---
title: "瑜伽師地論 · 1目 舉經頌(四十四頌分十二段)"
description: "瑜伽师地论是佛教大乘瑜伽行派的重要经典，相传由弥勒菩萨口述，无著菩萨记录，唐代高僧玄奘于贞观年间从印度取回并译成汉文。该论共100卷，系统阐述瑜伽行派的教义，内容包括十七地、三性、八识、修行次第等核心理论，被誉为大乘佛教的百科全书。作为唯识学的根本论典，瑜伽师地论奠定了唯识学派的理论基础，对汉传佛教和藏传佛教影响深远，在佛教思想史上具有崇高地位，是研究唯识学和瑜伽行派必读的经典著作。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cma8zh4h301vwib04bzkepzwv"
---

建立勝義伽他者，如經言：

> 勝義の偈を建立することについて、経典では次のように説かれています。

都無有宰主 及作者、受者；諸法亦無用， 而用轉非無。唯十二有支、 蘊、處、界、流轉。審思此一切， 眾生不可得。於內及於外， 是一切皆空。其能修空者， 亦常無所有。我我定非有； 由顛倒妄計。有情、我皆無； 唯有因法有。諸行皆剎那， 住尚無，況用。即說彼生起， 為用，為作者。眼不能見色， 耳不能聞聲，鼻不能嗅香， 舌不能甞味，身不能覺觸， 意不能知法。於此，亦無能 任持驅役者。法不能生他， 亦不能自生。眾緣有，故生， 非故，新新有。法不能滅他， 亦不能自滅。眾緣有，故生， 生已，自然滅。由二品為依， 是生便可得。恒於境放逸， 又復邪昇進。愚癡之所漂， 彼遂邪昇進；諸貪愛所引， 於境常放逸。由有因諸法， 眾苦亦復然。根本二惑故； 十二支分二。自無能作用， 亦不由他作，非餘能有作， 而作用非無。非內、亦非外， 非二種中間。由行未生故。 有時而可得。設諸行已生， 由此故無得；未來，無有相。 過去，可分別。分別曾所更， 非曾，亦分別。行，雖無有始； 然有始可得。諸色，如聚沫， 諸受，類浮泡，諸想，同陽焰， 諸行，喻芭蕉，諸識，猶幻事， 曰親之所說。諸行一時生， 亦一時住、滅。癡，不能癡癡， 亦不能癡彼；非餘能有癡， 而愚癡非無。不正思惟故； 諸愚癡得生。此不正思惟， 非不愚者起。福非福不動 行、又三應知，復有三種業， 一切不和合。現在，速滅壞， 過去，住無方，未生，依眾緣， 而復心隨轉。畢竟共相應， 不相應亦爾。非一切一切， 而說心隨轉。於此流無斷， 相似不相似；由隨順我見， 世俗用非無。若壞於色身； 名身亦隨滅。而言今後世， 自作自受果。前後差別故， 自因果攝故；作者與受者， 一異不可說。因道不斷故， 和合作用轉；從自因所生， 及攝受所作。樂戲論為因， 若淨不淨業。諸種子異熟， 及愛非愛果。依諸種異熟， 我見而生起；自內所證知， 無色，不可見。無了別凡夫， 計斯為內我。我見為依故， 起眾多妄見。總執自種故， 宿習助伴故；聽聞隨順故， 發生於我見。貪愛及與緣， 而生於內我。攝受希望故， 染習外為所。世間真可怖， 愚癡故攝受；先起愛藏已， 由茲趣戲論。彼所愛藏者， 賢聖達為苦。此苦逼愚夫， 剎那無暫息。不平等纏心， 積集彼眾苦。積集，是愚夫 計我、苦、樂、緣。諸愚夫固著， 如大象溺泥。由癡，故增上， 遍行、遍所作。此池派眾流， 於世流為暴。非火風日竭， 唯除正法行。於苦計我受， 苦樂，了知苦；分別此，起見， 從彼生，生彼。染污意，恒時 諸惑俱生滅。若解脫諸惑； 非先，亦非後。非彼法生已、 後淨，異而生。彼先無染污， 說解脫眾惑。其有染污者， 畢竟性清淨。既非有所淨； 何得有能淨。諸種子滅故， 諸煩惱盡故；即於此無染， 顯示二差別。自內所證故， 唯眾苦盡故。永絕戲論故， 一切無戲論。眾生名相續， 及法想相中，無生死流轉， 亦無涅槃者。

> そもそも、主宰する者も、作り出す者も、受ける者もない。 諸々の法［現象］にも、それ自体で働く作用はないが、 縁によって作用が生じることは、ないわけではない。 ただ十二支の縁起、五蘊、十二処、十八界が、流転するのみである。 これをよくよく考えれば、いかなる衆生も〔実体としては〕見いだせない。 内にも外にも、これらすべては空である。 その空を修する者も、また常に〔実体としては〕無所有である。 我と我所とは、決して存在しない。 しかし、顛倒した虚妄の計らいによって、それらが実在すると誤って思いなすのである。 有情も我も、存在しない。 ただ因によって生じた法［現象］があるのみである。 諸々の行［現象］は、すべて刹那ごとに生滅する。 とどまることすらないのに、ましてや作用があるはずがない。 そこでは、その生起することを、作用と言い、作者と言うのである。 眼は色を見ることはできず、耳は声を聞くことはできず、 鼻は香を嗅ぐことはできず、舌は味を味わうことはできず、 身は触れることを感じることはできず、意は法を知ることはできない。 このようなところには、また、〔これらを〕維持したり、駆使したりする者もない。 一つの法が他の法を生み出すこともできず、また、それ自身で自分を生み出すこともできない。 衆縁が存在するから生じるのであり、その生は、新新と、絶え間なく生じるのである。 一つの法が他の法を滅ぼすこともできず、また、それ自身で自分を滅ぼすこともできない。 衆縁が存在するから生じ、生じたならば、自然に滅するのである。 迷いの二つの側面（煩悩と業）に依って、この生存は生じる。 常に境に放逸であり、また、邪な進み方をする。 愚痴に漂われることによって、彼らは邪な進み方をする。 諸々の貪愛に導かれて、境に常に放逸である。 原因によって存在する諸法があるから、様々な苦もまた同様に存在する。 根本の二つの煩悩（無明と愛）によって、十二支は二つに分けられる。 それ自体に働きの作用はなく、他のものによって作られるのでもなく、 他のものに作る能力があるのでもないが、しかし、その作用はないわけではない。 内でもなく、外でもなく、その二つの中間でもない。 行が未だ生じていないから、ある時には〔その相を〕認めることができる。 もし諸行がすでに生じてしまえば、それによって〔その相を〕認めることはできない。 未来には、相はない。過去は、分別することができる。 すでに経験したものを分別し、未だ経験していないものもまた分別する。 行には、始まりはないけれども、〔迷いには〕始まりがあると認めることができる。 諸々の色は、泡の集まりのようであり、諸々の受は、水の泡のようなものであり、 諸々の想は、陽炎と同じであり、諸々の行は、芭蕉の幹に譬えられ、 諸々の識は、幻術のようなものである、と親しい方（仏陀）は説かれた。 諸行は一時に生じ、また一時に住し、滅する。 無明は、それ自体を無明にすることはできず、また、他のものを無明にすることもできない。 他のものが無明にすることもできないが、しかし、愚痴はないわけではない。 正しくない思考によって、諸々の愚痴が生じる。 この正しくない思考は、愚かでない者には起こらない。 福業、非福業、不動業の三つの行、また三つの業があることを知るべきである。 これらのすべては、互いに和合しない。 現在は、速やかに滅び壊れ、過去は、とどまる場所もなく、 未生は、衆縁に依存し、そして心が随って転ずる。 結局のところ、心と相応するものも、相応しないものも、またそうである。 すべてのものがすべてのものに〔心と相応する〕わけではないが、しかし、心が随って転ずると言われる。 ここにおいて、流れは絶えることなく、相似したもの、相似しないものがある。 我見に随順することによって、世俗の作用はないわけではない。 もし色身が壊れれば、名身もまた共に滅する。 それにもかかわらず、今の世と後の世において、自ら作り自ら果報を受けると言われる。 前と後とに違いがあるから、自己の因果に含まれるから、 作者と受者とは、同一とも異なるとも言うことはできない。 因の道が絶えないから、和合して作用が転ずる。 自己の因から生じるもの、および、摂受によって作られるものがある。 戯論を楽（この）むことを因として、浄・不浄の業がある。 諸々の種子の異熟、および、愛・非愛の果報がある。 諸々の種子の異熟に依って、我見が生起する。 自己の内に証知されるものであり、色を離れ、不可見である。 了別することのない凡夫は、これを内なる我と思いなす。 我見を依りどころとして、多くの誤った見解が生じる。 総じて自己の種を執着することにより、過去の習慣が助けとなることにより、 正しい教えを聞いてもそれに随順しないことにより、我見が生じる。 貪愛およびその縁によって、内なる我が生じる。 〔我を〕摂受し、〔生存を〕望むことにより、外なるものを染着して所と為す。 世間は実に恐るべきものである。愚痴であるから摂受する。 先に愛蔵を起こし、それによって戯論に向かう。 その愛蔵されるものは、賢者が達するところの苦である。 この苦は愚夫を責め苛み、刹那も暫くも休むことがない。 不平等に心を纏わされ、彼らの多くの苦を積み集める。 積み集めることこそ、愚夫が我・苦・楽・縁を計らい執着する所以である。 諸々の愚夫は固く執着する。あたかも大象が泥に溺れるように。 愚痴によって、より一層強くなり、あまねく行き渡り、あまねく作用する。 この池は多くの流れを派し、世において流れとなって暴れる。 火や風や太陽でこれを干上がらせることはできず、ただ正しい法の実践行のみが〔これを〕除く。 苦を我と誤認して受ける。苦と楽とを了知するのは、苦そのものである。 これを分別することから、見解が生じ、それから生じ、それを生む。 染汚意は、常にすべての煩悩と共に生滅する。 もし諸々の煩悩から解脱すれば、それは先でもなく、後でもない。 その法が生じた後に、清らかになって、別のものとして生じるのではない。 それは先には染汚がなく、諸々の煩悩からの解脱と言われる。 その染汚のあるものは、結局のところ、本性は清浄である。 すでに清められるべきものがないならば、どうして清める者が有り得ようか。 諸々の種子が滅するから、諸々の煩悩が尽きるから、 まさにこの無染の状態において、〔解脱における〕二つの違いが示される。 自己の内に証知されるものであるから、ただ衆苦が尽きたものだから、 永遠に戯論を絶したものだから、一切は戯論がないのである。 衆生という名の相続、および、法という想いの観念の中には、 生死の流転もなく、また涅槃に入る者もないのである。