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title: "瑜伽師地論 · 6節 生建立"
description: "瑜伽师地论是佛教大乘瑜伽行派的重要经典，相传由弥勒菩萨口述，无著菩萨记录，唐代高僧玄奘于贞观年间从印度取回并译成汉文。该论共100卷，系统阐述瑜伽行派的教义，内容包括十七地、三性、八识、修行次第等核心理论，被誉为大乘佛教的百科全书。作为唯识学的根本论典，瑜伽师地论奠定了唯识学派的理论基础，对汉传佛教和藏传佛教影响深远，在佛教思想史上具有崇高地位，是研究唯识学和瑜伽行派必读的经典著作。"
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復次，生建立者，謂三種欲生。或有眾生現住欲塵，由此現住欲塵故，富貴自在。彼復云何？謂一切人及四大王眾天，乃至善知足天。是名第一欲生。或有眾生變化欲塵，由此變化欲塵故，富貴自在。彼復云何？謂樂化天。由彼諸天為自己故，化為欲塵，非為他故；唯自變化諸欲塵故，富貴自在。是名第二欲生。或有眾生他化欲塵，由他所化諸欲塵故，富貴自在。彼復云何？謂他化自在天。由彼諸天為自因緣亦能變化，為他因緣亦能變化，故於自化非為希奇；用他所化欲塵為富貴自在，故說此天為他化自在。非彼諸天唯受用他所化欲塵，亦有受用自所化欲塵者。是名第三欲生。

> さらに、「生存の確立」とは、三種類の欲望の生存を指す。ある衆生は、現に欲望の対象（欲塵）の中に生きている。この現に欲望の対象の中に生きることによって、富貴と自在を得ている。それはどのような者かというと、すべての人間と、四大王衆天から、善知足天に至るまでの天々である。これを第一の欲望の生存という。 ある衆生は、欲望の対象を変化させて生きている。この欲望の対象を変化させることによって、富貴と自在を得ている。それはどのような者かというと、楽化天である。これらの天々は、自分のために欲望の対象を変化させ、他のために変化させることはない。ただ自ら欲望の対象を変化させることによって、富貴と自在を得ている。これを第二の欲望の生存という。 ある衆生は、他者が変化させた欲望の対象によって生きている。他者が変化させた欲望の対象によって、富貴と自在を得ている。それはどのような者かというと、他化自在天である。これらの天々は、自分自身の因縁によっても変化させることができ、他の因縁によっても変化させることができる。そのため、自ら変化させることは珍しいことではない。他者が変化させた欲望の対象を用いて富貴と自在を得ていることから、この天を他化自在天という。ただし、これらの天々が他者が変化させた欲望の対象だけを受用するわけではなく、自ら変化させた欲望の対象を受用することもある。これを第三の欲望の生存という。

復有三種樂生。或有眾生用離生喜樂灌灑其身，謂初靜慮地諸天。是名第一樂生。或有眾生由定生喜樂灌灑其身，謂第二靜慮地諸天。是名第二樂生。或有眾生以離喜樂灌灑其身，謂第三靜慮地諸天。是名第三樂生。

> さらに、三種類の楽（安楽）に生きる者たちがいます。 ある衆生は、解脱から生じる喜びと安楽で、自らの身を注ぎ清めています。これを初禪天（第一の禅定の天）の者たちといいます。これが第一の「楽に生きる者」です。 また、ある衆生は、禅定によって生じる喜びと安楽で、自らの身を注ぎ清めています。これを第二靜慮天（第二の禅定の天）の者たちといいます。これが第二の「楽に生きる者」です。 さらに、ある衆生は、喜びを離れた安楽で、自らの身を注ぎ清めています。これを第三靜慮天（第三の禅定の天）の者たちといいます。これが第三の「楽に生きる者」です。

問：何故建立三種欲生、三種樂生耶？

> 問う：なぜ三種の欲生と三種の楽生が立てられているのでしょうか？

答：由三種求故。一、欲求，二、有求，三、梵行求。謂若諸沙門或婆羅門墮欲求者，一切皆為三種欲生，更無增過。若諸沙門或婆羅門墮有求者，多分求樂；由貪樂故，一切皆為三種樂生。由諸世間為不苦不樂寂靜生處起追求者，極為尠少，故此以上不立為生。若諸沙門或婆羅門墮梵行求者，一切皆為求無漏界。或復有一墮邪梵行求者，為求不動空無邊處、識無邊處、無所有處、非想非非想處，起邪分別，謂為解脫，當知此是有上梵行求。

> 答え：三つの「求め」によるものです。一に欲望への求め、二に生存への求め、三に清らかな行いへの求めです。 もし修行者やバラモンで欲望への求めに陥る者は、皆三種の欲望の世界に生まれるためであり、それ以上はありません。 もし修行者やバラモンで生存への求めに陥る者は、多くは楽（快楽）を求めます。楽を貪るゆえに、皆三種の楽がもたらされる世界に生まれます。 世の中には、苦でもなく楽でもない静かな境地を求める者は極めて少ないため、これより上は「生存の世界」として立てません。 もし修行者やバラモンで清らかな行いへの求めに陥る者は、皆煩悩のない世界（無漏界）を求めています。 あるいはまた、誤った清らかな行いへの求めに陥る者もいます。それは、動きのない空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処を求め、誤った分別を起こして「これこそ解脱だ」と考えるものです。これは、まだ完全ではない清らかな行いへの求めであると知るべきです。