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title: "瑜伽師地論 · 3目 小大無量三摩地"
description: "瑜伽师地论是佛教大乘瑜伽行派的重要经典，相传由弥勒菩萨口述，无著菩萨记录，唐代高僧玄奘于贞观年间从印度取回并译成汉文。该论共100卷，系统阐述瑜伽行派的教义，内容包括十七地、三性、八识、修行次第等核心理论，被誉为大乘佛教的百科全书。作为唯识学的根本论典，瑜伽师地论奠定了唯识学派的理论基础，对汉传佛教和藏传佛教影响深远，在佛教思想史上具有崇高地位，是研究唯识学和瑜伽行派必读的经典著作。"
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復次，云何小三摩地？謂或由所緣故小，觀少色故。或由作意故小，小信、小欲、小勝解故。云何大三摩地？謂或由所緣故大。觀多色故，而非無邊無際觀諸色故。或由作意故大，上信、上欲、上勝解故，而非無邊無際信、欲、勝解故。云何無量三摩地？謂或由所緣故無量，無邊無際觀諸色故。或由作意故無量，無邊無際信、欲、勝解故。此中大心三摩地者，謂於一樹下，想諸天光而生勝解，乃至廣說。無量三摩地者，謂四無量。云何於一樹下想諸天光而生勝解？謂於欲界極厭壞已，得初靜慮；為令此定善清淨故，更修方便。又聞諸天身帶光明，便思惟彼身光明相，遍一樹下、乃至大地、大海邊際，發生勝解。

> 次に、どのようなものが小なる三昧（さんまい）でしょうか。 それは、一つには対象が小さいためです。わずかな色を観察するからです。あるいは、心の働きが小さいためです。信じる心、願う心、理解する心が小さいからです。 どのようなものが大なる三昧でしょうか。 それは、一つには対象が大きいためです。多くの色を観察しますが、無限無辺にすべての色を観察するわけではありません。あるいは、心の働きが大きいためです。信じる心、願う心、理解する心が大きいですが、無限無辺の信心、願い、理解ではありません。 どのようなものが無量の三昧でしょうか。 それは、一つには対象が無量であるためです。無限無辺にすべての色を観察します。あるいは、心の働きが無量であるためです。無限無辺の信心、願い、理解があるからです。 この中で、大なる心の三昧とは、例えば一本の木の下で、天人の光を思い浮かべて理解を深めることです。詳しくは経典に説かれています。 無量の三昧とは、四無量心（慈悲喜捨の四つの観想）を指します。 どのようにして一本の木の下で天人の光を思い浮かべて理解を深めるのでしょうか。 欲界に深く厭離した後、初禅（しょぜん）を得ます。この定をより清らかにするために、さらに修行の工夫を重ねます。また、天人の体には光明があると聞き、その身体の光の相を思惟します。その光が一本の木の下に広がり、さらに大地や海の果てにまで及ぶと理解を深めていきます。

由三摩地後後轉增有差別故，令所生起而有差別。云何作意得成唯二？謂隨勝解分齊施設作意故。云何作意唯二為緣，修成唯二？謂即由此作意力故，施設所修定有差別，圓滿清淨轉增勝故。云何以修唯二為緣，行成唯二？謂如如善修定轉增勝，如是如是施設所感生有差別。云何以行唯二為緣，補特伽羅建立唯二？謂此因緣所生有情，施設高下勝劣差別。

> 三摩地において、後から後へと次第に増長する違いがあることにより、生じるものにも違いが生じる。では、どのようにして作意がただ二種類となるのか。それは、勝解の範囲に従って作意を施設するからである。では、どのようにして二種類の作意を縁として、修習も二種類となるのか。それは、この作意の力によって、修習される定に違いが施設され、円満で清らかになり、さらに増長して勝れるからである。では、どのようにして二種類の修習を縁として、行も二種類となるのか。それは、善く修習された定が増長して勝れるに従って、それにより感じられる生に違いが施設されるからである。では、どのようにして二種類の行を縁として、補特伽羅（有情）の建立も二種類となるのか。それは、この因縁によって生まれる有情に、高低・勝劣の違いが施設されるからである。

問：初二靜慮諸天光明有何差別？

> 問い：初禅と二禅の諸天の光明には、どのような違いがあるのでしょうか？

答：如末尼珠，外有光明，內無光明。初靜慮身亦復如是。外放光明，內則不爾。譬如明燈，外發光明，內自照了。第二靜慮身亦如是，若內若外俱有光明。是故經說：彼地已上唯一種身，非於下地。

> 答えよう。例えば摩尼珠は、外側には光があるが内側には光がない。初静慮の身体もまたこれと同じで、外側には光を放つが内側はそうではない。例えば明るい灯明のように、外側に光を放ちながら、内側も自らを照らしている。第二静慮の身体もまたこれと同じで、内も外もともに光がある。ゆえに経典にはこう説かれている。その境地以上では唯一つの種類の身体があり、下の境地にはない、と。

復次，云何建立四無量定？謂諸有情有三品故。一者、無苦無樂，二者、有苦，三者、有樂。如其次第，欲與其樂、欲令離苦、欲令其樂永不相離。於彼作意有四種故，如其次第，建立四種。謂由與樂作意故、拔苦作意故、樂不相離隨喜作意故，建立前三。即於此三欲與樂等，為欲令彼不樂思慕不染污作意故，瞋恚不染污作意故，貪欲不染污作意故，建立於捨。

> では、どのようにして四無量定が成立するのでしょうか。それは、生きとし生けるものに三つの種類があるからです。一つ目は苦しみも楽しみもないもの、二つ目は苦しみがあるもの、三つ目は楽しみがあるものです。これらに順に従って、楽しみを与えたい、苦しみから離れさせたい、楽しみが永遠に離れないようにしたいと願います。それらに対する心の働きに四つの種類があるため、順に従って四つが成立します。すなわち、楽しみを与える心の働き、苦しみを除く心の働き、楽しみが離れないことを喜ぶ心の働きによって、最初の三つが成立します。そして、これら三つにおいて楽しみなどを与えようとする際に、楽しまないことで思い悩む汚れのない心の働き、怒りの汚れのない心の働き、貪りの汚れのない心の働きによって、捨（＝平等心）が成立します。

經言：以慈俱心，乃至廣說。現前饒益，故名慈俱。饒益相故，名慈善友。其饒益相略有二種。一、欲利益，二、欲安樂。此二種相，一切無量之所顯示。無怨者，離惡意樂故。無敵者，離現乖諍故。無惱害者，離不饒益事故。廣者，所緣廣大故。大者，利益安樂思惟最勝故。無量者，果無量故。如四大河，眾流雜處。善修習者，極純熟故。

> 経典にはこう説かれている。「慈しみの心を共にする」と、さらに詳しく述べられている。 現前において利益をもたらすことから、「慈を共にする」という。利益をもたらす性質ゆえに、「慈の善き友」と名づける。その利益をもたらす様相には、大きく分けて二種類ある。第一に利益を望むこと、第二に安楽を望むことである。この二つの様相は、あらゆる無量の教えによって示されている。 怨みがないとは、悪意の楽欲を離れていることによる。敵がいないとは、現前の争いや対立を離れていることによる。悩み害するものがないとは、利益にならない事柄を離れていることによる。 「広い」とは、対象とする範囲が広大であることによる。「大きい」とは、利益と安楽を思惟することが最も優れていることによる。「無量」とは、その果報が限りないことによる。それは四大河に、無数の流れが集まり混ざり合うようなものである。 よく修行し習熟するとは、極めて純粋に熟達していることによる。

設有問言：慈俱等心有何等相？

> 慈悲の心には、どのような特徴があるのでしょうか。

故次答言：勝解遍滿，具足而住。

> そこで、このように答えるのです。「清らかな信解が全体に満ち渡り、完全に備わった状態で安住している」と。

勝解遍滿者，增上意樂勝解周普義。具足者，圓滿清白故。住者，所修觀行日夜專注，時專注故。

> 勝解が遍満するとは、向上した意志と喜びをもって、勝解がすべてに行き渡るという意味です。具足するとは、清らかで完全であることです。住するとは、修める観行に日夜専念し、時間をかけて集中することを指します。

問：如經言：善修習慈，極於遍淨，乃至廣說。此何密意？

答：第三靜慮，於諸樂中其樂最勝，憶念此樂修習慈心，慈最第一，故說修慈極於遍淨。憶念空處修習悲心，亦最第一。

> 第三禅定において、あらゆる楽の中でもその楽が最も優れています。この楽を念じて慈心を修習するとき、慈は最も第一であるため、「慈を修することは遍浄に極まる」と説かれています。空処を念じて悲心を修習することも、また最も第一です。

以修悲者樂欲拔苦，無色界中遠離眾苦，斷壞等苦彼都無故。是故憶念無邊空處修悲等至，作如是念：當令一切有苦有情，到無眾苦及所依處。

> 悲しみを修める者は、苦しみを取り除くことを願います。しかし無色界には、あらゆる苦しみから遠く離れており、断ち壊すなどの苦しみもまったく存在しません。そのため、無辺の空処を憶念して悲の等至を修める者は、このように考えます。「すべての苦しみを持つ有情たちを、苦しみもなく、その拠り所もない境地に至らせよう」と。

修喜定者，亦常憶念無邊識處，慶諸有情所得安樂。作如是念：當令一切有情之類受無量樂，猶如識處，識無限量。是故憶念識無邊處修習喜定，為最第一。

> 訳： 喜びの瞑想を修める者は、常に無限の識別作用の領域を心に留め、すべての生きとし生けるものの得る安らぎを喜びます。こう考えます。「すべての生きとし生けるものを、限りのない楽しみを受けさせよう。まるで識の領域のように、その認識は無限である」と。それゆえ、識別作用の無限の領域を心に留めて喜びの瞑想を修めることが、最も優れたものとされています。

修捨定者，亦常憶念無所有處。作如是念：無所有處，無漏心地最為後邊，捨最第一；如阿羅漢苾芻，一切苦、樂、不苦不樂現行位中，皆無染污。當令一切有情之類，得如是捨。是故憶念無所有處修習捨定，為最第一。

如是一切皆是聖行，唯聖能修，故經宣說覺分俱行。

> このように、すべては聖者の行いであり、聖者だけがこれを修めることができる。そのため経典では、覚りの支分と共に行うと説かれている。