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title: "瑜伽師地論 · 2項 能成立八法"
description: "瑜伽师地论是佛教大乘瑜伽行派的重要经典，相传由弥勒菩萨口述，无著菩萨记录，唐代高僧玄奘于贞观年间从印度取回并译成汉文。该论共100卷，系统阐述瑜伽行派的教义，内容包括十七地、三性、八识、修行次第等核心理论，被誉为大乘佛教的百科全书。作为唯识学的根本论典，瑜伽师地论奠定了唯识学派的理论基础，对汉传佛教和藏传佛教影响深远，在佛教思想史上具有崇高地位，是研究唯识学和瑜伽行派必读的经典著作。"
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能成立法有八種者，一、立宗，二、辯因，三、引喻，四、同類，五、異類，六、現量，七、比量，八、正教量。

> 正しく成立させる法には八種あります。第一は「立宗」（主張を立てること）、第二は「辯因」（理由を明らかにすること）、第三は「引喻」（たとえを引くこと）、第四は「同類」（類似例）、第五は「異類」（反対例）、第六は「現量」（直接の知覚）、第七は「比量」（推論による認識）、第八は「正教量」（正しい教えによる認識）です。

立宗者，謂依二種所成立義，各別攝受自品所許，或攝受論宗。若自辯才，若輕蔑他，若從他聞，若覺真實。或為成立自宗，或為破壞他宗，或為制伏於他，或為摧屈於他，或為悲愍於他，建立宗義。

> 宗義を立てるとは、次の二つの成立させるべき義に基づいて、それぞれ自らの立場で認めるところを受け入れること、あるいは論の宗旨を受け入れることである。それは、自らの弁才による場合、他者を軽んじる場合、他者から聞く場合、真実を悟る場合などがある。また、自らの宗を成立させるため、他者の宗を破るため、他者を制するため、他者を屈服させるため、あるいは他者を哀れむために、宗義を建立する。

辯因者，謂為成就所立宗義，依所引喻、同類、異類現量、比量及與正教，建立順益道理言論。

> 因を論じるとは、自らが立てた主張を成立させるために、例えや同類、異類、現量（直接知覚）、比量（推論）、そして正しい教えに基づいて、道理にかなった有益な議論を組み立てることです。

引喻者，亦為成就所立宗義，引因所依諸餘世間串習共許易了之法、比況言論。

> たとえ話とは、主張しようとする道理をより明確に伝えるために、すでに世間で広く知られ、理解されている事柄を引き合いに出して、比べて説明する言葉のことです。

同類者，謂隨所有法望所餘法，其相展轉少分相似。此復五種。一、相狀相似，二、自體相似，三、業用相似，四、法門相似，五、因果相似。相狀相似者，謂於現在或先所見相狀相屬展轉相似。自體相似者，謂彼展轉其相相似。業用相似者，謂彼展轉作用相似。法門相似者，謂彼展轉法門相似。如無常與苦法，苦與無我法，無我與生法，生法與老法，老法與死法。如是有色無色、有見無見、有對無對、有漏無漏、有為無為，如是等類無量法門展轉相似。因果相似者，謂彼展轉若因若果、能成所成展轉相似。是名同類。

> 同類とは、ある法（ものごと）を他の法と比べたとき、その特徴が互いに少し似ていることを言います。これには五つの種類があります。 第一に「相状相似」、第二に「自体相似」、第三に「業用相似」、第四に「法門相似」、第五に「因果相似」です。 「相状相似」とは、現在の状態や過去に見た状態が、互いに似通っていることを言います。 「自体相似」とは、それぞれの性質そのものが似ていることを言います。 「業用相似」とは、それぞれの働きや役割が似ていることを言います。 「法門相似」とは、教えの分類の仕方が似ていることを言います。例えば、無常と苦、苦と無我、無我と生、生と老、老と死などがそうです。また、色のあるものとないもの、見えるものと見えないもの、対するものと対しないもの、煩悩のあるものとないもの、作られたものと作られていないものなど、このように無数の教えの分類が互いに似ているのです。 「因果相似」とは、原因と結果、あるいは作り出すものと作り出されるものの関係が互いに似ていることを言います。 これらを同類と呼びます。

異類者，謂所有法望所餘法，其相展轉少不相似。此亦五種。與上相違，應知其相。

> 類が異なるとは、ある法が他の法と比べて、その特徴が互いに少しも似ていないことをいいます。これには五種類があります。先に述べたものと反対の関係にあることで、その特徴を理解すべきです。

現量者，謂有三種。一、非不現見，二、非已思應思，三、非錯亂境界。

> 現量（げんりょう）には、三つの種類があります。 第一に、はっきりと目の前に見えていないというわけではないもの。 第二に、すでに考え終えたものや、これから考えるべきものではないもの。 第三に、間違った認識の状態ではないもの。

非不現見現量者，復有四種。謂諸根不壞，作意現前，相似生故；超越生故；無障礙故；非極遠故。相似生者，謂欲界諸根於欲界境，上地諸根於上地境，已生已等生，若生若起，是名相似生。超越生者，謂上地諸根於下地境，已生等如前說，是名超越生。無障礙者，復有四種。一、非覆障所礙，二、非隱障所礙，三、非映障所礙，四、非惑障所礙。覆障所礙者，謂黑闇、無明闇、不澄清色闇所覆障。隱障所礙者，謂或藥草力、或呪術力、或神通力之所隱障。映障所礙者，謂少小物為廣多物之所映奪，故不可得。如飲食中藥，或復毛端。如是等類無量無邊。且如小光，大光所映，故不可得。所謂日光映星月等。又如月光映奪眾星。又如能治映奪所治，令不可得。謂不淨作意映奪淨相，無常、苦、無我、作意映奪常、樂、我相，無相作意映奪一切眾相。惑障所礙者，謂幻化所作，或色相殊勝，或復相似；或內所作，目眩、惛、夢、悶、醉、放逸，或復顛狂。如是等類名為惑障。若不為此四障所礙，名無障礙。非極遠者，謂非三種極遠所遠。一、處極遠，二、時極遠，三、損減極遠。如是一切，總名非不現見。非不現故，名為現量。

> 現に見えない現量というものには、さらに四つの種類がある。すなわち、諸根が壊れず、作意が現前し、相似生、超越生、無障礙、非極遠がある。 相似生とは、欲界の諸根が欲界の境に対して、あるいは上地の諸根が上地の境に対して、既に生じ、等しく生じ、あるいは生じ、あるいは起こることをいう。これを相似生と名づける。 超越生とは、上地の諸根が下地の境に対して、既に生じたなど、先に述べた通りである。これを超越生と名づける。 無障礙には、さらに四つの種類がある。第一に覆障に妨げられないこと、第二に隠障に妨げられないこと、第三に映障に妨げられないこと、第四に惑障に妨げられないことである。 覆障に妨げられるとは、黒闇、無明の闇、あるいは澄んだ色でない闇によって覆われ妨げられることである。 隠障に妨げられるとは、薬草の力、呪術の力、あるいは神通力によって隠され妨げられることである。 映障に妨げられるとは、小さな物が大きな物に映しとられて、得られなくなることである。例えば、飲食の中の薬、あるいは毛の先など、このような類は無量無辺である。たとえば、小さな光が大きな光に映されて得られなくなること。いわゆる日光が星や月を映すなどである。また、月光が多くの星を映し奪う。また、能治が所治を映し奪って得られなくする。すなわち、不浄の作意が浄の相を映し奪い、無常・苦・無我の作意が常・楽・我の相を映し奪い、無相の作意が一切の衆相を映し奪う。 惑障に妨げられるとは、幻化によって作られたもの、あるいは色相が殊勝であること、あるいはまた相似であること、あるいは内に作られたもので、目が眩むこと、昏睡、夢、悶絶、酩酊、放逸、あるいはまた顛狂であること。このような類を惑障と名づける。 これらの四つの障りに妨げられないことを、無障礙と名づける。 非極遠とは、三種の極遠によって遠くないことである。第一に場所の極遠、第二に時間の極遠、第三に損減の極遠である。 これらの一切を総じて、非不現見と名づける。現に見えないわけではないから、現量と名づける。

非已思應思現量者，復有二種。一、纔取便成取所依境，二、建立境界取所依境。纔取便成取所依境者，謂若境能作纔取便成取所依止。猶如良醫授病者藥，色、香、味、觸皆悉圓滿，有大勢力，成熟威德。當知此藥色、香、味觸纔取便成取所依止。藥之所有大勢威德，病若未愈，名為應思；其病若愈，名為已思。如是等類，名纔取便成取所依境。建立境界取所依境者，謂若境能為建立境界取所依止。如瑜伽師，於地思惟水、火、風界。若住於地思惟其水，即住地想轉作水想。若住於地思惟火、風，即住地想轉作火、風想。此中地想、即是建立境界之取。地者，即是建立境界取之所依。如住於地，住水、火、風、如其所應，當知亦爾。是名建立境界取所依境。此中建立境界取所依境，非已思惟，非應思惟。地等諸界，解若未成、名應思惟；解若成就，名已思惟。如是名為非已思應思現量。

> 非已思・応思・現量には、さらに二種類があります。 第一は「取った瞬間に成立する、取のよりどころとなる境」、 第二は「境界を建立する取のよりどころとなる境」です。 「取った瞬間に成立する、取のよりどころとなる境」とは、例えば、ある境が、取った瞬間に成立する取のよりどころとなることです。ちょうど、名医が病人に薬を与えるようなもので、その薬は色・香・味・触のすべてが円満に備わり、大きな効力と成熟した功徳を持っています。この薬の色・香・味・触は、取った瞬間に成立する取のよりどころであると知るべきです。薬が持つ大きな効力や功徳について、病気が治っていなければ「応思」といい、病気が治れば「已思」といいます。このような種類のものを、「取った瞬間に成立する、取のよりどころとなる境」と呼びます。 「境界を建立する取のよりどころとなる境」とは、例えば、ある境が、境界を建立する取のよりどころとなることです。例えば、瑜伽師（瞑想修行者）が、地の上で水・火・風の要素について瞑想するような場合です。地に住して水について瞑想するならば、地の想いに住したまま、水の想いへと転じます。同様に、地に住して火や風について瞑想するならば、地の想いに住したまま、火や風の想いへと転じます。ここで、地の想いこそが、境界を建立する取です。そして「地」とは、その境界を建立する取のよりどころです。地に住する場合と同様に、水・火・風に住する場合も、それぞれに応じて、同じように知るべきです。これを「境界を建立する取のよりどころとなる境」と呼びます。 この「境界を建立する取のよりどころとなる境」は、「已思」でも「応思」でもありません。地などの諸要素について、その理解がまだ成就していなければ「応思惟」といい、理解が成就すれば「已思惟」といいます。これらを総称して、「非已思・応思・現量」と呼びます。

非錯亂境界現量者，謂或五種、或七種。五種者，謂非五種錯亂境界。何等為五？一、想錯亂，二、數錯亂，三、形錯亂，四、顯錯亂，五、業錯亂。七種者，謂非七種錯亂境界。何等為七？謂即前五，及餘二種遍行錯亂，合為七種。何等為二？一、心錯亂，二、見錯亂。想錯亂者，謂於非彼相，起彼相想。如於陽焰、鹿渴相中，起於水想。數錯亂者，謂於少數起多數增上慢。如瞖眩者，於一月處見多月像。形錯亂者，謂於餘形色起餘形色增上慢。如於旋火見彼輪形。顯錯亂者，謂於餘顯色起餘顯色增上慢。如迦末羅病損壞眼根，於非黃色悉見黃相。業錯亂者，謂於無業事起有業增上慢。如結拳馳走，見樹奔流。心錯亂者，謂即於五種所錯亂義，心生喜樂。見錯亂者，謂即於五種所錯亂義，忍受、顯說、生吉祥想，堅執不捨。若非如是錯亂境界，名為現量。

> ここでいう「誤りのない直接知覚（現量）」とは、 五種類、または七種類の誤った認識の対象ではない状態を指します。 \*\*五種類の誤り\*\*とは、以下の五つを指します。 1. 想像の誤り 2. 数の誤り 3. 形の誤り 4. 色（見え方）の誤り 5. 動作の誤り \*\*七種類の誤り\*\*とは、以下の七つを指します。 先の五種類に、さらに二つの「心に広く行き渡る誤り」を加えたものです。 6. 心そのものの誤り 7. 見解（とらわれ）の誤り 1. \*\*想像の誤り\*\*とは、実際とは異なるものに対して、それがそうであると思い込むことです。 例えば、陽炎（かげろう）を水と見間違えるようなものです。 2. \*\*数の誤り\*\*とは、少ないものを「もっとたくさんある」と思い込むことです。 例えば、目がくらんだ人が、一つの月を多数の月のように見るようなものです。 3. \*\*形の誤り\*\*とは、ある形のものを、別の形のものだと思い込むことです。 例えば、火を回して輪のように見えるのを、実際に輪があると思うようなものです。 4. \*\*色（見え方）の誤り\*\*とは、ある色のものを、別の色だと思い込むことです。 例えば、カマラ病（黄疸など）で目を病んだ人が、黄色くないものをすべて黄色く見るようなものです。 5. \*\*動作の誤り\*\*とは、実際には動作がないものに、動作があると思い込むことです。 例えば、走りながら拳を回すことで、木が流れるように見えるのを、木が動いていると思うようなものです。 6. \*\*心そのものの誤り\*\*とは、これら五つの誤った対象に対して、心が喜んだり楽しんだりすることです。 7. \*\*見解（とらわれ）の誤り\*\*とは、これら五つの誤った対象を「正しい」と認め、説明し、幸運の印だと考え、固く執着して離れないことです。 これらのような誤った認識の対象ではない、正しくあるがままの認識こそが、\*\*直接知覚（現量）\*\* と呼ばれます。

問：如是現量，誰所有耶？

> 問う：このような現量は、誰のものなのでしょうか？

答：略說四種所有。一、色根現量，二、意受現量，三、世間現量，四、清淨現量。

> （答え：）四種の現量（直接知覚）を簡潔に説明します。 第一に、感覚器官による直接知覚（色根現量） 第二に、心による直接的な感受（意受現量） 第三に、日常世界における直接知覚（世間現量） 第四に、清らかで煩悩を離れた直接知覚（清浄現量）

色根現量者，謂五色根所行境界，如先所說現量體相。

> 色根の現量とは、五つの色根が認識する対象の領域を指します。それは先に述べた現量の本質や特徴の通りです。

意受現量者，謂諸意根所行境界，如先所說現量體相。

> 意根による知覚とは、意根が認識する対象領域のことを指します。これは先に説明した知覚の本質や特徴に当てはまるものです。

世間現量者，謂即二種，總說為一世間現量。

> 世間の現量とは、すなわちこの二種のことを指し、まとめて一つの「世間現量」と説かれます。

清淨現量者，謂諸所有世間現量，亦得名為清淨現量。或有清淨現量，非世間現量。謂出世智，於所行境，有知為有，無知為無，有上知有上，無上知無上。

> 清らかな直接知覚（現量）とは、世間における全ての直接知覚のことをも指し、これもまた清らかな直接知覚と呼ぶことができます。しかし、世間の直接知覚ではない清らかな直接知覚も存在します。それは、世間を超えた智慧によるものです。その智慧がはたらく対象に対して、存在するものは存在すると知り、存在しないものは存在しないと知り、優れたものがある場合は優れたものがあると知り、優れたものがない場合は優れたものがないと知るのです。

如是等類，名不共世間清淨現量。

> このような種類のものは、世間と共有しない清らかな現量（げんりょう）と呼ばれます。

比量者，謂與思擇俱，已思應思所有境思。

> 比量とは、思惟や選択を伴って、すでに考えられたことやこれから考えるべきことについての、あらゆる対象への思惟をいいます。

此復五種。一、相比量，二、體比量，三、業比量，四、法比量，五、因果比量。

> さらに、これには五つの種類がある。一に、相による比量、二に、本質による比量、三に、作用による比量、四に、法による比量、五に、因果による比量である。

相比量者，謂隨所有相狀相屬，或由現在，或先所見，推度境界。如見幢故，比知有車；由見烟故，比知有火。如是以王比國；以夫比妻；以角犎等，比知有牛；以膚細軟、髮黑、輕躁、容色妍美，比知少年；以面皺髮白等相，比知是老；以執持自相，比知道俗；以樂觀聖者、樂聞正法、遠離慳貪，比知正信；以善思所思、善說所說、善作所作，比知聰叡；以慈悲、愛語、勇猛、樂施、能善解釋甚深義趣，比知菩薩；以掉動、輕轉、嬉戲、歌笑等事，比未離欲；以諸威儀恒常寂靜，比知離欲；以具如來微妙相好、智慧、寂靜、正行、神通，比知如來、應、等正覺具一切智，以於老時，見彼幼年所有相狀，比知是彼。如是等類，名相比量。

> 比量とは、ある相やそれに関連する特徴に基づいて、 現在または過去に見たものを手がかりに、対象を推し量ることを言います。 例えば、幢（はたぼこ）を見て、そこに車があると知る。 煙を見て、火があると知る。 同様に、王から国を推し量り、夫から妻を推し量る。 角や肩のこぶなどから、牛を知る。 肌の細やかさや柔らかさ、黒い髪、軽やかさ、顔立ちの美しさから、若者であると知る。 顔のしわや白髪などの様子から、老人であると知る。 身につけた服装や持ち物から、出家者か在家者かを知る。 聖者を喜んで拝見し、正しい教えを喜んで聞き、吝嗇や貪りから遠ざかっていることから、正しい信仰を持つ人であると知る。 考えたことをよく思惟し、語ることをよく語り、行うことをよく行うことから、聡明で賢い人であると知る。 慈しみの心、愛ある言葉、勇気、施しを喜ぶ心、深い教えの意味をよく解釈できることから、菩薩であると知る。 落ち着きがなく、軽々しく動き、ふざけ、笑い歌うなどの振る舞いから、まだ欲望を離れていない人であると知る。 あらゆる立ち居振る舞いが常に静かで落ち着いていることから、欲望を離れた人であると知る。 如来の微細で美しい相や智慧、静寂、正しい行い、神通力を備えていることから、如来・応供・等正覚であり、一切智を具えた方であると知る。 年老いた時に、その人が幼い頃に見た様子を思い出して、あの人がこの人だと知る。 このような種類の推量を、「相の比量」と呼ぶのです。

體比量者，謂現見彼自體性故，比類彼物不現見體；或現見彼一分自體，比類餘分。如以現在比類過去，或以過去比類未來，或以現在近事比遠，或以現在比於未來。又如飲食、衣服、嚴具、車乘等事，觀見一分得失之相，比知一切。又以一分成熟，比餘熟分。如是等類，名體比量。

> 「体比量」とは、直接的に見て取れるその物自体の性質によって、直接見えないものを比較推量することです。あるいは、その物の一部分を直接見て、残りの部分を類推することを指します。 例えば、現在のものを基準にして過去を推し量ったり、過去から未来を推し量ったり、現在の身近な事柄から遠い事柄を推し量ったり、現在のものから未来を推し量るなどの場合です。また、飲食、衣服、装飾品、乗り物などについて、一部分の良し悪しの様子を見て、全体を推して知るような場合も含まれます。さらに、一部分が熟した状態を見て、残りの熟していない部分も同じように熟すであろうと推測することもこれに当たります。 このような類の推量を「体比量」と呼びます。

業比量者，謂以作用比業所依。如見遠物無有動搖，鳥居其上，由是等事比知是杌；若有動搖等事，比知是人。廣跡住處，比知是象；曳身行處，比知是蛇。若聞嘶聲，比知是馬；若聞哮吼，比知師子；若聞咆勃，比知牛王。見比於眼，聞比於耳，嗅比於鼻，甞比於舌，觸比於身，識比於意。水中見礙，比知有地；若見是處草木滋潤、莖葉青翠，比知有水；若見熱灰，比知有火；叢林掉動，比知有風。瞑目執杖，進止問他，蹎蹶失路，如是等事比知是盲；高聲側聽，比知是聾。正信、聰叡、離欲、未離欲、菩薩、如來，如是等類以業比度，如前應知。

> 業による比量とは、作用によって業のよりどころを推し量ることである。例えば、遠くに動かないものがあり、その上に鳥が留まっているといった事柄から、それが枯れ木であると推し量る。また、動くなどの事があれば、人間であると推し量る。大きな足跡や居場所から象であると知り、体を引きずった跡から蛇であると知る。嘶く声を聞けば馬であると知り、吼え声を聞けば獅子であると知り、怒りの雄叫びを聞けば牛の王であると知る。見ることは眼に、聞くことは耳に、嗅ぐことは鼻に、味わうことは舌に、触れることは身に、識別することは意に比せられる。水中に障りがあれば、そこに地があると推し量る。草木が潤い、茎や葉が青々としている場所を見れば、そこに水があると推し量る。熱い灰を見れば、そこに火があると推し量る。林が揺れ動けば、そこに風があると推し量る。目を閉じて杖をつき、歩みを進めたり止めたりして人に尋ね、道に迷ってつまずくといった事柄から、その人が盲人であると推し量る。声を高くして耳を傾ければ、その人が聾者であると推し量る。正信、聡明、離欲、未離欲、菩薩、如来といった種類も、業によって推し量ることは、前に述べたように知るべきである。

法比量者，謂以相隣相屬之法，比餘相隣相屬之法。如屬無常，比知有苦；以屬苦故，比空、無我。以屬生故，比有老法；以屬老故，比有死法。以屬有色、有見、有對，比有方所及有形質。屬有漏故，比知有苦；屬無漏故，比知無苦。屬有為故，比知生住異滅之法；屬無為故，比知無生住異滅法。如是等類，名法比量。

> 法比量とは、互いに関連し合う法によって、他の関連する法を推測することです。例えば、無常の性質を持つものからは苦しみがあると推測され、苦しみがあることからは空や無我が推測されます。生まれる性質を持つものからは老いる法があると推測され、老いることからは死ぬ法があると推測されます。色を持ち、見ることができ、対するものがあることからは、場所や形があると推測されます。煩悩を伴うもの（有漏）からは苦しみがあると推測され、煩悩を離れたもの（無漏）からは苦しみがないと推測されます。作られたもの（有為）からは生・住・異・滅の法があると推測され、作られていないもの（無為）からは生・住・異・滅の法がないと推測されます。このような種類の推論を、法比量と呼びます。

因果比量者，謂以因果展轉相比。如見有行，比至餘方；見至餘方，比先有行。若見有人如法事王，比知當獲廣大祿位；見大祿位，比知先已如法事王。若見有人備善作業，比知必當獲大財富；見大財富，比知先已備善作業。見先修習善行惡行，比當興衰；見有興衰，比先造作善行惡行。見豐飲食，比知飽滿；見有飽滿，比豐飲食。若見有人食不平等，比當有病；現見有病，比知是人食不平等。見有靜慮，比知離欲；見離欲者，比有靜慮。若見修道，比知當獲沙門果證；若見有獲沙門果證，比知修道。如是等類，當知總名因果比量。是名比量。

> 因果の比量とは、原因と結果が互いに関連し合うことを通じて推理する方法です。 例えば、人が歩いているのを見れば、別の場所に到着したと推測でき、別の場所に到着したのを見れば、その前に歩いていたと推測できます。 また、ある人が法律に従って王に仕えているのを見れば、やがて大きな地位や報いを得るだろうと推測でき、大きな地位や報いを得ているのを見れば、その人がすでに法律に従って王に仕えていたと推測できます。 あるいは、ある人がさまざまな善い行いを積んでいるのを見れば、必ずや大きな富を得るだろうと推測でき、大きな富を得ているのを見れば、その人がすでに善い行いを積んでいたと推測できます。 さらに、過去に善い行いや悪い行いを修行したのを見れば、将来の繁栄や衰退を推測でき、繁栄や衰退を見れば、過去に善い行いや悪い行いをなしたと推測できます。 豊かな食べ物や飲み物を見れば、満腹していると推測でき、満腹しているのを見れば、豊かな食べ物や飲み物があったと推測できます。 ある人が不均衡な食事をしているのを見れば、病気になるだろうと推測でき、実際に病気になっているのを見れば、その人が不均衡な食事をしていたと推測できます。 静慮（瞑想）を実践しているのを見れば、欲望を離れていると推測でき、欲望を離れている人を見れば、静慮を実践していると推測できます。 修道をしているのを見れば、やがて沙門の果報を得るだろうと推測でき、沙門の果報を得ているのを見れば、修道をしていたと推測できます。 このような種類の推理を、総称して「因果比量」といいます。これが比量です。

正教量者，謂一切智所說言教，或從彼聞，或隨彼法。

> 正教量とは、一切智者の説かれた教えのことです。あるいはその教えを直接聞いたもの、あるいはその教えに従って学んだものを指します。

此復三種。一、不違聖言，二、能治雜染，三、不違法相。

> これにはさらに三つの種類がある。第一に、聖なる教えに背かないこと。第二に、煩悩の汚れを治す力を持つこと。第三に、法の本質に反しないこと。

不違聖言者，謂聖弟子說，或佛自說經教，展轉流布至今，不違正法、不違正義。

> 不違聖言とは、聖なる弟子たちが説いたもの、あるいは仏陀ご自身が説かれた経典が、広く伝えられ、今日まで受け継がれてきたものです。それは正しい教えにも、正しい意味にも反してはいません。

能治雜染者，謂隨此法善修習時，能永調伏貪瞋癡等一切煩惱及隨煩惱。

> 雑染を治すとは、この教えに従って善く修習するとき、貪り、怒り、無知などのあらゆる煩悩と、それに伴う小さな煩悩を永遠に調伏できることをいう。

不違法相者，謂翻違法相，當知即是不違法相。何等名為違法相耶？謂於無相，增為有相。如執有我、有情、命者、生者等類；或常、或斷，有色、無色，如是等類。或於有相，減為無相。或於決定，立為不定。如一切行皆是無常，一切有漏皆性是苦，一切諸法皆空無我，而妄建立一分是常，一分無常；一分是苦，一分非苦；一分有我，一分無我。於佛所立不可記法，尋求記別，謂為可記，或安立記。或於不定，建立為定。如執一切樂受皆貪所隨眠，一切苦受瞋所隨眠，一切不苦不樂受癡所隨眠，一切樂受皆是有漏，一切樂俱故思造業一向決定受苦異熟，如是等類。或於有相法中，無差別相，建立差別；有差別相，立無差別。如於有為無差別相，於無為中亦復建立；於無為法無差別相，於有為法亦復建立。如於有為無為，如是於有色無色、有見無見、有對無對、有漏無漏，隨其所應皆當了知。又於有相，不如正理立因果相。如立妙行感不愛果，立諸惡行感可愛果；計惡說法毘奈耶中，習諸邪行，能得清淨；於善說法毘奈耶中，修行正行，謂為雜染。於不實相，以假言說立真實相；於真實相，以假言說種種安立。如於一切離言法中，建立言說，說第一義。如是等類，名違法相。與此相違，當知即是不違法相。是名正教。

> 法相に違背しないとは、法相に違背することを翻して、すなわちこれ法相に違背しないと知るべきである。何を名づけて法相に違背するというか。すなわち、無相の中において、有相として増加することである。例えば、我、有情、命者、生者等の類いがあると執着すること。あるいは常、あるいは断、有色、無色、等々の類いである。あるいは有相の中において、無相として減少することである。あるいは決定の中において、不定を立てることである。例えば、あらゆる行はすべて無常であり、あらゆる有漏はすべてその性が苦であり、あらゆる諸法はすべて空であり無我であるのに、誤って一部は常、一部は無常であると建立し、一部は苦、一部は苦にあらずとし、一部は我あり、一部は我なしとする。仏の立てた記すべからざる法に対して、記別を求め、記すべきものとしたり、記を安立したりする。あるいは不定の中において、定を建立することである。例えば、あらゆる楽受はすべて貪に随眠し、あらゆる苦受は瞋に随眠し、あらゆる不苦不楽受は癡に随眠し、あらゆる楽受はすべて有漏であり、あらゆる楽と俱なる故に思って造った業は一向に決定して苦の異熟を受ける、等々の類いを執することである。あるいは有相の法の中において、無差別の相に差別を建立し、差別ある相に無差別を立てることである。例えば、有為に無差別の相があるのに、無為の中にもまた建立し、無為の法に無差別の相があるのに、有為の法の中にもまた建立することである。有為と無為におけるように、このように有色と無色、有見と無見、有対と無対、有漏と無漏においても、そのそれぞれに応じて、皆了知すべきである。また、有相において、正理の如くに因果の相を立てないことである。例えば、妙行が愛しからざる果を感ずる、諸悪行が愛すべき果を感ずると立てること。悪く説かれた法と毘奈耶において、諸々の邪行を習って清浄を得られると計ること。よく説かれた法と毘奈耶において、正しい行を修行することを雑染であるとすること。実ならざる相において、仮りの言説をもって真実の相を立てること。真実の相において、仮りの言説をもって種々に安立すること。例えば、あらゆる離言の法の中において、言説を建立し、第一義を説くこと。この等々の類いを、法相に違背すると名づける。これに相違することが、すなわち法相に違背しないと知るべきである。これを正教と名づける。

問：若一切法自相成就，各自安立己法性中，復何因緣建立二種所成義耶？

> 問：もし一切の法が自らの相によって成就し、それぞれが己の法性の中に安立されているのであれば、なぜあえて二種の「成り立つ意味」を立てる必要があるのでしょうか。

答：為欲令他生信解故，非為生成諸法性相。

> 答え：それは、他の人に理解し信じる心を起こさせるためであり、諸々のものごとの本質や形を生み出すためではありません。

問：為欲成就所成立義，何故先立宗耶？

> 問う：成立させたい意義を成就させるために、なぜまず「宗」（主張）を立てるのですか？

答：為先顯示自所愛樂宗義故。

> 答え：まず自分が信じ、喜ぶ教えの意味を示すために。

問：何故次辯因耶？

> 問：なぜ次に因を明かすのか？

答：為欲開顯依現見事決定道理，令他攝受所立宗義故。

> 答え：現に見える事実に基づいて道理を明らかにし、他者に自らの立てた主張を受け入れさせるためである。

問：何故次引喻耶？

> 問い：なぜ次に譬えを用いるのですか？

答：為欲顯示能成道理之所依止現見事故。

> 答え：それは、道理を成し遂げるための拠り所として、目の前で実際に確認できる事実（現見事）を示すためです。

問：何故後說同類、異類、現量、比量、正教等耶？

> 問う：なぜ後に、同類・異類・現量・比量・正教などを説くのか？

答：為欲開示因喻二種相違、不相違智故。又相違者，由二因緣。一、不決定故；二、同所成故。不相違者，亦二因緣。一、決定故；二、異所成故。其相違者，於為成就所立宗義，不能為量，故不名量。不相違者，於為成就所立宗義，能為正量，故名為量。是名論所依。

> 答え：これは、原因と譬喩という二つのものが、相反する場合と相反しない場合の見分け方を示すためです。 相反するものには、二つの理由があります。第一に、確定しないからです。第二に、証明しようとする事柄と同じものだからです。 相反しないものにも、二つの理由があります。第一に、確定しているからです。第二に、証明しようとする事柄と異なるものだからです。 相反するものは、自分の主張を成立させるための正しい基準とはなりえないので、基準とは呼べません。 相反しないものは、自分の主張を成立させるための正しい基準となりうるので、基準と呼ばれます。 これが論の依りどころです。