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title: "瑜伽師地論 · 2項 相應品(六目)"
description: "瑜伽师地论是佛教大乘瑜伽行派的重要经典，相传由弥勒菩萨口述，无著菩萨记录，唐代高僧玄奘于贞观年间从印度取回并译成汉文。该论共100卷，系统阐述瑜伽行派的教义，内容包括十七地、三性、八识、修行次第等核心理论，被誉为大乘佛教的百科全书。作为唯识学的根本论典，瑜伽师地论奠定了唯识学派的理论基础，对汉传佛教和藏传佛教影响深远，在佛教思想史上具有崇高地位，是研究唯识学和瑜伽行派必读的经典著作。"
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復次，於心心所品中，有心可得，及五十三心所可得。謂作意等，乃至尋伺為後邊，如前說。

> さらに、心と心所の品（カテゴリー）において、心と五十三の心所が存在することが確認されます。これらは、作意（注意を向ける心のはたらき）などから始まり、尋（大まかに考えるはたらき）や、伺（詳しく調べるはたらき）までを含みます。これは前に述べた通りです。

問：如是諸心所，幾依一切處心生，一切地、一切時、一切耶？答：五。謂作意等，思為後邊。幾依一切處心生，一切地，非一切時、非一切耶？答：亦五。謂欲等，慧為後邊。幾唯依善，非一切處心生；然一切地，非一切時、非一切耶？答：謂信等，不害為後邊。幾唯依染污，非一切處心生，非一切地、非一切時、非一切耶？答：謂貪等，不正知為後邊。幾依一切處心生，非一切地、非一切時、非一切耶？答：謂惡作等，伺為後邊。

> 問う：このような心所は、いくつがすべての場所から心が生じ、すべての境地・すべての時・すべての場合に該当するのでしょうか？ 答：五つです。すなわち作意などで、思が最後となります。 問う：いくつがすべての場所から心が生じ、すべての境地に該当するが、すべての時・すべての場合には該当しないのでしょうか？ 答：五つです。すなわち欲などで、慧が最後となります。 問う：いくつが善のみに依存し、すべての場所から心が生じるわけではないが、すべての境地には該当し、すべての時・すべての場合には該当しないのでしょうか？ 答：信などで、不害が最後となります。 問う：いくつが染汚のみに依存し、すべての場所から心が生じるわけではなく、すべての境地・すべての時・すべての場合にも該当しないのでしょうか？ 答：貪などで、不正知が最後となります。 問う：いくつがすべての場所から心が生じるが、すべての境地・すべての時・すべての場合には該当しないのでしょうか？ 答：悪作などで、伺が最後となります。

復次，根不壞境界現前，能生作意正起，爾時從彼識乃得生。云何根不壞？謂有二種因。一、不滅壞故；二、不羸劣故。云何境界現前？謂或由所依處故，或由自性故，或由方故，或由時故，或由顯了不顯了故，或由全分及一分故。若四種障所不障礙，亦非極遠。謂覆蔽障、隱沒障、映奪障、幻惑障。極遠有二種。謂處所極遠、損減極遠。云何能生作意正起？由四因故。一、由欲力，二、由念力，三、由境界力，四、由數習力。云何由欲力？謂若於是處心有愛著，心則於彼多作意生。云何由念力？謂若於彼已善取其相、已極作想，心則於彼多作意生。云何由境界力？謂若彼境界或極廣大、或極可意正現在前，心則於彼多作意生。云何由數習力？若於彼境界已極串習、已極諳悉，心即於彼多作意生。若異此者，應於一所緣境，唯一作意一切時生。

> また、感官が正常であり、対象が眼前にあり、意を起こす作用が正しく生じるとき、そこから認識が生まれる。では、感官が正常とはどういうことか。これには二つの原因がある。第一に、壊れていないこと、第二に、弱っていないことである。 対象が眼前にあるとはどういうことか。それは、拠り所による場合、性質による場合、方向による場合、時による場合、明瞭か不明瞭かによる場合、全体か一部分かによる場合がある。また、四つの障害に妨げられず、あまりに遠くないことである。四つの障害とは、覆い隠す障害、隠れて見えなくなる障害、光芒に奪われる障害、惑わされる障害である。遠すぎる場合には二種類ある。場所として遠いことと、微細になりすぎて遠いことである。 では、意を起こす作用が正しく生じるとはどういうことか。四つの原因による。第一に欲の力、第二に記憶の力、第三に対象の力、第四に繰り返しの習慣の力である。 欲の力とは何か。ある対象に心の愛着があれば、心はその対象に対して何度も注意を向ける。 記憶の力とは何か。すでにその対象の特徴をよく捉え、よくイメージしているならば、心はその対象に対して何度も注意を向ける。 対象の力とは何か。その対象が極めて広大であるか、あるいは非常に好ましい状態で目の前にあるならば、心はその対象に対して何度も注意を向ける。 繰り返しの習慣の力とは何か。その対象にすでに極めて慣れ親しみ、よく熟知しているならば、心はその対象に対して何度も注意を向ける。 もしこれとは異なるならば、一つの対象に対してただ一つの注意が常に生じるはずである。

又非五識身有二剎那相隨俱生，亦無展轉無間更互而生。又一剎那五識身生已，從此無間，必意識生。從此無間，或時散亂，或耳識生，或五識身中隨一識生。若不散亂，必定意識中第二決定心生。由此尋求、決定二意識故，分別境界。又由二種因故，或染污，或善法生。謂分別故，及先所引故。意識中所有，由二種因。在五識者，唯由先所引故。所以者何？由染污及善意識力所引故，從此無間，於眼等識中，染污及善法生。不由分別，彼無分別故。由此道理，說眼等識隨意識轉。如經言：起一心，若眾多心。云何安立此一心耶？謂世俗言說一心剎那，非生起剎那。云何世俗言說一心剎那？謂一處為依止，於一境界事有爾所了別生，總爾所時名一心剎那。又相似相續，亦說名一，與第二念極相似故。

> また、五識それ自体に二つの刹那が同時に生じることはない。また、互いに絶え間なく交代して生じることもない。一刹那の五識が生じた後、その直後には必ず意識が生じる。その意識の直後には、時に散乱して耳識が生じたり、五識の中のいずれか一つの識が生じたりする。もし散乱していなければ、必ず意識の中に第二の決定心が生じる。このように、尋求心と決定心という二つの意識によって、対象を分別するのである。 また、二つの因によって、あるいは染汚の法が生じ、あるいは善法が生じる。すなわち、分別によるものと、過去の経験に導かれるものとである。意識の中にあるものは、この二つの因による。五識にあるものは、ただ過去の経験に導かれるものだけによる。なぜなら、染汚や善の意識の力に導かれて、その直後に眼識などの中に染汚や善の法が生じるからであり、分別によるのではないからである。これらには分別が存在しないからである。この道理によって、眼識などは意識に従って転じると説かれる。 経典に「一心、あるいは多心が起こる」とあるが、この「一心」はどのように定められるのだろうか。それは、世俗の言説における一心刹那であって、生起の刹那ではない。世俗の言説において一心刹那とはどういうことか。一つの所依に基づき、一つの対象の事柄について、それだけの了別が生じ、その全体の時間を一心刹那と呼ぶのである。また、類似したものが相続する場合も、第二の念と極めて類似しているため、「一」と名づけられる。

又意識任運散亂，緣不串習境時無欲等生，爾時意識名率爾墮心，唯緣過去境。五識無間所生意識，或尋求、或決定，唯應說緣現在境，若此即緣彼境生。又識能了別事之總相。即此所未了別所了境相，能了別者，說名作意。即此可意、不可意、俱相違相，由觸了別。即此攝受、損害、俱相違相，由受了別。即此言說因相，由想了別。即此邪、正、俱相違行因相，由思了別。是故說彼作意等，思為後邊，名心所有法。遍一切處、一切地、一切時、一切生。

> また、意識は自然に散乱し、慣れていない対象に向かうとき、欲求などの心作用が生じません。このときの意識を「率爾墮心」といい、ただ過去の対象のみを認識します。五識の直後に生じる意識は、対象を探索するか、決定するかであり、現在の対象を認識すると説くべきです。なぜなら、この意識はまさにその対象から生じるからです。 さらに、識は物事の全体の形を認識します。この認識されなかった対象の相を認識するものを「作意」といいます。この好ましい、好ましくない、そのどちらでもない相は、「触」によって認識されます。この受け入れる、害する、そのどちらでもない相は、「受」によって認識されます。この言葉の因となる相は、「想」によって認識されます。この正しい、誤った、そのどちらでもない行為の因となる相は、「思」によって認識されます。したがって、これらの作意など、思を最後とするものは、「心所有法」と呼ばれます。これらは、あらゆる場所、あらゆる境地、あらゆる時、あらゆる生に遍く存在します。

作意云何？謂心迴轉。觸云何？謂三和合。受云何？謂領納。想云何？謂了像。思云何？謂心造作。欲云何？謂於可樂事，隨彼彼行，欲有所作性。勝解云何？謂於決定事，隨彼彼行，印可隨順性。念云何？謂於串習事，隨彼彼行，明了記憶性。三摩地云何？謂於所觀察事，隨彼彼行，審慮所依心一境性。慧云何？謂即於所觀察事，隨彼彼行，簡擇諸法性。或由如理所引，或由不如理所引，或由非如理非不如理所引。

> 作意とは何か。それは心をある対象に向けさせることである。 触とは何か。それは根・境・識の三つが和合することである。 受とは何か。それは対象を受け取ることである。 想とは何か。それは対象の形を捉えることである。 思とは何か。それは心を働かせることである。 欲とは何か。それは楽しいと感じる事柄に対して、状況に応じて何かをしようとする心の働きである。 勝解とは何か。それは確かな事柄に対して、状況に応じてその通りだと認め、受け入れる心の働きである。 念とは何か。それは慣れ親しんだ事柄に対して、状況に応じて明らかに覚えている心の働きである。 三摩地とは何か。それは観察する事柄に対して、状況に応じて心を集中し、一つの対象に安らかに留まる心の働きである。 慧とは何か。それは同じく観察する事柄に対して、状況に応じて諸々の法を選り分ける心の働きである。その慧には、道理にかなったもの、道理にかなっていないもの、あるいはそのどちらでもないものがある。

又作意作何業？謂引心為業。觸作何業？謂受、想、思所依為業。受作何業？謂愛生所依為業。想作何業？謂於所緣，令心發起種種言說為業。思作何業？謂發起尋伺身語業等為業。欲作何業？謂發勤為業。勝解作何業？謂於所緣，任持功德過失為業。念作何業？謂於久遠所思、所作、所說，憶念為業。三摩地作何業？謂智所依為業。慧作何業？謂於戲論所行染污清淨，隨順推求為業。

> 作意（作意）は、どのような働きをするのか？心を対象に向けさせる働きをする。 触（接触）は、どのような働きをするのか？受・想・思のよりどころとなる働きをする。 受（感受）は、どのような働きをするのか？愛（渇愛）が生まれるよりどころとなる働きをする。 想（表象）は、どのような働きをするのか？対象について、心に様々な言葉の表現を起こさせる働きをする。 思（意志）は、どのような働きをするのか？思惟や考察、身体の行為や言葉の行為などを引き起こす働きをする。 欲（欲求）は、どのような働きをするのか？精進を起こさせる働きをする。 勝解（確信）は、どのような働きをするのか？対象に対して、その功徳や過失をはっきりと捉える働きをする。 念（ mindfulness）は、どのような働きをするのか？遠い昔に考えたこと、行ったこと、語ったことを、思い出す働きをする。 三摩地（心の統一）は、どのような働きをするのか？智慧のよりどころとなる働きをする。 慧（智慧）は、どのような働きをするのか？分別の世界において、汚れたものと清らかなものとを見極め、正しく探求する働きをする。