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title: "瑜伽師地論 · 2項 明食非食"
description: "瑜伽师地论是佛教大乘瑜伽行派的重要经典，相传由弥勒菩萨口述，无著菩萨记录，唐代高僧玄奘于贞观年间从印度取回并译成汉文。该论共100卷，系统阐述瑜伽行派的教义，内容包括十七地、三性、八识、修行次第等核心理论，被誉为大乘佛教的百科全书。作为唯识学的根本论典，瑜伽师地论奠定了唯识学派的理论基础，对汉传佛教和藏传佛教影响深远，在佛教思想史上具有崇高地位，是研究唯识学和瑜伽行派必读的经典著作。"
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問：此貪欲蓋以何為食？

> 問：では、この貪欲の覆いは、何を糧としているのでしょうか？

答：有淨妙相，及於彼相不正思惟多所修習，以之為食。淨妙相者，謂第一勝妙諸欲之相。若能於此遠離染心，於餘下劣亦得離染。如制強力，餘劣自伏。此復云何？謂女人身上八處所攝可愛淨相；由此八處，女縛於男。所謂歌、舞、笑、睇、美容、進止、妙觸、就禮。由此因緣，所有貪欲未生令生，生已增長，故名為食。

> 答え：清らかで美しい相があり、そしてその相について悪しく思いをなすことを多く修習することが、これを食とする。清らかで美しい相とは、第一の勝れた妙なる諸々の欲の相である。もしこれに対して染まりの心を遠く離れることができれば、その他の劣ったものについてもまた染まりを離れることができる。例えば、強い力を制すれば、その他の劣ったものは自然に伏するようなものである。これはまたどういうことか。女人の身にある八つの場所に摂められる愛らしく清らかな相である。これら八つの場所によって、女は男を縛る。すなわち、歌、舞、笑い、流し目、美しい容姿、進み止まり、妙なる触れ方、会釈である。この因縁によって、すべての貪欲は、まだ生じていないものを生じさせ、生じたものを増長させる。故にこれを食と名づける。

問：此貪欲蓋誰為非食？

> 問い：この貪欲の蓋（とらわれ）にとって、食べ物でないものは何でしょうか？

答：有不淨相，及於彼相如理作意多所修習，以為非食。此復云何？謂青瘀等。若觀此身種種不淨雜穢充滿，名觀內身不淨之相；復觀於外青瘀等相種種不淨、名觀外身不淨之相。由觀此二不淨相故，未生貪欲令其不生，生已能斷，故名非食。由於彼相如理作意故、遮令不生；多所修習故，生已能斷。前黑品中，由於彼相不正思惟故，未生令生；多所修習故、倍更增廣。

> 答え：不浄の相があり、さらにその相について如理に作意して多く修習することが、それを食べ物としないこと（非食）である。これは具体的にはどういうことか。青瘀などの相である。もしこの身体に様々な不浄で雑穢が満ちていると観察するなら、それを「内身の不浄の相を観ずる」という。さらに、外にある青瘀などの相、様々な不浄を観察するなら、それを「外身の不浄の相を観ずる」という。この二つの不浄の相を観ずることによって、まだ生じていない貪欲を生じさせず、生じたものは断つことができる。だから「非食」というのである。その相について如理に作意するから、貪欲を防いで生じさせず、多く修習するから、生じたものは断つことができる。先の黒品（不善の部分）では、その相について正しくない思惟をするから、まだ生じていないものを生じさせ、多く修習するから、さらに倍増して広がるのである。

問：瞋恚蓋以何為食？

> 質問：怒りの感情（瞋恚蓋）は、何によって養われるのですか？

答：有瞋恚性、有瞋恚相，及於彼相不正思惟多所修習，以之為食。依於種種不饒益事，心生惱害，名瞋恚性。不饒益事，名瞋恚相。於九惱事不正作意，名不正思惟。如是等事皆名為食。

> 答え：怒りの性質があり、怒りの対象があり、さらにその対象について不適切な思考を繰り返し培うことが、その栄養となります。様々な不利益な事柄に依って心に害意が生じることを、怒りの性質と呼びます。不利益な事柄を、怒りの対象と呼びます。九つの悩みの原因について正しく心を働かせないことを、不適切な思考と呼びます。これらの事柄はすべて、「食」（栄養）と呼ばれます。

問：此瞋恚蓋誰為非食？

> 問：この瞋恚（怒り）という心の覆いは、何が原因でなくなるのでしょうか？

答：有仁慈賢善，及於彼相如理作意、多所修習以為非食。又此慈善，恒欲與他安樂為相，修力所攝。由思擇力所攝作意，調伏九惱。以能斷除瞋恚蓋故，經中唯說此為非食。

> 答え：慈しみの心と、その対象について道理にかなった心の働きを繰り返し修習することが、瞋り（怒り）の糧ではないものとされるのです。また、この慈しみは常に他者に安楽を与えようとする性質を持ち、修行の力によって支えられています。そして、思考と選択の力に支えられた心の働きによって、九つの悩みを鎮めます。瞋りの覆いを断ち除くことができるため、経典の中ではただこれだけが瞋りの糧ではないと説かれているのです。

問：惛沈睡眠蓋以何為食？

> 問：昏沈と睡眠の蓋（悩みの覆い）は、何を糧にして生じるのでしょうか？

答：有黑暗相，及於彼相不正思惟多所修習以之為食。

> 答えます。暗闇の相があり、そしてその相について正しくない考え方（不正思惟）を繰り返し修習することを糧としています。

問：此蓋誰為非食？

> 問：では、どのようなものがこの五つの障り（五蓋）にとって「非食物」（除去するもの）となるのでしょうか？

答：有光明相，及於彼相如理作意多所修習，以為非食。明有三種。一、治暗光明，二、法光明，三、依身光明。治暗光明復有三種。一、在夜分，謂星月等；二、在晝分，謂日光明；三、在俱分，謂火珠等。法光明者：謂如有一，隨其所受、所思、所觸，觀察諸法；或復修習隨念佛等。依身光明者，謂諸有情自然身光。當知初明治三種暗。一者、夜暗，二者、雲暗，三者、障暗。謂窟宅等。法明能治三種黑暗。由不如實知諸法故，於去來今多生疑惑，於佛法等亦復如是。此中無明及疑，俱名黑暗。又證觀察能治惛沈睡眠黑暗，以能顯了諸法性故。

> 答え：光明の相があり、その相について如理に作意して多く修習することが、その原因となります。光明には三種類あります。第一に、闇を払う光明。第二に、法の光 明。第三に、身体に基づく光明です。闇を払う光明にはさらに三種類あります。第一に、夜分のもの。星や月などです。第二に、昼分のもの。太陽の光です。第三に、昼夜共通のもの。火や真珠などの光です。法の光明とは、例えばある人が、自ら受け取ったこと、考えたこと、触れたことに基づいて諸法を観察すること、あるいは仏陀を念じるなどの修行をすることです。身体に基づく光明とは、生きとし生けるもの本来の身体の光のことです。これらのうち、初めの光 明は三種の闇を払います。第一に夜の闇、第二に雲の闇、第三に障りの闇（洞窟や家屋など）。法の光明は三種の黑暗を払います。諸法を如実に知らないために、過去・未来・現在について多くの疑惑を生じ、仏法などについても同様です。ここでいう無明と疑いは、ともに黑暗と呼ばれます。また、証しと観察は、昏沈・睡眠の黑暗を払うことができます。なぜなら、諸法の性質を明らかにするからです。

問：掉舉惡作蓋以何為食？

> 問：落ち着きのなさと後悔という蓋は、何を糧にしているのですか？

答：於親屬等所有尋思、於曾所經戲笑等念、及於彼相不正思惟多所修習，以之為食。親屬尋思者，謂因親屬或盛或衰、或離或合，發欣慼行，心生籌慮等。國土尋思者，謂因國土盛衰等相，廣如前說。不死尋思者，謂因少年及衰老位諸有所作或利他事，發欣慼行，心生籌慮等。笑者，謂隨有一，或因開論、或因合論，現齒而笑，歡聚啞啞。戲者，謂雙陸、摴蒱、弄珠等戲。或有所餘種類歡樂。謂互相受用，受用境界，受諸快樂；或由同處，或因戲論，歡娛而住。所行事者，謂相執持手臂髮等，或相摩觸隨一身分，或抱或嗚，或相顧眄，或作餘事。

> 親族に関する様々な考えや、かつて経験した遊びや笑い事などの記憶、さらにそれらの対象についての誤った考え方を何度も練習することが、その食糧となります。親族についての考えとは、親族が栄えたり衰えたり、離れたり集まったりすることによって、喜びや悲しみが生じ、心に様々な思いがわき起こることです。国土についての考えとは、国土の盛衰などの様相について、先に詳しく述べた通りです。不死についての考えとは、若い時や老いた時の様々な行いや他者のための行いによって、喜びや悲しみが生じ、心に様々な思いがわき起こることです。笑いとは、例えば、戲論や滑稽な話によって歯を見せて笑い、楽しげに声をあげて笑うことです。遊びとは、双六や博打、玉遊びなどの遊びや、その他様々な種類の楽しみのことです。互いに楽しみを与え合い、境地を受け入れ、様々な快楽を味わうこと、あるいは同じ場所にいて、おしゃべりを楽しみながら過ごすことなどです。行われる事柄とは、互いに手や腕や髪を掴み合ったり、互いの体の一部に触れたり、抱き合ったり、口づけしたり、見つめ合ったり、その他様々なことです。

問：此蓋誰為非食？

> 問：では、どのようなものがこの五つの障り（五蓋）にとって「非食物」（除去するもの）となるのでしょうか？

答：有奢摩他、及於彼相如理作意多所修習，以為非食。奢摩他者，謂九種住心，及奢摩他品所攝諸法。謂於自他若衰若盛可厭患法心生厭離，驚恐惡賤，安住寂靜。

> 「奢摩他（静寂）と、その対象について理にかなった心のはたらきを繰り返し修習することが、その食物ではないのです。奢摩他とは、九つの心の置き方、および奢摩他の部類に含まれる様々な法を指します。すなわち、自分や他者の、衰えや盛りといった嫌うべき現象について、心に厭離の念を生じ、驚き恐れ、嫌悪し、静寂に安住することです。」

問：疑蓋以何為食？

> 問：疑惑の覆いは、何を糧として生じるのでしょうか？

答：有去來今，及於彼相不正思惟多所修習，以之為食。謂我於過去為有？為無？廣說如上。

> 答えます。過去・未来・現在があり、さらにそれらの対象について誤った考え方を多く修習することが、それを糧としています。すなわち、「私は過去において存在したのか、存在しなかったのか」と、先に詳しく述べたように広く説くことです。

不正思惟者，謂不可思處所攝思惟。不可思處者，謂我思惟、有情思惟、世間思惟。若於自處，依世差別思惟我相，名我思惟。若於他處，名有情思惟。若於有情世間及器世間處，名世間思惟。謂世間常、或謂無常、亦常亦無常、非常非無常等。

> 誤った考え方とは、考えるべきでない領域に関する思考を指します。その領域とは、「自己についての思考」「他者についての思考」「世界についての思考」です。自分自身について、世間の区別に基づいて「我」という形を考えることを「自己についての思考」と言います。他人について考えることを「他者についての思考」と言います。また、生き物の世界や物の世界について考えることを「世界についての思考」と言います。例えば、「世界は永遠である」とか「無常である」「永遠かつ無常である」「永遠でも無常でもない」などと考えることです。

問：此蓋誰為非食？

> 問：では、どのようなものがこの五つの障り（五蓋）にとって「非食物」（除去するもの）となるのでしょうか？

答：有緣緣起、及於彼相如理作意多所修習以為非食。由彼觀見唯有於法及唯法因，唯有於苦及唯苦因故，所有一切不正思惟為緣無明，於三世境未生者不生，已生者能斷。若不如理而強作意，其如理者而不作意；總說此二名不正思惟。若於是中，應合道理，應知是處名為如理。謂於闇中作光明想。由此方便如理作意，非不如理。於餘處所、亦有所餘如理作意。

> 答え：縁起の理法と、その相についての理にかなった作意を多く修習することが、無明を断つための「食べ物ではないもの」となる。それによって、ただ法と法の因のみがあり、ただ苦と苦の因のみがあると観見するからである。そのため、あらゆる不正思惟を縁とする無明は、三世の境において、未だ生じていないものは生じず、すでに生じたものは断たれる。もし理にかなわずに強いて作意し、理にかなった作意をしないならば、これら二つを総じて不正思惟という。その中で、理にかなうべきものに合致し、その処を知ることを、理にかなったものという。例えば、暗闇の中で光明の想いを作ることである。この方便による理にかなった作意は、理にかなわないものではない。他の場所においても、また他の理にかなった作意がある。