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title: "瑜伽師地論 · 3目 等持等至於善巧中分別"
description: "瑜伽师地论是佛教大乘瑜伽行派的重要经典，相传由弥勒菩萨口述，无著菩萨记录，唐代高僧玄奘于贞观年间从印度取回并译成汉文。该论共100卷，系统阐述瑜伽行派的教义，内容包括十七地、三性、八识、修行次第等核心理论，被誉为大乘佛教的百科全书。作为唯识学的根本论典，瑜伽师地论奠定了唯识学派的理论基础，对汉传佛教和藏传佛教影响深远，在佛教思想史上具有崇高地位，是研究唯识学和瑜伽行派必读的经典著作。"
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復次，如世尊言：修靜慮者，或有等持善巧，非等至善巧。廣說如經嗢柁南頌。

> また、尊き世尊がおっしゃいました。「瞑想修行をする人の中には、心を集中する（等持）ことに巧みであっても、深い禅定に入ること（等至）には巧みでない人がいる」と。このように詳しく述べられているのは、経典の結句（ウッダーナ）の偈にあるとおりです。

云何等持善巧？謂於空等三三摩地得善巧故。云何非等至善巧？謂於勝處、遍處、滅盡等至不善巧故。云何等至善巧，非等持善巧？謂於十種遍處等至及無想等至，若入若出俱得善巧，非於三三摩地。云何俱善巧？謂於彼二俱善巧故。云何俱不善巧？謂於彼二俱不善巧故。如是於先所說等持、等至中，隨其所應，當善建立。

> \- \*\*等持（三昧）の巧みさとは何か？\*\* 空\[1\]などの三つの三昧（三三摩地）について巧みに体得していることをいう。 - \*\*等至（禅定）の巧みさではないとは何か？\*\* 勝処\[2\]や遍処\[3\]、滅尽\[4\]などの等至について巧みでないことをいう。 - \*\*等至の巧みさはあるが、等持の巧みさではないとは何か？\*\* 十種の遍処の等至や無想等至\[5\]について、入定と出定の両方に巧みであっても、三つの三昧については巧みでないことである。 - \*\*両方の巧みさがあるとは何か？\*\* その両方について巧みであることをいう。 - \*\*両方の巧みさがないとは何か？\*\* その両方について巧みでないことをいう。 先に述べた等持と等至について、このようにそれぞれに応じて、正しく立てるべきである。 \[1\] 空 \[2\] 勝処 \[3\] 遍処 \[4\] 滅尽 \[5\] 無想等至

又說等持善巧非等至善巧者，謂於等持名句文身善知差別，非於能入等至諸行狀相差別。云何等至善巧非等持善巧？謂如有一，善知能入隨一等至諸行狀相，亦能現入；而不善知此三摩地名句文身差別之相，亦不能知我已得入如是如是等持差別。有諸菩薩，雖能得入若百若千諸三摩地，而不了知彼三摩地名句文身，亦不能知我已得入如是如是等持差別。乃至未從諸佛所聞，及於已得第一究竟諸菩薩所而得聽聞，或自證得第一究竟。

> また、「等持の巧みさ」は知っているが「等至の巧みさ」は知らない、とは。すなわち、「等持」に関する名・句・文の体について、その違いをよく知っているが、心を静めて等至に入ることができる諸々の行や状態、形や相の違いについては知らないことをいう。 どのような場合が「等至の巧みさ」は知っているが「等持の巧みさ」は知らない、と言われるのか。例えば、ある人が、ある一つの等至に入るための諸々の行や状態、形や相をよく知っており、実際に入ることもできる。しかし、その三摩地の名・句・文の体の違いをよく知らず、また「私はすでにこのような、このような等持に入った」と認識することもできない。 ある菩薩たちは、百や千もの多くの三摩地に入ることができるけれども、それらの三摩地の名・句・文の体を理解しておらず、また「私はすでにこのような、このような等持に入った」と認識することもない。そのような菩薩は、諸仏から教えを聞くか、あるいはすでに究極の境地を得た諸菩薩から聞くか、自ら究極の境地を証得するまでは、その理解を得ることができない。

云何為住？謂善取能入諸三摩地諸行狀相，善取彼故，隨其所欲能住於定，於三摩地無復退失。如是若住於定，若不退失，二俱名住。云何為出？謂如有一，於能入定諸行狀相不復思惟，於不定地分別體相所攝定地不同類法作意思惟，出三摩地。或隨所作因故，或定所作因故，或期所作因故，而出於定。隨所作者，謂修治衣鉢等諸所作業。定所作者，謂飲食便利、承事師長等諸所作業。期所作者，謂如有一，先立期契，或許為他當有所作，或復為欲轉入餘定。由此因緣，出三摩地。何等為行？謂如所緣作種種行而入於定。謂麁行、靜行、病行、癰行、箭行、無常行等、若於彼彼三摩地中所有諸行。何等為狀？謂於諸定臨欲入時、便有此定相狀先起。由此狀故、彼自了知：我於如是如是相定，不久當入，或復正入。彼教授師由此狀故、亦了知彼不久當入如是如是相定。何等為相？謂二種相。一、所緣相，二、因緣相。所緣相者，謂分別體。由緣此故，能入諸定。因緣相者，謂定資糧。由此因緣，能入諸定。謂隨順定教誡教授，積集諸定所行資糧，修俱行欲，厭患有心。於亂不亂審諦了知、及不為他之所逼惱。或人所作，或非人所作，或音聲所作，或功用所作。云何調善？謂若三摩地猶為有行之所拘執，如水被持；或為法性之所拘執，不靜不妙，非安隱道，亦非證得心一趣性；此三摩地不名調善，不隨所樂安隱而住。與此相違，名為調善。云何猶為有行拘執？謂由誓願俱行思故，制伏外緣，持心於定。又於作意，要由功用方能運轉、不令內心於外流散。故作是說，如水被持。云何法性之所拘執？謂觀下地為麁法性，觀於上地為靜法性。寂靜微妙，得安隱道，及能證得心一趣性，如五聖智三摩地中已略解釋。云何所行？謂三摩地所行境界。由所得定，過此已上不能知故。如初靜慮，不能觀見第二靜慮。如是根度、數取趣度、亦不能知。云何引發？謂能略攝廣文句義，及能成辦諸勝功德。云何等愛？謂慚、愧、愛、敬、信、正思惟、正念、正知、根護、戒護、及無悔等樂為最後。由隨樂故，心便得定。與此相違，名不等愛，云何等愛亦不等愛？謂如有一，於慚愧等少分成就，少不成就。謂具慚愧而無愛敬，乃至廣說。云何為增？謂所得定轉復增長。云何為減？謂所得定還復退失。云何方便？謂趣彼二道。又止、舉、捨，當知如前止等相中已具分別。

> \*\*住とは何か\*\* すなわち、禅定に入るための様々な行いや状態・相を正しく捉え、それを基にして、思いのままに定に留まり、その三昧から退失することがないことである。このように、定に留まることも、退失しないことも、共に「住」と名付ける。 \*\*出とは何か\*\* 例えば、ある人が、定に入るための様々な行いや状態・相について再び思惟せず、定に入っていない状態の分別という体の相によって捉えられる、定とは異なる法（現象）を意に作意して、三昧から出ることである。あるいは、なすべき所作の因によって、または定から生じる所作の因によって、あるいは期限を定めた所作の因によって、定から出る。 - 「随所の所作」とは、衣や鉢を整えるなどの諸々の作業である。 - 「定の所作」とは、飲食や排せつ、師匠に仕えるなどの諸々の作業である。 - 「期の所作」とは、例えば、あらかじめ期限を決めたり、他の人のために何かをすると約束したり、あるいは他の定に移ろうとするために、定から出ることである。 \*\*行とは何か\*\* 例えば、対象に応じて様々な行を起こして定に入ることである。粗い行、静かな行、病の行、腫れ物の行、矢の行、無常の行など、それぞれの三昧における諸々の行をいう。 \*\*状とは何か\*\* 諸々の定に臨んで入ろうとする時に、まずその定の兆し（状）が現れることである。この兆しによって、その人は「私はこのような相の定に、まもなく入るだろう、あるいは今まさに入ろうとしている」と自ら知る。また、教授する師もこの兆しによって、その人がまもなくこのような相の定に入ることを知る。 \*\*相とは何か\*\* 二種類の相がある。一に「所縁相」、二に「因縁相」である。 - 「所縁相」とは、分別する体である。これを縁として諸々の定に入ることができる。 - 「因縁相」とは、定のための資糧である。この因縁によって諸々の定に入ることができる。具体的には、定に順じた教誡や教授、諸々の定に必要な資糧を積むこと、修行と共にある欲（意欲）、厭離の心、乱れと不乱とを綿密に了知すること、そして他人や非人、音声や作為による妨害を受けないことなどである。 \*\*調善とは何か\*\* もし三摩地が、いまだに「有行」に拘束されているならば（例えれば水が何かに支えられているように）、あるいは「法性」に拘束されているならば、静かでなく、微妙でもなく、安穏な道でもなく、また心が一つの境地に集中することを証得していない。そのような三摩地は「調善」とは呼ばれず、思いのままに安穏に留まることができない。これと反対のものが「調善」と名付けられる。 \*\*いまだ有行に拘束されているとは何か\*\* 誓願と共にある思（心作用）によって、外の因縁を制し伏せて、心を定に留めることである。また、作意についても、特に努力（功用）を必要として初めて働き、内の心が外に散乱しないようにする。そのため「水が支えられているようだ」と説かれるのである。 \*\*法性に拘束されているとは何か\*\* 下の地を「粗い法性」と観じ、上の地を「静かな法性」と観じることである。寂静であり微妙であり、安穏な道を得、また心が一つの境地に集中することを証得する。これは五聖智三摩地の中で既に簡略に説明した通りである。 \*\*所行とは何か\*\* 三摩地が働く境界のことである。得られた定の力では、これを超えた上の境地を知ることができない。例えば、初静慮は第二静慮を観ることができない。同様に、根（能力）の範囲や、人の範囲（境地の違い）も、超えたものは知ることができない。 \*\*引發とは何か\*\* 広い文章や義を簡潔にまとめ上げること、及び様々な優れた功徳を成し遂げることをいう。 \*\*等愛とは何か\*\* 慚、愧、愛、敬、信、正思惟、正念、正知、根の護り、戒の護り、そして悔いなし等であり、最後に楽（喜び）がある。この楽に随うことによって、心は定を得る。これと反対のものを「不等愛」という。 \*\*等愛とも不等愛とも言える状態とは何か\*\* 例えば、ある人が、慚愧などの一部は成就しているが、一部は成就していない場合である。例えば、慚愧はあるが愛敬がない、等と広く説かれる通りである。 \*\*増とは何か\*\* 得られた定がさらに増長することである。 \*\*減とは何か\*\* 得られた定が再び退失することである。 \*\*方便とは何か\*\* その「増」と「減」の二つの道に向かう方法である。また、止（し）、挙（げ）、捨（す）については、先に止などの相の中で既に詳しく分別した通りであると知るべきである。