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title: "瑜伽師地論 · 9目 以分別緣中三十門分別"
description: "瑜伽师地论是佛教大乘瑜伽行派的重要经典，相传由弥勒菩萨口述，无著菩萨记录，唐代高僧玄奘于贞观年间从印度取回并译成汉文。该论共100卷，系统阐述瑜伽行派的教义，内容包括十七地、三性、八识、修行次第等核心理论，被誉为大乘佛教的百科全书。作为唯识学的根本论典，瑜伽师地论奠定了唯识学派的理论基础，对汉传佛教和藏传佛教影响深远，在佛教思想史上具有崇高地位，是研究唯识学和瑜伽行派必读的经典著作。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cma8zgzbu012mib049nc3pvx4"
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問：若說無明以不如理作意為因，何因緣故於緣起教中不先說耶？

> 問い：無明の原因が「理にかなわない心の働き（不如理作意）」であるならば、なぜ縁起の教えの中で、まずそれを説かないのでしょうか？

答：彼唯是不斷因故，非雜染因故。所以者何？非不愚者起此作意。依雜染因說緣起教。無明自性是染污，不如理作意自性非染污，故彼不能染污無明，然由無明力所染污。又生雜染業煩惱力之所熏發，業之初因謂初緣起。是故不說不如理作意。

> 答え：それは、ただ無明を断ち切る原因となるからであり、煩悩の原因となるからではない。なぜなら、愚かでない者がこのような作意を起こすことはないからである。煩悩の原因に基づいて縁起の教えが説かれたのだ。無明の自性は汚れたものであるが、不如理作意の自性は汚れてはいない。したがって、不如理作意は無明を汚すことはできない。しかし、無明の力によって汚されるのである。また、生の汚れは業と煩悩の力によって熏習され発せられる。業の最初の原因を「初めの縁起」という。それゆえ、不如理作意は説かれないのである。

問：何故不說自體為自體緣耶？

> 問：なぜ自己自身を「自己の縁（原因）」としないのでしょうか？

答：由彼自體若不得餘緣，於自體雜染不能增長，亦不損減，是故不說。

> 答え：その自己の本質が、他の縁を得られなければ、自己の本質における煩悩の増大もなく、また減少もない。それゆえに説かれないのである。

問：何因緣故，福行、不動行由正簡擇功力而起，仍說用無明為緣耶？

> 問：なぜ福行・不動行が正しい選択と努力によって生じるのに、それでも無明を縁として説くのですか？

答：由不了達世俗苦因為緣，起非福行；由不了達勝義苦因為緣，生福及不動行；是故亦說彼以無明為緣。

> 答え：世俗の苦しみの原因を理解できないことを縁として、不善の行為が生じます。勝義の苦しみの原因を理解できないことを縁として、善行と不動行が生じます。それゆえ、これらもまた無明を縁として生じると説かれているのです。

問：如經中說：諸業以貪瞋癡為緣。何故此中唯說癡為緣耶？答：此中通說福、非福、不動業緣，貪瞋癡緣唯生非福業故。

> 問い：経典には「諸々の行いは貪りと怒りと無知を縁として起こる」と説かれています。なぜここでは「無知」だけを縁としているのですか？ 答え：ここでは、幸福をもたらす行い、不幸をもたらす行い、そして揺るぎない行いのすべての縁を総合して説いています。貪りと怒りと無知の縁は、ただ不幸をもたらす行いだけを生み出すのです。

問：身業、語業思所發起，是則行亦緣行；何故但說無明緣行？

> 問う：身体の行為と言葉の行為は、意志（思）によって引き起こされるものです。つまり、これらは「行」であり、また「行」に縁って生じるものです。それならば、なぜ経典ではただ「無明（むみょう）を縁として行が生じる」とだけ説くのでしょうか？

答：依發起一切行緣而說故，及依生善、染污思緣而說故。

> 答え：それは、すべての行（行為）を引き起こす縁（条件）に基づいて説かれたからであり、また、善や汚れ（煩悩）を生じさせる思（意図）の縁に基づいて説かれたからである。

問：識亦以名色為緣，何故此中但說行為緣耶？

> 問：識もまた名色を縁としていますが、なぜここでは行だけを縁として挙げているのでしょうか？

答：行為識雜染緣，能引、能生後有果故。非如名色，但為所依、所緣，生起緣故。

> 答え：行為の識別が雑染の縁となるのは、後の有（存在）の結果を引き起こし、生み出すからである。名色のように、単に依り所となり、縁となり、生起の条件となるだけではない。

問：名色亦由大種所造及由觸生，何故但說識為緣耶？

> 問い：名色もまた、四大要素によって作られ、接触によって生じるものですが、なぜ「識を縁として」とだけ説かれているのでしょうか？

答：識能為彼新生因故。彼既生已，或正生時，大種及觸唯能與彼為建立因。

> 答え：識は、それ（名色）の新たな生まれ出る原因となるからです。名色が生まれた後、あるいはまさに生まれようとしている時、四大元素（地・水・火・風）と触覚だけが、それに対して成立の因（基盤）として働くのです。

問：如經中說：六界為緣得入母胎。何故此中唯說識界？

> 質問：経典には「六界が縁となって母胎に入ることができる」と説かれています。なぜこの経典では識界だけを説いているのでしょうか？

答：若有識界，決定於母胎中精血、大種、腹穴無闕故。又識界勝故。又依一切生、一切有生時而說故。

> 答え：識が存在するからです。母胎の中に精血、四大要素、そして子宮の場所に欠損がないからです。また、識が優れているからです。さらに、あらゆる生存、あらゆる存在が生まれる時の道理に基づいて説かれているからです。

問：六處亦以飲食為緣，何故此中但說名色為緣耶？

> 問い：六処（六つの感覚器官）もまた、飲食を縁として成り立つものですが、なぜここでは「名色（心と物質）」だけを縁として語るのでしょうか？

答：此中說名色是彼生因故。彼既生已，亦以飲食為任持因。

> 答：ここで「名色」は、その（識の）生じる因であると言われている。それが生じた後は、また飲食を維持する因とする。

問：觸以三和為緣，何故此中但說六處為緣？

> 問う：触は三つの要素が和合することを縁としているのに、なぜこの経典では「六つの感官（六処）を縁とする」とだけ説かれているのでしょうか？

答：若有六處，定有餘二無闕故。又六處勝故，由六處攝二種故。

> 答えるならば、六つの場所が存在すれば、必ず残りの二つも欠けることなく存在するからです。また、六つの場所が優れているため、それらが残りの二つを含み持つからです。

問：若自所逼迫，若他所逼迫，若時候變異，若先業所引，皆得生受；何故此中但顯觸為彼緣？

> 問う：もし自らが迫られること、他から迫られること、時節の変化、過去の業に導かれること、いずれによっても「受」は生じる。それならば、なぜここでは「触」だけをその縁として示すのか。

答：觸是彼近因故，由觸所引故；餘緣所生受亦從觸生故，必不離觸，是故偏說。

> 答え：触がその直接の原因だからであり、触によって引き起こされるからです。他の縁から生じる受もまた、触から生じるものであるため、必ず触を離れることはありません。それゆえに、特に触について述べたのです。

問：經中亦說無明為緣生愛，順愛境界亦得為緣，何故此中但說受為緣耶？

> 問い：経典の中では「無明を縁として愛が生じる」とも説かれ、また愛に適した境界も縁となることができると言われています。それなのに、なぜここでは「受を縁として愛が生じる」とのみ説かれているのでしょうか？

答：以受力故，於相似境，或求和合，或求乖離。由愚癡力，但於諸受起盡等相不如實知，由此不能制御其心。

> 答：感覚（受）に縛られるからこそ、人は似たような状況に対して、結びつきを求めたり、離れようとしたりするのです。無知の力によって、感覚の生起や消滅などのあり様をありのままに知ることができず、そのために心を制御することができなくなります。

問：由隨眠未斷，順彼諸法取皆得生，何故此中但說愛為取緣？

> 質問：煩悩の眠り（随眠）が断たれていないために、それに対応する様々な現象を執着として捉えることがすべて生じるのであれば、なぜこの教えでは『渇愛（愛）』だけを執着の原因として挙げるのでしょうか。

答：由希望生故，於追求時，能發隨眠，及能引彼隨順法故。

> 答え：望みが生じるからこそ、追い求めるときに、心の奥に眠っている煩悩（ずいみん）を呼び覚まし、さらにはそれに従う心の働きをも引き寄せるのです。

問：前已說無明為緣發起業有，何故今者說取緣有？

> 質問：すでに「無明を縁として業有が生じる」と説かれたのに、なぜ今「取を縁として有が生じる」と説くのでしょうか？

答：由取力故，即令彼業於彼彼生處能引識、名色等果。

> 答え：執着の力によって、その行為（業）が様々な生まれ変わりの場所において、認識（識）や名前と形（名色）などの結果を引き起こすのです。

問：生亦以精血等為緣，何故此中唯說有緣生耶？

> 問：生もまた精血などを縁としているのに、なぜここではただ「有を縁として生がある」とのみ説かれているのですか？

答：由有有故，定有餘緣無闕。又有勝故，唯說彼為緣。

> 答：「有」が存在するからこそ、必ず他の条件が欠けることなく揃うのです。また、「有」が特に優れているため、それだけを「縁」として説くのです。

問：亦由遠行、不避不平等、他所逼迫為緣，老死可得，何故此中但說生緣老死耶？

> 問：遠い旅に出る時、避けられない不平や他からの逼迫を縁として老死が生じることもあります。それならば、なぜここでは「生を縁として老死がある」とだけ説くのでしょうか？

答：雖由彼諸緣，必以生為根本故。縱闕彼緣，但生為緣，定有老死故。

> 答え：それらの様々な縁（えん）によるとはいえ、必ず「生（しょう）」が根本であるからだ。たとえそれらの縁が欠けていても、「生」という縁がある限り、必ず老いと死があるからである。

問：此十二支，幾是煩惱道？幾是業道？幾是苦道？

> 問う、この十二支のうち、いくつが煩悩の道であり、いくつが業の道であり、いくつが苦しみの道でしょうか。

答：三是煩惱道，二是業道，餘是苦道。

> 答え：三つ目は煩悩の道、二つ目は行為（業）の道、残りは苦しみの道です。

問：幾唯是因，幾唯是果，幾通因果？

> 問：いくつが唯一の因であり、いくつが唯一の果であり、いくつが因と果に通じるのか？

答：初一唯因，後一唯果，餘通因果。又即於此問，更作餘答：三唯是因，二唯是果，當知所餘亦因亦果。

> 初めの段階は因のみ、最後の段階は果のみ、その中間は因かつ果である。また、この問いに対して別の答え方もある。三つ目までは因のみ、次の二つは果のみ、残りは因でもあり果でもあると知るべきである。

問：幾是獨相，幾是雜相？

> 問：独相にはどれだけのものがあり、雑相にはどれだけのものがありますか？

答：三是獨相，行等是雜相。

> 答え：第三は「独自の特徴（独相）」であり、行為（行）などは「雑多な特徴（雑相）」である。

問：何故行、有是雜相？

> 問：なぜ「行」と「有」には混ざり合った相があるのですか？

答：由二種說故。謂能引愛非愛果故，及能生趣差別故。

> 答え：二つの理由があるからです。すなわち、愛しい結果と愛しくない結果を引き起こすからであり、また、様々な生存の世界を生み出すからです。

問：何故識與名色、六處一分有雜相？

> 問い：なぜ識と名色、六処の一部が互いに混ざり合う性質を持つのですか？

答：由三種說故。謂依雜染時故，依潤時故，依轉時故。

> 三つの説明によって明らかにされます。すなわち、「雑染に依る時」と「潤いに依る時」と「転じる時に依る時」です。

問：何故識乃至受，與老死有雜相？答：由二種說故。謂別顯苦相故，及顯引生差別故。

> 問：なぜ「識」から「受」に至るまでの要素が、「老死」と混ざり合うのでしょうか？ 答：二つの説明があるからです。すなわち、苦しみの様相を個別に示すためと、因果の連鎖における違いを明らかにするためです。

復次，於緣起中：云何數往義？謂生已不住義。云何和合義？謂諸緣聚集義。云何起義？謂諸緣和合之所引攝新新生義。云何緣起？云何緣生？謂諸行生起法性，是名緣起；即彼生已，說名緣生。

> そこで、縁起（えんぎ）において、「数往（すおう）」とは何か。それは、生じたものがとどまらないことである。「和合（わごう）」とは何か。それは、様々な条件（縁）が集まることである。「起（き）」とは何か。それは、条件が和合することで導かれる、新たに生じる働きである。 では、「縁起」とは何か。「縁生」とは何か。あらゆる「行（ぎょう）」が生じる法則、それが「縁起」である。そしてその生じたものを、「縁生」と名付けるのである。

問：幾支苦諦攝及現法為苦？答：二，謂生及老死。

> 問い：苦諦に含まれる支分（構成要素）のうち、現在の生涯において苦と感じられるものはいくつあるのでしょうか。 答え：二つあります。それは「生（誕生）」と「老死（老化と死）」です。

問：幾支苦諦攝，當來為苦？答：識乃至受種子性。

> 問う：いくつかの苦諦に含まれるものが、未来において苦となるのか？ 答え：識から受までの種子の性質である。

問：幾支集諦攝？答：所餘支。

> 問い：何支が集諦に含まれるのでしょうか？ 答え：他の残りの支です。

問：無明與行為作俱有緣？為作無間滅緣？為作久遠滅緣？

> 質問：無明と行は、互いに「共に存在する縁」となるのでしょうか？それとも、「途切れることなく滅する縁」となるのでしょうか？あるいは、「遠く離れて滅する縁」となるのでしょうか？

答：當知具作三緣。謂由無知，於隨順諸行法中，為俱有覆障緣，為彼彼事發起諸行。又由惡見、放逸俱行無知，為無間滅生起緣，發起諸行。又由無知，為久遠滅引發緣故，建立順彼當生相續。

> 答え：知るべきである。三つの縁が働いていると。すなわち、無知によって、諸々の行（形成作用）に従い随順する法の中において、俱有（ともに存在する）の覆い隠す障りの縁となり、様々な事柄のために諸々の行を起こす。また、悪見や放逸を伴う無知によって、無間滅（間断なく滅すること）から生起する縁となり、諸々の行を起こす。また、無知によって、久遠に滅したことから引き起こす縁となるため、それに随順する未来における相続を建立する。

問：云何應知諸行望識為三種緣？

> 問：どのようにして、あらゆる行（形成作用）が識に対して三種の縁となることを知るべきなのでしょうか？

答：由能熏發彼種子故，為俱有緣。次後由彼勢力轉故，為無間滅生起緣。由彼當來果得生故，為久遠滅引發緣。如行望識，如是識望名色、名色望六處、六處望觸、觸望受亦爾。

> 答：能く心に種を植え付けて、共に存在する縁となる。次に、その力によって転じることで、切れ目のない滅から生じる縁となる。その力によって未来に結果が生じることで、はるか遠い過去の滅から引き起こす縁となる。 行が識を支えるように、識は名色を、名色は六処を、六処は触を、触は受を支えるのも同じである。

問：云何應知受望愛為三種緣？

> 問：どのようにして、「受」が「愛」にとって三種類の縁（条件）となることを知るべきでしょうか？

答：當知由彼起樂著故，為俱有緣。從此無間，由彼勢力起追求等作用轉故，為無間滅生起緣。建立當來難可解脫彼相續故，為久遠滅引發緣。

> 答え：知るべきである。楽への執着があることによって、「俱有縁」となるからである。その直後、その執着の力によって追求などの作用が生じるので、「無間滅生起縁」となる。将来において、その執着の連続を断ち切ることが難しく、解き放たれがたい状態を引き起こすので、「久遠滅引發縁」となるのである。

問：云何愛望取為三種緣？

> 問い：どのように「愛」は「取」にとって三種類の縁となるのでしょうか？

答：由欲貪俱行，於隨順取法中，欲樂安立故，為俱有緣。由無間滅勢力轉故，為生起緣。建立當來難可解脫彼相續故，為久遠滅引發緣。

> 答え：欲と貪りを伴って進み、執着の対象に順じた法のなかで、欲による楽しみを安んじて立てるから、俱有の縁となる。途切れなく消滅する力によって転じるから、生起の縁となる。未来において解脱しがたく、その相続を起こし立てるから、久遠に滅することを引き起こす縁となる。

問：云何取望有為三種緣？

> 問：なぜ、この「取」が「有為」の三つの縁となるのか？

答：由與彼俱，令業能招諸趣果故，為俱有緣。又由彼力，於此生處能引識等故，為無間滅生起緣。又能引發彼界功能故，為久遠滅引發緣。

> 答え：その心と共にあることによって、業が様々な生存の境涯に結果を招く力を持つので、「倶有縁」と呼ばれます。また、その心の力によって、この生存の場所において認識などが引き起こされるので、「無間滅生起縁」となります。さらに、その界（領域）の機能を引き起こす力があるため、「久遠滅引發縁」とされるのです。

問：云何有望生為三種緣？

> 質問：どのようにして「有望」が三つの縁を生じさせるのでしょうか？

答：熏發彼種子故，為俱有緣。由彼勢力無間隨轉故，為生起緣。雖久遠滅而果轉故，為引發緣。如有望生，當知生望老死為緣亦爾。

> 答え：その種子を熏発するから「倶有縁」である。その力によって間断なく随って転ずるから「生起縁」である。遠く久しく滅した後でも果報が転ずるから「引發縁」である。例えば生が老死を望むように、老死が生を縁とするのもまた同じであると知るべきである。

復次，建立有支有二種：一、就勝分建立，謂取所攝受業，如前已說。二、全分建立，謂業及識乃至受所有種子，取所攝受，建立為有應知。

> さらに、「有」の構成要素には二種類があります。第一に、主要な部分に基づく構成です。これは、取によって把握された業であり、先に述べたとおりです。第二に、全体に基づく構成です。これは、業と識から受に至るまでのすべての種子が、取によって把握され、有として構成されることを知るべきです。

問：是諸有支唯有次第與行為緣乃至老死，更有餘業用耶？

> 問う、これらの十二の縁起支分には、ただ次第（の順序）として行を縁として乃至老死に至るだけであって、他には何か作用があるのだろうか？

答：即此業用，及於各別所行境中，如其所應所有業用，當知是名第二業用。

> 答え：この働き、およびそれぞれの対象とする領域における、その状況に応じたすべての働きを、第二の業用と知るべきである。

問：無明唯與行為緣，亦與餘支為緣耶？

> 問：無明は、行（ぎょう）とのみ縁となるのでしょうか。それとも、他の支（縁起の各項目）との縁にもなるのでしょうか。

答：無明乃至亦與老死為緣。前言唯與行為緣者，但說近緣義。如是所餘盡應當知。復次，後支非前支緣。何以故？如為斷後支故，勤作功用斷於前支，由前斷故，後亦隨斷。非為斷前故，勤作功用斷於後支。是故當知唯此為彼緣。

> 回答： 無明から老死に至るまで、それぞれが次の支分の縁となっています。先に「無明は行とのみ縁となる」と述べたのは、直接的な縁の意味を説いたにすぎません。残りの支分についても、同様に理解すべきです。 さらに、後の支分は前の支分の縁とはなりません。なぜなら、後の支分を断ち切るために前の支分を断つ努力をし、前が断たれると後も自然に断たれるからです。しかし、前の支分を断つために後の支分を断つ努力をすることはありません。したがって、前の支分だけが後の支分の縁となると知るべきです。

問：云何說言此有故彼有？

> 問：どのようにして「これがあるから、あれがある」と説かれるのですか？

答：由未斷緣，餘得生義故。

> 答え：未だ縁を断ち切っていないことにより、他のものが生じる道理があるからです。

問：云何此生故彼生？

> 質問：なぜ「これが存在するから、あれが生じる」と言うのですか？

答：由無常緣，餘得生義故。

> 答え：無常という縁によって、他のものが生じる道理が成立するからである。

問：何故說言有生故有老死，要由生緣而有老死，如是乃至無明望行？

> 問：なぜ「生があるから老死がある」と言い、生の縁によって老死があるとし、さらには無明が行を縁としてあると言うのか。

答：由此言教道理，顯從無實作用緣，餘得生義故。

> この教えの道理によって、実体のない作用する縁から、他のものが生じるという意味が明らかになるからです。

問：何故說言有生故有老死，非離生緣而有老死，如是乃至無明望行？

> 質問：なぜ「生があるから老死があるのであって、生の縁を離れて老死があるのではない」と説き、このようにして無明と行に至るまで同様に説くのでしょうか。

答：由此言教道理，顯從自相續緣；即自相續，餘得生義故。

> 説明：この教えの道理によって、自らの心の連続（自相続）を縁として、その自らの心の連続から、他のもの（結果）が生じるという意味が明らかになるのです。

問：若法無明為緣，彼法是行耶？設是行者，彼無明為緣耶？

> 問：ある法が無明を縁として生じるなら、その法は行であると言えますか？ また、ある法が行であるなら、それは必ず無明を縁として生じるのでしょうか？

答：應作四句。或有行非無明為緣，謂無漏及無覆無記身語意行。或無明為緣而非是行，謂除行所攝有支所餘有支。或有亦無明為緣亦是行，謂福、非福、不動身語意行。除如是相，是第四句。

> 答え：四つの場合に分けられる。第一に、「行」であるが「無明」を縁とはしない場合。これは、煩悩を離れた無漏の行、および善でも悪でもない無覆無記の身・口・意の行である。第二に、「無明」を縁とするが「行」ではない場合。これは、「行」に含まれる十二支の一部分を除いた、残りの十二支である。第三に、「無明」を縁とし、かつ「行」でもある場合。これは、福を生む行、罪を生む行、動かない状態の行、すなわち身・口・意の行である。以上の三つを除いたものが第四の場合である。

問：若行為緣，彼亦識耶？設是識者，行為緣耶？

> 問う：行為（行）を縁として生じるものは、それもすべて認識（識）なのでしょうか。 また、もしそれが認識であるならば、その認識は必ず行為を縁として生じるのでしょうか。

答：應作四句。或行為緣非識，謂除識所餘有支。或識非行為緣，謂無漏識及無覆無記識，除異熟生。或亦識亦行為緣，謂後有種子識及果識。除如是相，是第四句。由此道理，乃至觸緣受，隨其所應四句應知。

> 答え：四つの場合があるべきである。 \* 行を縁として識が生じるのではないもの：識を除いた他の有支。 \* 識が行を縁とするのではないもの：無漏の識と無覆無記の識。ただし、異熟生は除く。 \* 識であり、かつ行を縁とするもの：後の有の種子たる識と、果たる識。 \* 以上のどれでもないものが第四の場合である。 この道理により、触を縁として受が生じる場合に至るまで、それぞれに応じて四つの場合があると知るべきである。

問：若受為緣，皆是愛耶？設是愛者，皆受為緣耶？

> 問う：受（感受）を縁として生じるものは、すべて愛（渇愛）なのでしょうか？また、愛であるものは、すべて受を縁として生じるのでしょうか？

答：應作四句：或有是愛非受為緣，謂希求勝解脫，及依善愛而捨餘愛。或受為緣而非是愛，謂除無明觸所生受為緣，所餘有支法生。或有受為緣亦是愛，謂無明觸所生受為緣，染污愛生。除如是相，是第四句。

> 答：四つの文で説明する。 1. 「愛はあるが、受を縁としない場合」：究極の解脱を求める善への愛着や、善なる愛に依って他の愛を捨てる場合。 2. 「受を縁とするが、愛ではない場合」：無明の触によって生じた受を縁とせず、それ以外の有支の法が生じる場合。 3. 「受を縁とし、かつ愛である場合」：無明の触によって生じた受を縁として、汚れた愛が生じる場合。 4. 「上の三つに当てはまらない場合」：これが第四の文である。

問：若愛為緣，皆是取耶？設是取者，皆愛為緣耶？

> 問：愛が縁となって、すべて執着となるのでしょうか？ また、執着であれば、すべて愛が縁となっているのでしょうか？

答：當知此中是順後句。謂所有取皆愛為緣。或愛為緣而非是取。謂除取所餘有支，及緣善愛、勤精進等諸善法生。

> 答え：知るべきである。これは順後の句である。すなわち、すべての取は愛を縁とする。あるいは、愛を縁としても取ではないものがある。それは、取を除いたその他の有支、および善い愛を縁として、精進などの諸々の善法が生じることである。

問：若取為緣，皆是有耶？設是有者，皆取為緣耶？

> 問：入手することが縁となるものは、すべて「有」でしょうか？また、「有」であるものは、すべて入手を縁とするのでしょうか？

答：亦應作順後句。謂所有有皆取為緣。或取為緣而非是有。謂除有，所餘有支。

> 答えましょう。また逆の言い方も成立します。すなわち、「存在するものはすべて因縁として取られる」と言える。あるいは、「因縁として取られるけれども、それが存在するわけではない」という場合もある。これは、存在（有）を除いた、他の縁起の支分を指します。

問：若有為緣，皆是生耶？設是生者，皆有為緣耶？

> 問：すべての「有為」の縁は、すべて「生」を生じさせるのですか？また、すべての「生」には、必ず「有為」の縁があるのですか？

答：諸所有生皆有為緣。或有為緣而非是生。謂除生，所餘老死最後有支。

> 答え：あらゆる「生」には「有」が縁となっています。しかし、「有」が縁となっても「生」とならない場合もあります。それは、「生」を除いた、老いや死などの最後の有支（存在の要素）のことです。

問：若生為緣，皆老死耶？設是老死，皆生為緣耶？

> 問：生が縁となれば、必ず老いと死があるのでしょうか？また、老いと死がある場合、必ず生が縁なのでしょうか？

答：所有老死皆生為緣。或生為緣而非老死。所謂疾病、怨憎合會、親愛別離、所求不遂、及彼所起愁歎憂苦種種熱惱。

> 答え：あらゆる老いと死は、生まれることを縁として起こります。しかし、生まれることが縁であっても、必ずしも老いと死となるわけではありません。例えば、病気、嫌な者との出会い、愛する者との別れ、願いが叶わないこと、そしてそこから生じる嘆きや悲しみ、苦しみ、様々な心の悩みなどがそれにあたります。

問：是諸有支，幾與道支所攝正見為勝障礙？

> 問：これらの十二因縁の支分のうち、どれが修行の道における正しい見解にとって、特に大きな妨げとなるのでしょうか？

答：無明，及彼所起意行，若有一分能為勝障。如於正見，如是於正思惟及正精進亦爾。若正語、正業、正命，以身行、語行及有一分為勝障礙。若正命、正定，以餘有支為勝障礙應知。

> 回答：無明と、それによって生じる意思の働き（意行）が、修行の妨げとなる主な障害です。例えば、正しい見解（正見）に対してそうであるように、正しい思考（正思惟）や正しい努力（正精進）に対しても同様です。また、正しい言葉（正語）、正しい行い（正業）、正しい生活（正命）にとっては、身体的な行為と言葉による行為の一部が特に大きな障害となります。さらに、正しい生活（正命）と正しい心の統一（正定）にとっては、残りの修行の要素（有支）が特に大きな障害となると理解すべきです。

問：是諸有支，幾唯雜染品？幾通雜染、清淨品？

> 問い：これらの十二支（無明・行・識・名色・六処・触・受・愛・取・有・生・老死）の中で、煩悩や苦しみ（雑染）の側面だけを持つものはいくつあるでしょうか？また、「雑染」と「清らかな状態（清浄）」の両方に関わるものはいくつあるでしょうか？

答：四唯雜染品，餘通雜染、清淨品。

> 答え：四つはただ雑染の品（煩悩や汚れ）だけに通じ、残りは雑染と清浄の両方の品に通じる。

問：云何生支通二品耶？

> 問い：どのようにして「生」の部分が二つの種類（善と不善の二つの性質）に通じるのですか？

答：若生惡趣及有難處，唯是雜染品；若生人天諸無難處，此通染淨品。當知餘支，隨其所應皆通二品。

> 答え：もし悪道や困難な境遇に生まれるならば、それはただ煩悩にまみれた側面だけです。もし人間や天のような困難のない境遇に生まれるならば、これは煩悩と清らかさの両方の側面を含みます。残りの縁については、それぞれの状況に応じて、いずれも二つの側面に通じていると知るべきです。

問：何等無明不有故行不有，何等無明滅故行滅耶？

> 問い：どのような無明が存在しないから「行」が存在せず、どのような無明が滅したから「行」も滅するのですか？

答：有三種，發起、纏、隨眠無明，由此無明滅故，彼無明滅；由彼滅故，行亦隨滅。

> 答え：三種類があります。引き起こす無明、まとわりつく無明、眠っている無明です。この無明が消えることによって、それらの無明も消えます。それらが消えることによって、行（行動を生み出す心の働き）もまた共に消え去ります。

問：何等行不有故識不有，何等行滅故識滅耶？

> 問い：どのような行が存在しないために識が存在せず、どのような行が消滅するために識が消滅するのでしょうか？

答：諸行於自相續中已作已滅，及未起對治，又由意行有故，起身語行；由此有故彼有。彼無故，彼緣識亦無；此若全滅，當知識亦隨滅。

> 答え：諸々の行為は、自らの心の連続の中で既に起こり、消え去ったもの、そしてまだ対治が生じていないものがある。また、意の働きによって、身と語の行為が生じる。これがあるから、それがある。これがなければ、それによって生じる識もない。これが完全に滅するならば、識もまたそれに従って滅することを知るべきである。

問：何等識不有故名色不有，何等識滅故名色滅耶？

> 問：どのような認識があるからこそ「名前と形（名色）」が存在し、どのような認識が消え去ることで「名前と形」も消え去るのでしょうか。

答：種子識不有故，果識不有。此俱滅故，俱名色滅。如識望名色道理，如是餘支乃至受，隨其所應，當知亦爾。如無明緣行道理，如是愛緣取、取緣有道理，當知亦爾。如行緣識道理，如是有緣生，當知亦爾。如識緣名色道理，生緣老死，當知亦爾。

> 種子である識が存在しなければ、結果としての識も存在しません。これら両方が滅するので、名色もともに滅します。識が名色に対する関係と同じように、他の縁起の支分、すなわち受に至るまでも、それぞれに応じて同じであると知るべきです。無明を行に縁する道理のように、愛が取に縁し、取が有に縁する道理も、同じであると知るべきです。行が識に縁する道理のように、有が生に縁することも、同じであると知るべきです。識が名色に縁する道理のように、生が老死に縁することも、同じであると知るべきです。

問：何等受不有故愛不有，何等受滅故愛滅耶？

> 問：どのような「感受（受）」がなくなれば、「渇愛（愛）」もなくなるのでしょうか。また、どのような「感受」が滅びれば、「渇愛」も滅びるのでしょうか。

答：如行緣識道理，當知亦爾。

> 答え：行を縁として識が生じるという道理も、同じように理解すべきです。

問：如前所說八緣起門，幾門是十二支緣起所顯，幾門非耶？

> 質問：先ほど述べた八つの縁起の門のうち、十二支縁起によって示されるものはいくつあり、示されないものはいくつあるのでしょうか？

答：三門是彼所顯，謂二一分所顯，一全分所顯；餘門非。何等為二一分所顯？謂內識生門、自業所作門。何等為一全分所顯？謂有情世間轉門。

> 答え：三つの門はそれによって示されるものである。すなわち、二つの部分的なものによって示されるものと、一つの完全なものによって示されるものである。残りの門はそうではない。では、二つの部分的なものによって示されるものとは何か？それは、内なる認識が生じる門と、自らの業が作り出す門である。一つの完全なものによって示されるものとは何か？それは、有情の世間が転じる門である。

問：不如實知緣起道理者，有幾種過患耶？

> 問：緣起の道理を正しく理解しないと、どんな問題が起こりますか？

答：有五。謂起我見，及能發起前際俱行見。如前際俱行見，如是後際俱行見、前後際俱行見亦爾。又於彼見猛利堅執，有取有怖，於現法中不般涅槃，是名第五過患。

> 答えは五つあります。すなわち、「私」という見解を持ち、さらに過去に執着する見解を引き起こすことです。過去に執着する見解と同様に、未来に執着する見解、また過去と未来の両方に執着する見解も同様です。さらに、その見解に対して激しく固執し、執着し恐れを抱き、現世において涅槃に至らないこと、これを第五の過患と名付けます。

問：如實知者，有幾種勝利耶？答：翻前五過，應知勝利亦有五種。

> 質問：真理をあるがままに知る者には、どのような功徳があるのでしょうか？ 答え：先に挙げた五つの過失が逆転したものとして、功徳にも五つあると知るべきです。

復次，是十二支緣起，幾支是實有？謂九。幾支非實有？謂餘。

> さらに、この十二支の縁起について、いくつの支が実在するのか。答えは九つです。いくつの支が実在しないのか。答えは残りのものです。

幾一事為自性？謂五。幾非一事為自性？謂餘。

> 一つの性質だけを持つものはいくつありますか？五つです。 一つだけの性質を持たないものはいくつありますか？その他です。

幾是所知障因？謂一。

> 心のさまたげ（所知障）の原因となるものは何か？それは、ただ一つだけある。

幾能生苦？謂五。幾苦胎藏？謂五。幾唯是苦？謂二。

> 苦を生み出すものはいくつあるか。五つである。苦の巣窟となるものはいくつあるか。五つである。ただ苦のみであるものはいくつあるか。二つである。

幾說為因分？謂前六，無明乃至觸，及愛、取、有三，說為因分。幾說為果分？謂後二說為果分。幾說為雜因果分？謂所餘支說為雜分。所以者何？有二種受名為雜分。一、謂後法以觸為緣因受；二、謂現法與愛為緣果受。此二雜說為觸緣受。

> 幾つを「因の部分」と言うのか。それは、前の六支、すなわち無明から触までの五支と、愛・取・有の三支を合わせた六支を「因の部分」と言う。 幾つを「果の部分」と言うのか。それは、後の二支（生と老死）を「果の部分」と言う。 幾つを「因果が混ざった部分」と言うのか。それは、残りの支（受）を「混ざった部分」と言う。 なぜなら、二種類の「受」があるからだ。一つは、後の世において触を因として生じる結果としての受。もう一つは、現在の世において愛の因となる原因としての受。この二つが混ざって、「触を縁として受がある」と言われるのである。

復次，幾支能生愛非愛境界果？幾支能生自體果？謂前六支能生前果，後三支能生後果，一支俱生二果。

> また、どの支が愛しい・愛しくない境界の結果を生むのか？どの支が自己の存在の結果を生むのか？答えよう――最初の六支は前の結果を生み、後の三支は後の結果を生む。そして一つの支は両方の結果を同時に生む。

復次，幾支樂受俱行？謂除二，所餘支。幾支苦受俱行？謂即彼及所除中一。幾支不苦不樂受俱行？謂如樂受道理應知。幾支不與受俱行？謂所除中一。

> さらに問う。楽受とともにはたらく縁起の支分はいくつあるか？ 答え。二つの支分を除いた、残りのすべてである。 苦受とともにはたらく支分はいくつあるか？ 答え。その残りのすべてと、除かれた二つのうちの一つである。 苦でも楽でもない受（不苦不楽受）とともにはたらく支分はいくつあるか？ 答え。楽受の場合と同じであると知るべきである。 どの受ともともにはたらかない支分はいくつあるか？ 答え。除かれた二つのうちの一つである。

復次，幾支壞苦攝？謂樂受俱行支及非受俱行支一分。幾支苦苦攝？謂苦受俱行支及非受俱行支一分。幾支行苦攝？謂所有壞苦、苦苦支，亦是行苦支。或有行苦所攝，非餘二苦。謂不苦不樂受俱行支及非受俱行支一分。

> では、次に、いくつの要素が「壊れゆく苦しみ（壊苦）」に含まれるのか？それは、楽しい感覚を伴う要素と、感覚を伴わない要素の一部である。では、いくつの要素が「苦しみそのものの苦しみ（苦苦）」に含まれるのか？それは、苦しい感覚を伴う要素と、感覚を伴わない要素の一部である。では、いくつの要素が「変化そのものの苦しみ（行苦）」に含まれるのか？それは、先に述べた壊苦と苦苦に該当する要素は、すべて行苦にも該当する。また、行苦に含まれるが、他の二つの苦しみには含まれないものがある。それは、苦しくも楽しくもない感覚を伴う要素と、感覚を伴わない要素の一部

問：於一切生處及三摩鉢底中，皆有一切支現行可得耶？

> 問：すべての生まれる場所や、三摩鉢底（禅定の境地）において、すべての支分（五蘊などの構成要素）が現れて作用するのを認めることができるのでしょうか？

答：不可得。謂無想天中，及滅盡定、無想定中，有色支可得，非無色支。若生無色界，無色支可得，非有色支。

> 答え：「得ることはできない」とは、無想天（むそうてん）および滅尽定（めつじんじょう）、無想定（むそうじょう）の中では、色の構成要素（色支）を得ることはできるが、非色の構成要素（非色支）を得ることはできないということである。また、もし無色界（むしきかい）に生まれたならば、非色の構成要素を得ることはできるが、色の構成要素を得ることはできない。

問：頗有依支得離支耶？

> 問い：はたして、\[A\]というよりどころに従うことで、\[B\]というよりどころから離れることはあり得るのでしょうか？

答：有。謂依上地支離下地支。此但一分，非全；唯暫時，非究竟。

> はい、あります。上の境地に基づいて下の境地を離れることです。ただし、これは一部であり、全体ではありません。また、一時的なものであり、永遠のものではありません。

問：幾支染污，幾支不染污？

> 問う：いくつの支分が煩悩に染まっており、いくつの支分が染まっていないのでしょうか？

答：三染。餘通二種，若不染污，善及無覆無記別故，分為二種應知。

> 答え：三つの汚染がある。残りは二種類に通じる。もし汚染されていなければ、善と無覆無記として別れるため、二種類に分けられることを知るべきである。

問：幾支欲界繫？

> 問：いくつの部分が欲界に属するのか？

答：一切支，和合等起故。

> 答え：すべての部分が、調和・結合して生じるからである。

問：幾支色界繫？

> 問：色界に属するものは幾つあるのか。

答：一切一分。

> 答え：すべては一つの中にあり、一つはすべての中にある。

問：云何應知彼有老耶？

> 問：いったいどうして、彼らに老いがあると知ることができるのでしょうか。

答：彼諸行有朽壞腐敗性故。如色界繫，當知無色界繫亦爾。

> 答えましょう。あらゆる現象（行）には、朽ち、壊れ、腐敗する性質があります。色界に属するものがそうであるように、無色界に属するものもまた、同じであると知るべきです。

問：幾支是學？

> 問：学びには、いくつの支分（学ぶべき要素）がありますか？

答：無。

> 答え：何もない。

問：幾支是無學？

> 質問：何つの支分が無学なのでしょうか？

答：亦無。

> 答え：それもまた存在しません。

問：幾支是非學非無學？

> 問：いくつの支分が「有学でもなく無学でもない」のでしょうか？

答：一切。

> 答え：すべてです。

問：所有善有漏支，彼何故非學耶？

> 問う：あらゆる善なる有漏のものは、なぜ「学（有学の聖者）の法」ではないのか？

答：墮流轉故。若學所有善有漏法，彼與流轉相違故，及用明為緣故，非支。

> 答：生死流転に堕ちているからです。もし学ぶ者に有漏の善法があっても、それは生死流転と相反する性質を持ち、明（智慧）を縁とするため、十二支には含まれません。

問：預流果當言幾支已斷耶？

> 問：預流果とは、いくつの煩悩の枝を断ち切ったといえるのでしょうか。

答：一切一分，無全斷者。如預流果，如是一來果亦爾。

> 答え：すべてはその一部分だけを断ち切り、完全に断ち切ることはありません。例えば、預流果（一度真理を体得した者の境地）がそうであるように、一来果（一度だけこの世に生まれ変わる者の境地）もまた、同じように一部を断つにとどまります。

問：不還果當言幾支已斷耶？

> 質問：不還果は、何つの結び目（支）を断ち切った状態と言えるのでしょうか？