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title: "瑜伽師地論 · 1節 安立離生喜樂"
description: "瑜伽师地论是佛教大乘瑜伽行派的重要经典，相传由弥勒菩萨口述，无著菩萨记录，唐代高僧玄奘于贞观年间从印度取回并译成汉文。该论共100卷，系统阐述瑜伽行派的教义，内容包括十七地、三性、八识、修行次第等核心理论，被誉为大乘佛教的百科全书。作为唯识学的根本论典，瑜伽师地论奠定了唯识学派的理论基础，对汉传佛教和藏传佛教影响深远，在佛教思想史上具有崇高地位，是研究唯识学和瑜伽行派必读的经典著作。"
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復次，初靜慮中說離生喜，由證住此，斷除五法。謂欲所引喜、欲所引憂、不善所引喜、不善所引憂、不善所引捨。又於五法修習圓滿。謂歡、喜、安、樂、及三摩地。

> さらに、第一の静慮（禅定）においては、「離欲によって生じる喜び」があると説かれています。この境地に安住することによって、五つの要素を断ち切ります。それは、欲望に基づく喜び、欲望に基づく憂い、善でないものに基づく喜び、善でないものに基づく憂い、善でないものに基づく捨てる心です。また、五つの要素を修めて完全にします。それは、歓喜、喜び、安らぎ、楽しさ、そして心の統一（三昧）です。

欲所引喜者，於妙五欲若初得時、若已證得正受用時，或見、或聞、或曾領受；由此諸緣，憶念歡喜。欲所引憂者，於妙五欲若求不遂，若已受用更不復得，或得已便失；由此諸緣，多生憂惱。

> 欲望から生まれる喜びとは、五つの素晴らしい感覚の対象を初めて得た時、すでに得て十分に楽しんでいる時、あるいはそれらを見たり、聞いたり、かつて経験したことによって、それらを思い出して喜びを感じることです。 欲望から生まれる憂いとは、五つの素晴らしい感覚の対象を求めても得られない時、すでに楽しんだものが再び得られなくなった時、あるいは得たものがすぐに失われてしまった時、そのような原因によって多くの憂いや悩みが生じることです。

不善所引喜者，謂如有一，與喜樂俱而行殺業，乃至邪見。不善所引憂者，謂如有一，與憂苦俱而行殺業，乃至邪見。不善所引捨者，謂如有一，或王、王等、或餘宰官、或尊、尊等，自不樂為殺等惡業，然其僕使作惡業時，忍而不制，亦不安處毘奈耶中，由縱捨故，遂造惡業。彼於此業現前領解，非不現前。又住於捨，尋求伺察為惡方便。又於諸惡耽著不斷，引發於捨。又於不善現前轉時，發起中庸非苦樂受。歡者，謂從本來清淨行者，觀資糧地所修淨行，無悔為先，慰意適悅，心欣踊性。喜者，謂正修習方便為先，深慶適悅、心欣踊性。安者，謂離麁重，身心調適性。樂者，謂由如是心調適故，便得身心無損害樂及解脫樂；以離彼品麁重性故，於諸煩惱而得解脫。三摩地者，謂於所緣審正觀察，心一境性。

> 不善から生まれる喜びとは、例えば殺生や邪見などの悪行を喜びと共に行うことである。 不善から生まれる憂いとは、例えば殺生や邪見などの悪行を苦しみと共に行うことである。 不善から生まれる捨（無関心）とは、例えば王や王に準ずる者、あるいは高官や尊者などが、自らは殺生などの悪業を行いたくないと思っていても、その僕や従者が悪業を行うのを黙認し戒律に従わせず、放任するために悪業を生じさせる場合である。その者はこの悪業を直接認識しており、認識しないのではない。また捨の状態に留まり、悪の手段を探り求める。さらに諸々の悪に執着し続けることで捨を引き起こす。また不善が現前して生じる時に、中立的で苦でも楽でもない受（感覚）を発起する。 歓（歓喜）とは、本来清らかな行いを行う者が、資糧地で修める清らかな行いを観察し、後悔がないことを先として心が慰められ、満ち足りて喜び、心が躍る性質である。 喜（喜悦）とは、正しく修行の方便を先として、深く慶び満ち足りて、心が躍る性質である。 安（安穏）とは、粗重（心身の重苦しさ）を離れ、身心が調和して適する性質である。 楽（安楽）とは、このように心が調和したことにより、身心に損害のない楽と解脱の楽を得ることである。その品の粗重の性質を離れたからこそ、諸々の煩悩から解脱するのである。 三摩地（さんまだ）とは、対象を正しく深く観察し、心が一つの対象に留まる性質である。

世尊於無漏方便中，先說三摩地，後說解脫。由三摩地善成滿力，於諸煩惱心永解脫故。於有漏方便中，先說解脫，後說三摩地。由證方便究竟作意果煩惱斷已，方得根本三摩地故。或有俱時說三摩地及與解脫。謂即於此方便究竟作意及餘無間道三摩地中，由三摩地與彼解脫俱時有故。

> 世尊は、煩悩を離れた修行の方法（無漏の方便）において、先に「三摩地（精神統一）」を説き、後に「解脱（心の自由）」を説かれました。これは、三摩地が完全に成就した力によって、心がすべての煩悩から永遠に解放されるからです。 一方、煩悩のある修行の方法（有漏の方便）においては、先に解脱を説き、後に三摩地を説かれました。これは、修行の究極の区切り（方便究竟作意）という結果を現に得て、煩悩が断たれた後に、はじめて根本的な三摩地が得られるからです。 あるいは、三摩地と解脱とを同時に説かれることもあります。それは、この「方便究竟作意」や、それ以外の「無間道」における三摩地において、三摩地と解脱とが同時に存在するからです。