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title: "瑜伽師地論 · 1項 色聚"
description: "瑜伽师地论是佛教大乘瑜伽行派的重要经典，相传由弥勒菩萨口述，无著菩萨记录，唐代高僧玄奘于贞观年间从印度取回并译成汉文。该论共100卷，系统阐述瑜伽行派的教义，内容包括十七地、三性、八识、修行次第等核心理论，被誉为大乘佛教的百科全书。作为唯识学的根本论典，瑜伽师地论奠定了唯识学派的理论基础，对汉传佛教和藏传佛教影响深远，在佛教思想史上具有崇高地位，是研究唯识学和瑜伽行派必读的经典著作。"
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復次，即前所說自性乃至業等五事，當知皆由三處所攝。謂由色聚故，心心所品故，及無為故。除餘假有法。

> さらに、先に述べた自性（じしょう）から業（ごう）までの五つの事柄は、知っておくべきことに、すべて三つのカテゴリー（三処）に含まれます。すなわち、物質の集まり（色聚）、心と心の働きのグループ（心心所品）、そして作られないもの（無為）によるものです。これら以外の仮に存在するもの（仮有法）は除かれます。

今當先說色聚諸法。問：一切法生，皆從自種而起。云何說諸大種能生所造色耶？云何造色依彼，彼所建立，彼所任持，彼所長養耶？

> まず、色（物質）の集まりについて説明しよう。 問い：すべてのものは、自らの種子から生じるはずだ。それなのに、なぜ四大元素が「造られた色」を生み出すと言うのか？ また、「造られた色」が四大元素に依存し、それによって形づくられ、保たれ、成長するとされるのはなぜか？

答：由一切內外大種及所造色種子，皆悉依附內相續心。乃至諸大種子未生諸大以來，造色種子終不能生造色。要由彼生，造色方從自種子生，是故說彼能生造色，要由彼生為前導故。由此道理，說諸大種為彼生因。云何造色依於彼耶？由造色生已，不離大種處而轉故。云何彼所建立？由大種損益，彼同安危故。云何彼所任持？由隨大種等量不壞故。云何彼所長養？由因飲食、睡眠、修習梵行三摩地等，依彼造色倍復增廣，故說大種為彼養因。如是諸大種望所造色有五種作用應知。

> 答え：あらゆる内なる大種と外なる大種、そしてそれらが作り出す色の種子は、すべて内なる連続する心に依存している。さらに、様々な大種の種子がまだ大種を生じていない間は、作り出される色の種子は決して色を生み出すことができない。それらの大種が生じて初めて、作り出される色は自らの種子から生じるのである。そのため、それらの大種が色を生み出すと言われ、それらが生じて先導するからである。この道理により、様々な大種はそれ（色）を生み出す因と説かれる。では、なぜ作り出される色はそれらに依存するのか？それは、作り出される色が生じた後、大種の場所を離れずに活動するからである。なぜそれらによって確立されるのか？それは、大種の損益が、色の安否と共にあるからである。なぜそれらによって支えられるのか？それは、大種の等しい量に従って壊れないからである。なぜそれらによって養われるのか？それは、飲食、睡眠、梵行の修行、三昧などによって、その大種に依る色がさらに増大し広がるからである。そのため、大種はそれ（色）を養う因と説かれる。このように、様々な大種は、作り出される色に対して五つの作用があると知るべきである。

復次，於色聚中、曾無極微生。若從自種生時，唯聚集生，或細或中或大。又非極微集成色聚。但由覺慧分析諸色極量邊際，分別假立以為極微。又色聚亦有方分，極微亦有方分，然色聚有分非極微。何以故？由極微即是分，此是聚色所有，非極微復有餘極微，是故極微非有分。

> さらに、色の集まり（色聚）の中には、極微（最小の物質単位）というものは決して存在しない。もし自らの種（因）から生じるときは、ただ集まりとして生じるだけであって、それは細かいものもあれば、中くらいのものもあり、大きいものもある。また、極微が積み重なって色の集まりを構成するわけではない。ただ、智慧によって諸々の色を分析し、その極限の端境（はて）に達したとき、仮に分別して極微と名づけるにすぎない。さらに、色の集まりには方分（方向や部分のある性質）があり、極微にも方分はあるが、色の集まりが部分を持つというのは、極微としての性質ではない。なぜか？ 極微はそれ自体が「分」（部分）であるからだ。これは集まった色に存在するものであって、極微の中にさらに別の極微があるわけではない。したがって、極微には部分があるとは言えないのである。

又不相離有二種。一、同處不相離。謂大種極微與色香味觸等，於無根處有離根者，於有根處有有根者，是名同處不相離。二、和雜不相離。謂即此大種極微與餘聚集，能造、所造色處俱故，是名和雜不相離。

> また「不相離」には二種ある。第一に、同じ場所にあるが離れていないこと（同処不相離）。これは、四大種の極微が色・香・味・触などと共にあり、感覚器官のないところでは器官を離れたものとして、感覚器官のあるところでは器官を持つものとして存在することをいう。これを「同処不相離」という。第二に、混ざり合って離れていないこと（和雑不相離）。これは、先の四大種の極微が他の集合と共にあり、能造の四大種と所造の色処などが共に存在することをいう。これを「和雑不相離」という。

又此遍滿聚色，應知如種種物，石磨為末，以水和合，互不相離；非如胡麻、綠豆、粟、稗等聚。

> また、この遍満した色の集まりは、さまざまな物を石臼で粉にし、水で混ぜ合わせて互いに離れないようにしたようなものと知るべきである。決して、胡麻や緑豆、粟や稗などをただ集めたようなものではない。

又一切所造色皆即依止大種處，不過大種處量；乃至大種所據處所，諸所造色還即據此；由此因緣，說所造色依於大種。即以此義，說諸大種名為大種。由此大種其性大故，為種生故。

> さらに、あらゆる作られた色（物質）は、すべて四大元素（地・水・火・風）の在り処に依拠して存在し、その範囲を超えることはない。すなわち、四大元素が占める場所には、それらによって作られた色もまたその場所を占めるのである。このような理由から、作られた色は四大元素に依って立つと言われる。また、この同じ意味によって、四大元素そのものを「大種」と名付ける。すなわち、これらの四大元素は、その性質が大きく、さらに（他を）生み出す種となるからである。

復次，於諸色聚中，略有十四種事。謂地、水、火、風、色、聲、香、味、觸，及眼等五根。除唯意所行色。一切色聚，有色諸根所攝者，有一切，如所說事界。如有色諸根所攝聚如是，有色諸根所依大種所攝聚亦爾。所餘色聚，除有色諸根，唯有餘界。

> さらに、あらゆる物質の集合には、大まかに十四種類の要素が含まれています。すなわち、地・水・火・風の四大元素、色・声・香・味・触の五つの対象、そして眼・耳・鼻・舌・身の五つの感覚器官です。ただし、意志だけが対象とする「意所行の色」は除かれます。 あらゆる物質の集合のうち、感覚器官に属するものには、先に述べたすべての要素（界）が含まれています。感覚器官に属する集合がそうであるように、感覚器官のよりどころとなる四大元素に属する集合も同様です。それ以外の物質の集合は、感覚器官を除いた残りの要素のみから成ります。

又約相攝有十四事，即由相攝施設事極微。若約界攝，隨於此聚有爾所界，即說此聚爾所事攝。若約不相離攝，或內、或外所有諸聚。隨於此聚中，乃至有爾所法相可得，即說此聚爾所事攝應知。所以者何？或有聚中唯一大種可得。如石、末尼、真珠、琉璃、珂貝、璧玉、珊瑚等中，或池、沼、溝、渠、江、河等中，或火焰、燈燭等中，或四方風輪有塵、無塵風等中，或有聚中，二大種可得。如雪、濕樹、葉、花、果等中，或熱末尼等中。或有聚中三大種可得。如即熱樹等中，或動搖中。或有聚中四大種可得。謂於內色聚中。如薄伽梵說：於各別內身、若髮毛等乃至糞穢，是內地界；若小便等，是內水界；若於身中所有煖等，是內火界；若上行等風，是內風界。如是若於此聚彼相可得，說彼相為有；若不可得，說彼相為無。

> また、相摂について説けば、十四の事がある。すなわち、相摂によって施設される事の極微である。もし界摂について言えば、ある集まりの中に存在する界の数だけ、その集まりに属する事として捉えられる。もし不相離摂について言えば、内なるもの、あるいは外なるもの、あらゆる集まりにおいて、その集まりの中に存在する法の相が得られる限り、その集まりに属する事として捉えられる、と知るべきである。なぜか。ある集まりには、ただ一つの大種のみが得られることがある。例えば、石、水晶、真珠、琉璃、貝殻、璧玉、珊瑚などの中、あるいは池、沼、溝、渠、河、江などの中、あるいは火焰、灯燭などの中、あるいは四方の風輪に塵がある場合やない場合の風などの中である。また、ある集まりには、二つの大種が得られることがある。例えば、雪、湿った木、葉、花、果実などの中、あるいは熱せられた水晶などの中である。また、ある集まりには、三つの大種が得られることがある。例えば、熱した木などの中、あるいは動くものの中である。また、ある集まりには、四つの大種が得られることがある。すなわち、内なる色の集まりの中である。例えば、世尊が説かれたように、各々の内なる身体において、髪や毛などから糞尿に至るまでが内なる地界であり、小便などが内なる水界であり、身体の中にある暖かさなどが内なる火界であり、上昇する風などの風が内なる風界である。このように、ある集まりの中にその相が得られるならば、その相は有ると説き、得られないならば、その相は無いと説く。

復次，聲於一切色聚中，界故說有，相即不定。由現在方便生故。風有二種。謂恒相續及不恒相續。恒相續者，謂於彼彼聚有恒旋轉風。不恒相續者，謂旋風及空行風。又闇色、明色，說名空界及孔隙。又諸闇色恒相續者，謂世界中間；不恒相續者，謂於餘處。如是明色恒相續者，謂於自然光明天中；不恒相續者，謂於餘處。又明闇色，謂於顯色增聚應知。又由依止色聚種子功能故，若遇相似緣時，或小聚無間大聚生，或大聚無間小聚生。

> さらに、音声はすべての色聚（物質の集合）において、界（要素）として存在すると説かれる。その相（性質）は一定ではない。現在の因縁によって生じるからである。 風には二種ある。すなわち、常に相続するものと、常に相続しないものである。 常に相続する風とは、それぞれの聚において常に回転している風をいう。 常に相続しない風とは、旋風や空中を吹く風をいう。 また、暗い色と明るい色は、空界や孔（すきま）と名づけられる。 さらに、常に相続する暗い色とは、世界の中間にあるものをいう。常に相続しない暗い色とは、他の場所にあるものをいう。 同様に、常に相続する明るい色とは、自然に光り輝く天界にあるものをいう。常に相続しない明るい色とは、他の場所にあるものをいう。 また、明るい色と暗い色は、顕色（はっきりした色）が増え集まったものとして理解すべきである。 さらに、色聚の種子の働き（機能）に依って、もし似たような縁に出会うときは、小さな聚が途切れることなく大きな聚を生じ、あるいは大きな聚が途切れることなく小さな聚を生じるのである。

由此因緣，施設諸聚有增有減。如經言：若堅、堅攝、近攝、非近攝、執受，乃至廣說。堅云何？謂地。堅攝云何？謂彼種子。又堅者，即彼界。堅攝者，謂髮毛等，或土塊等。近攝云何？謂有執受。執受云何？謂內所攝。非近攝云何？謂無執受。無執受云何？謂外所攝。又心心所所執種子，名近攝，名執受；與此相違，名非近攝，名非執受。又隨逐自身故，名近攝、執受，如前說。如是水等界，如理應知。

> このような因縁によって、諸々の集まり（蘊）には増減があると説かれている。 経典にこうある。「もし堅く、堅く摂するもの、近くに摂するもの、遠くに摂するもの、執受されるもの」等々、詳しく説かれている。 「堅い」とは何か。地界のことである。 「堅く摂する」とは何か。その種子のことである。 また、「堅い」とは、その界そのものである。 「堅く摂する」とは、髪や毛など、あるいは土塊などのことである。 「近くに摂する」とは何か。執受のあるものである。 「執受」とは何か。内に属するものである。 「遠くに摂する」とは、執受のないものである。 「執受がない」とは、外に属するものである。 また、心と心所に執持された種子を「近くに摂する」「執受」と言う。 これと反対のものを「遠くに摂する」「執受がない」と言う。 さらに、自身に随って離れないことから「近くに摂する」「執受」と言うのであり、先に述べた通りである。 水などの界についても、道理に従って知るべきである。

又於一切色聚中，一切時具有一切大種界。如世間現見乾薪等物，鑽即火生，擊石等亦爾。又銅鐵金銀等、極火所燒即銷為水。從月愛珠，水便流出。又得神通者，由心勝解力，變大地等成金銀等。

> また、あらゆる物質の集まりには、常にすべての四大元素が備わっています。例えば私たちの世界で見られるように、乾いた薪などを擦ると火が生じ、石を打っても同じことが起きます。また、銅や鉄、金、銀などを強い火で溶かせば液体になります。月の光を集める宝玉からは水が流れ出ます。さらに神通力を得た者は、心の確信の力によって大地などを金や銀に変えることができます。

又色聚有三種流轉。一者、長養，二者、等流，三者、異熟生。長養有二種。一、處遍滿長養，二、相增盛長養。等流有四種。一、長養等流，二、異熟等流，三、變異等流，四、自性等流。異熟生有二種。一、異熟體生，名異熟生；二、從異熟生，名異熟生。

> また、物質の集まりには三つの流れがあります。一つ目は「長養（成長させるもの）」、二つ目は「等流（同じ性質が続くもの）」、三つ目は「異熟生（過去の行為の結果として生じるもの）」です。 長養には二種類あります。一つは「処遍満長養（全身くまなく成長させるもの）」、もう一つは「相増盛長養（状態や形が勢いを増して成長するもの）」です。 等流には四種類あります。一つ目は「長養等流（成長の流れが続くもの）」、二つ目は「異熟等流（過去の行為の結果が続くもの）」、三つ目は「変異等流（変化しながらも流れが続くもの）」、四つ目は「自性等流（そのものの性質のまま流れが続くもの）」です。 異熟生には二種類あります。一つ目は「異熟の本体が生まれること」を異

又諸色聚，略說依六處轉。謂建立處、覆藏處、資具處、根所依處、根處、三摩地所行處。

> さらに、あらゆる物質の集まりは、大きく分けて六つの場所に依って現れます。すなわち、物を置く場所（建立処）、覆い隠す場所（覆蔵処）、道具や用具の場所（資具処）、感覚器官のよりどころとなる場所（根所依処）、感覚器官そのものの場所（根処）、そして心を集中する場所（三摩地所行処）です。