聲、鼻嗅香、舌甞味、身覺觸、意知法，亦如是。是菩薩若行住坐臥，若說法若默然，終不遠離寂定之心，善護手足無有散亂，常懷慚愧善護口業，安詳直視，心常寂靜不憙戲笑，善御身口意業令其寂靜。若屏猥處及現露處，無有異心。於所須物衣服飲食臥具醫藥心常知足，易養易滿易可使令。善行寂靜遠離憒閙，於利衰毀譽稱譏苦樂心無有異，不高不下。命及非命亦無異心，無瞋無愛。等視冤家猶如赤子，於忍不忍心常平等。聖聲凡聲寂聲亂聲，亦復如是。憎愛色中心不高下，離染瞋恚愛不愛者，聲香味觸法亦復如是。是菩薩觀欲如骨璅，邪憶想故發起此心。觀欲如肉團，多怨憎故。觀欲如炬火，染著苦法遠離樂故。觀欲如樹上果，多人愛著故。觀欲如假借，不得自在故。觀欲如夢，念念滅故。觀欲如癰，於苦倒中生樂想故。觀欲如鈎，行諸惡法墮惡道故。觀欲如灰河，增益欲染不知足故。是故菩薩如是觀已，離欲惡不善法，有覺有觀離生喜樂，成初禪行。離覺觀，內淨信，心在一處，無覺無觀，定生喜樂，成二禪行。離喜行捨念正智一心，身行樂諸聖人能行能捨，成三禪行。捨苦樂意，先滅憂喜，行捨念淨，成四禪行。於一切眾生思惟樂想，成就無量無邊慈心。於眾生中思惟苦想，成就無量無邊悲心。於眾生中思惟喜想，成就無量無邊喜心。於眾生中捨苦樂想，成就無量無邊捨心。是菩薩不思惟色想，成就空處寂靜行。不思惟空想，成就識處寂靜行。不思惟識想，成就無所有處寂靜行。不思惟無所有處想，成就非有想非無想處寂靜行。是菩薩於入息出息，若隨若住，長時知長、短時知短，成就入息出息寂靜行。是菩薩思惟觀身不淨想，成就不淨寂靜行。是菩薩思惟無常想生老病過，成就無常想寂靜行。思惟食中起無量過患想，成就食不淨想寂靜行。於諸世界城邑聚落種種嚴飾中，思惟分別必歸壞敗想，成就世間不可樂寂靜行。是菩薩內有色想，外觀色少，若好若醜取其相貌，成就初勝處行。是菩薩內有色想，外觀色多，若好若醜取其相貌，成就二勝處行。是菩薩若死若燒，風吹日曝成為灰土，為水所漂，若碎滅磨滅，若斷三有，是名內無色想觀外色少，若好若醜取其相貌，成就第三勝處行。是菩薩內無色想外觀色多，若好若醜取其相貌，成就第四勝處行。是菩薩內無色相，外觀色青無量無邊，愛樂取相，成就第五勝處行。是菩薩內無色想，外觀色赤無量無邊，愛樂取相，成就第六勝處行。是菩薩內無色相，外觀色黃無量無邊，愛樂取相，成就第七勝處行。是菩薩內無色相，外觀色白無量無邊，愛樂取相，成就第八勝處行。是菩薩入是無量無邊地一切處，不念異相，成就初一切處行。是菩薩入無量無邊水火風青黃赤白虛空識一切處，不念異相，成就十一切入處行。是菩薩入苦法時，心緣一切善根，所謂大慈大悲、攝持正法、不斷三寶、莊嚴佛身、清淨梵音、本昔誓願、教化眾生、淨佛世界、坐菩提樹、轉妙法輪、除斷一切眾生結使，其心所緣境界如是。是菩薩入禪定時，離四識住處，不依地大水大火大風大空大識大，亦不依止今世後世，入如是定都無所依。是菩薩入禪，其心愛樂，為欲入於無上解脫定故。是菩薩修行禪定，願令一切眾生得度得解脫故、為得一切智具足一切佛法故。若思惟若思惟已，願令一切眾生得度得解脫故、為得一切智具足一切佛法故。於此禪定若無力能學，是菩薩應如是思惟：『我今應時時漸漸勤加精進遠離亂心，時時漸漸勤加精進學一心，令此一心增廣具足，乃至生有終不懈怠不生愁憂。』是菩薩發起菩提心、念菩提心、修菩提心，悕望菩提、願求菩提，是名菩薩摩訶薩無量無邊善根禪定，欲令一切世間在在處處所有眾生，發起無漏禪定、發起無學禪定，生無漏禪定、生無學禪定。菩薩摩訶薩行是禪定，不以為難、以為喜樂，速疾具足禪波羅蜜。

> 善きかな、臂よ。菩薩摩訶薩がどのように禅波羅蜜を具足して行うか、それを説こう。 菩薩が目で色を見るとき、その形相に執着せず、もし眼根が外縁に引き寄せられそうになれば、正しく守り、縁に従わぬよう努め、無明に心を留めず、世間への貪りに耽ることなく、この戒を護持する。その時、眼根の戒を具足して得るのである。耳が声を聞き、鼻が香を嗅ぎ、舌が味を味わい、身が触を感じ、意が法を知る場合も、同じようにする。 この菩薩は、歩くときも、立つときも、座るときも、臥すときも、説法するときも、黙っているときも、つねに寂静の心を離れず、手足をよく護り散乱せず、常に慚愧の心を抱き、口業をよく守り、安らかにまっすぐに見つめ、心は常に静かで戯れ笑うことを喜ばず、身・口・意の三業をよく制御して静寂ならしめる。人目につかない場所でも、表立った場所でも、心に違いはない。必要な物、衣服・飲食・臥具・医薬について、心は常に足ることを知り、養いやすく満たしやすく、使いやすい。静寂をよく行い、喧騒を遠離し、利得と衰損、毀損と称賛、そしりと苦楽に対して心に違いがなく、高ぶらず低くもならない。命あるものと命なきものに対しても心に違いはなく、怒りも愛着もない。怨みある者を赤子のように平等に見つめ、忍ぶべきことと忍ぶべからざることに対しても心は常に平等である。聖なる声も凡夫の声も、静かな声も乱れた声も、同じようにする。憎むべき色も愛すべき色も、心は高下せず、染着・怒り・愛着から離れ、声・香・味・触・法についても同じようにする。 この菩薩は、欲望を骨の鎖のように観じ、邪な思いによってこの心が起こるからだと見る。欲望を肉の塊のように観じ、多くの怨み憎しみを生むからだと見る。欲望を松明の火のように観じ、苦しみに染着して楽しみから遠ざかるからだと見る。欲望を木の上の果実のように観じ、多くの人が愛着するからだと見る。欲望を借り物のように観じ、自在でないからだと見る。欲望を夢のように観じ、刹那刹那に滅するからだと見る。欲望を腫れ物のように観じ、苦しみの中に楽しい想いを生じるからだと見る。欲望を鉤のように観じ、悪い行いをして悪道に堕ちるからだと見る。欲望を灰の河のように観じ、欲望の染着を増し、足ることを知らないからだと見る。それゆえ菩薩はこのように観じて、欲望と悪しき不善の法を離れ、覚りと観察があり、離れて生じる喜びと楽しみによって、初禅の行を成じる。覚りと観察を離れ、内に清浄な信があり、心が一処にあり、覚りも観察もなく、定から生じる喜びと楽しみによって、第二禅の行を成じる。喜びを離れて捨と念と正しい智を行い、心を一つにし、身に楽を行じ、聖者たちが行い捨てることができる、第三禅の行を成じる。苦楽を捨て、先に憂いと喜びを滅ぼし、捨と念と清浄を行じて、第四禅の行を成じる。 すべての衆生に対して楽の想いを思惟し、無量無辺の慈しみの心を成就する。衆生の中で苦の想いを思惟し、無量無辺の悲しみの心を成就する。衆生の中で喜びの想いを思惟し、無量無辺の喜びの心を成就する。衆生の中で苦楽の想いを捨て、無量無辺の捨てる心を成就する。 この菩薩は色の想いを思惟せず、空無辺処の寂静の行を成就する。空の想いを思惟せず、識無辺処の寂静の行を成就する。識の想いを思惟せず、無所有処の寂静の行を成就する。無所有処の想いを思惟せず、非想非非想処の寂静の行を成就する。 この菩薩は、息を吸うことと吐くことについて、それに従うときも留まるときも、長いときは長いと知り、短いときは短いと知って、出入息の寂静の行を成就する。 この菩薩は、身を観じて不浄の想いを思惟し、不浄の寂静の行を成就する。この菩薩は、無常の想いを思惟し、生老病死の過ちを観じて、無常想の寂静の行を成就する。食について無量の過患の想いを起こし、食の不浄想の寂静の行を成就する。諸世界の城邑や聚落、種々の荘厳の中にあって、必ず壊れ敗れると分別して思惟し、世間は楽しむに足らないという寂静の行を成就する。 この菩薩は、内に色の想いがあり、外に色が少ないのを観じ、それが良くても醜くてもその相貌を取って、初勝処の行を成就する。この菩薩は、内に色の想いがあり、外に色が多いのを観じ、それが良くても醜くてもその相貌を取って、第二勝処の行を成就する。この菩薩は、もし死に、もし焼かれ、風に吹かれ日で干されて灰土となり、水に流され、もし砕け滅び、もし磨り減り、三有を断つならば、これは内に色の想いがなく、外に色が少ないのを観じ、それが良くても醜くてもその相貌を取って、第三勝処の行を成就するという。この菩薩は、内に色の想いがなく、外に色が多いのを観じ、それが良くても醜くてもその相貌を取って、第四勝処の行を成就する。この菩薩は、内に色の相がなく、外に青い色を無量無辺に観じ、愛楽してその相を取って、第五勝処の行を成就する。この菩薩は、内に色の想いがなく、外に赤い色を無量無辺に観じ、愛楽してその相を取って、第六勝処の行を成就する。この菩薩は、内に色の相がなく、外に黄色を無量無辺に観じ、愛楽してその相を取って、第七勝処の行を成就する。この菩薩は、内に色の相がなく、外に白い色を無量無辺に観じ、愛楽してその相を取って、第八勝処の行を成就する。 この菩薩は、この無量無辺の地一切処に入り、他の相を思わず、初一切処の行を成就する。この菩薩は、無量無辺の水・火・風・青・黄・赤・白・虚空・識の一切処に入り、他の相を思わず、十一切入処の行を成就する。 この菩薩は、苦の法に入るとき、心は一切の善根に縁をかけ、すなわち大慈大悲、正法を摂持すること、三宝を絶やさぬこと、仏身を荘厳すること、清浄な梵音、昔の誓願、衆生を教化すること、仏の世界を清浄にすること、菩提樹の下に坐すること、妙なる法輪を転じること、一切衆生の結使を断ち除くこと、その心の縁とする境界はこのようである。 この菩薩は、禅定に入るとき、四識住処を離れ、地大・水大・火大・風大・空大・識大にも依らず、また現世・後世にも依らず、このような定に入ってまったく依るところがない。 この菩薩は、禅に入り、その心は愛楽し、無上の解脱定に入ろうとするためである。この菩薩は、禅定を修行し、一切衆生が度され解脱を得ることを願い、一切智を得て一切の仏法を具足するためである。思惟するときも、思惟した後も、一切衆生が度され解脱を得ることを願い、一切智を得て一切の仏法を具足するためである。この禅定について学ぶ力がないならば、この菩薩はこのように思惟すべきである。「私は今、時々刻々に少しずつ勤め精進して乱れた心を遠離し、時々刻々に少しずつ勤め精進して一心を学び、この一心を増し広げて具足させ、生ある限り怠ることなく愁い憂うこともないようにしよう」と。 この菩薩は、菩提心を起こし、菩提心を念じ、菩提心を修め、菩提を望み、菩提を願い求める。これを菩薩摩訶薩の無量無辺の善根の禅定といい、一切世間のあらゆる場所にいるすべての衆生が、無漏の禅定を起こし、無学の禅定を起こし、無漏の禅定を生じ、無学の禅定を生じることを願うのである。菩薩摩訶薩はこの禅定を行じて、難事とせず、喜び楽しみとし、速やかに禅波羅蜜を具足するのである。

「善臂！云何菩薩摩訶薩具足般若波羅蜜？善臂！若有聰明智慧之人，學已能持、聞已誦習，善學諸法甚深相義亦能分別，如所聞法，聞已思義。有如是等者，菩薩爾時則應親近，恭敬供養尊重讚歎，乃至刀杖不應遠離。是菩薩因學問故、因了義故、因思義故、供養恭敬師和上故，乃至近死終不避難諸苦惱事，所謂飢渴寒熱、蚊虻毒螫、風吹日曝、諸惡觸等、罵詈誹謗。是菩薩於正法中起寶聚想，於說法者起寶藏想，於聽法者起難遭想，於問義者起慧命想，於多學者斷除無明起智慧想，於分別諸法起百千生生慧眼想。是菩薩聞是諸法，受持修學、廣分別已，知陰界入、四聖諦、十二因緣、三世三乘，得如是知。

> 「善きかな、善臂よ。菩薩摩訶薩がどのように般若波羅蜜を具足するのかを説こう。善臂よ、もし聡明で智慧ある人がいて、学んだことをよく保ち、聞いたことをよく誦習し、諸法の深遠な相と義をよく学び、また分別することができ、聞いた通りに法を思惟し、その義を考えることができるならば、そのような人々を菩薩は親しく近づき、恭敬供養し、尊重し、讃嘆すべきである。たとえ刀杖の危険があっても遠ざけてはならない。菩薩は学問によって、義理を理解することによって、義理を思惟することによって、師や和尚を供養恭敬することによって、死に近づくことさえも避けず、あらゆる苦悩の事柄に耐えるのである。すなわち、飢えや渇き、寒さや暑さ、蚊や虻の毒に刺されること、風に吹かれ日差しに曝されること、諸々の悪しき触れ合い、罵詈や誹謗などである。菩薩は正法に対して宝の集まりと思う想いを起こし、説法者に対して宝の蔵と思う想いを起こし、法を聞く者に対しては遇い難いと思う想いを起こし、義を問う者に対しては智慧の命と思う想いを起こし、多く学ぶ者に対しては無明を断ち切り智慧を生じると思う想いを起こし、諸法を分別することに対しては百千の生において慧眼を開くと思う想いを起こす。菩薩はこれらの法を聞き、受け持ち修学し、広く分別した後、五陰・十八界・十二入、四聖諦、十二因縁、三世三乗を知り、このような知恵を得るのである。」

「云何知界？知二界。有為界、無為界，是名二界。云何有為界？若法生住滅者，是名有為界。云何無為界？若法無生住滅，是名無為界。是名知有為、無為界。復次知三界，善界、不善界、無記界。云何善界？若不貪共不貪、若不恚共不恚、若不癡共不癡，是名善界。云何不善界？若貪共貪、若瞋共瞋、若癡共癡，是名不善界。云何無記界？除善不善，若有餘法，是名無記界。復次知三界，所謂欲界、色界、無色界。云何欲界？地獄、畜生、餓鬼、阿修羅、人、四天王天、三十三天、夜摩天、兜率陀天、化樂天、他化自在天。若於此中欲染貪著，瞋恚愚癡悕望，欲得心所作業，是名知欲界。云何色界？梵天、梵輔天、梵眾天、大梵天、光天、少光天、無量光天、光音天、淨天、少淨天、無量淨天、遍淨天、果實天、少果天、廣果天、無量果天、無想天、無熱天、無惱天、善見天、好善見天、阿迦膩吒天。若於此中，色染愚癡悕望，欲得心所作業，是名色界。云何無色界？空處天、識處天、無所有處天、非有想非無想處天。若於此中，無色染污愚癡悕望，欲得心所作業，是名無色界。是名三界。復次知四界，欲界、色界、無色界、無為界，是名知四界。復次知六界，所謂欲界、恚界、害界、出界、不恚界、不害界，是名知六界。復次知六界，所謂地、水、火、風、空、識界，是名六界。觀地大無常變壞，無堅無牢相，若無常即是苦，若是苦即無我。水火風空識大，無常變壞無堅牢相，若無常即苦，若苦即無我。是名知六界。

> いかにして界を知るか。二つの界を知る。有為界と無為界、これが二つの界である。いかにして有為界か。もし法が生じ、住し、滅するならば、これを有為界という。いかにして無為界か。もし法に生じ、住し、滅することがなければ、これを無為界という。これが有為界と無為界を知ることである。 さらに三つの界を知る。善界、不善界、無記界である。いかにして善界か。もし貪りと共に貪らず、もし怒りと共に怒らず、もし愚かさと共に愚かでなければ、これを善界という。いかにして不善界か。もし貪りと共に貪り、もし怒りと共に怒り、もし愚かさと共に愚かであれば、これを不善界という。いかにして無記界か。善と不善を除いて、もし他の法があるならば、これを無記界という。 さらに三つの界を知る。すなわち欲界、色界、無色界である。いかにして欲界か。地獄、畜生、餓鬼、阿修羅、人、四天王天、三十三天、夜摩天、兜率陀天、化楽天、他化自在天。もしこの中で欲に染まり貪り執着し、怒り愚かさに望みをかけ、欲を得ようとする心によってなされる業、これを欲界を知るという。 いかにして色界か。梵天、梵輔天、梵衆天、大梵天、光天、少光天、無量光天、光音天、浄天、少浄天、無量浄天、遍浄天、果実天、少果天、広果天、無量果天、無想天、無熱天、無悩天、善見天、好善見天、阿迦膩吒天。もしこの中で、色に染まり愚かさに望みをかけ、欲を得ようとする心によってなされる業、これを色界という。 いかにして無色界か。空処天、識処天、無所有処天、非有想非無想処天。もしこの中で、無色に染まり汚れ愚かさに望みをかけ、欲を得ようとする心によってなされる業、これを無色界という。これが三つの界である。 さらに四つの界を知る。欲界、色界、無色界、無為界、これが四つの界を知ることである。 さらに六つの界を知る。すなわち欲界、恚界、害界、出界、不恚界、不害界、これが六つの界を知ることである。 さらに六つの界を知る。すなわち地、水、火、風、空、識界、これが六つの界である。地の大を観じて無常であり変化し壊れ、堅固でなく牢固でない相であると知る。もし無常であればすなわち苦であり、もし苦であればすなわち無我である。水、火、風、空、識の大もまた、無常であり変化し壊れ、堅固でなく牢固でない相である。もし無常であればすなわち苦であり、もし苦であればすなわち無我である。これが六つの界を知ることである。

「是菩薩聞如是法已，受持修學廣分別已，即知五陰。所謂色陰、受想行識陰。色如水沫，即是生滅不得久住。受如水泡，即是生滅不得久住。想如野馬，即是生滅不得久住。行如芭蕉，即是生滅不得久住。識如幻化，即是生滅不得久住。是名知五陰。

> 菩薩はこのような教えを聞き、受け入れ、実践し、広く理解した後、五蘊を知るに至ります。すなわち、色蘊、受蘊、想蘊、行蘊、識蘊です。 色は水の泡のようであり、生じては滅し、長く留まることはできません。 受は水面の泡のようであり、生じては滅し、長く留まることはできません。 想は陽炎のようであり、生じては滅し、長く留まることはできません。 行は芭蕉の幹のようであり、生じては滅し、長く留まることはできません。 識は幻術のようであり、生じては滅し、長く留まることはできません。 これが五蘊を知るということです。

「是菩薩聞是法已，受持修學廣分別已，即知內入。所謂眼入、耳鼻舌身意入，是名內六入。眼入即是苦法老法死法、空無我無我所、熾然三毒。生老病死憂悲苦惱亦能熾然諸苦惱法，耳鼻舌身意亦如是，熾然三毒乃至諸苦。是名知內六入。復次知外六入，眼所見色是名外六入，耳所聞聲、鼻所嗅香、舌所甞味、身所覺觸、意所知法，是名外六入。眼所見色是外入，不堅牢性、無所依止、亦無勢力，一切無常，如實非不如實，如幻如化。耳所聞聲、鼻所嗅香、舌所甞味、身所覺觸、意所知法亦如是，是名知外六入。

> 菩薩はこの教えを聞き、受け入れ、学び、広く理解した後、内なる六つの入処を知るようになります。すなわち、眼の入処、耳・鼻・舌・身・意の入処、これらを内六入といいます。 眼の入処とは、苦しみの法であり、老いの法であり、死の法であり、空であり、我がなく、我が所有するものもなく、貪り・怒り・愚かさの三毒を燃え上がらせるものです。生・老・病・死、憂い・悲しみ・苦しみ・悩みもまた、あらゆる苦しみの法を燃え上がらせます。耳・鼻・舌・身・意もまた同じで、三毒を燃え上がらせ、さらにはあらゆる苦しみに至ります。これが内六入を知ることです。 さらに、外なる六つの入処を知ります。眼が見る色、これが外六入です。耳が聞く声、鼻が嗅ぐ香り、舌が味わう味、身が感じる触れ、意が知る法、これらが外六入です。 眼が見る色という外入は、堅固でなく、よりどころがなく、力もなく、すべては無常です。それは真実のとおりであり、真実でないわけではなく、幻のようであり、化け物のようです。耳が聞く声、鼻が嗅ぐ香り、舌が味わう味、身が感じる触れ、意が知る法もまた同じです。これが外六入を知ることです。

「是菩薩聞如是法已，受持修學廣分別已，即知四聖諦。所謂苦聖諦、集聖諦、滅聖諦、道聖諦，是名四聖諦。云何苦聖諦？若五陰、六界、內六入、外六入，是名苦。此苦無常，喻如怨賊，如癰如箭、如獄閉繫、如器壞敗，是不自在即是無我。得如是知已，是名知苦聖諦。云何集聖諦？所謂貪恚癡慢我慢專取於我，決定計我常住不壞。我即是色、我異於色。我即是想、我異於想。我是想非想、我異想非想。我即是陰、我異於陰。我中有陰、陰中有我。我即是界入、我異界入。我中有界入、界入中有我。我即是受、我異於受。我即是知、我異於知。我是無受、我異無受。我是色少、我異色少。我是色多、我異色多。我是常、我是無常。我是常無常、我是非常非無常。我是有邊、我是無邊、我是有邊無邊、我是非有邊非無邊。死後如去、死後不如去、死後亦如去亦不如去、死後非如去非不如去。命即是身、身即是命。此眾生從何處來、去至何處？此諸眾生即是斷滅非有相續，自作自受、他作他受。計有我者即有我所，有我所者即是有我。如是攝取我見身見，若結若使、若我我所。我受貪恚癡本，若總身口意業、若福業若罪業、若欲界業、若色無色界業，是名集聖諦。云何滅聖諦？若貪恚癡盡、我我所盡、受取有盡，是名滅聖諦。云何道聖諦？若見苦集盡，思惟一切有為過患，見涅槃寂靜，所作已辦，住如是法時，正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定，是名道聖諦。如是知四聖諦，是菩薩分別思惟四聖諦時，見有為法是苦、是無常、是空、是無我。見無為法能為覆護、是舍是依，雖作是觀不證涅槃。如是知四聖諦。

> この菩薩は、このような法を聞き、受け持ち、学び、広く分別した後、ただちに四つの聖なる真理を知る。すなわち、苦の聖諦、集の聖諦、滅の聖諦、道の聖諦である。これが四聖諦と呼ばれる。 苦の聖諦とは何か。五蘊、六界、内なる六入、外なる六入、これが苦である。この苦は無常であり、譬えば怨敵のようであり、腫れ物のようであり、矢のようであり、牢獄に閉じ込められたようであり、壊れた器のようである。これは自在ならず、すなわち無我である。このように知ることができたなら、これを苦の聖諦を知るという。 集の聖諦とは何か。すなわち、貪り、怒り、愚かさ、慢心、我慢、そして「私」というものに執着し、「私」は常住不壊であると決めつけることである。「私は色である」「私は色とは異なる」「私は想である」「私は想とは異なる」「私は想であり、かつ想でない」「私は想であり、かつ想でないものとは異なる」「私は蘊である」「私は蘊とは異なる」「私の中に蘊がある」「蘊の中に私がある」「私は界や入である」「私は界や入とは異なる」「私の中に界や入がある」「界や入の中に私がある」「私は受である」「私は受とは異なる」「私は知である」「私は知とは異なる」「私は無受である」「私は無受とは異なる」「私は色が少ない」「私は色が少ないものとは異なる」「私は色が多い」「私は色が多いものとは異なる」「私は常住である」「私は無常である」「私は常住でもあり無常でもある」「私は常住でもなく無常でもない」「私は有限である」「私は無限である」「私は有限でもあり無限でもある」「私は有限でもなく無限でもない」「死後も存在し続ける」「死後は存在しない」「死後も存在し、また存在しない」「死後は存在せず、また存在しないでもない」「命は身体である」「身体は命である」「この衆生はどこから来て、どこへ去るのか」「これらの衆生は断滅であり、連続はない」「自らが作り、自らが受ける」「他者が作り、他者が受ける」「『私』があると考える者には『私のもの』があり、『私のもの』がある者には『私』がある」というように、「私」という見解、「身体」という見解、様々な煩悩や束縛、「私」や「私のもの」を抱え込むこと。これが貪り、怒り、愚かさの根本であり、身・口・意によるすべての行い、福となる行い、罪となる行い、欲界の行い、色界・無色界の行いを総じて集の聖諦という。 滅の聖諦とは何か。貪り、怒り、愚かさが尽き、「私」や「私のもの」が尽き、受取と存在が尽きることである。これを滅の聖諦という。 道の聖諦とは何か。苦と集が尽きることを見、一切の有為の過患を思惟し、涅槃の寂静を見て、なすべきことを成し遂げ、このような法に安住するとき、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定が現れる。これを道の聖諦という。 このように四聖諦を知る。菩薩が四聖諦を分別し思惟するとき、有為の法は苦であり、無常であり、空であり、無我であると見る。無為の法は覆い護るもの、捨てるべき依り所であると見る。このように観じても、涅槃を証することはない。これが四聖諦を知るということである。

「是菩薩聞如是法已，受持修學廣分別已，即知十二因緣。所謂無明緣行、行緣識、識緣名色、名色緣六入、六入緣觸、觸緣受、受緣愛、愛緣取、取緣有、有緣生、生緣老死，是名十二因緣。若不知不見四聖諦、十二因緣，是名無明。若有身口意業，若福業、若罪業，若欲界繫、色無色界繫，是名行。若有心意識，是名識。若有受想思觸思惟，是名名。若有四大、四大所造色，從歌羅羅乃至化生，若作色、非作色，是名色。名色合故名名色。若眼耳鼻舌身意，是名六入。若眼緣色生眼識，三法和合故生觸，是名觸。若有苦受、樂受、不苦不樂受，是名受。若有愛染，是名愛。若有愛見戒取，是名取。若有色受想行識，是名有。若此有發起，是名生。若此有衰變，是名老。若此有滅壞，是名死。菩薩如是分別思惟十二因緣，見聞覺知地非是我不生愛著，我非地不生愛著，亦非悕望。水火風空識亦如是。見聞覺知涅槃非我不生愛著，我非涅槃不生愛著，亦非悕望。是菩薩見諸法從因緣起，知三解脫門，廣修學見諸法空、無相、無作。是菩薩見諸法從因緣起，知寂滅樂，精勤修學廣分別已，則無明滅。無明滅則行滅，行滅則識滅，識滅則名色滅，名色滅則六入滅，六入滅則觸滅，觸滅則受滅，受滅則愛滅，愛滅則取滅，取滅則有滅，有滅則生滅，生滅則老死滅。如是菩薩雖觀十二因緣起滅而不證於滅。菩薩如是知十二因緣。

> この菩薩はこのような教えを聞き、受けとめ、修め、学び、広く分別した後、ただちに十二因縁を知るのである。 すなわち、無明が縁となって行が生じ、行が縁となって識が生じ、識が縁となって名色が生じ、名色が縁となって六入が生じ、六入が縁となって触が生じ、触が縁となって受が生じ、受が縁となって愛が生じ、愛が縁となって取が生じ、取が縁となって有が生じ、有が縁となって生が生じ、生が縁となって老死が生じる。これを十二因縁という。 もし四聖諦と十二因縁を知らず、見なければ、これを無明という。 もし身・口・意による行いがあり、福業や罪業があり、欲界に縛られ、色界・無色界に縛られるならば、これを行という。 もし心・意・識があるならば、これを識という。 もし受・想・思・触・思惟があるならば、これを名という。 もし四大（地・水・火・風）と、四大によって造られた色があり、胎児の段階から化生に至るまで、作られた色、作られざる色があるならば、これを色という。 名と色が合わさるゆえに名色という。 もし眼・耳・鼻・舌・身・意があるならば、これを六入という。 もし眼が色を縁として眼識が生じ、三つ（眼・色・眼識）が和合して触が生じるならば、これを触という。 もし苦受・楽受・不苦不楽受があるならば、これを受という。 もし愛染があるならば、これを愛という。 もし愛による見解や戒律への執着があるならば、これを取という。 もし色・受・想・行・識があるならば、これを有という。 もしこの有が発起するならば、これを生という。 もしこの有が衰え変わるならば、これを老という。 もしこの有が滅び壊れるならば、これを死という。 菩薩はこのように十二因縁を分別し、思惟する。 地（大地）を見聞覚知しても、それは私ではないと知り愛着せず、私が地ではないと知り愛着せず、また望みもしない。 水・火・風・空・識についても同様である。 涅槃を見聞覚知しても、それは私ではないと知り愛着せず、私が涅槃ではないと知り愛着せず、また望みもしない。 この菩薩は、すべての法が因縁によって起こるのを見て、三つの解脱の門（空・無相・無作）を知り、広く修め学び、すべての法が空であり、相がなく、作られざるものであると見る。 この菩薩は、すべての法が因縁によって起こるのを見て、寂滅の楽しみを知り、精勤して修め学び、広く分別した後、無明が滅する。 無明が滅すれば行が滅し、行が滅すれば識が滅し、識が滅すれば名色が滅し、名色が滅すれば六入が滅し、六入が滅すれば触が滅し、触が滅すれば受が滅し、受が滅すれば愛が滅し、愛が滅すれば取が滅し、取が滅すれば有が滅し、有が滅すれば生が滅し、生が滅すれば老死が滅する。 このように菩薩は、十二因縁の起こりと滅びを観じながらも、その滅びに証入することはない。 菩薩はこのようにして十二因縁を知るのである。

「是菩薩聞是法已，一心受持修學，廣分別已即知三世，所謂過去、未來、現在。云何過去世？若法生已滅，是名過去世。云何未來世？若法未生未起，是名未來世。云何現在世？若法生已未滅，是名現在世。是菩薩念過去世諸不善根，輕毀可惡背捨離之。未來不善根，當受不善果報，不喜不愛不可適意。現在不善根，當令不起。是菩薩能攝護身口意業及六情根，常起善業無有中間。於過去善根，是菩薩菩提心，專念菩提、悕望菩提、欲得菩提，以深重愛樂願一切眾生得度得解脫，為得一切智具足一切佛法故。未來世現在世亦如是，常不離是心，終不懈怠失念放逸。若過去世陰界入等，即是滅盡、不實不在、無我無我所。若未來世陰界入等，是未生未起，無我無我所。若現在陰界入，是念念不住。何以故？世法無有一念住者。若有一念，是一念中亦有生住滅，是生住滅亦復不住。如生住滅中有內外陰界入，是內外陰界入亦有生住滅。若如是不住者，即是非我非我所。若過去世滅盡、不實不在、非我非我所。若未來世未生未起，非我非我所。若現在念念不住，是非我非我所。若見三世非我非我所，是名實智慧者。不見我我所、是我我所，是即於諸有行無我無我所，行離欲想、行斷想行滅想，雖作是行不證涅槃。是名知三世。

> この菩薩はこの法を聞いた後、一心に受け持ち学び修め、広く分別して三世を知る。すなわち過去、未来、現在である。 何が過去世か。もし法が生じてすでに滅したなら、これを過去世という。 何が未来世か。もし法がまだ生ぜず、まだ起こらないなら、これを未来世という。 何が現在世か。もし法が生じてまだ滅していないなら、これを現在世という。 この菩薩は、過去世の諸々の不善の根（原因）を思い、軽んじ蔑み、嫌うべきものとして背き捨て離れる。未来の不善の根は、不善の果報を受けるべきもので、喜ばず愛さず、心に適わないものとする。現在の不善の根は、起こさないようにする。 この菩薩は、身・口・意の三業と六つの感覚器官（六情根）を守り、常に善い業を起こし、途切れることがない。 過去の善い根については、この菩薩は菩提心を起こし、菩提に専念し、菩提を願い求め、菩提を得ようとし、深く重く愛し楽しんで、一切の衆生が救われ解脱することを願い、一切智を得て一切の仏法を具足するためである。 未来世・現在世についても同様に、常にこの心を離れず、終に懈怠（怠り）や失念（心を失うこと）や放逸（気ままな振る舞い）に陥らない。 もし過去世の五陰・十八界・十二入などは、すでに滅し尽くし、実在せず存在せず、我もなく我の所有もない。 もし未来世の五陰・十八界・十二入などは、まだ生ぜず起こらず、我もなく我の所有もない。 もし現在の五陰・界・入は、一瞬一瞬に留まることがない。なぜか。世の法には一瞬でも留まるものはないからである。もし一瞬があるなら、その一瞬の中にも生・住・滅があり、この生・住・滅もまた留まらない。 生・住・滅の中に内と外の五陰・界・入があるように、この内と外の五陰・界・入にも生・住・滅がある。もしこのように留まらないなら、すなわち我でもなく我の所有でもない。 もし過去世が滅し尽くし、実在せず存在せず、我でもなく我の所有でもないなら。もし未来世がまだ生ぜず起こらず、我でもなく我の所有でもないなら。もし現在が一瞬一瞬に留まらず、我でもなく我の所有でもないなら。 もし三世が我でもなく我の所有でもないと見るなら、これを真実の智慧を持つ者という。我や我の所有を見ず、我や我の所有であると見ず、すなわち諸々の存在するもの（諸有行）において我もなく我の所有もなく、欲想を離れ、断想を行い、滅想を行う。このような行いをしながらも涅槃を証さない。これを三世を知るという。

「是菩薩聞是法已，受持修學廣分別已，即知三乘。所謂天乘、梵乘、聖乘。云何天乘？初禪二禪三禪四禪，是名天乘。云何梵乘？慈悲喜捨是名梵乘。云何聖乘？正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定，是名聖乘。是菩薩時時修集天乘梵乘聖乘，教化眾生令住三乘，是時自身不證解脫，是名知三乘。復次知三乘，所謂聲聞乘、緣覺乘、大乘。云何聲聞乘？軟根解脫，於一念中離三有窟宅，樂欲出世欲得涅槃見寂滅處，勤加精進如救頭然。若其未解四聖諦者，欲以智箭射四諦的，欲證欲解以深欲精進，是名聲聞乘。云何辟支佛乘？中根解脫，欲得寂靜獨在一處，而自利益入寂靜定，方便分別十二因緣，欲得緣覺道、欲證緣覺，是名緣覺乘。云何大乘？上根解脫，欲令一切眾生得度得解脫，為得一切智具足一切佛法六波羅蜜，欲利益一切世界，欲斷一切眾生苦惱，於一切世界五欲樂中心尚輕賤，何況世間無量諸苦。欲令眾生持無上戒，欲得聞見大乘經典，受持修學思惟分別，讀誦令利，勤加精進。若有菩薩修四攝法應往親近，欲令眾生攝真智慧安住四攝。常欲得聞諸深法要，受持分別。欲令一切入於禪定，自捨己樂利益眾生，欲以自力隨他所樂令住三乘。雖作是化，常自安住無上道中，不壞不動心如金剛。常願欲得無上菩提，願求菩提是名大乘。是名知三乘。

> 菩薩はこの法を聞き、受け持ち修学し広く分別した後、ただちに三乗を知る。すなわち天乗、梵乗、聖乗である。天乗とは何か。初禅・二禅・三禅・四禅、これを天乗という。梵乗とは何か。慈・悲・喜・捨、これを梵乗という。聖乗とは何か。正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定、これを聖乗という。菩薩は常に天乗・梵乗・聖乗を修め集め、衆生を教化して三乗に住ましめる。その時、自らは解脱を証することなく、これを三乗を知るという。 さらに三乗を知る。すなわち声聞乗・縁覚乗・大乗である。声聞乗とは何か。柔らかな根性の解脱であり、一念のうちに三有の窟宅を離れ、出世を願い涅槃を得て寂滅の処を見ようとし、頭に火がついたかのように精進を加える。もし四聖諦をまだ解していなければ、智慧の矢をもって四諦の的を射んとし、証得し理解せんと深く欲し精進する。これを声聞乗という。 辟支仏乗とは何か。中ぐらいの根性の解脱であり、寂静を得て独り一処に在り、自ら利益を得て寂静定に入り、方便をもって十二因縁を分別し、縁覚道を得んとし、縁覚を証せんとする。これを縁覚乗という。 大乗とは何か。優れた根性の解脱であり、一切の衆生が度され解脱を得ることを願い、一切智を得て一切の仏法・六波羅蜜を具足し、一切の世界を利益し、一切の衆生の苦悩を断ち切ろうとする。一切の世界における五欲の楽でさえ心に軽んじ賤しむ。ましてや世間の無量の諸苦などなおさらである。衆生に無上の戒を持たせ、大乗の経典を聞き見て受け持ち修学し、思惟分別し、読誦して熟達させ、精進を加えたいと願う。もし菩薩が四摂法を修めるならば親しく近づき、衆生が真の智慧を摂取して四摂に安住するようにしたいと願う。常に深い法要を聞き、受け持ち分別したいと願う。一切を禅定に入らせ、自らの楽しみを捨てて衆生を利益し、自らの力をもって他者の好むところに随い三乗に住ましめたいと願う。このような教化を行っても、常に自らは無上の道に安住し、金剛のように心を壊さず動かさない。常に無上の菩提を得たいと願い、菩提を求めることを願う。これを大乗という。これを三乗を知るという。

「是菩薩聞是法已，受持修學廣分別已，即知方便。於佛法僧五體投地以此為業，於其所作願無上道。如是歸依發菩提心，若行若住若坐若臥、若飲食洗浴，於此事中更無餘心，但願無上菩提，常作如是廣博修學。是菩薩若始入定、若入定已，常願一切眾生得度得解脫故，為得一切智具足一切佛法故，欲於世界中尊，欲調伏一切眾生，欲於一切眾生中無能勝者，欲得最勝，欲教誡一切眾生，欲令一切眾生得寂滅，欲於一切法得成正覺。具學是菩薩若一切所作善根，願一切眾生無有恐怖，出三惡道滅無量苦，斷諸煩惱。令現在未來欲得緣覺乘者，願令具足。現在未來欲得大乘者，願令具足。願請一切世間所有現在未來諸佛世尊，住世一劫說法，令聖人眾隨佛在世而得和合。是菩薩如是思惟：『若在在處處，所有眾生所修善根，若欲生人中天上、若住聲聞乘、若住辟支佛乘，若愛語布施利益同事，願令具足。』是菩薩以是法故，於三時中讀誦通利思惟此法。所謂我今歸依一切世間在在處處所有諸佛佛法僧菩薩，頭面禮敬。諸佛威德無能勝者，其相甚妙。菩薩常應作如是念諸佛法僧，願令世間在在處處無有空處，所在方面常有諸佛，令我勸請留住一劫，說微妙法、呵責諸惡。若已作若今作，我今已得離一切惡，乃至一念中間，當願以一切善根令諸眾生壽命無量，住於一切諸善法中。如諸菩薩速轉法輪，令諸聖人得戒定慧解脫解脫知見。願令佛法常住於世利益眾生。生五道者悉得善根乃至敬禮諸佛。常住是願。是諸菩薩所有善願，令他眾生及其己身得妙威德善妙威德。若未來現在一切世間佛法僧寶，令住一劫無諸留難。及諸菩薩寶速令具足六波羅蜜，疾成阿耨多羅三藐三菩提亦無留難。欲令一切眾生斷除苦惱怖畏、行於喜樂，斷一切不善根、成就一切善根，隨如所願成就三乘，速疾成就諸波羅蜜，壽命無量而得解脫成無上道。乃至敬禮諸佛，常作是願。是菩薩欲令一切眾生斷諸苦惱，若一切世間在在處處所有諸佛乃至法身，願我以身奉施彼佛，欲令一切眾生得度成無上道，在所生處信敬三寶。以天香花奉養恒河沙等諸佛世尊，亦供養法僧及諸菩薩，令所奉寶如須彌山。一切世間在在處處所有眾生若有所須，七寶房舍、衣服飲食、醫藥臥具，悉當給與令無所乏。若有樂於忍辱精進持戒者，我當隨其所樂而為解說使成就勝法，令三寶具足修六波羅蜜疾成佛道。離諸惡法，善行實義身口意業，不退菩提樂於菩提，在在處處見佛菩薩常學善根，安止眾生於善法中。是菩薩自知及他所有善根，趣向智慧、思惟智慧，願欲令一切眾生得度得解脫故，為得一切智具足一切佛法故。是菩薩趣向思惟已，願令一切眾生得度得解脫故，為得一切智具足一切佛法故。是菩薩如是智慧，若無力能學，應如是思惟：『我今當勤加精進，時時漸漸斷於無明。我今復當倍加精進，時時漸漸學此智慧，令此智慧增廣具足，乃至生有終不懈怠生於憂愁。』如是菩薩發菩提心、念菩提心、修菩提心、悕望菩提心，是菩薩無量無邊善智慧。何以故？此慧於餘善慧中最勝第一，令一切世間眾生，發起無量智慧、發起無學智慧，生無漏智慧、生無學智慧。善臂！如是菩薩行此智慧，不以為難、以為喜樂，速疾具足般若波羅蜜。」

> この菩薩は、この法を聞き、受け持ち、学び広く分別した後、ただちに方便を知る。仏・法・僧に五体投地し、これを業とし、その行うところ、無上道を願う。このように帰依し菩提心を発し、歩くときも、立つときも、座るときも、臥すときも、飲食し洗浴するときも、この事の中にさらに余の心なく、ただ無上菩提を願い、常にこのように広く博く修学する。 この菩薩は、もし初めて定に入るときも、すでに定に入ったときも、常に一切の衆生が救われ解脱を得んことを願い、一切智を得て一切の仏法を具足せんがため、世界中で尊ばれんことを欲し、一切の衆生を調伏せんことを欲し、一切の衆生の中で勝る者なからんことを欲し、最勝を得んことを欲し、一切の衆生を教え戒めんことを欲し、一切の衆生が寂滅を得んことを欲し、一切の法において正覚を得んことを欲する。 具足して学ぶこの菩薩は、もし一切の行う善根があれば、一切の衆生に恐怖なく、三悪道を出で無量の苦を滅し、諸の煩悩を断ぜんことを願う。現在未来に縁覚乗を得んと欲する者があれば、具足せしめんことを願う。現在未来に大乗を得んと欲する者があれば、具足せしめんことを願う。一切の世間にあるすべての現在未来の諸仏世尊に請い、一劫の間世に住して説法し、聖人の衆が仏の在世に随って和合を得んことを願う。 この菩薩はこのように思惟する：『もしあらゆる所、すべての衆生の修する善根があれば、もし人中天上に生まれんと欲し、もし声聞乗に住し、もし辟支仏乗に住し、もし愛語・布施・利行・同事であれば、具足せしめんことを願う。』 この菩薩はこの法によって、三時にこの法を読誦し通達し思惟する。すなわち、私は今、一切の世間のあらゆる所にあるすべての諸仏・仏法・僧・菩薩に帰依し、頭面を地に接して礼敬する。諸仏の威徳は勝る者なく、その相は甚だ妙である。菩薩は常にこのように諸仏・法・僧を念じ、世間のあらゆる所に空しい所なく、すべての方角に常に諸仏ありて、私が勧請して一劫の間留まり住み、微妙な法を説き、諸の悪を呵責せしめんことを願う。もしすでに行ったこと、もし今行うこと、私は今すでに一切の悪を離れ、乃至一念の間にも、一切の善根をもって諸の衆生の寿命を無量ならしめ、一切の諸善法の中に住せしめんことを願う。諸の菩薩のように速やかに法輪を転じ、諸の聖人が戒・定・慧・解脱・解脱知見を得んことを願う。仏法が常に世に住して衆生を利益せしめんことを願う。五道に生ずる者がすべて善根を得、乃至諸仏を敬礼せしめんことを願う。常にこの願いに住する。 これらの菩薩のすべての善願は、他の衆生およびその己身が妙なる威徳、善妙なる威徳を得んことを願う。もし未来現在の一切の世間の仏・法・僧の宝があれば、一劫の間住して諸の留難なく、および諸の菩薩の宝が速やかに六波羅蜜を具足し、疾く阿耨多羅三藐三菩提を成じ、また留難なからんことを願う。一切の衆生が苦悩怖畏を断ち除き、喜楽を行じ、一切の不善根を断ち、一切の善根を成就し、その願うところに随って三乗を成就し、速やかに疾く諸の波羅蜜を成就し、寿命無量にして解脱を得て無上道を成ぜんことを欲する。乃至諸仏を敬礼し、常にこの願いを行う。 この菩薩は一切の衆生が諸の苦悩を断ぜんことを欲し、もし一切の世間のあらゆる所にあるすべての諸仏、乃至法身があれば、私が身を奉げて彼の仏に施し、一切の衆生が救われ無上道を成じ、生まれる所において三宝を信敬せしめんことを願う。天の香華をもって恒河沙などの諸仏世尊に奉養し、また法・僧および諸の菩薩を供養し、奉げる宝が須弥山のごとからんことを願う。一切の世間のあらゆる所にあるすべての衆生に、もし求めるものがあれば、七宝の房舎・衣服・飲食・医薬・臥具を、すべて与えて乏しきことなからんことを願う。もし忍辱・精進・持戒を楽しむ者があれば、私はその楽しむところに随って解説し、勝法を成就せしめ、三宝を具足し六波羅蜜を修して疾く仏道を成ぜしめんことを願う。諸の悪法を離れ、実義を善く行じ身口意の業とし、菩提に退かず菩提を楽しみ、あらゆる所で仏菩薩を見て常に善根を学び、衆生を善法の中に安住せしめんことを願う。 この菩薩は、自らおよび他のすべての善根を知り、智慧に向かい、智慧を思惟し、一切の衆生が救われ解脱を得んことを願い、一切智を得て一切の仏法を具足せんがためである。この菩薩は向かい思惟した後、一切の衆生が救われ解脱を得んことを願い、一切智を得て一切の仏法を具足せんがためである。 この菩薩のこのような智慧は、もし学ぶ力がなければ、このように思惟すべきである：『私は今、勤めて精進を加え、時々次第に無明を断じよう。私は今さらに精進を倍加し、時々次第にこの智慧を学び、この智慧を増広し具足せしめ、乃至生ある終わりまで懈怠せず憂愁を生ぜしめない。』 このように菩薩は菩提心を発し、菩提心を念じ、菩提心を修し、菩提心を希求する。この菩薩は無量無辺の善智慧である。なぜならば、この慧は余の善慧の中で最も勝れた第一のものであり、一切の世間の衆生に、無量の智慧を発起させ、無学の智慧を発起させ、無漏の智慧を生じさせ、無学の智慧を生じさせるからである。 善臂よ、このように菩薩はこの智慧を行じ、難しとせず喜楽とし、速やかに疾く般若波羅蜜を具足する。

佛說是經已，善臂菩薩歡喜讚言：「善哉善哉！」信受奉行。

> 仏陀がこの経を説き終えられると、善臂菩薩は喜んで讃えて言われました。「善きかな、善きかな！」と。そして、その教えを信じ受け、行じ奉りました。

## 大寶積經卷第九十四

> 大宝積経 第九十四巻