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title: "宗鏡錄 · 20"
description: "宗镜录是北宋高僧延寿大师编纂的一部重要佛教典籍，成书于10世纪。延寿大师为法眼宗第三代祖师，融会禅、教、净诸宗思想，主张禅教一致。全书共一百卷，以问答形式系统阐述佛教义理，内容涵盖心性论、修行法门、教相判释等核心议题，被誉为中国佛教的百科全书。该书在宋代即受皇室推崇，对后世禅宗发展影响深远，是研究中国佛教思想史的重要文献，在汉传佛教中具有承前启后的重要地位，至今仍为佛学研究者所重视。"
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## 宗鏡錄卷第二十

> 宗鏡録 巻第二十

慧日永明寺主智覺禪師延壽集

> 智覚禅師延寿集

夫正因佛性。眾生共有。經云。不由觀智所顯。則道常披露。云何異生。迷而不悟。

> 仏性はすべての生きとし生けるものに等しく備わっています。経典には「観智によってはじめて現れるものではないから、道は常に開かれている」と説かれています。それなのに、なぜ凡夫は迷い続けて悟らないのでしょうか。

答。智論云。眾生心性。猶如利刀。唯用割泥。泥無所成。刀日就損。理體常妙。眾生自麁。能善用之。即合本妙。又譬如一器中水淡味恒然。若著甘草則甜。下黃連則苦。眾生心水。亦復如是。起妄染則凡。冥真空則聖。其心之性。未嘗變異。如華嚴經偈云。譬如淨日月。皎鏡在虛空。影現於眾水。不為水所雜。菩薩淨法輪。當知亦如是。現世間心水。不為世所雜。如華嚴疏云。一切法有二。一是所迷。謂緣起不實。故如幻。緣成。故無性。二是能迷。遍計無物。故如空。妄計。故無相。又以不覺。故不知有。以不信。故不承當。但起無明。空成倒想。如夜繩不動。疑之為蛇。闇室本空。怖之有鬼。故知本無迷悟。妄有昇沈。昔迷悟而似迷。今悟迷而非悟。但以內見自隔。客塵所遮。於體上分遠近之情。向性中立凡聖之量。如勝思惟梵天所問經云。梵天問文殊師利。比丘云何親近於佛。答言。梵天。若比丘於諸法中。不見有法。若近若遠。是則名為親近於佛。大集經云。不覺一法。微相者。乃能了知如來出世。無出之出。即是佛出。是以若不見一法。常見諸佛。則千里同風。若見一法。不見諸佛。則對面胡越。故知背心合境。頓起塵勞。背境合心。圓照法界。何者。心是所依。法是能依。能依從所依起。如水是所依。波是能依。離水無波。離心無法。又心是能生。法是所生。如木能生火。木是能生。火是所生。離木無火。離心無法。故知不即心為道者。如千人排門。無一得入。若了心頓入者。猶一人拔關。能通萬彙。得宗鏡之要者。其斯謂乎。是以妙性無虧。迷悟自得。一法不動。向背俄分。如首楞嚴經云。佛言。富樓那。又汝問言。地水火風。本性圓融。周遍法界。疑水火性。不相陵滅。又徵虛空。及諸大地。俱遍法界。不合相容。富樓那。譬如虛空體非群相。而不拒彼諸相發揮。所以者何。富樓那。彼太虛空。日照則明。雲屯則暗。風搖則動。霽澄則清。氣凝則濁。土積成霾。水澄成映。於意云何。如是殊方諸有為相。為因彼生。為復空有。若彼所生。富樓那。且日照時。既是日明。十方世界同為日色。云何空中更見圓日。若是空明。空應自照。云何中宵雲霧之時。不生光曜。當知是明。非日非空。不異空日。觀相元妄。無可指陳。猶邀空華。結為空果。云何詰其相陵滅義。觀性元真。唯妙覺明。妙覺明心。先非水火。云何復問不相容者。真妙覺明。亦復如是。汝以空明。則有空現。地水火風各各發明。則各各現。若俱發明。則有俱現。云何俱現。富樓那。如一水中。現於日影。兩人同觀水中之日。東西各行。則各有日隨二人去。一東一西。先無準的。不應難言。此日是一。云何各行。各曰既雙。云何現一。宛轉虛妄。無可憑據。富樓那。汝以色空相傾相奪。於如來藏。而如來藏。隨為色空。周遍法界。是故於中。風動空澄。日明雲暗。眾生迷悶。背覺合塵。故發塵勞。有世間相。我以妙明不生不滅。合如來藏。而如來藏。唯妙覺明。圓照法界。故知妙覺明心。湛然不動。因業發現。隨為色空。周遍法界。眾生背其本覺。妄執情塵。翻於平等一真覺中。認所現差別之境界。隨發明處強說是非。如於虛空體中。定其差別。實謂虛妄顛倒。無理可憑。凡挂聖智真詮。悉為破其顛倒。若知顛倒不實。自然無法可論。如華嚴經云。以智入於一切佛法。為眾生說。令除顛倒。然知不離眾生有顛倒。不離顛倒有眾生。不於顛倒內有眾生。不於眾生內有顛倒。亦非顛倒是眾生。亦非眾生是顛倒。顛倒非內法。顛倒非外法。眾生非內法。眾生非外法。一切諸法。虛妄不實。速起速滅。無有堅固。如夢如影。如幻如化。誑惑愚夫。如疏釋云。經文有四對。前三對二互相望。後一對當體以辯。前三對中。前二不離。後一不即。即顯生之與倒。非即離也。眾生即能起顛倒之人。乃染分依他。顛倒即所起之妄。是遍計所執。初對明不離者。謂依似執實。故。離生無倒。依執似起。離倒無生。第二對明不相在。重釋前義。言不離者。明因果相待緣成。非先有體。二物相在。因中無果。故倒內無生。若必有者。則應遍計是依他起。果中無因。故生內無到若要令有者。則應無有不倒眾生。第三對明不即。不壞因果。能所遍計之二相故。由前三對。則知生倒非一非異。非即非離。第四對當體以辯。倒心託境方生。故非內法。若是內者。無境應有境。由情計。故非外法。若是外者。智者於境。不應不染。既非內外。寧在中間。則當體自虛。將何對他。以明即離。眾生亦爾。即蘊求無。故非內法。離蘊亦無。故非外法。既非內外。亦絕中間。本性自空。何能起倒。將何對他。明非即離。既如是知。則自無倒。為物說此倒惑自除。因謂由不達緣成不堅。妄生遍計。故云誑惑愚夫。實則愚夫自誑。若獼猴執月。非月執獼猴。又中觀論偈云。有倒不生倒。無倒不生倒。倒者不生倒。不倒亦不倒。若於顛倒時。亦不生顛倒。汝可自觀察。誰生於顛倒。已顛倒者。則更不生顛倒。已顛倒故。不顛倒者。亦不顛倒。無有顛倒。故顛倒時。亦無顛倒。有二過故。汝今除憍慢心。善自觀察。誰為顛倒者。復次諸顛倒不生。云何有此義。無有顛倒故。何有顛倒者。顛倒種種因緣破故。墮在不生。彼貪著不生。謂不生是顛倒實相。是故偈說。云。何名不生為顛倒。乃至無漏法。尚不名為不生相。何況顛倒是不生相。無顛倒何有顛倒者。因倒者有倒故。

> 答え。智論に云く、衆生の心性は、あたかも鋭利な刀のようなものである。ただ泥を割くために用いれば、泥は何も成さず、刀は日々損なわれていく。理の本体は常に妙なるものだが、衆生は自ら粗末である。よくこれを用いることができれば、すなわち本の妙にかなう。 また、たとえば一つの器の中の水は、淡い味が常にそうであるが、甘草を入れると甘くなり、黄連を下すと苦くなる。衆生の心の水もまた、このようである。妄りに染まれば凡夫となり、真空に冥すれば聖者となる。その心の性は、かつて変異したことがない。 華厳経の偈に云く、たとえば清浄な日月が、皎鏡として虚空にあるようなものだ。影はもろもろの水に現れるが、水によって混ざられることはない。菩薩の清浄な法輪も、まさにそのように知るべきである。世間の心の水に現れても、世によって混ざられることはない。 華厳疏に云く、一切の法に二つがある。一つは所迷、すなわち縁起は実ならざるがゆえに幻のごとし。縁によって成るがゆえに無性である。二つは能迷、すなわち遍計は物なし、ゆえに空のごとし。妄りに計るがゆえに無相である。 また、不覚ゆえに有ることを知らず、不信ゆえに承当しない。ただ無明を起こして、空しく倒想を成す。夜の縄が動かなくても、これを蛇と疑うようなものだ。暗い部屋はもともと空なのに、これを怖れて鬼がいると思う。ゆえに知る、もともと迷悟はなく、妄りに昇沈があることを。昔は迷って悟ったが迷のように見え、今は悟って迷ったが悟ではない。ただ内なる見によって自ら隔たり、客塵によって遮られている。体の上で遠近の情を分け、性に向かって凡聖の量を立てる。 勝思惟梵天所問経に云く、梵天が文殊師利に問うた。比丘はどうすれば仏に親近するのか。答えて言く、梵天よ、もし比丘がもろもろの法の中で、法が近いとか遠いとか見なければ、これすなわち仏に親近すると名づける。 大集経に云く、一法も覚らず、微かな相もなければ、よく如来の出世を知ることができる。出でない出、すなわちこれ仏の出である。ゆえに、もし一法も見なければ、常に諸仏を見る。すなわち千里同風である。もし一法を見て、諸仏を見なければ、すなわち対面しても胡越である。 ゆえに知る、心に背いて境に合えば、たちまち塵労を起こす。境に背いて心に合えば、円かに法界を照らす。なぜか。心は所依、法は能依である。能依は所依から起きる。水が所依で波が能依のようなものだ。水を離れて波はなく、心を離れて法はない。また心は能生、法は所生である。木が火を生じるようなものだ。木が能生で火が所生である。木を離れて火はなく、心を離れて法はない。 ゆえに知る、心を即さずして道とする者は、千人で門を排しても一人も入ることができないようなものだ。もし心を了じて頓に入れば、一人で関を抜いて万彙を通じることができるようなものだ。宗鏡の要を得た者とは、まさにこれを謂うのであろう。 このゆえに妙性は虧くことがなく、迷悟は自得である。一法も動かず、向背はたちまち分かれる。 首楞厳経に云く、仏言く、富楼那よ、また汝は問うた。地水火風は本性円融にして法界に周遍する。水火の性が互いに陵滅しないことを疑う。また虚空およびすべての大地がともに法界に遍じるならば、相容れないはずだと徴した。富楼那よ、たとえば虚空の体はもろもろの相ではないが、しかもそれらの諸相が発揮することを拒まない。なぜか。富楼那よ、かの太虚空は、日照れば明るく、雲屯すれば暗く、風揺れば動き、霽澄すれば清く、気凝れば濁り、土積れば霾となり、水澄めば映となる。 いかが思うか。このように異なる方向のもろもろの有為の相は、かのために生じるのか、それとも空に有るのか。もしかの所生ならば、富楼那よ、日照る時、すでに日の明であるならば、十方世界は同じく日色であるはずだ。なぜ空中にさらに円い日を見るのか。もし空の明ならば、空は自ら照るはずだ。なぜ真夜中に雲霧の時、光曜を生じないのか。まさに知るべきだ、この明は日でも空でもなく、空と日と異ならないことを。 相を観ればもともと妄であり、指し示すことはできない。ちょうど空華を邀めて空果を結ぶようなものだ。どうしてその相が陵滅する義を詰められようか。性を観ればもともと真であり、ただ妙覚明のみである。妙覚明の心は、もともと水火ではない。どうしてまた相容れないと問うのか。真妙覚明もまたこのようである。汝が空をもって明らかにすれば、空が現れる。地水火風がそれぞれ発明すれば、それぞれが現れる。もし俱に発明すれば、俱に現れる。どうして俱に現れるか。 富楼那よ、たとえば一つの水の中に日の影が現れるようなものだ。二人が同じく水中の日を観て、東西にそれぞれ行けば、それぞれの日に二人に従って去る。一は東、一は西で、もとより準的はない。まさに難じるべきではない、この日は一つであるのにどうしてそれぞれ行くのか、それぞれの日が既に双ならばどうして一つが現れるのかと。宛転として虚妄で、憑拠はない。 富楼那よ、汝は色空が相傾相奪すると如来蔵において考えるが、如来蔵は随って色空となり、法界に周遍する。ゆえにその中で、風動き空澄み、日明るく雲暗い。衆生は迷悶して覚に背き塵に合う。ゆえに塵労を発し、世間の相がある。私は妙明の不生不滅をもって如来蔵に合する。如来蔵はただ妙覚明のみで、円かに法界を照らす。 ゆえに知る、妙覚明の心は湛然として動かず、業によって発現し、随って色空となり、法界に周遍する。衆生はその本覚に背き、妄りに情塵を執り、平等一真の覚の中で翻って、現れる差別の境界を認める。発明の処に随って強いて是非を説く。虚空の体の中でその差別を定めるようなものだ。実に虚妄顛倒と謂い、理として憑るべきものはない。およそ聖智の真詮を掛けるものは、悉くその顛倒を破るためのものである。もし顛倒が実ならざることを知れば、自然に論ずべき法はない。 華厳経に云く、智をもって一切の仏法に入り、衆生のために説いて、顛倒を除かせる。しかし知る、衆生を離れて顛倒があるのではなく、顛倒を離れて衆生があるのではない。顛倒の中に衆生があるのではなく、衆生の中に顛倒があるのではない。また顛倒が衆生であるのではなく、衆生が顛倒であるのでもない。顛倒は内法ではなく、顛倒は外法ではない。衆生は内法ではなく、衆生は外法ではない。一切の諸法は虚妄不実で、速やかに起き速やかに滅し、堅固なものはない。夢のごとく影のごとく、幻のごとく化のごとく、愚夫を誑惑する。 疏の釈に云く、経文に四対がある。前三対は二が互いに望み、後の一対は当体で弁じる。前三対の中で、前二は不離、後一は不即である。すなわち生と倒が即でも離でもないことを顕す。衆生はすなわち能起の顛倒の人で、これは染分の依他である。顛倒はすなわち所起の妄で、これは遍計所執である。 初対は不離を明かす。似に依って実を執るがゆえに、生を離れて倒はない。執に依って似が起きるがゆえに、倒を離れて生はない。第二対は相在しないことを明かし、前の義を重ねて釈する。不離と言うのは、因果が相待して縁成し、先に体があるのではないことを明かす。二物が相在するのではない。因の中に果がないゆえに、倒の中に生はない。もし必ず有るならば、遍計は依他起であるはずだ。果の中に因がないゆえに、生の中に倒はない。もし有らしめようとすれば、不倒の衆生はないはずだ。第三対は不即を明かし、因果を壊さず、能所遍計の二相のゆえである。前三対によって、生と倒が一でも異でもなく、即でも離でもないことを知る。 第四対は当体で弁じる。倒心は境に託して方に生じるゆえに、内法ではない。もし内ならば、境がなくても有るはずだ。情計によるゆえに外法ではない。もし外ならば、智者は境に対して染まらないはずがない。既に内外でなければ、どうして中間にあろうか。すなわち当体自ら虚で、何をもって他に対して即離を明かそうか。衆生もまたそのようである。蘊に即して求めて無であるゆえに内法ではない。蘊を離れてもまた無であるゆえに外法ではない。既に内外でなければ、また中間も絶する。本性自ら空で、どうして倒を起せようか。何をもって他に対して即でも離でもないと明かそうか。 既にこのように知れば、自ら倒はない。物のためにこの倒惑を説けば自ら除かれる。因に謂く、縁成の不堅に達しないゆえに、妄りに遍計を生じる。ゆえに愚夫を誑惑すると云う。実には愚夫が自ら誑かすのである。猿猴が月を執るようなものだ。月が猿猴を執るのではない。 また中観論の偈に云く、有倒は倒を生ぜず、無倒も倒を生ぜず、倒者は倒を生ぜず、不倒もまた倒せず。もし顛倒の時にもまた顛倒を生ぜず。汝自ら観察すべきだ、誰が顛倒を生じるのかと。已に顛倒した者は、さらに顛倒を生じない。已に顛倒したゆえである。顛倒しない者もまた顛倒しない。顛倒がないゆえである。顛倒の時にもまた顛倒はない。二つの過があるゆえである。汝今憍慢の心を除いて、善く自ら観察せよ、誰が顛倒者なのかと。 また次に、諸顛倒は不生である。どうしてこの義があるのか。顛倒がないゆえに、どうして顛倒者がいようか。顛倒は種々の因縁によって破られるゆえに、不生に堕する。彼は不生に貪著して、不生は顛倒の実相であると謂う。このゆえに偈に説く、どうして不生を名づけて顛倒とするのかと。乃至無漏の法ですら、なお不生の相と名づけない。ましてや顛倒が不生の相であろうか。顛倒がなければどうして顛倒者がいようか。倒による者が倒があるゆえである。

問。云何一切顛倒。不成妄耶。

> 問い。どうしてすべての逆さまな見方が、誤りにならないのでしょうか。

答。只為因情所執。遂成虛妄。以執本空。妄即非妄。如起信鈔云。所執本空。與真心不動。迭相成立。只為所執本空。所以真心不動。只由真心不動。故得所執本空。何異萬像本空。明鏡不動。何謂真妄迭相成立。以迷真起妄。妄因真立。悟妄即真。真從妄顯。

> 答えていう。ただ情に執われるために、やがて虚妄となる。その執われるもとのものは本来空であるから、妄はすなわち妄ではない。『起信鈔』にいうように、執われるもとのものは本来空であり、真心は動かない。これらは互いに成立し合っている。ただ執われるもとのものが本来空であるからこそ、真心は動かない。ただ真心が動かないからこそ、執われるもとのものが本来空であることが得られる。これは、万物の像が本来空であり、明鏡が動かないのと何ら異なるところがない。何を真と妄が互いに成立し合うというのか。真に迷って妄を起こせば、妄は真によって成り立つ。妄を悟ればすなわち真であり、真は妄によって現れる。

問。如何得離倒不自誑無過耶。

> 問い。どうすれば誤った見方から離れ、自分を欺かず、過ちのない者となれるのでしょうか。

答如大集經云。如第五大。如第七情。如十九界。無出無入。無生無滅。無有造作。無心意識。乃名無過。

> 大集経に説かれているように、第五の大元素のごとく、第七の情識のごとく、第十九の界のごとくである。出ることもなく入ることもなく、生まれることも滅することもなく、造りなすこともなく、心・意・識もない。これこそが過ちのない境地である。

問。若心性本淨。云何說客塵染。

> 問い。もし心の本性がもともと清らかであるなら、なぜ客人のような塵（煩悩）に染まると説かれるのですか。

答心本清淨。迹亦清淨。體亦清淨。用亦清淨。以不離一心。別有清淨。以妄塵不能染。真法不能淨。何者。離心無異法。豈有染能染耶。亦離心無真法。豈有淨能淨耶。則刀不能自割。指不能自觸。大莊嚴論偈云。已說心性淨。而為客塵染。不離心真如。別有心性淨。不離心之真如。別有異心。謂依他相。說。為自性清淨。此中應知。說心真如。名之為心。即說此心。為自性清淨。此心即是阿摩羅識。又一切眾生。未見性者。雖客塵所隱。五陰所埋。任經生死往來。其性不昧。或遇善友開發。終自顯明。以是出世間常住心寶。豈世間無常敗壞生滅之法。而能墮壞。如貧女室中金藏。雖未掘而匪移。若力士額上寶珠。任鬪沒而常在。猶雪山筩中藥味。暫流出而恒存。如大地底下金剛。縱穿斵而不壞。是以大涅槃經云。迦葉菩薩白佛言。世尊。我從今日。始得正見。世尊。自是之前。我等悉名邪見之人。世尊。二十五有。有我。不也。佛言。善男子。我者。即是如來藏義。一切眾生。悉有佛性。即是我義。如是我義。從本已來。常為無量煩惱所覆。是故眾生不能得見。善男子。如貧女人。舍內多真金之藏。家人大小。無有知者。時有異人。善知方便。語貧女人。我今雇汝。汝可為我耘除草穢。女即答言。我不能也。汝若能示我子金藏。然後乃當速為汝作。是人復言。我知方便。能示汝子。女人答言。我家大小。尚自不知。況汝能知。是人復言。我今審能。女人答言。我亦欲見并可示我。是人即於其家。掘出真金之藏。女人見已。心生歡喜。生奇特想。宗仰是人。善男子。眾生佛性。亦復如是。一切眾生。不能得見。如彼寶藏。貧人不知。善男子。我今普示一切眾生。所有佛性。為諸煩惱之所覆蔽。如彼貧人。有真金藏。不能得見。如來今日。普示眾生諸覺寶藏。所謂佛性。而諸眾生。見是事已。心生歡喜。歸仰如來。善方便者。即是如來。貧女人者。即是一切無量眾生。真金藏者。即佛性也。乃至譬如王家。有大力士。其人眉間有金剛珠。與餘力士。角力相撲。而彼力士。以頭觝觸。其額上珠。尋沒膚中。都不自知。是珠所在。其處有瘡。即命良醫。欲自療治。時有明醫。善知方藥。即如是瘡。因珠入體。是珠入皮。即便停住。是時良醫。尋問力士。卿額上珠。為何所在。力士驚答。大師醫王。我額上珠。乃無去耶。是珠今者。為何所在。將非幻化。憂愁啼哭。是時良醫。慰喻力士。汝今不應生大愁苦。汝因鬪時。寶珠入體。今在皮裏。影現於外。汝曹鬪時。瞋恚毒盛。珠陷入體。故不自知。是時力士。不信醫言。若在皮裏。膿血不淨。何緣不出。若在筋裏。不應可見。汝今云何欺誑於我。時醫執鏡。以照其面。珠在鏡中。明了顯現。力士見已。心懷驚怪。生奇特想。善男子。一切眾生。亦復如是。不能親近善知識故。雖有佛性。皆不能見。而為貪婬。瞋恚愚癡。之所覆蔽。故墮地獄。畜生。餓鬼。阿脩羅旃陀羅。剎利婆羅門毘舍首陀。生如是等種種家中。因心所起種種業緣。雖受人身。聾盲瘖瘂。拘躄癃跛。於二十五有。受諸果報。貪婬瞋恚愚癡覆心。不知佛性。如彼力士。寶珠在體。謂呼失去。眾生亦爾。不知親近善知識故。不識如來微密寶藏。修學無我。喻如非聖。雖說有我。亦復不知我之真性。我諸弟子。亦復如是。不知親近善知識故。修學無我。亦復不知無我之處。尚自不知無我真性。況復能知有我真性。善男子。如來如是。說諸眾生。皆有佛性。喻如良醫示彼力士。金剛寶珠。是諸眾生。為諸無量億煩惱等之所覆蔽。不識佛性。若盡煩惱。爾時乃得證知了了。如彼力士。於明鏡中。見其寶珠。善男子。如來祕藏。如是無量不可思議。復次善男子。譬如雪山。有一味藥。名曰樂味。其味極甜。在深叢下。人無能見。有人聞香。即知其地。當有是藥。過去往世。有轉輪王。於此雪山。為此藥故。在在處處。造作木筩。以接是藥。是藥熟時。從地流出。集木筩中。其味真正。王既沒已。其後是藥。或醋或鹹。或甜或苦。或辛或淡。如是一味。隨其流處有種種異。是藥真味。停留在山。猶如滿月。凡人薄福。雖以钁斸。加功困苦。而不能得。復有聖王。出現於世。以福因緣。即得是藥真正之味。善男子。如來祕藏。其味亦爾。為諸煩惱叢林所覆。無明眾生不能得見。一味藥者。喻如佛性。以煩惱故。出種種味。所謂地獄。畜生。餓鬼。天人男女。非男非女。剎利。婆羅門毘舍首陀。佛性雄猛。難可沮壞。是故無有能殺害者。若有殺者。則斷佛性。如是佛性。終不可斷。性若可斷。無有是處。如我性者。即是如來祕密之藏。如是祕藏。一切無能同沮壞燒滅。雖不可壞。然不可見。若得成就阿耨多羅三藐三菩提。爾乃證知。以是因緣。無能殺者。迦葉菩薩。復白佛言。世尊。若無殺者。應當無有不善之業。佛告迦葉。實殺生。何以故。善男子。眾生佛性。住五陰中。若壞五陰。名曰殺生。若有殺生。即墮惡趣。以業因緣。而有剎利。婆羅門等毘舍首陀。及旃陀羅。若男若女。非男非女。二十五有差別之相。流轉生死。非聖之人。橫計於我。大小諸相。猶若稗子。或言如豆。乃至拇指。如是種種妄生憶想。妄想之相。無有真實。出世我相。名為佛性。如是計我。是名最善。復次善男子。譬如有人。善知伏藏。即取利钁斸地直下。磐石沙礫。直過無難。唯至金剛。不能穿徹。夫金剛者。所有刀斧不能沮壞。善男子。眾生佛性。亦復如是。一切論者。天魔波旬。及諸人天。所不能壞。五陰之相。即是起作。起作之相。喻若石沙。可穿可壞。佛性者。喻如金剛。不可沮壞。以是義故。壞五陰者。名為殺生。善男子。必定當知佛法。如是不可思議。是知雖有佛性。久翳塵勞。須以止觀熏修。乃得明淨。如貧女得藏中之寶。猶力士見鏡裏之珠。方親悟自心妙覺圓滿。又如何行於止觀。得契真修。但了能觀之心。所觀之境。各各性離。即妄心自息。此名為止。常作此觀。不失其照。故名為觀。斯則即止即觀。即觀即止。無能所觀。是名止觀。如先德云。法性寂然名止。寂而常照名觀。非能所觀。有其二事。所以華嚴經頌云。若有欲知佛境界。當淨其意如虛空。遠離妄想及諸取。令心所向。皆無礙。疏釋云。一離妄取。如彼淨空無雲翳故。斯即真止。二觸境無滯。如彼淨空無障礙故。斯即真觀。此觀。不作意以照境。則所照無涯。此止。體性離而息妄故。諸趣皆寂。若斯則不拂不瑩。而自淨矣。無淨之淨。乃冥契法原。不修之修。則闇蹈佛境矣。故知唯一心真智。是我本身。湛然常存。現前明淨。自然以智慧嘴。啄破無明㲉。飛出三界。自在無礙。此時方得見性了然。更有何法而堪比對。如丹霞孤寂吟云。不迷須有不迷心。看時淺淺用時深。此箇真珠若採事。豈同樵客負黃金。黃金烹鍊轉為新。此珠含光未示人。了則毛端吞巨海。始知大地一微塵。

> 心の本性はもともと清らかです。その現れも清らかであり、本体も清らかであり、働きも清らかです。なぜなら、一心を離れて別に清らかなものがあるわけではなく、迷いの塵がそれを汚すこともできず、真実の法がそれを清らかにすることもできないからです。なぜでしょうか。心を離れて別の法は存在しないのですから、どうして汚れが汚すことなどできましょうか。また心を離れて真実の法は存在しないのですから、どうして清らかさが清らかにすることなどできましょうか。ちょうど刀が自分自身を切ることができず、指が自分自身に触れることができないのと同じです。大荘厳論の偈にこうあります。「心性は清らかであるとすでに説かれたが、それは客塵に汚されている。心を離れた真如があるのではなく、別に心性の清らかさがあるのでもない。」心の真如を離れて別の心があるのではなく、依他起の相に依って説かれたものを自性清浄といいます。ここで知るべきは、心の真如を説いてそれを心と名づけ、この心を自性清浄と説くということです。この心こそが阿摩羅識です。また、すべての衆生は、まだ本性を見ていない者であっても、客塵に隠され五陰に埋もれていても、生死を経て往来するままに、その本性は曇ることがありません。あるいは善き友に出会って開かれ、ついには自ら明らかになるでしょう。これは出世間の常住なる心の宝ですから、どうして世間の無常で壊れ生滅する法が、それを堕落させ壊すことができましょうか。貧しい女の家の中の金蔵が、まだ掘られなくてもなくなったりしないように。力士の額の宝珠が、戦いの中に没しても常に存在するように。雪山の竹筒の中の薬の味が、一時流れ出ても永遠に保たれるように。大地の底の金剛が、いくら穿っても砕けないように。それゆえ大涅槃経にこうあります。迦葉菩薩が仏に申し上げました。「世尊、私は今日から初めて正見を得ました。世尊、これより前は、私たちはみな邪見の人と呼ばれておりました。世尊、二十五有に我はあるのでしょうか、ないのでしょうか。」仏はおっしゃいました。「善男子よ、我とはすなわち如来蔵の義である。すべての衆生に仏性がそなわっている、これが我の義である。このような我の義は、もとより常に無量の煩悩に覆われているため、衆生は見ることができない。善男子よ、たとえば貧しい女の家に真金の蔵が多くあっても、家族の大小だれもそれを知らないようなものである。そこへある異人が、巧みな方法を知っていて、貧しい女に言った。『私があなたを雇いましょう。あなたは私のために草や汚れを取り除いてください。』女は答えた。『私はできません。もしあなたが私の子の金蔵を教えてくださるなら、そのときはすぐにあなたのために働きましょう。』その人はまた言った。『私は方法を知っており、あなたの子を示すことができます。』女は答えた。『私の家族の者でさえまだ知らないのに、ましてあなたがどうして知れましょうか。』その人はまた言った。『私は確かにできます。』女は答えた。『私も見たいのです。どうか私に示してください。』その人はすぐにその家で真金の蔵を掘り出した。女は見て、心に歓喜を生じ、不思議な思いを抱き、その人を尊び仰いだ。善男子よ、衆生の仏性もまた同じである。すべての衆生は見ることができない。あの宝蔵を貧しい人が知らないように。善男子よ、私が今、すべての衆生に、すべての仏性が諸々の煩悩に覆われ蔽われているのを普遍的に示すのは、あの貧しい人に真金の蔵があって見ることができないようなものである。如来は今日、衆生に諸々の覚りの宝蔵、すなわち仏性を普遍的に示すのである。そして衆生はこの事を見て、心に歓喜を生じ、如来に帰依し仰ぐのである。善き方便とはすなわち如来である。貧しい女とはすなわちすべての無量の衆生である。真金の蔵とはすなわち仏性である。」さらには、たとえば王家に大力士がいて、その人の眉間に金剛珠があったとします。他の力士と力比べをして相撲をとりました。その力士が頭でぶつかったとき、額の珠がたちまち皮膚の中に没してしまい、自分でもその珠がどこにあるのか全く分かりませんでした。その場所には傷ができ、良医を呼んで自分で治そうとしました。そこに明るい医者がいて、処方をよく知っており、この傷は珠が体に入ったためだと知りました。この珠は皮に入ってそのまま留まっているのでした。そこで良医は力士に尋ねました。「あなたの額の珠はどこにあるのですか。」力士は驚いて答えました。「大師医王よ、私の額の珠はなくなってはいないのでしょうね。この珠は今どこにあるのでしょうか。まさか幻ではないでしょうね。」と憂愁のあまり泣きました。そこで良医は力士を慰めて言いました。「あなたは今、大きな愁いと苦しみを起こすべきではありません。あなたが戦ったときに宝珠が体に入り、今は皮の中にあり、その影が外に現れています。あなたたちが戦ったとき、瞋恚の毒が盛んで、珠が体に沈み込んだので、自分では分からないのです。」このとき力士は医者の言葉を信じませんでした。「もし皮の中にあるなら、膿や血の不浄の中にありながら、どうして外に出てこないのか。もし筋の中にあるなら、見えるはずがない。あなたは今どうして私を欺くのか。」そこで医者は鏡を持ち、その顔を照らしました。珠は鏡の中にあり、明らかに現れました。力士は見て、心に驚きの思いを抱き、不思議な思いを生じました。善男子よ、すべての衆生もまた同じです。善知識に親しむことができないため、仏性があってもみな見ることができません。そして貪婬・瞋恚・愚癡に覆われ蔽われているため、地獄・畜生・餓鬼・阿修羅・旃陀羅・刹利・婆羅門・毘舎・首陀など、このようなさまざまな家に生まれます。心から起こるさまざまな業の縁により、たとえ人身を受けても、聾・盲・唖・拘縮・癃・跛となり、二十五有においてさまざまな果報を受けます。貪婬・瞋恚・愚癡が心を覆い、仏性を知りません。あの力士が宝珠を体に持ちながら、失ったと叫ぶようなものです。衆生もまた同じです。善知識に親しむことを知らないため、如来の微密の宝蔵を知りません。無我を修学することを、聖ならざる者のたとえとします。我があると説いても、また我の真性を知りません。私の弟子たちもまた同じです。善知識に親しむことを知らないため、無我を修学しても、また無我のところを知りません。まだ自ら無我の真性を知らないのですから、ましてや我の真性を知ることができましょうか。善男子よ、如来はこのように、すべての衆生に仏性があると説きます。それは良医がかの力士に金剛宝珠を示すようなものです。これらの衆生は、無量億の煩悩などに覆われ蔽われて、仏性を認識できません。もし煩悩を尽くせば、そのとき初めて明らかに証知することができます。あの力士が明鏡の中にその宝珠を見るように。善男子よ、如来の秘蔵はこのように無量で不可思議です。さらに善男子よ、たとえば雪山に一味の薬があり、楽味という名で、その味は極めて甘く、深い茂みの下にあって人々は見ることができません。ある人が香りを聞いて、その地にこの薬があると知ります。過去の世に転輪王がいて、この雪山でこの薬のために、あちこちに木の筒を作ってこの薬を受けました。この薬が熟すとき、地から流れ出て木の筒に集まり、その味は真実でした。王が亡くなった後、この薬はあるときは酸っぱく、あるときは塩辛く、あるときは甘く、あるときは苦く、あるときは辛く、あるときは淡くなりました。このように一味が、その流れる場所に従ってさまざまに異なったのです。この薬の真の味は、山に留まり、ちょうど満月のようにありました。凡人は福が薄く、たとえ鍬で掘り、努力して苦労しても、得ることができませんでした。また聖王が世に出現し、福の因縁によって、この薬の真実の味を得ました。善男子よ、如来の秘蔵もその味は同じです。諸々の煩悩の叢林に覆われ、無明の衆生は見ることができません。一味の薬とは、仏性にたとえます。煩悩のため、さまざまな味が出ます。いわゆる地獄・畜生・餓鬼・天人・男女・非男非女・刹利・婆羅門・毘舎・首陀です。仏性は雄猛で、妨げ壊すことは困難です。それゆえ殺害できるものはありません。もし殺すものがあれば、仏性を断つことになります。このような仏性は、ついに断つことはできません。もし断つことができるなら、そのようなことはありえません。我の性とは、すなわち如来の秘密の蔵です。このような秘蔵は、すべてのものが同じく妨げ壊し焼き滅ぼすことはできません。壊すことはできなくても、見ることはできません。もし阿耨多羅三藐三菩提を成就すれば、そのとき初めて証知します。この因縁により、殺すことはできません。」迦葉菩薩がまた仏に申し上げました。「世尊、もし殺す者がいないなら、不善の業もないはずです。」仏は迦葉に告げました。「実に殺生はある。なぜなら、善男子よ、衆生の仏性は五陰の中に住んでいる。もし五陰を壊せば、これを殺生という。もし殺生があれば、悪趣に堕ちる。業の因縁によって、刹利・婆羅門などの毘舎・首陀、および旃陀羅、男・女・非男非女、二十五有の差別の相があり、生死を流転する。聖ならざる人は、横に我を計り、大小の諸相を、ちょうど稗子のように思い、あるいは豆のようだと言い、さらには拇指のようだと言う。このようにさまざまに妄りに憶想を生じ、妄想の相には真実がない。出世間の我の相を仏性と名づける。このように我を計ることを、最も善と名づける。さらに善男子よ、たとえばある人が伏蔵をよく知り、ただちに鋭い鍬で地をまっすぐに掘り下げ、磐石や砂礫をまっすぐに通り抜けて難なく、ただ金剛に至っては穿ち徹することができないようなものである。そもそも金剛は、すべての刀や斧が妨げ壊すことができない。善男子よ、衆生の仏性もまた同じである。すべての論者、天魔波旬、および諸々の人天が壊すことができない。五陰の相はすなわち起作であり、起作の相は石や砂にたとえ、穿つことができ壊すことができる。仏性は金剛にたとえ、妨げ壊すことができない。この義によって、五陰を壊すことを殺生と名づける。善男子よ、必ず仏法はこのように不可思議であると知るべきである。このことから、仏性があっても長く塵労に覆われているので、止観によって熏修しなければならず、そうして初めて明浄を得ることがわかります。貧しい女が蔵の中の宝を得るように。力士が鏡の中の珠を見るように。そこで初めて自心の妙覚が円満であることを親しく悟ります。ではどのように止観を行い、真修にかなうのでしょうか。ただ能観の心と所観の境が、それぞれに性を離れていると了知すれば、すなわち妄心は自ずから息みます。これを止と名づけます。常にこの観を行い、その照を失わなければ、これを観と名づけます。そうすればすなわち止はすなわち観であり、観はすなわち止であり、能観・所観はありません。これを止観と名づけます。先徳が言うように、法性が寂然たるを止と名づけ、寂にして常に照らすを観と名づけます。能所の観ではなく、その二つの事があるのです。それゆえ華厳経の頌にこうあります。「もし仏の境界を知らんと欲せば、まさにその意を浄めて虚空のごとくすべし。妄想および諸々の取を遠離し、心の向かうところをして皆な妨げなからしめよ。」疏の釈にこうあります。「一には妄取を離れる。あの浄き空に雲翳なきがごとし。これすなわち真止である。二には境に触れて滞りなし。あの浄き空に障礙なきがごとし。これすなわち真観である。この観は、意を作して境を照らさないので、照らすところに涯てがない。この止は、体性が離れて妄りを息めるので、諸趣はみな寂しい。もしこのようであれば、拂わず瑩めずして自ずから浄らかである。浄なきの浄は、すなわち冥々として法の源に契う。修めざるの修は、すなわち闇々として仏の境を踏むのである。」それゆえ、ただ一心の真智のみが我が本体であり、湛然として常に存し、現前に明浄であると知ります。自然に智慧の嘴で無明の殻をついばみ破り、三界を飛び出し、自在にして妨げがありません。このとき初めて性を見ることが了然とでき、さらに何の法が比べられましょうか。丹霞の孤寂吟にこうあります。「迷わざるには須らく不迷の心あるべし。見るときは浅々として用うるときは深し。この真珠、もし採る事あらば、豈に樵客の黄金を負うに同じか。黄金は烹錬して転た新たなり。この珠は光を含みて未だ人に示さず。了れば則ち毛端に巨海を呑み、始めて大地の一微塵なるを知る。」

問。諸佛心。遍一切眾生心。能現凡心。眾生身。遍一切諸佛身。能作聖體。為復轉動互遍而成。為當一體。

> 問います。諸仏の心は一切の衆生の心に遍く行き渡り、凡夫の心を現して、衆生の身に遍く及びます。また一切の諸仏の身に遍く行き渡り、聖なる体を成すことができます。これは、互いに移り変わって遍く成るのでしょうか、それとも一つの体なのでしょうか。

答。若言轉動。即成造作。若言互遍。則有二心。是以常住一心。猶若虛空之體。凡聖二號。還同空裏之華。青黃起滅雖殊。匪越太虛之性。迷悟昇沈有異。未離真覺之原。又如一室千燈。光光涉入。一鏡萬像。影影交羅。非異非同。不來不去。達斯旨者。唯佛洞知。是以萬有。即真。無轉變相。華嚴經云。知心如幻。出生一切諸法境界。周遍無盡。不匱不息。大集經云。住一心中。能知一切眾生諸心。觀眾生心。悉皆平等。如幻化相。本性清淨。觀諸眾生身業平等。皆如水月。見諸眾生悉在己身。己身亦在眾生身中。猶如影現。能令眾生悉作佛身。亦令己身作眾生身。一切無有能轉動者。又經頌云。諸佛一似大圓鏡。我身猶若摩尼珠。諸佛法身入我體。我身常入諸佛軀。雖然互入。而無所入。若有所入。即成二法。

> 答えていうならば、動きや移り変わりがあると言えば、それは作られたものになってしまいます。互いに遍く入り合うと言えば、二つの心があることになってしまいます。だからこそ、常に変わらない一つの心は、ちょうど虚空の本体のようなものです。凡夫と聖者という二つの名は、虚空に浮かぶ花のようなものにすぎません。青や黄が生まれては消えていくのは違っていても、広大な虚空の性質を超えるものではありません。迷いと悟り、昇ることと沈むことがあっても、真の覚りの源を離れることはありません。 また、一つの部屋に千の灯りがあれば、それぞれの光が互いに溶け合います。一つの鏡に万の姿が映れば、それぞれの影が交わり重なります。異なるのでもなく同じなのでもなく、来るのでもなく去るのでもありません。この道理を悟る者は、ただ仏だけが深く知っておられます。ですから、万物はそのまま真実であり、移り変わる姿はないのです。 華厳経にはこう説かれています。「心は幻のごとくであると知りなさい。すべての法の境界を生み出し、あまねく遍く果てしなく、尽きることも止まることもない。」 大集経にはこう説かれています。「一つの心にとどまりながら、すべての生きとし生けるものの心を知ることができる。生きとし生けるものの心を観れば、みな平等であり、幻のように現れた姿で、本来の性質は清らかである。生きとし生けるものの体の行いを観れば、みな平等であり、水に映る月のようである。すべての生きとし生けるものが自分の身の中にあり、自分の身もまた生きとし生けるものの身の中にあると見る。それはちょうど影が映るようなものである。すべての生きとし生けるものをことごとく仏の身とし、また自分の身を生きとし生けるものの身とすることができる。すべてのものに、動かすことのできるものは何もない。」 また経の頌にはこうあります。「諸仏は一つの大きな円い鏡のようであり、我が身はちょうど摩尼珠のようである。諸仏の法身が我が体に入り、我が身は常に諸仏の体に入る。」 こうして互いに入り合っていても、実際に入るものがあるわけではありません。もし入るものがあるとすれば、それは二つのものがあることになってしまいます。

問。若實心外無法。獨標宗者。無諸佛則無能化之人。無眾生則無所化之眾。全歸無寄。何以紹隆。

> 問います。もし本当に心の外に法がなく、ただ宗を標榜するだけならば、諸仏がいなければ人を教化する者はなく、衆生がいなければ教化されるべき者がないことになります。すべてが帰する所を失ってしまっては、どうやって仏の教えを継承し広めていくのでしょうか。

答。只謂了唯心故。成平等之佛。達唯識故。行同體之悲。若不直下頓悟斯宗。則自他二利俱失。何者。不入一心平等。違成佛之正宗。不了同體大悲。墮愛見之妄想。如維摩經觀眾生品云。爾時文殊師利。問維摩詰言。菩薩云何觀於眾生。維摩詰言。譬如幻師。見所幻人。菩薩觀眾生為若此。如智者見水中月。如鏡中見其面像。如熱時焰。如呼聲響。如空中雲。如水聚沫。如水上泡。如芭蕉堅。如電久住。如第五大。如第六陰。如第七情。如十三入。如十九界。菩薩觀眾生為若此。如無色界色。如焦穀芽。如須陀洹身見。如阿那含入胎。如阿羅漢三毒。如得忍菩薩貪恚毀禁。如佛煩惱習。如盲者見色。如入滅盡定出入息。如空中鳥跡。如石女兒。如化人煩惱。如夢所見已寤。如滅度者受身。如無煙之火。菩薩觀眾生為若此。文殊師利言。若菩薩作是觀者。云何行慈。維摩詰言。菩薩作是觀已。自念。我當為眾生。說如斯法。是即真實慈也。淨名私記釋云。今明觀眾生品大精。只依其中一句行則足。得一句攝心。常照行之。一切萬行足。只今汝自觀。觀汝身心。如此畢竟空。即是菩薩觀眾生。菩薩名道。道能通。通汝色心本性。令離虛妄。即是菩薩。菩薩只在汝身中。觀汝身心。如第三手。為畢竟無身心。此中示人坐禪用心法大好。只觀身心。如此。無可作。定亂。是非。一異。一切平等。即坐禪法。不同今時。計有心可得。言我心亂。欲除亂取定。大成顛倒。須覺知魔事。又今時欲度眾生。應須曉夜。觀汝心中所起煩惱性。即是度眾生。只詺此觀煩惱智。名佛耳。釋迦已觀煩惱。已得作佛竟。說教留與。今凡夫依教修行。若言別有佛。別有許多世界眾生。佛次第度竟。然後成佛。若爾。釋迦已成佛竟。今那得猶見有眾生滿世間。當知不爾。夫言竟者盡也。已上觀眾生竟。次觀如來者。如阿閦佛品云。爾時世尊。問維摩詰。汝欲見如來。為以何等觀如來乎。維摩詰言。如自觀身實相。觀佛亦然。我觀如來。前際不來。後際不去。今則不住。不觀色。不觀色如。不觀色性。不觀受想行識。不觀識如。不觀識性。非四大起。同於虛空。六入無積。眼耳鼻舌身心已過。不在三界。三垢已離。順三脫門。三明與無明等。不一相。不異相。不自相。不他相。非無相。非取相。不此岸。不彼岸。不中流。而化眾生。觀於寂滅。而不永滅。不此不彼。不以此不以彼。不可以智知。不可以識識。無晦無明。無名無相。無強無弱。非淨非穢。不在方。不離方。非有為。非無為。無示無說。不施不慳。不戒不犯。不忍不恚。不進不怠。不定不亂。不智不愚。不誠不欺。不來不去。不出不入。一切言語道斷。非福田。非不福田。非應供養。非不應供養。非取非捨。非相非無相。同真際。等法性。不可稱。不可量。過諸稱量。非大非小。非見非聞。非覺非知。離眾結縛。等諸智。同眾生。於諸法無分別。一切無失。無觸無惱。無作無起。無生無滅。無畏無憂。無喜。無厭。無著。無已有。無當有。無今有。不可以一切言說。分別顯示。世尊。如來身為若此。作如是觀。以斯觀者。名為正觀。若他觀者。名為邪觀。天台淨名疏。釋。不觀色不觀色如。不觀色性者。不觀色者。心如幻師。幻作種種色。若知幻師是誑。則不得所幻之色。今色從心幻師幻出。尚不得此心。何處見有此色。故不應觀色。不觀如者。若見色與如異。是則泯色入如。今不見色如之別。故不觀如。不觀性者。即不觀佛性。不觀色。是空俗。不觀如。是空真。不觀佛性。是空中道。以其計中道有佛性。而起順道愛生。是為頂墮。故經云。我及涅槃。是二皆空。唯有空病。空病亦空。今不觀性。是無順道愛故。夫受世間差別果報。皆為一念心異。分別情生。取眾生相。為凡。執諸佛境為聖。如經所說。觀眾生如幻師見幻。觀如來則三際體空。二見於是雙消。情量為之俱泯。則可以成諸佛之喜。除菩薩之憂。信此一心。能入宗鏡。是以法華神力品偈云。能持是經者。令我及分身。滅度多寶佛。一切皆歡喜。古聖云。道俗之不夷。二際之不泯。菩薩之憂也。大方等大集經云。佛法者。名一切法。一切法者。名為佛法。佛法性。即一切法性。如一切法性。即佛法性。佛法性。一切法性。無有差別。故知性無有異。隨見成差。其體常融。假名有別。所以經云。一切諸法。及諸佛法。但假名字。亦非是法。亦非非法。不退轉法輪經云。佛及菩提。有聲無實。亦無方所。諸法亦然。華嚴經頌云。知諸世間悉平等。莫非心語一切業。眾生幻化無有實。所有果報從茲起。又頌云。諸法寂滅非寂滅。遠離此二分別心。知諸分別是世見。入於正位分別盡。法華經安樂行品云。復次菩薩摩訶薩。觀一切法空。如實相。不顛倒。不動不退。不轉。如虛空無所有性。一切語言道斷。不生不出不起。無名無相。實無所有。無量無邊。無礙無障。但以因緣有。從顛倒生故。說常樂觀如是法相。是名菩薩摩訶薩。第二親近處。又如來壽量品云。諸善男子。如來所演經典。皆為度脫眾生。或說己身。或說他身。或示己身。或示他身。或示己事。或示他事。諸所言說。皆實不虛。所以者何。如來如實知見三界之相。無有生死。若退若出。亦無在世。及滅度者。非實非虛。非如非異。不如三界。見於三界。如斯之事。如來明見無有錯謬。以諸眾生有種種性。種種欲。種種行。種種憶想分別故。欲令生諸善根。以若干因緣。譬喻言詞。種種說法。所作佛事。未曾暫廢。故知若以正宗門。尚無在世之人。亦無滅度之者。何況有能化所化之異乎。若以佛事門。則教海宏深。智燈廣照。隨機善巧。寧容暫廢耶。

> 答え。ただ唯心を了るがゆえに、平等の仏となる。唯識に達するがゆえに、同体の悲を行う。もし直ちにこの宗を頓悟しなければ、自他の二利はともに失われる。なぜか。一心平等に入らなければ、成仏の正宗に背く。同体大悲を了らなければ、愛見の妄想に堕ちる。 維摩経の観衆生品にこうある。そのとき、文殊師利が維摩詰に問うた。「菩薩はどのように衆生を観るのですか」。維摩詰が言った。「たとえば幻術師が、自分の幻で作った人を見るようなものだ。菩薩が衆生を観るのもこのようである。智者が水中の月を見るように。鏡に映る自分の顔を見るように。陽炎のように。こだまのように。空の雲のように。水の泡のように。水の上の泡のように。芭蕉の幹のように。稲妻が長くとどまるように。第五の要素のように。第六の陰のように。第七の情のように。第十三の入のように。第十九の界のように。菩薩が衆生を観るのもこのようである。無色界の色のように。焦げた穀物の芽のように。預流果の身見のように。不還果の入胎のように。阿羅漢の三毒のように。堪忍を得た菩薩の貪りと怒りと戒破りのように。仏の煩悩の習気のように。盲者が色を見るように。滅尽定に入った者の出入の息のように。空の鳥の跡のように。石女の子のように。幻人の煩悩のように。夢から覚めた者が夢に見たもののように。涅槃に入った者が身を受けるように。煙のない火のように。菩薩が衆生を観るのもこのようである」。 文殊師利が言った。「もし菩薩がこのように観るなら、どのように慈を行じるのですか」。維摩詰が言った。「菩薩はこのように観た後、自ら思う。私は衆生のためにこのような法を説こうと。これがすなわち真実の慈である」。 浄名私記の釈にこうある。今、観衆生品の大意を明かす。ただその中の一句に依って行じれば十分である。一句を得て心を摂め、常に照らして行じれば、一切の万行が具わる。ただ今、あなた自身を観なさい。あなたの身心を観なさい。このように畢竟空であること、これがすなわち菩薩の衆生を観るということである。菩薩とは道という。道は通じることができる。あなたの色心の本性を通じて、虚妄を離れさせる。これがすなわち菩薩である。菩薩はただあなたの身中にいる。あなたの身心を観ることは、第三の手のようなものである。畢竟、身心は無であるから。ここに人が坐禅の用心法を示すのは非常に良い。ただ身心を観ること、このように。作すべきものはない。定も乱も。是も非も。一も異も。一切平等である。これが坐禅の法である。今時の人とは異なる。心が可得と計って、我心は乱れていると言い、乱を除いて定を取ろうとする。大いに顛倒である。魔事を覚知しなければならない。 また今時、衆生を度そうと思うなら、昼夜を問わず、あなたの心に起こる煩悩の性を観なさい。これがすなわち衆生を度するということである。ただこの煩悩を観る智を、仏と名づけるだけである。釈迦はすでに煩悩を観て、すでに仏となることを得て、教えを説いて留め置いた。今、凡夫は教えに依って修行する。もし別に仏があり、別に多くの世界の衆生があり、仏が次第に度し終えて、それから成仏すると言うなら、もしそうなら、釈迦はすでに成仏し終えているのに、今なぜなお衆生が世間に満ちているのを見るのか。そうではないと知るべきである。そもそも「竟」とは尽きることである。 以上、観衆生は終わり。次に如来を観るとは。阿閦仏品にこうある。そのとき世尊が維摩詰に問うた。「あなたは如来を見たいと思うか。どのような観をもって如来を観るのか」。維摩詰が言った。「自分自身の実相を観るように、仏を観るのもまた同じである。私が如来を観るに、前際から来ず、後際へ去らず、今もとどまらない。色を観ず、色の如を観ず、色の性を観ず。受想行識を観ず、識の如を観ず、識の性を観ず。四大から起こらず、虚空と同じである。六入は積むことなく、眼耳鼻舌身心はすでに過ぎた。三界にいない。三垢はすでに離れ、三解脱門に順じ、三明と無明は等しい。一相ではなく、異相ではなく、自相ではなく、他相ではなく、無相でもなく、取相でもない。此岸でなく、彼岸でなく、中流でもなく、しかも衆生を化す。寂滅を観て、しかも永遠に滅しない。此でもなく彼でもなく、これによってもなく彼によってもない。智をもって知るべからず、識をもって識るべからず。晦もなく明もなく、名もなく相もなく、強もなく弱もなく、浄でもなく穢でもない。方に在らず、方に離れず。有為でもなく、無為でもない。示すことなく説くことなく、施すことなく慳むことなく、戒めることなく犯すことなく、忍ぶことなく怒ることなく、進むことなく怠ることなく、定まることなく乱れることなく、智なく愚なく、誠なく欺くことなく、来ることなく去ることなく、出ることなく入ることなく、一切の言語の道は断たれる。福田ではなく、福田でないこともなく、供養に値せず、供養に値しないこともない。取ることもなく捨てることもなく、相もなく無相でもない。真際に同じくし、法性に等しい。称すること不可、量ること不可、諸の称量を超えている。大ならず小ならず、見ならず聞ならず、覚ならず知ならず、衆の結縛を離れ、諸の智に等しく、衆生と同じくし、諸法に分別なく、一切に失なく、触れることなく悩ますことなく、作すことなく起こすことなく、生ずることなく滅することなく、畏れなく憂いなく、喜びなく、厭くことなく、著することなく、已に有ることなく、当に有ることなく、今有ることなく、一切の言説をもって分別表示することはできない。世尊、如来の身はこのようである。このように観る。この観をもってする者を正観と名づける。もし他に観るなら、邪観と名づける」。 天台浄名疏の釈にこうある。「色を観ず、色の如を観ず、色の性を観ず」とは。色を観ずとは、心は幻術師のようであり、幻で種々の色を作る。もし幻術師が偽りであると知れば、幻で作られた色を得ることはできない。今、色は心という幻術師から幻出されたものである。なおこの心さえ得られないのに、どうしてこの色があるのを見ることができようか。ゆえに色を観ずべきではない。如を観ずとは、もし色と如が異なると見るなら、これは色を泯して如に入れることになる。今、色と如の別を見ない。ゆえに如を観ず。性を観ずとは、すなわち仏性を観ないことである。色を観ずとは、空俗である。如を観ずとは、空真である。仏性を観ずとは、空中道である。中道に仏性があると計って、順道の愛を起こして生ずるなら、これが頂堕である。ゆえに経にこうある。「我と涅槃とは、この二つはともに空である。ただ空病のみあり、空病もまた空である」。今、性を観ないとは、順道の愛がないからである。 そもそも世間の差別の果報を受けるのは、みな一念の心の異なりによる。分別の情が生じて、衆生の相を取って凡とする。諸仏の境を執って聖とする。経に説かれるように、衆生を観ることは幻術師が幻を見るようであり、如来を観れば三際の体は空である。二つの見はここに双つながら消え、情量はともに泯びる。すなわち諸仏の喜びを成し、菩薩の憂いを除くことができる。この一心を信じて、宗鏡に入ることができる。 これによって法華経神力品の偈にこうある。「この経を持する者は、私と分身、滅度した多宝仏、一切をして皆歓喜せしめる」。古聖が言うには、道俗が斉しくなく、二際が泯びないこと、これが菩薩の憂いである。 大方等大集経にこうある。「仏法とは、一切法と名づける。一切法とは、仏法と名づける。仏法性はすなわち一切法性である。一切法性のごとく、すなわち仏法性である。仏法性と一切法性に、差別はない」。ゆえに性に異なりはなく、見に随って差が成ることを知る。その体は常に融じ、仮名に別がある。それゆえ経にこうある。「一切諸法および諸仏法は、ただ仮の名前である。また法ではなく、また非法でもない」。 不退転法輪経にこうある。「仏および菩提は、声はあれど実はなく、また方所もない。諸法もまたこのようである」。 華厳経の頌にこうある。「諸の世間はことごとく平等であると知れ。心と言と一切の業ならざるはない。衆生は幻化にして実はなく、すべての果報はここから起こる」。また頌にこうある。「諸法は寂滅にして寂滅にあらず。この二つの分別の心を遠離せよ。諸の分別は世の見であると知れ。正位に入れば分別は尽きる」。 法華経安楽行品にこうある。「また次に、菩薩摩訶薩は一切の法を観ずること空、実相のごとく、顛倒せず、動ぜず退かず、転ぜず、虚空のごとく所有の性なく、一切の言語の道は断たれ、生ぜず出でず起こらず、名もなく相もなく、実に所有なく、無量無辺にして、碍なく障なく、ただ因縁によって有り、顛倒から生ずるがゆえに説く。常にこのような法相を観ることを楽しむべし。これを菩薩摩訶薩の第二の親近処と名づける」。 また如来寿量品にこうある。「諸の善男子よ。如来の演べる経典は、みな衆生を度脱するためのものである。あるいは己の身を説き、あるいは他の身を説き、あるいは己の身を示し、あるいは他の身を示し、あるいは己の事を示し、あるいは他の事を示す。諸の言説は、みな実にして虚しからず。なぜか。如来は三界の相を如実に知見し、生死はなく、退くことも出ることもなく、また世に在る者もなく、また滅度した者もない。実でもなく虚でもなく、如でもなく異でもなく、三界のごとくにあらずして三界を見る。このような事を、如来は明らかに見て少しの誤りもない。諸の衆生に種種の性、種種の欲、種種の行、種種の憶想分別があるがゆえに、諸の善根を生じさせようとして、若干の因縁、譬喩、言詞をもって、種種に法を説く。所作の仏事は、かつて暫時も廃したことがない」。 ゆえに知る。もし正宗門をもってすれば、なお在世の人もなく、また滅度の者もない。ましてや能化と所化の違いがあろうか。もし仏事門をもってすれば、教えの海は広く深く、智の灯は広く照らし、機に随って善巧であり、どうして暫時も廃することがあろうか。

所以大智度論。問云。若五陰空無佛。即是邪見。云何菩薩發心求作佛。

> そこで『大智度論』にこう問われています。「もし五陰が空で仏も存在しないのなら、それは邪見になってしまうのではないか。なぜ菩薩は仏になろうと心を起こすのか。」

答曰。此中言無佛。破著佛想。不言取無佛相。若有佛尚不令取。何況取無佛邪見。又佛常寂滅。無戲論相。若人分別戲論。常寂滅事。是人亦墮邪見。離是有無二邊。處中道。即是諸法實相。諸法實相。即是佛。何以故。得是諸法實相。名為得佛。大般若經云。諸菩薩眾。尚不得法。何況非法。尚不得道。何況非道。又云。於生死法。不起不墮。於諸聖道。不離不修。釋云。於生死法不起者。自性常空故。不落離邊。不墮者。不隨流轉故。不落即邊。於諸聖道不離者。性常相應故。不落斷邊。不修者。天真具足故。不落常邊。如清涼疏云。不著一多。能立一切者。不著於有。能安立故。即真俗鎔融。謂世俗幻有之相。相本自空。勝義真空之理。理常自有。有是空有非常有。斯有未曾不空。空是有空。非斷空。此空何嘗不有。有空空有。體一名殊。名殊故真俗互乖。迢然不雜。體一故空有相順。冥然不二。一與不一不即不離。鎔融無礙。菩薩智契其原。所以逈絕無寄而善修安立。又云。良以事虛攬理。無不理之事。理實應緣。無礙事之理。所以寂而常照。照而常寂。故終日知見而無知見也。乃至菩薩悲智相成。出沒無礙。悲故常行世間。智故不染世法。融通有三。一悲無不智故。則世無不離。是以常在世間未曾不出。二智無不悲故。離無不世。是以恒超世表。無不遊世。三雙融故。動靜無二唯是一念。所謂無念。無念等故。世與出世。無有障礙。如華嚴經云。菩薩摩訶薩。知善巧說法。示現涅槃。為度眾生。所有方便。一切皆是心想建立。非是顛倒。亦非虛誑。何以故。菩薩了知一切諸法。三世平等。如如不動。實際無住。不見有一眾生。已受化。今受化。當受化。亦自了知無所修行。無有少法。若生若滅而可得者。而依於一切法。令所願不空。是為第九如實住。又頌云。菩薩能於一念頃。觀等眾生無數佛。又復於一毛端中。盡攝諸法皆明見。以此真見故。成無緣慈。普令法界眾生。見聞獲益。所以經云。譬如日月。不作往來照明之心。以諸眾生福德力故。自行往反。壞諸暗冥。若入此宗鏡中。則無一法可取。皆同性故。無一法可捨。絕異相故。是以聖人常善救人。而無棄人。常善救物。故無棄物。夫云善者。莫非知宗。方為究竟之上善。若救人成同體之悲。若救物歸無相之理。則善外無法。何棄之乎。

> 答えていいます。ここで「仏は無い」というのは、仏に執着する心を破るための言葉です。「仏は無い」という形にとらわれなさい、と言っているのではありません。もし仏がいるとしても、それにとらわれることを許さないのですから、ましてや「仏は無い」という邪見にとらわれてよいはずがありません。 また、仏は常に寂滅しており、無駄な議論の相はありません。もし人が無駄な議論で、常に寂滅している真理をあれこれ分別するなら、その人もまた邪見に陥ります。有と無という二つの極端を離れて、中道にとどまること、これがすなわち諸法の実相です。諸法の実相、それがすなわち仏です。なぜなら、この諸法の実相を得ることを、仏を得た、と名づけるからです。 『大般若経』にいいます。「もろもろの菩薩たちでさえ、法を得ることはない。ましてや非法を得ることはない。道を得ることもない。ましてや非道を得ることもない」と。またいいます。「生死の法において、起こさず、堕ちず。もろもろの聖道において、離れず、修めず」と。 これを解釈すれば、生死の法において「起こさない」とは、自性が常に空であるからで、離れるという極端に落ちないためです。「堕ちない」とは、流転に従わないからで、即するという極端に落ちないためです。もろもろの聖道において「離れない」とは、本性が常に相応しているからで、断滅という極端に落ちないためです。「修めない」とは、生まれながらにして完全に具わっているからで、恒常という極端に落ちないためです。 清凉の疏にいいます。「一つにも多くにもとらわれず、よく一切を立てる」とは、有にとらわれないで、よく安立するということです。すなわち真と俗が溶け合うということです。世俗の幻の有という相は、その相がもともと自ら空です。勝義の真空という理は、その理が常に自ら有です。有は空の有であって、常に有なのではありません。その有はかつて空でなかったことがありません。空は有の空であって、断滅の空ではありません。この空がどうして有でなかったことがありましょうか。空と有、有と空、本体は一つで名は異なります。名が異なるので、真と俗は互いに異なり、はるかに混じり合いません。本体が一つなので、空と有は相順し、ひそかに一つになります。一と一でないとは、即しもせず離れもせず、溶け合って妨げがありません。菩薩の智慧がその根源にかなうので、はるかに寄る辺を絶ちながら、よく修めて安立するのです。 またいいます。「まことに事は理を虚しくまとう。理のまとわない事はない。理は実に縁に応ずる。事を妨げない理である。だから寂にして常に照らし、照らして常に寂である。ゆえに一日中知見しながら、知見がないのである」と。さらには菩薩の悲と智は互いを成し、出没に妨げがありません。悲のゆえに常に世間を行い、智のゆえに世の法に染まりません。 融通に三つあります。第一に、悲に智でないものがないので、世を離れないものはありません。だから常に世間にありながら、かつて出なかったことがありません。第二に、智に悲でないものがないので、世を離れて世でないものはありません。だから常に世の表を超えながら、世を遊ばないことがありません。第三に、二つがともに溶け合うので、動と静は二つでなく、ただ一念だけです。いわゆる無念です。無念が等しいので、世と出世に障りがありません。 『華厳経』にいいます。「菩薩摩訶薩は、巧みに法を説き、涅槃を現じ、衆生を度するためのすべての方便は、みな心の想いが立てたものであると知る。倒れたものでもなく、偽りでもない。なぜなら、菩薩は一切の諸法が三世平等で、如如として動かず、実際に住まないことをよく了知しているからである。一人の衆生がすでに教化され、今教化され、当に教化されるのを見ない。また自ら、修行するところもなく、少しの法も生じたり滅したりして得られるものはないとよく了知する。しかし一切の法に依って、その願を空しくしない。これが第九の如実住である」と。 また頌にいいます。「菩薩はよく一念の間に、等しい衆生と無数の仏を観る。また一つの毛の先の中に、すべての法をことごとく摂めて、みな明らかに見る」と。この真の見によって、無縁の慈を成し、広く法界の衆生に、見たり聞いたりして利益を得させるのです。 だから経にいいます。「たとえば日月は、往き来して照らす心を作さない。もろもろの衆生の福德の力によって、自ら往き来して、もろもろの暗闇を破る」と。もしこの宗鏡に入れば、一つとして取るべき法はありません。みな同じ性だからです。一つとして捨てるべき法はありません。異なる相を絶しているからです。だから聖人は常によく人を救い、捨てる人がありません。常によく物を救うので、捨てる物がありません。 そもそも「善」というのは、宗を知ることでなければなりません。それこそが究竟の上の善です。人を救えば同体の悲となり、物を救えば無相の理に帰します。そうであれば善の外に法はなく、どうして捨てることがありましょうか。

## 宗鏡錄卷第二十

丙午歲分司大藏都監開板