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title: "瑜伽師地論 · 1目 三三摩地"
description: "瑜伽师地论是佛教大乘瑜伽行派的重要经典，相传由弥勒菩萨口述，无著菩萨记录，唐代高僧玄奘于贞观年间从印度取回并译成汉文。该论共100卷，系统阐述瑜伽行派的教义，内容包括十七地、三性、八识、修行次第等核心理论，被誉为大乘佛教的百科全书。作为唯识学的根本论典，瑜伽师地论奠定了唯识学派的理论基础，对汉传佛教和藏传佛教影响深远，在佛教思想史上具有崇高地位，是研究唯识学和瑜伽行派必读的经典著作。"
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復次，三三摩地者。云何空三摩地？謂於遠離有情、命者，及養育者、數取趣等，心住一緣。

> 次に、三つの三昧について説明します。 空三昧とは何でしょうか？ それは、有情、命者、養育者、数取趣などの概念を離れて、心が一つの対象に安住する状態を指します。

當知空性略有四種。一、觀察空。謂觀察諸法空無常樂，乃至空無我、我所等。二、彼果空。謂不動心解脫，空無貪等一切煩惱。三者、內空。謂於自身空無計我、我所及我慢等一切僻執。四者、外空。謂於五欲空無欲愛。如說：我已超過一切有色想故，於外空身作證具足住，乃至廣說。此中緣妙欲想，名為色想。此想所起貪欲斷故，說為外空。又修行者，由彼果空，或時作意思惟外空，或時作意思惟內空。由觀察空，或時思惟內外空性；由此力故，心俱證會。設復於此內外空性不證會者，便應作意思惟無動。言無動者，謂無常想，或復苦想。如是思惟，便不為彼我慢等動。由彼不為計我、我慢乃至廣說動其心故，便於二空心俱證會。

> 空性には、おおまかに四つの種類があると知るべきである。 第一に「観察空」とは、あらゆる現象を観察し、常住も楽もなく、我や我所も存在しないと見極めることである。 第二に「その果としての空」とは、動かない心の解脱であり、貪りなどの煩悩がすべて空であることである。 第三に「内空」とは、自己について、我や我所、我慢など、あらゆる誤った執着が空であることである。 第四に「外空」とは、五つの欲望に対する貪愛が空であることである。経典にはこう説かれている。「私はすべての色想を超えたから、外空について身をもって証得し、安住する」と。ここで、微細な欲望の対象についての想いを色想と名付ける。この想いから生じる貪欲が断たれたため、外空と説かれる。 さらに修行者は、その果としての空によって、時に外空を思惟し、時に内空を思惟する。観察空によって、時に内外の空性を思惟する。この力によって、心はともに証会する。 もしこの内外の空性を証会できないならば、「動なきもの」を思惟すべきである。動なきものとは、無常の想い、あるいは苦の想いである。このように思惟すれば、我慢などの動きに心が揺さぶられることはない。我や我慢などの執着によって心が動かされなくなるから、内外二つの空において、心はともに証会するのである。

云何無願心三摩地？謂於五取蘊，思惟無常，或思惟苦，心住一緣。

> 無願心三昧とは何か。それは、五つの執着の対象（五取蘊）について、無常であると観想するか、あるいは苦であると観想し、心を一つの対象に集中し続けることである。

云何無相心三摩地？謂即於彼諸取蘊滅，思惟寂靜，心住一緣。

> どのようなものが無相心三昧（むそうしんざんまい）なのでしょうか。それは、あらゆる執着の原因となる五蘊（ごうん）が消え去った状態について、静けさを思惟し、心を一つの対象に定めることです。

如經言：無相心三摩地，不低不昂，乃至廣說。云何名為不低不昂？違順二相不相應故。又二因緣，入無相定。一、不思惟一切相故；二、正思惟無相界故。由不思惟一切相故，於彼諸相不厭不壞，惟不加行作意思惟，故名不低。於無相界正思惟故，於彼無相不堅執著，故名不昂。

> 経典にこう説かれています。「無相心の三摩地は、低からず高からず――乃至、広く説かれる」と。では、何をもって「低からず高からず」というのか。それは、順境と逆境という二つの相に対応しないからである。また、二つの因縁によって無相の定に入る。第一に、一切の相を思惟しないこと。第二に、無相の境界を正しく思惟することである。一切の相を思惟しないことにより、それらの相に対して嫌悪も破壊もせず、ただ加行や作意の思惟を行わない。このゆえに「低からず」と名づける。無相の境界を正しく思惟することにより、その無相に固執しない。このゆえに「高からず」と名づけるのである。

此三摩地略有二種。一者、方便，二、方便果。言方便者，數數策勵思擇安立，於彼諸相未能解脫；由隨相識，於時時中擾亂心故。彼復數數自策自勵思擇安立，方能取果，解脫隨相。於此解脫又解脫故，不自策勵思擇而住，是故名為極善解脫。若數策勵思擇安立方得住者，雖名解脫，非善解脫。

> この三昧（さんまい）には、大きく分けて二つの種類があります。一つは「方便（ほうべん）」、もう一つは「方便の果（は）」です。 「方便」とは、繰り返し努力し、心を集中させて、様々な対象をしっかりと捉えようとすることですが、まだそれらの対象から自由になれていない状態を言います。なぜなら、対象を捉える心の働きによって、絶えず心が乱されるからです。そのため、さらに何度も自らを励まし、心を集中させて捉え直すことで、ようやく結果を得ることができ、対象への執着から解放されます。 この解放にさらに慣れ親しむことで、もはや努力しなくても自然に落ち着いていられるようになります。この状態を「極めて善い解脱（げだつ）」と言います。 もし努力して集中し続けなければならないなら、それは解脱ではあっても、「善い解脱」とは呼べないのです。

又曉了果、曉了功德者，謂煩惱斷究竟故，現法樂住究竟故。又復滅、道俱應曉了。即此二種，隨其次第，名曉了果、曉了功德。又諦現觀、阿羅漢果俱應曉了。於見道位中，名曉了果；於阿羅漢果，名曉了功德。

> また、「果」を知り、「功徳」を知るとは、煩悩を完全に断ち切るからであり、現世における安らかな境地に完全に留まるからである。さらに、滅と道の二つも共に知り明らかにすべきである。この二つは、その順序に従って、それぞれ「果を知る」「功徳を知る」と名付けられる。また、真理を観る現観と阿羅漢の果も共に知り明らかにすべきである。見道の位においては「果を知る」と名付けられ、阿羅漢の果においては「功徳を知る」と名付けられる。

若於此處無有彼物，由此道理觀之為空，故名空性。即所觀空無可希願，故名無願。觀此遠離一切行相，故名無相。

> もしここに、あのものが存在しないならば、その道理によって「空」と観じるから、これを空性という。 観じられる対象が「空」であり、希求すべきものがないから、無願という。 これを観じて一切の行相から遠く離れているから、無相という。

何故此中先說空性；餘處宣說無常故苦，苦故無我，後方說空？

> なぜこの教えでは、まず「空性」を説き、他の経典では「無常であるから苦しみであり、苦しみであるから無我である」と説いた後に、「空」を説くのでしょうか。

謂若無無我、無常、苦觀終不清淨。要先安住無我之想，從此無間方得無願。

> もし「無我」という考えがなければ、「無常」や「苦」という観察も、最終的に清らかになることはありません。まず「無我」という想いに安住し、そこから間を置かずに「無願」が得られるのです。

是故經言：諸無常想，依無我想而得安住，乃至廣說。彼於無常觀無我已，不生希願，唯願無相，專求出離。故此無間宣說無相。

> 故に経典にはこう説かれています。「あらゆる無常の想いは、無我の想いに依って安住する」と。さらに詳しく述べれば、無常の観察によって無我を悟った者は、もはや何かを願い求めることなく、ただ無相（形なきもの）のみを願い、ひたすら解脱を求める。そのため、この直後に無相が説かれたのです。