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title: "瑜伽師地論 · 2目 長行釋"
description: "瑜伽师地论是佛教大乘瑜伽行派的重要经典，相传由弥勒菩萨口述，无著菩萨记录，唐代高僧玄奘于贞观年间从印度取回并译成汉文。该论共100卷，系统阐述瑜伽行派的教义，内容包括十七地、三性、八识、修行次第等核心理论，被誉为大乘佛教的百科全书。作为唯识学的根本论典，瑜伽师地论奠定了唯识学派的理论基础，对汉传佛教和藏传佛教影响深远，在佛教思想史上具有崇高地位，是研究唯识学和瑜伽行派必读的经典著作。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cma8zh4h301w0ib04k9v6vg00"
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「於學到究竟，善斷諸疑網，今請學所學，修學為我說」者，於此頌中，大梵天王先讚世尊，後興請問。

> 「学び究め、あらゆる疑いの網を断ち切られた方よ。今、学ぶべきことを問うてまいります。学び修める道を、私にお説きください」 この偈において、大梵天王はまず世尊を賛嘆し、その後にお尋ねを申し上げたのである。

讚世尊者，謂於一切學中，已得第一究竟。此依自利行圓滿不共德說；又能善斷展轉所生一切疑網，此依利他行圓滿不共德說。

> 世尊は讃えられるべき方です。あらゆる学びの中において、すでに最高の悟りに達しておられます。これは、自らのための修行を完全に成し遂げた、他に類を見ない徳について述べています。また、絡み合って生じるあらゆる疑問の網を巧みに断ち切ることができる。これは、他者のための行いを完全に成し遂げた、他に類を見ない徳について述べています。

興請問者，何等為學？學有幾種？云何於彼當修學耶？

> 質問を起こす人よ。何を「学び」というのか。学びには幾つの種類があるのか。どのようにしてそれを修学すべきなのか。

是故世尊意為策勵怖多所作懈怠眾生，總攝一切，略說三學。故次告曰：

> だからこそ、世尊は多くの修行に怖れ、怠け心を抱く衆生を励まそうと意図され、すべてをまとめて三学（戒・定・慧）を簡潔に説かれた。それゆえ、次にこう告げられたのである。

大仙應善聽！學略有三種：增上戒、心、慧。於彼當修學。

> さあ、大いなる賢者よ、よく聞きなさい。 学びには三種類の道がある。 それは、より高みへと導く戒律の学び、心を整える学び、そして智慧を磨く学びだ。 この三つを、あなたはしっかりと修行しなさい。

此中顯示依戒、心、慧，若散亂者，令不散亂，方便為說增上戒學；心未定者，為令得定，方便為說增上心學；心已得定未解脫者，為令解脫，方便為說增上慧學。由此因緣，諸修行者一切所作皆得究竟。此顯世尊密意宣說一切諸學，無不攝在此三學中。

> ここで示されているのは、戒・心・慧に基づいて、心が散乱している人には散乱しないようにするための方便として増上戒学を説き、心が定まっていない人には定を得るための方便として増上心学を説き、すでに心が定まっていながらも解脱していない人には解脱させるための方便として増上慧学を説くということです。このような理由から、修行者たちが行うすべての修行は、これらによって完成されます。これは、世尊が密意をもって説かれたすべての学びが、この三学の中に収まらないものはないということを示しています。

又為顯示於諸學中，由此方便成辦所學，故次說言：應圓滿六支，四樂住成就，於四各四行，智慧常清淨。

> さらに、様々な学びの中で、この方法によって学びが成就されることを示すために、次のように説かれています。 「六つの支分を完成させ、四つの楽住（楽しい境地）を成就し、四つのそれぞれに四つの行を備えることで、智慧は常に清らかになるであろう。」

今此頌中，如其次第，顯示成辦三學方便。應圓滿六支者，應依增上戒學方便修學。何等六支？一、安住淨尸羅，二、守護別解脫律儀，三、軌則圓滿，四、所行圓滿，五、於諸小罪見大怖畏，六、受學學處。如是六支，顯示四種尸羅清淨。安住淨尸羅者，是所依根本。守護別解脫律儀者，顯示出離尸羅清淨，為求解脫而出離故。軌則、所行俱圓滿者，此二顯示無所譏毀尸羅清淨。於諸小罪見大怖畏者，顯無穿缺尸羅清淨。受學學處者，顯無顛倒尸羅清淨。如是六支極圓滿故，增上戒學與餘方便作所依止。四樂住成就者，顯示增上心學方便。四種靜慮，名四心住；現法樂住，故名為樂。於四各四行，智慧常清淨者，依增上慧學說。謂於苦集滅道四聖諦中，一一皆有四行。即無常等。增上慧學由此淨智之所顯故。

> この偈頌は、順に三学を成就するための方法を示しています。 「六支を円満にすべき」とは、増上戒学の方法に従って修学すべきことを説いています。その六支とは何か。 一、清らかな戒律に安住すること。 二、別解脱律儀を守護すること。 三、規則を円満にすること。 四、行動を円満にすること。 五、小さな罪にも大きな恐れを抱くこと。 六、学処を受けて学ぶこと。 この六支は、四種の尸羅（戒）の清らかさを示しています。 「清らかな戒律に安住する」とは、その依りどころとなる根本です。 「別解脱律儀を守護する」とは、解脱を求めて出離するための、出離の戒清浄を示します。 「規則と行動を共に円満にする」この二つは、他者からの非難を受けない戒清浄を示します。 「小さな罪にも大きな恐れを抱く」とは、欠けや破れのない戒清浄を示します。 「学処を受けて学ぶ」とは、顛倒のない戒清浄を示します。 このように六支が極めて円満であるから、増上戒学は他の方法の依りどころとなります。 「四つの楽住を成就する」とは、増上心学の方法を示します。四つの静慮（禅定）を、四つの心の住処といいます。現世の法における楽しい住処であるから、「楽」と名づけます。 「四つにおいて、それぞれ四つの行があり、智慧は常に清らかである」とは、増上慧学について説いています。つまり、苦・集・滅・道の四聖諦の、ひとつひとつに四つの観行があります。それは無常などの観行です。増上慧学は、この清らかな智慧によって顕れ出るからです。

「初善住根本，次樂心寂靜，後聖見惡見，相應不相應」者，此頌顯示增上三學次第生起。

> 「初めによく根本に安住し、次に心の寂静を楽しみ、後に聖なる見解と悪しき見解との対応・非対応がある」との偈は、この偈がさらに広く、三つの高次の学び（戒・定・慧）が順に生じることを示しています。

根本者，謂增上戒。由後二種是此初學所流類故。既具尸羅，由無悔等次第修習，能得第二心樂靜定。心得定者，見如實故，能得第三成就聖見，遠離惡見。

> 根本とは、増上戒を指す。後の二つ（心学・慧学）は、この最初の学びから流れ出るものだからである。戒律を備えれば、後悔しないことなどを順に修習することで、第二の、心が静かな禅定を楽しむ境地を得ることができる。心が定まった者は、物事をあるがままに見るから、第三の、聖なる見解を成就し、誤った見解から遠ざかることができる。

「先淨樂靜慮，及於諦善巧，即於諸諦中，應生、遠、增長」者，此頌顯示三學次第清淨差別。先淨者，是初學。樂靜慮者，是第二學。於諦善巧者，是第三學。又於如是諦善巧中，應生者，謂道諦。應生起故。應遠者，謂苦、集諦。應遠離故。應增長者，謂滅諦。軟中上品煩惱次第數數漸斷，增長滅故。

> 「まず、静慮（じょうりょ）を清め、さらに真理に巧みになりなさい。そして、諸々の真理において、生じさせるべきもの、遠ざけるべきもの、増大させるべきものを理解しなさい」というこの偈は、三つの学び（三学）の順序と清らかさの違いを示しています。 「まず清める」とは、最初の学び（戒学）を指します。 「静慮を楽しむ」とは、第二の学び（定学）を指します。 「真理に巧みになる」とは、第三の学び（慧学）を指します。 さらに、この真理に巧みになることにおいて、 「生じさせるべきもの」とは、道諦（どうたい）のことです。これを生じさせなければならないからです。 「遠ざけるべきもの」とは、苦諦（くたい）と集諦（じったい）のことです。これらを遠ざけなければならないからです。 「増大させるべきもの」とは、滅諦（めったい）のことです。煩悩を、下・中・上の段階に従って繰り返し徐々に断ち切り、滅（めつ）

「於諸學處中，有四趣三所。遠離於二趣，於二趣證得」者，此頌顯示於增上戒心慧學處，由所修學有成敗故，隨其所應，所得果報四趣差別。謂於欲界人天所攝所有善趣，是增上戒成所得果；即於欲界餘趣所攝所有惡趣，是增上戒敗所得果。色無色界天趣所攝所有上趣，是增上心果。三界所不攝涅槃趣，是增上慧果。於如是諸趣中、遠離前二善趣、惡趣已，應證後二上趣及涅槃趣。此言顯示世出世間二道所得。

> 「諸々の学処において、四つの趣（境地）と三つの場所がある。二つの趣を遠く離れ、二つの趣を証得する」とは、この偈は、戒・心・慧という増上（さらに優れた）三学において、修学に成功と失敗があることから、それに応じて得られる果報に四つの趣の違いがあることを示しています。 すなわち、欲界における人や天が属する全ての善趣は、増上戒の成就によって得られる果です。同じ欲界におけるその他の趣に属する全ての悪趣は、増上戒の失敗によって得られる果です。色界・無色界の天趣に属する全ての上趣は、増上心の果です。三界に含まれない涅槃という趣は、増上慧の果です。 このような諸々の趣の中で、先の二つである善趣と悪趣から遠く離れたならば、後の二つである上趣と涅槃の趣を証得すべきです。この言葉は、世間と出世間の二つの道によって得られるものを示しています。

「二安住二種，一能趣涅槃，漸次為因緣，純雜而修習」者，於此頌中，顯示最初增上戒學、增上心學，漸次能為增上心學、增上慧學安住因緣。顯示中間增上慧、靜慮律儀所攝增上戒學，能為二種安住因緣。顯示最上一種，能為涅槃安住因緣。當知此中顯示修習若別若總，隨其所應。

> 「二つの安住には二種類ある。第一に涅槃へ向かうこと、次第に因縁となり、純粋と雑多を交えて修習する」とは、この偈頌において、まず初めの段階である増上戒学と増上心学が、次第に増上心学と増上慧学の安住の因縁となることを示している。次に中間の段階である増上慧学と、静慮律儀に含まれる増上戒学が、二つの安住の因縁となることを示している。最後に最上の段階である一つの安住が、涅槃の安住の因縁となることを示している。ここに、修習が別々である場合と総合である場合が、それぞれに応じて示されていると知るべきである。

「最先離惡作，最後樂成滿，諸學是為初，於此學聰叡」者，此頌顯示由增上戒學，以無悔等漸次修習，為後轉因。

> 「まず悪い行いを離れ、最後には完成を喜ぶ。様々な学びの初めとして、これによって賢明な者は学ぶ」というこの偈は、戒を高める学びによって、悔いのない状態などから徐々に修行を積み、後の段階へと進む原因となることを示しています。

「由此智修淨，淨生、樂成滿，諸學是為中，於此學聰叡」者，此頌顯示由增上心學，修所成慧最勝善根漸次生故，為最上學因。

> この智慧によって清らかな修行を積み、清らかさが生まれ、楽が成就し満ち足りる。様々な学びのうち、これが中道（真ん中）の道であり、この学びにおいて賢くあれ」という偈は、より高い心の学びによって、修行から生まれる智慧という最も優れた善い根拠が徐々に生じていくことを示しており、それが最も優れた学びの原因となることを明らかにしています。

「從此心解脫，永滅諸戲論，諸學是為尊，於此學聰叡」者，此頌顯示由增上慧學，能為最勝涅槃果因。

> この心から解脱し、もろもろの戲論が永遠に滅している。あらゆる学びある者たちのなかで、この学びが最も尊い。この学びにおいてこそ、聡明な者となる。 ──この偈は、より高次の智慧の学びこそが、最も勝れた涅槃の果実をもたらす因であることを示している。

「若行、趣不淨，亦趣於善趣，是行說為初，當知此非共」者，此頌顯示增上戒學若有敗毀，為惡趣因；若能成立，為善趣因。

> 「もし行が、清らかでない方向へと向かい、また善い方向へも向かうならば、その行は初めのものと説かれ、これは共通のものではないと知るべきである」というこの偈は、増上戒学を示しています。もしこれが壊れれば、悪い境涯の原因となり、もし正しく成立すれば、善い境涯の原因となることを表しています。

此是不共，離後二學亦能成立故。

> これは他の宗派と共有しない独自の性質です。後の二つの学び（戒・定）がなくとも成立するからです。

「若行、趣清淨，非諸趣究竟，是行說為中，當知亦非共」者，此頌顯示中間學行，離欲界欲得清淨故，名趣清淨；未能盡離上界欲故，亦未永拔欲隨眠故，不得名為於諸趣中究竟清淨。此離最上亦能成辦，故名不共，非離最初。

> もし行を修することで清らかさに向かうとしても、それはあらゆる生存の領域において究極の清らかさではない。この行は「中道」と呼ばれ、また「共ならず」とも知られるべきである――この偈は、中間にある学びの行を示しています。欲界の欲望を離れることで清らかさを得るため、「清らかさへ向かう」と名づけられます。しかし、上界の欲望をすべて離れることができず、また欲界の眠れる煩悩を完全に断つこともできないため、あらゆる生存の領域において究極の清らかさであるとは言えません。この行は、最も上の境地を離れることも成就できるため、「共ならず」と呼ばれますが、最初の境地を離れるものではありません。

「若行、趣清淨，於諸趣究竟，是行說為尊，當知此必共」者，此頌顯示最上學行，三界諸欲皆遠離故，亦能永拔諸隨眠故，於諸趣中最為究竟。不離前二能為獨成辦，故名必共。

> 「もし修行が清らかさへと向かい、あらゆる生存の領域において究極に達するならば、その修行こそが最も優れたものと説かれる。そして、これは必ず共通するものと知るべきである」とは、この偈は最上の学びと修行を示しています。三界におけるあらゆる欲望から離れているからであり、また、あらゆる潜在的な煩悩を永遠に断ち切るからです。そのため、あらゆる生存の領域の中で最も究極のものとなります。そして、先の二つの要素（※解説なしで「戒と定」などと特定するのは避ける）を離れずに、それらを独力で成し遂げることができるから、「必ず共通するもの」と名付けられているのです。

「若有學、無學，當知並聰叡」者，此初半頌，顯示於三學中聰叡者相。有正學故，無邪學故。

> もし、学びある者（有学）と学びを終えた者（無学）がいるなら、その両者とも聡明で賢明であると知るべきである。この前半の偈は、三学の中で聡明で賢明な者の相を示している。正しい学びがあるからであり、誤った学びがないからである。

「若有學無學，當知並愚夫」者，此後半頌，顯示於三學中愚夫之相。有邪學故，無正學故。

> もし「学びある者も学びなき者も、ともに愚か者である」と知るべきである――この後の半偈は、三学における愚か者の姿を示す。邪な学びがあるゆえに、正しい学びがないからである。

「若棄捨攝受，亦斷除麁重，及現見所知，是受持三學」者，此頌顯示若能棄捨家親屬等所攝受故，若能斷除三摩地障諸麁重故，若能現見四聖諦相所知理故；如其次第，三學成滿。

> 「もし摂受を捨て、また麁重を断ち、所知を現に見るならば、それは三学を受持することである」という偈頌は、次のことを示しています。 もし家庭や親族などの執着対象（摂受）を捨てることができ、また、瞑想の障害となる心の重苦しさ（麁重）を断ち切ることができ、さらに、四つの聖なる真理（四聖諦）のありさまをはっきりと見ることができたならば、その順序に従って、三つの学び（戒・定・慧）が円満に成就されるのです。

「若有緣、無緣、亦細、麁顯現」者，此初半頌，顯後二學及最初學，如其次第，有緣無緣細麁差別。

> 「縁があるもの、縁がないもの、また細かいもの、粗く顕われるもの」とは、この偈の前半の部分で、後の二つの学びと最初の学びを、順に示しています。すなわち、縁があるものと縁がないもの、細かいものと粗いものという違いを表しています。

「由受持遠離，言發悟所引」者，此後半頌，顯初中後如其次第引發因緣。謂誓期所引故，身心遠離所引故，由他言音、內正思惟所引故。

> 「受持して遠離するところにより、言葉によって悟りが引き出される」とは、この後の半頌で、初・中・後の順にそれぞれの因縁（原因と条件）が明かされています。すなわち、誓いと決意によって引き出され、心身の遠離によって引き出され、他者の言葉と自己の正しい思索によって引き出されるのです。

「初學、唯有一，第二學、二種，第三學、具三，慧者皆超越」者，此頌顯示初一不共，中不離初，上不離二。超彼一切，當知無學是阿羅漢。

> 「初めの学びには一つのみ、第二の学びには二種、第三の学びには三つを備え、智慧ある者はすべてを超える」という偈は、初めの段階（預流果）には他と共通しない一つのものだけがあり、真ん中の段階（一来果と不還果）には初めのものを離れず、さらに二つが加わることを示しています。そして、それらすべてを超えた者こそが、無学の阿羅漢であると知るべきです。

「不毀壞尸羅，於學誓能順，軌範無譏論，於五處遠離」者，此後顯示受持戒相。不毀壞尸羅於學者：謂安住淨戒。誓能順者，謂守護別解脫律儀。軌範無譏論者，謂軌則無犯。於五處遠離者，謂所行無犯。略有五處，諸苾芻等非所應行。謂王家、唱令家、酤酒家、倡穢家、旃茶羅及羯恥那家。唱令家者，謂屠羊等。由遍宣告此屠羊等，成極重罪，多造惡業，殺害羊等故。

> 「戒律を破らず、学処の誓いに従い、行動規範に非難がなく、五つの場所を遠ざける」とは、ここから戒律を受持する相を示している。 「戒律を破らず、学処に従う」とは、清らかな戒律に安住することである。 「誓いに従う」とは、別解脱の律儀を守護することである。 「行動規範に非難がない」とは、行動の規則に違反しないことである。 「五つの場所を遠ざける」とは、行くべき場所での違反がないことである。 大まかに五つの場所があり、比丘たちは行くべきではない。 すなわち、王の家、呼び売りの家、酒を売る家、娼婦の家、チャンダーラおよび羯恥那の家である。 「呼び売りの家」とは、羊を屠るなどする家である。 「この羊を屠るなどする」と広く宣告されることで、非常に重い罪となり、多くの悪業を造り、羊などを殺害するからである。

「若無犯、出離、無惡作、惡作」者，顯示於諸小罪見大怖畏。如其出離，亦無惡作；如其惡作，亦無有犯。

> もし「犯すことなく、離れることなく、悔いることなく、悔いるべきこともない」とあるならば、それは小さな罪であっても大きな恐れをなすことを示している。そのように離れるならば、悔いることもなく、そのように悔いるならば、犯すこともない。

「於彼學尋求，及勤修彼行」者，顯示受學學處。

> 彼の教えを学び求め、熱心にその実践に励む」とは、学ぶべき処（学処）を受け入れ、学ぶことを示しています。

「終無有棄捨，命難亦無虧，常住正行中，隨毘柰耶轉」者，此頌四句，如其次第顯示常尸羅性、堅尸羅性、恒所作性、恒隨轉性。

> 「決して捨て去ることなく、命の危険があっても欠かすことなく、常に正しい行いの中に住し、戒律に従って行動する」――この偈の四句は、それぞれ順に「常に戒を保つ性質」「固く戒を守る性質」「絶えず実践する性質」「常に戒律に従って行動する性質」を示しています。

「修治誓為先，亦修治淨命」者，此初半頌，顯示軌範及命清淨。由諸軌範，先發誓願，方乃修行，故名為誓。

> 「修行の道を整えるには、誓いが何より大切であり、また清らかな生き方を整えることも大切である」――この前半の偈は、行動の規範と生活の清らかさを示しています。様々な規範に従い、まず誓いを立ててから、実践に取りかかります。だから「誓い」と言うのです。

「二邊皆遠離，亦棄捨邪願」者，此後半頌，顯示遠離受用欲樂、自苦二邊、及棄捨生天等願故，尸羅清淨。

> 「両極端から遠く離れ、また邪な願いも捨てる」――この後の半偈は、享受の欲楽と自己苦行という二つの極端から離れ、さらに天に生まれようとする願いなどを捨てることを示している。故に戒は清らかとなる。

「於諸障礙法，終無有耽染，亂心法纔生，尋當速遠離」者，此頌顯示於諸根門不守護等，障礙清淨所學法中，不見功德，無耽染故；於諸不善欲、恚尋等擾亂意法，雖暫生已，即除遣故；學得清淨。

> 「あらゆる妨げとなるものに、ついには執着することがなく、心を乱すわずらわしい心が、ほんの少しでも生じたら、すぐに遠く離れる」というこの偈は、次のことを示しています。つまり、諸々の感覚の門を守らないことなど、清らかな学びを妨げる様々なものに対して、その功徳を見ないので、執着することがないということです。また、不善の欲や怒りなどの心のわずらわしさは、心を乱すものですが、たとえ一時的に生じても、すぐに取り除くので、学びが清らかになるのです。

「非太沈、太浮，恒善住正念，根本眷屬淨，而修行梵行」者，此頌顯示遠離微劣惡作故，遠離非處惡作故；遠離失念故，於究竟時及方便時，修行梵行皆得清淨。

> 「沈みすぎず、浮かれすぎず、常に正しい念（おもい）を保ち、根本と眷属（けんぞく）が清らかであり、清らかな行いを修行する」という偈は、微細な後悔（悪作）から遠ざかること、不適切な後悔から遠ざかること、そして念を失うことから遠ざかることによって、修行の最終段階においても途中の段階においても、清らかな行いが完全に清められることを示しています。

## 瑜伽師地論卷第十六

> 『瑜伽師地論』第十六巻