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title: "瑜伽師地論 · 1"
description: "瑜伽师地论是佛教大乘瑜伽行派的重要经典，相传由弥勒菩萨口述，无著菩萨记录，唐代高僧玄奘于贞观年间从印度取回并译成汉文。该论共100卷，系统阐述瑜伽行派的教义，内容包括十七地、三性、八识、修行次第等核心理论，被誉为大乘佛教的百科全书。作为唯识学的根本论典，瑜伽师地论奠定了唯识学派的理论基础，对汉传佛教和藏传佛教影响深远，在佛教思想史上具有崇高地位，是研究唯识学和瑜伽行派必读的经典著作。"
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緣起差別云何？

> 縁起の違いとはどういうことでしょうか？

謂於前際無知等，如經廣說。於前際無知云何？謂於過去諸行起不如理分別，謂我於過去為曾有耶？為曾無耶？曾何體性？曾何種類？所有無知。

> 過去についての無知などは、経典で詳しく説かれている通りです。では、「過去についての無知」とは何か。それは過去の様々な現象（諸行）に対して道理にそぐわない分別を起こすことです。すなわち、「私は過去に存在したのだろうか？存在しなかったのだろうか？どのような性質を持っていたのか？どのような種類のものだったのか？」と考えることによる、無知のすべてを指します。

於後際無知云何？謂於未來諸行起不如理分別，謂我於未來為當有耶？為當無耶？當何體性？當何種類？所有無知。

> 未来に対する無知とは何か。それは、未来の現象について、道理にかなわない分別を起こすことである。すなわち、「私は未来に存在するのだろうか？存在しないのだろうか？どのような性質を持つだろうか？どのような種類になるのだろうか？」と考える。これがすべての無知である。

於前後際無知云何？謂於內起不如理猶豫，謂何等是我？我為何等？今此有情從何所來？於此沒已當往何所？所有無知。

> 前後の縁（へり）について無知であるとは、どういうことか。それは、心の中に道理にかなわない迷いが生じ、「何が私なのか」「私は何なのか」「この人はどこから来て、ここで死んだ後、どこへ行くのか」といった疑問がわくことである。そのような無知の状態をいう。

於內無知云何？謂於各別諸行起不如理作意，謂之為我所有無知。

> 内に無知とは何か。それは、様々な心の働き（諸行）の一つひとつに対して、道理に適わない考え方を起こし、それらを「自分のもの」だと執着することである。この執着こそが無知なのである。

於外無知云何？謂於外非有情數諸行起不如理作意，謂為我所所有無知。

> 外的なものについての無知とは何か？それは、外部にある有情ではない諸々の現象（諸行）に対して、道理にかなわない心の働きが起こり、それらを「私のもの」「私の所有物」と捉える無知のことである。

於內外無知云何？謂於他相續諸行起不如理分別，謂怨親中所有無知。

> 内外に対する無知とは何か。それは、他者の心と身体の連続する働きについて、道理にかなわない分別を起こすことである。つまり、怨み・親しみ・どちらでもない人々に対して生じる無知を指す。

於業無知云何？謂於諸業起不如理分別，謂有作者所有無知。

> 業についての無知とは何か？それは、様々な行為に対して「行為者がいる」という誤った考え方をすることである。

於異熟無知云何？謂於異熟果所攝諸行，起不如理分別，謂有受者所有無知。

> 異熟についての無知とは何か？それは、異熟果に含まれる様々な行（現象）に対して、理にかなわない分別を起こし、「これを受ける主体が存在する」と捉えることによる、あらゆる無知のことである。

於業異熟無知云何？謂於業及果起不如理分別所有無知。

> 業とその報いについての無知とは何か？それは、業（行為）とその結果について、道理に適わない分別を起こすことによる無知である。

於佛無知云何？謂於佛菩提，或不思惟、或邪思惟、或由放逸、或由疑惑、或由毀謗所有無知。

> 仏陀について無知であるとはどういうことか。それは、仏陀の悟りについて、考えないこと、間違った考えをすること、注意を怠ること、疑うこと、または謗ることによって生じる無知のことである。

於法無知云何？謂於正法善說性，或不思惟、或邪思惟、或由放逸、或由疑惑、或由毀謗所有無知。

> 法についての無知とは何か？ それは、正しく説かれた教え（正法）の本質を理解しないことであり、あるいは考えを巡らせないこと、間違った考え方をすること、気ままに任せること、疑いを抱くこと、そしることによって生じる、あらゆる無知のことを言う。

於僧無知云何？謂於僧正行，或不思惟、或邪思惟、或由放逸、或由疑惑、或由毀謗所有無知。

> 僧団（サンガ）に対して無知であるとは、どういうことか。それは、僧団の正しい行いについて、考えをめぐらさないこと、間違った考えを持つこと、怠ること、疑うこと、あるいは非難することによって生じる無知のことを言う。

於苦無知云何？謂於苦是苦性，或不思惟、或邪思惟、或由放逸、或由疑惑、或由毀謗所有無知。如於苦，當知於集、滅、道無知亦爾。

> 苦しみについて無知であるとはどういうことか。それは、苦しみが本質的に苦しみであることを理解しないこと、あるいはそれについて考えないこと、間違った考え方をすること、怠けること、疑うこと、または否定することによる無知のことである。苦しみについてそうであるように、苦しみの原因、苦しみの消滅、そして消滅に至る道についての無知もまた、同じであると知るべきである。

於因無知云何？謂起不如理分別，或計無因、或計自在、世性、士夫、中間等不平等因所有無知。如於因無知，於從因所生諸行亦爾。又彼無罪故名善，有罪故名不善；有利益故名應修習，無利益故名不應修習；黑故名有罪，白故名無罪，雜故名有分。

> 因についての無知とは何か。それは、道理にそぐわない分別を起こし、原因がないと見なしたり、あるいは自在天、自性、原人、中間（の神々）などといった不平等な原因を想定する、あらゆる無知である。因に対する無知と同じように、因から生じる諸々の現象（行）についても同様である。また、罪がないゆえに善と呼ばれ、罪があるゆえに不善と呼ばれ、利益があるゆえに修行すべきものとされ、利益がないゆえに修行すべきでないとされ、黒いゆえに罪があり、白いゆえに罪がなく、混ざっているゆえに善悪が分かたれている（有分）のである。

於六觸處如實通達無知云何？謂增上慢者，於所證中顛倒思惟所有無知。

> 六つの感覚器官について、あるがままに悟ることができない無知とは何か？それは、増上慢の人が、その悟ったところにおいて、あべこべに考えることから生じる、あらゆる無知のことである。

如是略說十九種無知。

> このように、無知には大きく分けて十九種類あると簡潔に説かれています。

復有七種無知：一、世愚，二、事愚，三、移轉愚，四、最勝愚，五、真實愚，六、染淨愚，七、增上慢愚。前十九無知，今七無知，相攝云何？謂初三無知攝初一，次三無知攝第二，次三無知攝第三，次三無知攝第四，次四無知攝第五。

> さらに、七種の無知があります。第一に世間に対する無知、第二に事物に対する無知、第三に変化に対する無知、第四に最上のものに対する無知、第五に真理に対する無知、第六に汚れと清らかさに対する無知、第七に増上慢（おごり）による無知です。先に挙げた十九の無知と、この七つの無知はどのように対応するのでしょうか。すなわち、最初の三つの無知が七つのうちの第一の無知に含まれ、次の三つの無知が第二の無知に含まれ、その次の三つの無知が第三に、さらに次の三つの無知が第四に、そして最後の四つの無知が第五の無知に含まれるのです。

次二無知攝第六，後一無知攝第七。

> 次（二つの無知）は第六の位に含まれ、後の一つ（無知）は第七の位に含まれる。

復有五種愚：一、義愚，二、見愚，三、放逸愚，四、真實義愚，五、增上慢愚。前十九愚，今五種愚，相攝云何？謂見愚攝前六及於因所生法無知；放逸愚攝於業、異熟、俱無知；真實義愚攝於佛等乃至道諦無知；增上慢愚攝最後無知；當知義愚通攝一切。

> さらに五つの無知があります。第一に「義（意味）に対する無知」、第二に「見解に対する無知」、第三に「放逸（怠惰）に対する無知」、第四に「真実の意味に対する無知」、第五に「増上慢（思い上がり）に対する無知」です。 前に挙げた十九の無知と、この五つの無知との関係はどうなっているのでしょうか。 「見解に対する無知」は、先の六つ（見処・色などに関する無知）と、「因によって生じるものに関する無知」を含みます。 「放逸に対する無知」は、業（行為）・異熟（結果）の両方に対する無知を含みます。 「真実の意味に対する無知」は、仏陀などに関する無知から、道諦に至るまでの無知を含みます。 「増上慢に対する無知」は、最後の無知（無常・苦・無我・不浄に関する無知）を含み

復次，無知、無見、無有現觀、黑闇、愚癡，及無明闇，如是六種無明差別，隨前所說七無知事次第應知。於後二無知事總合為一，起此最後無明黑闇。

> さらに、無知、無見、現観の欠如、暗闇、愚かさ、そして無明の闇——この六つの無明の種類は、先に述べた七つの無知の事柄に応じて順に理解されるべきです。後の二つの無知の事柄は一つにまとめられ、その最後の無明の暗闇が生じます。

復有差別。謂聞思修所成三慧所治差別，如其次第說前三種。即此所治軟中上品差別，說後三種。如是所治差別故，自性差別故，建立六種差別應知。

> さらに別の見方もあります。それは、聞・思・修によって得られる三つの智慧が対治するものの違いに基づき、順に最初の三つ（聞慧・思慧・修慧）が説かれます。そして、この対治されるもの自体に、弱・中・強という段階の違いがあることで、後の三つ（弱・中・強の対治）が説かれます。このように、対治されるものの違いと、その性質の違いによって、六つの区別が立てられると理解すべきです。

身行云何？謂身業。若欲界、若色界，在下名福非福，在上名不動。語行云何？謂語業。餘如前應知。意行云何？謂意業。若在欲界名福非福，在上二界唯名不動。

> 身行とは何か。それは身体による行為（身業）のことです。欲界や色界において、下の世界では「福」または「非福」と呼ばれ、上の世界では「不動」と呼ばれます。 語行とは何か。それは言葉による行為（語業）のことです。その他は先と同じように理解すべきです。 意行とは何か。それは心による行為（意業）のことです。欲界にある場合は「福」または「非福」と呼ばれ、上の二つの世界では「不動」とのみ呼ばれます。

眼識云何？謂於當來依止眼根了別色境識，所有福、非福、不動行所熏發種子識，及彼種子所生果識。如眼識，如是乃至意識應知亦爾。由所依及境界，所起了別差別應知。此於欲界具足六種，色界唯四，無色界唯一。

> 眼識とは何か。それは、未来において眼の根に依って色の境を認識する識であり、福・非福・不動の行によって熏習（くんじゅう）された種子（しゅうじ）の識と、その種子から生じた結果としての識である。 眼識について述べたように、意識（いしき）に至るまでの他の識についても同様であると知るべきだ。それぞれの識が、よりどころ（所依）と対境（きょう）に基づいて、認識の違いを生じさせるのである。 この識は、欲界では六種すべてがそろい、色界では四種のみであり、無色界では一種のみである。

受蘊云何？謂一切領納種類。想蘊云何？謂一切了像種類。行蘊云何？謂一切心所造作意業種類。識蘊云何？謂一切了別種類。如是諸蘊皆通三界。

> 受蘊とは何か。それは、すべての「受け取る」働きの種類である。 想蘊とは何か。それは、すべての「心に像を結ぶ」働きの種類である。 行蘊とは何か。それは、心によってつくり出される、すべての意志の働きの種類である。 識蘊とは何か。それは、すべての「識別する」働きの種類である。 これらの五つの蘊は、すべて三つの世界にわたって存在する。

四大種云何？謂地、水、火、風界。此皆通二界。四大種所造色云何？謂十色處及法處所攝色。欲界具十及法處所攝假色；色界有八及法處所攝色，然非一切。此亦二種：謂識種子所攝受種子名色，及於彼所生果名色。

> 四大元素とは何か。それは地・水・火・風の四つの界（要素）である。これらはすべて二つの世界（欲界と色界）に共通して存在する。 四大元素から作られた物質（色）とは何か。それは十の感覚の領域と、法の領域に含まれる物質である。欲界には十の領域すべてと、法の領域に含まれる仮の物質が存在する。色界には八つの領域と、法の領域に含まれる物質があるが、すべてではない。 これにはさらに二つの種類がある。すなわち、識の種子が保つ「種子としての名前と物質」と、そこから生じた結果としての「名前と物質」である。

眼處云何？謂眼識所依淨色，由此於色已見、現見、當見。如眼處，如是乃至意處，隨其所應盡當知。於一切處，應說三時業用差別。此亦二種。謂名色種子所攝受種子六處，及彼所生果六處。五在欲色界，第六通三界。

> 眼処（げんしょ）とは何か？それは、眼識（視覚）がよりどころとする清らかな物質のことである。この器官によって、私たちは色（形や色）をすでに見たり、今見たり、これから見るのである。 同様に、耳処・鼻処・舌処・身処・意処についても、それぞれに応じて理解するべきである。 あらゆる「処」（六根）において、過去・現在・未来という三つの時における作用の違いがあることを説明すべきである。 また、この六処には二種類がある。すなわち、（過去世の）名色という種子に含まれる種子としての六処と、そこから生まれた結果としての六処である。 第六の意処（心の器官）を除く五つの処（眼・耳・鼻・舌・身の感官）は

眼觸云何？謂三和所生，能取境界淨妙等義。如是餘觸，各隨別境說相應知。此復二種。謂六處種子所攝受種子觸，及彼所生果觸。欲界具六，色界四，無色界一。

> 眼の触（しょく）とは何か？それは、三つのものが和合して生じ、対象となる世界を清らかで美しいなどと捉えるはたらきです。このように、他の触もそれぞれ異なる対象に応じて、その特性を説明します。触にはさらに二種類あります。すなわち、六つの感覚器官に含まれる種としての触と、そこから生じる結果としての触です。欲界では六種類すべて、色界では四種類、無色界では一種類のみ存在します。

樂受云何？謂順樂諸根、境界為緣，所生適悅受，受所攝。

> 楽しい感覚（楽受）とは、どのようなものか。それは、快楽にかなった感覚器官や対象との出会いによって生じる、心地よさや満足感を伴う感受である。この感覚は、感受の範疇に含まれる。

苦受云何？謂順苦二為緣，所生非適悅受，受所攝。

> 苦受とは何か。苦と苦に随順するものの二つを縁として生じる、心地よくない感覚である。これらは受の領域に属する。

不苦不樂受云何？謂順不苦不樂二為緣，所生非適悅非不適悅受，受所攝。欲界三，色界二，第四靜慮以上乃至非想非非想處唯有第三不苦不樂。此亦二種。謂觸種子所攝受種子受，及彼所生果受。

> \#### \*\*苦でもなく楽でもない受（感覚）とは何か\*\* それは、「苦でもなく楽でもない」という二つの条件（不苦不楽の二つの縁）に基づいて生じる感覚のことです。この感覚は、「快適だ」とも「不快だ」とも感じられない、中立的なものです。そして、それは「受」という心の働きに含まれます。 #### \*\*三界における分類\*\* \* \*\*欲界\*\*: この感覚（苦でもなく楽でもない受）は、三種類すべて（苦受、楽受、捨受）のうちの一つとして現れます。 \* \*\*色界\*\*: 第二禅天までは楽受と捨受がありますが、第四禅天以上では、苦でもなく楽でもない受（捨受）だけになります。 \* \*\*無色界\*\*: 非想非非想処に至る

## 瑜伽師地論卷第九

> 瑜伽師地論 巻第九