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title: "瑜伽師地論 · 2項 正破"
description: "瑜伽师地论是佛教大乘瑜伽行派的重要经典，相传由弥勒菩萨口述，无著菩萨记录，唐代高僧玄奘于贞观年间从印度取回并译成汉文。该论共100卷，系统阐述瑜伽行派的教义，内容包括十七地、三性、八识、修行次第等核心理论，被誉为大乘佛教的百科全书。作为唯识学的根本论典，瑜伽师地论奠定了唯识学派的理论基础，对汉传佛教和藏传佛教影响深远，在佛教思想史上具有崇高地位，是研究唯识学和瑜伽行派必读的经典著作。"
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此中計前際後際常住論者，是我執論差別相所攝故。我論已破，當知我差別相論亦已破訖。

> ここで「過去や未来において常住である」と説く見解は、我執（自己への執着）に関する論の一種に含まれるものです。自我についての論がすでに打ち破られた以上、その自己の様々な見解についての論もまた、打ち破られたと知るべきです。

又我今問汝，隨汝意答。宿住之念，為取諸蘊？為取我耶？

> では、私があなたに問いかけます。あなたの思うままに答えてください。前世の記憶というのは、様々な要素（五蘊）を捉えているのでしょうか？それとも「私」という実体を捉えているのでしょうか？

若取蘊者，執我及世間是常，不應道理。若取我者，憶念過去如是名等諸有情類，我曾於彼如是名、如是姓乃至廣說，不應道理。

> もし「五取蘊」が常住であると主張するなら、それを「我」や「世間」と見なすのは道理に合いません。 また、もし「我」が常住であると主張するなら、過去の「このような名前」「このような姓」といった様々な有情について、「私はかつてあそこにいて、そのような名前・姓だった」と記憶する事も道理に合いません。

又汝意云何？緣彼現前和合色境眼識起時，於餘不現不和合境所餘諸識，為滅？為轉？

> また、あなたはどう思うか。眼前にある和合した色の境によって眼識が生じるとき、その他の現れず和合しない境に関する残りの諸識は、消滅するのか、それとも転じるのか。

若言滅者，滅壞之識而計為常，不應道理。

> もし「滅するもの」と言うなら、それは滅び去る認識でありながら、それを「常に変わらない」と見なすのは道理に合いません。

若言轉者，由一境界、依一切時一切識起，不應道理。

> もし「転じる」ということが、一つの境界（対象）によって、すべての時においてすべての識が生じることを意味するならば、それは道理にかなわない。

又汝何所欲？所執之我，由想所作及受所作，為有變異？為無變異？

> また、あなたはどう考えるのか？あなたが執着している「我（自我）」は、思考作用や感受作用によって作り出されるものだが、それに変化があるのか、それとも変化がないのか？

若言有者，計彼世間及我常住，不應道理。若言無者，有一想已，復種種想，復有小想及無量想，不應道理。

> 「常に存在する」と言うなら、この世と自己は永遠に変わらないということになり、道理に合わない。 「存在しない」と言うなら、まず一つの想いがあり、その後さらに様々な想い、小さな想い、無数の想いが生じることになり、これもまた道理に合わない。

又純有樂已，復純有苦，復有苦有樂，有不苦不樂，不應道理。

> さらに、幸福だけがある状態、苦しみだけがある状態、幸福と苦しみの両方がある状態、幸福でも苦しみでもない状態がそれぞれ純粋に存在するとするならば、それは道理にかなわない。

又若計命即是身者，彼計我是色。

> また、もし「命（いのち）そのものが身体である」と考えるなら、その人は「私」を物質的なものと見なしているのです。

若計命異於身者，彼計我非色。

> もし「命」と「身体」が異なると考えるなら、その人は「私」を物質（色）とは別のものと見なしている。

若計我俱遍，無二無缺者，彼計我亦是色亦非色。

> もし私に完全に遍満しているものがあって、それが二つなく欠けもないと考えるなら、その私というものは「物質的であるとも、物質的でないとも言える」ということになる。

若為對治此故，即於此義中，由異句異文而起執者，彼計我非色非非色。

> もし、このことに対処しようとして、同じ意味を別の言葉や文章で表現し、それに固執するならば、その者は「我は色（物質的なもの）でもなく、色でないものでもない」と考える。

又若見少色、少非色者，彼計有邊。

> もしもこの世を「限られたもの」と見なし、そこに「有限である」という限定された認識や、「無限ではない」という限定された否定を抱くならば、その人は「世には限りがある」と執着するのである。

若見彼無量者，彼計有無邊。

> もし無量なるものを見るとすれば、その人は際限があるかないかを分別する。

若復遍見，而色分少、非色分無量，或色分無量、非色分少者，彼計亦有邊亦無邊。

> さらにまた、もしも広く観察してみて、色の領域が少なく、無色の領域が無限ではない、あるいは色の領域が無限で、無色の領域が少ないと見なすならば、その人は「世界には限界もあれば、限界もない」と考える。

若為對治此故，但由文異，不由義異，而起執者，彼計非有邊非無邊。

> もし、この対治のために、ただ文が異なるだけで義が異なるわけではないと執着するなら、その者は「有辺」でも「無辺」でもないと考える。

或計解脫之我，遠離二種。

> あるいは、解脱という我を計らう者が、二つのものから遠ざかること。

又計極微常住論者，我今問汝，隨汝意答。汝為觀察計極微常？為不觀察計彼常耶？

> また、極微（ごくび＝これ以上分割できない最小の粒子）が永遠に変わらず存在すると主張する者よ、私は今、あなたに問う。あなたの考えに従って答えなさい。 あなたは、極微を観察した上で、それが永遠であると主張するのか？ それとも、観察することなく、それが永遠であると考えているのか？

若不觀察者，離慧觀察，而定計常，不應道理。

> よく考えなければ、慧を離れて定を常とするのは道理に合わない。

若言已觀察者，違諸量故，不應道理。

> もし「すでに観察した」と言うならば、それは論理的な基準に反するため、道理にかなっていません。

又汝何所欲？諸微塵性為由細故，計彼是常？為由與麁果物其相異故，計彼常耶？

> さて、あなたはどう考えますか？ 微塵（極微）の本質について、それが細かいから常住だとするのですか？ それとも、粗い結果の物質とは性質が異なるから、常住だと考えるのですか？

若由細者，離散損減，轉復羸劣，而言是常，不應道理。

> もし微細なものであっても、離散し減少して、さらに弱く劣ったものになるのに、それを「常に変わらないものだ」と言うのは、道理に合いません。

若言由相異故者，是則極微超過地水火風之相，不同種類相故，而言能生彼類果，不應道理。

> もし「性質が異なるから」と言うなら、その極微は地・水・火・風の性質を超えている。異なる種類の性質を持つものが、同じ種類の結果を生むと言うのは理屈に合わない。

又彼極微，更無異相可得，故不中理。

> さらに、それらの極微には異なる相（特徴）が見出せないため、妥当ではありません。

又汝何所欲？從諸極微所起麁物，為不異相？為異相耶？若言不異相者，由與彼因無差別故，亦應是常；是則應無因果決定，不應道理。

> また、あなたはどう考えますか？ 極微の集まりから生じる粗大な物質は、その極微と異ならない性質を持つのでしょうか、それとも異なる性質を持つのでしょうか。 もし「異ならない性質を持つ」と言うならば、原因である極微と変わらないのだから、粗大な物質もまた常住であるべきです。そうなると、原因と結果の確かな区別が成り立たず、道理に合いません。

若異相者，汝意云何？為從離散極微，麁物得生？為從聚集耶？

> もし異なる相（性質）であるならば、あなたの考えではどうだろうか。微細な粒子が離れ散ることから、粗い物質が生じるのか。それとも、それらが集まることから生じるのか。

若言從離散者，應一切時一切果生；是則應無因果決定，不應道理。

> もし、「離散したものから生じる」と言うならば、あらゆる時にあらゆる結果が生じることになる。そうであれば、因果関係に確定的なものはなくなるはずであり、道理に合わない。

若從聚集者，汝意云何？彼麁果物從極微生時，為不過彼形質之量？為過彼形質量耶？

> もし、集まりという観点から考えるなら、あなたはどう思うか？ その粗い果物が極微（極小の物質）から生じる時、その果物は極微の形や質の分量を超えないだろうか？ それとも極微の形や質の分量を超えるだろうか？

若言不過彼形質量者，從形質分物，生形質有分物，不應道理。

> もし「それ（極微）は形や質量に過ぎない」と言うなら、その形や質量という部分から、形や質量を持つ部分のある物が生じるということは、道理に合わない。

若言過者，諸極微體無細分故，不可分析，所生麁物亦應是常，亦不中理。

> もし「極微から粗い物質が生じる」と言うならば、極微の本体には細かな部分がないため分析できず、それから生じる粗い物質もまた常住不変であるべきだ、ということも理に適いません。

若復說言，有諸極微，本無今起者，是則計極微常，不應道理。

> さらに、もし「この世には極微（さいごの粒子）というものがあって、もともとは存在しなかったのが今になって生じたのだ」と言う人がいたとしても、そのようにして極微が常住であると主張することは、道理にかなわない。

又汝何所欲？彼諸極微，起造麁物，為如種子等？為如陶師等耶？

> また、あなたはどう考えるのですか。それらの極微が粗い物を造り出すのは、種子のように生じるのですか。それとも陶工のように作るのですか。

若言如種子等者，應如種子，體是無常。

> もし「種子のように」と言うなら、種子そのものが無常であるように、その本質もまた無常であるべきだ。

若言如陶師等者，彼諸極微應有思慮，如陶師等，不應道理。

> もし「陶工などのように」と言うなら、その極微にも思考があるはずであり、陶工などと同じく道理に合わない。

若不如種等及陶師等者，是則同喻不可得故，不應道理。

> もし種などや陶師などが存在しないのであれば、共通のたとえ（同喻）を得ることができず、道理に合いません。

又汝意云何？諸外物起，為由有情？為不爾耶？

> また、あなたはどう思うか？様々な外物が生じるのは、有情によるものだろうか。そうではないのだろうか。

若言由有情者，彼外麁物由有情生，所依細物不由有情，不應道理。誰復於彼制其功能？

> もし「有情（生きとし生けるもの）によって生じる」と言うなら、その外側の粗い物質は有情によって生まれるのに、その基となる微細な物質は有情によらないとするのは、道理に合いません。いったい誰が、それらの機能を制限しているというのでしょうか？

若言不由有情者，是則無用，而外物生，不應道理。

> もしそれを「有情（生きとし生けるもの）によるものではない」と言うなら、それは役に立たないものとなり、外側の物が生じるという道理に合わなくなります。

如是隨念諸蘊有情故，由一境界一切識流不斷絕故，由想及受變不變故，計彼前際及計後際常住論者，不應道理。

> このように、五蘊（ごうん）に執着する有情（うじょう）について考えるならば、一つの認識対象からすべての認識の流れが絶えないことや、想（そう）と受（じゅ）が変化したりしなかったりすることから、過去や未来の世界が常住であると主張する考え方は、道理にかなわない。

又由觀察不觀察故，由共相故，由自相故，由起造故，根本所用故，極微常論不應道理。

> また、観察する場合としない場合の違い、共相と自相の違い、生起と造作の違い、根本と作用の違いによって、極微が常住であるとする論は道理にかなわない。

是故計常論者非如理說。

> したがって、「永遠不変である」と主張する考えは、道理にかなった正しい教えとは言えません。

我今當說常住之相。若一切時無變異相，若一切種無變異相，若自然無變異相，若由他無變異相。

> 今、私は常住の姿について説こう。あらゆる時に変化しない姿、あらゆる種類において変化しない姿、自然に変化しない姿、他によって変化しない姿についてである。

又無生相，當知是常住相。

> また、生じるという相がないのであれば、それが常住の相であると知るべきです。

## 瑜伽師地論卷第六

> 『瑜伽師地論』巻第六