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title: "瑜伽師地論 · 1目 補特伽羅相差別建立"
description: "瑜伽师地论是佛教大乘瑜伽行派的重要经典，相传由弥勒菩萨口述，无著菩萨记录，唐代高僧玄奘于贞观年间从印度取回并译成汉文。该论共100卷，系统阐述瑜伽行派的教义，内容包括十七地、三性、八识、修行次第等核心理论，被誉为大乘佛教的百科全书。作为唯识学的根本论典，瑜伽师地论奠定了唯识学派的理论基础，对汉传佛教和藏传佛教影响深远，在佛教思想史上具有崇高地位，是研究唯识学和瑜伽行派必读的经典著作。"
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補特伽羅相差別建立者，謂如經言：諸殺生者，乃至廣說。殺生者者，此是總句。最極暴惡者，謂殺害心正現前故。血塗其手者，謂為成殺，身相變故。

> 補特伽羅（人・生き物）の違いについての分類を立てるとは、例えば経典で次のように説かれている通りである。「様々な殺生を行う者たち、さらには広く説かれる」と。ここで「殺生を行う者たち」というのは、全体をまとめた句である。「最も極めて乱暴で悪質な者」とは、殺そうとする心がまさに目の前に現れているからである。「血でその手を塗る」とは、殺しを成し遂げるために、身体の様子が変わるからである。

害極害執者，謂斷彼命故，解支節故，計活命故。無有羞恥者，謂自罪生故。無有哀愍者，謂引彼非愛故。有出家外道，名曰無繫，彼作是說：百踰繕那內所有眾生，於彼律儀，若不律儀。為治彼故，說如是言：一切有情所。即彼外道復作是說：樹等外物亦有生命。為治彼故，說如是言：真實眾生所。此即顯示真實福德遠離對治，及顯示不實福德遠離對治。如是所說諸句，顯示加行殺害。乃至極下捃多蟻等諸眾生所者，此句顯示無擇殺害。於殺生事若未遠離者，此顯遇緣容可出離。謂乃至未遠離來，名殺生者。

> 最も害され、害に執着する者とは、他者の命を断ち、身体を切り刻み、生きながらえようとすることである。恥を知らないとは、自ら罪を生み出すことである。哀れみがないとは、他者に好まれない結果を招くことである。 「無繫」と呼ばれる出家の外道がいる。彼らはこう説く。「百由旬の内にある全ての生き物は、我々の戒律の中にあり、もし戒律に従わなければ…」と。これに対処するため、「全ての生きとし生けるものに対して」と言うのである。その外道がさらに、「木などの外物にも生命がある」と説く。これに対処するため、「真実の生きとし生けるものに対して」と言うのである。これは、真実の功徳が遠離することへの対治法と、功徳ではないものが遠離することへの対治法を示している。 このように説かれた諸々の句は、加行による殺生を示している。さらに、最小の蟻などの生きとし生けるものに至るまでの句は、無差別な殺生を示している。殺生という行為からまだ遠ざかっていない者は、縁に出会えば離れることができることを示している。すなわち、まだ遠ざかることなく生きている間は、「殺生する者」と呼ばれるのである。

又此諸句略義者，謂為顯示殺生相貌、殺生作用、殺生因緣，及與殺生事用差別。

> また、これらの句の要約された意味は、次に述べることを示しています。すなわち、殺生の形相、殺生の作用、殺生の因縁、そして殺生の事柄や用途における違いを示しているのです。

又略義者，謂為顯示殺生如實、殺生差別、殺所殺生、名殺生者。又此諸句，顯能殺生補特伽羅相，非顯殺生法相。

> さらに、簡潔にまとめると、以下の通りです。「殺生」とは、命あるものを実際に断つこと、その行為の種類、殺される対象、そして殺す者を指します。これらの語句は、殺生を行う者の特徴を示すものであり、殺生という行為そのものの本質を示すものではありません。

復次，不與取者者，此是總句。

> さらに、与えられていないものを取ること、これは総括的な教えです。

於他所有者，謂他所攝財穀等事。若在聚落者，謂即彼事於聚落中若積集、若移轉。若閑靜處者，謂即彼事於閑靜處，若生、若集，或復移轉。即此名為可盜物數者，謂所不與、不捨、不棄物。若自執受者，謂執為己有。不與而取者，謂彼或時資具闕少，執為己有。不與而樂者，謂樂受行偷盜事業。於所不與、不捨、不棄而生希望者，謂劫盜他欲為己有。若彼物主非先所與，如酬債法，是名不與。若彼物主於彼取者而不捨與，是名不捨。若彼物主於諸眾生不隨所欲受用而棄，是名不棄。自為而取者，謂不與而取故，及不與而樂故。饕餮而取者，謂所不與、不捨、不棄而希望故。不清而取者，謂於所競物為他所勝，不清雪故。不淨而取者，謂雖勝他，而為過失垢所染故。有罪而取者，謂能攝受現法、後法非愛果故。於不與取若未遠離者，如前殺生相說應知。所餘業道亦爾。

> 他人の所有物とは、他の人が所有している財産や穀物などのことを指します。「聚落（集落）」の中にある場合とは、それらが集落の中で蓄えられたり、移動されたりすることを言います。「閑静な場所」にある場合とは、それらが静かな場所で生じたり、集められたり、あるいは移動されたりすることを言います。これらを「盗むことができる物の数」と呼びます。それは、与えられていないもの、譲り渡されていないもの、放棄されていないもののことです。 「自ら執受する」とは、自分自身のものだと主張することです。「与えられていないのに取る」とは、物資が不足している時に、それを自分のものだとすることです。「与えられていないのに喜ぶ」とは、盗みの行為を喜んで行うことです。「与えられず、譲られず、放棄されていないものに希望を抱く」とは、他人の物を奪って自分のものにしたいと願うことです。 もし物の所有者が、最初から与えていない場合、例えば借金を返済するように与えるのではない場合、これを「不與（与えられていない）」と言います。もし物の所有者が、取る者に対してそれを譲り渡さない場合、これを「不捨（譲られていない）」と言います。もし物の所有者が、生きとし生けるものに対して、望むままに使用させて放棄しない場合、これを「不棄（放棄されていない）」と言います。 「自らして取る」とは、与えられていないのに取ること、そして与えられていないのに喜ぶことによるものです。「むさぼり取る」とは、与えられず、譲られず、放棄されていないものに希望を抱くことによるものです。「清らかでなく取る」とは、競い合っている物について他人に負けてしまい、潔白でないことによるものです。「清浄でなく取る」とは、たとえ他人に勝っても、その行為が過ちや汚れに染まっていることによるものです。「罪があるのに取る」とは、現在の生活や未来の人生において好ましくない結果を招くことによるものです。 「不与取（与えられていないものを取ること）」からまだ遠ざかっていない場合については、前に「殺生」の相で説明した通りであると知るべきです。他の業道（行為の道筋）についても同様です。

此中略義者，謂由盜此故成不與取、若於是處如其差別、如實劫盜，由劫盜故得此過失，是名總義。又此中亦顯不與取者相，非不與取法相。當知餘亦爾。

> ここで簡単に言うと、これを盗むことによって「不与取」となる。どこで、どのような違いをもって、ありのままに奪い取るか。奪い取ることによってこのような過失を得る。これが全体の意味である。 また、ここでは「不与取」を行う者の特徴を示しており、「不与取」という行為そのものの特徴ではない。他のものも同様に理解すべきである。

復次，欲邪行者者，此是總句。

> さらに、不適切な性行為（欲邪行）とは、これは全体をまとめた言葉です。

於諸父母等所守護者，猶如父母於己處女，為適事他故，勤加守護，時時觀察，不令與餘共為鄙穢。若彼沒已，復為至親兄弟姊妹之所守護。此若無者，復為餘親之所守護。此若無者，恐損家族，便自守護。或彼舅姑，為自兒故，勤加守護。有治罰者，謂諸國王，若執理者，以治罰法而守護故。有障礙者，謂守門者所守護故。此中略顯未適他者三種守護。一、尊重至親眷屬自己之所守護，二、王執理家之所守護，三、諸守門者之所守護。他妻妾者，謂已適他。他所攝者，謂即未適他，為三守護之所守護。若由凶詐者，謂矯亂已而行邪行。若由強力者，謂對父母等公然強逼。若由隱伏者，謂不對彼，竊相欣欲。而行欲行者，謂兩兩交會。即於此事非理欲心而行邪行者，謂於非道、非處非時，自妻妾所而為罪失。

> 父母などの保護者に守られている娘は、まるで自分たちの大切な娘を他の家に嫁がせるため、熱心に守り、常に見守って、他の者と汚らわしいことをしないようにさせるようなものです。もしその娘が亡くなった後は、近親の兄弟や姉妹が守ります。これらもいなければ、他の親族が守ります。これらもいなければ、家名を損なうことを恐れて、自らを守ります。あるいは、その舅や姑が、自分の息子のために熱心に守ります。刑罰を加える者とは、国王や裁判官が、罰則によって守ることをいいます。障礙する者とは、門番が守ることをいいます。ここでは、まだ嫁いでいない女性に対する三種類の守護を簡潔に示しています。第一は、尊重すべき近親の家族自身による守護、第二は、王や裁判官による守護、第三は、門番による守護です。他人の妻妾とは、すでに嫁いだ女性のことです。他者が守っているとは、まだ嫁いでいないものの、三つの守護によって守られている場合をいいます。詐欺による場合は、偽り混乱させてから邪淫を行うことです。強力による場合は、父母などの前で公然と強要することです。隠伏による場合は、相手の知らないところで、ひそかに欲望を抱くことです。そして欲のままに行うとは、二人が交わりを持つことです。このことに対して道理に反した欲望の心で邪行を行うとは、自分の妻妾に対してであっても、不道徳な方法、不適切な場所、不適切な時に行う罪過のことをいいます。

此中略義者，謂略顯示若彼所行、若行差別、若欲邪行應知。

復次，諸妄語者者，此是總句。

> 次に、嘘をつく人についてですが、これは全体のまとめの言葉です。

若王者，謂王家。若彼使者，謂執理家。若別者，謂長者居士。若眾者，謂彼聚集。若大集中者，謂四方人眾聚集處。若已知者，謂隨前三所經語言。若已見者，謂隨曾見所經語言。若由自因者，謂或因怖畏，或因味著。如由自因，他因亦爾。因怖畏者，謂由怖畏殺、縛、治罰、黜責等故。因味著者，謂為財穀、珍寶等故。知而說妄語者，謂覆想欲見而說語言。

> 「王者」とは、王族の家系を指す。 「使者」とは、役目を任された人を指す。 「別者」とは、長者（裕福な人）や在家の修行者を指す。 「衆（しゅう）」とは、彼らが集まった集まりを指す。 「大集中」とは、四方から人々が集まった大規模な集まりの場を指す。 「已知（すでに知っていること）」とは、それ以前に経験した言葉や経緯に基づく内容を指す。 「已見（すでに見たこと）」とは、以前に見聞きした言葉の経緯に基づく内容を指す。 「自因」とは、自らの理由によるもので、恐怖や執着による場合を指す。 「他因」も同様に理解すべきである。 「恐怖による場合」とは、殺されること、縛られること、罰せられること、責められることなどを恐れてのことである。 「執着による場合」とは、財産や穀物、珍宝などのためである。 「知りながら虚偽を語ること」とは、自分の考えや認識を隠して、実際とは異なる言葉を語ることを指す。

此中略義者，謂依處故、異說故、因緣故、壞想故，而說妄語應知。

> この中で、簡潔にまとめられた意味とは、「よりどころがあるから」「異なる説があるから」「因縁があるから」「虚妄の想いがあるから」という理由によって、虚偽の言葉が語られるのだと知るべきである。

復次，離間語者者，此是總句。

若為破壞者，謂由破壞意樂故。聞彼語已向此宣說，聞此語已向彼宣說者，謂隨所聞順乖離語。破壞和合者，謂能生起喜別離故。隨印別離者，謂能乖違喜更生故。憙壞和合者，謂於已生喜別離中心染污故。樂印別離者，謂於乖違喜更生中心染污故。說能離間語者，謂或不聞，或他方便故。

> もし人を仲違いさせようとするなら、それは「破壊の意図」によるものです。 相手の言葉を聞いて、こちらに話し、こちらの言葉を聞いて、あちらに話す。 それは、耳にした言葉を、互いに離れさせようとするものとして伝えることです。 「和合を破る」とは、別れを喜ぶ心を生じさせることです。 「別れに従う」とは、さらに仲違いすることを喜ぶことです。 「和合が壊れるのを喜ぶ」とは、すでに生じた別れの喜びに心が汚れていることです。 「別れを喜んで従う」とは、仲違いがさらに生じることを喜ぶ心に汚れていることです。 「離間の語を語る」とは、あるいは直接聞かなくても、他の方法によってそうすることです。

此中略義者，謂略顯示離間意樂、離間未壞方便、離間已壞方便、離間染污心，及他方便應知。

> この中の簡略な意味とは、簡単に示すと、仲違いさせる意図、仲違いさせるためのまだ壊れていない方法、仲違いさせるための既に壊れた方法、仲違いさせる汚れた心、およびその他の方法について知るべきである、ということです。

復次，麁惡語者者，此是總句。

> さらに、粗悪な言葉について、これが総括の句である。

此中尸羅支所攝故，名語無擾動。文句美滑，故名悅耳。增上欲解所發起故，非假偽故，非諂媚故，名為稱心。不增益故，應順時機，引義利故，名為可愛。趣涅槃宮，故名先首。文句可味，故名美妙。善釋文句，故名分明。顯然有趣，故名易可解了。攝受正法，故名可施功勞。離愛味心之所發起，故名無所依止。不過度量，故名非可厭逆。相續廣大，故名無邊無盡。

> ここでいう「戒（尸羅）の一部であることから、言葉に動揺がないと言う。文や句が滑らかで美しいことから、耳に快いと言う。強い意欲や理解に基づいて生じるものであり、偽りがなく、へつらいでもないことから、心にかなうと言う。誇張せず、時と場合に適い、利益をもたらすことから、愛されるものと言う。涅槃の宮殿へと導くことから、最も優れたものと言う。文や句に味わいがあることから、素晴らしいと言う。文や句をよく説き明かすことから、明らかであると言う。はっきりと興味深いことから、理解しやすいと言う。正しい教えを受け入れることから、功を施すに値すると言う。執着の心を離れて生じることから、何ものにも拠らないと言う。度を越さないことから、嫌われることがないと言う。絶え間なく広大であることから、限りなく尽きることがないと言う。

又從無擾動語乃至無邊無盡語，應知略攝為三種語。一、尸羅律儀所攝語，謂一種。二、等歡喜語，謂三種。三、說法語，謂其所餘。

> さらに、動揺しない言葉から、際限なく尽きることのない言葉に至るまで、その概要は三種類の言葉にまとめられるべきであると知るべきです。 第一に、戒律の実践に含まれる言葉。これは一種類です。 第二に、喜びを等しくもたらす言葉。これは三種類です。 第三に、法を説く言葉。これはその他のものです。

即此最後又有三種應知。一、所趣圓滿語謂初一。二、文詞圓滿語，謂次二。三、方便圓滿語，謂其所餘。

> そして、この最後のものにもさらに三つの種類があることを知るべきです。第一に、趣旨が完全な言葉、それは最初のものです。第二に、文章と語彙が完全な言葉、それは次の二つです。第三に、方便が完全な言葉、それは残りのものです。

又於未來世可愛樂故，名可愛語。於過去世可愛樂故，名可樂語。於現在世事及領受可愛樂故，名可欣語及可意語。

> 未来の世において喜ばれるから「愛語（あいご）」といい、過去の世において喜ばれるから「楽語（らくご）」といい、現在の世のことや受け取り方が喜ばれるから「欣語（きんご）」および「意語（いご）」といいます。

應知即等歡喜語，名無量眾生可愛、可樂、可欣、可意語。即說法語，名三摩呬多語。即尸羅支所攝語，名由無悔等漸次能引三摩地語。

> 知っておくべきこと：歓喜に等しい言葉は、「無量の衆生にとって愛しく、楽しく、喜ばしく、心にかなう言葉」と呼ばれる。そして、法を説く言葉は、「三摩呬多（さんまぎた）の言葉」と呼ばれる。さらに、戒律の支分に含まれる言葉は、「後悔がないことなどから次第に三摩地を導く言葉」と呼ばれる。

此中毒螫語者，謂毀摩他言，縱瞋毒故。麁獷語者，謂惱亂他言，發苦觸故。所餘麁惡語，翻前白品應知。

> これらの毒のある言葉とは、他人を貶める言葉のことをいいます。瞋りの毒に任せているからです。 乱暴な言葉とは、他人を悩ませ乱す言葉のことをいいます。苦しい感触を引き起こすからです。 その他の粗悪な言葉については、先に述べた清らかな性質の反対のものと理解すべきです。

復次，諸綺語者者，此是總句。

> 次に、様々な無駄話について説明します。これが全体的な要点です。

於邪舉罪時，有五種邪舉罪者。言不應時故，名非時語者。言不實故，名非實語者。言引無義故，名非義語者。言麁獷故，名非法語者。言挾瞋恚故，名非靜語者。

> 悪い行いを指摘する場合、五つの悪い指摘の仕方があります。 時機に適さない言葉は「不適切な発言」と言います。 真実ではない言葉は「虚偽の発言」と言います。 意味のない言葉は「無益な発言」と言います。 荒々しい言葉は「違法な発言」と言います。 怒りを込めた言葉は「穏やかでない発言」と言います。

又於邪說法時，不正思審而宣說故，名不思量語。為勝聽者而宣說故，名不靜語。非時而說，前後義趣不相屬故，名雜亂語。不中理因而宣說故，名非有教語。引不相應為譬況故，名非有喻語。顯穢染故，名非有法語。

> また、邪な教えを説く時には、正しく考え吟味せずに話すので、「よく考えずに話す言葉」と言います。聞き手に勝ろうとして話すので、「落ち着きのない言葉」と言います。時機を外して話し、前後の意味がつながらないので、「混乱した言葉」と言います。道理に合わない根拠で話すので、「教えのない言葉」と言います。適切でない例え話をするので、「たとえのない言葉」と言います。汚れや煩わしさを表すので、「法のない言葉」と言います。

又於歌笑嬉戲等時，及觀舞樂、戲笑、俳說等時，有引無義語。

> また、歌ったり笑ったり遊んだりする時、舞いや音楽、笑い話、滑稽な話などを観る時には、無意味な言葉を発することがある。

此中略義者，謂顯如前說三時綺語。

> ここで簡単にまとめると、先に述べた三つのケースの無駄話（綺語）が示されています。

復次，諸貪欲者者，此是總句。

> さらに、あらゆる欲望に執着する人たち——これは、全体をまとめた表現です。

由猛利貪者，謂於他所有，由貪增上，欲為己有，起決定執故。於財者，謂世俗財類。具者，謂所受用資具。即此二種總名為物。凡彼所有定當屬我者，此顯貪欲生起行相。

> 激しい貪欲を持つ者とは、他の者が所有しているものに対して、貪欲の力が強まり、それをわがものとしようと強く執着することをいう。「財」とは、世俗的な財産の類を指す。「具」とは、生活に用いる道具や器具を指す。この二つを総称して「物」という。それらのすべてを、必ずや自分が所有するに違いないと考えることが、貪欲が生じる際の具体的な様子を示している。

此中略義者，當知顯示貪欲自性、貪欲所緣、貪欲行相。

> ここで要点を簡潔にまとめると、知るべきことは、欲望の本質、欲望が向かう対象、そして欲望の働き方の三つである。

復次，瞋恚心者者，此是總句。

> さらに、怒りの心について——これは全体をまとめた言葉です。

惡意分別者，謂於他有情所，由瞋恚增上力，欲為損害，起決定執故。當殺者，謂欲傷害其身。當害者，謂欲損惱其身。當為衰損者，謂欲令彼財物損耗。彼當自獲種種憂惱者，謂欲令彼自失財物。

> 悪意をもって分別するとは、他の生きとし生けるものに対して、怒りの力が強くなることによって、害そうと心を決めて執着することである。殺すべきとは、その身体を傷つけようと欲すること。害すべきとは、その身体を悩ませ苦しめようと欲すること。衰え損なうべきとは、その人の財物を失わせようと欲すること。その人が自ら様々な憂いや悩みを得るとは、その人が自ら財物を失うようにさせようと欲することである。

此中略義，如前應知。

> この中の大要は、前と同じように理解すべきである。

復次，諸邪見者者，此是總句。

> さらに、さまざまな誤った見解を持つ者のことについては、これが総合的な教えです。

起如是見者，此顯自心忍可欲樂當所說義。立如是論者，此顯授他當所說義。無有施與、無有愛養、無有祠祀者，謂由三種意樂非撥施故。一、財物意樂，二、清淨意樂，三、祀天意樂。供養火天，名為祠祀。又顯非撥戒修所生善能治所治故，及顯非撥施所生善能治所治故，說如是言：無有妙行，無有惡行。又顯非撥此三種善能治所治所得果故，說如是言：無有妙行、惡行二業果及異熟。又顯非撥流轉依處緣故，說如是言：無有此世，無有他世。又顯非撥彼所託緣故，及非撥彼種子緣故，說如是言：無母無父。又顯非撥流轉士夫故，說如是言：無有化生有情。又顯非撥流轉對治還滅故，說如是言：世間無有真阿羅漢，乃至廣說。已趣各別煩惱寂靜，故名正至。於諸有情遠離邪行，行無倒行，故名正行。因時，名此世間。果時，名彼世間。自士夫力之所作故，名為自然。通慧者，謂第六。

> このような見解を起こすことは、自らの心がその教えに納得し、喜んで受け入れようとすることを示している。このような論を立てることは、他人にその教えを伝えようとすることを示している。 「施しはない」「愛養はない」「祭祀はない」というのは、三つの意楽（心の向き）によって布施を否定するからである。すなわち、財物に対する意楽、清浄に対する意楽、天を祀ることに対する意楽である。火の天を供養することを「祭祀」という。 また、戒と修によって生じる善と、それを対治するものを否定することを示し、布施によって生じる善と、それを対治するものを否定することを示すので、「良い行いはない」「悪い行いはない」と言うのである。 さらに、この三つの善とその対治によって得られる果報を否定するので、「良い行いと悪い行いの二つの業の果や異熟はない」と言うのである。 また、輪廻のよりどころとなる縁を否定するので、「この世はない」「あの世はない」と言うのである。 また、そのよりどころとなる縁や種子の縁を否定するので、「母はない」「父はない」と言うのである。 また、輪廻する主体を否定するので、「化生の有情はない」と言うのである。 また、輪廻に対する対治や還滅を否定するので、「世間に真の阿羅漢はない」等と広く説くのである。 各々の煩悩が寂滅した状態に向かうことを「正至」という。あらゆる生きとし生けるものに対して邪な行いを遠ざけ、倒れた行いを行わないことを「正行」という。因の時を「この世間」といい、果の時を「彼の世間」という。自らの力によってなされることから「自然」という。「通慧」とは、第六（の神通）のことである。

已證者，謂由見道。具足者，謂由修道。顯示者，自所知故，為他說故。我生已盡等，當知如餘處分別。

> すでに証得した者とは、見道によるものをいう。具足した者とは、修道によるものをいう。示すとは、自らが知るところにより、他のために説くことをいう。我が生はすでに尽きた等については、他のところで説かれるところのとおりと知るべきである。

此中略義者，謂顯示謗因、謗果、誹謗功用、謗真實事。功用者，謂殖種功用、任持功用，來往功用、感生業功用。

> ここで簡単に言えば、示されているのは、原因を誹謗すること、結果を誹謗すること、はたらきを誹謗すること、真実の事柄を誹謗することです。 はたらきとは、育てるはたらき、支え保つはたらき、行き来するはたらき、生まれ変わりを引き起こすはたらきのことです。

又有略義差別。謂顯示誹謗若因、若果、若流轉緣、若流轉士夫，及顯誹謗彼對治還滅。又誹謗流轉者，應知謗因，不謗自相。謗還滅者，應知謗彼功德，不謗補特伽羅。

> さらに、簡略に示す意味の違いがある。それは、「因」すなわち原因、「果」すなわち結果、「流転の縁」すなわち輪廻を生み出す条件、「流転の士夫」すなわち輪廻する主体を否定し、さらに、それらを対治する「還滅」すなわち苦しみからの解放をも否定することを示す。 また、流転（輪廻）を否定する場合は、その原因を否定するのであって、現象そのものを否定するのではないと知るべきである。 還滅（解脱）を否定する場合は、その功徳を否定するのであって、それを達成する主体（人）を否定するのではないと知るべきである。

復次，白品一切，翻前應知。所有差別，我今當說。謂翻欲邪行中，諸梵行者者，此是總句。當知此由三種清淨而得清淨。一、時分清淨，二、他信清淨，三、正行清淨。盡壽行故、久遠行故者，此顯時分清淨。諍處雪故名清，無違越故名淨，此二總顯他信清淨。

> 次に、善い行い（白品）については、前述した悪い行いの反対であると知るべきです。ただし、細かな違いがあるので、これから説明しましょう。 まず、「悪い行い（欲邪行）をしない修行者」というのは、全体を表す言葉です。この清らかさは、次の三つの清らかさによって得られることを知るべきです。第一に「時分の清らかさ」、第二に「他信の清らかさ」、第三に「正しい行いの清らかさ」です。 「生涯にわたって行うこと」「長きにわたって行うこと」とは、時分の清らかさを示しています。 「争いの場で雪のように白いから清い」「違反がないから清い」という二つの言葉は、他信の清らかさをまとめて示しています。

此中或有清而非淨，應作四句。初句者，謂實毀犯，於諍得勝。第二句者，謂實不犯，於諍墮負。第三句者，謂實不犯，於諍得勝。第四句者，謂實毀犯，於諍墮負。不以愛染身觸母邑故，名遠離生臭。不行兩兩交會鄙事故，名遠離婬欲。不以餘手觸等方便而出不淨故，名非鄙愛，願受持梵行故，名遠離猥法。如是名為正行清淨具足。當知略義即在此中。

> ここで「清らか」と「清浄」は必ずしも一致しません。次の四つの場合があります。 第一の場合：実際には戒律を破っているが、議論には勝つこと。 第二の場合：実際には戒律を破っていないが、議論には負けること。 第三の場合：実際には戒律を破っておらず、議論にも勝つこと。 第四の場合：実際には戒律を破っており、議論にも負けること。 母（女性）の体に愛欲の心で触れないから「生臭さから遠ざかる」と言います。男女が交わるという卑しい行いをしないから「淫欲から遠ざかる」と言います。手など他の手段で精を出さないから「卑しく愛欲に溺れない」と言います。清らかな行いを保ちたいと願うから「猥雑な行いから遠ざかる」と言います。これらを「正しい行いが清浄に満ち足りている」と呼びます。この要点がここに説かれているのです。

又翻妄語中，可信者，謂可委故。可委者，謂可寄託故。應可建立者，謂於彼彼違諍事中，應可建立為正證故。無有虛誑者，於委寄中不虛誑故，不欺誷故。

> さらに偽りの言葉について解説すると、信頼できるとは、任せられるという意味である。任せられるとは、託すことができるという意味である。証人として立てられるとは、様々な争い事において、正しい証人として認められるという意味である。偽りがないとは、任されたことに対してごまかさず、欺かないという意味である。

此中略義者，謂顯三種攝受。一、欲解攝受，二、保任攝受，三、作用攝受。

> ここで簡潔に言うと、次の三つの「摂受（受け入れと導き）」を示している。第一に「信解による摂受」、第二に「保持と任せる摂受」、第三に「作用による摂受」である。