---
title: "瑜伽師地論 · 3項 建立體義伽他(九十一頌分十四段)"
description: "瑜伽师地论是佛教大乘瑜伽行派的重要经典，相传由弥勒菩萨口述，无著菩萨记录，唐代高僧玄奘于贞观年间从印度取回并译成汉文。该论共100卷，系统阐述瑜伽行派的教义，内容包括十七地、三性、八识、修行次第等核心理论，被誉为大乘佛教的百科全书。作为唯识学的根本论典，瑜伽师地论奠定了唯识学派的理论基础，对汉传佛教和藏传佛教影响深远，在佛教思想史上具有崇高地位，是研究唯识学和瑜伽行派必读的经典著作。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cma8zh5br01zfib04ek0b1lh8"
---

## 瑜伽師地論卷第十七

> 瑜伽師地論 第17巻

彌勒菩薩說

> 弥勒菩薩の教え

三藏法師玄奘奉　詔譯

> 三蔵法師玄奘奉詔訳

### 本地分中思所成地第十一之二

> 第十一品 思所成地之二

「應發勤精進，常堅固勇猛，恒修不放逸，五支善安住」者，此頌顯示由被甲、方便、無退精進故，修習五支不放逸故，令所修學清淨殊勝。五支不放逸者，謂去、來、今、先時所作，及俱所行。

> 「つねに奮起して努力し、常に固く勇猛であれ。たゆみなく修めよ、放逸ならざるを。五つの支えを善く安住させよ」 この偈は、甲冑を身につけるような決意・巧みな方法・退かない努力によって、また五つの支えとなる不放逸を修めることによって、学ぶべきことが清らかで殊勝なものとなることを示しています。 五つの支えとなる不放逸とは、過去・未来・現在の三時と、先に為したこと、そしてその両方を同時に行うことを指します。

「當隱自諸善，亦發露眾惡。得諸衣服等，麁、妙皆歡喜。少隨於世務，麁弊亦隨轉。受杜多功德，為寂離煩惱」者，此二頌中，顯示遠離眷屬貪欲多欲不知足因故，及遠離多欲不知足障淨學因故，學得清淨。

> 「自分の善行は隠し、悪行はすべて明かせ。衣服などを得たならば、粗末なものでも上等なものでも、皆喜んで受け入れよ。世間の仕事にはあまり関わらず、粗末なものでもそれに従って生きよ。頭陀の功徳を受けて、静けさを求め、煩悩を離れる」—この二つの偈では、眷属への執着や貪欲、多欲で満足を知らない原因から遠ざかること、そして、多欲で満足を知らないことが清らかな学びの妨げとなる原因から遠ざかることによって、学びが清らかになることが示されている。

「當具足威儀，應量而攝受，終無有所為，詐現威儀相」者，此頌顯示具足威儀故；不於他前詭現相故；凡所攝受善知量故；為修梵行，資持壽命有所受故；學得清淨。

> 「威儀を整え、しかるべくして受け入れ、決して作為なく、偽って威儀を装わない」とは、この偈は、威儀が整っていること、他人の前で偽りの姿を見せないこと、受け入れるすべてにおいて適切な量をわきまえていること、清らかな修行のために生命を支えるものとして（施しなどを）受け入れること、それによって清らかな学びが得られることを示している。

「不自說實德，亦不令他說，雖有所方求，而非現異相。從他邊乞求，終不強威逼，以法而獲得，得已不輕毀」者，此二頌中，顯示遠離綺言說故，詭現相故，強威逼故，以所得利轉招利故，令所修學清淨殊勝。

> 「自らの真の徳を語らず、また他者に語らせることもない。 たとえ何かを求めるときも、怪しい様子を見せない。 他人から施しを乞うときも、決して無理やり強要しない。 法（正しい道理）に従って得たものは、得た後で軽んじたり粗末にしない。」 この二つの偈は、次のような行為から遠ざかることを示している。 すなわち、飾った言葉を語ること、怪しげな振る舞いをすること、 無理に強要すること、得た利益を使ってさらに利益を引き寄せること、 こうしたことを避けることで、修める学びを清らかで優れたものとするのである。

「不耽著利養，及所有恭敬，亦不執諸見，增益與損減」者，此頌顯示不耽著利養恭敬故，不執著五種惡見故，令所修學清淨殊勝。

> 「利養や恭敬に執着せず、さまざまな見解や、増えること減ることにも執着しない」とは、この偈が示すのは、利養や恭敬に執着しないこと、そして五つの悪見に執着しないことによって、学ぶところの修行を清らかにし優れたものとする、ということです。

「不著順世間，無義文呪術；亦不樂畜積，無義長衣鉢」者，此頌顯示不執著諸惡見因，外道邪論，以能障礙取蘊解脫。彼所制造，名順世間。及遠離耽著利養恭敬因，長衣鉢等。因清淨故，學得清淨。

> 「世の中のありふれた考えに執着せず、無意味な呪文やまじないを用いない。また、集めても意味のない長い衣や鉢をため込むことも好まない」という偈は、あらゆる悪しき見解や外部の誤った教えに執着しないことを示しています。なぜなら、それらは執着の集まり（取蘊）からの解脱を妨げるからです。それらが作り出したものを「世に順じたもの」と呼びます。また、利益や敬いによる養いや供養に執着することを遠ざけ、長い衣や鉢などをため込まないことを示しています。原因が清らかであるからこそ、学びも清らかになるのです。

「恐增諸煩惱，不染習居家，為淨修智慧，當親近賢聖」者，此頌顯示遠離所治因，親近能治因故，學得清淨。

> 恐るべき多くの煩悩を増し加えるため、在家の生活に染まらず、智慧を清らかに修めるために、賢聖に親しく近づくべきである」という偈は、治すべき原因から遠ざかり、治すことができる原因に親しむことによって、学びが清らかになることを示しています。

「不畜朋友家，恐發憂悲亂，能生苦煩惱，纔起尋遠離」者，此頌顯示若親近居家，生憂悲散亂，增長諸煩惱，能為眾苦因。由親近彼能生眾苦，煩惱纔生尋即除遣，如是顯示對治之因。

> 「友人の家に身を寄せず、悲しみや混乱を恐れ、苦しみや煩悩を生むなら、わずかに起こればすぐに離れる」とは、この偈が示すのは、在家の人々と親しく交わると、悲しみや散乱が生じ、さまざまな煩悩が増え、多くの苦しみの原因となることです。親しく交わることで多くの苦しみが生じ、煩悩が起こるとすぐに取り除くこと、このようにして対処する原因を示しています。

「不受於信施，恐加害瘡皰，於如來正法，甞無有棄捨」者，此頌顯示不貪著利養恭敬，不堅執諸惡邪見，不虛受用信施，不毀謗正法，亦能遠離貪著後世諸欲，及能生起諸惡見因。如是所學清淨殊勝。

> 「布施を受けながらも執着せず、害が及ぶ膿疱を恐れるように、如来の正しい教えに対して、決して捨て去ることがない」というこの偈は、利養や恭敬に貪らず、様々な悪しき邪見に固執せず、信徒の布施を無駄に受けず、正法を謗らず、さらには来世の諸欲への執着や、様々な悪見を生む原因から遠ざかることを示しています。このようにして学ぶことは、清らかで殊勝なものです。

「於他愆犯中，無功用、安樂，常省自過失，知已速發露」者，此頌顯示遠離作意求覓他人所有過失；於自善品無有散亂常生歡喜；於自過失如實了知，發露悔除，離增上慢；由此因緣學得清淨。

> 他人の過ちに対しては、何もせずに安らかに、 常に自分の過失を反省し、気づいたらすぐに告白せよ。 この偈は、他人の過失をわざわざ探そうとしないこと、 自分の善行に心を散らさず常に喜びを持つこと、 自分の過ちをありのままに知り、告白して悔い改め、 慢心を離れることを示している。 このような理由によって、学びは清らかになるのである。

「若犯於所犯，當如法出離，所應營事中，能勇勵自作」者，此頌顯示出離所犯，及能遠離貪受他人恭奉侍衛，由此因緣學得清淨。

> もし戒を破ってしまったなら、正しい方法に従って罪を清めましょう。 また、必要な修行の務めにおいては、自ら勇んで励み行いなさい。 この偈は、犯した罪を清めること、そして他人からの崇拝や供養、見守りを遠ざけることを示しています。これらの理由によって、学びは清らかになるのです。

「於佛及弟子，威德與言教，一切皆信受，觀大罪、不謗」者，此頌顯示信圓滿故，於能誹謗見大罪故，學得清淨。

> 「仏とその弟子たちの威徳ある教えを、すべて受け入れ信じ、大きな罪を見極めて謗らない」というこの偈は、信が完全であることを示しています。なぜなら、誹謗することに大きな罪があると見なすからこそ、学びは清らかになるのです。

「於極甚深法，不可思度處，能捨舊師宗，不堅執自見」者，此頌顯示遠離安住自見取故，清淨殊勝。

> 「極めて深い法、思い計ることのできない境地において、古い師の教えや自分の見解に固執せず、それを捨てることができる」というこの偈は、自らの見解に執着して安住することを遠ざけるゆえに、清らかで殊勝であることを示している。

「常樂居遠離，及邊際臥具，恒修習善法，堅精進勇猛」者，此頌顯示若身若心皆遠離故；習近順定諸臥具故；遠離一切不善尋思，純修白淨諸善法故；非沈掉等諸隨煩惱所摧蔽故；能善圓滿正加行故；增上心學方便殊勝。

> 「常に遠離に安住し、辺地（人里離れた場所）を寝床とし、常に善い行いを修め、堅固に勇猛精進する」とは、この偈は、身体も心もともに遠離にあること、禅定に適した寝床を慣れ親しむこと、あらゆる不善の思考を遠ざけ、ひたすら清らかな善い行いを修めること、心の沈滞や散乱などの煩悩に覆われないこと、正しい実践を完全に成就することによって、増上心学（心を高める修行）の方法が特に優れていることを示しています。

「無有欲、生欲，不憎惡、憎惡，離睡眠、睡眠，時不居寂靜，離惡作、惡作，無希慮、希慮；一切種恒時，成就正方便」者，此二頌中，顯示遠離貪欲、瞋恚、惛沈睡眠、掉舉惡作，及疑蓋故；於諸善法生起欲故；於諸欲中極憎厭故；為修善品方便加行有所堪任，及心安靜，於時時間習睡眠故；若心沈沒或慮彼生，於淨妙相思惟作意，及遊行時不居靜故；於先所犯，便生憂悔，於所不犯無憂悔故；後後殊勝生希慮故；殷重、無間正方便故；增上心學轉得清淨。

> 「欲を起こすことなく、欲を起こし、憎むことなく、憎み、睡眠を離れ、睡眠し、時に寂静に留まらず、悪作を離れ、悪作し、希慮なく、希慮する。一切の種において恒に、正しい方便を成就する」——この二つの偈では、貪欲・瞋恚・昏沈睡眠・掉挙悪作及び疑の五つの蓋から遠ざかること、諸々の善法に欲を生じること、諸々の欲に極めて厭うこと、善を修めるための方便・加行に堪えうること、そして心の安らぎ・寂静を得るために時々に睡眠を習うこと、心が沈みがちになったりそれを予感する時は、清らかな対象を思惟・作意し、また歩行の時に寂静に留まらないこと、過去の犯した過ちには憂い悔いを生じ、犯さないことには憂い悔いがないこと、さらに後後の勝れた境地に希求・思慮を生じること、そして殷重・無間の正しい方便によって、増上心学が清らかになることを示している。

「引發、與覺悟、及和合所結、有相、若親昵、亦多種喜樂、侵逼、極親昵，名虛妄分別；能生於欲貪，智者當遠離」者，此二頌中，顯示八種虛妄分別，能生婬欲所有貪愛。從初方便次第生起，乃至究竟。由遠離故，諸所修學清淨殊勝。引發分別者，謂能引發於可愛事、不正思惟相應之心所有分別。覺悟分別者，謂即於彼可愛事中，覺悟貪纏相應分別。和合所結分別者，謂即於彼可愛事中所有分別。有相分別者，謂即於彼可愛事中，執取種種淨妙相狀所有分別。親昵分別者，謂於已得所愛事中，勇勵相應所有分別。喜樂分別者，謂即於彼所得事中，種種受用悕慕愛樂種種門轉所有分別。侵逼分別者，謂兩根會時所有分別。極親昵分別者，謂不淨出時所有分別。

> 「発起、覚悟、和合によって結ばれること、形相あり、親しむこと、さらには多種の喜び楽しみ、侵逼、極めて親しむこと、これを虚妄分別と名づける。欲望の貪りを生じさせるゆえ、智者のもと離れるべきである」とは、この二つの偈において、八種の虚妄分別が婬欲の貪愛を生じさせることを示している。最初の方便から次第に生じ起こり、ついには究極に至る。これを遠ざけることにより、諸々の修学は清浄で殊勝となる。 発起分別とは、愛すべき事に対して、不正な思惟と相応する心のはたらきである分別を発起させるものをいう。 覚悟分別とは、その愛すべき事において、貪りの煩悩に束縛されることと相応する分別を覚知するものをいう。 和合所結分別とは、その愛すべき事における、すべての分別をいう。 有相分別とは、その愛すべき事において、様々な清らかで美しい形相を執り捉える分別をいう。 親昵分別とは、すでに得た愛すべき事において、勇んで励むことと相応する分別をいう。 喜楽分別とは、その得た事において、様々に受用し、憧れ慕い楽しむことが、様々な方面に転じる分別をいう。 侵逼分別とは、男女の根が合う時の分別をいう。 極親昵分別とは、不浄なものが出る時の分別をいう。

「諸欲、令無飽，眾多所共有，是非法因緣，能增長貪愛，賢聖所應離，速趣於壞滅，仗託於眾緣，危逸所依地」者，此二頌中，顯示八種現法後法如其所應諸欲過患。若能觀見，即是斷除欲愛方便。

> 「欲望は、決して満たされることがなく、多くの者が共有しているもの。これは正しからざる因縁であり、貪りの愛執を増長させる。賢者・聖者は、これを速やかに捨て去るべきである。それは壊れ滅びるものに過ぎず、様々な縁に依存し、危険で安逸な場所に過ぎない」――この二つの偈では、現在世・未来世における八つの欲望の過患を、それぞれに応じて示している。もしこれを正しく観察することができれば、それが欲望への愛執を断ち切るための方便となるのである。

「諸欲、如枯骨，亦如軟肉段，如草炬相似，猶如大火坑。譬如蟒毒蛇，亦如夢所見，如借莊嚴具，如樹端熟果。如是知諸欲，都不應耽樂」者，此中廣引如前所說令無飽等，於諸欲中八種過患，一切世間共成譬喻，顯示諸欲過患深重。又為顯示於諸欲中具有如是眾多過患，分明可了，何有智者於彼耽樂。又彼諸欲如枯骨故，令無飽滿；如段肉故，眾多共有；猶如草炬，正起現前極燒惱故，非法因緣；如大火坑，生渴愛故，增長貪愛；如蟒毒故，賢聖遠離；如夢見故，速趣壞滅；猶如假借莊嚴具故，仗託眾緣；猶如樹端爛熟果故，危亡放逸所依之地。

> 欲望は、枯れ骨のようなものであり、また柔らかな肉片のようなものである。草で作られた松明のようであり、大きな火の穴のようでもある。例えば、毒蛇のようであり、また夢に見るもののようであり、借り物の装飾品のようであり、木の先端に実った熟した果実のようである。このように欲望について知るならば、いずれも楽しむべきではない」とある。 ここでは、先に述べたような「飽くことを知らない」等の、欲望に関する八つの過患が、世間一般に共通する喩えを用いて広く示され、欲望の過患が深く重いことが明らかにされている。また、欲望にはこれほど多くの過患が明らかに認められるのであれば、いったいどのような知者があえてそれを楽しむだろうか、ということも示されている。 さらに、それらの欲望は、枯れ骨のようなものであるから、満たされることがなく、肉片のようなものであるから、多くの者が共有するものとなる。草の松明のようなものであるから、現に目の前に生じれば、非常に焼き悩まされるため、正しい法の原因とはならない。大きな火の穴のようなものであるから、渇愛を生じさせ、貪愛を増長させる。毒蛇のようなものであるから、聖者は遠ざかる。夢に見るもののようなものであるから、急速に壊れ滅びる。借り物の装飾品のようなものであるから、様々な縁に依存している。木の先端に熟れた果実のようなものであるから、危険と放逸のよりどころとなるのである。

「當聽聞正法，常思惟、修習，先觀見麁靜，次於修一向，捨煩惱麁重，於斷生欣樂，於諸相觀察，得加行究竟，能離欲界欲，及離色界欲，入真諦現觀，能離一切欲，證現法涅槃，及餘依永盡」者，此中顯示由了相等七種作意，世出世道皆清淨故；證得有餘及無餘依二涅槃果，增上慧學究竟清淨。聽聞正法，常思惟言，顯示了相作意。常修習言，顯示勝解作意。由起勝解而修習故。先觀見麁靜言，顯示遠離作意。於修習一向等言，顯示攝樂作意。於諸相觀察言，顯示觀察作意。加行究竟言，顯示加行究竟作意。能離欲界欲，及離色界欲，入真諦現觀，能離一切欲等言，顯示世間、出世間加行究竟果作意。

> 「正しい教えを聴聞し、常に考え、修習し、まず粗いものと静かなものを見極め、次にひたすら修めて、煩悩の重荷を捨て、断つことに喜びを生じ、様々な相を観察し、修行を究めて、欲界の欲を離れ、色界の欲をも離れ、真実の真理を現観し、一切の欲を離れ、現世における涅槃を証し、さらに残りの基盤を永遠に尽くす」という言葉は、ここでは、了相などの七種の作意によって、世間道と出世間道の両方が清らかになること、そして有余涅槃と無余涅槃の二つの涅槃の果報を得て、勝れた智慧の学が究極的に清らかになることを示しています。 「正しい教えを聴聞し、常に考え」という言葉は、了相作意を示しています。 「常に修習する」という言葉は、勝解作意を示しています。勝解を起こして修習するからです。 「まず粗いものと静かなものを見極める」という言葉は、遠離作意を示しています。 「次にひたすら修めて」などの言葉は、摂楽作意を示しています。 「様々な相を観察する」という言葉は、観察作意を示しています。 「修行を究める」という言葉は、加行究竟作意を示しています。 「欲界の欲を離れ、色界の欲をも離れ、真実の真理を現観し、一切の欲を離れる」などの言葉は、世間・出世間の加行究竟果作意を示しています。