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title: "瑜伽師地論 · 1"
description: "瑜伽师地论是佛教大乘瑜伽行派的重要经典，相传由弥勒菩萨口述，无著菩萨记录，唐代高僧玄奘于贞观年间从印度取回并译成汉文。该论共100卷，系统阐述瑜伽行派的教义，内容包括十七地、三性、八识、修行次第等核心理论，被誉为大乘佛教的百科全书。作为唯识学的根本论典，瑜伽师地论奠定了唯识学派的理论基础，对汉传佛教和藏传佛教影响深远，在佛教思想史上具有崇高地位，是研究唯识学和瑜伽行派必读的经典著作。"
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又諸意識望餘識身有勝作業。謂分別所緣，審慮所緣，若醉，若狂，若夢，若覺，若悶，若醒，若能發起身業、語業，若能離欲，若離欲退，若斷善根，若續善根，若死，若生等。

> また、さまざまな意識（心の働き）は、他の認識よりも優れた働きを持っています。それは、対象を区別して捉えたり、深く考えたりすることです。また、酔っている状態、気が狂っている状態、夢を見ている状態、目覚めている状態、気を失っている状態、意識を取り戻した状態、身体や言葉による行動を引き起こすこと、欲望から離れること、欲望から再び戻ってしまうこと、善い心の根を断つこと、善い心の根を再びつなげること、死ぬこと、生まれることなどが含まれます。

云何分別所緣？由七種分別。謂有相分別、無相分別、任運分別、尋求分別、伺察分別、染污分別、不染污分別。

> 分別の対象とは何か？それには七つの分別がある。すなわち、有相分別、無相分別、任運分別、尋求分別、伺察分別、染汚分別、不染汚分別である。

有相分別者，謂於先所受義、諸根成就善名言者所起分別。

> 有相分別とは、過去に経験した対象について、感覚器官が十分に発達し、言葉を巧みに使える者が起こす分別である。

無相分別者，謂隨先所引，及嬰兒等不善名言者所有分別。

> 無相分別とは、先に引き合いに出したものに従って生じる分別、および幼児など、うまく言葉で表現できない者たちの分別のことをいいます。

任運分別者，謂於現前境界，隨境勢力任運而轉所有分別。

> 任運分別とは、目の前の対象（境界）に対して、その対象の力のままに、自然に生じる分別のことである。

尋求分別者，謂於諸法觀察尋求所起分別。

> 分別を求めるとは、あらゆる事柄について観察し求め、そこから生じる分別のことです。

伺察分別者，謂於已所尋求、已所觀察，伺察安立所起分別。

> \*\*伺察分別\*\*というのは、すでに自分が追求したり観察した事柄について、さらにそれらを詳しく吟味し、確定づけることから生じる分別（思考）のことです。

染污分別者，謂於過去顧戀俱行、於未來希樂俱行、於現在執著俱行所有分別。若欲分別、若恚分別、若害分別，或隨與一煩惱、隨煩惱相應所起分別。

> 汚れた分別とは、過去に対しては執着を伴い、未来に対しては期待を伴い、現在に対しては固執を伴って生じる分別のことです。欲望による分別、怒りによる分別、害意による分別、あるいは何らかの煩悩や随煩悩と結びついて生じる分別がこれにあたります。

不染污分別者，若善、若無記。謂出離分別、無恚分別、無害分別、或隨與一信等善法相應。或威儀路、工巧處，及諸變化所有分別。如是等類，名分別所緣。

> 不染汚の分別には、善と無記があります。それは、出離分別、無恚分別、無害分別、またはこれらとともに信などの善法と対応するものです。あるいは、威儀路、工巧処、および諸々の変化における全ての分別です。このような種類のものを、分別の対象と呼びます。

云何審慮所緣？謂如理所引、不如理所引，非如理非不如理所引。

> では、どのようにして対象を正しく審らかに考慮するのでしょうか。 それは、道理にかなった考え方に導かれる場合と、道理にかなわない考え方に導かれる場合、さらにそのどちらでもない場合があります。

如理所引者：謂不增益非真實有，如四顛倒。謂於無常常倒，於苦樂倒，於不淨淨倒，於無我我倒。亦不損減諸真實有，如諸邪見。謂無施與等諸邪見行。

> 真理に従って導かれるとは、実際には存在しないものを余計に付け加えないこと。例えば、四つの倒れた見解（四顛倒）のように。 - 無常であるものに「常」という倒れた見方 - 苦しみであるものに「楽」という倒れた見方 - 清らかでないものに「清らか」という倒れた見方 - 無我であるものに「我」という倒れた見方 また、実際に存在するものを減らしたり否定したりしないこと。例えば、様々な誤った見解（邪見）のように。 - 施しなどには意味がない、といった誤った見解の行い。

或法住智，如實了知諸所知事。或善清淨出世間智，如實覺知所知諸法。如是名為如理所引。

> あるいは「法住智」とは、知るべき事柄をあるがままに正しく理解する智慧です。 あるいは「善清浄なる出世間智」とは、知るべき諸々の法をあるがままに覚り知る智慧です。 このようにして、道理にかなった道へと導かれるのです。

與此相違，當知不如理所引。非如理非不如理所引者，謂依無記慧審察諸法。如是名為審慮所緣。

> これと反対のものは、道理にかなった思考で導かれたものではないと知るべきです。また、道理にかなったものでも、道理にかなっていないものでもないものとは、無記（善悪いずれでもない）の智慧に基づいて、様々な事柄を慎重に考察することを指します。このようにして、対象をよく考えて見極めることを「審慮所縁」といいます。

云何醉？謂由依止性羸劣故，或不習飲故，或極數飲故，或過量飲故，便致醉亂。

> 酔いとは何か。それは、もともと体質が弱いことや、酒に慣れていないこと、あるいは度を超えて頻繁に飲むこと、または過量に飲むことによって、意識が混濁し、乱れる状態をいう。

云何狂？謂由先業所引，或由諸界錯亂，或由驚怖失志，或由打觸末摩，或由鬼魅所著，而發癲狂。

> 狂気とは何か。それは、過去の業に起因するもの、あるいは体内の要素が乱れることによるもの、または恐怖によって精神が乱れること、あるいは身体の急所を打たれること、あるいは鬼や霊にとり憑かれることによって、発症するものである。

云何夢？謂由依止性羸劣；或由疲倦過失；或由食所沈重；或由於闇相作意思惟；或由休息一切事業；或由串習睡眠；或由他所引發，如由搖扇，或由明呪，或由於藥，或由威神；而發惛夢。

> 夢とは何か。それは、心身の基盤が弱っていること、あるいは疲れすぎていること、食べ過ぎで体が重くなっていること、暗いイメージに思いを巡らせること、すべての活動を休めること、眠る習慣がついていること、あるいは他人の働きかけ──例えば扇がれたり、呪文を使われたり、薬を飲まされたり、神の力に影響されたり──によって、ぼんやりした夢を見ることである。

云何覺？謂睡增者不勝疲極故，有所作者要期睡故，或他所引，從夢而覺。

> ここで「覚める」とはどういうことかというと、眠りが深まって疲れが取れたために自然に目覚めることや、やるべきことがあって予定の時間に目覚めること、あるいは他の人に呼ばれるなどして夢から覚めることである。

云何悶？謂由風熱亂故；或由捶打故；或由瀉故，如過量轉痢及出血；或由極勤勞；而致悶絕。

> 気絶とは何か？それは、風や熱の乱れによる場合、あるいは打撃による場合、あるいは下痢や出血が過度に続くことによる場合、あるいは極度の疲労による場合に生じる、意識を失う状態を指す。

云何醒？謂於悶已而復出離。

> 「覚める」とはどういうことか。それは、意識がもうろうとした状態から再び出て、はっきりと戻ることである。

云何發起身業、語業？謂由發身語業智前行故；次欲生故；次功用起故；次隨順功用為先，身語業風轉故；從此發起身業、語業。

> では、身体の動作や言葉の行いは、どのようにして生じるのでしょうか。 それは、まず身体や言葉の行為を起こそうとする智慧が先行し、次にその行為をしたいという欲求が生まれ、さらに努力（はたらきかけ）が起こり、その努力に伴って、身体と言葉の行為のもととなる「風」（エネルギー・気の流れ）が動くことによって、身体の動作と言葉の行いが現れるのです。

云何離欲？謂隨順離欲根成就故，從他獲得隨順教誨故，遠離彼障故，方便正修無倒思惟故，方能離欲。

> どのようにして欲から離れるのか。それは、欲から離れるための基礎が整っていること、他人から適切な教えを得られること、妨げとなるものを遠ざけること、正しい方法で修行し、誤りのない考え方をすることによる。これらの条件が整って初めて、欲から離れることができるのである。

云何離欲退？謂性軟根故；新修善品者，數數思惟彼形狀相故；受行順退法故；煩惱所障故；惡友所攝故；從離欲退。

> どうして離欲から退くのか。 それは、生来の能力が弱いからである。 また、新たに善い行いを積み始めた者が、繰り返しその対象の形や姿を思い描くからである。 さらに、退く原因となる法を受け入れて実践するからである。 煩悩に妨げられるからである。 悪い友人に引き込まれるからである。 これらの理由によって、人は離欲の状態から退くのである。

云何斷善根？謂利根者，成就上品諸惡意樂現行法故；得隨順彼惡友故；彼邪見纏極重圓滿到究竟故；彼於一切惡現行中，得無畏故；無哀愍故；能斷善根。此中種子亦名善根，無貪瞋等亦名善根。但由安立現行善根相違相續，名斷善根；非由永拔彼種子故。

> どのようにして善根を断つのか。それは、鋭い根性の者が、最上級の悪意ある心の傾向を現実に行う法を成就し、その悪友に従い、邪見の煩悩が極めて重く完全に極まり、悪行のすべてにおいて恐れがなくなり、哀れみの心を失うことによる。ここでいう「種子」も善根と名づけられ、無貪・無瞋なども善根と呼ばれる。しかし、現行の善根と相違した相続を安立することによって、善根を断つと名づけるのであって、その種子を永久に抜き去るからではない。

云何續善根？謂由性利根故；見親朋友修福業故；詣善丈夫聞正法故；因生猶豫，證決定故；還續善根。

> どのようにして善根（ぜんこん）が続くのでしょうか。 それは、もともと優れた素質があるからです。 また、善行を積む親しい友人や仲間を見るからです。 あるいは、善き師のもとを訪れ、正しい教えを聞くからです。 さらに、迷いやためらいを経て、確かな悟りに至るからです。 このようにして、善根は再びつながり、続いていくのです。

云何死？謂由壽量極故，而便致死。此復三種。謂壽盡故，福盡故，不避不平等故。當知亦是時非時死。或由善心，或不善心，或無記心。

> 死とは何か。寿命が尽きたために死ぬことである。これには三つの種類がある。寿命が尽きた場合、福徳が尽きた場合、そして不適切な行いを避けなかった場合である。これらは、時に応じた死と時に応じない死があると知るべきである。また、死は善心による場合、不善心による場合、あるいは無記心（善でも悪でもない心）による場合がある。

云何壽盡故死？猶如有一，隨感壽量滿盡故死，此名時死。

> 寿命が尽きて死ぬとはどういうことか。例えば、ある人がその人の寿命の量がすべて尽きたために死ぬことがあります。これを「時が来た死」と呼びます。

云何福盡故死？猶如有一，資具闕故死。

> どのようにして福が尽きて死ぬのか？例えば、生活に必要な品々が欠けたために死ぬようなものである。

云何不避不平等故死？如世尊說：九因九緣，未盡壽量而死。何等為九？謂食無度量，食所不宜，不消復食，生而不吐，熟而持之，不近醫藥，不知於己若損若益，非時、非量行非梵行，此名非時死。

> 不平等のゆえに死を避けられないとはどのようなことか。世尊が説かれたように、九つの因と九つの縁によって、寿命を全うせずに死ぬことがある。その九つとは何か。すなわち、食事の量が適切でないこと、体に合わないものを食べること、消化しないままさらに食べること、未消化のものを吐き出さないこと、消化したものをそのまま体内に留めること、医薬に頼らないこと、自分の体にとって何が損で何が益かを知らないこと、時機に合わず、節度を守らずに不浄行を行うこと、これらを「時ならざる死」という。

云何善心死？猶如有一，將命終時，自憶先時所習善法；或復由他令彼憶念。由此因緣，爾時信等善法現行於心，乃至麁想現行。若細想行時，善心即捨，唯住無記心。所以者何？彼於爾時，於曾習善亦不能憶，他亦不能令彼憶念。

> 善心で死ぬとはどのようなことか。例えば、ある人が命終わろうとするとき、自ら過去に修行した善い教えを思い出すか、または他人がそれを思い出させる。そのような因縁により、その時、信心などの善い心が現れ働く。さらに粗い想念が現れている間はそうであるが、微細な想念が働く段階になると善心は捨てられ、ただ無記の心だけが残る。なぜか。その時には、かつて修行した善い教えを自ら思い出すこともできず、他人もまた思い出させることができないからである。

云何不善心死？猶如有一，命將欲終，自憶先時串習惡法；或復由他令彼憶念。彼於爾時，貪瞋等俱諸不善法現行於心，乃至麁、細等想現行，如前善說。又善心死時，安樂而死；將欲終時，無極苦受逼迫於身。惡心死時，苦惱而死；將命終時，極重苦受逼迫於身。

> 不善の心での死とはどのようなものか。 例えば、ある人が命の終わりに近づいた時、自らが過去に繰り返し身に染み込ませた悪しき行いを思い出したり、他人にそれを思い起こさせられたりする。 そうした時、その人の心には貪欲や怒りなどの様々な不善の法が現れ、微細な想いや粗い想いなどが次々と生じる。これは先に善について述べたのと同じである。 また、善心で死ぬ時は、安らかで楽しい状態で死を迎える。命の終わりに際しても、極度の苦しい感覚に身体が迫られることはない。 これに対し、悪心で死ぬ時は、苦しみと悩みに満ちて死を迎える。命の終わりに近づく時、極めて重い苦しみの感覚が身体を激しく責め立てるのである。

又善心死者，見不亂色相。不善心死者，見亂色相。

> また、善心で死ぬ者は、乱れのない色の相を見る。不善心で死ぬ者は、乱れた色の相を見る。

云何無記心死？謂行善不善者，或不行者，將命終時，自不能憶，無他令憶。爾時非善心非不善心死。既非安樂死，亦非苦惱死。

> \*\*無記の心で死ぬとはどういうことか？\*\* 善行や不善行を行った者、あるいは行わなかった者が、命終わろうとする時に、自ら思い出すこともできず、他人に思い出させることもない場合がある。その時は、善心でもなく不善心でもない状態で死を迎える。安楽死でもなく、苦悩死でもない。

又行善不善補特伽羅，將命終時，或自然憶先所習善及與不善，或他令憶。彼於爾時，於多曾習力最強者，其心偏記，餘悉皆忘。若俱平等曾串習者，彼於爾時，隨初自憶，或他令憶，唯此不捨，不起餘心。

> さらに、善行と不善行を積んだ人が命終わろうとする時、自然に過去に慣れ親しんだ善行や不善行を思い出すか、他人に思い出させられることがあります。その時、多く繰り返し慣れ親しんだ力が最も強いものに対して、心が特に記憶し、他のことはすべて忘れてしまいます。もしどちらも平等に慣れ親しんでいたなら、その時、自分で最初に思い出すか、他人に思い出させられるかした、そのことだけに執着して離れず、他の心は起こりません。

彼於爾時，由二種因增上力故，而便命終。謂樂著戲論因增上力，及淨不淨業因增上力。

> その時、彼は二つの強い力によって命を終える。 すなわち、言葉や考えに執着する力と、善悪の行いの力である。

受盡先業所引果已，若行不善業者，當於爾時，受先所作諸不善業所得不愛果之前相，猶如夢中見無量種變怪色相。依此相故，薄伽梵說：若有先作惡不善業及增長已，彼於爾時，如日後分，或山山峯影等懸覆、遍覆、極覆。當知如是補特伽羅從明趣闇。

> 過去の業によって引き出された果報を受け終えた後、もし不善の業を行った者は、その時に、かつて行った諸々の不善の業によって得られる好ましくない果報の前兆が現れる。それは、あたかも夢の中で無数の奇怪な色や形を見るようなものである。この前兆に基づいて、世尊は次のように説かれた。「もし過去に悪しき不善の業を作り、それを増長させた者がいるならば、その者は、ちょうど日の後の方角において、山や山の峰の影などが垂れかかり、覆い、全面的に覆い、極めて覆うかのように、闇に包まれる。このような人は、明るいところから暗いところへと向かうと知るべきである。」

若先受盡不善業果而修善者，與上相違。當知如是補特伽羅從闇趣明。

> もし、まず不善の業の果報が尽きるのを経験し、その後に善を修める者がいるなら、それは前述とは逆の関係になる。こうした人は、闇から明るみへと進む者であると知るべきである。

此中差別者，將命終時，猶如夢中見無量種非變怪色可意相生。若作上品不善業者，彼由見斯變怪相故，流汗毛竪，手足紛亂，遂失便穢，捫摸虛空，翻睛咀沫。彼於爾時，有如是等變怪相生。若造中品不善業者，彼於爾時，變怪之相或有或無，設有不具。

> ここで違いについて説明します。命終わろうとする時、夢の中で無数の様々な怪しい色や心地よい相が現れるのを見るようなものです。もし上品の不善業を造った者は、これらの怪しい相を見るために、汗を流し、毛を逆立て、手足が乱れ、遂には便や小便をもらし、虚空をかき回し、目をひっくり返して泡を吹きます。その時、このような怪しい相が現れます。もし中品の不善業を造った者は、その時、怪しい相があったりなかったり、あっても完全ではありません。

又諸眾生將命終時，乃至未到惛昧想位，長時所習我愛現行。由此力故，謂我當無，便愛自身。由此建立中有、生報。若預流果及一來果，爾時我愛亦復現行。然此預流及一來果，於此我愛，由智慧力數數推求，制而不著。猶壯丈夫與羸劣者共相捔力，能制伏之。當知此中道理亦爾。若不還果，爾時我愛不復現行。

> また、諸々の衆生が命終わろうとする時、まだ昏昧想の位に至らない間は、長い間習い慣らしてきた我愛が現れ働く。この力によって、「私は無くなるのだ」と思い、自らの身体を愛著する。これによって中有と生報が成立する。 預流果および一來果の者は、その時にも我愛がなお現れ働く。しかし、これらの預流果や一來果の者は、この我愛に対して智慧の力によって何度も何度も推し求め、制御して執着しない。ちょうど、力強い壮年の男が弱い者と力比べをして、それを打ち負かすことができるようなものである。この道理もまた同じであると知るべきである。 不還果の者については、その時には我愛がもはや現れ働かない。

又解肢節，除天、那落迦，所餘生處一切皆有。此復二種。一、重，二、輕。重謂作惡業者，輕謂作善業者。北拘盧洲一切皆輕。

> さらに、死に際に身体の節々が解ける感覚について説明します。天界と地獄を除く、すべての生存領域でこの現象が存在します。これには二種類あります。第一は「重い」感覚、第二は「軽い」感覚です。「重い」とは悪業をなした者に起こり、「軽い」とは善業を積んだ者に起こります。なお、北倶盧洲ではすべてが「軽い」感覚です。

又色界沒時，皆具諸根。欲界沒時、隨所有根，或具、不具。

> また、色界から命終する時は、必ずすべての感覚器官（諸根）を備えています。欲界から命終する時は、その人に元々ある感覚器官に応じて、すべて備わっている場合もあれば、備わっていない場合もあります。

又清淨解脫死者，名調善死。不清淨不解脫死者，名不調善死。

> また、清らかで解脱した死を「よく調えられた死」といいます。清らかでなく解脱していない死を「よく調えられていない死」といいます。

又將終時，作惡業者，識於所依從上分捨。即從上分冷觸隨起，如此漸捨乃至心處。造善業者，識於所依從下分捨。即從下分冷觸隨起，如此漸捨乃至心處。當知後識唯心處捨。從此冷觸遍滿所依。

> また、死に臨む時、悪業を積んだ者の意識は、身体の上から離れていきます。すなわち、上から冷たさが次第に広がり、やがて心臓のあたりに至るまで意識が離れていきます。 一方、善業を積んだ者の意識は、身体の下から離れていきます。すなわち、下から冷たさが次第に広がり、やがて心臓のあたりに至るまで意識が離れていきます。 知るべきは、最後の意識は心臓のあたりだけで離れるということです。そして、その時から冷たさが全身に満ちていくのです。

云何生？

> 生とは何か。

由我愛無間已生故，無始樂著戲論因已熏習故，淨不淨業因已熏習故。彼所依體由二種因增上力故，從自種子，即於是處中有、異熟無間得生。

> 私の愛執が途切れることなく生じ続けてきたため、始まりのない昔から快楽に執着する虚構の原因が染みついてきたため、そして清らかでも不清らかでもある業の原因が染みついてきたためです。その基となる体は、この二つの原因の強い力によって、自分自身の種子から、まさにその場所に、中有と異熟が間断なく生じるのです。

死生同時，如秤兩頭，低昂時等。

> 生死は同時であり、秤の両端のように、一方が下がればもう一方が同時に上がる。

而此中有必具諸根。

> しかし、これは必ず諸根を具えていなければなりません。

造惡業者所得中有，如黑羺光、或陰闇夜。作善業者所得中有，如白衣光、或晴明夜。

> 悪い行いをした人の中有は、黒い羊毛の光や、暗い夜のようです。 善い行いをした人の中有は、白い衣の光や、晴れた夜のようです。

又此中有是極清淨天眼所行。

> また、この中有（ちゅうう）は、極めて清らかな天眼（てんげん）の働きによって見られるものです。

彼於爾時，先我愛類不復現行，識已住故。

> その時、かつて私が愛着していた類のものはもはや現れず、識（しき）はすでに安住していたのである。

然於境界起戲論愛，隨所當生，即彼形類中有而生。

> そして、外界の現象に対して虚妄の分別と執着を起こすと、その執着に応じて、次の生まれるべき世界に、その姿を帯びた「中有（ちゅうう）」の身となって生まれるのである。

又中有眼猶如天眼，無有障礙，唯至生處。所趣無礙，如得神通，亦唯至生處。

> また、中有（ちゅうう）の眼は天眼のように、何の障りもなく見通せます。ただし、それは生まれゆく場所までに限られます。また、その進む道にも妨げはなく、神通力を得たかのようです。しかし、それも生まれゆく場所までに過ぎません。

又由此眼，見己同類中有有情、及見自身當所生處。

> また、この眼によって、自分と同じ種類の中有の有情や、自身がまさに生まれるべき場所を見ることができる。

又造惡業者，眼視下淨，伏面而行；往天趣者上；往人趣者傍。

> さらに、悪業を積んだ者は、目は下を向き（下界を清らかと見て）、うつむいて歩く。 天の世界へ向かう者は、上を向く。 人の世界へ向かう者は、横を見る。

又此中有，若未得生緣，極七日住。有得生緣，即不決定。若極七日未得生緣，死而復生，極七日住。如是展轉未得生緣，乃至七七日住，自此已後，決得生緣。

> また、この中有（中間存在）は、生まれ変わる縁を得られなければ、七日間を極限としてとどまる。縁を得た場合は、その限りではない。七日間を経ても縁を得られなければ、死んで再び生まれ、また七日間を極限としてとどまる。このように、縁を得られない間は繰り返し、四十九日目までとどまる。それ以降は、必ず生まれ変わる縁を得るのである。

又此中有，七日死已，或即於此類生。若由餘業可轉中有種子轉者，便於餘類中生。

> また、この中有（ちゅうう）は七日で死に、そのまま同じ種類の生き物として生まれ変わることがある。しかし、別の業（ごう）の力によって中有の種子が変化する場合は、別の種類の生き物として生まれることになる。

又此中有，有種種名。或名中有，在死生二有中間生故。或名健達縛，尋香行故，香所資故。或名意行，以意為依，往生處故。此說身往，非心緣往。或名趣生，對生有起故。

> また、この中有には様々な呼び名があります。「中有」と呼ばれるのは、死有と生有の間に生じるからです。「ガンダルヴァ（健達縛）」とも呼ばれ、香りを追い求めて香りによって生きるからです。「意行」とも呼ばれ、意に基づいて生まれる場所へと向かうからです。ただし、これは体が移動することを指し、心が禅定などで他界を観想するような心の働きとは異なります。「趣生」とも呼ばれ、生有へと向かう起点となるからです。

當知中有除無色界一切生處。又造惡業者，謂屠羊雞猪等，隨其一類，由住不律儀眾同分故，作感那落迦惡不善業及增長已。

> \## 訳文 中陰（中有）は、無色界を除くすべての生存領域に存在することを知るべきです。 また、悪業をなす者には、羊や鶏や豚などを屠る者がいます。そのような者たちは、戒律を守らないという同じ境遇（不律儀の衆同分）にとどまることによって、地獄に至るような悪く不善な業をつくり、さらにそれを増大させるのです。

彼於爾時，猶如夢中，自於彼業所得生處，還見如是種類有情及屠羊等事。由先所習，喜樂馳趣，即於生處境色所礙，中有遂滅，生有續起。彼將沒時，如先死有，見紛亂色。如是乃至生滅道理，如前應知。

> その時、夢を見ているかのように、自らの業によって生まれ変わる場所において、同じ種類の生き物や羊を屠るなどの光景を再び目にする。前世の習慣によって喜びや楽しみに駆り立てられ、生まれる場所の境遇や色に妨げられて中有（ちゅうう）は消え去り、生有（しょうう）が続いて生じる。その命が終わろうとする時には、以前の死有（しう）のように、乱れた色を目の当たりにする。このようにして、生と滅の道理は、先に述べた通りに理解すべきである。

又彼生時，唯是化生，六處具足。

> また、彼らが生まれるときは、すべて化生であり、六つの感覚器官がすべて備わっています。

復起是心，而往趣之。謂我與彼嬉戲受樂，習諸伎藝。彼於爾時顛倒，謂造種種事業，及觸冷熱。若離妄見，如是相貌尚無趣欲，何況往彼。若不往彼，便不應生。如於那落迦如是，於餘似那落迦鬼趣中生，當知亦爾，如癭鬼等。又於餘鬼、傍生、人等，及欲、色界天眾同分中將受生時，於當生處，見己同類可意有情，由此於彼起其欣欲，即往生處，便被拘礙。死生道理，如前應知。

> かくのごとく心を生じ、その境に向かって赴くのである。すなわち、「私は彼らと共に遊び楽しみ、様々な芸能を習おう」と考える。そのとき、その者は倒錯した見解によって、様々な活動や、冷たさ・熱さを経験する。もし誤った見解（虚妄の見）がなければ、そのような姿かたちに対して、赴きたいという欲求すら生じない。ましてや実際にそこへ赴くことはない。もしそこへ赴かなければ、そこに生まれることもないのである。 地獄においてこのようであるように、地獄と似た餓鬼の世界に生まれる場合も同様であると知るべきである。例えば、甲状腺腫の餓鬼などの場合である。 また、その他の餓鬼、畜生、人間、さらに欲界・色界の天の衆生と同一の境涯に生まれようとするとき、生まれようとする場所において、自分と同じ種類の愛着すべき有情を見る。これによって、その場所に対する喜びと欲求が生じ、その生まれるべき場所へ赴く。すると、そこに拘束されるのである。死と生の道理については、先に述べたように知るべきである。

又由三處現前，得入母胎。一、其母調適，而復值時；二、父母和合，俱起愛染；三、健達縛正現在前。

> また、三つの条件がそろうことで、母胎に入ることができます。第一に、母体が健康で、しかも適切な時期であること。第二に、父母が交わり、共に愛欲の心が起こること。第三に、中有（ちゅうう）の存在（健達縛）がちょうど現前していること。

復無三種障礙。謂產處過患所作，種子過患所作，宿業過患所作。

> また、三つの障りがなくなります。すなわち、生まれる場所の過ちによるもの、種子の過ちによるもの、過去の行いの過ちによるものです。

云何產處過患？謂若產處為風熱癊之所逼迫；或於其中有麻麥果；或復其門如車螺形，有形有曲，有穢有濁。如是等類，產處過患應知。

> 産まれる場所の過失とは、どういうものか。 例えば、産まれる場所が風や熱、または痰などに苦しめられたり、 あるいはその中に、麻や麦のような異物があったり、 またその出口が、巻き貝の形のように、曲がっていたり、歪んでいたり、汚れや濁りがあったりする。 こういった種類のものが、産まれる場所の過失であると知るべきである。

云何種子過患？謂父出不淨非母，或母非父，或俱不出；或父精朽爛，或母，或俱。如是等類，種子過患應知。

> 種子の過失とは何か。父から不浄が出ず、母から出る場合、あるいは母から出ず父から出る場合、または両方とも出ない場合がある。あるいは父の精が腐って劣化している場合、母の場合、または両方の場合もある。このような種類のものを、種子の過失と知るべきである。

云何宿業過患？謂或父或母不作、不增長感子之業，或復俱無。或彼有情不作、不增長感父母業。或彼父母作及增長感餘子業。或彼有情作及增長感餘父母業。或感大宗葉業。或感非大宗葉業。如是等類，宿業過患應知。

> 宿業の過患とは何か。それは、父か母のどちらか、または両方が、子を授かるための因となる行いを積んでいない場合をいう。また、子となる側の者が、父母との縁を結ぶ因となる行いを積んでいない場合もある。あるいは、父母が他の子を授かる因となる行いを積んでいる場合や、子となる者が他の父母と縁を結ぶ因となる行いを積んでいる場合もある。さらに、その業が大きな一族を結ぶ因となる場合もあれば、そうでない場合もある。このように様々な形で、過去の行いの報いとして生じる障りがあることを知るべきである。

若無如是三種過患，三處現前，得入母胎。彼即於中有處，自見與己同類有情為嬉戲等。於所生處起希趣欲。

> もし、この三つの問題がなく、三つの条件が整っていれば、母胎に入ることができます。その者は中有の境で、自分と同じ種類の生き物が遊び戯れる様子などを目にします。そして、生まれる場所に対して強い憧れを抱くのです。

彼於爾時，見其父母共行邪行所出精血而起顛倒。起顛倒者，謂見父母為邪行時，不謂父母行此邪行，乃起倒覺、見己自行。見自行已，便起貪愛。若當欲為女，彼即於父便起會貪；若當欲為男，彼即於母起貪亦爾。乃往逼趣。若女於母，欲其遠去；若男於父，心亦復爾。生此欲已，或唯見男，或唯見女。如如漸近彼之處所，如是如是漸漸不見父母餘分，唯見男女根門。即於此處便被拘礙。死生道理，如是應知。

> その時、その者は父母が不浄行を共に行い、精血を排出するのを「見て」、顛倒した認識を起こす。顛倒した認識とは、父母が不浄行を行うのを見ても、それを父母の行いと認めず、逆の誤った認識を起こし、「自分自身が行っている」と見なすことである。自分が行っていると見なすと、貪愛の心が生じる。もし女として生まれようとする場合、その者は父に対して貪りの欲を起こす。もし男として生まれようとする場合、その者は母に対して同様の貪りの欲を起こす。そしてその対象に近づこうと迫る。女が母に対しては、母が遠く去ることを望み、男が父に対しては、心もまた同様である。この欲が生じると、男根だけが見えたり、女根だけが見えたりする。次第にその場所に近づくにつれて、父母の他の部分は徐々に見えなくなり、男女の性器だけが見えるようになる。まさにその場所で、その者は拘束され、とらわれる。生死の道理は、このようにして知るべきである。

若薄福者，當生下賤家。彼於死時及入胎時，便聞種種紛亂之聲，及自妄見入於叢林、竹𥯤、蘆𥭳等中。若多福者，當生尊貴家。彼於爾時，便自聞有寂靜美妙可意音聲，及自妄見昇宮殿等可意相現。

> もし福の少ない者は、貧しい家に生まれることになる。その者は死ぬ時や胎内に入る時に、様々な騒がしい音を聞いたり、自分が藪や竹藪、葦原などに入る誤った幻覚を見る。一方、多くの福がある者は、高貴な家に生まれる。その時には、静かで美しく心地よい音声を聞き、宮殿などに上るような望ましい姿が現れるのを幻に見るのである。

爾時父母貪愛俱極，最後決定各出一滴濃厚精血。二滴和合住母胎中，合為一段。猶如熟乳凝結之時。當於此處，一切種子異熟所攝執受所依阿賴耶識和合依託。

> さて、両親の愛情と執着が極みに達し、最後にはそれぞれ一滴の濃い精血を出しました。この二滴が母の胎内で混ざり合い、一つに固まります。それはちょうど、熱い乳が冷えて固まる時のようです。この場所に、あらゆる種子が成熟した結果として保持され、執着の基盤となる阿頼耶識（あらやしき）が結びつき、寄り添って存在するのです。

云何和合依託？

> いかにして和合し依託するのか。

謂此所出濃厚精血合成一段，與顛倒緣中有俱滅。與滅同時，即由一切種子識功能力故，有餘微細根及大種和合而生，及餘有根同分精血和合摶生。

> そしてここに説かれた濃厚な精血が合成されて一つの塊となり、また迷いの縁によって中有とともに消滅します。その消滅と同時に、すべての種子識の働きの力によって、残された微細な根と大種が和合して生じ、さらに他の有根の同分の精血と和合して凝り集まって生まれるのです。

於此時中，說識已住結生相續。即此名為羯羅藍位。此羯羅藍中，有諸根大種、唯與身根及根所依處大種俱生。即由此身根俱生諸根大種力故，眼等諸根次第當生。又由此身根俱生根所依處大種力故，諸根依處次第當生。由彼諸根及所依處具足生故，名得圓滿依止成就。

> この時点において、「識」がとどまり、生まれ変わりが連続することが説かれます。これを「羯羅藍（けつらん）」の状態と呼びます。この羯羅藍の中には、諸々の感覚器官の根本要素（大種）が存在しますが、それは身根（触覚の器官）と、その根が依って立つ場所の根本要素と共に生じるものだけです。この身根と共に生じる諸々の根の根本要素の力によって、眼などの諸々の根が順に生じてきます。また、この身根と共に生じる根の依って立つ場所の根本要素の力によって、諸々の根の依り所も順に生じてきます。そして、それらの諸々の根とその依り所が十分に生じ揃うことによって、「完全な依りどころ（依止）が成就した」と言われるのです。

又此羯羅藍色，與心心所安危共同，故名依託。

> また、この羯羅藍（受精卵）の色は、心と心の働き（心所）と共に、危険や安らぎをともにするものである。故に、それを「依託（よりどころ）」と呼ぶのである。

由心心所依託力故，色不爛壞；色損益故，彼亦損益；是故說彼安危共同。

> 心と心の働きが寄りかかる力によって、物質（色）は壊れずに保たれる。物質に損なわれたり増えたりする変化があれば、それにつれて心の働きも損なわれたり増えたりする。そのため、両者は互いに安全と危険を共にすると説かれるのである。

又此羯羅藍識最初託處，即名肉心。如是識於此處最初託，即從此處最後捨。

> また、この羯羅藍（けいらん）の識（しき）が最初に宿る場所のことを「肉心（にくしん）」と言います。この識は、まさにここに最初に宿り、そして最後にこの場所から離れていくのです。