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title: "瑜伽師地論 · 2項 釋通名"
description: "瑜伽师地论是佛教大乘瑜伽行派的重要经典，相传由弥勒菩萨口述，无著菩萨记录，唐代高僧玄奘于贞观年间从印度取回并译成汉文。该论共100卷，系统阐述瑜伽行派的教义，内容包括十七地、三性、八识、修行次第等核心理论，被誉为大乘佛教的百科全书。作为唯识学的根本论典，瑜伽师地论奠定了唯识学派的理论基础，对汉传佛教和藏传佛教影响深远，在佛教思想史上具有崇高地位，是研究唯识学和瑜伽行派必读的经典著作。"
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復次，是諸靜慮名差別者，或名增上心。謂由心清淨增上力正審慮故。

> さらに、これらの静慮（瞑想）には様々な呼び方があります。例えば「増上心」とも呼ばれます。これは、心が清らかで高められた力によって、正しく深く考え抜くからです。

或名樂住。謂於此中受極樂故。所以者何？依諸靜慮領受喜樂、安樂、捨樂身心樂故。

> あるいは「楽住」と名づけられる。これは、この境地において極めて大きな楽を受けるからである。なぜなら、様々な禅定に基づいて、喜びの楽、安らぎの楽、そして捨の楽を、心身ともに味わうからである。

又得定者於諸靜慮數數入出，領受現法安樂住故。由此定中現前領受現法樂住。從是起已，作如是言：我已領受如是樂住。

> また、禅定を得た者は、様々な静慮（瞑想の段階）に繰り返し入ったり出たりして、現世における安楽の境地を直接体験する。このため、その禅定の中で目の前に安楽の境地が現れるのを実感する。そこから出た後、こう言う。「私はこのような安楽の境地をすでに体験した」と。

於無色定無如是受，是故不說彼為樂住。然彼起已，應正宣說。何以故？若有阿練若苾芻來就彼問，彼若不答，便生譏論：此阿練若苾芻云何名為阿練若者，我今問彼超色無色寂靜解脫，而不能記。是故為說應入彼定，非為樂住。

> 無色定には、そのような感受がないため、それを「楽住」とは説きません。しかし、その状態から出た後には、正しく説き示すべきです。なぜなら、もし阿蘭若の比丘が来てそのことを尋ねたとき、答えることができなければ、「この阿蘭若の比丘は、どうして阿蘭若者と称されるのだろう。私は彼に、色と無色を超えた寂静の解脱について尋ねたのに、説明できない」と非難の論が生じるからです。それゆえ、その定に入るべきであると説くのであって、楽住のためではありません。

或復名為彼分涅槃，亦得說名差別涅槃。由諸煩惱一分斷故，非決定故，名彼分涅槃。

> あるいはまた、「部分的な涅槃」とも呼ばれ、「区別のある涅槃」とも名づけられます。煩悩の一部が断たれたからであり、完全なものではないからです。そのため、「部分的な涅槃」と呼ばれるのです。

非究竟涅槃故，名差別涅槃。

> 非究極の涅槃であるため、これを「差別のある涅槃」と名付けます。

復次，此四靜慮亦得名為出諸受事。謂初靜慮出離憂根，第二靜慮出離苦根，第三靜慮出離喜根，第四靜慮出離樂根，於無相中出離捨根。

> さらに、この四つの静慮（禅定）は、様々な感覚（受）から解放されるものでもある。すなわち、第一静慮は憂いの根から、第二静慮は苦しみの根から、第三静慮は喜びの根から、第四静慮は楽の根から解放される。そして、無相の境地においては、すべてを捨てる心の根からも解放されるのである。

如薄伽梵無倒經中說如是言：苾芻！憂根生已，應當如實了知生者。此於何位？謂即於此斷方便位，若為憂根間心相續，爾時應知。又應并此因、緣及序，若相，若行，皆如實知者。云何知因？謂了知此種子相續。云何知緣？謂了知此種所不攝所依、助伴。云何知序？謂知憂根託此事生，即是能發憂根之相及無知種子。云何知相？謂了知此是慼行相。云何知行？謂了知此能發之行，即不如理作意相應思也。如是知已，於出離中極制持心者，云何制持？謂於染污行制攝其心，於思惟修任持堅住。又於是中，無餘盡滅乃至究竟者。謂滅隨眠故，滅諸纏故。世間靜慮但能漸捨彼品麁重，不拔種子。若異此者，種永拔故，後不應生。無漏靜慮二種俱捨。

> 釈尊が正説の経典の中でこう仰せられました。「比丘よ、憂いの根が生じたならば、まさにその生じたことを如実に知るべきである。」これはどの段階を指すのでしょうか。それはまさに、この憂いを断つための方便の位において、もし憂いの根によって心の相続が途切れそうになる時、その時に知るべきなのです。 また、この憂いの根とともに、その因、縁、序、相、行をすべて如実に知らねばなりません。 因を知るとはどういうことか。これは、この憂いの種子が相続していることを了知することです。 縁を知るとはどういうことか。これは、この種子に含まれない所依や助伴を了知することです。 序を知るとはどういうことか。これは、憂いの根がこの事に依って生じることを知ることであり、すなわち憂いの根を発起させる相と、無知の種子を指します。 相を知るとはどういうことか。これは、これが憂いの行相であると了知することです。 行を知るとはどういうことか。これは、これを発起させる行、すなわち不如理作意と相応する思であると了知することです。 このように知った後、出離に向けて心を極めて制し保持するとは、どのように制し保持するのでしょうか。これは、染汚の行に対して心を制し摂め、思惟修において心を確りと保持し堅固に留めることです。 また、この中で余すことなく尽くし、ついには究竟に至るとは、随眠を滅するが故に、また諸々の纏を滅するが故です。 世間の静慮は、ただその品の粗重を徐々に捨てるだけで、種子を抜くことはできません。もしこれと異なれば、種子が永く抜かれるが故に、後に再び生じることはありません。無漏の静慮は、この二つを共に捨てるのです。

如是於餘隨應當知。

> このように、他の場合についても、それに応じて理解すべきである。

問：以何等相了知憂根？

> 問：憂根は、どのような特徴によって知ることができるのでしょうか。

答：或染污相、或出離欲俱行善相。苦根者，或由自等增上力故，或由身勞增上力故，或火燒等增上力故，或他逼等增上力故，諸離欲者猶尚生起。喜根者，謂第二靜慮中，即第二靜慮地攝。樂根者，謂第三靜慮中，即第三靜慮地攝。

> 答え：あるいは汚れた相、あるいは離欲とともに行われる善の相である。苦根とは、自己の勢力や身体の疲労、火傷などの苦痛、他者からの強要といった強い力によって、離欲を得た者にもなお生じるものである。喜根とは、第二禅定において、すなわち第二禅定の境地に属するものである。楽根とは、第三禅定において、すなわち第三禅定の境地に属するものである。

問：何故苦根初靜慮中說未斷耶？

> 問：なぜ苦しみの根が、最初の静まり（初静慮）の中では、まだ断ち切られていないと言われるのでしょうか？

答：彼品麁重猶未斷故。

> 答え：その品の粗重（あらきおもき）が、まだ断ち切られていないからである。

問：何緣生在初靜慮者苦根未斷而不現行？

> 問：なぜ初静慮に生まれた者は、苦の根が断たれていないのに、苦が現れてこないのでしょうか？

答：由其助伴相對憂根所攝諸苦彼已斷故。若初靜慮已斷苦根，是則行者入初靜慮及第二時，受所作住差別應無。由二俱有喜及樂故。而經中說：由出諸受，靜慮差別。又此應無尋伺寂靜麁重斷滅所作差別。如是餘根彼品麁重漸次斷故，上諸靜慮斷有差別。

> 答え：心の伴侶となるものである苦の根に関連する諸々の苦は、すでに断たれているからです。もし初禅において苦の根がすでに断たれているなら、修行者が初禅および二禅に入ったとき、感覚によって生じる安住の状態に違いがないはずです。なぜなら、両方に喜びと楽があるからです。しかし経典では、諸々の感覚を超越することによって、静慮に違いがあると説かれています。また、これには、思考や分析が静まること、重苦しさが断ち滅されることによる違いがないはずです。同様に、その他の感覚についても、その種類の重苦しさが徐々に断たれるため、上位の静慮には断じることにおける違いがあります。

又無相者，經中說為無相心定。於此定中捨根永滅，但害隨眠；彼品麁重無餘斷故。非滅現纏，住無相定必有受故。於此定中容有三受，謂喜、樂、捨。非彼諸受得有隨眠。煩惱斷故，說以為斷；彼品麁重說名隨眠。又此捨根乃至何處？當知始從第四靜慮乃至有頂。

> また、「相無し」とは、経典において「相無し心定」と説かれています。この定においては、「受」の根（機能）は永遠に滅しますが、随眠（潜在的な煩悩）だけが害されます。なぜなら、その品類の粗重（煩悩の重たさ）が残りなく断たれるからです。現前の煩悩（纏）が滅するわけではありません。なぜなら、相無し定に住するには必ず「受」が存在するからです。この定の中では三種の受（喜・楽・捨）が許容されます。しかし、それらの受に随眠が宿ることはありません。煩悩が断たれたから断たれたと説くのです。その品類の粗重を「随眠」と呼びます。 さらに、この捨根（捨の受）は、いったいどこからどこまで働くのでしょうか。知るべきでありましょう。それは第四静慮から有頂（非想非非想処）に至る

復次，此五根出離、無相為後，與彼五種順出離界展轉相攝。此中由欲、恚、害出離，即說乃至樂根出離；由色出離，即說第四靜慮捨根出離；由薩迦耶滅，即說無色界一切捨根出離。順出離言有何等義？由住此者能出離故，名順出離。不說由此出離於彼。為離欲者說此界故。

> さらに、この五つの根（五根）は、超脱（出離）と無相（形なきこと）を最終目標とし、それら五種の超脱への道（順出離界）と互いに関係し合っています。 その中で、欲望・憎しみ・害心からの超脱によって、楽根に至るまでの超脱が説かれます。また、物質的なもの（色）からの超脱によって、第四禅定の捨根の超脱が説かれます。さらに、自己執着（薩迦耶）の消滅によって、無色界のすべての捨根の超脱が説かれます。 「順出離」という言葉にはどのような意味があるのでしょうか？ それは、この境地にとどまる者が超脱できるようになるからであり、「超脱へと導くもの」と呼ばれます。ただし、それ自体が直接超脱するわけではありません。この教えは、欲望から離れようと努める人々のために説かれたものなのです。

問：諸欲、恚、害定同時斷，何緣建立別出離耶？

> 問い：欲望、怒り、害意に関する決意を同時に断つことができるのに、なぜ別々に離れる道を立てるのでしょうか？

答：彼諸出離雖復同時，約修對治有差別故，宣說三種出離差別。

> 答え：それらの解脱はすべて同時に得られるものですが、対治法の修行には差異があるため、三種類の解脱の違いが説かれています。

對治差別者，謂不淨、慈、悲，如其次第。或有唯修不淨出離一切；或慈、或悲。是故別說三種出離。此上唯有一類對治，故後出離無有差別。

> 対治法の違いについて言えば、不浄観・慈・悲の順序がある。 ある者は不浄観のみを修して一切を出離するか、あるいは慈、あるいは悲によって出離する。ゆえに、三種類の出離が別々に説かれている。 これより上はただ一種類の対治法のみがあるため、その後の出離に違いはない。

云何猛利見者等隨念欲？謂由觀察作意於勝事作意故，猛利功用作意故。云何於諸欲中心不趣入？謂於彼處不見勝功德故。云何不美？謂於彼處喜悅不生故。云何不住？謂於彼處不樂受用為欣悅故。云何無有勝解？謂於彼處不樂取著不如理相故。云何萎顇？謂雖縱任而不舒泰故。云何壞散？謂取境已，尋復棄捨故。云何而不舒泰？謂於所緣雖強令住，而不愛樂故。云何等住於捨？謂行平等位，於平等位中心遊觀故。何等為厭？謂由於彼深見過患，棄背為性。此復三種。謂無常故、苦故、變壞法故。何等為惡？謂由於彼初見過患，棄背為性。何等為違？謂由於彼中見過患，棄背為性。何等為背？謂由於彼後見過患，棄背為性。與此相違，即於離欲作意趣入者，謂於是處見勝功德故。美者，謂於是處生清淨信而證順故。住者，謂於所緣不流散故。勝解者，由於是處不染污轉，於諸煩惱得離繫故。以於厭等棄背行中正流轉時，心無罣礙。又復於捨無有功用。云何其心善逝？謂住方便究竟作意故。云何善修？謂善修習餘作意故。當知此說斷位及斷方便道位。解者，謂解脫諸纏故。脫者，謂解脫所緣相故。離繫者，謂解脫隨眠故。從諸欲緣所生諸漏者，謂除欲貪，於欲界中所餘煩惱。損匱者，謂因此生執器仗等惡行差別，於此若作、若增長故，生諸惡趣。燒者：謂由此因、欲愛噉食、燒身心故。惱者，謂由此因，若事變壞，便生愁歎憂苦惱故。於彼解脫、超出、離繫者，謂如前次第，解脫諸纏、所緣、隨眠故。云何終不領納緣彼諸受？謂依將得、正得、隨念諸欲境界，染污諸受不復現行；其所依身不為眾惑染污而住，如紅蓮花，水滴不著。

> さて、「猛利な見を持つ者」がどのように欲を随念するのか？それは、観察という心の働きによって、優れた事柄に心を向けるからであり、また、強力な努力を伴う心の働きによるからである。 では、どのような状態を「諸々の欲に対して心が入っていかない」というのか？それは、その対象に優れた功徳が見いだせないからである。 「美しくない」とは？その対象に喜びが生じないことである。 「とどまらない」とは？その対象を楽しく味わい喜びとしないことである。 「確信がない」とは？その対象に対して、道理に合わない相を捉えて執着しようとしないことである。 「萎えしぼむ」とは？たとえ欲のままに振る舞っても、心が伸び伸びと安らかでないことである。 「壊れ散る」とは？対象を捉えたかと思うと、すぐにまた捨て去ってしまうことである。 「安らかでない」とは？対象に無理に心をとどめさせても、それを愛好しないことである。 「平等に住する捨」とは？心が平等な状態にあることであり、その平等な状態の中で心が観察し遊ぶことである。 「厭い」とは？その対象に深い過患を見い出し、背を向ける性質である。これには三種ある。すなわち、無常であること、苦であること、そして変壊する性質であることによる。 「悪い」とは？その対象の最初の過患を見て、背を向ける性質である。 「違う」とは？その対象の中程の過患を見て、背を向ける性質である。 「背く」とは？その対象の後の過患を見て、背を向ける性質である。 これらの反対が、離欲への心の働きに入っていくことである。すなわち、その対象に優れた功徳を見るからである。 「美しい」とは？その対象に清らかな信を生じ、教えに沿って悟りを得ることである。 「とどまる」とは？心が対象に散乱しないことである。 「確信」とは？その対象において心が汚されず、諸々の煩悩から解脱しているからである。なぜなら、厭いなどの背を向ける行いの中で正しく流転する時、心に妨げがないからである。また、捨においては何の努力も必要としない。 「心が善く逝く」とは？方便の究竟という心の働きに安住することである。 「善く修める」とは？他の心の働きを善く修習することである。これは、煩悩を断つ段階と、断つための方便の道の段階を説いていると知るべきである。 「解く」とは、諸々の煩悩の纏（まとわりつき）から解脱することである。 「脱する」とは、捉える対象の相から解脱することである。 「離れる」とは、煩悩の潜在的な眠りから解脱することである。 「諸々の欲を縁として生じる諸々の漏れ」とは、欲界における、欲の貪りを除いた残りの煩悩である。 「損ない欠ける」とは、これによって武器などを執るなどの悪行の違いが生じ、それを行い、またそれを増長させることによって、悪しき生まれに落ちることである。 「焼く」とは、この原因によって、欲の渇愛が心身を食い尽くし焼くことである。 「悩ます」とは、この原因によって、もし事情が壊れ変われば、憂い、嘆き、苦しみ、悩みが生じることである。 「それらからの解脱、超出、離繋」とは、先の順序の通り、諸々の纏（まとわりつき）、対象の相、そして潜在的な眠りから解脱することである。 「どうして、それらの対象から生じる諸々の感受を決して受け入れないのか」とは、まさに得ようとしている、正しく得た、あるいは後に想い起こす諸々の欲の境界に基づく、汚れた諸々の感受がもはや現れず、その身体は多くの惑いに染まることなく安住し、まるで紅蓮の花に水滴が付着しないかのようである。

復有六種順出離界，如經廣說。謂我已修慈，乃至我已離諸我慢，然我猶為疑惑毒箭悶亂其心。是故慈等於恚、害等非正對治。當知為捨如是邪執，建立此界。

> また、六種の「順出離界」がある。経典に広く説かれている通りである。すなわち、「私はすでに慈しみを修めた」「私はすでに慢心を離れた」というものの、なお私は疑惑の毒矢によって心が乱れている。だからこそ、慈しみなどは怒りや害意などに対する正しい対治法ではないのである。このように誤った執着を捨てさせるために、この界が示されていると知るべきである。

是中恚等離欲對治有差別故，建立前四。對治相故，觀察聖住得道理故，建立無相。

> ここでいう「怒りなどの煩悩」を離れるための対治法には違いがあるため、はじめの四つ（空・無願・無相・無作）が立てられています。対治のあり方によって、聖者の境地（聖住）を観察し、道理を得る道が明らかになることから、無相が立てられています。

觀察究竟正道理故，建立第六。慈對治恚，無損行轉故。悲對治害，為除他苦，勝樂行轉故。喜治不樂，於他樂事隨喜行轉故。捨治貪恚，俱捨行轉故。無相對治一切眾相，相相違故。若離我慢，於自解脫或所證中定無疑惑。故離我慢是彼對治。

> 真理を正しく見極めるために、第六の境地が確立されました。慈しみは怒りを対治し、他者を害さない行いへと導きます。悲しみは害心を対治し、他者の苦しみを取り除くために、最も優れた喜びの行いを促します。喜びは不満を対治し、他者の喜ばしい出来事を共に喜ぶ行いへと導きます。捨は貪りと怒りを対治し、両方を手放す行いをもたらします。無相は全ての相を対治し、相は互いに矛盾するからです。もし我慢（おごり）を離れれば、自己の解脱や悟りにおいて必ず疑いは生じません。ゆえに我慢を離れることが、その対治となるのです。

此諸出離定能出離一切恚等。不善修故，恚等過失容可現行。又前五種順出離界，初之四種天住所攝，第五一種聖住所攝。

> これらの解脱をもたらす境地は、必ずあらゆる怒りなどを超越させます。しかし、十分に修行されていない場合には、怒りなどの過ちが現れることもあります。また、先に挙げた五つの解脱に向かう境地のうち、最初の四つは天人の住処に含まれ、第五の一つは聖者の住処に含まれます。

今此六種順出離界，前之四種梵住所攝，第五、第六、聖住所攝。

> この六つの「順出離界（じゅんしゅつりかい）」について言えば、最初の四つは「梵住（ぼんじゅう）」と呼ばれる境地に含まれ、第五と第六は「聖住（しょうじゅう）」と呼ばれる境地に含まれます。

復次，能超恚等諸過失故，名為出離。於出離時正可憑仗，故名為依。世尊說依略有四種。一、法是依，非數取趣；二、義是依，非文；三、了義經是依，非不了義經；四、智是依，非識。此四種依，因何建立？補特伽羅四種別故。謂因諂詐補特伽羅差別故，建立初依；因順世間補特伽羅差別故，建立第二；因住自見取補特伽羅差別故，建立第三；因聞為極補特伽羅差別故，建立第四；因其諂詐，說法是依，非數取趣。要與彼論分別決擇，方證正智；非唯由彼現威儀故。

> さらに、怒りなどのさまざまな過ちを超えられることから、「出離」といいます。出離の時に確かに頼りとできることから、「依処」といいます。世尊はおおせられます。依処にはおおまかに四種類があると。第一に、法を依処とし、人を依処としないこと。第二に、意味を依処とし、言葉を依処としないこと。第三に、明確な意味の経典を依処とし、明確でない意味の経典を依処としないこと。第四に、智慧を依処とし、認識を依処としないこと。 この四つの依処は、何によって立てられたのでしょうか。それは、人のタイプに四種類の違いがあるからです。 すなわち、お世辞や偽る人の違いによって、第一の依処が立てられます。世間の習慣に従う人の違いによって、第二の依処が立てられます。自己の見解や執着に固執する人の違いによって、第三の依処が立てられます。聞くことを最高とする人の違いによって、第四の依処が立てられます。 お世辞や偽る人に対しては、「法を依処とし、人を依処としない」と説かれます。その人と議論し、分別し、取捨選択をしてはじめて正しい智慧が証得されるのであり、ただその人が威儀を現すからではありません。

即於此中復有差別。謂佛宣說補特伽羅及與諸法，唯法是依，非數取趣。世俗言辭不應執故。

> この点について、さらに詳しく説明しましょう。 すなわち、仏は「人」と「すべてのもの（諸法）」について説かれましたが、最終的に拠り所とすべきは「すべてのもの（諸法）」であって、「人（個人の主体）」ではありません。なぜなら、世間で使われる言葉をそのまま真に受け取るべきではないからです。

法又二種，謂文及義。唯義是依，非文。何以故？不應但聞即為究竟。要須於義思惟、籌量、審觀察故。佛所說經，或有了義，或不了義。觀察義時，了義是依，非不了義。世尊或時宣說依趣福、不動識。為往善趣故；或時宣說四聖諦智，為向涅槃故。於修法隨法行時，唯智是依，非識。

> 法には二種類ある。すなわち「文（言葉）」と「義（意味）」である。依るべきは意味であって、言葉ではない。なぜなら、ただ聞いただけでそれで終わりとすることはできないからである。必ず意味について考え、はかり、よく観察しなければならない。仏が説かれた経典には、了義（明確な意味のもの）と、不了義（そうでないもの）とがある。意味を観察するとき、了義に依るべきであり、不了義に依ってはならない。 世尊は時に、福と不動識に依りたのむことを説かれた。それは善趣に生まれるためである。また時に、四聖諦の智慧を説かれた。それは涅槃に向かうためである。法に従って修行するときには、智慧だけに依るべきであり、識に依ってはならない。

略於四時失不失故，建立四種補特伽羅。謂得法時、住持時、觀察義時、修法隨法行時。依四時故，建立四依。

> 四つの時節に基づいて、そのあり方の得失によって、四種類の修行者が示されます。それは、教えを得る時、それを保ち続ける時、その意味を観察する時、そして教えに従って実践する時です。これらの四つの時節に従って、四つの依りどころが定められています。