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title: "瑜伽師地論 · 2目 長行釋"
description: "瑜伽师地论是佛教大乘瑜伽行派的重要经典，相传由弥勒菩萨口述，无著菩萨记录，唐代高僧玄奘于贞观年间从印度取回并译成汉文。该论共100卷，系统阐述瑜伽行派的教义，内容包括十七地、三性、八识、修行次第等核心理论，被誉为大乘佛教的百科全书。作为唯识学的根本论典，瑜伽师地论奠定了唯识学派的理论基础，对汉传佛教和藏传佛教影响深远，在佛教思想史上具有崇高地位，是研究唯识学和瑜伽行派必读的经典著作。"
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此中依止補特伽羅無我勝義，宣說如是勝義伽他。為欲對治增益、損減二邊執故。

> ここで、補特伽羅（自我）の実体がないという真実に基づいて、このような勝義の偈を説く。それは、実体があると過剰に執着する「増益」と、実体がないに越したと偏って執着する「損減」という二つの極端な見解に対処するためである。

於所攝受說為宰主，於諸業用說為作者，於諸果報說為受者。如是半頌，遮遣別義所分別我。諸法亦無用者，遮遣即法所分別我。由此遠離增益邊執。而用轉非無者，顯法有性。由此遠離損減邊執。用有三種。一、宰主用，二、作者用，三、受者用。因此用故，假立宰主、作者、受者。

> 「受け入れるものに対しては『主』と言い、さまざまな働きに対しては『為す者』と言い、さまざまな結果に対しては『受ける者』と言う。この半句は、別の義によって分別された我（自我）を否定する。また、諸々の法（現象）にも『用いる者』は存在しない。これは、法そのものによって分別された我を否定する。これにより、執着して余計に付け加えるという偏った見解から遠ざかる。しかし、『働きが転ずることは無いわけではない』というのは、法に実存性があることを示す。これにより、執着して減らすという偏った見解から遠ざかる。働きには三種ある。第一に主の働き、第二に為す者の働き、第三に受ける者の働きである。この働きがあるからこそ、仮に主、為す者、受ける者を立てるのである。」

雖言諸法，而未宣說何等為法，故次說言唯有十二支等半頌。如有支次第，諸蘊等流轉，此顯不取微細多我，便能對治宰主、作者及受者執。眼色為緣，生眼識果，無別受者。此中顯示，即十八界說受者性。雖言無主，而未宣說無何等主，為欲顯示，故次說言：審思此一切，眾生不可得。言審思者，由依三量審諦觀察。

> もろもろの法（真理・存在）について説かれているが、何が「法」であるのかがまだ明らかにされていない。そこで次の半頌で「ただ十二の支分があるのみ」と説かれた。 支分の順序に従って、諸々の蘊（かたまり）が流転するのである。これは、微細で多数の「我（自我）」を認めないことを示し、それによって「主宰者」「作者」「受者」という執着を対治するのである。 眼と色とが縁となって眼識という果が生じるのであって、別に「受ける者」は存在しない。ここでは、十八界こそが「受ける者」としての性質を持つことが示されている。 「主はない」とは説かれているが、どのような「主」がないのかはまだ明らかにされていない。それを明らかにするために、次のように説かれた。 「これをよく考えよ——一切の衆生は見いだせない」と。 「よく考える」とは、三つの量（認識手段）に基づいて、細かく観察することを意味する。

此若無者，云何建立內外成就？故次說言：於內及於外，是一切皆空。此顯內外唯假建立。云何建立能觀、所觀二種成就？故次說言：其能修空者，亦常無所有。

> これが存在しないなら、どのようにして内と外の成就を確立するのか。そこで次にこう説かれている。「内においても外においても、すべては空である」と。これは、内と外が単に仮に立てられたものであることを示している。では、どのようにして観察する者と観察される対象という二つの成就が成立するのか。そこで次にこう説かれている。「空を修める者もまた、常に無所有である」と。

云何建立聖者、異生二種成就？故次說言：我我定非有，由顛倒妄計。此顯聖者及異生我，決定無有真實我性，唯由顛倒妄計為有。云何建立彼此成就？故次說言：有情我皆無。云何建立染淨成就？故次說言：唯有因法有。染者、淨者、皆不可得。

> 聖者と凡夫の二種の成就は、どのようにして成立するのか。そこで次のように説かれる。「我と我がものは、決して実在しない。倒錯した虚妄の計らいによってあるとされる」。これは、聖者と凡夫のいずれにおいても、真実の自我の本質は決して存在せず、ただ倒錯した虚妄の計らいによってのみ存在すると見なされていることを明らかにしている。 では、相互の成就はどのように成立するのか。そこで次のように説かれる。「有情と我は、いずれも存在しない」。 では、染めと浄めの成就はどのように成立するのか。そこで次のように説かれる。「ただ因としての法が存在するのみである」。染める者も、浄める者も、ともに得ることができない。

雖說諸法皆無作用、而未宣說云何無用，故次說言：諸行皆剎那，住尚無況用。如前已說用轉非無。云何無用而有用轉？故次說言：即說彼生起，為用為作者。

> 諸々の法にはすべて作用がないと説かれているが、どのように無用であるのかはまだ明かされていない。そこで次にこう説かれる。「諸行はすべて刹那であり、とどまることすらない。ましてや作用などあるはずがない」。先に述べたように、作用の働きは無いわけではない。では、なぜ無用でありながら有用として働くのか。そこで次にこう説かれる。「すなわち、その生起することを、作用であり作者であると説くのである」。

果故，名為用；因故，名作者。彼生起者，顯從諸處諸識得生。彼得生者，非離眼等彼成就故。

> だから、結果の側面からは「作用」と呼ばれ、原因の側面からは「作者」と呼ばれる。 その生起するものは、諸々の感官や認識から生じることを示している。 そして、生じたものが成立するのは、眼などから離れては成立しないからである。

如前所說諸法無用，此顯無用略有七種。一、無作用用。謂眼不能見色等。二、無隨轉用。謂於此亦無能任持、驅役者。如其次第，宰主、作者，俱無所有，故無有能隨轉作用。三、無生他用。謂法不能生他。四、無自生用。謂亦不能自生。五、無移轉用。謂眾緣有故生，非故新新有。六、無滅他用。謂法不能滅他。七、無自滅用。謂亦不能自滅。

> 先に述べたように、あらゆる現象（諸法）には作用がありません。ここで示す「作用がない」という意味には、おおまかに七つの種類があります。 第一に、能動的に働きかける作用がないこと。例えば、目が物を見るといった能動的作用はありません。 第二に、他を動かす作用がないこと。現象には、何かを維持したり、操ったりする力もありません。具体的には、支配者や創造者のようなものはどこにも存在しないため、他を動かす作用はありません。 第三に、他を生み出す作用がないこと。現象は他の現象を生み出すことができません。 第四に、自分自身を生み出す作用がないこと。現象は自分自身を生み出すこともできません。 第五に、移動・転換させる作用がないこと。様々な条件が揃うからこそ生じるのであって、それがなくなって初めて別の新しいものが生じるというわけではありません。 第六に、他を滅ぼす作用がないこと。現象は他の現象を滅ぼすことができません。 第七に、自分自身を滅ぼす作用がないこと。現象は自分自身を滅ぼすこともできません。

問：如眾緣有故生，亦眾緣有故滅耶？

> 問い：あらゆる条件がそろって物事は生じるように、条件がそろえば物事は消え去るのでしょうか？

答：眾緣有故生，生已自然滅。

> 答え：すべての縁が集まるから生じ、生じたならば自然に消えていく。

如前所說有因法有，欲顯在家及與出家雜染自性有因法有。故次說言：由二品為依，是生便可得等。由此二頌，顯無明、愛有因法有。

> 前に説かれたように、「因のある法が存在する」ということを示すために、在家と出家における雑染の自性にも因があることを明らかにする必要がある。そこで次の偈頌で「二つの品を依りどころとして、生が得られる」と説かれたのである。この二つの偈頌によって、無明と愛にも因のある法が存在することが示される。

次後五頌，顯雜染品差別所依因及時分。此中，「有因諸法」者，謂無明乃至受。有因眾苦者，謂愛乃至老死。此言顯示煩惱、業、生三種雜染。

> 次に、五つの詩句によって、煩悩の汚れの種類やその違い、それらが依拠する原因と時間の区分が明らかにされます。 この中で「原因のある諸法」とは、無明から受までのことを指します。また、「原因のある苦しみ」とは、愛から老死までのことを指します。この言葉は、煩悩の汚れ、業の汚れ、そして生の汚れという三つの汚れを明らかにしています。

「根本二惑故」者，此言顯示煩惱雜染，唯取最勝煩惱雜染。「自無能作用」等言，復重別顯業雜染義。由彼所作有差別故，彼果異熟不思議故。「自無能作用」者，待善惡友，他所引故。「亦不由他作」者，待自功用所成辦故。「非餘能有作」者，要待前生因差別故，方有所作。「非內亦非外」等頌中，顯依未來不生雜染；依止現在、過去諸行能生雜染。設行已生，即由此相無有分別；未來無相，故無分別。如此如是當來決定不可知故。若不如是分別，異類或時可得。若於過去，即可分別。如此如是，曾有相貌可分別故。非唯曾更而可分別。未曾更者，雖不分明取其相貌，然隨種類亦可分別。此則顯示，依現在行分別為因，生諸雜染。行雖無始然始可得者，顯示雜染時分差別。無始時來常隨逐故，剎那剎那新所起故。

> 「根本二惑故」とは、煩悩の雑染について、最も勝れた煩悩の雑染だけを取り上げて示している。「自無能作用」などの言葉は、さらに業の雑染の意味を別に示している。それは、その業が行うことに違いがあるからであり、その結果である異熟が思い計ることができないからである。「自無能作用」とは、善友や悪友に頼り、他者によって導かれることを意味する。「亦不由他作」とは、自らの努力によって成し遂げられることを意味する。「非餘能有作」とは、過去の原因の違いに待って、はじめて何かを行うことを意味する。「非內亦非外」などの偈では、未来に依っては雑染が生じないことを示し、現在や過去の行に依って雑染が生じうることを示している。もし行がすでに生じたならば、この相によって分別はない。未来には相がないので、分別もない。このように、未来は決定して知ることができないからである。もしこのように分別しなければ、異なる種類のものも時に得られるかもしれない。もし過去についてであれば、分別することができる。このように、過去には曾ての相貌があって分別できるからである。ただ曾て経験したことだけが分別できるのではない。まだ経験していないものでも、その相貌をはっきりと捉えることはできないが、種類に従って分別することはできる。これは、現在の行を分別することを因として、諸々の雑染が生じることを示している。行に始まりはないが、始まりが得られるというのは、雑染の時間的な違いを示している。無始の時から常に従い続けるものであり、刹那刹那に新たに生じるものである。

自此已後，顯清淨品。如實觀時得清淨故。或由自相故。謂觀色等如聚沫等。或由共相故。謂觀有為同生住滅所有共相。或由世俗及勝義諦故。謂雖無癡者，非無愚癡。眾緣所生世俗諦故，說癡能癡。又復顯示非不愚者不正思惟，是故彼為愚癡所癡。又由世俗，宣說諸識隨福等行。若就勝義，無所隨逐。

> これより後に、清らかな品を明らかにします。事実のままに観察するとき、清らかさが得られるからです。あるいは、自己の相によって、色などの現象を泡やかたまりのように観察します。あるいは、共通の相によって、有為法が生・住・滅という共通の相を共に持つことを観察します。あるいは、世俗と勝義の真理によって、無知な者でなくとも、無知がないわけではないことを示します。様々な条件から生じるのが世俗の真理であるため、無知が無知させる（迷わせる）と言います。さらに、無知でない者でも、正しくない思考をするならば、そのため彼は無知によって迷わされることを示します。また、世俗によって、様々な識が福徳などに従って作用することを説きます。もし勝義に基づけば、何かに従うことはありません。

又三應知者，謂去來今。三種業者，謂身等業。

> また、知るべき三つのものとは、過去・未来・現在のことである。三つの業とは、身体による行為などである。

一切不和合者，更互相望不和合故。所以者何？現在速滅壞，過去住無方未生依眾緣，而復心隨轉。若彼與此更互相應、如福等行無有和合，彼心相應道理亦爾，云何當有實隨轉性？何以故？若心與彼諸行相應，或不相應；非此與彼或時不相應，或時非不相應。

> 一切のものは、互いに調和しないもの同士が、互いにそれを見渡して調和しないからです。なぜなら、現在のものは速やかに消え去り、過去のものはどこにも留まらず、未だ生じていないものは様々な条件に依存して、しかも心はそれに従って移り変わるからです。もし、あるものが他のものと互いに応じ合い、例えば福徳などの行（心の働き）に和合がないように、心とそれらの対応関係もまた同様であれば、どうして本当に従って移り変わる性質があると言えるでしょうか。なぜなら、もし心がある行と対応するか、あるいは対応しないとしても、この心とあの行の関係が、ある時は対応せず、またある時は対応しないのではないということはないからです。

又非一切心或相應，或不相應。如是由勝義故，心隨轉性不得成就。今當顯示由世俗故，說心隨轉所有因緣。

> さらに、すべての心が（心王と）対応するか、対応しないか、というわけではない。 このように、勝義（究極的な真理）の観点から見れば、心と共に転ずる性質（心随転性）は成立しない。 ここで、世俗（日常的な真理）の観点から、心と共に転ずると説かれる理由を示そう。

「於此流無斷」者，今此頌中，顯世俗諦非無作用及與隨轉。又由勝義，無有作者及與受者；由世俗故，而得宣說自作自受。又作者、受者若一若異皆不可說。為顯此義，故次說言前後差別等頌。

> 「流れが断たれない」とは、この偈頌において、世俗諦としては作用やそれに随って転ずることがないわけではないことを示している。また、勝義諦としては作者も受者も存在しない。しかし世俗の立場からは、自ら作り自ら受けると説くことができる。さらに、作者と受者が同一であるとも別であるとも言うことはできない。この意味を示すために、次に「前後の差別」などの偈頌が説かれるのである。

如是由勝義故，無有宰主、作者、受者，唯有因果。於因果相釋通疑難，略由五頌，顯示於此起我顛倒。初頌顯示雖無有我，而有後有無有斷絕；又諸因果非頓俱有；非從一切一切得生；又此因道無有斷絕。頌中四句，如其次第釋此四難。

> このように、最高の真理（勝義）の観点から見れば、主宰者も、作り手も、受け手も存在せず、ただ因と果があるのみです。因果の関係についての疑問を解き明かすため、簡潔に五つの偈頌で、ここに生じる「我」への誤った見解を示します。最初の偈頌は、「我」が存在しないにもかかわらず、次の生が絶えることなく続くこと、また、すべての因果が一度に生じるわけではないこと、さらに、すべてのものからすべてのものが生じるわけではないこと、そして、この因果の道が絶えることがないことを示しています。偈頌の四つの句は、順にこれら四つの難問を解き明かすものです。

由第二頌，顯因果相。由後三頌，顯於無我諸因果中起我顛倒。此中顯示彼所緣境、彼所依止、彼因、彼果。初頌顯示彼所緣境。自內所證，無色難見，難可尋思，故名無色。經說色相為尋思故；難說示他，故不可見。由第二頌，顯彼依果。凡夫是依，眾見是果。

> 第二の偈は因果の相を示し、後の三つの偈は無我の諸因果において我という誤った見解が生じることを明らかにします。ここでは、その対象となる境、よりどころ、原因、結果が示されています。 最初の偈は、対象となる境を示しています。それは自己の内側で証されるものであり、色（形）がなく、見えにくく、探求しがたいため、無色と呼ばれます。経典では、色（形）の相は探求の対象であると説かれています。また、他者に説き示すことが難しいため、不可見とされています。 第二の偈は、そのよりどころと結果を示しています。凡夫がよりどころであり、さまざまな見解がその結果です。

由第三頌，顯示彼因。俱生我見，由總執計自種隨眠之所生起。諸外道等分別我見，由宿習等之所生起。此外道見，要由數習故、不正尋思故，又得隨順從他聽聞非正法故，而得生長。此中顯示由所依止、作意、所緣諸過失故，分別我見方得生起。

> 第三の偈によって、その原因が示される。生まれながらの我見（自我への執着）は、総じて種々の随眠（潜在的な煩悩）によって生じるものである。諸々の外道（仏教以外の教えを説く者たち）の分別我見（分析的・分別的な自我執着）は、過去の習慣などによって生じるものである。この外道の見解は、繰り返し慣れ親しむこと、誤った思考、さらには他者から正しくない教えを聞くことに随順することによって、成長し発展していく。ここでは、よりどころとなるもの、心の働き、対象とするものといった様々な欠陥によって、分別我見が生じることが示されている。

次後五頌，顯彼我見，由集次第，發生於苦；又即此苦，并及我見二苦因緣；又於解脫能為障礙。此中初頌，顯示於集；第二、第三，顯示行苦所攝阿賴耶識。愛藏此已，而趣戲論。謂我當有、非當有等。

> 次の五つの偈では、 自我の見解（我見）が、 苦しみのもと（集）の順序によって いかに苦しみを生み出すかを明らかにします。 また、この苦しみそのものと自我の見解という 二つの苦しみの原因が、 解脱の妨げとなることを示します。 このうち最初の偈は苦しみのもと（集）を、 第二と第三の偈は 行苦に含まれる阿頼耶識を示します。 そこに執着し愛した後、 「私は存在するだろう」「存在しないだろう」などの 虚偽の分別にふけるのです。

言愛藏者，攝為己體故。又復此苦，於一切時恒常隨逐，無一剎那而暫息者。由第四頌，顯示此苦是能計我及苦樂緣。由第五頌，顯示計我由愚癡故，障礙解脫。言增上者，望餘二苦故。言遍行者，隨逐諸受故。遍所作者，遍善、惡、無記故。

> 「愛蔵（あいぞう）」とは、それを自分のものとして執着するからです。さらに、この苦しみは常に私たちに付きまとい、一瞬たりとも休むことがありません。第四の偈は、この苦しみが「私」という概念や苦楽を生み出す原因であることを示しています。第五の偈は、「私」に執着することが無知によるものであり、解脱の妨げとなることを示しています。「増上（ぞうじょう）」とは、他の二つの苦しみよりも優れている（強い）という意味です。「遍行（へんぎょう）」とは、あらゆる感覚（受）に付き従うことです。「遍所作（へんしょさ）」とは、善・悪・無記のすべてに及ぶことを意味します。

今當顯示阿賴耶識所攝行苦共他相似。又顯差別。由正法行方能竭故，於世眾流最為暴惡。言眾流者，譬眼等六，五趣、三界等。

> ここで、阿頼耶識（あらやしき）に含まれる行苦（ぎょうく）が、他の苦と似ていることを示しましょう。さらに、その違いも明らかにします。正しい教えの実践によってのみ、この苦しみは干上がるのです。世の中のあらゆる流れの中で、これは最も激しく荒々しいものです。「衆流」という言葉は、例えば眼などの六つの感覚器官や、五つの迷いの世界、三つの存在の領域などを指しています。

又法行者，顯示解了解脫遍知及縛遍知。

> さらに、修行者に対しては、解脱の完全な理解と束縛の完全な理解が示される。

解了縛遍知者，即了知苦。謂了知我受苦受樂，皆依於苦。又此分別能起諸見；從彼所生，亦能生彼。

> 苦しみを理解し、束縛から解き放たれた智慧者は、苦しみの本質を正しく知っています。すなわち、自分が苦しみや楽しみを経験するのは、すべて苦しみに基づいていると悟ります。また、こうした分別心が様々な誤った見解を生み出し、その見解からさらに分別心が生まれ、互いに影響し合うことを知っています。

顯示解了縛遍知已。餘有六頌，顯示解了解脫遍知。謂染污意恒時，諸惑俱生滅。若解脫諸惑，非先亦非後等。非先者，與諸煩惱恒俱生故。非後者，即與彼惑俱時滅故。又顯所說解脫之相。謂非即彼生已後方清淨，別有所餘清淨意生；即彼先來無染污故，說為解脫。為成此義，故復說言：其有染污者，畢竟性清淨等頌。又復顯示二種解脫。謂煩惱解脫及事解脫。諸種子滅故，諸煩惱盡故者，顯示煩惱解脫。即於此無染者，顯示事解脫。如經言：苾芻當知！若於眼中貪欲永斷，如是此眼亦當永斷，乃至廣說。如是顯示有餘依解脫已，次當顯示無餘依解脫。自內所證者，顯彼不思議故。「唯眾苦盡」者，為遣妄計唯無性執。謂有餘依永寂滅故，說為寂滅，非全無性。無戲論者，此解脫性唯內所證。若異不異、死後當有或當無等一切戲論不能說故。為顯補特伽羅及法，俱非流轉生死或般涅槃。故復頌言：眾生名相續，及法想相中，無生死流轉，亦無涅槃者。

> 執着からの解放と完全な理解を示した後、残る六つの偈頌で、解脱の完全な理解を示します。すなわち、染汚意は常に諸々の煩悩と共に生じ、共に滅する。もし煩悩から解脱するならば、それは先でもなく後でもない等と説かれています。「先ではない」とは、諸々の煩悩と常に共に生じるからです。「後ではない」とは、その煩悩と同時に滅するからです。また、説かれた解脱の様相を示します。すなわち、その生が起きた後に新たに清浄となるのではなく、別に清らかな意が生じるのでもありません。そのものは元来、汚れがないから、解脱と説かれるのです。この意味を成立させるため、さらに「その染汚あるものは、畢竟して清浄の性である」等の偈頌を説きます。またさらに、二種の解脱を示します。すなわち、煩悩の解脱と事象の解脱です。「諸々の種子が滅する故に、諸々の煩悩が尽きる故に」とは、煩悩の解脱を示します。「まさにこのことにおいて染汚がない」とは、事象の解脱を示します。経典に「比丘たちよ、知るがよい。もし眼において貪欲が永く断たれるならば、このようにこの眼もまた永く断たれるであろう」と広説されている通りです。 このように有余依涅槃における解脱を示した後に、次に無余依涅槃における解脱を示します。「自ら内に証するもの」とは、その不可思議であることを示します。「ただ衆苦の尽きるのみ」とは、無性のみであると妄執するのを排除するためです。すなわち、有余依が永く寂滅するから、寂滅と説くのであって、全く無性というわけではありません。「戯論なきもの」とは、この解脱の性質はただ内に証されるものであり、異なるか異ならないか、死後にあるか無いか等の一切の戯論では語り得ないからです。また、人と法の両方が、生死に流転することもなく、涅槃に入ることもないことを示すため、さらに「衆生という名の相続、及び法という想いの相の中において、生死の流転もなく、また涅槃する者もない」と偈頌で説かれています。