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title: "瑜伽師地論 · 1目 徵破外執(十難)"
description: "瑜伽师地论是佛教大乘瑜伽行派的重要经典，相传由弥勒菩萨口述，无著菩萨记录，唐代高僧玄奘于贞观年间从印度取回并译成汉文。该论共100卷，系统阐述瑜伽行派的教义，内容包括十七地、三性、八识、修行次第等核心理论，被誉为大乘佛教的百科全书。作为唯识学的根本论典，瑜伽师地论奠定了唯识学派的理论基础，对汉传佛教和藏传佛教影响深远，在佛教思想史上具有崇高地位，是研究唯识学和瑜伽行派必读的经典著作。"
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由如是思，故說有我。

> このように考えるから、「我（自分）」があると説くのです。

我今問汝，隨汝意答。為即於所見事起薩埵覺？為異於所見事起薩埵覺耶？

> 今、あなたに問います。あなたの考えるままに答えてください。 あなたが見たものそのものに「生きとし生けるもの」という認識を起こしますか？ それとも、見たものとは別に、その認識を起こしますか？

若即於所見事起薩埵覺者，汝不應言：即於色等計有薩埵、計有我者，是顛倒覺。

> もし、見えるものに対して「これが生きとし生けるものだ」という意識が起きるのなら、あなたはこう言うべきではありません。「色（形あるもの）などについて、生きとし生けるものがあると見なしたり、私（自我）があると見なすのは、誤った認識である」と。

若異於所見事起薩埵覺者，我有形量，不應道理。

> もし見たものとは違うところから「私には形や大きさがある」という感覚が生じるなら、それは道理に合いません。

或有勝劣，或剎帝利等，或愚或智，或能取彼色等境界，不應道理。

> あるいは勝れている者や劣っている者、あるいはクシャトリヤ（王族）などの階級、あるいは愚かな者や賢い者、あるいはそれらの色などの対象を捉えることができるという考えは、道理にかなわない。

又汝何所欲？為唯由此法自體起此覺耶？為亦由餘體起此覺耶？

> さて、あなたはどう考えますか？この道理そのものからこのような気づきが生じると考えますか、それとも他の本質からこの気づきが生じると考えますか？

若唯由此法自體起此覺者，即於所見起彼我覺，不應說名為顛倒覺。

> もしただこの法それ自体によって、この認識が生じるのであれば、見たものに対して「我」という認識が起こるにすぎず、それを「顛倒した認識」と呼ぶべきではない。

若亦由餘體起此覺者，即一切境界各是一切境界覺因，故不應理。

> もし他のものがこの認識を生じさせるのであれば、あらゆる対象が、あらゆる対象の認識の原因となってしまうことになり、それは道理に合いません。

又汝何所欲？於無情數有情覺，於有情數無情覺，於餘有情數餘有情覺，為起為不起耶？

> また、あなたはどう考えるのですか？ 無情のもの（命なきもの）に対して「これは有情（命あるもの）だ」と認識し、有情に対して「これは無情だ」と認識し、さらに他の有情に対して「これは別の有情だ」と認識することは、生じるのでしょうか、生じないのでしょうか？

若起者，是即無情應是有情，有情應是無情，餘有情應是餘有情，此不應理。若不起者，則非撥現量，不應道理。

> もし“生じる”とするならば、無情なものが有情であるはずがあり、有情なものが無情であるはずがあり、また別の有情が別の有情であるはずがあり、これは道理に合いません。もし“生じない”とするならば、それは直接的な認識（現量）を否定することになり、道理に適いません。

又汝何所欲？此薩埵覺為取現量義？為取比量義耶？

> さらにあなたはどう思うか？ この「薩埵の覚り」とは、 現量（直接知覚）によって得られるものか？ それとも比量（推論）によって得られるものか？

若取現量義者，唯色等蘊是現量義，我非現量義，故不應理。

> もし「現量の対象」という意味で言うなら、色やその他の五蘊だけが現量の対象であり、「我（アートマン）」は現量の対象ではありません。したがって、その論は成り立ちません。

若取比量義者，如愚稚等未能思度，不應率爾起於我覺。

> もし推量の意味を取るならば、愚か者や幼稚な者などがまだ考え判断できないように、軽々しく自我の思いを起こすべきではない。

又我今問汝，隨汝意答。如世間所作，為以覺為因？為以我為因？

> さあ、ここであなたに問いかけましょう。あなたが思うままに答えてください。 この世の中のあらゆる行いは、何を原因として行われるのでしょうか。 「気づき（覚）」が原因なのでしょうか。それとも、「私」という存在が原因なのでしょうか。

若以覺為因者，執我所作，不應道理。

> もし「覚り」を根本原因とするなら、それは「私」の行いであると執着することになり、道理に合いません。

若以我為因者，要先思覺，得有所作，不應道理。

> もし「私」を原因とするなら、まず思考や意識があって、その後にはじめて行動が生じるはずですが、それは道理に合いません。

又汝何所欲？所作事因常無常耶？

> また、あなたはどう考えるのか。行為の原因は常に存在するのか、それとも常に存在するわけではないのか。

若無常者，此所作因，體是變異；執我有作，不應道理。

> もし「無常」であるならば、この行為を生み出す原因（因）の本質は変化するもの（変異）です。それなのに、「私」という主体が行為を行うと固執することは、道理にかなっていません。

若是常者，即無變異；無變有作，不應道理。

> もしこれが常なるものであるならば、変化や異なりはありません。変化がないのに働きや作用があるというのは、道理に合いません。

又汝何所欲？為有動作之我能有所作？為無動作之我有所作耶？

> あなたはどう思いますか？　行動する私が何かを行うのでしょうか？　それとも、行動しない私が何かを行うのでしょうか？

若有動作之我能有所作者，是即常作，不應復作。

> もし「行う私」というものがあって、それが何かをすることができるなら、それはすでに常に行っているものであり、改めて行う必要はないはずです。

若無動作之我有所作者，無動作性，而有所作，不應道理。

> もし、動作しない「我（自我）」が何かを行うとすれば、つまり動作の特性を持たないものが、何かを行うとしたら、それは道理に合いません。

又汝何所欲？為有因故我有所作？為無因耶？

> また、あなたはどう思うか？原因があるから私が行動するのか？それとも原因なしに行動するのか？

若有因者，此我應由餘因策發方有所作，不應道理。若無因者，應一切時作一切事，不應道理。

> もし「原因がある」というなら、この「私」は別の原因によって促されて初めて何かをするはずだが、それは道理に合わない。 もし「原因がない」というなら、常に何でもしてしまうことになり、それも道理に合わない。

又汝何所欲？此我為依自故能有所作？為依他故能有所作？

> また、あなたはどう考えるのか。この自我（我）は自分自身を拠り所として何かを行うことができるのか、それとも他のものを拠り所として何かを行うことができるのか。

若依自者，此我自作老病死苦雜染等事，不應道理。

> もし自己に依存しているのなら、それは「私」が自ら老い、病気、死、苦しみ、煩わしさといったことを作り出していることになり、道理に合いません。

若依他者，計我所作，不應道理。

> もし他のものに依拠して自己の行為を主張するなら、それは道理に合わない。

又我今問汝，隨汝意答。為即於蘊施設有我？為於諸蘊中？為蘊外餘處？為不屬蘊耶？

> また、あなたに尋ねます。あなたの考えに従って答えてください。 「我」というものを、これらの「五蘊」そのものとして解釈しますか？ それとも、これらの「五蘊」の中にあると見なしますか？ あるいは、「五蘊」の外側の別の場所にあると考えますか？ もしくは、「五蘊」には全く属さないものとしますか？

若即於蘊施設我者，是我與蘊無有差別；而計有我諦實常住，不應道理。

> もし私を「五蘊」の上に仮に立てるのであれば、私と五蘊は全く同じものになってしまいます。しかし、「私は永遠に変わらない実体として存在する」と主張するのは道理に合いません。

若於諸蘊中者，此我為常？為無常耶？若是常者，常住之我為諸苦樂之所損益，不應道理。

> もしこれらの五蘊（ごうん）というものの中に、「私」というものが存在するとして、その「私」は永遠に変わらないものなのでしょうか？それとも、移り変わるものなのでしょうか？ もし永遠に変わらないものだとしたら、その不変の「私」が、苦しみや楽しみによって影響を受けたり、減ったり増えたりするというのは、道理に合いません。

若無損益，起法非法，不應道理。若不生起法及非法，應諸蘊身、畢竟不起；又應不由功用，我常解脫。

> もし損益（そんえき）がなく、法（正しい行い）と非法（誤った行い）を起こさないなら、道理に合いません。 （また、）もし法と非法が生じないなら、五蘊（ごうん）のからだは、ついに生じないはずです。 さらに、努力しなくても、私は常に解脱していることになります。

若無常者，離蘊體外，有生有滅相續流轉法不可得，故不應理。

> もし全てが無常であるならば、五蘊の集合体から離れたところに、生じたり滅したりしながら連続して流れ続けるような法（現象）は見いだせません。したがって、そのような考えは道理に合いません。

又於此滅壞，後於餘處不作而得，有大過失，故不應理。

> また、このように消え去った後に、別の場所で何もせずに得られるという考えには、大きな過失があるため、道理にかなわない。

若蘊外餘處者，汝所計我應是無為，不應道理。若不屬蘊者，我一切時應無染污，又我與身不應相屬，此不應理。

> もし「蘊」の外に別に存在するとするなら、あなたが考える「我」は無為（作られないもの）でなければならず、道理に合いません。もし「蘊」に属さないとするなら、その「我」は常に煩悩に染まることがなく、また身体とも関係を持つべきではないことになりますが、これも道理に合いません。

又汝何所欲？所計之我，為即見者等相？為離見者等相？

> また、あなたはどう考えるのか。考えている「我」というものは、見ることなどの作用そのものなのか。それとも、見ることなどの作用とは別のものなのか。

若即見者等相者，為即於見等假立見者等相？為離於見等別立見者等相？

> もし「見る者」などの概念が存在するなら、それは「見る」などの作用に基づいて仮に立てられたものなのか、それとも「見る」などの作用から離れて別に立てられたものなのか。

若即於見等假立見者等相者，則應見等是見者等；而汝立我為見者等，不應道理。以見者等與見等相無差別故。

> もし見ることなどに基づいて、仮に見る者などの相を立てるならば、見ることなどがそのまま見る者などであるべきです。しかし、あなたが「我」を見る者などと定めるのは、道理に適いません。なぜなら、見る者などと見ることなどの相に、区別がないからです。

若離於見等別立見者等相者，彼見等法為是我所成業？為是我所執具？

> もし「見ること」などから離れて、別に「見る者」などの相を立てるならば、その「見る」などの法は、私が作り上げた行為なのでしょうか？それとも、私が執着するための道具なのでしょうか？

若是我所成業者，若如種子，應是無常，不應道理。

> もし私が作り上げた業（行い）がまるで種のようなものだとしたら、それは無常であるはずで、道理に合わない。

若言如陶師等，假立丈夫。此我應是無常，應是假立；而汝言是常是實，不應道理。

> もし陶工などが仮に「人」というものを立てるように言うなら、この「我」は無常であり、仮に立てられたもののはずです。しかし、あなたがそれを「常住で実在する」と言うのは、道理に合いません。

若言如具神通，假立丈夫。此我亦應無常假立，於諸所作隨意自在。此亦如前，不應道理。

> もし「如来には神通力があり、仮に『丈夫』と名付けられている」と言うならば、この「我」もまた無常なる仮のものでありながら、様々な行いに随意に自在であるべきだ。しかし、これも先述した通り、道理にかなわない。

若言如地，應是無常。又所計我，無如地大顯了作業，故不應理。何以故？世間地大所作業用，顯了可得。謂持萬物令不墜下，我無是業顯了可得。

> もし『我は地のようなものだ』と言うなら、それは無常であるべきです。また、計らわれる我には、地大のような明確な働きがありません。だから、道理に合いません。なぜなら、世間における地大の働きは明らかに知ることができるからです。すなわち、万物を支えて落ちないようにする働きです。我にはそのような明らかな働きがないのです。

若如虛空，應非實有。唯於色無假立空故，不應道理。虛空雖是假有，而有業用分明可得；非所計我，故不應理。世間虛空所作業用分明可得者，謂由虛空故，得起往來屈伸等業。是故見等是我所成業，不應道理。

> もし虚空のようなものだとしても、それは実在するものとは言えません。なぜなら、単に物質（色）がないという仮の状態を空と呼んでいるに過ぎず、そうだとすれば道理に合わないからです。虚空は仮に存在するものですが、その働きは確かに認められます。しかし、あなた方が主張するような「我（アートマン）」にはそのような働きがないので、道理に合いません。世間において虚空がなす働きが確かに認められるとは、虚空があることによって、行き来したり、体を曲げ伸ばししたりといった動作が可能になることを指します。 したがって、「見る」などの感覚作用が「我」によってなされるという主張は、道理に合いません。

若是我所執具者，若言如鎌。如離鎌外，餘物亦有能斷作用；如是離見等外，於餘物上見等業用不可得故，不應道理。

> もし私が執着しているとされる「もの」について言えば、例えば鎌のようなものである。鎌という形を離れても、他の物にも「切る」という働きがあるように、見る力などから離れたところで、他の物に見るなどの作用があるとは認められない。したがって、それは道理にかなわない。

若言如火，則徒計於我，不應道理。何以故？如世間火，離能燒者亦自能燒故。

> 「我（アートマン）を火のようなものだ」と言っても、それは単に私（我）についての思い込みにすぎず、道理にかなっていません。なぜなら、例えば世の中の火は、燃やす主体（能焼者）とは別に、それ自体で燃える性質を持つからです。

若言離見者等相別有我者，則所計我相乖一切量，不應道理。

> 「見（見解）から離れたもの（等：さまざまな相）とは別に、我（永遠の自己）が存在する」と主張するならば、そのように想定された我の様相は、あらゆる認識の枠組みに反することになり、道理に適いません。

又我今問汝，隨汝意答。汝所計我，為與染淨相應而有染淨？為不與染淨相應而有染淨耶？

> また、今お尋ねしますから、あなたの思うままに答えてください。あなたが考えている「我（自我）」というものは、汚れや清らかさと関係して、それらを持つのでしょうか？それとも、汚れや清らかさと関係せずに、それらを持つのでしょうか？

若與染淨相應而有染淨者，於諸行中，有疾疫災橫及彼止息順益可得，即彼諸行，雖無有我，而說有染淨相應。

> もし「染め」や「清め」というはたらきに結びつくことで、実際に染まりや清らかさが生じるのなら、あらゆる現象（行）の中に、病いや災い、そしてそれらを静める善い働きがあることになります。そのような現象には、確かに「私」という実体はありませんが、染まりや清らかさがそれらに結びついていると説かれているのです。

如於外物，內身亦爾。雖無有我，染淨義成。故汝計我，不應道理。

> 外在の物と同じように、内なる身体もまた同じです。「私」という実体はなくとも、汚れや清らかさの意味は成立します。したがって、あなたが「私」という固定した実体を想定するのは、道理にかなっていません。

若不與染淨相應而有染淨者，離染淨相，我有染淨，不應道理。

> もしも（本来は）汚れや清らかさという性質と関係がないのに、汚れや清らかさがあるのなら、そのような性質を離れたものが「私には汚れや清らかさがある」と言うのは道理に合わない。

又我今問汝，隨汝意答。汝所計我，為與流轉相相應而有流轉？為不與流轉相相應而有流轉及止息耶？

> また、私が今あなたに問います。あなたの考えに従って答えてください。あなたが考える「我（自我）」は、輪廻の性質と結びついて輪廻するのですか？それとも、輪廻の性質と結びつかずに輪廻や止滅があるのですか？

若與流轉相相應而有流轉及止息者，於諸行中有五種流轉相可得。一、有因，二、可生，三、可滅，四、展轉相續生起，五、有變異。

> もし、存在の流れに関わる相（特徴）に対応して、流れ（輪廻）とその停止（涅槃）が成り立つならば、すべての現象（諸行）には五種類の流れの特徴が見られます。第一に原因があること、第二に生じうること、第三に滅しうること、第四に次々と連続して起こること、第五に変化することです。

若諸行中，此流轉相可得，如於身、芽、河、燈、乘等流轉作用中，雖無有我，即彼諸行得有流轉及與止息，何須計我？

> 様々な現象（諸行）の中に、この流転するという様相が確かに見られるならば、例えば身体、芽、川、灯り、乗り物などにおける流転の作用の中には、確かに「我」という実体は存在しないのに、それらの現象そのものに流転と止息があるのですから、なぜわざわざ「我」というものを立てる必要があるのでしょうか？

若不與彼相相應而有流轉及止息者，則所計我無流轉相而有流轉止息，不應道理。

> もしその特徴（相）と対応することなく、輪廻や止滅があるとすれば、その場合に想定される「我」には輪廻の特徴がないのに輪廻や止滅があることになり、道理に合いません。

又我今問汝，隨汝意答。汝所計我，為由境界所生若苦若樂，及由思業，并由煩惱、隨煩惱等之所變異，說為受者、作者及解脫者？為不由彼變異，說為受者等耶？

> さて、私はあなたに問います。あなたの考えに従って答えてください。 あなたが考える「我」というものは、外界の対象によって生じる苦しみや楽しみ、そして思考の作用、さらに煩悩やそれに伴う心の汚れなどによって変化し、それらを受け取る者・作り出す者・そしてそこから解放される者として語られるべきなのでしょうか？ それとも、そのような変化とは無関係に、受け取る者などとして語られるべきなのでしょうか？

若由彼變異者，是即諸行是受者、作者及解脫者，何須計我？設是我者，我應無常，不應道理。

> もし、その変化が自己に由来するというなら、それは諸行そのものが感受する者、行為する者、そして解脱する者であるということになり、どうして「我」を立てる必要があるでしょうか？仮に我を立てたとしても、その我は無常であるはずであり、道理に合いません。

若不由彼變異者，我無變異，而是受者、作者及解脫者，不應道理。

> その変化の影響を受けないのであれば、私（自己）は変化せず、感受する者、行為する者、そして解脱する者であるというのは、道理に合いません。

又汝今應說自所欲。為唯於我說為作者？為亦於餘法說為作者？

> さらに、あなたは今、自分の望むところを述べるべきです。「私はあなただけに対して作者（つくり手）であると言うのですか？それとも、他のものに対しても作者であると言うのですか？」

若唯於我，世間不應說火為燒者，光為照者。

> もし「我（永遠不変の自己）」だけが存在するとするなら、この世で「火は燃やすものだ」「光は照らすものだ」とは言えなくなってしまう。

若亦於餘法，即於見等諸根說為作者，徒分別我，不應道理。

> さらに、他の現象についても同様であり、視覚などの感覚器官を「作者」と見なすことは、ただ「私」という概念を無理に分別しているにすぎず、道理にかなっていません。

又汝應說自意所欲。為唯於我建立於我？為亦於餘法建立於我？

> また、あなたは自分の考えを述べなさい。自己（我）は、ただ自己そのものに基づいて仮に「私」と立てられるのか、それとも他のもの（法）にも基づいて「私」と立てられるのか。

若唯於我者，世間不應於彼假說士夫身呼為德友、佛授等。

> もし私（我）だけが存在するなら、世間の人々が「徳の友」や「仏授」などと呼んで、その人の身体を「士夫」と仮に呼ぶことはないはずです。

若亦於餘法者，是則唯於諸行假說名我，何須更執別有我耶？

> さらに、もし他の法（現象）においても同じことが言えるならば、それは単に様々な行（現象）に対して仮に「我」と名づけているに過ぎない。どうしてさらに別に「我」があると執着する必要があろうか。

何以故？諸世間人唯於假設士夫之身起有情想，立有情名，及說自他有差別故。

> なぜかというと、世の人々は、仮に「人」と名づけられたこの身体に対してのみ「生きとし生けるもの」という思いを起こし、「生きとし生けるもの」という名前を立て、さらに自分と他者との違いを説くからです。

又汝何所欲？計我之見為善？為不善耶？

> では、あなたはどう思いますか。自己（我）を実在すると見なす考えは、善いと言えるでしょうか。それとも善くないと言えるでしょうか。

若是善者，何為極愚癡人深起我見？不由方便，率爾而起？能令眾生怖畏解脫，又能增長諸惡過失？不應道理。

> もし善人であるならば、なぜ「極めて愚かな人」が深く「我」という見解を起こすのか？道理に合わない。方便によることなく、軽々しく起こすのか？それが衆生をして解脱を怖れさせ、諸々の悪や過失を増長させるのか？道理に合わない。

若不善者，不應說正及非顛倒。若是邪倒，所計之我體是實有，不應道理。

> もし「善ではない」というならば、「正しい」や「非顛倒（間違いのないこと）」について語るべきではありません。もし邪な誤った考えで捉えられた「我」（自己）というものが実体として存在するというならば、それは道理に合いません。

又汝何所欲？無我之見為善？為不善耶？

> また、あなたはどう考えますか？ 「私がない」という見解は、善いことですか？不善なことですか？

若言是善，於彼常住實有我上見無有我，而是善性。非顛倒計，不應道理。

若言不善，而一切智者之所宣說，精勤方便之所生起，令諸眾生不怖解脫，能速證得白淨之果，諸惡過失如實對治，不應道理。

> もし「これは善くない」と言われたものでも、智慧あるすべての者が説き、努力と方便によって生み出され、衆生をして解脱を恐れさせず、速やかに清らかな果報を得させ、あらゆる悪い過ちをありのままに対治するものであるならば、それは道理にかなわないのである。

又汝意云何？為即我性自計有我？為由我見耶？

> また、あなたはどう思うか。私の本性そのものを「我」と見なしているのか、あるいは我見（自我の執着）によって「我」があると考えるのか。

若即我性自計有我者，應一切時無無我覺。

> もし「自己の本質が恒常的に『我』である」と仮定するならば、あらゆる瞬間に「無我」という認識が生じることはありえないはずである。

若由我見者，雖無實我，由我見力故。於諸行中妄謂有我，是故汝計定實有我，不應道理。

> もし「私」という見解（我見）に基づくなら、実際には実体としての私など存在しないにもかかわらず、その見解の力によって、あらゆる現象（諸行）の中に誤って私というものがあると認識してしまうのです。したがって、あなたが「決して実在する私がいる」と主張するのは、道理にかなっていません。

如是不覺為先而起彼覺故，思覺為先見有所作故，於諸蘊中假施設故，由於彼相安立為有故，建立雜染及清淨故，建立流轉及止息故，假立受者、作者解脫者故，施設有作者故，施設言說故，施設見故，計有實我皆不應理。

> このように、「無明（気づきのない状態）」を前提として、「認識」が生じます。「思惟（考えること）」を前提として、「見ること（認識の働き）」が生じ、何かが為されたように見えます。五蘊（ごうん）の上に仮に名称を設けているに過ぎません。また、対象の特徴に基づいて「存在する」と定めているからです。迷い（煩悩）と清らかさ（涅槃）を立てるため、輪廻（生死の繰り返し）とその止滅を立てるため、仮に「受け取る者」「為す者」「解脱する者」と名づけるのです。「為す者」という名称を設け、言葉を設け、見解を設けるために、実体としての「我」があると考えるのは、すべて道理に合いません。