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title: "瑜伽師地論 · 1"
description: "瑜伽师地论是佛教大乘瑜伽行派的重要经典，相传由弥勒菩萨口述，无著菩萨记录，唐代高僧玄奘于贞观年间从印度取回并译成汉文。该论共100卷，系统阐述瑜伽行派的教义，内容包括十七地、三性、八识、修行次第等核心理论，被誉为大乘佛教的百科全书。作为唯识学的根本论典，瑜伽师地论奠定了唯识学派的理论基础，对汉传佛教和藏传佛教影响深远，在佛教思想史上具有崇高地位，是研究唯识学和瑜伽行派必读的经典著作。"
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已釋意趣義聖教伽他。今當建立體義伽他。如頌言：

> 意趣の意義を説く聖教の偈はすでに解き明かしました。 では次に、体の意義を説く偈を立てましょう。 その偈とは、次のように説かれています。

於身語意諸所有 一切世間惡莫作，由念正知、離諸欲， 勿親能引無義苦。

> 身体と言葉と心における、世間のあらゆる悪しき行いをしてはならない。 mindful（念）と正しい理解によって、あらゆる欲望から離れ、 無意味な苦しみを招くものに近づいてはならない。

今此頌中，所言惡者，謂諸惡行。於一切種、一切因緣、一切處所所有惡行。皆不應作。

> この偈の中で言う「悪」とは、あらゆる悪い行いを指します。あらゆる種類、あらゆる原因、あらゆる場面における悪い行いは、すべて行ってはいけません。

云何於一切種不作惡耶？謂由身語意不造眾惡故。

云何於一切因緣不作惡耶？謂由貪瞋癡所生諸惡終不造作故。

> どのようにして、あらゆる因縁のもとで悪をなさずにいられるのか。それは、貪り・怒り・無知から生じるさまざまな悪を、決して行わないからである。

云何於一切處所不作惡耶？謂依有情事處及非有情事處不造眾惡故。

> どのようにすれば、あらゆる場面で悪をなさずにいられるのでしょうか。それは、命あるものに関すること、そして命なきものに関することの両方において、あらゆる悪を起こさないことによって実現されます。

云何由念正知遠離諸欲？謂斷事欲及斷煩惱欲故。

> どのようにして「念」と「正知」によって、あらゆる欲望から遠ざかるのか。それは、物事への欲望を断ち切り、煩悩に基づく欲望を断ち切ることによる。

云何斷事欲？謂如有一，於如來所證正法毘柰耶中得清淨信，了知居家迫迮，猶如牢獄，思求出離，廣說乃至由正信心，捨離家法，趣入非家，然於欲貪猶未永離。如是名為斷除事欲。

> どのようにして事欲を断つのか。例えば、ある人が如来の説かれた正しい教えと戒律に対して清らかな信心を得て、家庭生活が牢獄のように狭苦しいものであると知り、そこからの出離を願い求める。詳細に述べれば、正しい信心によって家での生活を捨て去り、家のない状態へと進むのである。しかし、それでもなお、欲に対する貪りが完全に永遠に離れることはない。このようなことを、事欲を断つというのである。

云何斷煩惱欲？謂彼既出家已，為令欲貪無餘斷故，往趣曠野山林，安居邊際臥具，或住阿練若處，乃至或在空閑靜室。於諸事欲所起一切煩惱欲攝妄分別貪，為對治故，修四念住。或復還出，依近聚落、村邑而住，善護其身、善守諸根、善住正念而入聚落。或復村邑遊行旋反，去來進止恒住正知，為解睡眠及諸勞倦。彼即於是四念住中，善安正念為依止故；為欲永斷欲貪隨眠，修習對治。

> \### 煩悩の欲望を断つにはどうすればよいか 出家した者は、欲望への執着（欲貪）を残らず断ち切るため、荒野や山林へと向かい、辺境の地で寝具を備え、あるいは阿蘭若（あらにゃ；閑静な修行の場）に住み、さらには静かな空き部屋にこもる。そこで、様々な事柄に対する欲望から生じる、あらゆる煩悩に属する誤った分別（妄分別）の欲望に対処するため、四念住（四つの心の落ち着け所）を修める。 あるいは再び、村や町の近くに戻り住み、身をよく守り、諸々の感覚器官（根）をしっかりと守り、正しい念（正念）を保ちながら、村や町へと入る。また、村や町を歩き回り、行き来し、立ち止まるすべての動作において、常に正しい気づき（正知）を保ち、眠気や疲れを解消する。 こうして、四念住の修練において、正しい念をしっかりと基盤として保つことにより、欲望への執着という潜在的傾向（欲貪随眠）を永遠に断つための対治法を修めるのである。

又即以彼正知而住為依止故，遠離諸蓋，身心調暢，有所堪能，熾然方便修斷寂靜。彼由如是念及正知為依止故，便能證得煩惱欲斷，遠離諸欲，乃至於初靜慮具足而住。如是能於受用欲樂行邊，劣、鄙、穢性諸異生法、若斷若知。

> また、その正しい知恵に基づいて住むことをよりどころとするから、さまざまな心の覆い（五蓋）から遠く離れ、心身が調い、よく働く力を備え、盛んに努力をして、静けさを修め断つのです。彼は、このように気づき（念）と正しい知恵をよりどころとすることで、煩悩の欲を断ち切り、あらゆる欲望から離れ、やがて初禅に至って完全に安住します。こうして、欲望に楽しみを求める生き方という、劣った、卑しい、汚れた性質を持つ凡夫の境地を、断ち切り、また知り尽くすのです。

何等名為引無義苦？謂如有一，若諸沙門或婆羅門，行自苦行，於現法中，以種種苦自逼自切，周遍燒惱。自謂我今由現法苦所逼惱故，解脫當苦。雖求是事而自煎逼，彼於此事終不能得，然更招集大損惱事。如是名為引無義苦。諸聖弟子，能於如是受用自苦行邊能引非聖無義苦法善了知已，遠而避之，不親、不近、亦不承事。

復次，今當略辯上所說義。云何略辯？謂諸有情有二種滿。一、增上生滿，二、決定勝滿。增上生滿者，謂往善趣。決定勝滿者，謂愛盡、離欲、寂滅、涅槃。於此二滿及與障礙，能斷能證，是名略義。

> さらに、ここで今述べた意味を簡潔に明らかにしましょう。「簡潔に明らかにする」とはどういうことでしょうか。それは、すべての生きとし生けるものに二つの「完成」があるということです。 第一に「増上生の完成」とは、より良い世界に生まれることです。 第二に「決定勝の完成」とは、煩わしい執着が尽き、欲望から離れ、静けさに落ち着き、悟りの境地に至ることです。 この二つの完成と、それを妨げる障りを断ち切り、完成を証得すること、これが簡潔にまとめた意味なのです。

若於一切種、一切因緣、一切處所不作惡行，彼便能斷增上生滿所有障礙，亦能證得增上生滿。若於受用欲樂行邊及於受用自苦行邊決定遠離，彼便能斷決定勝滿所有障礙，亦能證得決定勝滿。當知是名此中略義。

> あらゆる種類のもの、あらゆる原因や条件、あらゆる場面において、悪い行いをしないならば、その人はより良い生まれを得て満たされるためのすべての障りを断ち切ることができ、より良い生まれを得て満たされることも悟ることができます。また、欲望の楽しみにふける生き方と、自分の体を苦しめる厳しい修行の生き方の両方をしっかりと離れるならば、その人は確かな悟りを得て満たされるためのすべての障りを断ち切ることができ、確かな悟りを得て満たされることも悟ることができます。これがここでの教えの概要であると知るべきです。

應說想眾生， 依應說安住；不了知應說， 而招集生死。若了知應說， 於說者無慮；由無有此故， 他不應譏論。若計等勝劣， 彼遂興諍論；於三種無動， 等勝劣皆無。斷名色愛慢、 無著、煙寂靜、無惱悕、不見 此彼天人世。

> 「応説（おうせつ）」を想い、衆生（しゅじょう）は 応説に安住（あんじゅう）すべきである。 応説を了知（りょうち）せずして、 生死（しょうじ）を招き集める。 もし応説を了知すれば、 説く者について何も憂うことはない。 このことによって、 他者が非難したり論じたりすることはない。 もし「等しい・優れている・劣っている」と計れば、 そのために争いが生じる。 三つのもの（等・勝・劣）に動かされなければ、 等しいも優れているも劣っているもすべて無い。 名と色（にちしき）と愛（あい）と慢（まん）を断ち、 執着なく、煙（けむり）が静まったように、 悩みもなく、願望もなく、 この世・あの世・天・人において見ることはない。

此四頌中，初言應說者，謂一切有為法。所以者何？諸有為法，皆三種言事之所攝故。

> この四つの偈の中で、最初に「語るべきもの」と言われているのは、すべての「縁起して生じるもの」（有為法）を指します。なぜなら、あらゆる縁起して生じるものは、すべて三種類の言葉や事柄（三世にわたる語りと行為）に含まれるからです。

今此義中，說妙五欲以為應說。

> この教えの真意においては、優れた五つの欲望について、まさに説くべきこととして示されている。

又妙五欲，諸餘沙門、婆羅門等，從施主邊以言求索，故名應說。

> また、優れた五つの欲望について、他の沙門や婆羅門などが施主から言葉で求めることから、「応説」と呼ばれます。

又諸君主於妙五欲，從僕使等，以言呼召而受用之；由是因緣，亦名應說。

> また、王たちは優れた五つの欲望について、召使いたちを言葉で呼び寄せて享受します。そのような因縁から、「応説」とも呼ばれます。

又諸受欲者，於妙五欲不能自然善知過患，惟除諸佛及佛弟子，為其宣說彼過患已，乃能了知；由是因緣，亦名應說。諸受欲者，於諸欲中不正思惟，而取其相，亦取隨好，即於彼欲便生愛染，受用耽嗜，乃至堅著。又於諸欲不如實知有眾過患。所謂諸欲無常、虛、偽、空無有實，敗壞之法、猶如幻事誑惑愚夫，甚少愛味，多諸過患。亦不如實了知如是少味多患諸欲出離。所謂於彼欲貪調伏，乃至超越，是其出離。彼既如是不見過患、不知出離而受諸欲；由是因緣，便於欲界生為根本所有諸行深起樂著。

> また、欲を享受する者たちは、五つのすぐれた欲望の対象について、自らその過ちを正しく知ることができない。ただ、諸仏や仏の弟子たちだけが、彼らにその過ちを説き示した後、ようやく理解することができる。このような理由から、これは「説くべきもの」とも呼ばれる。 欲を享受する者たちは、様々な欲について正しく考えず、その表象を捉え、またその微細な印象も捉える。そして、その欲に対して愛着を生じ、それを享受し耽溺し、ついには固く執着するに至る。 さらに、彼らは諸々の欲について、多くの過ちがあることをありのままに知らない。すなわち、諸々の欲は無常であり、虚ろであり、偽りであり、空であり実体がなく、壊れゆく性質を持つものであり、幻のようなもので愚かな人々を欺くものであり、享受する喜びはごくわずかで、多くの過ちがあるということを。 また、このようにわずかな喜びと多くの過ちを持つ諸々の欲からの出離についても、ありのままに理解していない。すなわち、その欲への貪りを調伏し、それを超えていくことこそが、その出離であるということを。 彼らはこのように、過ちを見ず、出離を知らずに諸々の欲を受ける。このような理由から、欲界における生存を根本とする、すべての形成されたもの（行）に対して深く楽着を起こすのである。

又復造作生為根本所有業已，受欲界生，生已死滅，生已殞歿。如是故言：應說想眾生，依應說安住；不了知應說，而招集生死。

> また、生存そのものを根本として行われるすべての行為をなした後、欲界に生まれます。生まれては滅し、生まれては失われていきます。このようにして、次のように説かれています。「想（イメージ）の衆生は、言葉（説かれたもの）に依存して安住する。言葉（説かれたもの）を正しく理解しないために、生死を繰り返し集めるのである。」と。

若遇善士，得聞正法，如理作意，則於諸欲如實了知過患出離。所謂諸欲無常、虛、偽，廣說乃至欲貪超越。彼於如來所證正法毘奈耶中得清淨信，便於諸欲深見過患轉復增勝；遂能捨離若少若多財寶、庫藏、眷屬、遊從，以正信心，捨離家法，趣於非家。所謂一切生老病死皆悉永滅。如是出家，無所願求修行梵行。謂我由此持戒精進修梵行故，當得生天，或異天處。彼無如是邪祈願故，於己不見、不恐不慮他所譏論。謂他不應如是譏論、怨尤、呵責，告言：賢首！汝今何為成就盛年，捨現妙欲，不隨親戚之所願樂，而更悕求待時諸欲，誓修梵行耶？如是故言：若了知應說，於說者無慮；由無有此故，他不應譏論。

> 善き人と出会い、正しい教えを聞き、理にかなった心構えを持てば、欲望に対してその過ちとそこからの離脱をありのままに知ることができます。すなわち、欲望は無常であり、虚ろで偽りであり、さらには欲望への執着を超えるべきものであると広く説かれています。その人は如来の悟った正しい教えと戒律において清らかな信仰を得て、欲望の害を深く見極め、その見識はさらに強まります。そして、多くの財宝や倉庫の財産、家族や従者を多少にかかわらず捨て去り、確かな信心を持って家の生活を離れ、出家の道に入ります。これは、生・老・病・死がすべて永遠に滅びることを意味します。こうして出家した者は、何も願い求めることなく清净な修行を行います。すなわち、「私はこの戒律を守り、精進し、清净な修行を行うことによって、天界や他の場所に生まれ変わろう」とは思いません。そのような誤った祈願がないため、自分自身に対して他人からの非難を恐れたり心配したりしません。つまり、他人が次のように非難したり恨んだり責めたりすることはないのです。「尊い方よ、なぜあなたは若い盛りに現在の素晴らしい欲望を捨て、親戚の願いに従わず、将来の欲望を待ち望んで清净な修行をすると誓うのですか？」と言われることはありません。このように、教えを理解すべき者は、説く者について心配する必要はなく、その心配がないからこそ、他人から非難されることもないのです。

此即成就清淨尸羅及清淨見。何以故？由見顛倒，發起於慢；慢所持故，與餘沙門、婆羅門等共興諍論。由此因緣，說如是見為諍根本。若有沙門、或婆羅門，依等勝劣諍根本見，心現高舉；由此因緣，遂與餘沙門、婆羅門等遞相諍論。依止我勝、我等、我劣三種慢類，立己為勝、或等、或劣。若聖弟子，非我、我所、我慢所動，乃至亦非我當非有想非無想所動；了知諸行皆眾緣生，於諸行中惟見法性，尚不以己校量於他為勝等劣，況起見慢而興諍論。彼聖弟子，雖於他所顯揚自宗，摧伏他論；然於諸法，惟為法性緣於慈悲。謂當云何若有於我所說妙義一句領解，如是如是正修行者，令彼長夜獲得大義利益安樂，亦令如來正法久住。不依見慢及為利養恭敬因緣，而興諍論。如是不為悕求現法諸妙欲故，誓修梵行。彼由如是修梵行故，遠離邪願及諸邪見，棄捨貪求利養恭敬，於一切種皆得清淨。暉光熾然，無不普燭；諸天世人惟當讚美，不應譏論。又能超度生老病死。如是故言：若計勝等劣，彼遂興諍論；於三種無動，等勝劣皆無。

> これが清らかな戒律と清らかな見解を成就する道である。なぜか。誤った見解によって慢心が生じ、その慢心に支配されることで、他の修行者や聖者たちと争いを起こすからである。それゆえ、このような見解を争いの根源と説くのである。 もし修行者や聖者が、「我は勝れている」「我は同等である」「我は劣っている」という三種の慢心に基づき、自らを勝・等・劣と位置づけて争うならば、それは争いの根本となる見解に依っているのである。 しかし聖なる弟子は、「我」や「我所」や「我慢」に動かされることなく、「我は非有想非無想である」という考えにも動かされない。諸々の行いは全て縁によって生じることを知り、諸行の中にただ法性のみを見る。ましてや自らを他と比較して勝・等・劣とすることはなく、見解や慢心を起こして争うことなどありえない。 その聖なる弟子は、他者に対して自らの教えを明かし、他者の論を打ち破ることがあっても、法のため、慈悲のためにのみそれを行う。すなわち、「もし私の説く妙なる義を一句でも理解し、そのように正しく修行する者があれば、その者を長き夜にわたって大いなる義・利益・安楽を得させ、また如来の正法を長く世に存続させたい」と願うのである。見解や慢心に基づき、利益や供養や尊敬のために争いを起こすことはない。 このように、現世のさまざまな妙なる欲のために梵行を誓うのではない。かくして梵行を修めることにより、邪な願いや邪見から遠ざかり、利益や供養や尊敬を求める心を捨て、あらゆる面で清らかとなる。その光は燦然と輝き、遍く照らさぬところなく、天人はもとより世の人々もただ称賛し、非難することはないであろう。また、生・老・病・死を超えることができる。 それゆえにこう言うのである。「もし勝・等・劣を計るならば、彼は争いを起こす。三種に動かされなければ、勝・等・劣はすべて無い」と。

言名色者，謂五取蘊。若有於彼觀見為苦，當諦現觀於五取蘊盡見苦時，於五取蘊所有貪愛，由意樂故皆說為斷，非隨眠故。彼若即如己所得道轉更修習；於其我慢無餘斷滅，成阿羅漢，諸漏永盡。由已證得阿羅漢果，心善解脫，便於自身、自身眾具、纏及隨眠皆悉永斷，離愛、離憍、離諸放逸。彼由如是離愛、離憍、離放逸故，名煙寂靜。無有燒惱，亦無悕望。云何名為煙寂靜耶？煙名為愛。何以故？如世間煙，是火前相，能損眼根，便為擾亂，令不安住。愛亦如是，是貪瞋癡火之前相，能損慧眼，亂心相續。謂能引發無義尋思。彼於此愛，已斷已知，乃至令其於當來世成不生法，名煙寂靜。彼既如是煙靜離著，雖復追求命緣眾具，非不追求；然能解脫貪愛追求，所求無染。云何無惱？謂彼如是現追求時，若他自施，或勸餘施，施時殷重非不殷重，精而非麁，多而非少，速而非緩，然不愛味。於所得物無染受用，不生耽吝乃至堅著。如是受用命資具時，不為貪惱之所燒惱。若彼施主自不能施，或障餘施，設有所施，現不殷重，不現殷重，乃至遲緩而不急速，然不嫌恨。由此因緣，不生恚惱。又於受用所得物時，不慼不念，無損害心及瞋恚心。如是不為瞋惱所惱。又於所得若精若麁，於受用時，深見過患，善知出離，安住正念，遠離愚癡。如是不為癡惱所惱。云何無悕？悕名悕望，繫心有在。彼不擎鼻內懷貪願，往趣居家。謂剎帝利大宗葉家，或婆羅門、長者、居士大宗葉家。我當從彼獲得上妙應所噉食，乃至財寶、衣服、餚膳、諸坐臥具、病緣醫藥供身什物。如是追求及與受用，於此財物都無悕望。又彼恒常安住死想。謂過夜分入晝分中，復過晝分還入夜分，於其中間我有無量應死因緣，如經廣說。所謂發風，乃至非人之所恐怖。由此因緣，所為追求、所為受用所有財物，於此壽命亦無悕望。如是無著、煙寂靜、無燒惱、無悕望故，於此天人、帝釋、自在、世主天等所有因中都不可見。於彼天人諸因果中，亦不可見。又於此四洲天人世間，及彼餘處都不可見。又於此世界天人世間，及彼餘處都不可見。如是故言：斷名色愛慢、無著、煙寂靜、無惱悕、不見此彼天人世。

> 「名色」とは、五取蘊（五つの執着の対象となる要素の集まり）のことです。 もし人が、その五取蘊を「苦しみ」であると観察し、正しく見通すならば、五取蘊の苦しみをありのままに知るとき、その五取蘊に対する執着の愛（貪愛）は、その心の向かう方向（意楽）において断たれたと説かれます。しかし、潜在的な煩悩の傾向（随眠）そのものが完全に断たれたわけではありません。 その後、その人が自ら得た道（修行の道）に従ってさらに修行を重ねると、ついには「我慢（自己中心的な思い上がり）」が余すことなく断ち滅ぼされ、阿羅漢（完全に悟った聖者）となり、あらゆる煩悩（漏）が永遠に尽きます。 阿羅漢の果実を証得し、心が完全に解脱したならば、その人は自らの身体、身体に関するあらゆる道具や品々、さらに表面に現れる煩悩（纏）と潜在的な煩悩（随眠）のすべてを永遠に断ち切ります。そして、愛執から離れ、高ぶりから離れ、すべての放逸（心のたるみ）から離れます。 このように、愛執・高ぶり・放逸から離れたことによって、その人は「煙の寂静（静けさ）」と呼ばれる状態に達します。そこには、煩わしく焼き焦がすようなものもなく、また何かを「望む（願う）」こともありません。 では、何が「煙の寂静」と呼ばれるのでしょうか。「煙」とは、「愛執（むさぼりの心）」を意味します。なぜなら、世間の煙が火の前兆であり、眼の機能を損ない、心を混乱させて安らぎを奪うように、愛執もまた、貪り・怒り・無知という火の前兆であり、智慧の眼を損ない、心の連続を乱すからです。さらに、無意味な虚妄の思考（無義尋思）を引き起こすとも言われます。 その修行者は、この愛執を既に断ち、完全に知り尽くし、未来世において再び生じることがない状態（不生法）に至っているため、「煙の寂静」と呼ばれるのです。 このように、その人は煙（愛執）が静まり、執着から離れています。それでも、命を支えるための必要な道具や品々を求めることを全くしないわけではありません。しかし、その追求には貪りの愛執が絡まず、求めるものに対しても汚れがありません。 では、「煩わしさがない」とは、どういうことでしょうか。 例えば、彼がものを求めるとき、もし施主が自ら施したり、他の人に勧めて施させたりする場合、その施しが丁寧であればもちろん、そうでなくても、品物が上等であれ粗末であれ、多くても少なくても、早くても遅くても、彼はその味わい（美味）に執着しません。得たものに汚れた心で受け取らず、むしろ惜しんだり固執したりすることもありません。このように命の道具を受用するとき、貪りの煩わしさ（貪悩）に焼き焦がされることはありません。 また、もし施主が自ら施すことができず、あるいは他の人の施しを妨げ、たとえ施しがあっても、それが丁寧でなかったり、品が粗かったり、遅かったりしても、彼はそれに対して恨んだり嫌ったりしません。このため、怒りの煩わしさ（瞋悩）も生じません。 さらに、得たものが上等か粗末かに関わらず、それを受用するとき、その過患を深く見抜き、そこから脱する道をよく知り、正しい念（正念）を保ち、無知（愚癡）から遠く離れています。このように、無知による煩わしさ（癡悩）にも悩まされることはありません。 では、「望みがない」とは、どういうことでしょうか。 「望み（悕）」とは、何かを願い、心をそこに結びつけることを言います。 その阿羅漢は、鼻を高くして（意気込んで）「あの高貴な家柄の家から、素晴らしい食べ物や財宝、衣服、美味しい料理、寝具、薬、生活用具を得よう」などと、貪りの願いを内に抱いて在家の家々を訪ね歩くようなことはしません。つまり、王族（刹帝利）の大邸宅や、バラモン、長者、在家の有力者の家に対してです。彼は、そのようなものの追求や受用において、財物に対してまったく望み（執着した願望）を持ちません。 また、彼は常に「死」という観念（死想）に安住しています。すなわち、夜が明けて昼になり、昼が過ぎて夜になるその間に、自分には無数の死因が存在することを、経典に広く説かれている通りに理解しています。例えば、風の病や、さらには人間以外のもの（非人）による恐怖などです。そのような理解により、追求されるものも、受用される財物も、さらにはこの命そのものに対しても、執着した望みを持ちません。 このように、執着がなく、煙（愛執）が静まり、煩わしい焼き焦がしがなく、望みがないことから、その阿羅漢は、天人の世界、帝釈天、自在天、世主天などのあらゆる因（原因や条件）の中にも、その姿は見出せません。それらの天人の因と果（因果関係）の中にも見出せません。さらに、この四洲の天人の世界や、そこ以外のどこにも、その姿は見出せません。ここにいう「またこの世界の天人の世間や、その他あらゆる場所にも、その姿は見られない」という意味です。 このように、『名色（五取蘊）への愛執と我慢を断ち、無執着で、煙の寂静に達し、煩わしさと望みがなく、この世とあの世の天人にもその姿は見られない』と説かれるのです。

復次，初頌顯示待時諸欲，於欲邪行及邪行果。

> 次に、最初の偈は、時に応じて生じる様々な欲求と、欲に対する誤った行い、そしてその誤った行いの結果について示しています。

第二頌中，顯示捨欲應正道理，淨修梵行仍被譏論不應道理，及待時欲。如第二頌，第三亦爾。

> 第二の偈では、欲を捨てるべき正しい道理を示し、清らかな修行（梵行）をしていても非難されるのは道理に合わないこと、また、将来の欲を待つことについて述べられています。第二の偈と同様に、第三の偈もまた同じ内容です。

第四頌中，世尊顯示現所證法永離熾燃，乃至智者內自所證。

> 第四偈において、世尊は、今まさに悟られた法が永遠に煩悩の炎を離れていることを示されました。 そして、それは賢者が自らの内に自ら証するものである、と。

又初頌中，宣說諸欲是應說相，顯待時欲。由彼諸欲，非纔須時即便稱遂；要以言說為先，然後追求受用。又顯於彼由想安住不了知故，起於邪行，及招生死邪行果報。

> また、最初の偈頌では、諸々の欲望を「言葉による説明が必要なもの」と説き、時を待つ欲望であることを示しています。なぜなら、それらの欲望は、ただ欲しいと思っただけではすぐに満たされるものではなく、まず言葉による表明があってから、その後追い求め、享受するからです。 また、それらの欲望に対して、想いにとどまり正しく知らないことから、誤った行為を起こし、生死の誤った行為の果報を招くことを示しています。

第二頌中，顯於諸欲能了知故，離邪願故，修梵行故，離邪見故，離見根本我慢種故，遠離耽著利養恭敬故，棄捨諸欲應正道理。由此因緣，他所譏論不應道理。又顯諸欲是待時性。所以者何？若於先世不作福者，今雖用功，於所樂欲不能果遂。或惟今世造作福者，即於此時，其所樂欲亦不諧偶。由此因緣，後方成辦，所以諸欲名曰待時。

> 第二の偈では、欲望について正しく理解していること、誤った願いから離れていること、清らかな行いを実践していること、誤った見解から離れていること、誤った見解の根本である自己への執着（我慢）の種から離れていること、利得や供養への執着から遠く離れていること、そして欲望を正しい道理に従って捨てていることを明らかにしています。したがって、他者から非難されるのは道理に合いません。 また、欲望は「時を待つ性質」のものであると示されています。なぜなら、過去世において善い行い（福）を積んでいない者は、現世で努力しても、望む欲望を叶えることができないからです。あるいは、現世でのみ善い行いを積もうとしても、その時点では望みが叶わないこともあります。これらの理由から、後に縁が整って初めて成就するため、欲望は「時を待つ」と言われるのです。

第四頌中，顯示見斷煩惱斷故，即於現在證初沙門及沙門果；又修所斷煩惱斷故，即於現在證後沙門及沙門果。斷貪愛故，斷我慢故，如是顯示現所證法。又離著故，煙寂靜故，顯示永離熾燃、乃至智者自內所證。彼得如是內所證法，云何令他當得了知？由無燒惱、無所悕望相所表故。此中前三頌，顯示世尊為諸天說，苾芻不能顯揚如來聖教大義，而我獨能。說是語時，彼既領悟，於苾芻所生陵蔑心及於自身心生憍慢皆得除滅。第四頌中，廣顯如來聖教大義。

> 第四の偈では、見惑（けんわく）が断たれることで煩悩が断たれることを示し、それによって現世において第一の沙門（しゃもん）およびその果（沙門果）を証得（しょうとく）することを明かしています。また、修惑（しゅわく）が断たれることで煩悩が断たれることにより、現世においてその後の沙門および沙門果を証得することも示されています。貪愛（とんあい）を断ち、我慢（がまん）を断つことによって、現に証得される法（教え）が示されています。さらに、執着を離れ、煙（煩悩の煙）が静まった状態によって、永遠に熾燃（しぜん：煩悩の燃え盛り）を離れること、そして智慧ある者が自ら内に証得することを示しています。そのように内に証得した法を、どのようにして他の者に知らせることができるのでしょうか。それは、苦しみや熱悩（ねつのう）がなく、何も望むところがない様子によって示されます。このうち最初の三つの偈は、世尊が天（てん）の者たちに説かれたことを示しており、比丘（びく）たちが如来の聖教の大義を顕揚（けんよう）できないのに、私（釈尊）だけがそれができると語られたものです。この言葉を聞いた天の者たちは悟りを得て、比丘たちに対して抱いていた軽蔑（けいべつ）の心や、自分自身に対する驕り（おごり）の心がすべて除かれました。そして第四の偈では、如来の聖教の大義が広く示されています。

欲貪所摧蔽， 我心遍燒然。惟大仙哀愍， 為說令寂靜。由汝想顛倒， 令心遍燒燃；是故常遠離 引貪淨妙相。汝當修不淨， 常定於一境；為貪火速滅， 數數應澆灌。觀非妙諸行， 為苦，為無我；亦繫念於身， 多修習厭離。修習於無相， 壞慢及隨眠。由於慢現觀， 當證苦邊際。

> 欲望と執着に打ちのめされ、 私の心はすっかり燃え上がっています。 どうか大いなる聖者よ、哀れみをもって、 心が静まるようにお教えください。 あなたの誤った考え方によって、 心は燃え上がっています。 ですから常に、 欲望を引き寄せる清らかで美しい対象から遠ざかりなさい。 あなたは不浄観を修め、 常に一つの対象に心を定めなさい。 欲望の火を速やかに消すために、 繰り返し水を注ぎなさい。 諸々の行（現象）は、 美しいものではなく、苦しみであり、私（我）ではないと観察しなさい。 また、身体に心を留め、 厭離（厭い離れること）を繰り返し修めなさい。 無相（とらわれのない心）を修め、 慢心と潜在的な煩悩を打ち破りなさい。 慢心を正しく観察することによって、 苦しみの果てを証（あかし）するのです。

云何想顛倒？謂於不淨境，捨不淨相；不正思惟，取淨妙相及取隨好。云何遠離引貪淨相？謂如有一，見少盛色應可愛樂諸母邑已，便攝諸根而不隨念。云何常定一境修習不淨？謂如有一，先以巧便取於賢善三摩地相，所謂青瘀乃至白骨，或骨瑣相。即以此相，於現所得可愛境界，繫念思惟；如前所取，後亦如是。又於內身或自、或他，觀察種種不淨充滿。謂此身中有髮有爪、乃至便利種種不淨。云何觀察非妙諸行以之為苦？謂如有一，作是思惟：見少盛色應可愛樂諸母邑已，所生貪愛受用悕望，即是集諦，為眾苦因。由此故生，生已老死，愁歎憂苦種種擾惱從此而生。云何觀察非妙諸行以為無我？謂如有一，作是思惟：於我身形、女身形中，都無有我及有情等，誰能受用，誰所受用；唯是諸行，唯是諸法，從眾緣生。云何繫念於身多修厭離？謂如有一，性是猛盛欲貪種類。由是猛盛欲貪類故，雖攝諸根，然被貪欲損壞其心；雖復作意思惟不淨、苦及無我，亦為欲貪損壞其心。由此因緣，彼依不淨、或苦、無我作意思惟，權時厭毀、違逆、不順，於身念住繫念在前，親近、修習、若多修習。彼由多住如是行故，便能斷此猛盛欲貪。

> どうして「想顛倒（そうてんどう）」というのか。それは、本来清浄でない境に対して、清浄でないという相を捨て、正しくない思考によって、清らかで美しい相や、細かな良い部分を捉えて執着することである。 では、何をもって「貪りを生む清らかな相から遠ざかる」というのか。例えば、ある人が、若々しく魅力的で愛すべき女性を見たとしても、感官をしっかりと閉ざし、それに心を奪われないことである。 また、何をもって「常に心を一つの境に定めて、不浄観を修める」というのか。例えば、ある人が、まず巧みな手段で善く清らかな三昧の相を得る。それは、青瘀（あおぐみ）や白骨（はっこつ）、あるいは骨の連なりの相である。そして、その同じ相を用いて、現在目の前にある愛すべき境に対し、心をそれに留め、よく考える。以前に捉えたその相を、後になっても同じように保つのである。さらに、自身の内なる身体、あるいは他人の身体についても、様々な不浄で満ちていることを観察する。すなわち、この身体には髪の毛や爪、さらには大小便などの様々な不浄があると。 では、何をもって「素晴らしくない諸々の行（ぎょう）を苦であると観察する」というのか。例えば、ある人が次のように考える。若々しく魅力的で愛すべき女性を見た時に生じる、貪りの愛着や受け取り享受したいという願望、それはすなわち苦しみの原因である集諦（じったい）であり、様々な苦しみの因である。これによって生が起こり、生じたがゆえに老いや死があり、嘆きや悲しみ、苦しみ、悩みといった様々な擾乱（じょうらん）がここから生じるのである。 では、何をもって「素晴らしくない諸々の行を無我であると観察する」というのか。例えば、ある人が次のように考える。私の身体や女性の身体の中には、実体的な自己や有情などはどこにも存在しない。いったい誰が享受し、誰が享受されるというのか。ただ単に様々な行（諸行）があり、様々な法（諸法）があるだけで、それらは多くの縁（原因と条件）から生じるのだと。 では、何をもって「身体に心を留めて、厭離（えんり）の心を多く修める」というのか。例えば、ある人が、欲望が極めて強烈な種類の性質を持っているとする。その強烈な欲望の性質ゆえに、感官を閉ざしても、貪りの欲望に心を損なわれてしまう。また、不浄や苦、無我について思惟しようとしても、同じく貪りの欲望に心を損なわれてしまう。そのような因縁によって、その人は、不浄、あるいは苦、無我についての思惟に基づき、一時的に厭い、拒み、逆らい、順わない心を持ちながらも、身体についての念住（ネン・ジュウ）に心を留め、それを目前に置き、親しみ、修習し、多く修習するのである。その人は、このような修行の在り方に多く住することによって、この強烈な貪りの欲望を断ち切ることができるのだ。

若攝諸根，不為欲貪損壞其心；若復作意思惟不淨、苦及無我，亦不貪欲損壞其心。彼由修習如是行故，諸欲貪纏但現行斷，非隨眠斷。又此欲貪纏及隨眠，略於二種補特伽羅相續可得。一、於異生相續可得，二、於有學相續可得。雖有一分有學身中亦不可得，然於下貪由永斷故，已得安隱；上貪未斷，不得安隱。無學身中，中界、妙界所有貪欲尚不可得，何況劣界。以無學者下上貪斷，於一切分已得安隱。了知是已，未離欲貪一分學者，於後無學心生願樂，見般涅槃寂靜功德。不復思惟一切相故，恒正思惟無相界故，於無相定勤修學故，又即於此多修習故，永斷三界修斷我慢。由此斷故，說名無學離三界欲，上下貪斷，已得安隱。一切苦因皆捨離故，證得一切眾苦邊際。如是故言：修習於無相，壞慢及隨眠；由於慢現觀，當證苦邊際。

> 感官をしっかりと統制すれば、欲望や貪りによって心が損なわれることはない。さらに、不浄・苦・無我を思念して修行すれば、やはり貪欲によって心が損なわれることはない。このように修行を積むことにより、煩悩の「顕在的な束縛」は断たれても、「潜在的な煩悩の種子」はなお残るのである。 また、この欲望の顕在的束縛と潜在的種子は、おおまかに二種類の人の心の流れに存在する。一つは凡夫の心に、もう一つは修行中の有学（まだ煩悩を完全に断ち切っていない修行者）の心に見られる。ただし有学の中でも、ある程度の者はその身にこれを有しない。しかし下位の貪欲を完全に断ったことで、すでに安定した境地を得ている。上位の貪欲がなお断たれていないため、完全な安穏には至らない。無学（煩悩を完全に断ち切った者）の身には、中程度の世界や優れた世界の欲望さえも存在せず、ましてや劣った世界の欲望などあるはずがない。無学者は下位・上位の貪欲をすべて断ち、あらゆる面で安穏を得ているからである。 このことを悟った後、欲望から離れていない一部の有学者は、後の無学の境地を慕い、涅槃の静かな功徳を望む。もはや一切の表象に捉われることなく、常に「無相の世界」を正しく思念し、無相の定を修行し、さらにこれを繰り返し修習する。これにより、三界における「修行によって断つべき我執」を完全に断つ。この断ち切りによって無学と称され、三界の欲望を離れ、下位・上位の貪欲を断ち、安穏を得るのである。すべての苦しみの原因を捨て去ったため、あらゆる苦しみの果てを悟る。ゆえにこう説かれている。 「無相を修習し、我執と潜在的煩悩を破る。我執の直観によって、苦しみの果てを悟るであろう。」

復次，今當略辨上所說義。謂顯貪欲，由是而生，由是寂靜及彼寂靜，當知是名此中略義。云何貪欲由是而生？謂五因故。一、由淨妙想，二、由欣樂樂，三、由有情想，四、由猛盛貪，五、由隨眠有餘未盡。云何貪欲生已，由是寂靜？謂五因故。一、由作意思惟不淨，二、由作意思惟於苦，三、由作意思惟無我，四、由繫念多修厭離，五、由隨眠無餘永滅。云何寂靜？謂此寂靜略有二種。一者、現行寂靜；二者、永斷隨眠，當來不起。由前四種寂靜因緣，成初寂靜；由第五因，第二成就。

> それでは、ここで上に述べた意味を簡潔に説明します。貪欲がどのように生じ、どのように静まり、そしてその静まりとは何かを示すことが、ここでの要旨です。 貪欲はどのように生じるのでしょうか？五つの原因によります。第一に清浄で素晴らしいという思い、第二に快楽を喜ぶこと、第三に有情（生きとし生けるもの）という思い、第四に激しい貪り、第五に潜在的な煩悩の残りが尽きていないことです。 では、生じた貪欲はどのように静まるのでしょうか？五つの原因によります。第一に、不浄を心に観じ考えること、第二に、苦しみを心に観じ考えること、第三に、無我を心に観じ考えること、第四に、心を保ち厭離の思いを多く修めること、第五に、潜在的な煩悩が残りなく永遠に滅することです。 では、静まりとは何でしょうか？この静まりには、大きく分けて二種類あります。一つは、現れ出た心の働きが静まること（現行寂静）。もう一つは、潜在的な煩悩を完全に断ち切り、将来再び起こらないこと（永断随眠）です。前の四つの静まる原因によって最初の静まりが成就し、第五の原因によって二番目の静まりが成就します。

云何苾芻多所住， 越五暴流當度六？云何定者能度廣 欲愛，而未得腰舟？身輕安、心善解脫、 無作、繫念、不傾動、了法、修習無尋定、 憤愛惛沈過解脫。如是苾芻多所住， 越五暴流當度六。如是定者能度廣 欲愛而未得腰舟。

> どのように修行者は多くにとどまりながら、 五つの激流を超え、六つを渡るべきか。 どのように禅定を得た者は、広大な 欲望の愛着を超えながら、いまだ浮き輪を得ていないのか。 身体は軽安であり、心は善く解脱し、 作意なく、念に専注し、動揺しない。 法を了知し、尋のない禅定を修習し、 怒り・愛執・昏沈の過ちを超えて解脱する。 このように修行者は多くにとどまりながら、 五つの激流を超え、六つを渡る。 このように禅定を得た者は、広大な 欲望の愛着を超えながら、いまだ浮き輪を得ていない。

此因天女所問伽他。暴流有六。謂眼暴流能見諸色，乃至意暴流能了諸法。佛聖弟子有學見迹、於隨順喜眼所識色，不住於愛；於隨順憂眼所識色，不住於恚；於隨順捨眼所識色，數數思擇，安住於捨。彼設已生或欲貪纏、或瞋恚纏、或愚癡纏，三身為緣，所謂喜身、憂身、捨身；而不堅著乃至變吐。由是因緣，於屬三身諸煩惱纏得不現行，輕安而住。如是名為得身輕安，而未能得心善解脫。由彼隨眠未永斷故。彼於後時，又能永斷屬彼隨眠，即於屬彼諸煩惱中遠離隨縛。如是乃名即於三身貪瞋癡所心善解脫。如於眼所識色，乃至於身所識觸，當知亦爾。如是已斷五下分結，越五暴流。謂越眼暴流能見諸色，乃至越身暴流能覺諸觸。如是越度五暴流已，餘有第六意暴流在。為當越度，復修無作、無動、繫念。云何無作？謂於涅槃心生願樂，不為我慢之所傾動；無所思惟，亦無造作。又不為彼計我我所當來是有，乃至我當非想非非想等之所傾動；無所思惟，亦無造作。云何無動？謂不為彼上分諸結纏繞其心。無動無變，亦無改轉。又於隨一寂靜諸定，不生愛味、戀慕、堅著。云何繫念？謂為斷彼上分諸結，於其內身住循身觀，如是乃至廣說念住。彼由如是修無作故，斷諸生愛；修無動故，斷諸定愛。此離現行，說名為斷。修繫念故，為令一切上分諸結無餘永斷，修習對治。如是修習無作、繫念、不傾動故，能令一切上分諸結無餘永斷。是名越度第六暴流。謂意暴流能了諸法。復有差別。云何無動？言無動者，是慈善根，無瞋性故。由此因緣，諸聖弟子於薩迦耶斷除邪願，修奢摩他、毘鉢舍那。由彼慈故，修奢摩他；由念住故、修毘鉢舍那。如是正修行者，於能隨順斷上分結三心修習，速得圓滿。謂於上身無耽染心；於下有情無憤恚心；不放逸者，於上下境無染污心。餘如前說。如是名為越五暴流，當度第六。云何了法？謂於苦法能了能觀，於集、滅、道法能了能觀。云何修習於無尋定？謂能了知如是法已，又復安住居家諸欲依持斷滅，及棄出中。或於阿練若處，或於樹下空閑，於隨順喜眼所識色所有喜身，於隨順憂眼所識色所有憂身，於隨順捨眼所識色所有捨身，於此所緣無欲尋纏，心多安住；乃至亦無所生家世相應尋纏，心多安住。設起欲尋，乃至家世相應尋等，即能如實了知出離；不為欲尋之所障礙，乃至不為家世相應尋所障礙，而能靜慮、審慮、諦慮。由此方便，由此道修，能斷喜身染愛過失，能斷憂身憤恚過失，能斷捨身惛沈過失。諸纏斷故，身得輕安；隨眠斷故，於欲界繫三身染污心善解脫。彼於爾時，名已越度廣大欲愛。謂於諸色乃至諸觸遍流行愛，若和合愛、若增長愛、若不離愛、若不合愛、若退減愛、若別離愛。或於欲界復受生愛。復有差別。云何修習於無尋定？謂已得無尋無伺靜慮。餘如前說。

> この詩は天女の問いによるものである。暴流には六つある。すなわち、眼の暴流は諸々の色を見ることができ、意の暴流に至るまでは諸々の法を了知することができる。仏の聖弟子で有学の見跡にある者は、喜びに随順する眼によって識別される色に対して、愛に住することなく、憂いに随順する眼によって識別される色に対して、怒りに住することなく、捨に随順する眼によって識別される色に対して、繰り返し思慮し選択して、捨に安住する。たとえ、すでに欲貪の纏い、あるいは瞋恚の纏い、あるいは愚痴の纏いが生じていても、三つの身を縁とする。すなわち喜身、憂身、捨身であるが、それらに堅く執着することなく、さらには変じて吐き出す。この因縁によって、三身に属する諸々の煩悩の纏いを現行させずに、軽安に安住する。これを身の軽安を得たと名づけるが、まだ心の善解脱を得てはいない。その随眠が永く断たれていないからである。彼は後の時になって、さらにその属する随眠を永く断じ、すなわちその属する諸々の煩悩の中から、随って縛られることを遠離する。このようにして、初めて三身における貪・瞋・痴から心が善解脱したと名づける。眼によって識別される色についてのように、身によって識別される触に至るまでも、同様に知るべきである。このようにして、すでに五つの下分結を断じ、五つの暴流を超えた。すなわち、眼の暴流を超えて諸々の色を見ることができ、身の暴流に至るまでは諸々の触を覚ることができる。このように五つの暴流を超えた後、残る第六の意の暴流がある。これを超えるために、さらに無作・無動・繫念を修習する。無作とは何か。涅槃に対して心に願楽を生じ、我慢によって傾動されないことである。思惟することもなく、造作もない。また、我や我所が未来において有るべきであるとか、さらには私は非想非非想などになるべきであるなどと計ることによって傾動されることもなく、思惟することもなく、造作もない。無動とは何か。上分の諸々の結によって心を纏繞されないことである。動くことなく、変わることなく、また改め転ずることもない。また、随一の寂静な諸々の定に対して、愛味・恋慕・堅着を生じない。繫念とは何か。上分の諸々の結を断つために、内身に住して身についての観察を修し、このように広く念住を説くごとくである。彼はこのように無作を修することによって、諸々の生存への愛を断ち、無動を修することによって、諸々の定への愛を断つ。この現行を離れることを、断と名づける。繫念を修することによって、一切の上分の諸結を余すことなく永く断じさせるために、対治を修習する。このように無作・繫念・不傾動を修習することによって、一切の上分の諸結を余すことなく永く断じさせることができる。これを第六の暴流を超えると名づける。すなわち、意の暴流は諸々の法を了知することができる。また別の違いがある。無動とは何か。無動と言うのは、これは慈の善根であり、無瞋の性質であるからである。この因縁によって、諸々の聖弟子はサッカーヤにおいて邪願を断ち、奢摩他と毘鉢舎那を修する。その慈によって奢摩他を修し、念住によって毘鉢舎那を修する。このように正しく修行する者は、上分の結を断つことに随順する三つの心の修習によって、速やかに円満する。すなわち、上の身に対して耽染の心がなく、下の有情に対して憤恚の心がなく、放逸ならざる者は、上の境と下の境に対して染汚の心がない。残りは前述の通りである。これを五つの暴流を超え、第六を超えるべきと名づける。法を了知するとは何か。苦法を了知し観察することができ、集・滅・道の法を了知し観察することができることである。無尋定を修習するとは何か。このように法を了知した後、さらにまた居家の諸々の欲望に依持することを断滅し、および捨棄し出離することに安住する。あるいは阿練若処において、あるいは樹下の空閑において、喜びに随順する眼によって識別される色に対する全ての喜身、憂いに随順する眼によって識別される色に対する全ての憂身、捨に随順する眼によって識別される色に対する全ての捨身について、この所縁に対して欲尋の纏いなく、心を多く安住させる。さらには生じる家世の相応する尋の纏いもなく、心を多く安住させる。たとえ欲尋が起ころうとも、さらには家世の相応する尋などが起ころうとも、即座に如実に出離を了知し、欲尋によって障碍されることなく、さらには家世の相応する尋によって障碍されることなく、静慮し、審慮し、諦慮することができる。この方便によって、この道によって修することによって、喜身の染愛の過失を断じ、憂身の憤恚の過失を断じ、捨身の昏沈の過失を断じることができる。諸々の纏いが断たれたから、身は軽安を得る。随眠が断たれたから、欲界に繋縛された三身の染汚の心は善解脱する。彼はその時、広大な欲愛をすでに超えたと名づけられる。すなわち、諸々の色から諸々の触に至るまで遍く流れ行く愛、あるいは和合の愛、あるいは増長の愛、あるいは不離の愛、あるいは不合の愛、あるいは退減の愛、あるいは別離の愛についてである。あるいは欲界において再び受生する愛がある。また別の違いがある。無尋定を修習するとは何か。すでに無尋無伺の静慮を得ていることである。残りは前述の通りである。

復次，今當略辨上所說義。謂彼天女略問世尊三種要義。一者、下分結斷；二者、上分結斷方便；三者、即彼下分結斷方便，及如彼善斷。如是問已，爾時世尊隨應而答。謂由身輕安、心善解脫，答彼所問下分結斷，非斷方便。由無作、繫念、不傾動，答彼所問上分結斷方便，非斷。而於彼斷，天女類前亦即領解。惟餘下分結斷方便，及如彼善斷。爾時世尊先以修無尋定廣說差別，答斷方便。謂若能斷、如斷、所斷。此中了法，說名能斷。修無尋定，說名如斷。所斷憤過，謂瞋恚品；所斷愛過，謂貪欲品；所斷惛沈過，謂愚癡品。如是名為能如所斷。如是廣答斷方便已，唯有所餘如善斷在。復由第二修無尋定差別因緣，答其善斷。言善斷者，謂畢竟斷、遠分斷、一切雜染斷。由了知法故，釋畢竟斷；由修無尋定故，釋遠分斷；由貪瞋癡纏及隨眠一切斷故，釋一切雜染斷。當知是名此中略義。又彼天女依諸有學未得勝意，已離欲貪，未離上貪，而興請問。意名腰舟。如經說：慚軸意腰舟。於此腰舟猶未得者，說彼名為未得腰舟。此中何等名為腰舟？謂於諸結善解脫心。

> さて、ここで先に述べたことの要点を簡潔に明らかにしましょう。 あの天女は、世尊に三つの重要な問いを簡潔に尋ねました。一つは「下分結（下の煩悩の束縛）を断つこと」、二つ目は「上分結（上の煩悩の束縛）を断つための方法」、三つ目は「その下分結を断つための方法と、それを善く断つこと」です。 こう問われた時、世尊はそれぞれに応じてお答えになりました。 「身体の軽安と心の善解脱」によって、下分結を断つこと（その方法ではないこと）にお答えになりました。 「無作、繫念、不傾動」によって、上分結を断つ方法（その断ち切ることではないこと）にお答えになりました。 そして、その断ち切ることについては、天女は前に聞いてすでに理解していました。残るのは、下分結を断つための方法と、それを善く断つことだけでした。 そこで世尊は、まず「無尋定」を修めることの様々な違いを詳しく説き、断つ方法にお答えになりました。すなわち、「断つことができるもの」「断つようにすること」「断たれるもの」です。 このうち、「法を了知すること」を「断つことができるもの」と言います。 「無尋定を修めること」を「断つようにすること」と言います。 断たれるべき「憤りの過ち」は瞋恚の類、「愛着の過ち」は貪欲の類、「昏沈の過ち」は愚痴の類です。 これを「断つことができるもの」と「断つようにすること」と「断たれるもの」と言います。 このように、断つ方法を詳しくお答えになった後、残るは「善く断つこと」だけとなりました。 次に、第二の「無尋定」の修め方の違いという因縁によって、「善く断つこと」にお答えになりました。 「善く断つ」とは、すなわち「畢竟断（完全な断ち切り）」「遠分断（遠く離れた断ち切り）」「一切雑染断（全ての汚れの断ち切り）」です。 「法を了知すること」によって「畢竟断」を説明し、 「無尋定を修めること」によって「遠分断」を説明し、 「貪欲・瞋恚・愚痴の煩悩とその潜在的な種子の全てを断つこと」によって「一切雑染断」を説明しました。 これが、ここでの簡潔な意味であると知るべきです。 また、あの天女は、修行を積んでいるがまだ最高の境地に達しておらず、欲界の貪欲は離れたものの、上界の貪欲は離れていない者たちのために、質問を起こしました。 「意」は「腰舟（こしぶね）」と呼ばれます。経典に「慚軸意腰舟」と説かれている通りです。この腰舟をまだ得ていない者を、「未だ腰舟を得ず」と言います。 ここで、何を「腰舟」と言うのでしょうか。それは、全ての束縛から心が善く解脱した状態のことです。

常有怖世間， 眾生恒所厭；於未生眾苦， 或復已生中。若有少無怖； 今請為我說。天！我觀解脫， 不離智精進，不離攝諸根， 不離一切捨。我觀極久遠， 梵志般涅槃。已過諸恐怖， 超世間貪著。

> 世の中は常に恐れに満ち、 人々は絶えずそれに悩まされている。 まだ生じていない苦しみ、 すでに生じてしまった苦しみの中で、 もし少しでも恐れのない道があるなら、 どうか私に教えてください。 天よ、私は悟りを求めています。 それは智慧と努力を離れず、 感官をしっかりと制御することを離れず、 すべてを手放すことを離れません。 遠い昔に遡って私は見ます、 聖者が涅槃に入られたその姿を。 すでに全ての恐怖を超え、 世の執着をも超越しておられます。

今此頌中，始從欲界乃至有頂諸薩迦耶，皆名世間。此中義者，意在欲界有樂有苦有情世間。若諸有情，十資身具之所攝養，無所匱乏，身康無病，年未衰老，名為有樂有情世間。與此相違，當知有苦有情世間。世間眾生，少分有樂，多分有苦。諸有有樂有情世間，常懷恐怖。勿我財寶王所侵奪，廣說乃至勿由此緣遭諸苦難。勿或風熱於內發動，乃至或人或非人等侵損我耶。如是懼慮未來財寶變壞之苦及身壞苦，心常怖畏。諸有有苦有情世間，現為眾苦逼切身心，有苦、有憂、有愁、有箭、有諸擾惱，恒不安住。如是故言：常有怖世間，眾生恒所厭；於未生眾苦，或復已生中。由是因緣，彼天現見諸有有樂有情世間，樂非決定。請問如來，有決定樂無怖畏處。爾時世尊，即為彼天方便示現，惟聖教中有如是處，非諸外道。謂如有一，住正法外所有沙門、或婆羅門，於現法中及當來世諸欲過患不如實知。由不知故，悕求未來諸欲差別；捨現法欲，求後法欲，精勤受學所有禁戒。雖復安住如是禁戒，然無智慧，不護根門，不守正念，無常委念，乃至廣說。彼不調攝諸根門故，於他所惠少小利養及與恭敬尚生愛味，隨起戀著，何況廣大。如是精勤受禁戒者，遠離智慧、密護根門，於現法欲尚不能斷，況後法欲。又即於彼，有一沙門、若婆羅門，於欲過患粗了知故，能越現法後法諸欲，而復欣求上離欲地。於非解脫起解脫想，斷棄諸欲便臻遠離。彼由精勤數多修習正思惟故，離欲欲界，乃至離欲無所有處。由此因緣，捨下自體，愛上自體。由愛彼故，於當來世尚不解脫下地自體，何況上地。如是棄捨財寶自體迷失道者，雖復安住勇猛精勤，而不能得一向快樂無怖畏處。何以故？彼外道師尚於是處不見不識，況能為彼諸弟子等當廣開示。如是外道師及弟子所制論中，決定無有眾苦邊際。與此相違，善說正法毘柰耶中，當知具足一切義利，乃至定有眾苦邊際。依此密意，佛為彼天說如是言：天！我觀解脫，不離智精進，不離攝諸根，不離一切捨。

復次，今當略辨上所說義。謂為顯示惡說邪法毘柰耶中，師及弟子皆有衰損；善說正法毘柰耶中，皆具吉祥，於一切苦能證邊際。當知是名此中略義。爾時彼天聞佛世尊答所請問，歡喜踊躍，即以四種無上功德讚歎如來。謂佛世尊難出現故，出已能成利他行故，亦能建立自利德故，於自他利離染心故。我觀極久遠梵，志般涅槃者，此讚世尊難出現德。已過諸怨者，此讚世尊利他行德。已過諸怖者，此讚世尊建自利德。超世間貪欲者，此讚世尊於自他利離染心德。如是四種功德差別。當知復有三種差別。謂難出現故，難可見故，建立自利利他行故。見者則能成就大義。成大義者，離染心故，遍一切生亦無眾罪。如是眾德，諸佛世尊最為殊勝，故以此相讚歎如來。

> さらに、ここで今、以上に説かれた意味を簡潔に明らかにしましょう。それは、悪しき教えや邪な法と律（びんや）においては、師弟ともに衰退を招き、善き教えと正しい法と律においては、すべてが吉祥に満ち、一切の苦しみの終わりを証得できる、ということを示すものです。これがここでの要義であると知るべきです。 その時、天人が仏世尊が質問に答えたのを聞いて、歓喜し踊りながら、四種の無上の功徳をもって如来を讃嘆しました。すなわち、仏世尊は出現しがたいこと、出現した後に他者を利益する行いを成し遂げられること、さらに自己の利益の徳を確立できること、そして自他に対する利益に執着のない心であることです。 「我が観るに極めて久遠の梵志、般涅槃した者よ」とは、世尊の出現しがたい徳を讃えるものです。 「すでに諸々の怨みを過ぎた者」とは、世尊の他者を利益する行いの徳を讃えるものです。 「すでに諸々の恐怖を過ぎた者」とは、世尊の自己の利益を確立する徳を讃えるものです。 「世間の貪欲を超えた者」とは、世尊の自他に対する利益に執着のない心の徳を讃えるものです。 このように四種の功徳の違いがありますが、さらに三種の違いがあると知るべきです。すなわち、出現しがたいこと、見ることが難しいこと、そして自己と他者の利益の行いを確立することです。これを見る者は、大きな意義を成就できます。大きな意義を成就する者は、執着のない心のゆえに、あらゆる生に遍くしても、いかなる罪もありません。このような多くの徳は、諸々の仏世尊において最も優れているため、このような相をもって如来を讃嘆するのです。

## 瑜伽師地論卷第十七

> 瑜伽師地論 第17巻