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title: "瑜伽師地論 · 8目 聖五支三摩地"
description: "瑜伽师地论是佛教大乘瑜伽行派的重要经典，相传由弥勒菩萨口述，无著菩萨记录，唐代高僧玄奘于贞观年间从印度取回并译成汉文。该论共100卷，系统阐述瑜伽行派的教义，内容包括十七地、三性、八识、修行次第等核心理论，被誉为大乘佛教的百科全书。作为唯识学的根本论典，瑜伽师地论奠定了唯识学派的理论基础，对汉传佛教和藏传佛教影响深远，在佛教思想史上具有崇高地位，是研究唯识学和瑜伽行派必读的经典著作。"
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復次，云何聖五支三摩地？謂諸苾芻，即此身內離生喜樂，廣說如經。

> さらに、聖なる五支の三昧とは何か。それは、修行者たちがこの身の内に、離欲から生じる喜びと安らぎを味わうことである。詳しくは経典の通りである。

離生喜樂者，謂初靜慮地所攝喜樂。所滋潤者，謂喜所潤。遍滋潤者，謂樂所潤。遍充滿者，謂加行究竟作意位。遍適悅者，謂在已前諸作意位。由彼位中，亦有喜樂時時間起，然非久住，亦不圓滿。於此身中無有少分而不充滿者，謂在加行究竟果作意位。

> 離生喜楽とは、初禅の境地に属する喜びと楽（安らぎ）を指します。 「滋潤」とは、喜びによって潤されること。 「遍滋潤」とは、楽によって潤されること。 「遍満」とは、加行究竟作意（修行を究めた心の働き）の段階を指します。 「遍適悦」とは、それ以前の様々な心の働きの段階を指します。それらの段階では、喜びや楽が時折生じることもありますが、長く続かず、完全ではありません。 この身体の中で、ほんの一部にも満たされないところがない状態、これを加行究竟果作意（修行を究めた結果の心の働き）の段階といいます。

譬如黠慧能沐浴人，或彼弟子者，當知喻於修觀行者。銅器、瓦器、或蜯蛤器者，喻為離欲生喜樂故，教授教誡。

> 例えば、賢い沐浴係（入浴の手伝いをする人）やその弟子がいるとします。これは、観察の修行（ヴィパッサナー）をする人のたとえです。そして、銅の器や瓦の器、または貝殻でできた器は、欲から離れて喜びと安らぎが生まれるように教え導くことを示しています。

細沐浴末者，喻能順彼出離尋等。水澆灌者：當知喻於尋清淨道。沐浴摶者，以喻於身。帶津膩者，喻喜和合。膩所隨者，喻樂和合。遍內外者，喻無間隙喜樂和合。不強者，喻無散動。不弱者，喻無染污，亦無愛味。

> 細かい沐浴の終わりというのは、彼の「出離の思い」などにうまく従うことを例えています。水を注いで洗うというのは、「思いを清らかにする道」を例えていると知るべきです。沐浴のための塊（もく浴用の練り物）は身体を例えています。脂気がついているのは、喜びと調和することを、脂気がまとわりつくのは、楽と調和することを例えています。内外にわたっているのは、途切れなく喜びと楽が調和することを例えています。強くないというのは、散乱しないこと、弱くないのは、汚れがなく、また愛着の味わいもないことを例えています。

又於第二喻有差別。山者，喻於無尋伺定。尖頂者，喻於第二靜慮無尋無伺，於所緣境一味勝解。泉者，喻於內等淨支。水軸者，謂水傍流出。水索者：謂水上涌出。此二種喻，如其次第，顯示喜、樂滋潤等言，如前解釋。無不充滿者，當知喻於無間相應。

> 第二の譬えにも違いがあります。「山」は無尋・無伺の定（無尋無伺定）を譬えています。「山頂」は第二静慮における無尋・無伺の状態、すなわち心が対象に一つに向かい深く集中していることを示します。「泉」は「内等浄支」という心の清らかな支分を譬えます。「水の軸」は水が横に流れ出ることを、「水の索」は水が上に湧き上がることを意味します。これら二つの譬えは、それぞれ順に「喜び」と「楽」が心を潤す様子を表しており、前述の通りです。「十方に満ち足りないところがない」とは、途切れることなく対応していること（無間相応）を譬えていると知るべきです。

又於第三喻有差別。如嗢鉢羅等離喜之樂，彼相應法及所依身，當知亦爾。水喻離喜無尋伺定。喜發踊躍，由無彼故，喻花胎藏沒在水中。

> また、第三の喩えには違いがある。ウッパラ（青蓮華）などのように、喜びを離れた楽がある。その楽と対応する法（心所）や、よりどころとなる身体も、同じように知るべきである。水の喩えは、喜びを離れ、尋も伺もない禅定を表す。喜びは心を躍らせるものであるが、それが無いために、花の苞（つぼみ）が水中に沈んでいるように喩えられるのである。

又於第四喻有差別。清淨心者，謂與捨念清淨相應。超過下地諸災患故。鮮白者，謂性是善。自地煩惱無愛味故。何故復以長者為喻？謂彼所作皆審悉故，不放逸故，思惟籌量觀察勝故，於增減門無不知故。證得清淨第四靜慮者，亦復如是。凡有所為審諦圓滿，無諸放逸，於一切義無不了知，其性捷利。八經九經以為喻者，由堅緻故，顯蚊虻等不能侵損。首足皆覆者，若有二失，容可侵損。謂衣薄故，有露處故。今此顯示二失俱無。此定亦爾，其心清淨鮮白周遍，一切散動所不能侵；堪忍寒暑乃至他所呵叱惡言，及內身中種種苦受。

> 第四の譬えには異なる点があります。「清らかな心」とは、捨と念とが清らかに対応していることを言います。下地の諸々の災いや患いを超えているからです。「鮮白」とは、性質が善であることです。自らの領域の煩悩に愛着が無いからです。なぜさらに長者の譬えを用いるのでしょうか。その者の行いが全て審らかであり、怠らず、よく考え計り観察することが優れており、増減の門について知らないことが無いからです。清らかな第四静慮を証得した者もまた同様です。およそ行うことがあれば、審らかにして円満であり、怠ることが無く、全ての義について知らないことなく、その性質は敏速です。八経や九経を譬えとするのは、布が堅く緻密であるため、蚊や虻などが侵し損なうことができないことを示しています。頭も足も覆われているとは、もし二つの欠点があれば、侵し損なわれる可能性があることを意味します。衣服が薄いことと、露わなところがあることです。今ここでは、その二つの欠点が共に無いことを示しています。この定もまた同様で、その心は清らかで鮮白であり周く遍く、あらゆる散動に侵されることができません。寒さ暑さに耐え、他者から叱責され悪口を言われること、さらには自らの内身の様々な苦痛の感覚にも耐え忍びます。

又於第五喻有差別。於所觀相慇懃懇到等，當知已如前釋。謂審觀察三世諸行，於能觀察又復觀察，是此中總義。

> さらに第五のたとえにも違いがあります。観察の対象に対して熱心に努めることなどは、すでに前に説明した通りと知るべきです。つまり、三世のあらゆる現象を詳しく観察し、その観察する心そのものをさらにまた観察する、というのがこの箇所の全体的な意味です。

何等名為聖三摩地？云何建立五支差別？謂四靜慮中，所有聖賢心一境性，及於安立審諦觀察，如是名為聖三摩地。依於四種現法樂住，建立四支；依審觀察緣起法故，又為斷除餘結縛故，建立第五。當知此由二因緣故，建立五支。

> 聖なる三昧（正しい瞑想）とは何か。どうやって五つの段階の違いが成り立つのか。 四つの深い瞑想（四静慮）の中で、聖者や賢者の心が一つの対象に集中する状態、そしてそこから真理をはっきりと見極める観察が含まれる。これを「聖なる三昧」と呼ぶ。 この聖なる三昧は、現世での安らかな喜びの境地（現法楽住）に関わる四つの段階に基づいて、四つの支え（四支）が設けられる。さらに、縁起のしくみをはっきりと観察すること、そして残っている煩悩の束縛を断ち切るために、第五の支え（第五支）が加えられる。 このように、二つの理由によって五つの支えが確立されていると知