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title: "瑜伽師地論 · 2"
description: "瑜伽师地论是佛教大乘瑜伽行派的重要经典，相传由弥勒菩萨口述，无著菩萨记录，唐代高僧玄奘于贞观年间从印度取回并译成汉文。该论共100卷，系统阐述瑜伽行派的教义，内容包括十七地、三性、八识、修行次第等核心理论，被誉为大乘佛教的百科全书。作为唯识学的根本论典，瑜伽师地论奠定了唯识学派的理论基础，对汉传佛教和藏传佛教影响深远，在佛教思想史上具有崇高地位，是研究唯识学和瑜伽行派必读的经典著作。"
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## 瑜伽師地論卷第十八

彌勒菩薩說

三藏法師玄奘奉　詔譯

### 本地分中思所成地第十一之三

> 第十一節 聞思修處之三

誰獎勝類生， 及開出離道？於何住、何學， 不懼後世死？戒慧、自薰修， 具定、念、正直。斷諸愁、熾燃， 正念、心解脫。能獎勝類生， 及開出離道；住此、於此學， 不懼後世死。

> 誰が優れた者たちを導き、 解脱の道を開くのか。 何に住み、何を学べば、 死後の世界を恐れずにいられるのか。 戒律と智慧、自らを修め、 禅定と正念、そして正直さをそなえよ。 全ての憂いと苦しみの炎を断ち切り、 正念によって、心は解脱する。 彼らこそが優れた者たちを導き、 解脱の道を開くのである。 ここに住み、ここで学べば、 死後の世界を恐れることはない。

今此頌中，言勝類者，即是四種勝上姓類。一、婆羅門，二、剎帝利，三、吠舍，四、戍達羅。以法、以正、以制、以導，教勝類生，故名為獎。此中顯示唯佛世尊能以法、以正、以制、以導，教勝類生。由此因緣，世尊自顯唯我獨為真獎導者。故為彼天作如是說，具戒、具慧以自薰修。又唯世尊能為四種勝上類生，宣說出離一切眾苦聖八支道。此中世尊亦自顯示是真說者。云何具戒？謂佛世尊昔菩薩時，棄上妙欲，捨離居家，受持身語所有律儀。云何具慧？謂即於彼受持身語律儀住者，起如是相，內正思惟，深心籌量，審諦觀察：今此世間多遭艱苦，所謂若生、若老，如經廣說。云何自薰修？謂於往昔無量餘生，經三大劫阿僧企耶，於六波羅蜜多修習、善修習；由彼因緣，今無師自然心趣出離，又於眾緣所生諸行，以微妙智能隨悟入。云何具定？謂能乃至離無所有處欲，證得非想非非想處。云何具念？謂依如是所得勝定，為斷見斷諸煩惱故，修四念住。即以如是所修念住為其導首，乃至修習三十七種菩提分法。云何正直？謂彼生起逆流正直聖八支道，能斷見斷所有煩惱，於逆流道得預隨流。云何永斷一切愁憂熾燃？謂從諦現觀俱得成不還者，又能永斷五下分結。瞋恚似順愁憂，貪欲似順熾燃，於如是等皆已永斷。云何正念？謂為永斷上分諸結，復更修習四種念住，乃至修習三十七種菩提分法。云何心解脫？謂已永斷上分結故，於二種障心善解脫，謂煩惱障、及所知障。其心如是善解脫故，得成如來應正等覺，廣說如經。由此故能獎勝類生，開出離道。諸有四種勝類，隨一於此聖教愛樂正行，為欲證得聖八支道，於三學中勤修學者，彼定能證聖八支道及涅槃果。由證彼故，不懼當來生老病死。

> この偈頌の中で「勝類」と言うのは、四種の優れた階級の人々を指します。すなわち、バラモン、クシャトリア、ヴァイシャ、シュードラです。如来は法、正、制、導をもってこれらの勝類を教え導くことから、「奨」と呼ばれます。ここでは、唯仏世尊のみが法、正、制、導をもって勝類を教え導くことができることを示しています。この因縁により、世尊は自ら「ただ私だけが真の奨導者である」と示されています。そのため、かの天のためにこのような説をなさったのです。すなわち、「戒を具足し、慧を具足し、自らを薫習し修める」と。 また、唯世尊のみが四種の勝類のために、あらゆる苦しみからの出離を説く聖なる八支道を宣べることができます。ここで世尊は自らが真の説者であることをも示されています。 「戒を具足する」とは、世尊がかつて菩薩だった時、優れた欲望を捨て、在家を離れ、身と語の律儀を受持したことをいいます。 「慧を具足する」とは、その身語の律儀を受持して安住する者に、このような相を起こすこと、すなわち内に正しく思惟し、深く心に籌量し、審らかに諦観して、「今この世間は多くの艱苦に遭っている。すなわち生や老などである」と、経に広説されるように観ずることをいいます。 「自らを薫習し修める」とは、昔の無数の過去世において、三大阿僧祇劫の間、六波羅蜜多を修習し、よく修習したことをいいます。その因縁により、今は師なくして自然に心が出離に向かい、また衆縁によって生じる諸行を、微妙な智慧をもってよく随順して悟入するのです。 「定を具足する」とは、無所有処への欲を離れ、非想非非想処を証得することに至ることをいいます。 「念を具足する」とは、その得られた勝定に依って、見断の諸煩悩を断じるために、四念住を修することをいいます。そして、その修した念住を導首として、さらには三十七種の菩提分法を修習することです。 「正直」とは、その生起する逆流の正直なる聖八支道が、見断のすべての煩悩を断じ、逆流の道において預流を得ることをいいます。 「一切の愁憂熾燃を永く断ずる」とは、諦の現観と共に不還者となり、五下分結を永く断ずることをいいます。瞋恚は愁憂に似て順じ、貪欲は熾燃に似て順じますが、これらをすべて永く断じたのです。 「正念」とは、上分の諸結を永く断ずるために、さらに四種の念住を修習し、さらに三十七種の菩提分法を修習することをいいます。 「心解脱」とは、すでに上分の結を永く断じたので、二種の障礙、すなわち煩悩障と所知障から心がよく解脱したことをいいます。その心がこのようによく解脱したので、如来・応供・正等覚者となり、経に広説される通りとなったのです。 これによって、勝類の生を奨導し、出離の道を開くことができるのです。四種の勝類のいずれかであっても、この聖教において正行を愛楽し、聖八支道を証得せんがために三学の中で勤めて学ぶ者であれば、彼は必ず聖八支道と涅槃の果報を証得することができます。それを証得したからには、未来の生、老、病、死を畏れることはありません。

復次，今當略辨上所說義。謂略顯示唯佛世尊，能令四類速得清淨。彼若於此能正修行，不唐捐故。又復示現如來聖教，善說正法及毘柰耶。又復示現佛是天人無上大師。當知是名此中略義。

> さらに、ここで今述べた意味を簡単にまとめます。つまり、ただ仏世尊だけが、四つの種類の者たちを速やかに清めることができるということを示しています。彼らがもしこれを正しく修行すれば、無駄になることはありません。また、如来の教えが、よく説かれた正法と戒律であることを示しています。さらに、仏が天人の無上の師であることを示しています。これがこの中の簡略な意味だと知るべきです。

云何擅名譽？ 云何具珍財？云何獲美稱？ 云何攝親友？持戒、擅名譽； 布施、具珍財；諦實、獲美稱； 惠捨、攝親友。

> 戒律を守れば名誉を得られ、 施しをすれば財産が備わる。 真実を語れば称賛を得られ、 惜しみなく与えれば友人を得られる。

云何持戒能擅名譽？謂如有一，或男或女，具足尸羅及賢善法、乃至命終斷除殺罪、遠離殺生，如經廣說。乃至十方所有沙門、婆羅門等，常所稱歎。由是因緣，為諸國王、群臣、長者，乃至城邑聚落人民，恭敬供養。云何布施能具珍財？謂如有一，昔餘生中作及增長施福業事；由此因緣，今生巨富大財寶家，乃至眾多府庫盈積。云何諦實能獲美稱？謂如有一，不以假偽㪷秤函等，諂誑陵蔑妄言等事，而致財寶；但以如法作業伎能，依法不暴，而致財寶。彼既如是，眾咸唱言：賢哉儒士！乃能如法作業伎能引致財寶。云何惠捨能攝親友？謂如有一，現前多有種種家產，遠離慳垢，不悋資具，以正安樂而自歡娛，乃至友朋、親戚、耆長。彼諸人等便相佐助，引致財寶，守護滋息。

> 「戒律を守ることで、どうして良い評判を得られるのか。例えばある人——男性であれ女性であれ——が、戒律と善い行いを完全に備え、命が終わるまで殺生の罪を断ち、殺生から遠ざかっているとする。これは経典に詳しく説かれる通りである。すると、十方にある全ての修行者や聖者たちから常に称賛される。このような因縁によって、国王や家臣、長者たちはもちろん、町や村の人々からも敬われ、供養されるのである。 では、どうして施しをすることで財産が得られるのか。例えばある人が、過去の生で布施の善行を積み、それをさらに成長させてきたとする。この因縁によって、現世では大金持ちの家に生まれ、多くの宝物や倉庫を満たすことになる。 また、どうして真実の言葉が美しい名声をもたらすのか。例えばある人が、偽りの秤や枡、詐欺や脅し、偽りの言葉などで財産を得るのではなく、正しい方法と技量によって、法に従い、乱暴なことなく財産を得る。人々はこれを見て「なんと立派な人物だ！法に従い、自らの技量で財産を得ている」と称賛する。 では、どうして惜しみなく与えることで友人を引き寄せるのか。例えばある人が、多くの家財を持ちながら、けちけちせず、惜しみなく必要なものを与え、正しい安らぎで自らも楽しみ、さらには友人や親戚、年長者たちにも施す。そうすると、これらの人々は互いに助け合い、財産を増やし、守り、育てていくのである。」

復次，今當略辨上所說義。謂略顯示恭敬、利養二種因緣。持戒擅名譽者，顯恭敬因緣；所餘諸句，顯利養因緣。謂因力故，士用力故，助伴力故。當知是名此中略義。

> さらに、ここで今、上に述べた意味を簡潔に明らかにしましょう。それは、戒律を守ることと名誉が、敬われる原因であることを示しています。残りの句は、利益や供養をもたらす原因を示しています。すなわち、自らの努力による力、人の努力による力、そして協力者による力です。これが、この箇所の簡潔な意味だと知るべきです。

齊何泉止息？ 於何逕不通？世間諸苦樂， 何處無餘滅？若於是處所， 眼耳及與鼻舌身意、名色， 永滅盡無餘。齊此泉止息， 於斯逕不通，世間諸苦樂， 是處無餘滅。

> どうすれば、あらゆる苦しみの流れ（泉）を止められるのか？ どこに道が通じないのか？ この世の中のあらゆる苦しみや楽しみは、 どこで完全に消え去るのか？ その場所がある——それは、 目も、耳も、鼻も、 舌も、体も、心も、そして名前や形（物質的存在）も、 すべてが完全に消え去り、何ひとつ残らないところだ。 そこで、苦しみの流れは止まり、 そこに道は通じない。 この世の中のあらゆる苦しみや楽しみは、 まさにその場所で、完全に消えていくのだ。

云何為泉？謂六觸處。何以故？譬如泉池能生諸水，水所繫屬、堪任觸用；又能存養男女大小，下及禽獸，乃至一切未盡枯竭。六內觸處亦復如是。一切愚夫六境界觸之所觸用；又能存養，乃至是中諸貪愛水未盡枯竭。云何為逕？逕有二種。一、煩惱逕，二者、業逕。此中逕者，意明因義。云何苦樂？謂或於現法六種觸處為緣所生，或安受，受所攝；或不安受，受所攝；或於後法煩惱攝持妙行、惡行為緣所生，或安受，受所攝；或不安受，受所攝。於何處所，如是六處及名色等無餘滅盡？謂無餘依涅槃界中。若諸異生，泉逕苦樂一切無缺，亦未有捨。若諸有學，缺而未捨。若諸無學，逕及當來所有苦樂亦缺亦捨，不復現行；泉及現法所有苦樂亦缺亦捨，有餘依故，猶復現行。是故無餘涅槃界中，說彼一切無餘盡滅。

> 泉とは何か？それは六つの内なる接触の領域（六内触処）を指す。なぜか？例えば、泉や池が水を生み出し、その水に依存して物を洗い、飲用に用いることができるように、また男女や子供、さらには鳥や獣に至るまで、尽きることなく養い続けることができるからである。六つの内なる接触の領域もまた、これと同じである。すべての無知な凡夫は、六つの外界対象との接触によって触れられ、用いられ、その中にある貪りの水が尽きるまで養われ続けるのである。 径（道）とは何か？径には二種類ある。第一は煩悩の径、第二は業（カルマ）の径である。ここで径とは、「原因」という意味を表している。 苦楽とは何か？それは、現在の人生において、六つの接触の領域を縁として生じるものか、あるいは安らかな感覚（安受）または不安な感覚（不安受）に分類されるものである。あるいは、未来の人生において、煩悩に支配された善行・悪行を縁として生じるものか、安らかな感覚または不安な感覚に分類されるものである。 では、これら六つの領域や、名称と形態（名色）などが、残りなく消え去る場所とはどこか？それは、残りの執着のない涅槃の境地（無余依涅槃界）である。 凡夫たちは、泉、径、苦楽のすべてが欠けることなく存在し、それを手放すこともない。修行を積んだ者（有学）は、これらが欠けているが、まだ手放してはいない。煩悩を滅し尽くした者（無学）は、径と未来の苦楽は欠けていると同時に手放され、もはや現れない。泉と現在の人生における苦楽もまた欠けていると同時に手放されるが、身体が残っているため（有余依）、依然として現れる。それゆえ、余すところのない涅槃の境地（無余依涅槃界）において、それらすべてが余すところなく滅し尽くされると説かれるのである。

復次，今當略辨上所說義。謂略顯示於現法中因及苦樂，於後法中因及苦樂，於無餘依涅槃界中皆悉永滅。當知是名此中略義。

> 次に、ここでこれまで述べてきたことの要点を簡潔に示します。 すなわち、現世における原因と苦楽、そして来世における原因と苦楽が、無余依涅槃の境地においては完全に消え去ることを簡潔に示しています。これが、ここでの要点であると理解してください。

誰能越暴流？ 誰能超大海？誰能捨眾苦？ 誰能得清淨？正信越暴流； 無逸超大海；精進捨眾苦； 智慧得清淨。

> 誰が荒れ狂う流れを渡り越えられるのか。 誰が広い海を超えられるのか。 誰が自らあらゆる苦しみを捨て去れるのか。 誰が清らかさを得ることができるのか。 正しい信仰を持つ者は、荒れ狂う流れを渡り越える。 怠りなき者は、広い海を超える。 努力を惜しまぬ者は、苦しみを捨て去る。 智慧ある者は、清らかさを得る。

今此頌中，云何正信能越暴流？謂如有一，為欲了知諸欲過患，聽佛所說若弟子說所有正法。聞是法已，獲得正信，便生欲樂，為斷事欲及煩惱欲，遂能棄捨居家事欲，正信出家，往趣非家。既出家已，為欲斷除煩惱諸欲，遠離而住。彼由熾燃勤精進故，乃至修習正思惟故，斷煩惱諸欲，得離欲定地。如是正信為依為導，便能越度諸欲暴流。云何無逸能超大海？謂於彼定終不愛味，乃至亦無堅著安住；唯除為證諸漏盡智，專注其心。由此定心清淨、鮮白、正直、調柔，於四聖諦能入現觀，乃至證得諸漏永盡。如是由不放逸為依、為導，能斷色、無色繫二有暴流，及斷一切無明與見二種暴流，是故名為超渡大海。云何精進能捨眾苦？謂如有一，有學見迹，作是思惟：我應當證三界離欲，諸結永盡。便臻遠離，於彼勇猛精勤而住，不多安止貪欲纏心。又能如實了知現在諸欲貪纏所有出離，於貪欲蓋淨修其心，遂能斷滅諸貪欲纏，及貪欲纏為緣所生心諸憂苦。如貪欲蓋，乃至疑蓋，當知亦爾。如是精進為依、為導，能捨眾苦。云何智慧能得清淨？謂彼除滅能染污心，乃至能障究竟涅槃五種蓋已，即依未至安住未至。如先所得苦集滅道諸無漏智，於諸苦中思惟真苦，乃至於道思惟真道，便得無餘三界離欲，諸漏永盡。如是由先所得智慧為依、為導，能證清淨。

> さて、この偈の中で、 どのように正しい信が激しい流れを超えるのか？ 例えば、ある人が、諸々の欲望の過ちを知ろうとして、 仏の説かれた法、あるいは弟子の説かれた正しい法を聞く。 この法を聞いた後、正しい信を得て、 欲望を断つことへの願いと喜びが生まれる。 そして、実際の欲望と煩悩の欲望を断つために、 家庭での欲望を捨て、正しい信によって出家し、 家のない状態へと向かう。 出家した後は、煩悩の諸々の欲望を断ち切ろうとして、 遠離した場所に住む。 彼は熱心な精進によって、 正しい思考を修行することにより、 煩悩の諸々の欲望を断ち、 欲望を離れる禅定の境地を得る。 このように、正しい信を基盤とし導きとして、 諸々の欲望の激流を超えるのである。 では、どのように放逸でないことが大海を超えるのか？ 彼はその禅定に味わいを執着せず、 堅くこだわって留まることもない。 ただ、全ての煩悩を尽くす智慧を証するためだけに、 心を集中する。 この禅定の心は清らかで、真っ白で、真直ぐで、柔らかくなり、 四つの聖なる真理に対する観察に入り、 ついに全ての煩悩を永く尽くす。 このように、放逸でないことを基盤とし導きとして、 色界と無色界に結びつく二つの激流と、 無明と見解という二つの激流を断ち切る。 これが大海を超えると呼ばれる所以である。 では、どのように精進が多くの苦しみを捨てるのか？ 例えば、ある学びある者は、聖なる道を見て、 このように思う。 「私は三界の欲望を離れ、全ての束縛を永く尽くすべきだ。」 そして遠離の境地に至り、 そこで勇猛に精進し努力して留まり、 貪りの心にあまりとどまらない。 また、現在の欲望の執着から離れる方法をありのままに知り、 貪りの覆いから心を清め、 諸々の貪りの執着と、 その執着から生じる心の憂いや苦しみを断ち滅ぼす。 貪りの覆いの場合と同様に、疑いの覆いもまた同じであると知るべきである。 このように、精進を基盤とし導きとして、 多くの苦しみを捨てるのである。 では、どのように智慧が清らかさを得るのか？ 彼は、心を汚し、究極の涅槃を妨げる五つの覆いを滅ぼした後、 未到地の禅定に安住する。 以前に得た、苦・集・滅・道に関する煩悩なき智慧によって、 苦の中に真の苦を思惟し、 道の中に真の道を思惟する。 すると、三界の欲望を余すところなく離れ、 全ての煩悩を永く尽くす。 このように、以前に得た智慧を基盤とし導きとして、 清らかさを証するのである。

復次，今當略辨上所說義。謂薄伽梵於此頌中，略顯異生先已離欲，後於聖諦現觀清淨；及顯有學於諸聖諦現觀為先，離欲清淨。當知是名此中略義。

> さらに、今ここで先に述べた意味を簡潔にまとめよう。 つまり、尊き方はこの偈の中で、 凡夫が先に欲望を離れ、その後で聖なる真理を直接観察して清らかになること、 また、有学（修行中の聖者）が聖なる真理の直接観察を先に行い、 そこから欲望を離れて清らかになることを示している。 これが、ここでの簡潔な要義であると知るべきである。

誰超越暴流， 晝夜無惛昧；於無攀無住， 甚深無減劣？圓滿眾尸羅、 具慧、善安定、內思惟、繫念， 能度極難度。諸欲想離染， 亦超色界結，彼無攀無住、 甚深無減劣。

> 誰もが激流を超え、昼夜に暗さがないのか。 とらわれることなく、とどまることもなく、深遠で減り続けることもない。 戒律を完璧に守り、智慧を備え、よく心が落ち着いている。 内省し、心を一つに保つことで、非常に超え難いものを超える。 欲望の想いから離れ、色界の束縛も超える。 彼にはとらわれることなく、とどまることもなく、深遠で減り続けることもない。

今此頌中，云何暴流？所謂四流。欲流、有流、見流、無明流。云何無攀無住？所謂諸愛永盡、離欲、寂滅、涅槃、及滅盡定。所以者何？所言攀者，諸煩惱纏；所言住者，煩惱隨眠。於彼處所二種俱無，是故說言無攀無住。此謂涅槃無攀無住。又想名攀，受名為住。若於是處二種俱無，即說彼處無攀無住。如是顯示滅想受定無攀無住。今此義中，意取滅定。云何圓滿眾尸羅？謂善安住身語律儀，修治淨命。云何具慧？謂於苦聖諦如實了知，乃至於道聖諦亦復如是。云何善安定？謂遠離諸欲，乃至具足安住第四靜慮，或第一有三摩鉢底。云何內思惟？謂於二十二處數數觀察。言我今者，容飾改常，去俗形好，廣說如經。云何繫念？謂於二十二處數觀察時，依沙門想恒作恒轉，而現在前；由此因緣，為斷餘結，修四念住。云何能度極難度？謂一切結無餘斷故，能度最極難度有頂。彼非一切愚夫異生可能度故。云何於諸欲想而得離染？謂於下分諸結已斷已知。云何超於色界諸結？謂於色繫上分諸結已斷已知。云何於無攀無住甚深中無有減劣？謂於無色界或已離欲、或未離欲，已得非想非非想處。堪能有力入滅盡定。學與無學俱容有此，故不定言超無色結。

> この偈の中で、暴流（ぼる）とは何か。それは四つの流れである。欲流、有流、見流、無明流である。では、「攀（よ）るところなく、住するところなし」とは何か。それは愛がすべて尽き、欲を離れ、寂滅し、涅槃に達すること、そして滅尽定を指す。なぜか。いうところの「攀」とは、諸々の煩悩の纏（まと）いであり、「住」とは煩悩の随眠である。その場所には二つとも存在しないため、「攀るところなく、住するところなし」と説かれる。これが涅槃には攀るところも住するところもないという意味である。また、想（そう）を攀といい、受（じゅ）を住という。もしある場所にこの二つが共に無ければ、その場所は攀るところなく住するところなしと説かれる。このように、想受滅定には攀るところも住するところもないと示される。ここでの意図は、滅尽定を指している。 「円満な戒律」とは何か。それは身と語の律儀に善く安住し、清らかな生活を修めることである。「智慧を備える」とは何か。それは苦聖諦を如実に了知し、道聖諦に至るまで同様にすることである。「善く安定する」とは何か。それは諸々の欲を遠離し、第四静慮、あるいは初めの三摩鉢底に安住することである。「内に思惟する」とは何か。それは二十二の処を数々観察することである。「今、私は容姿を改め、俗の形相を離れた」というように、経典に広く説かれる通りである。「念を繋ぐ」とは何か。それは二十二の処を数々観察する時、沙門という想いに基づいて、常に転じ、現前させることである。この因縁により、残りの結を断つために四念住を修める。「極めて難しいものを超えることができる」とは何か。それは全ての結が余すところなく断たれるため、最も困難な有頂を超えられることである。なぜなら、それは凡夫や異生には決して超えられないからである。「諸々の欲の想いから離れる」とは何か。それは下分の諸結がすでに断たれ、了知されたことである。「色界の諸結を超える」とは何か。それは色界に属する上分の諸結がすでに断たれ、了知されたことである。「攀るところなく住するところない甚深の中において減り劣ることがない」とは何か。それは無色界において欲を離れた者も、まだ離れていない者も、非想非非想処に至っていることである。そして滅尽定に入る能力がある。有学と無学のいずれにもこれがあり得るため、無色界の結を超えるとは定めて言わないのである。

復次，今當略辨上所說義。謂薄伽梵於此頌中，略顯能得最究竟道，及顯能證第一住道。當知是名此中略義。

> さらに、ここで簡潔に上に述べた意味を明らかにしましょう。すなわち、尊き方はこの偈頌の中で、究極の道を得る方法と、最上の境地を証する道を示しておられます。これがここでの要点であると知るべきです。

貪恚何因緣？ 由何故欣、慼、毛竪、意尋思， 如孩依乳母？潤所生、自生， 如諾瞿陀樹；別縛於諸欲， 猶摩迦處林。是貪恚因緣， 由斯故欣、慼、毛竪、意尋思， 如孩依乳母。知彼彼因緣， 生已尋除滅；超昔未超海， 暴流無後有。

> 貪りと怒りは何が原因で生じるのか。 何が原因で人は喜び、悲しみ、 鳥肌を立て、心を巡らせるのか。 まるで幼子が乳母にすがるように。 〔それは〕潤いから生じ、自ら生じる。 あたかもニグローダ樹のように。 そして、様々な欲望に個別に縛られる。 まるで蔓草が林にからまるように。 この貪りと怒りが原因で、 それゆえに喜び、悲しみ、 鳥肌を立て、心を巡らせるのだ。 まるで幼子が乳母にすがるように。 しかし、その様々な原因を知り、 それが生じたなら、すぐに除き去る。 そうすれば、かつて超えられなかった海を超え、 激流も再び生じることはない。

今此頌中，云何貪恚？謂如有一，處在居家，於可意境、可意有情共相會遇，而生貪著；於不可意境及有情共相會遇，而生瞋恚。云何欣慼？謂如有一，於佛所證法毘奈耶，率爾得生須臾正信，不善觀察前後得失，忽然自勵，便棄家法，往趣非家。既出家已，與凡道俗共相雜住；遂於去來貨財親友追念思慕，憂慼纏心。或復有一，非由正信，亦非自勵，往趣非家。然或為王之所驅迫，乃至或為不活邪畏之所恐怖，捨離居家。既出家已，於其正信諸婆羅門、居士等邊，時時多獲利養恭敬，深生愛味。竊作念言：吾此一方善哉奇要，無勞稼穡，不事商賈，少致艱辛，足堪活命。彼緣如是利養恭敬，便自欣悅安然而住。云何毛竪及意尋思？謂如有一，非由自勵，不為活命，捨離居家；然由正信，捐棄家法，往趣非家。既出家已，不與道俗共相雜住，便臻遠離，寂靜閑居。彼閑居時，或於塵霧，或昏夜分，見大雲氣，聞震雷音；或逢雹雨師子虎豹；或遭凶猾竊劫抄虜；或遇非人來相嬈逼；便生驚怖，身毛為竪。或至晝分，於彼去來妙欲親友，發依耽嗜所有尋思。謂欲尋思，如經廣說，乃至家世相應尋思。如是已說貪恚等事。云何潤生及與自生，猶如世間諾瞿陀樹？潤名愛水。由此為緣，能生諸取。彼貪恚等，一切皆用此為共緣。自者，即是貪恚為先，尋思為後，各各差別種子界性。云何貪恚乃至尋思別縛諸欲，猶如世間摩魯迦條纏繞林樹？謂略說有六種別欲。或有身手力所引致現在事欲，謂居家者所有諸欲。於此境界，用此為緣，發生貪恚。或有從他所得種種現在事欲，謂為活命而出家者所有諸欲。於此境界，用此為緣，發生欣悅。或有過去、未來事欲，謂忽自勵而出家者所有諸欲。於此境界，用此為緣，發生憂慼。或有所餘諸煩惱欲，略有二種。謂於欲界自體及資身命。或有未斷妄分別貪，謂由正信而出家者，寂靜閑居，於塵夜分所遭眾事。於此境界，用此為緣，便生驚怖，身毛為竪。或有未斷妄分別貪，所謂即此補特伽羅至晝日分，於外色聲香味觸境，用此為緣，發生意地所有尋思。又有沙門、若婆羅門，如實了知如前所說貪與恚等及彼因緣，又能了知眾緣生法無常性已，隨其所生不起貪著，即便棄捨、變吐、斷滅。離色、無色二界貪故，度有暴流；離欲貪故，度欲暴流。如是暴流昔所未度，今既度已，終無有退。

> 今、この偈頌の中で、「貪りと怒り」とは何か。例えば、ある人が在家の身でいて、好ましい境遇や好ましい人に出会って、そこに執着すること。あるいは、好ましくない境遇や人に出会って、怒りを生じることである。 「喜びと悲しみ」とは何か。例えば、ある人が仏の説かれた教えと戒律に対して、ふと一瞬の正しい信心を得るが、前後の良し悪しをよく観察せず、急に奮い立って家を捨て出家することである。出家した後、修行者や在家の人々と雑じり合って暮らし、過ぎ去った財産や親しい人々を思い慕い、悲しみが心を縛る。 また、ある人は正しい信心によっても、自らの奮起によっても出家しない。しかし、王に追われて、あるいは生活に困るという誤った恐怖に脅かされて、家を捨てる。出家した後、信心深いバラモンや在家の信者たちから、しばしば多くの布施や敬意を得て、深くそのありがたみを感じる。そして密かに思う、「ああ、この暮らしは素晴らしい。農耕も商売もせず、わずかな苦労で生きていける」と。彼はこのような布施や敬意に喜び、安らかに暮らす。 「毛を逆立てる恐怖と、心の思索」とは何か。例えば、ある人が自らの奮起によっても、生活のために出家するのでもない。正しい信心によって家を捨てて出家する。出家した後、修行者や在家の人々と雑じり合わず、遠く離れた静かな場所に独り住む。その静かな場所で、あるいは塵の霧の中、あるいは闇夜に、大きな雲や雷の音を見聞きする。あるいは雹や雨、獅子や虎に遭う。あるいは凶悪な盗賊に襲われる。あるいは人間ならざる者に悩まされる。そうして恐れ怖れ、身の毛を逆立てる。 あるいは昼間に、過ぎ去った楽しみや親しい人々を思い、欲に沈む心の思索を起こす。いわゆる「欲の思索」「怒りの思索」「害心の思索」、あるいは親族や家柄に関する思索など、経典に詳しく説かれる通りである。 以上のように、貪りや怒りなどの事柄を説いた。 では、「潤い生じるもの」と「自ら生じるもの」とは何か。それはあたかも世の中のノーグディ樹（ニグロデンドロン樹）のようなものである。「潤い」とは愛の水のことであり、これを縁として様々な執着が生じる。貪りや怒りなどは、すべてこれを共通の縁とする。「自ら」とは、貪りや怒りを先とし、思索を後とする、それぞれ異なる種子の性質を指す。 では、貪りや怒りから思索に至るまで、それぞれが欲望に別々に縛られるのは、あたかも世の中のムルガ草（つる草）が林の木々に絡みつくようなものとは何か。大まかに六種の別々の欲望がある。 一つは、手足の力によって得られる現在の欲望で、在家の者が持つ欲望である。この境遇において、これを縁として貪りや怒りが生じる。 二つは、他人から得られる様々な現在の欲望で、生活のために出家した者が持つ欲望である。この境遇において、これを縁として喜びが生じる。 三つは、過去や未来の欲望で、自ら奮い立って出家した者が持つ欲望である。この境遇において、これを縁として悲しみが生じる。 四つは、その他の煩悩の欲望で、大まかに二種ある。欲望界における自分の体と、命を支えるものに関するものである。 五つは、まだ断ち切られていない誤った分別の貪りで、正しい信心によって出家し静かに暮らす者が、夜間に遭遇する様々な事柄である。この境遇において、これを縁として恐れが生じ、身の毛が逆立つ。 六つは、まだ断ち切られていない誤った分別の貪りで、すなわちこの同じ人が昼間において、外の色・声・香・味・触の対象に対して、これを縁として心の意識に様々な思索を起こすことである。 さらに、修行者やバラモンは、先に説いた貪り怒りなどと、その原因をありのままに知る。また、様々な縁によって生じるものは無常であると知って、生じたものに執着せず、それを捨て、吐き出し、断ち滅ぼすのである。色界と無色界への貪りを離れることで「有の暴流」を越え、欲望界への貪りを離れることで「欲望の暴流」を越える。この暴流はかつて渡ったことのないものであったが、今まさに渡り終えて、決して退くことはない。

復次，今當略辨上所說義。謂薄伽梵於此頌中，略顯三位。一、在家位，二、出家位，三、遠離位。又略顯示共與不共因緣所生若愛、若恚，於諸欲中二種別縛，及斷方便，并斷勝利。當知是名此中略義。又於此中，若貪、若欣、若依耽嗜所有尋思，當知愛品；若恚、若慼及與驚怖，當知恚品。

> 次に、今ここで上述した意味を簡潔に説明しよう。すなわち、世尊はこの偈頌の中で、三つの位を簡潔に示しておられる。 第一に、在家の位、 第二に、出家の位、 第三に、遠離の位である。 また、共通および不共通の因縁から生じる、愛と恚について、諸々の欲望の中における二種類の別々の束縛、およびその断ち切る方法と、断ち切ることの利得を、簡潔に示している。 これがここでの簡略な意味であると知るべきである。 さらに、ここにおいて、貪り、喜び、耽溺に依るあらゆる思惟は、愛の範疇と知るべきであり、怒り、憂い、そして恐怖は、恚の範疇と知るべきである。

應作婆羅門， 謂斷無縱逸，求棄捨諸欲， 不悕望此有。若更有所作， 非真婆羅門。當知婆羅門， 於所作已辦。諸身分劬勞， 未極底未度。已得度、住陸， 無勤、到彼岸。天！汝今當知， 此喻真梵志。謂永盡諸漏， 得常委、靜慮。彼永斷一切 愁憂及熾燃，恒住於正念， 亦常心解脫。

> バラモンとは、怠ることなく、 諸々の欲望を捨て去り、 この世の生存を望まない者とせよ。 もし更に為すべきことのある者は、 真のバラモンではない。 バラモンとは、為すべきことを成し遂げた者と知るべきである。 身体の労苦に縛られ、 底に至らず、渡り終えていない者は、 既に渡り、陸に住し、 努力なく彼岸に達した者と知れ。 天よ、汝は今知るべきである。 この譬えは真の修行者を示す。 すなわち、全ての煩悩を永遠に尽くし、 常に正念に住し、 心もまた常に解脱している者を。 彼は永遠に全ての憂いと苦しみを断ち切り、 いつも正念に安住し、 心も常に解放されている。

今此頌中，顯示彼天依於世俗諸婆羅門，為世尊說。謂有種姓諸婆羅門，自號我為真實梵志。計梵世間為最究竟，悕求梵世，安住於色，常勤精進，心無懈倦。恒樂遠離，寂靜閑居，減省睡眠，修習靜定，為斷事欲及煩惱欲。由彼種姓諸婆羅門，計梵世間以為究竟，悕望梵世，不求欲有。又顯如來依第一義諸婆羅門，而報彼天。若婆羅門作所作已，數復應作，更有勝上所應作事，當知此非真婆羅門。若婆羅門證婆羅門所應作事，超登一切薩迦耶岸，安住陸地，當知此是真婆羅門。由此顯示學與無學皆婆羅門。學有二種。謂於欲界或未離欲，或已離欲。未離欲者，未得源底，未到彼岸，於二種法猶未具足。一、未得內心勝奢摩他；二、雖已得，增上慧法毘鉢舍那未善清淨。由闕內心奢摩他故，乘如所得聖道浮囊，為證內心奢摩他故，運動如足勇猛精進。又復為令增上慧法毘鉢舍那善清淨故，運動如手勇猛精進。彼於如是勤精進時，離欲界欲，如得源底；證阿羅漢，如到彼岸。已離欲者，證得內心勝奢摩他，亦得善淨毘鉢舍那。唯為進斷上分諸結，發勤精進，非諸身分。若已越度，成阿羅漢，所作已辦，離勤功用，名住陸地，已到彼岸。此則顯示諸婆羅門，依第一義略有三種。二是有學，一是無學。若已究竟到於彼岸諸婆羅門，名永盡漏。若未離欲一切身分勤精進者，名得常委。若已離欲得源底者，名得靜慮。得靜慮者，永斷一切下分結故，已斷貪欲及瞋恚品所有一切愁憂熾燃。永盡漏者，永斷修斷諸煩惱故，已善修習四種念住，恒住正念及心解脫。彼非作已數數更作，亦無增勝所應作事，是故說彼名第一義真婆羅門。

> この偈頌において、世尊は天に対して、世俗のバラモンたちの立場に基づいて説かれています。すなわち、特定の家系に生まれたバラモンたちは「我こそが真の修行者（梵志）である」と自称し、梵天の世界を最上の境地と考え、そこに生まれようと願い、色界に安住し、常に怠りなく精進し、心に倦むことがありません。常に遠離を楽しみ、静かに閑居し、睡眠を減らし、静かな瞑想（静定）を修めます。これは、世俗の欲望（事欲）と煩悩による欲望（煩悩欲）を断つためです。このような家系のバラモンたちは、梵天の世界を究極のものと見なし、梵天への再生を願って、欲界の生存（欲有）を求めません。 次に、如来は最上の真理（第一義）に基づく真のバラモンの姿を示して、その天に答えられます。もしバラモンが為すべきことを為した後、さらに繰り返し為すべきことがあり、それよりも優れた為すべきことがあるならば、その人は真のバラモンではないと知るべきです。しかし、もしバラモンがバラモンとして為すべきことを完全に成就し、あらゆる「我執の岸（薩迦耶岸）」を超えて陸地に安住するならば、その人が真のバラモンであると知るべきです。 これにより、修行中の者（有学）と修行を完成した者（無学）の両方がバラモンであることが示されます。 修行中の者には二種類あります。欲界において欲望を離れていない者と、欲望を離れた者です。 欲望を離れていない者は、根源（源底）に達しておらず、彼岸に到っていません。また、二つの法がまだ完全に備わっていません。一つは、心の内に優れた止（奢摩他）を得ていないこと。もう一つは、たとえ慧の法である観（毘鉢舍那）を得ていても、それが十分に清らかではないことです。 内なる止が欠けているため、彼は得たところの聖なる道という「浮き袋（いかだ）」に乗りながら、内なる止を得るために、あたかも足を動かすように勇猛に精進します。また、慧の観を完全に清らかにするために、あたかも手を動かすように勇猛に精進します。 そのように精進に励む中で、欲界の欲望を離れることを「根源に達した」と言い、阿羅漢果を証することを「彼岸に到った」と言います。 一方、欲望を離れた者は、内なる優れた止を証得し、また清らかな観をも獲得しています。ただ、さらに上の煩悩（上分結）を断ち切るためにのみ精進し、身体的な努力は必要としません。 もし、それらを全て超越して阿羅漢となり、為すべきことを成し遂げ、努力の必要がなくなったならば、それを「陸地に安住し、彼岸に到った」と言います。 これは、最上の真理（第一義）に基づくバラモンには、大きく分けて三種類あることを示しています。すなわち、修行中の者（有学）の二種と、修行を完成した者（無学）の一種です。 もし、究極の彼岸に到ったバラモンならば、これを「漏（煩悩）を永く尽くした者」と言います。 もし、欲界の欲望を離れていない状態で、全身全霊で精進する者ならば、これを「常に怠らず慎む者（常委）」を得たと言います。 もし、欲望を離れて根源に達した者ならば、これを「静慮を得た者」と言います。 静慮を得た者は、あらゆる下分の結縛を永く断ち切ったので、貪欲と瞋恚の類に属する全ての愁いや熾烈な苦しみを断ちました。 漏を永く尽くした者は、修行によって断つべき全ての煩悩を永く断ち切ったので、四つの念処を善く修習し、常に正念に住し、心の解脱を得ています。 そのような者には、「為した後にさらに繰り返し為すこと」や、「それよりも優れた為すべきこと」はありません。ゆえに、この者を「最上の真理に基づく真のバラモン」と説くのです。

苾芻！苾芻！已度暴流耶？

> 比丘よ、比丘よ、あなたはもう激しい流れを渡り終えたのですか？

告言：如是，天！

> そうだ、天よ。

無攀無住，已度暴流耶？

> 執著せず、どこにもとどまらず、すでに激しい流れを渡り終えたのでしょうか。

告言：如是，天！

> そうだ、天よ、そのとおりである。

苾芻！汝今猶如何等無攀無住，已度暴流？

> 比丘よ、あなたは今、どのようにして何にも執着せず、とどまることなく、激しい流れを渡り終えたのですか？

如如我劬勞， 如是如是劣；如如我劣已， 如是如是住；如如我住已， 如是如是漂。天！我如如捨劬勞， 如是如是無減劣。如是廣說鮮白品、 此中祇焰頌應知。

> 私が疲れるほどに、その分だけ劣っていく。 私が劣るほどに、そのままの状態に留まる。 私が留まるほどに、そのまま流され漂う。 天よ！私が疲れを捨てるほどに、その分だけ劣りはなくなる。 このようにして清らかな教えが説かれた。この中で「祇焰頌」として知られるべきである。

今此頌中，無攀無住者，謂涅槃、滅定，如前已說。

> 今のこの偈頌の中で、「執着せず、とどまらない」とは、涅槃（ねはん）と滅尽定（めつじんじょう）のことを指しており、前にすでに説明した通りです。

世尊依昔示現修習菩薩行時，所有最極難行苦行非方便攝勇猛精進；又依示現坐菩提座，非方便攝勇猛精進斷遍知故；說如是言：天！汝當知，我昔如如虛設劬勞，如是如是我便減劣；如如減劣，如是如是我便止住；如如止住，如是如是又被漂溺。與此相違，應知白品。此中顯示修苦行時，非方便攝勇猛精進，名曰劬勞。行邪方便，善法退失，名為減劣。既知退失諸善法已，息邪方便，說名止住。捨諸苦行，更求餘師，遂於嗢達洛迦、阿邏茶等邪所執處，隨順觀察，故名漂溺。復於後時坐菩提座，棄捨一切非方便攝勇猛精進，所有善法遂得增長。如如善法既增長已，如是如是於諸善法不生知足，不遑止住，於所修斷，展轉尋求勝上微妙。既由如是不知足故，遂不更求餘外道師。無師自然修三十七菩提分法，證得無上正等菩提，名大覺者。此中四義，捨劬勞等四句經文，如其次第配釋應知。云何復依涅槃無依無住以顯差別？謂不能度諸煩惱纏隨眠暴流，略由四因。何等為四？謂最初有依耽嗜尋。依耽嗜尋為依止故，便有懈怠。又由懈怠為依止故，住異生分。住異生分為依止故，順生死流貪愛勢力，令於五趣生死河中順流漂溺。與此相違四種因故，能度暴流，如應當知。云何復依想受滅定以顯差別？謂如有一，先已證得想受滅定，復住放逸，多住想受，而不多住諸想受滅。由此因緣，退失滅定。由退失故，還復止住下地生因。住彼因故，心便定趣彼所得果。與此相違，應知白品四句差別。

> 世尊は、かつて菩薩として修行していた時の、最も過酷な苦行について示されました。それは、賢明な方法に支えられていない激しい精進でした。また、菩提座に坐って悟りを開かれた時も、賢明な方法に支えられていない激しい精進ではなく、煩悩を完全に断ち尽くすことによって、次のようにおっしゃいました。 「天よ、知るがよい。私は、無駄な努力をすればするほど、かえって退歩した。退歩すればするほど、立ち止まった。立ち止まればするほど、再び溺れていった。」 これと反対の状態が、善い側面であると知るべきです。 ここで示しているのは、苦行を行っている時は、賢明な方法に支えられていない激しい精進、「無駄な努力」と呼ばれるものです。間違った方法を実践すると、善い性質が退失するので、「退歩」と言います。善い性質が退失したと知って、間違った方法をやめることを「立ち止まる」と言います。様々な苦行を捨てて、他の師を求め、ウッダカ・ラーマプトラやアーラーダ・カーラーマなどの誤った教えに従って観察するので、「溺れる」と言います。 その後、菩提座に坐って、賢明な方法に支えられていない激しい精進を全て捨てると、全ての善い性質が増長しました。善い性質が増長すればするほど、それらに満足せず、止まることなく、修行して断つべきことをさらに優れたものへと求めて進みました。このように満足しないことによって、他の外道の師を求めることはありませんでした。師なくして自然に三十七菩提分法を修行し、無上の正等覚を証得して、「大覚者」と呼ばれるようになりました。 ここにある四つの意味、すなわち「無駄な努力」などの四つの経文は、その順序に対応して解釈すべきです。 次に、涅槃が無依無住であるという観点から、どのような違いが示されるのでしょうか。それは、煩悩の束縛や汚れ、激流を超えられないことです。おおまかに言って、四つの原因があります。四つとは何か。最初に、依存と渇愛に基づく妄想があります。この妄想を拠り所とするため、怠惰が生じます。さらに、怠惰を拠り所とするため、凡夫の状態に留まります。凡夫の状態に留まることを拠り所とするため、生死の流れに従う貪欲の力によって、五つの生存領域の生死の川を流れに沿って漂い溺れます。これと反対の四つの原因によって、激流を超えることができると、対応して知るべきです。 次に、想受滅定に基づいて、どのような違いが示されるのでしょうか。例えば、ある人がすでに想受滅定を証得していたが、放逸に住し、想受の状態に多く留まり、想受の消滅にはあまり留まらなかったとします。この原因によって、滅定を失います。退失したことにより、再び下位の生存の原因に留まります。その原因に留まるため、心はその結果である果報に向かって確かに向かいます。これと反対の状態が、善い側面の四つの違いであると知るべきです。

獨臻阿練若， 靜慮、棄珍財；為別有方求， 為窺窬封邑。何不與人交， 而絕無徒侶？得義、心寂靜， 摧妙色魔軍。我獨處思惟， 受最勝安樂；故不與人交， 而絕無徒侶。

> ひとり阿蘭若（あらにゃ）に至り、 静かに瞑想し、財宝を棄てた。 他に求めるものがあるのか、 それとも領地をうかがうためか。 なぜ人と交わらず、 まったく仲間を持たないのか。 真理を得て、心は静まり、 妙なる色の魔軍を打ち破った。 私は独りで思惟し、 最も勝れた安楽を受ける。 だから人と交わらず、 まったく仲間を持たないのだ。

此因天女所問伽他。言得義者，略有二種。一者、證得沙門果義，二者、證得聖神通義。由初得義，超越一切生死大苦；第二得義，證八解脫，寂靜思惟現法樂住。又初得義，降伏可愛妙色魔軍；第二得義，獨處思惟，受勝安樂。此中意辯聖神通義。所以者何？謂如有一，為欲成辦聖神通義，為令解脫清淨圓滿，依十遍處方便修行；由此因緣，令遍處定清淨圓滿，亦令解脫轉得清淨圓滿鮮白，亦能成辦聖神通義。彼既了知此成辦已，便自通達我義已辦，沙門果義亦得成就，是真沙門。於求財者深修厭毀；於諸城邑交遊等處，了知其初、了知過患、了知出離，亦能了知趣出離行。生彼因緣，說名為初。無常、眾苦、變壞法性，是名過患。欲貪調伏斷除超越，名為出離。聖八支道，名趣出離行。若有於彼不見其初，乃至不見趣出離行。由是因緣，於具珍財有情等處，不能厭毀，城邑交遊，周旋不絕，而謂彼為心得寂靜；於出居家證八解脫靜慮定者內心寂靜，反生誹謗。由是彼於內心寂靜，則不堪能善見、善知、善鑒、善達。若第一義內心寂靜與此相違，則能善見乃至善達。

> これは天女が問うた伽陀によるものです。「義を得る」とは、大きく分けて二つあります。第一は、沙門の果報を証得する義、第二は、聖者の神通力を証得する義です。第一の義を得ることで、一切の生死の大苦を超越します。第二の義を得ることで、八解脱を証得し、寂静な思惟により現法に楽住します。また、第一の義は、愛すべき妙色の魔軍を降伏します。第二の義は、独り思惟して勝れた安楽を受けます。ここでは、聖者の神通力の義について述べます。なぜなら、ある者が聖者の神通力を成辦しようとし、解脱の清浄円満を図るために、十遍処に依って修行するからです。この因縁により、遍処定は清浄円満となり、解脱もまた清浄円満・鮮白となり、聖者の神通力も成辦されます。彼はこれを了知すると、自ら「我が義は已に辦せり。沙門の果報の義もまた成就せり。是れ真の沙門なり」と通達します。財を求める者には深く厭離し、諸々の城邑や交遊の場については、その初めを了知し、過患を了知し、出離を了知し、また出離に向かう行を了知します。生の因縁を「初め」と名づけます。無常・苦・変壊の法性を「過患」と名づけます。欲の貪りを調伏し、断除し、超越することを「出離」と名づけます。聖八支道を「出離に向かう行」と名づけます。もし彼がその初めを見ず、乃至、出離に向かう行を見なければ、その因縁により、財宝を有する有情などに対して厭離せず、城邑や交遊を周旋してやまず、「彼は心の寂静を得た」と言います。出家して八解脱の静慮定を証得した者の内心の寂静に対して、かえって誹謗します。ゆえに彼は内心の寂静について、善く見、善く知り、善く鑑み、善く達することができません。もし第一義の内心寂静がこれと相違すれば、その人は善く見、乃至、善く達することができるのです。

復次，今當略辨上所說義。謂薄伽梵於此略示，諸受欲者、樂雜住者，非第一義內心寂靜；若有證得八解脫定，離諸愛味，名第一義內心寂靜。當知是名此中略義。

> さらに、ここで先に述べたことの要点を簡潔に明らかにしましょう。つまり、世尊（仏陀）はこの経典において、次のように簡潔に示されたのです。すなわち、欲望に執着する者や、群れでの暮らしを好む者は、最も優れた意味での心の静けさを得ていない、と。しかし、八解脱（八つの解放の境地）を体得し、あらゆる執着の味わいから離れた者は、最も優れた意味での心の静けさを得ている、と。これが、この箇所の要点であると知るべきです。

諸行無常， 有生滅法。 由生滅故，彼寂為樂。

> あらゆる現象は移り変わるものであり、生まれては滅びるという性質を持っています。<sep>この生滅により、<sep>その静けさこそが本当の幸せなのです。

今此頌中，蘊及取蘊皆名諸行。此中義者，意在取蘊。是五取蘊略有三種，謂去、來、今。諸行無常者，謂彼諸行本無而生，生已尋滅。若過去生，過去所得諸自體中所有諸蘊，皆過去故，已謝滅故，生已沒故，體是無常。若未來生，未來所得諸自體中所有諸蘊，皆未生故，非已起故，未滅沒故，可生起故，是有生法。若現在生，現在所得諸自體中所有暫住支持存活有情諸蘊，皆死法故，可為殞滅之所滅故，是有滅法。若彼諸蘊，在於未來所得自體，是有生法；於中都無所得自體是常、是恒，乃至即當如是正住。唯除纔生，生已尋滅。若諸有情於現法中，永盡未來諸蘊因者，一切未來自體諸蘊皆不生故，說名彼寂。又復此寂，由二因緣說之為樂。一者、一切苦因滅故，一切麁重永止息故，於現法中安樂住故，說之為樂。二者、當來生老病等所有眾苦永解脫故，說之為樂。

> 今この偈頌において、「蘊」と「取蘊」は、いずれも「諸行」と呼ばれます。ここでの意味は、取蘊にあります。この五取蘊には、大きく分けて三つ（過去・未来・現在）があります。 「諸行無常」とは、これらの諸行が元は無かったところから生じ、生じたかと思うとやがて滅することを指します。過去に生じたものについて言えば、過去に得た自らの身体の中にあるすべての蘊は、すべて過去のものとなり、すでに消え去り、生じては滅したものであり、その本質は無常です。未来に生じるものについて言えば、未来に得る自らの身体の中にあるすべての蘊は、まだ生じておらず、まだ起こっておらず、滅してもおらず、これから生じうるものであり、「生じる性質を持つ法」です。現在に生じているものについて言えば、現在得ている自らの身体の中で、一時的にとどまり支えとなり命をつなぐ有情のすべての蘊は、すべて死すべき性質を持ち、消滅によって滅ぼされるものであり、「滅する性質を持つ法」です。 もし諸蘊が未来に得る自らの身体にあるならば、それは「生じる性質を持つ法」です。その中で、常住・不変の自らの身体を得ることは、まったくありません。ただ、生じたかと思うとすぐに滅するのみです。 もし有情が現世において、未来のすべての蘊の因を完全に尽くしたならば、未来の自らの身体に関するすべての蘊は生じなくなります。これを「彼の寂滅」といいます。 さらに、この寂滅は、二つの理由によって「楽」であると説かれます。第一に、すべての苦しみの原因が滅し、すべての粗重（煩悩の重さ）が永遠に止み、現世において安らかに楽しく住するからです。第二に、未来に生・老・病などのあらゆる苦しみから永遠に解脱するからです。

復次，今當略辨上所說義。謂薄伽梵此中略說，正見依處及正見果。復有差別。謂略顯示遍知依處及彼斷滅。又略顯示所遍知法及與遍知。又略顯示三世諸行所有雜染，及彼寂故所有清淨。又略顯示諸緣起法及緣起滅。又略顯示苦諦、滅諦。又略顯示空與無願二解脫門所依處所，及顯無相一解脫門所依處所。又略顯示聖諦現觀相違二法斷所依處。言二法者，一、隨順戲論，二、怖無戲論。又略顯示不共外道二對治法。何等為二？一者、所知無顛倒性，二者、所證無顛倒性。

> さらに、ここで今述べた内容の要点を簡単に明らかにしましょう。尊師はこの中で、正しい見解の拠り所と、その結果を簡潔に示されました。また別の観点からは、完全に知るべき拠り所と、その断滅について簡潔に示されています。さらに、完全に知られるべき法と、それを知ることについても簡潔に示されています。また、過去・現在・未来のすべての行（現象）における煩悩と、それらが静まったことによる清らかさについても簡潔に示されています。さらに、縁起の法と、縁起の滅尽についても簡潔に示されています。また、苦諦と滅諦についても簡潔に示されています。さらに、空と無願という二つの解脱の門が拠り所とするもの、および無相という一つの解脱の門が拠り所とするものについても簡潔に示されています。また、聖諦の現観に反する二つの法が断たれる拠り所についても簡潔に示されています。その二つの法とは、第一に戧論に随順すること、第二に無戯論を怖れることです。さらに、外道には共通しない二つの対治法についても簡潔に示されています。その二つとは何か？第一は知られるべきものに顚倒がない性質、第二は証得されるものに顚倒がない性質です。

無逸不死跡； 放逸為死跡。無逸者不死； 縱逸者常死。

> 怠らなければ、不死の道。 怠れば、死の道。 怠らなければ、死なない。 怠れば、常に死に向かう。

今此頌中，云何無放逸是不死迹耶？謂如有一，依四所依立四種護。謂命護、身護、心雜染護、正方便護。是名不放逸。此不放逸為依、為持，涅槃資糧未圓滿者，令速圓滿；已圓滿者，令於現法得般涅槃。云何放逸為死迹耶？謂如有一居家白衣，於諸欲境耽著受用，造不善業。或有出家，現四無護。謂命無護乃至正方便無護。如是放逸通於二品。謂在家品及出家品。即此放逸為依、為持，樂生本行，造生本業。因此故生，生已壽終，生已夭沒。云何無縱逸者不死，縱逸者常死耶？謂死有五種。一者、調善死，二者、不調善死，三者、過去死，四者、現在死，五者、未來死。若善修習此無縱逸補特伽羅，於現在世由調善死而正死時，由過去死已死，於過去世，亦由不調善死；於現在世，不由不調善死而死，於未來世，不由調善死，不由不調善死而死。故名不死。若有縱逸補特伽羅，於現在世由不調善死而正死時，於過去世，亦由不調善死已死；於現在世，即由不調善死而死；於未來世，亦由不調善死當死。故名常死。

> ここでいう「不放逸は不死の道筋」とは何か？ ある人が、四つの拠り所に従って四つの護りを確立する。 すなわち、命の護り・身体の護り・心の汚れの護り・正しい手段の護りである。 これが不放逸である。 この不放逸を拠り所とし支えとして、涅槃に至る資糧が未だ満たされない者は速やかに満たし、既に満たされた者は現世において涅槃を得る。 では、「放逸が死の道筋」とは何か？ ある在家の者が、様々な欲望の対象に執着して楽しみ、不善の業を造る。 あるいは出家者が、四つの護りを持たない状態にある。 すなわち、命の護りが無く、正しい手段の護りに至るまで欠けている。 この放逸は、在家と出家の両方に共通する。 この放逸を拠り所とし支えとして、再生を喜び、再生の業を造る。 それによって生まれ、生まれてから命が終わり、あるいは夭折する。 では、「不放逸な者は死なず、放逸な者は常に死ぬ」とは何か？ 死には五種ある。 一に、善く整えられた死、二に、整えられない死、三に、過去の死、四に、現在の死、五に、未来の死である。 もしこの不放逸をよく修行する人が、現在世において善く整えられた死によって正に死ぬ時、過去の死によって既に死んでおり、過去世においても整えられない死によって死んでいた。 しかし現在世においては、整えられない死によっては死なず、未来世においても、善く整えられた死や整えられない死によって死ぬことはない。 だから「不死」という。 もし放逸な人が、現在世において整えられない死によって正に死ぬ時、過去世においても整えられない死によって既に死んでいた。 現在世においては、まさにその整えられない死によって死に、未来世においても、やはり整えられない死によって死ぬであろう。 だから「常に死ぬ」という。

復次，今當略辨上所說義。謂薄伽梵此中略示，無縱逸者，道諦、滅諦；有縱逸者，集諦、苦諦。又略顯示處非處性、自業作性。前半顯示處非處性，後半顯示自業作性。又前半顯示師於弟子作所應作，後半顯示諸弟子等自所作義。

> では、今から先に述べたことの意味を簡単に明らかにしましょう。 尊き方はここで、たゆまぬ努力をする者には「道の真理（道諦）」と「滅びの真理（滅諦）」を、努力を怠る者には「集まりの真理（集諦）」と「苦しみの真理（苦諦）」を示されました。 また、善悪などの道理（理にかなっているかどうか）と、自らの行いに応じた報いの法則（自業自得）の二つを、簡潔に示しています。 前半の部分は善悪の道理を、後半の部分は自業自得の法則を表しています。 さらに、前半は師が弟子に対してなすべきことを、後半は弟子たちが自らの義務としてなすべきことを示しています。

眾生尋思所鑽搖， 猛利貪欲隨觀妙；倍增染愛而流轉， 便能自為堅固縛。

> 人々は心の迷いにかき乱され、強い欲望が真理を見えにくくする。 その執着はますます強まり、人は苦しみの輪廻へと流れていく。こうして自らを固い束縛に縛りつけてしまうのだ。

今此頌中，云何尋思之所鑽搖？謂如有一，於先所得、先所受用諸欲境界，不正作意，發生不善依於耽嗜諸惡尋思。

> この偈の中で、何が「尋思（思考）によって揺さぶられること」を意味するのでしょうか。 それは例えば、ある人が、以前に得たり、味わったりした様々な欲望の対象に対して、正しい心の向け方をせず、執着に基づく様々な不善の思いを起こすことです。

云何猛利貪欲？謂如有一，於昔餘生修習貪欲，亦多修習；由是因緣，令此生中，於先所得、先所受用諸欲境界，雖正作意，而被貪欲散壞其心。

> 強い貪欲とは何か。例えば、ある人が過去の生涯において貪欲を繰り返し修習してきたとする。その因縁によって、現世において、以前に得たり受け入れたりした欲望の対象に対し、正しく注意を向けようとしても、貪欲によって心がかき乱されてしまう状態をいう。

云何隨觀淨妙？謂如有一，不善護身，不攝諸根，不住正念，遊行聚落，見甚少年可愛美色諸母邑已，便不如理取淨妙相；由此因緣，身心燒惱。

> どのようにして「清らかで美しい」と見なすのでしょうか。 例えば、ある人が自分の身体をしっかりと守らず、感覚の働きを制御せず、正しい心構えを保たないまま村や町を歩いているとします。そこで、若くて愛らしく美しい女性たちを見かけた瞬間、道理にかなわない形で「清らかで美しい」という印象をとらえてしまいます。その結果、心身ともに苦しみ、悩み、焦りに焼かれてしまうのです。

云何倍增染愛？謂由五種相貌，當知染愛增長。何等為五？謂如有一，雖於下劣諸欲境界，尚生猛利諸貪欲纏，耽著不捨，何況上妙。又以非法多分凶暴積集珍財，不以正法，亦常攝受增上眾具。又於輕賤無所用物，尚不欲捨，何況貴重。雖為追求少劣財物，尚行眾多身語意惡，何況多勝。又於受持少小妙行，其心尚無趣向愛樂，何況廣大。又於涅槃尚不樂聞，何況欲得。

> どのようにして執着の愛が倍増するのか？それは五つの様相によって知られるべきである。どのような五つかというと、例えばある人が、劣った欲望の対象に対してさえ、激しい貪欲の束縛を生じ、それに耽着して手放そうとせず、ましてや優れた対象においてはなおさらである。また、非法で粗暴に財宝を多く集め、正しい法によらずに、さらに多くの道具や財産を増やし続ける。また、軽んじられて価値のない物でさえ手放そうとせず、ましてや貴重な物においてはなおさらである。少しばかりの下らない財物を追い求めるためにも、多くの身・口・意の悪業を積み、ましてや多くの優れた財物を得るためにはなおさらである。また、少しの善い行いを受持することに対しても、心に興味や愛楽を向けることなく、ましてや広大な善行においてはなおさらである。また、涅槃についてさえ聞くことを好まず、ましてやそれを得たいとは思わない。

云何堅固縛？謂由三種相，知堅固縛。一、堅牢故；二、苦所觸故；三、長時隨逐故。於現法中，由惡行根貪瞋癡故，知縛堅牢；於當來世，由生那落迦、傍生、鬼趣，知苦所觸及長時隨逐。

> どのようなものが堅固な束縛でしょうか。それは三つの特徴によって知られます。第一に、堅固であること。第二に、苦しみによって触れられること。第三に、長い間付きまとうことです。現世においては、悪行の根源である貪り・怒り・無知によって、その束縛が堅固であると知られます。来世においては、地獄・畜生・餓鬼の世界に生まれることによって、苦しみに触れられ、長い間付きまとわれると知られるのです。

復次，今當略辨上所說義。謂略顯示依二失壞因，有二種失壞。何等名為二失壞因？謂不正思惟力及因力。云何名為二種失壞？謂方求失壞及受用失壞。云何不正思惟力？謂隨念先所受用境界因緣所生不正思惟，或邪分別現前境界因緣所生不正思惟，或邪取相不正思惟，或即於彼若住、若行不正思惟。云何因力？謂於可愛境界宿習欲貪。云何方求失壞？謂如有一，成就二種失壞因故，以非正法，或以凶暴，追求積集所有邪財。云何受用失壞？謂如有一，於先所得順樂、順苦、順非苦樂諸境界中，或有於一生染、生著，廣說乃至不知出離而受用之。或有於一發生憎恚，憎恚所蔽。或有於一發生愚癡，愚癡所蔽。彼由如是貪染所蔽，乃至愚癡之所蔽故，行身語意種種惡行；為貪瞋癡三堅固縛之所纏縛，亦為那落迦、傍生、鬼等諸縛所縛。又有差別。謂愛結所繫補特伽羅，略有七種雜染，當知皆是貪愛所作。謂隨念雜染、不自在雜染、境界雜染、熱惱雜染、善趣相應雜染、惡趣相應雜染、諸見雜染。云何隨念雜染？謂如有一，不正隨念先所受用可愛境界，悕望追求，令心散壞。云何不自在雜染？謂如有一，宿世串習貪欲法故，今世貪欲為性猛利；雖復如理於可愛境隨念作意，而有悕望追求貪欲散壞其心。彼由貪欲極猛利故，心不自在。云何境界雜染？謂如有一，遊城邑等，現前會遇容色端嚴可愛境界；由彼境界極端嚴故，隨美妙相心識纏綿，因此發生悕望追求種種貪愛。云何熱惱雜染？謂如有一，由是三種能長貪愛諸雜染故，令已貪愛展轉增盛；追戀過去已受用境，悕求未來當受用境，耽著現在正受用境，乃令身心周遍熱惱。云何善趣相應雜染？謂即由彼貪愛集諦增上力故，行身語意種種妙行，得生善趣，或天、或人；彼於樂受耽著不捨，醉悶而住，專行放逸。云何惡趣相應雜染？謂即由彼貪愛集諦增上力故，行身語意種種惡行，身壞命終墮諸惡趣，生那落迦等；於彼生已，便為種種極重憂苦，惡心、憤心之所擾惱。云何諸見雜染？謂即由彼貪愛集諦增上力故，會遇惡友，說顛倒法，為令雜染得解脫故。彼雖悕求雜染解脫，由遇如是倒說法故，不證解脫。於六十二諸見趣中，隨令一種邪見增長；於諸緣起法，愚癡增上故。彼由如是見結所繫，於五趣等生死大海，不得解脫。

> さらに、ここで、今述べてきたことの意味を簡潔にまとめよう。簡潔に示せば、二つの破壊の原因によって、二つの破壊が生じる。では、二つの破壊の原因とは何か。それは、正しくない思考の力と、因の力である。では、二つの破壊とは何か。それは、求め方の破壊と、享受の仕方の破壊である。 正しくない思考の力とは、かつて享受した対象（境界）を思い起こすことによって生まれる正しくない思考、または目の前の対象を誤って分別することによって生まれる正しくない思考、または誤った捉え方をする正しくない思考、あるいはそれらの対象に対して、留まるときも歩くときも生じる正しくない思考である。 因の力とは、愛しい対象に対して、過去からの習慣によって生まれた欲求と貪りのことである。 求め方の破壊とは、この二つの破壊の原因を備えた人が、正しくない方法や、乱暴な手段で、あらゆる不正な財を求めて集めることである。 享受の仕方の破壊とは、ある人が、以前に得た、快・苦・どちらでもない様々な対象に対して、あるものには染まり執着し、広く説けば、そこから出離する方法を知らずに享受することである。あるいは、ある対象に対して憎しみを起こし、その憎しみに覆われる。またあるいは、ある対象に対して愚かさを起こし、その愚かさに覆われる。彼はこのような貪りの汚染や、憎しみや、愚かさに覆われているがゆえに、身・言葉・心で様々な悪行を行い、貪り・怒り・愚かさという三つの堅い束縛に縛られ、さらには地獄・餓鬼・畜生などの束縛にも縛られる。 また、別の分け方もある。愛の結びつきに縛られた人には、大きな分類として七つの汚れがある。これらはすべて貪りの愛によって生じると知るべきである。その七つとは、回想の汚れ、不自在の汚れ、対象の汚れ、苦悩の汚れ、善い世界に対応する汚れ、悪い世界に対応する汚れ、そして様々な見解の汚れである。 回想の汚れとは、ある人が、かつて享受した愛しい対象を正しくなく回想し、それに憧れ追い求めて、心を散乱させることである。 不自在の汚れとは、ある人が、過去世から貪りの欲の法に慣れ親しんできたため、現世では貪りの欲が非常に強い性質を持つことである。たとえ道理に従って愛しい対象を正しく心に留めようとしても、憧れや追求の貪りの欲が心を散乱させる。彼は貪りの欲があまりにも強いため、心が自在ではない。 対象の汚れとは、ある人が街などに行き、目の前に美しい容貌の愛しい対象に出会うことである。その対象が非常に美しいため、その美しい形に心が絡みつき、そこから様々な憧れや執着が生まれる。 苦悩の汚れとは、ある人が、これら三つの貪りの愛を育てる汚れによって、すでにある貪りの愛がさらに増大し、過ぎ去った享受の対象を追い求め、未来に享受すべき対象を憧れ、現在享受している対象に執着し、その結果、心身が隅々まで苦しみに満ちることである。 善い世界に対応する汚れとは、まさにその貪りの愛という苦しみの原因の力によって、身・言葉・心で様々な善い行いを行い、善い世界、すなわち天や人に生まれることである。彼らは快い感覚に執着して離れず、酔いしれたように留まり、ひたすら放逸にふける。 悪い世界に対応する汚れとは、まさにその貪りの愛という苦しみの原因の力によって、身・言葉・心で様々な悪い行いを行い、死んでから悪い世界、すなわち地獄などに堕ちることである。そこに生まれた後は、極めて重い苦しみや、悪意・怒りの心に悩まされる。 様々な見解の汚れとは、まさにその貪りの愛という苦しみの原因の力によって、悪い友人に出会い、間違った教えを聞かされ、その汚れから解脱しようとすることである。彼は汚れからの解脱を願っているが、そのような間違った教えに出会ったため、解脱を悟ることができない。六十二もの様々な誤った見解の中から、いずれか一つの誤った見解を増長させる。縁起の道理に対して無知であるからである。彼はこのような誤った見解の結びつきに縛られ、五つの生存の世界などの生死の大海から解脱できない。

住法具尸羅， 有慚、言諦實，能保愛自身， 亦令他所愛。

> 法（真理）に安住し、戒律を保ち、 慚愧の心を持ち、言葉は誠実である。 そのような人は、自らを大切にし、 他人からも愛される存在となる。

今此頌中，云何住法？謂於如來所證善說正法毘奈耶中，淨信出家，樂修梵行。云何具尸羅？謂如是出家、如是愛樂故，於戒無缺。乃至無雜相續而作、相續而轉，於諸學處能受能學。云何有慚？謂慚於可慚，慚於能生惡不善法。謂能順惡戒、穴戒因緣，即不正相、不正尋思，若諸煩惱及隨煩惱。云何言諦實？謂發露諸惡、不藏諸惡。若有所犯，即於智者同梵行邊，如實自舉，如法對治。

> この偈の中で、どのようにして法に住むのかというと、如来が悟り、善く説かれた正しい法と戒律の中において、清らかな信心で出家し、清らかな行いを喜んで修行することです。どのようにして戒律を具えるのかというと、このように出家し、このように愛好するがゆえに、戒律に欠けるところがなく、混じり気なく、相続して行い、相続して転じ、すべての学処を受けて学ぶことができることです。どのようにして慚愧があるのかというと、恥じるべきことに恥じ、悪い不善の法を生じさせることに恥じることです。すなわち、悪い戒律や穴のあいた戒律の因縁、すなわち正しくない形相、正しくない尋思、あるいは諸々の煩悩や随煩悩を生じさせることに恥じることです。どのようにして言葉が真実であるのかというと、諸々の悪を告白して隠さず、もし犯すところがあれば、すぐに智者や同じ梵行を修行する人のもとで、ありのままに自分を挙げて、法に従って対治することです。

復次，今當略辨上所說義。謂薄伽梵於此頌中，略顯四因所攝尸羅清淨。謂能正受故；受已不穴故；遠離穴因故；雖由無知、放逸穴已，即便如法而對治故。當知是名此中略義。

> さて、ここで上述した内容の要点を簡潔に説明しよう。尊師はこの偈頌において、四つの要素にまとめられる戒律の清らかさを簡潔に示している。それは、正しく戒律を受け入れること、受け入れた後にその戒律を破らないこと、戒律を破る原因から遠ざかること、そして無知や放逸によって戒律を破ってしまったとしても、すぐに正しい方法で対処することである。これがここでの簡潔な意味だと知るべきである。

若見他惡業， 能審諦思惟；自身終不為。 由彼業能縛。

> 他者の悪い行いを見たなら、 よくよく考えてみなさい。 自分は決してそのようにはすまい、と。 なぜなら、悪行は結局、自分を縛るからです。

今此頌中，云何見他惡業，審諦思惟？謂如有一，或善男子、或善女人，為性聰慧，成就如理諦觀法忍。見他現行惡行因故，便遭種種挫辱楚撻，又為王人執至王所，廣說如經，乃至斷命。見已便作如是思惟：觀觀是人，於現法中造作如是惡不善業，即於現法還受如是辛楚果報；乃至止止如是惡不善業，終不應為、終不應作、終不應行，終不應犯。即彼又見屠羊、雞、猪，廣說一切不律儀眾。不由如是作業伎能活命方術，而乘象馬車乘輦輿；又不因此能致廣大財寶庫藏，令不散失；然為世間之所訶毀。凡在傭俗，尚不以身暫相觸受，而遠避之，況餘賢哲。見已便作如是思惟，餘如前說。即彼又見他人巨富，饒大財寶；然由嬾惰多住縱逸，經過日夜，淹積歲月，所有珍財僮僕基業，及諸善法，漸漸衰退。見已便作如是思惟，餘如前說。即彼又見種種有情身相差別。或有生盲、生聾、生瘂、或瞎、或跛、或癬、或癩、或復短壽、或惡形色、或多疾病、或貧賤家、或少支屬、或弊惡慧、或扇宅迦、或半宅迦、或醜形類，餘即不爾。見已便作如是思惟：觀觀是人，先作種種惡不善業，今受如是苦惡果報；乃至止止如是惡不善業，餘如前說。即彼又見他人黠慧，無有嬾惰，具足翹勇。所謂能作營農、商賈、行船等業，及能正作言論事業。彼雖具足如是翹勇，所作事業數漸衰損，終無成辦。見已便作如是思惟，餘如前說。即彼又見二人出家，趣於非家，同修梵行。一、於衣服、飲食等利有所匱乏，一則不爾。見已便作如是思惟，餘如前說。即彼又見或有國王，或是王等，大地封疆咸皆克伏，堅著不捨。但為一身一具骸骨，唯為現在少小安樂，身語意門現行無量廣大惡行，損壞多生多身安樂，當受多生多身大苦。見已便作如是思惟：觀觀是王、或是王等甚為愚弊，唯知保愛一生一身，不知保愛多生多身，唯愛現在少時小樂，不愛當來多時大樂，亦非不愛多生重苦；乃至止止如是惡不善業，終不應為、終不應作、終不應行、終不應犯。復有或善男子、或善女人，為性聰慧，獲得天眼；用此天眼見諸有情死時、生時，如經廣說，乃至生在大那落迦中。見已便作如是思惟：觀觀是人、於現法中造作如是惡不善業，令受後法辛楚果報；乃至止止如是惡不善業。餘如前說。如是或善男子、或善女人，見他所作諸惡業已，由四種行，諦善思惟、諦善觀察。何等為四？一者、觀察或因違越，或邪活命，或放逸懈怠，於現法中造作種種惡不善業，即現法受非愛果報。二者、觀察或有有情依身差別，或有所作而不果遂，或有所求而不果遂，皆由先造惡不善業，故現法中各受如是非愛果報。三者、觀察或有國王或與王等，因現法中行諸惡業，比知當來定受種種非愛果報。四者、觀察諸有情類死時、生時，因現法中造作種種惡不善業，後法中受非愛果報。彼由如是如實知故，終不自作。云何業縛？謂樂諸業故，由業重故，於業果報不自在故。樂諸業者，謂如有一，串習惡故，愛樂諸惡。由此因緣，於諸善法心不能入。是初業縛。由業重者，謂如有一，於無間業，或有具造，或不具造。由此因緣，雖有欣樂於佛所證善說正法毘柰耶中，暫時出家尚不能得，況當能獲沙門果證。如是名為第二業縛。於業果報不自在者，謂如有一，由身語意惡行因緣，生諸惡趣。生彼處已，不得自在，不能自任長夜受苦；或生邊地，於彼絕無四賢善眾，所謂苾芻，廣說乃至鄔波斯迦。如是名為第三業縛。

復次，今當略辨上所說義。謂薄伽梵於此略示，依諸有情業業果報，如理思惟；及顯如理思惟為先，法隨法行。當知是名此中略義。

> 次に、これまで述べてきたことの意味を簡単にまとめます。 世尊（釈迦牟尼仏）はこの教えの中で、あらゆる生きとし生けるものの行為とその結果（業と業報）について、正しく思惟することの大切さを簡潔に示されました。そして、その正しい思惟を基盤として、教えに従い実践することを明らかにされています。 これこそが、ここで述べられている教えの要旨であると知るべきです。

## 瑜伽師地論卷第十八

> 『瑜伽師地論』 巻第十八