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title: "瑜伽師地論 · 3目 總明苦樂勝劣差別"
description: "瑜伽师地论是佛教大乘瑜伽行派的重要经典，相传由弥勒菩萨口述，无著菩萨记录，唐代高僧玄奘于贞观年间从印度取回并译成汉文。该论共100卷，系统阐述瑜伽行派的教义，内容包括十七地、三性、八识、修行次第等核心理论，被誉为大乘佛教的百科全书。作为唯识学的根本论典，瑜伽师地论奠定了唯识学派的理论基础，对汉传佛教和藏传佛教影响深远，在佛教思想史上具有崇高地位，是研究唯识学和瑜伽行派必读的经典著作。"
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## 瑜伽師地論卷第五

> 瑜伽師地論 第五巻

彌勒菩薩說

> 弥勒菩薩の教え

三藏法師玄奘奉　詔譯

> 三蔵法師玄奘奉詔訳

### 本地分中有尋有伺等三地之二

> 有尋有伺等三地 第二

復次，於色界中初靜慮地受生諸天，即受彼地離生喜樂。第二靜慮地諸天，受定生喜樂。第三靜慮地諸天，受離喜妙樂。第四靜慮地諸天，受捨念清淨寂靜無動之樂。

> さらに、色界の中でも初禅の天に生まれた者たちは、その境地における「離欲によって生じる喜びと安らぎ」を味わいます。第二禅の天の者たちは「集中から生まれる喜びと安らぎ」を、第三禅の天の者たちは「喜びを離れた微細な安らぎ」を受けます。そして第四禅の天の者たちは、「執着を捨て、心が清らかで静寂であり、動じることのない安らぎ」を享受するのです。

無色界諸天，受極寂靜解脫之樂。

> 無色界の天々は、極めて静かな解脱の楽しみを受けています。

又由六種殊勝故，苦樂殊勝應知。一、形量殊勝，二、柔軟殊勝，三、緣殊勝，四、時殊勝，五、心殊勝，六、所依殊勝。何以故？如如身量漸增廣大，如是如是苦轉殊勝；如如依止漸更柔軟，如是如是苦轉殊勝；如如苦緣漸更猛盛眾多差別，如是如是苦轉殊勝；如如時分漸遠無間，如是如是苦轉殊勝；如如內心無簡擇力漸漸增廣，如是如是苦轉殊勝；如如所依苦器漸增，如是如是苦轉殊勝。如苦殊勝如是，樂殊勝義隨其所應，廣說應知。

> 六つの特別な点によって、苦しみと楽しみの特別さがあることを知るべきです。第一に、形の大きさの特別さ、第二に、柔らかさの特別さ、第三に、原因の特別さ、第四に、時間の特別さ、第五に、心の特別さ、第六に、よりどころの特別さです。 なぜなら、身体の大きさが次第に増し広がるにつれて、苦しみもまた特別に増すからです。よりどころが次第に柔らかくなるにつれて、苦しみもまた特別に増すからです。苦しみの原因が次第に激しく、多く、様々になるにつれて、苦しみもまた特別に増すからです。時間が次第に長く途切れなく続くにつれて、苦しみもまた特別に増すからです。心に分別する力がなく次第に増し広がるにつれて、苦しみもまた特別に増すからです。よりどころとなる苦しみの器が次第に増すにつれて、苦しみもまた特別に増すからです。 苦しみの特別さがこのようにあるならば、楽しみの特別さの意味もまた、それぞれに応じて広く説かれることを知るべきです。

又樂有二種：一、非聖財所生樂，二、聖財所生樂。非聖財所生樂者，謂四種資具為緣得生。一、適悅資具，二、滋長資具，三、清淨資具，四、住持資具。適悅資具者，謂車乘、衣服、諸莊嚴具、歌笑舞樂、塗香花鬘、種種上妙珍翫樂具、光明照曜、男女侍衛、種種庫藏。滋長資具者，謂無尋思輪石椎打、築蹋、按摩等事。清淨資具者，謂吉祥草、頻螺果、螺貝滿瓮等事。住持資具者，謂飲及食。聖財所生樂者，謂七聖財為緣得生。何等為七？一、信，二、戒，三、慚，四、愧，五、聞，六、捨，七、慧。

> また、楽には二種類あります。第一に、聖なる財から生じる楽ではないもの、第二に、聖なる財から生じる楽です。 聖なる財から生じる楽ではないものとは、次の四つの資具を縁として生じるものです。 一、快適をもたらす資具 二、滋養を増す資具 三、清浄をもたらす資具 四、生命を維持する資具 快適をもたらす資具とは、車や乗り物、衣服、様々な装飾品、歌や笑い、舞踊や音楽、塗香や花鬘、種々の優れた珍宝や遊楽道具、光り輝くもの、男女の侍従、様々な倉庫や蔵などを指します。 滋養を増す資具とは、何も考えずに行う輪や石、槌で打つこと、踏むこと、押すこと、揉むことなどの行為を指します。 清浄をもたらす資具とは、吉祥草、ビルバ果、法螺貝を満たした瓮などによる清めの行事を指します。 生命を維持する資具とは、飲み物や食べ物です。 聖なる財から生じる楽とは、七つの聖なる財を縁として生じるものです。その七つとは何でしょうか。 一に、信、二に、戒、三に、慚、四に、愧、五に、聞、六に、捨、七に、慧です。

復次，由十五種相，聖非聖財所生樂差別。何等十五？謂非聖財所生樂能起惡行，聖財所生樂能起妙行。又非聖財所生樂，有罪喜樂相應；聖財所生樂，無罪喜樂相應。又非聖財所生樂，微小不遍所依；聖財所生樂，廣大遍滿所依。又非聖財所生樂，非一切時有，以依外緣故；聖財所生樂，一切時有，以依內緣故。又非聖財所生樂，非一切地有，唯欲界故；聖財所生樂，一切地有，通三界繫及不繫故。又非聖財所生樂，不能引發後世聖非聖財；聖財所生樂，能引發後世聖非聖財。又非聖財所生樂，若受用時，有盡有邊；聖財所生樂，若受用時，轉更充盛，增長廣大。又非聖財所生樂，為他劫奪，若王、若賊、怨，及水、火；聖財所生樂，無能侵奪。又非聖財所生樂，不可從今世持往後世；聖財所生樂，可從今世持往後世。又非聖財所生樂，受用之時不可充足；聖財所生樂，受用之時究竟充滿。又非聖財所生樂，有怖畏、有怨對、有災橫、有燒惱、不能斷後世大苦。有怖畏者，謂懼當生苦所依處故。有怨對者：謂鬪訟違諍所依處故。有災橫者，謂老病死所依處故。有燒惱者，謂由此樂性不真實，如疥癩病，虛妄顛倒所依處故，愁歎憂苦種種熱惱所依處故。不能斷後世大苦者，謂貪瞋等本隨二惑所依處故。聖財所生樂，無怖畏、無怨對、無災橫、無燒惱、能斷後世大苦。隨其所應，與上相違，廣說應知。

> さらに、十五の相によって、聖なる財から生じる楽しみと、聖ならざる財から生じる楽しみの違いがある。その十五とは何か。すなわち、聖ならざる財から生じる楽しみは悪い行いを引き起こし、聖なる財から生じる楽しみは善い行いを引き起こす。また、聖ならざる財から生じる楽しみは、罪を伴う喜びと結びついているが、聖なる財から生じる楽しみは、罪なき喜びと結びついている。また、聖ならざる財から生じる楽しみは小さく、その基盤に遍く及ばないが、聖なる財から生じる楽しみは広大で、その基盤に遍く満ちている。また、聖ならざる財から生じる楽しみは、常にあるわけではなく、外的な条件に依存するからである。聖なる財から生じる楽しみは、常にあり、内的な条件に依存するからである。また、聖ならざる財から生じる楽しみは、すべての領域にあるわけではなく、欲界のみにある。聖なる財から生じる楽しみは、すべての領域にあり、三界に縛られたものと、縛られていないものの両方に通じるからである。また、聖ならざる財から生じる楽しみは、来世における聖なる財や聖ならざる財を引き起こすことができないが、聖なる財から生じる楽しみは、来世における聖なる財や聖ならざる財を引き起こすことができる。また、聖ならざる財から生じる楽しみは、享受するときには尽き、限度があるが、聖なる財から生じる楽しみは、享受するときにはますます盛んになり、増大し広がる。また、聖ならざる財から生じる楽しみは、王や賊、怨敵、水や火によって奪われることがあるが、聖なる財から生じる楽しみは、侵されることがない。また、聖ならざる財から生じる楽しみは、この世から来世へと持って行くことができないが、聖なる財から生じる楽しみは、この世から来世へと持って行くことができる。また、聖ならざる財から生じる楽しみは、享受するときに満たされることがないが、聖なる財から生じる楽しみは、享受するときに究極的に満たされる。また、聖ならざる財から生じる楽しみは、恐れがあり、怨みがあり、災いがあり、苦しみがあり、来世の大きな苦しみを断ち切ることができない。恐れがあるとは、来世の苦しみが生じる拠り所となることを恐れるからである。怨みがあるとは、争いや訴訟、諍いの拠り所となるからである。災いがあるとは、老い、病、死の拠り所となるからである。苦しみがあるとは、この楽しみの性質が真実ではなく、例えば疥癬のような病のように、虚妄で顛倒した拠り所となり、嘆き悲しみ、様々な激しい苦しみの拠り所となるからである。来世の大きな苦しみを断ち切ることができないとは、貪りや怒りなどの根本的な煩悩と、それに伴う煩悩の拠り所となるからである。聖なる財から生じる楽しみは、恐れがなく、怨みがなく、災いがなく、苦しみがなく、来世の大きな苦しみを断ち切ることができる。それぞれに対応して、上に述べたことと反対の内容であると、広く説かれて知られるべきである。

又外有欲者，受用欲塵。聖慧命者，受用正法。由五種相故有差別。由此因緣，說聖慧命者以無上慧命清淨自活。何等為五？一、受用正法者，不染污故；二、受用正法者，極畢竟故；三、受用正法者，一向定故；四、受用正法者，與餘慧命者不共故；五、受用正法者，有真實樂故，摧伏魔怨故。

> また、外の欲望に執着する者は、欲望の対象を受用する。聖なる智慧ある者は、正しい教えを受用する。五つの相によって、その間に違いがある。この因縁により、聖なる智慧ある者は、この上ない智慧によって清らかに自ら生きる者と言われる。 その五つとは何か。一に、正しい教えを受用する者は、汚れに染まらないからである。二に、正しい教えを受用する者は、究極的に尽きることがないからである。三に、正しい教えを受用する者は、常に確かであるからである。四に、正しい教えを受用する者は、他の智慧ある者とも共通しないからである。五に、正しい教えを受用する者は、真実の楽があるからであり、悪魔の怨みを打ち砕くからである。

此中諸受欲者所有欲樂是隨順喜處，貪愛所隨故；是隨順憂處，瞋恚所隨故；是隨順捨處，無簡擇捨之所隨故。聖慧命者受用正法則不如是。又諸有欲者受用欲塵，從不可知本際以來，以無常故，捨餘欲塵得餘欲塵；或於一時都無所得。聖慧命者受用正法則不如是。又受欲者受用欲時，即於此事一起喜愛，一起憂恚；復即於彼或時生喜，或時生憂。聖慧命者受用正法則不如是。又諸離欲外慧命者，於種種見趣、自分別所起邪勝解處，其心猛利，種種取著，恒為欲染之所隨逐；雖已離欲，復還退起。聖慧命者受用正法則不如是。又受欲者及諸世間已離欲者，所有欲樂及離欲樂，皆非真實，皆為魔怨之所隨逐；如幻、如響、如影、如焰、如夢所見、猶如幻作諸莊嚴具。又著樂愚夫諸受欲者，及諸世間已離欲者，凡所受用，猶如癲狂、如醉亂等；未制魔軍而有受用。是故彼樂為非真實，亦不能制所有魔事。聖慧命者受用正法則不如是。

> 欲望を追い求める者が味わう喜びは、一時は快楽に結びつくものの、そこには渇愛が伴うため、やがては憂いへと変わる。怒りが伴うからである。また、無分別な諦めが伴うため、喜びとも憂いともつかない indifferent な状態へと導かれる。しかし、聖なる智慧と命を持つ者が正しい法を受用するあり方は、これらとは全く異なる。 さらに、欲望に執着する者は、始まりなき過去から無常の理のもと、次々と新しい欲の対象を追い求める。ある時は、何も得られないことすらある。しかし、聖者はそうではない。 また、欲望を享受する者は、その対象に対して一時は愛着を抱き、一時は怒りを抱く。同じ対象に対しても、時によって喜び、時によって憂う。聖者はそうではない。 さらに、欲望を離れた世の賢者たちも、自らの分別によって生み出された誤った見解に強く執着し、その心は激しく、様々な捉われ方に陥る。彼らは常に欲望の汚れに追われ、一度は離欲したとしても、再び欲望に退転してしまう。聖者はそうではない。 欲望に執着する者も、世の中で離欲した者も、その快楽はすべて真実ではない。それらは魔王の支配下にあり、幻、響き、影、陽炎、夢、あるいは仮面のような装飾品に等しい。 快楽に執着する愚かな凡夫たちは、まるで狂人や酔っ払いのように、魔王の軍団を打ち破ることなく享受している。ゆえに、その快楽は真実ではなく、魔の仕業を制することもできない。 聖なる智慧と命を持つ者が正しい法を受用するあり方は、決してこれらと同じではない。