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title: "宗鏡錄 · 54"
description: "宗镜录是北宋高僧延寿大师编纂的一部重要佛教典籍，成书于10世纪。延寿大师为法眼宗第三代祖师，融会禅、教、净诸宗思想，主张禅教一致。全书共一百卷，以问答形式系统阐述佛教义理，内容涵盖心性论、修行法门、教相判释等核心议题，被誉为中国佛教的百科全书。该书在宋代即受皇室推崇，对后世禅宗发展影响深远，是研究中国佛教思想史的重要文献，在汉传佛教中具有承前启后的重要地位，至今仍为佛学研究者所重视。"
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## 宗鏡錄卷第五十四

> 宗鏡録巻第五十四

慧日永明寺主智覺禪師延壽集

> 智覚禅師延寿集

夫意言分別。萬有俱空。則名義無性。一切眾生。於見聞中。應不成顛倒。以名中無義。義中無名。俱是客故。

> 意や言葉による分別は、すべての存在が空であると知れば、名前と意味には本来の実体がないことがわかります。すべての生きとし生けるものは、見たり聞いたりする中で、本来なら誤った見方をすることはないはずです。なぜなら、名前の中に意味はなく、意味の中に名前はなく、どちらも仮のものにすぎないからです。

答。萬法本空。熏習成有。於本空中。起諸情執顛倒。寶性論云。

> 答えましょう。すべての存在は本来「空（くう）」であり、その空の上で様々な習慣や学びによって「有（う）」として現れます。本来の空において、心の執着や誤った見方が生じるのです。『宝性論（ほうしょうろん）』にはこうあります。

問。名中無義。義中無名。二俱客者。若人執名異於義。義異於名。此人既無顛倒。則於義中應無僻執。不應聞說好惡。生憂喜心。名義不相關故。當知客義。是汝顛倒。

> 問う。名の中に義はなく、義の中に名はない。この二つはともに客（仮のもの）である。もし人が、名は義と異なり、義は名と異なると執着するならば、その人はもはや顛倒（逆さまの見方）がないのだから、義に対して偏った執着もないはずである。それなのに、良い悪いを聞いて、憂い喜びの心を生じるべきではない。名と義は互いに関係がないからである。知るべし、客なる義こそ、汝の顛倒なのである。

答。由久時數習顛倒故。有此僻執。不關名義相應。由名言熏習心故。必由此法門。生分別心。起虛妄僻執。如密嚴經偈云。是時金剛藏。復告大眾言。賴耶無始來。為戲論熏習。諸業所繫縛。輪轉無有窮。亦如於大海。因風起波浪。恒生亦恒滅。不斷亦不常。由不悟自心。隨識境界現。若了於自心。如火焚薪盡。通達於無漏。則名為聖人。藏識變眾境。彌綸於世間。意執我我所。思量恒流轉。諸識類差別。各各了自境。積集業為心。遍積集名意。了別名為識。五識取現境。如瞖見毛。輪。隨見而迷惑。於似色心中。非色計於色。譬如摩尼珠。日月光所照。隨其所應現。各雨自類物。阿賴耶亦爾。如來清淨藏。和合於習氣。變現周世間。與無漏相應。雨諸功德法。譬如乳變異。成酪至酪漿。藏識亦如是。變似於眾色。如瞖見毛輪。有情亦復爾。以惡習氣瞖。住藏識眼中。於諸非色處。此所見諸色。猶如於陽焰。遠離於有無。皆賴耶所現。仁者依眼色。而生似色識。如幻住眼中。飄動猶熱焰。色皆是藏識。與色習相應。變似體非有。愚夫妄分別。諸惛醉放逸。坐臥及狂走。頓起諸事業。皆是賴耶識。猶如盛赫日。舒光照於地。蒸氣如水流。渴獸望之走。賴耶亦復爾。體性實非色。而似於色現。惡覺妄生著。如磁石吸鐵。迅速而轉移。雖無於情識。似情識而動。如是賴耶識。為生死所攝。往來於諸趣。非我而似我。如海中漂物。無思隨水流。賴耶無分別。後身而運動。譬如二象鬪。被傷者永退。賴耶亦如是。斷染無流轉。譬如淨蓮華。離泥而皎潔。人天皆受用。莫不咸珍敬。如是賴耶識。出於習氣泥。轉依得清淨。佛菩薩所重。譬如殊勝寶。野人所輕賤。若用飾冕旒。則為王頂戴。如是賴耶識。是清淨佛性。凡位恒雜染。佛果常寶持。如美玉在水。苔衣所纏覆。賴耶處生死。習氣縈不現。於此賴耶識。有二取相生。如蛇有二頭。隨樂而同往。賴耶亦如是。與諸色相具。一切諸世間。取之以為色。惡覺者迷惑。計為我我所。若有若非有。自在作世間。賴耶雖變現。體性恒甚深。於諸無智人。悉不能覺了。譬如於幻師。幻作種種獸。或行而或走。似有情非實。賴耶亦如是。幻作於世間。一切諸有情。體性無真實。凡愚不能了。妄生於取著。起微塵勝性。有無異分別。及與於梵天。丈夫等諸見。

> 答。長い間、誤った考え方に慣れ親しんできたために、このような偏った執着が生じるのであり、名前や意味が正しく対応しているからではない。言葉の習慣によって心が熏習されるからである。必ずこの教えによって、分別心が生じ、虚妄な偏った執着が起きるのである。密厳経の偈にこうある。 その時、金剛蔵菩薩は再び大衆に告げた。 阿頼耶識は始まりのない昔から、 虚妄な分別の熏習によって、 様々な業に縛られ、 生死を巡って限りなく続く。 それは大海が風によって 波を起こすようなもの。 波は常に生じ、常に消え、 絶えることもなく、永遠に続くこともない。 自らの心を悟らないために、 心に従って様々な境界が現れる。 もし自らの心を悟れば、 火が薪を焼き尽くすように、 煩悩のない境地に達し、 それを聖人と呼ぶ。 蔵識は様々な境を変現し、 世間をくまなく満たしている。 意は我と我が物とに執着し、 思い惑いながら常に流転する。 様々な識は種類によって異なり、 それぞれが自らの対象を捉える。 業を積み重ねる心を「心」といい、 広く積み重ねるものを「意」といい、 識別するものを「識」という。 五つの感覚は現在の境を捉えるが、 まるで目の病にかかった人が 毛や車輪の幻を見るように、 見るものに惑わされてしまう。 色に似た心の中で、 色でないものを色と思い込む。 例えば摩尼宝珠は、 日光や月光に照らされると、 それに応じて様々なものを現し、 それぞれに相応しい類のものを雨のように降らせる。 阿頼耶識もまた同じである。 如来の清浄な本質が、 煩悩の習慣と結びついて、 世間に広く変現する。 煩悩を離れた清らかな働きと相応して、 様々な功徳の法を雨のように降らせる。 例えば乳が変化して 酪となり、さらに酪漿となるように、 蔵識もまた同じである。 様々な色形に変化して現れる。 目の病の人が毛や車輪の幻を見るように、 迷いの众生もまた同じである。 悪い習慣という目の曇りによって、 蔵識という眼の中に住み、 色でないもののところに、 様々な色を見るのである。 それは陽炎のようなもので、 存在するとも存在しないとも言えない。 すべては阿頼耶識が現したものである。 尊い方よ、眼と色に依って、 色に似た識が生じる。 それは幻のように眼の中にあり、 熱気の揺らぎのように漂う。 色はすべて蔵識であり、 色の習慣と相応して、 姿を現すが実体はない。 愚かな人はそれを誤って分別する。 酔いしれ、放逸になり、 座ったり臥したり、狂い走ったりして、 突然様々なことを起こす。 これらはすべて阿頼耶識の働きである。 例えば燃え盛る太陽が 光を大地に注ぎ、 蒸気が水のように立ち上ると、 渇いた獣がそれを見て走り寄る。 阿頼耶識もまた同じである。 その本質は実は色ではないが、 色のように現れ出る。 誤った考えが虚妄な執着を生む。 それは磁石が鉄を吸い寄せるように、 素早く移り変わる。 情や識別がないのに、 情や識別があるかのように動く。 このように阿頼耶識は、 生死に捕らえられ、 様々な迷いの世界を往来し、 我ではないのに我のように見える。 海に漂う物が、 思うこともなく水の流れに従うように、 阿頼耶識も分別なく、 次の生へと働き続ける。 例えば二頭の象が戦い、 傷ついた方が退くように、 阿頼耶識もまた同じである。 汚れを断ち切れば流転はない。 例えば清らかな蓮の花が、 泥を離れて輝くように、 人々も天も皆、愛で用い、 誰もが敬い大切にする。 このように阿頼耶識も、 煩悩の泥から出て、 悟りに転じれば清らかになり、 仏や菩薩に重んじられる。 例えば特別に勝れた宝も、 田舎の人は軽んじるが、 もし王冠の飾りに用いれば、 王が頭に戴く。 このように阿頼耶識は、 清らかな仏性である。 凡夫の間は常に煩悩に染まっているが、 仏の果ては常に宝として保たれる。 例えば美しい玉が水の中にあって、 苔に覆われているように、 阿頼耶識は生死の中にあって、 煩悩の習慣に纏われて現れない。 この阿頼耶識には、 能取と所取の二つの相が生じる。 例えば蛇に二つの頭があるように、 好きな方に従って共に行く。 阿頼耶識もまた同じである。 様々な色形と共にあり、 すべての世間の人は、 それを捉えて色とする。 誤った考えに惑わされた人は、 それを我と我が物と計る。 あるいは存在するとか、存在しないとか、 自在に世間を創造するものだと思う。 阿頼耶識は様々に変現しても、 その本質は常に深遠である。 智慧のない人々には、 そのすべてを悟ることができない。 例えば幻術師が、 様々な獣を幻に作り出し、 歩いたり走ったりするが、 有情のように見えて実体はない。 阿頼耶識も同じである。 世間のすべての有情を幻のように作り出すが、 その本質に真実はない。 凡夫や愚かな人はそれを悟ることができず、 誤って執着を生じ、 微塵や根本原理や、 存在・非存在の区別を立て、 さらには梵天や 造物主などの見解を起こすのである。

問。眼見色者。為是眼見。為是識見。

> 問う。眼が色を見るとき、それは眼が見るのか、それとも識（認識）が見るのか。

答。非眼識境等。各有決定見性。但以三和合故。假名為見。下五根聞嗅嘗觸等例爾。雜集論云。非眼見色。亦非識等。以一切法。無作用故。由有和合。假立為見。故稱眼能見色。又識之於根。乍出乍入。如鹿在網。猶鳥處籠。啄一捨一。周而復始。無暫休息。識在根籠。亦復如是。或在於耳。或在於眼。來去無定。不可執常。雖復無定。相續不斷。何為不斷。以妙用無間故。若凡夫為色塵所縛。不得自在。若見一法。則被一法礙。不能圓通法界。是以金剛經云。若菩薩心住於法而行布施。如人入闇。則無所見。首楞嚴經云。由塵發知。因根有相。相見無性。猶若交蘆。由塵發知者。即見分。因根有相者。即相分。相見無性者。心境互生。各無自體。心不自立。由塵發知。境不自生。因根有相。二虛相倚。猶若交蘆。知見立知。即無明本。知見無見。斯即涅槃。但了了見無可見。即通法界。見即是涅槃。若了了聞無可聞。無可聞。即通法界。聞即是涅槃。一切諸法。本來涅槃。以分別心。妄見所隔。不知自識翻作無明。又首楞嚴經云。緣見因明。暗成無見。不明自發。若不假明暗等見。見色之時。則見餘根。若離念。遍法界見。鐵圍山一切相。皆不能蔽。若六根伏。則不得六根相。如十人患瞖共見空華。一人眼可。則不見。餘九人還見。各各自除妄見。則不得一切相。物物皆真。又十箇空華。一人能見。十人眼可。餘華總亡。但一妄除。皆不見諸相。一相。則一切相。為一切相。皆我心起。是知一瞖在目。千華競飛。一妄動心。諸塵併起。若能離念。則當處坐道場。轉大法輪。俱成佛道。

> 答えましょう。眼識の境などではなく、それぞれに定まった見性があるのです。ただ三つのものが和合するから、仮に「見」と名づけるのです。以下の耳・鼻・舌・身・意の五根による聞く・嗅ぐ・嘗める・触れるなども、同じように例えられます。 『雑集論』にこうあります。「眼が色を見るのでもなく、識などが（単独で）見るのでもない。すべての法には作用がないからである。和合があることによって、仮に「見」と立てられる。だから『眼が色を見る』と言うのである」 また、識は根に対して、出たり入ったりします。鹿が網にかかり、鳥が籠にいるようなものです。啄んでは一つを捨て、また啄んでは一つを捨て、巡り巡って絶え間がありません。識が根という籠にいるのも、まさに同じです。耳にあったり、眼にあったりして、来たり去ったりして定まりがなく、常住と捉えることはできません。 たとえ定まりがなくても、相続して絶えることはありません。なぜ絶えないのか。妙用に間断がないからです。 凡夫は色の塵に縛られて、自在を得られません。一つの法を見れば、その一つの法に妨げられて、法界を円満に通達することができません。 だから『金剛経』にこうあります。「もし菩薩が心を法にとどめて布施を行うならば、それは人が暗闇に入るようなもので、何も見ることができない」 『首楞厳経』にはこうあります。「塵によって知が発し、根によって相がある。相と見には本性がなく、ちょうど絡み合った蘆のようなものである」 「塵によって知が発する」とは、これが見分です。「根によって相がある」とは、これが相分です。「相と見に本性がない」とは、心と境が互いに生じ合い、それぞれに自らの本体がないということです。心は自らだけで立つのではなく、塵によって知が発します。境も自らだけで生じるのではなく、根によって相があります。この二つの虚なるものが互いに依り合う様子は、ちょうど交じり合った蘆のようです。 知見の上にさらに知を立てるなら、それが無明の本源です。知見において（さらに立てる）見ることがなければ、それこそが涅槃です。 ただ明了に、「見る」といっても見るべきものがないと見れば、すなわち法界に通達します。「見」ることがすなわち涅槃です。 もし明了に「聞く」といっても聞くべきものがないとわかれば、すなわち法界に通達します。「聞く」ことがすなわち涅槃です。 すべての諸法はもともと涅槃なのです。ただ分別する心によって、妄見が隔てているだけです。自分の識が、いつのまにか無明に転じていることに気づいていないのです。 また『首楞厳経』にはこうあります。「見るという縁は明に依存して起こるが、暗になると見るものがない。明がなくても自ずから発するのである。もし明・暗などに依らずに見るならば、色を見るときに、他の根をも見るのである」 もし念を離れるならば、法界全体に見渡せて、鉄囲山のすべての相も、これを覆い隠すことはできません。 もし六根が伏せられれば、六根の相を得ることはありません。例えば十人の人が眼病を患って、みな虚空の花を見ているとします。一人の眼が治れば、花は見えませんが、残りの九人にはまだ見えています。それぞれが自分自身の妄見を除き去れば、一切の相を得ることはなく、すべてのものがみな真実となります。 また、十の虚空の花を一人が見ているとします。十人の眼がみな治れば、残りの花はすべて消え去ります。ただ一つの妄念が除かれれば、すべての相が見えなくなるのです。 一つの相がすべての相です。なぜなら、すべての相は我が心から起こるからです。 このように知るべきです。一つの瞖（目の病い）が目にあれば、千の花が競って飛びます。一つの妄念が心を動かせば、もろもろの塵が一緒に起こります。 もし念を離れることができれば、その場その場で道場に坐し、大いなる法輪を転じて、ともに仏道を成就するのです。

問。耳聞說法聲時。總具幾識。

答。具三識。第八先託佛無漏聲名句文。為本質了。耳識緣聲。意識同時緣名句文等。方得名聞。

古德問云。且如緣佛聲名句文時。為自耳識意識緣得名句文名聞。為先要自第八託佛本質聲。變起相分了。耳識意識託第八相分為質。變相分緣方得聞耶。

答。設爾何失難。二俱有過。若第八不先變佛聲。耳意二識便緣名句文者。即因中前六劣。不能直緣。須先假第八變。若第八不先變。即心外取法。唯識不成。若託自第八相分為質緣者。第六識所變相分。即無名句文。既無名句文。即意不能生解。為第八識。但變得佛本質徑直聲。本質徑直聲上。且無名句文。為第八不緣故。此答云。理實第六識緣自第八相分為境。謂佛本質聲。及自第八變影像聲。合為一聲。世尊本質聲。既有名句文等。第六識。於自耳根。緣第八相分聲。名句文三不無。為佛本質聲上有名句文。例如世間人。共看一紙文書。若不識書人。但見其紙墨黑白色。即不能知其義理差別。若識書人。見紙墨黑白。及能知其間義理差別。今耳識及第八如不識書人。第六如識書人。第六既緣實聲。亦能緣得名句文故。又聲是所依。名句文是能依。名句文依實聲上有。既有實聲。其名句文。自連帶聲上有故。意識為能分別故。自然緣得。又聞即比量。聽聞名句文三等時。向心所上比度生解。唯第六識具比量。若緣名義。便在意中。

問。夫聞法者。既託諸佛悲願為本質。作增上緣。眾生但自心識心上。所變得影像相分文義。此即實無心外法。為執見未信者。於世法中事。如何引證。印成後信。入一乘門。

答。世法即佛法。佛法即世法。云何更舉事立況。然為未決定信者。寧無方便。若論比知。觸目咸是。且舉一二。略類此宗。如西國婆羅門求聰明。常供養天神等。後於夢中。見有天人授與呪論等法。然夢中實無天人。為說聰明法論呪等。託天人為增上緣。自識心上變作論呪解。今眾生見聞亦爾。然於比況中。夢喻最親。以自夢中。實無外境。皆是夢心變起。可為現證。又此土周暢耕田。母欲得子歸。其母遂齧指。周暢在田下心痛。念云。是母喚我。及歸。果如其言。母雖有喚子之心。而不發言。如來但有說法之心。而不說法。自是眾生心上變起故。若正解者。即諸佛悲願為應。機熟宜聞為感。感應道交。非一非異。唯心方顯。不落斷常。不可各取一邊。違於中道。

問。根塵所對。現證分明。如何圓通。得入空理。

答。眼對色塵。無而有見。異熟業果。不可思議。唯智所知。非情所測。諸法實性。親證方明。有見有聞。世俗心量。若約真諦。根境俱空。且如世俗門中。見無自性。如眼勝義根。如火。既能發識。又能照境。識如人。能了別。境如物。故知無根不能發識。無識不能了境。無境不能起見。三法和合。方成見性。則見性無從。和合非有。如思益經偈云。悉見十方國。一切眾生類。而於眼色中。終不生二相。諸佛所說法。一切能聽受。而於耳聲中。亦不生二相。能於一心中。知眾生諸心。自心及彼心。此二不分別。廣百門論破根境品云。眼等根塵。若執實有。理必不然。所以者何。違比量故。謂眼非見。如耳等根。耳亦非聞。如眼等根。鼻不能嗅。如舌等根。舌不能嘗。如鼻等根。身不能覺。如上諸根。一切皆由造色性故。或大種故。或業果故。又眼等根。皆有質礙故。可分析。悉令歸空。或無窮過。是故不應執為實有。但是自心隨因緣力。虛假變現。如幻事等。俗有真無。又破情品云。眼為到色見耶。不到色見耶。若眼去到色乃見者。遠色應遲見。近色應速見。何以故。去法爾故。而今近瓶遠月一時見。是故知眼不去。若不去。則無和合。復次若眼力不到色而見者。何故見近不見遠。遠近應一時見。故知見性無從。諸根例爾。如還原集自他觀門云。兩身為自他。彼身為他。己身為自。一身復為自他。色身為他。心即為自。心復為自他。心即為他。智即為自。智復有自他。有所得智為他。無所得智為自。無所得智復有自他。淨智為他。是淨亦淨為自。觀身實相。觀佛亦然。稽首如空無所依。心淨已度諸禪定。無住則無本。覺。此名為佛。假名名為佛。亦無佛可成。無成可成。無出可出。是名佛出。無所見。了了見。了了見。無所見。但有名字。名字性空無所有。鏡像如虛空。虛空如鏡像。色心如虛空。虛空如色心。色心如鏡像。鏡像身無二。亦復非是一。若能如是解。諸佛從中出。諸佛唯有名。如空應響聲。無心究竟道。法法自然平。平處亦無平。無平作平說。此中言語斷。心行處亦滅。眼空保色空。色空保眼空。兩空自相保。則無眼識賊。耳空保聲空。聲空保耳空。兩空自相保。則無耳識賊。鼻空保香空。香空保鼻空。兩空自相保。則無鼻識賊。舌空保味空。味空保舌空。兩空自相保。則無舌識賊。身空保觸空。觸空保身空。兩空自相保。則無身識賊。心空保法空。法空保心空。還是一空能保二空。亦能保一空。是故號空空。假名說見諦。若知六根淨。即無六塵賊。若無六塵賊。心王自清淨。方便持化凡。題名寄佛性。釋曰。是以若眼空色不空。色空眼不空。則不可相保。以根境異故。必為侵害。若同一性。即無疑矣。如世間作保之人。若是忠良人。即可忠良人作保。若惡行人。則不可保。以情性異故。六種根塵。和同既爾。一切萬法。順旨亦然。故首楞嚴經云。佛告阿難。根塵同原。縛脫無二。識性虛妄。猶如空華。阿難。由塵發知。因根有相。相見無性。同於交蘆。是故汝今。知見立知。即無明本。知見無見。斯即涅槃無漏真淨。云何是中更容他物。

問。色塵質礙。可分析歸空。聲性虛通。應是實有。

答。聲塵生滅。動靜皆空。聲不至於耳根。根不往於聲所。既無一物中間往來。則心境俱虛。聲不可得。如首楞嚴經云。復次阿難。云何十二處。本如來藏。妙真如性。阿難。汝且觀此祇陀樹林。及諸泉池。於意云何。此等為是色生眼見。眼生色相。阿難。若復眼根生色相者。見空非色。色性應消。消則顯發一切都無。色相既無。誰明空質。空亦如是。若復色塵生眼見者。觀空非色。見即消亡。亡則都無。誰明空色。是故當知。見與色空。俱無處所。即色與見。二處虛妄。本非因緣。非自然性。又推聲處文云。阿難。汝更聽此祇陀園中。食辦擊鼓。眾集撞鐘。鐘鼓音聲。前後相續。於意云何。此等為是聲來耳邊。耳往聲處。阿難。若復此聲來於耳邊。如我乞食室羅筏城。在祇陀林。則無有我。此聲必來阿難耳處。目連迦葉。應不俱聞。何況其中一千二百五十沙門。一聞鐘聲。同來食處。若復汝耳往彼聲邊。如我歸住祇陀林中。在室羅城。則無有我。汝聞鼓聲。其耳已往擊鼓之處。鐘聲齊出。應不俱聞。何況其中象馬牛羊。種種音響。若無來往。亦復無聞。是故當知。聽與音聲。俱無處所。即聽與聲。二處虛妄。本非因緣。非自然性。又推香處文云。阿難。汝又嗅此鑪中栴檀。此香若復燃於一銖。室羅筏城。四十里內同時聞氣。於意云何。此香為復生栴檀木。生於汝鼻。為生於空。阿難。若復此香生於汝鼻。稱鼻所生。當從鼻出。鼻非栴檀。云何鼻中有栴檀氣。稱汝聞香。當於鼻入。鼻中出香。說聞非義。若生於空。空性常恒。香應常在。何藉鑪中爇此枯木。若生於木。則此香質因爇成煙。若鼻得聞。合蒙煙氣。其煙騰空未及遙遠。四十里內。云何已聞。是故當知。香鼻與聞。俱無處所。即嗅與香。二處虛妄。本非因緣。非自然性。推味處文云。阿難。汝常二時。眾中持鉢。其間或遇酥酪醍醐。名為上味。於意云何。此味為復生於空中。生於舌中。為生食中。阿難。若復此味。生於汝舌。在汝口中。只有一舌。其舌爾時已成酥味。遇黑石蜜。應不推移。若不變移。不名知味。若變移者。舌非多體。云何多味。一舌之知。若生於食。食非有識。云何自知。又食自知。即同他食。何預於汝。名味之知。若生於空。汝噉虛空。當作何味。必其虛空。若作鹹味。既鹹汝舌。亦鹹汝面。則此界人。同於海魚。既常受鹹。了不知淡。若不識淡亦不覺鹹。必無所知。云何名味。是故當知。味舌與嘗俱無處所。即嘗與味。二俱虛妄。本非因緣。非自然性。推觸處文云。阿難。汝常晨朝。以手摩頭。於意云何。此摩所知。誰為能觸。能為在手。為復在頭。若在於手。頭則無知。云何成觸。若在於頭。手則無用。云何名觸。若各各有。則。汝阿難。應有二身。若頭與手一觸所生。則手與頭。當為一體。若一體者。觸則無成。若二體者。觸誰為在。在能非所。在所非能。不應虛空與汝成觸。是故當知。覺觸與身。俱無處所。即身與觸。二俱虛妄。本非因緣。非自然性。今推十二根塵。處所既無。則前六根門無處而入。後十八界無界而分。可驗眾生界中。即今現行心境俱空。世俗諦中。假施設法悉皆無有。夫宗鏡所錄。皆是現證法門。一入全真。更無前後。如或不信。但靜思看。若見一念無生。自然與經冥合。如菩薩念佛三昧經偈云。此身常無知。如草木瓦礫。菩提無形色。寂滅恒不生。身不觸菩提。菩提不觸身。心不觸菩提。菩提不觸心。而能有相觸。實為不思議。釋曰。故知色不至眼。耳不到聲。而有見聞。是不可思議。以自性離中。而有顯現。故知六根無對。皆是無諍法門。諸境含虛。盡冥不二之道。即今眾生境界。真不可思議矣。曷用遠求諸聖作用。而自鄙劣者哉。此宗鏡。是照眾生之癡闇。同諸佛之光明。使法界含生。一時圓證。如法集經云。須菩提白佛言。世尊。眼色二法無所諍競。以不和合故。以此二法不相到故。夫不合不到法。皆無違諍。世尊。法無有二。是故不諍。廣百門論破根境品云。復次若耳根境合。知者。不應遠近一時俱聞。聲從質來。既有遠近。不應一念同至耳根。耳無光明。不應趣境。又聲離質。來入耳聞。亦不應理。鐘鼓等聲。現不離質。遠可聞故。若耳與聲無聞而取。如香等。不辯方維。若耳與聲不合而取。應無遠近一切皆聞。不合體無。相無別故。或應一切皆不能聞。是故耳根。聲合不合。實取自境。二俱不成。又云。心若趣塵。體則不遍。心常往境。我應無心。然微細心。身中恒有。睡眠悶等。諸位常行。有息等故。夢可得故。勞倦增故。引覺心故。任持身故。觸身覺故。又若內身恒無心者。如死屍等。害應無愆。供應無福。則與空見外道應同。有執。心體不遍不行。但用有行。亦同此過。心用心體。不相離故。又若心體往趣前塵。有觸內身。應無覺受。應動思慮。不損內心。如是諸宗。執實根境。皆不應理。應信非真。又一切世間有情無情。諸法義相。如依陽焰有水想生。誑惑自心。亦為他說。由此妄想。建立根塵。及餘世間諸事差別。如顯此想。依多法成。是假非真。故說想蘊乃至如諸幻事。體實雖無。而能發生種種妄識。眼等亦爾。體相皆虛。如矯誑人。生他妄識。想隨此發。境。豈為真。根境皆虛。猶如幻事。大集經偈云。至心念法思惟法。是故不見色與聲。若得入於深法界。爾時則無色聲等。般若燈論偈云。眼不見色塵。意不知諸法。此名最上實。世人不能度。是以根境唯心。名相俱寂。故知世諦真諦。同趣佛乘。有情無情。咸歸智地。以真無中。絕名絕相。心智路斷。是不可思議。以俗有中。如幻如化。無中顯現。是不可思議。不可以情識知。不可以有無測。所以廣百門論。明世間法有五種難測。頌云。世間諸所有。無不皆難測。根境理同然。智者何驚異。論曰。如一思業。能感當來內外無邊果相差別。極善工匠。所不能為。是名世間第一難測。又如外種。生長芽莖。無量枝條華葉根果。形色間雜。嚴麗宛然。是名世間第二難測。又如華樹。名曰無憂。婬女觸之。眾華競發。枝條垂拂。如有愛心。是名世間第三難測。又如華樹。名如樂音。聞作樂聲。舉身搖動。枝條裏娜。如舞躍人。是名世間第四難測。又如華樹。名好鳥吟。聞鳥吟聲。即便搖動。枝條裏娜。如喜抃人。是名世間第五難測。如是難測。世事無邊。根境有無。方之甚易。世俗故有。勝義故空。諸有智人。不應驚異。如中觀論偈云。以法知有人。以人知有法。離法何有人。離人何有法。法者。眼耳苦樂等。人者。是本住。汝謂以有法故知有人。以有人故知有法。今離眼耳等法何有人。離人何有眼耳等法。復次一切眼等根。實無有本住。眼耳等諸根。異相而分別。眼耳等諸根。苦樂等諸法。實無有本住。因眼緣色。生眼識。以和合因緣。知有眼等諸根。不以本住故。如是。故偈中說。一切眼耳等根。實無有本住。眼耳等諸根。各自能分別。

問曰。若眼等諸根無有本住者。眼等一一根。云何能知塵。若一切眼耳等諸根。苦樂等諸法無本住者。今一一根。云何能知塵。眼耳等諸根無思惟。不應有知。而實知塵。當知離眼耳等諸根。更有能知塵者。

答曰。若爾者。為一一根。中各有知者。為一知者在諸根中。二俱有過。何者。若諸根各有知者。即成多人。若一知在諸根中者。或眼正緣色時。知已屬眼。聲塵起時。耳應不聞。如無言說經偈云。內外地界無二義。如來智慧能覺了。彼無二相及不二。一相無相如是知。金光女經云。文殊師利語彼童女。應觀諸界。童女答言。文殊師利。譬如劫燒時。三界等亦爾。般若波羅蜜經云。彼一切法。無知者。無見者。彼說法師亦不可得。不可以心分別。不可以意能知。佛母經云。阿姊。眼不見色。乃至意不知法。如是菩提離。故眼色離。乃至菩提離。故意法離等。入楞伽經偈云。如水流枯竭。波浪則不起。如是意識滅。種種識不生。又偈云。此中無心識。如虛空陽焰。如是知諸法。而不知一法。究竟一乘。寶性論偈云。如一切世間。依虛空生滅。依於無漏界。有諸根生滅。火不燒虛空。若燒無是處。如是老病死。不能燒佛性。地依於水住。水復依於風。風依於虛空。空不依地等。如是陰界根。住煩惱業中。諸煩惱業等。住不善思惟。不善思惟行。住清淨心中。自性清淨心。不住彼諸法。陰入界如地。煩惱業如水。不正念如風。淨心界如空。依性起邪念。念起煩惱業。能起陰界入。依止於五陰。界入等諸法。有諸根生滅。如世界成壞。淨心如虛空。無因復無緣。及無和合義。亦無生住滅。如虛空淨心。常明無轉變。為虛妄分別。客塵煩惱染。又五現識不動。唯意識分別。如首楞嚴經云。佛告阿難。識性無源。因於六種根塵妄出。汝今遍觀此會聖眾。用目循歷。其目周視。但如鏡中無別分析。汝識於中。次第標指。此是文殊。此富樓那。此目犍連。此須菩提。此舍利弗等。如五現量。周圓而視。如鏡中鑒像而無分別。若第六意根。即次第分別。非如五現量頓見。又經云。識動見澄者。見澄。即五現量識。分別為動。又經云。本無所從者。此識心本來湛然。不從修得。本來澄寂。五現量識。亦復如是。

問。意識緣境多少。三境三量。如何分別。

答。古德云。第六意識。即比量。意識能緣三世法。三性法。三界法。一百法等。法爾皆是第六意識緣也。有二。一明了。二獨頭。且明了者。唯於五根門中。取五塵境。是初念與五同緣時。率爾心中。唯是現量。緣其實五塵境。若後念已去。不妨通比量非量。作行解緣其長等假色。即比量。或於五塵上起執時。便是非量。即明了意識。前後許通三量。三境中。若緣五塵實法時。是性境。若後念行解心緣長等假色時。即真獨影。似帶質。二獨頭意識有三。一夢中獨頭。亦緣十八界法。唯是獨影境非實。此夢中境。唯是法處收。亦無本質。二覺寤獨頭。而緣一切法。有漏無漏。有為無為。世出世間。有體無體。空華兔角。三世一切法。皆悉緣得。

問。此覺寤意識。一念緣十八界時。有幾相分。幾本質。幾見分。

答。本質相分。各有十八箇。見分唯一。

問。如何有十八相分。

答。十八相分。從十八本質起。即有十八相分。如一面鏡中。觀無量人影。外邊有十八實人。鏡即是一。於鏡上現有十八人影像。見分亦爾。一見分能緣得十八相分。若質影有十八。以是所緣境。則無過。若一念有十八見分。便有多心過。三定中獨頭。亦緣十八界。一百法。過未境。及真如等。若假若實。皆能緣故。三量分別者。若是明了意識。前後念通三量。夢中獨頭。唯非量。以不稱境故。覺寤。通三量。若緣有體法時。緣五境界等。通現量故。若緣五根界。七心界等。是比量。若緣空華過未境等。通比量非量。若定中。唯是現量。雖緣假法。以不妄執。無計度。故唯現量。又獨頭意識。即獨生散意。緣影像門。影像者。諸有極微。是極逈極略二色。皆是假影色也。但於觀心。析麁色。至色邊際。假立極微。唯觀心影像。都無實體。

## 宗鏡錄卷第五十四

戊申歲分司大藏都監開板