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title: "瑜伽師地論 · 3"
description: "瑜伽师地论是佛教大乘瑜伽行派的重要经典，相传由弥勒菩萨口述，无著菩萨记录，唐代高僧玄奘于贞观年间从印度取回并译成汉文。该论共100卷，系统阐述瑜伽行派的教义，内容包括十七地、三性、八识、修行次第等核心理论，被誉为大乘佛教的百科全书。作为唯识学的根本论典，瑜伽师地论奠定了唯识学派的理论基础，对汉传佛教和藏传佛教影响深远，在佛教思想史上具有崇高地位，是研究唯识学和瑜伽行派必读的经典著作。"
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## 瑜伽師地論卷第十九

> 『瑜伽師地論』 第19巻

彌勒菩薩說

> 弥勒菩薩の教え

三藏法師玄奘奉　詔譯

> 三蔵法師玄奘奉詔訳

### 本地分中思所成地第十一之四

> 第十一章 修習所成地（思所成地）第四節

賢聖常說最善語； 愛非不愛語第二；諦非不諦語第三； 法非非法語第四。

> 賢者や聖者は、常に最も善い言葉を語る。 愛ある言葉（嫌われない言葉）を語るのが第二。 真実の言葉（偽りのない言葉）を語るのが第三。 真理にかなった言葉（真理に反しない言葉）を語るのが第四。

今此頌中，言善語者，所謂善說、善言、善論。當知善說有三種相。所謂悅意、無染、唯善。由第一語，令他慶悅。由第二語，令自尸羅終無穿缺。由第三語，能令他人出不善處，安住善處，因此引攝利益安樂。或有愛語，非諦、非法。謂如有一，以美妙言，稱讚他人非真實德。或有諦語，非愛、非法。謂如有一，以染污心，發麁惡言，訶責他人真實過惡。或有法語，亦愛亦諦。謂如有一，善知稱讚及與訶責。知可稱讚、可訶責已，然不稱讚，亦不訶責，唯善方便為說正法，能令彼人出不善處安住善處。

> この偈頌の中で「善き言葉」と言うのは、すなわち善く語り、善く言い、善く論じることを意味します。善く語ることには三つの特徴があると知るべきです。すなわち、聞く人を喜ばせること、煩わしさがないこと、純粋に善いことです。 第一の言葉によって、他者を喜ばせます。 第二の言葉によって、自らの戒めが決して欠けることなく保たれます。 第三の言葉によって、他者を不善な状態から抜け出させ、善い状態に安住させ、それによって利益と安楽をもたらします。 あるいは、愛のある言葉であっても、真理にかなわず、法にかなわない場合があります。例えば、ある人が美しい言葉で、他者の実在しない徳を称賛するようなことです。 あるいは、真理にかなった言葉であっても、愛がなく、法にかなわない場合があります。例えば、ある人が汚れた心で、荒々しい言葉を発して、他者の実際の過ちを責めるようなことです。 あるいは、法にかなった言葉であって、愛もあり真理にもかなう場合があります。例えば、ある人が称賛すべきことと叱責すべきことをよく知っています。称賛すべきか叱責すべきかを知った上で、なお称賛も叱責もせず、ただ善い方法で正しい教えを説き、その人を不善な状態から抜け出させ、善い状態に安住させることができるのです。

復次，今當略辨上所說義。謂薄伽梵此中略示，所有善語，若標、若釋。當知是名此中略義。

> さらに、ここで今述べたことの要点を簡潔にまとめておきましょう。薄伽梵（仏様）はこの中で、すべての善い教えを、その標（テーマ）と釈（解説）として簡潔に示されています。これこそが、ここでの要点であると知るべきです。

信、慚、戒、施、法、 善人所稱讚；是名趣天道， 能往天世間。

> 信じる心、恥じる心、戒律、施し、そして法（教え）―― これらは善き人々が称賛するものです。 これは天の道へと向かう道と名づけられ、 天の世界へと至ることができるのです。

此頌所明，謂如有一，於佛所證法毘奈耶，獲得正信。恥在居家。受持淨戒。趣得衣服、飲食、臥具，便生喜足；減除器物，儉約資緣。凡所獲得如法利養，終無私隱，必與智人同梵行者而共受用。所有正法初中後善，稱揚梵行，所謂契經乃至論議，皆能受持、研尋、究達，傳授他人，廣為開闡。彼既成就是諸善法，當知必獲三種勝利。一者、諸佛諸佛弟子真實善人之所稱讚。二者、若彼尸羅財施之所攝引福德資糧、法施攝引智慧資糧善圓滿者，便得趣入證解脫處，清淨諸天眾同分中。三者、若彼二種資糧猶未圓滿，便能令彼速得圓滿。身壞已後定生善趣，多往天上樂世界中。復有差別。謂如有一，於佛所證法毘奈耶獲得正信；信惡尸羅當墮惡趣，信慳貪者得貧窮報。如是信已，於現法中惡戒、慳貪深生羞恥。以羞恥故，棄惡尸羅，受清淨戒；棄捨慳貪，以無垢心安處居家，廣說乃至善行布施。由此因緣，於現法中聖賢所讚；身壞已後，乃至當生善趣天上樂世界中。

> この偈頌が明らかにしているのは、次のようなことである。 例えば、ある人が、仏が証悟された法（教え）と律（戒律）に対して、正しい信心を得たとする。 その人は、在家の生活を恥じ、清らかな戒律を受け持つ。そして、得られた衣服・飲食・寝具などに対して、直ちに満足し喜ぶ。余計な道具を減らし、生活必需品を簡素にする。得られた適切な布施は決して独り占めせず、必ず智慧ある人や共に修行する仲間と共に分け合う。 また、すべての正しい教え——初め・中・後ろのすべてが善く、清らかな修行を称揚するもの、すなわち経典から論議に至るまで——を、よく受持し、研究し、究め、他人に伝え、広く説き明かす。 このような人が、これらの善い法を成就したならば、必ず三つの勝れた利益を得ることができると知るべきである。 第一に、諸仏や仏弟子、真実の善人たちから称賛されること。 第二に、もしその人が戒律と財施による福徳の糧、法施による智慧の糧を完全に積んでいれば、解脱の境地に入ることができ、清らかな天の衆と同じ仲間に生まれることができること。 第三に、もしその人が二つの糧（福徳と智慧）をまだ完全に積んでいなければ、その二つを速やかに円満にすることができること。そして、この身体が壊れた後には、必ず善き生まれに生まれ、多くは天の楽しい世界に生まれること。 また、別の違いもある。 例えば、ある人が、仏の証悟された法と律に対して正しい信心を得たとする。そして、悪い戒律を守れば悪い世界に堕ちると信じ、吝嗇（けち）な者は貧しい報いを受けると信じる。このように信じて、現世において悪い戒律や吝嗇を深く恥じる。その恥じる心によって、悪い戒律を捨てて清らかな戒律を受け、吝嗇を捨てて、汚れのない心で在家に安住し、広く善い布施を行う。このような因縁によって、現世では聖者や賢者から称賛され、身体が壊れた後には、善き生まれ、つまり天の楽しい世界に生まれるのである。

復次，今當略辨上所說義。謂薄伽梵此中略示，在家、出家二種正行，及正行果所有勝利。當知是名此中略義。

> さらに、ここで今、先に述べた義を簡潔に明らかにしよう。すなわち、世尊はここで、在家と出家の二種の正しい行いと、その正しい行いの果報における功徳を簡潔に示されたのである。これがこの中の簡潔な義であると知るべきである。

多聞能知法； 多聞能遠惡；多聞捨無義； 多聞得涅槃。

> 多く聞くことで、法を理解できる。 多く聞くことで、悪から遠ざかれる。 多く聞くことで、無意味なことを捨てられる。 多く聞くことで、涅槃に至ることができる。

此頌所明，謂如有一，於依先時正所應作施論、戒論、生天之論，無倒教法恭敬聽聞；聞已遂能了知其義。謂現法中種種惡行，及當惡趣苦無義因諸惡行所，應速遠離；及往善趣，捨生惡趣苦無義因。彼由了知如是法義，法隨法行，能遠苦因、能引樂因；由此因緣，得樂捨苦。若於增上四聖諦等相應教法恭敬聽聞，聞已遂能了知其義。謂一切有生死大苦寂靜涅槃。彼由了知如是法義，若根已熟，資糧已滿，便能獲得如是義識。心清淨故，纔聞法已，於諸聖諦未現觀者，能入現觀；已現觀者，便得漏盡。若根未熟，資糧未滿，即由如是遠離諸惡，依增上戒起增上心，依增上心發增上慧，由此能捨一切苦本煩惱無義，證得涅槃。

> この偈が示すのは、例えばある人が、生前に正しく行うべき布施の教え、戒律の教え、天に生まれる教えについて、誤りのない教えを敬意を持って聴聞し、聞いた後にその意味を正しく理解するということである。 すなわち、現世における様々な悪行や、未来の苦しい境遇における苦しみや無意味さの原因となる全ての悪行から、速やかに遠ざかるべきであること、そして善趣（良い生まれ）へと向かい、悪趣（苦しい生まれ）の苦しみや無意味さの原因を捨てるべきであることである。彼はこのように法の意味を理解し、法に従って修行することで、苦しみの原因を遠ざけ、喜びの原因を引き寄せることができる。この因縁によって、喜びを得て苦しみを捨てるのである。 さらに、優れた四つの聖なる真理などに関する教えを敬意を持って聴聞し、聞いた後にその意味を正しく理解するならば、それは「一切の存在は生死という大きな苦しみの中にあり、静かな涅槃がそれに対する寂静である」ということである。彼はこのように法の意味を理解し、悟りの素質がすでに熟し、善行の積み重ねが満ちていれば、そのような意味の智慧を得ることができる。心が清らかになったことで、法を聞いた直後に、まだ聖なる真理を現観（直接体験）していない者は現観することができ、すでに現観している者は煩悩の尽きる境地（漏尽）を得る。もし悟りの素質が熟しておらず、善行の積み重ねが満ちていなければ、このように悪を遠ざけることによって、優れた戒律に基づいて優れた心（定）を起こし、優れた心に基づいて優れた智慧（慧）を発し、これによって全ての苦しみの根本である煩悩という無意味なものを捨て、涅槃を証得するのである。

復次，今當略辨上所說義。謂薄伽梵此中略示，先聞正法，如理思惟；先如理思，法隨法行；法隨法行為先因故，得勝利果。當知是名此中略義。

> 次に、先に述べた意味を簡潔に明らかにしましょう。ここで尊師はおおまかに示しています。まず正しい教えを聞き、理にかなった考え方をすること。次に、そのように考えた後に、教えとそれに従う実践を行うこと。教えとそれに従う実践を先に行うことが原因となって、優れた成果を得られます。これがここでの簡潔な意味だと知るべきです。

智者如空無染污， 不動猶如天帝幢；如泛清涼盈滿池， 不樂淤泥生死海。

> 智慧ある者は、虚空のように何も汚れず、 揺るぎなく、まるで帝釈天の幢（はた）のようです。 清らかで満ちた涼しい池に浮かぶかのように、 生死の海という泥沼には決して留まりません。

今此頌中，辯阿羅漢苾芻心善解脫，超諸戲論，猶如虛空。何以故？譬如虛空離諸戲論，淨與不淨皆不能染。諸阿羅漢亦復如是，一切世法若順、若違皆不能染。所謂利、衰，乃至苦、樂。又諸有學已離欲貪，向阿羅漢，於四念住善住其心，修無相心三摩地時，如天帝幢；於其一切動發憍舉、戲論營為、生願俱行所有貪愛，不能傾動。又諸有學已離欲貪，得不還果，於上解脫心生欲樂。譬如遊泛清冷泉池，於愛味定上分諸結熱淤泥中，終不欣樂。由於此中不欣樂故，亦不欣樂生死大海。復有差別。謂阿羅漢所有飲食、言說、遊行，處無相住，有餘依苦之所隨逐。如其次第，三處應知。復有差別。謂慧解脫諸阿羅漢、有學身證，及俱解脫諸阿羅漢。如其次第，三處應知。

> この偈頌においては、阿羅漢の比丘が心において完全に解脱し、すべての戲論（概念的虚構）を超越して、虚空の如くであることが説かれている。なぜなら、虚空がすべての戲論を離れ、清浄であれ不清浄であれ、いずれによっても染まることがないように、阿羅漢たちもまた、すべての世俗の法や、順境であれ逆境であれ、それらに染まることがないからである。すなわち、利得や衰退、さらには苦痛や快楽などである。 また、有学（修行段階にある者）で、すでに欲望への執着を離れ、阿羅漢を目指す者は、四念住にしっかりと心を留め、無相心三摩地を修行するとき、天帝の幢（旗）のようであり、一切の動揺や高慢、戲論や作為、願望とともに生じる貪愛によって、傾き動かされることがない。 さらに、有学で欲望の貪りを離れ、不還果（再び欲界に戻らない境地）を得た者は、さらなる解脱を心から願い求める。それはあたかも、清らかで冷たい泉の池を遊泳する者が、味着を伴う禅定や、上方の煩悩という熱い泥に、決して喜びを見出さないようなものである。ここに喜びを見出さないがゆえに、生死の大海にも喜びを見出さない。 別の区別もある。すなわち、阿羅漢の飲食、言説、遊行は、無相の境地に住しつつも、残余の苦（五蘊の苦）が伴うものである。これらを順に、三つの場合として知るべきである。 さらに別の区別として、慧解脱の阿羅漢、有学の身証（身体による直接的な体得）、および倶解脱（慧と定の両方による解脱）の阿羅漢がある。これらを順に、三つの場合として知るべきである。

復次，今當略辨上所說義。謂薄伽梵此中略示，離三界欲於佛聖旨猶有餘依，離欲界貪勝進道攝，及不還果。復有差別。謂略顯示解脫勝利、等持勝利、智慧勝利。復有差別。謂略顯示增上心、慧學所得果。及顯增上心、慧二學。

> さらに、ここで今、先に述べた意味を簡潔に説明しましょう。すなわち、世尊はこの中で簡略に示しておられます——三界への欲を離れても、仏の聖なる教えにはなお残りの依りどころがあること、欲界への執着を離れるための、より高次の修行道に含まれるもの、そして不還果について、と。別の捉え方もあります。すなわち、解脱の功徳、等持の功徳、智慧の功徳を簡略に示しておられる、と。さらに別の捉え方としては、増上心と智慧の学びがもたらす結果を簡略に示し、また、増上心と智慧の二つの学びそのものを明らかにされている、と。

若以色量我， 以音聲尋我；欲貪所執持， 彼不能知我。若於內了知， 於外不能見；由內果觀察， 彼音聲所引。若於內無知， 於外而能見；由外果觀察， 亦音聲所引。若於內無知， 於外不能見；彼普障愚夫， 亦音聲所引。若於內了知， 於外亦能見；英雄出離慧， 非音聲所引。

> もし私を姿かたちで量ろうとし、 私を声で探そうとするなら、 欲望や執着に捕らわれた者は、 私を理解することはできない。 内側をよく知っていても、 外側を見ることができなければ、 内側の結果だけを見る者もまた、 声に導かれてしまう。 内側を知らずに、 外側だけを見ることができても、 外側の結果だけを見る者もまた、 声に導かれてしまう。 内側も知らず、 外側も見ることができない者は、 すべてが妨げられた愚か者であり、 やはり声に導かれてしまう。 内側をよく知り、 外側も見ることができる者こそ、 英雄であり、智慧に目覚めた人。 その者は声に導かれることはない。

此頌所明，謂如有一，體是異生，未斷虛妄分別欲貪，觀見世尊具三十二大丈夫相，遂便測量：此薄伽梵，定是如來應正等覺，其所說法決定微妙，其弟子眾所行必善。彼於後時，近不善人，聞不正法，隨逐他論及他音聲，信順於他，他所引攝；他所引故，於佛法僧還生毀謗。如是皆由不如實知如來法身，故致如此。復有異生，由內靜慮果天眼通，遠見世尊，便作是解：此薄伽梵，定是如來應正等覺。餘如前說。復有由外欲界繫業果報肉眼，見已測量；當知彼亦隨逐他論及他音聲，信順於他，他所引攝。

> この頌で明らかにされていることは、例えば、ある凡夫が存在し、虚偽の分別による欲望や執着をまだ断ち切っておらず、世尊に三十二種の大丈夫相が備わっているのを観て、こう推し量るということです。「この世尊は、まさしく如来・応供・正等覚者である。その説かれる法は、必ずや勝れて微細であり、その弟子たちの行いは、必ずや善いものであろう」と。 しかし、その者は後に、不善な人に近づき、正しくない法を聞き、他人の論や言葉に従い、他者を信頼して、その影響を受けるようになります。他者に導かれた結果、仏・法・僧に対して再び謗りを起こすのです。 これらのことはすべて、如来の法身をありのままに知らないことに起因しており、そのためにこのような事態が生じます。 さらに、別の凡夫がいて、内なる静慮の果報である天眼通によって、遠くから世尊を見て、こう解釈します。「この世尊は、まさしく如来・応供・正等覚者である」と。その後の展開は先に述べた通りです。 また、外なる欲界に属する業の果報である肉眼によって見て推し量る者もいます。そのような者もまた、他人の論や言葉に従い、他者を信頼して、その影響を受けるものであると知るべきです。

復有異生，於爾所見都無所有；彼普被障，長時為他音聲所引。若諸賢聖，除斷、調伏、超越欲貪，得聖慧眼。彼由如是聖慧眼故，於內證解如來法身。雖於外見如來色身，或見制多，或圖畫等，而能了知非第一義應正等覺。彼由如是於內正知，於外正觀，不隨他論及他音聲，不信順他，非他所引，於佛法僧決定信受。如是皆由如實了知如來法身，故致如此。

> また、世の迷える人々は、そうした見解に対して、全く何も把握することがない。彼らはあらゆるものに覆い隠され、長い間、他人の言葉に振り回されている。 しかし、聖なる賢者たちは、欲望への執着を断ち、調伏し、超越して、聖なる智慧の眼を得る。彼らはその聖なる智慧の眼によって、内に如来の法身を証悟する。外に如来の色身を見たり、ストゥーパ（塔）を見たり、絵画などを見たりしても、「これが第一義の正しい悟りではない」と了知する。彼らはこうして内に正しく知り、外に正しく観察する。それゆえ、他人の論や言葉に従わず、他に盲信せず、他に引き回されることなく、仏・法・僧に確固たる信を受ける。これらすべては、如来の法身を如実に了知することによって、このようになるのである。

復次，今當略辨上所說義。謂薄伽梵此中略示，若唯世俗見如來者，則不決定；若以勝義見如來者，是則決定。當知是名此中略義。

> さらに、ここで今、先に述べた意味を簡潔に明らかにしましょう。すなわち、尊き方はこの経典の中で簡潔に示しておられます——もしも世俗の見解だけで如来を観るならば、それは確かなものではありません。しかし、もしも勝義（究極の真実）によって如来を観るならば、それは確かなものなのです。これが、ここでの簡潔な意味であると知るべきです。

第六增上王、 染時染自取；於無染、不染， 染者名愚夫。

> 第六の増上の王は、 染まるときには自ら染まりを取る。 染まらざるものに、染まらずして、 染まる者を愚か者という。

今此頌中，第六增上王者，謂心、意、識。若有已渡五暴流，未渡第六意暴流；爾時其心隨逐諸定所有愛味，故名染時。復有補特伽羅，於長夜染取為己有，於可愛法執藏不捨，是故說彼為染自取。貪名為染；因貪所生當來世苦，亦名為染。

> 現在、この偈の中で第六の「増上王」とは、心・意・識のことを指します。 もしも五つの暴流をすでに渡り終えたけれども、第六の「意の暴流」をまだ渡り終えていない人がいるならば、その人の心は、様々な禅定に伴う愛着の味わいを追い求めています。そのため、その状態を「染まっている時」と呼びます。 また、ある人は、長い夜にわたって、この染まりを自分のものとして受け止め、愛着すべき対象を執着して手放しません。それゆえに、その人を「染まりを自らの取るもの」と説いています。 貪り（むさぼり）を「染まり」と呼びます。そして、貪りから生じる未来の苦しみもまた、「染まり」と呼びます。

若染自取，於所染心不隨功用，攝受、遮止、修意對治作意故；如是彼心於現法中無有染污。於無染心，此染自取當來世中因彼諸苦，亦無有染。

> もしも「自己執着の汚れがあるとしても、その汚された心に従ってわざわざ執着することがなければ、心を受け止め、防ぎ、心を整える対治法に心を向けるからです。このようにして、その心は現世において汚れることがありません。汚れのない心において、この自己執着の汚れは、来世においてそれによる苦しみをもたらすこともありません。」

若有於彼隨作功用，而不攝受、亦不遮止、不修意對治作意故；依此苦因，長夜受苦。於此苦因不能遠離，故名愚夫。

> もしそこで努力しようとしながらも、それを受け入れず、また妨げもせず、心の対治法としての作意（意識的な注意）を修めないならば、その苦しみの原因によって長い間苦しみ続けることになる。この苦しみの原因から逃れられないからこそ、愚か者と呼ばれるのである。

復次，今當略辨上所說義。謂薄伽梵此中略示，遠離苦因所有勝利，及顯苦因能感自苦，是愚夫性。當知是名此中略義。

> さらに、ここで上に述べた意味を簡潔に明らかにしましょう。すなわち、尊き方はこの中で簡潔に示しています。苦しみの原因から離れることのすべての利益、そして苦しみの原因が自ら苦しみを生み出すこと、それは愚かな者の性質であることを。これがこの中の簡潔な意味であると知るべきです。

有城骨為墉， 筋肉而塗飾；其中有貪、恚、 慢、覆、所任持。

> 骨を城壁として築き、肉や筋で塗り固められたものがある。 その内側には、貪りや怒り、慢心、覆い隠す心が執り持たれている。

今此頌中，所言城者，謂心、意、識。此城唯以骨充甎石，筋代繩絍，肉當塗漫，為形骸墉周匝圍繞。此城中有違害善說法毘柰耶所有善法，四種惡法之所任持。二是在家諸受欲者，謂貪與瞋。二是惡說法毘柰耶中而出家者，謂慢與覆。由著諸欲、悕求諸欲，與鄙穢行不相違背，於善說法及毘柰耶尚不信受，況當修善。恃惡說法而生憍慢，不能自然趣佛世尊、或弟子所；設佛世尊、或佛弟子由悲愍故，自往其所，然彼由覆、隨煩惱、纏染污其心，尚不如實發露己過，況能信解修諸善法。如是當知，於彼善說法毘柰耶相應善法二種心城皆不能入，何況復能取為己有。

> この偈の中で言う「城」とは、心・意・識のことを指す。この城は骨を煉瓦や石とし、筋を縄とし、肉を漆喰として、骸骨の壁でぐるりと囲まれている。この城の中には、善く説かれた法（ダルマ）と律（ヴィナヤ）にそむく、あらゆる善法を害する四種の悪法が住み着いている。そのうちの二つは在家の感官の欲に耽る者たちに関わるもので、貪りと怒りである。残りの二つは、悪く説かれた法と律の中で出家した者たちに関わるもので、慢心と隠蔽である。 様々な欲に執着し、それを求め、卑しい行いを厭わない者たちは、善く説かれた法と律を信受することすらなく、ましてや善を修めることはない。悪く説かれた法に依って慢心を起こし、自ら仏世尊やその弟子のもとへ向かうことができない。たとえ仏世尊や仏弟子が慈悲によって自らその者のもとへ赴いたとしても、その者は隠蔽や煩悩に染められ、心が汚れているため、自分の過ちをありのままに告白することすらできず、ましてや善法を信解し修めることはできない。 このようにして、善く説かれた法と律に相応する善法という二つの心の城には、入ることすらできず、ましてやそれを自分のものとすることはできないのである。

復次，今當略辨上所說義。謂薄伽梵此中略示，在家、出家總由四種雜染因緣，失壞善說法毘柰耶。當知是名此中略義。

> それでは、ここで先に述べた意味を簡単に整理しましょう。尊き方はここで、在家と出家の者が、合わせて四つの煩わしさの原因によって、善く説かれた教えと戒律を損なってしまうことを簡潔に示されました。これが、この章での簡単な要旨であると知るべきです。

如龜藏支於自㲉， 苾芻善攝意尋思；無所依止、不惱他， 證般涅槃無所謗。

> 亀が自分の甲羅に手足を隠すように、 修行者はよく心と分別を整えなさい。 何にも執着せず、他者を悩ませることなく、 涅槃を証得して、一切の謗りを免れなさい。

此頌所明，謂如有一，依初靜慮捨三惡尋。所謂欲尋、恚尋、害尋。又能棄捨初靜慮地諸善尋思，安住無尋無伺定中。如龜藏支於其自㲉，略攝尋思亦復如是。無尋無伺定者，應知此上乃至有頂。彼於此定正安住時，不生愛味。出已成就可愛樂法，調順柔和，易可共住，不惱有智同梵行者。又為智人同梵行者欣樂共住。又復成就無違諍法。彼由如是正方便故，於諸聖諦能入現觀，及得漏盡。彼於諸法不由他信，獲得善淨勝智見故，如實了知法真是法，毘柰耶真是毘柰耶。由如是知故，終不依止諸見顛倒，於法謗法，及於非法亦謗非法；終不顯示非法為法，法為非法，非毘柰耶為毘柰耶，或毘柰耶為非毘柰耶。

> この偈頌が示すところは、例えばある人が第一禅定に基づいて、三つの悪しき思考（欲の思考、怒りの思考、害の思考）を捨て去るということである。さらに、第一禅定の領域にある善い思考も全て捨てて、思考がなく思索もない禅定の境地に安住する。それはまるで亀が自分の甲羅の中に手足を引っ込めるように、心の働きを内に収めるのと同様である。この「思考がなく思索もない禅定」は、さらに上の有頂天に至るまで続くことを知るべきである。 その人はこの禅定に正しく安住するとき、そこに味わいの執着（愛味）を生じない。禅定から出た後には、愛すべき善き性質を成就し、心は穏やかで柔らかく、共に住みやすく、智慧ある同じ修行仲間（同梵行者）を悩ませることがない。また、智慧ある人々や同じ修行仲間から喜んで一緒に住みたいと思われる。さらに、争いや対立のない性質（無違諍法）を成就する。 その人はこのように正しい修行方法によって、聖なる真理（四聖諦）に対する現観（直接的な悟り）に入り、煩悩の滅尽（漏尽）を得る。彼は諸法について他人の教えを待たず、自ら善く清らかな智慧と見解（勝智見）を得る。そのため、法を真に法として、律（毘柰耶）を真に律として如実に了知する。このように知るがゆえに、決して様々な誤った見解や颠倒した考えに依り頼まず、法に対して法を謗ることもなく、また非法に対しても非法を謗ることもない。決して非法を法として示したり、法を非法としたり、非律を律としたり、律を非律として示したりすることはない。

復次，今當略辨上所說義。謂薄伽梵此中略示，善說法者四種擾亂斷對治道。何等名為四種擾亂？一、染不染尋思擾亂，二、於勝定愛味擾亂，三、互相違諍訟擾亂，四、於正道誹謗擾亂。當知是名此中略義。

> では、今から上に述べた意味を簡潔に明らかにしましょう。 ここで、世尊は、善く法を説く者にとって、四つの乱れを断つための対処法を簡略に示されました。 その四つの乱れとは何でしょうか。 第一に、煩悩に染まったものと染まらないものについての分別による乱れ。 第二に、優れた禅定への味わいへの執着による乱れ。 第三に、互いに矛盾し争う論争による乱れ。 第四に、正しい道を誹謗するによる乱れです。 これが、この箇所の簡略な意味であると知るべきです。

等不等而生， 牟尼捨有行。內樂定差別， 如俱舍卵生。

> 等しいことと等しくないことの両方を超えて生じる存在— 牟尼（釈尊）は「ある」という営みを捨てられた。 内なる静寂（定）には様々な段階がある— たとえば倶舎（コウジャ）の卵生のように。

此頌所明，謂佛示現住最後有菩薩位時，先所獲得三十有二大丈夫相，八十隨好圓滿莊嚴妙色身生，於後證得阿耨多羅三藐三菩提時，其色身生與前正等。其名身生，由勝無漏不相似故，與前不等。又佛示現內寂靜樂、及沙門樂、為依止故，得定自在；如定心力，捨諸壽行及諸有行。彼捨邊際妙色身生，與前正等。其名身生與前不等，故有差別。如因其㲉卵生雞等，依卵而生，即此生已，漸漸增長，種類相似，破㲉而出。如是如來色身、名身差別道理，當知亦爾。此中差別，謂佛世尊若不棄捨諸壽行者，應滿壽量方般涅槃。定力所持，捨壽行故，不滿壽量而般涅槃。

> この偈頌が明らかにするのは、次の通りです。仏が最後の菩薩の位に住することを示現された時、先に得た三十二の大丈夫相と八十の随好を円満に備えた妙なる色身が生じます。その後、無上正等覚を証得した時、その色身の生は以前とまったく同じです。しかし、名身の生は、勝れた無漏の性質により以前とは異なるため、等しくありません。また、仏は内なる寂静の楽と沙門の楽を依り所として示現し、禅定の自在を得られます。その定の力に従い、諸々の寿行および諸々の有行を捨てられます。その捨てられる際の最極の妙色身の生は、以前と等しいものです。しかし、名身の生は以前と等しくないため、そこに差別があります。例えば、卵から生まれる鶏などのように、卵に依って生まれ、生まれた後、徐々に成長し、種類が似ており、卵の殻を破って出てきます。このように、如来の色身と名身の差別の道理も、同じであると知るべきです。ここでの違いは、世尊がもし諸々の寿行を捨てなければ、寿命を全うしてから涅槃に入るはずですが、定力に支えられて寿行を捨てたため、寿命を全うせずに涅槃に入られるという点です。

復次，今當略辨上所說義。謂薄伽梵此中略示，捨諸壽行，色身、名身二種差別，及顯棄捨所依因緣。當知是名此中略義。

> さらに、ここで先に述べたことの意味を簡単に説明しよう。世尊はこの中で、寿命を捨てること、肉体と名前という二つの違い、そしてそのよりどころを捨てる原因と条件について、簡潔に示しておられる。これを、この教えの簡潔な意味だと知るべきである。

無淤泥等欲， 無魑魅等瞋；無羅網等癡， 無江河等愛。

> 泥のような欲望もなく、 鬼のような怒りもなく、 網のような無知もなく、 川のような執着もない。

此頌所明，謂有四種能為世俗不自在法，世間現見能令有情不自在轉。一者、陷溺淤泥；二者、鬼魅所著；三者、入於羅網；四者、墮駛流河，隨流漂溺。復有四種能為真實不自在法，能令有情不自在轉，當知亦爾。何等為四？謂如有一，生長欲界，陷溺不淨腥臊生臭諸欲淤泥，不能自在引發守護增長善法。又如有一，棄捨諸欲，於善說法毘奈耶中而得出家。心懷忿怒，性多惡言；由忿所持，不得自在；不數學處，動生違越；於諸智者同梵行所，屢以麁言擊刺、訶擯、侵惱、毀辱。又如有一，棄捨諸欲，於惡說法毘奈耶中而得出家，入諸惡魔大癡見網。彼既入已，流轉生死，不得自在。又如有一，生長上分諸離欲地，於諸愛結未能永斷，亦未遍知，不得自在，還生下界，順流而住，難可出離。

> この偈頌で明らかにされているのは、世の中に現に見られる、众生を不自由にさせる四つの世俗的な束縛と、さらに四つの真実の不自由があるということです。 世俗的な不自由の四つとは、第一に泥沼に落ちること、第二に鬼や魔物に取り憑かれること、第三に網にかかること、第四に激流に落ちて流され、溺れてしまうことです。 また、众生を不自由にさせる真実の不自由も四つあります。それは以下の通りです。 第一に、欲界に生まれ落ち、不浄で生臭い欲望の泥沼に浸かり、善い行いを引き起こし、守り、成長させることが自由にできないこと。 第二に、欲望を捨てて、善く説かれた教えと戒律のもとで出家したものの、心に怒りを抱き、言葉が荒く、怒りに支配されて自由を失い、学ぶべき教えを守らず、戒律を破り、同じ修行仲間に向かって粗い言葉で傷つけ、非難し、悩ませ、辱めること。 第三に、欲望を捨てて、悪しき教えと戒律のもとで出家し、悪魔の大きな愚かさと邪見の網に陥ること。そこに入ったならば、生死を繰り返して自由を失うこと。 第四に、より高い境地である離欲の世界に生まれたものの、愛欲の束縛を完全に断つことができず、またそれを正しく知ることなく、自由を得られずに再び下の世界に生まれ変わり、流れに身を任せて、なかなかそこから出られなくなること。

復次，今當略辨上所說義。謂薄伽梵此中略示，諸界、諸品愚夫纏縛。

> さらに、ここで今、上で述べた意味を簡潔に明らかにしましょう。お釈迦さまはこの箇所で、さまざまな世界や境遇において、無知な人々が煩わしさに縛られている様子を、手短にお示しになっているのです。

復有差別。謂如有一，陷欲淤泥，不能自在於善說法毘奈耶中清淨出家。又如有一，為性忿怒，忿怒所蔽，憤恚纏心，尚於自身或害、或損，何況於他。又如有一，成就癡品諸惡邪見。謂無父母，毀謗父母，於父母所反悕敬養，況自能為。又如有一，廣集諸欲，貪愛所漂，不得自在；尚不欲自食，況能惠於他。如是四法，當知能障諸聰慧者四應知法。謂善說法毘奈耶中清淨出家、遠離恚害、敬事父母、樂行慧施。

> さらに別の違いがある。例えば、ある者は欲望の泥沼に陥り、自ら自在に善く説かれた法と律の中で清らかに出家することができない。また別の者は、性質が怒りやすく、怒りに覆われ、憤りの心に絡め取られて、自分の身にすら害を加えたり損なったりするのに、まして他人に対してはなおさらである。また別の者は、愚かさの類にあたる様々な悪しき邪見を成就している。例えば、父母を無いとし、父母を誹謗し、父母に対してむしろ敬い養われることを望み、まして自らがそうすることはできない。また別の者は、多くの欲を広く集め、貪りの愛に漂われて自在ではなく、自らすら飲食しようとしないのに、まして他人に施すことができようか。これら四つの法は、諸々の聡明な者に対する四つの知るべき法を妨げると知るべきである。すなわち、善く説かれた法と律の中で清らかに出家すること、害心や怒りを遠ざけること、父母を敬い仕えること、智慧ある施しを喜んで行うことである。

虛空無鳥迹， 外道無沙門。愚夫樂戲論， 如來則無有。

> 虚空に鳥の跡はなく、 外道に沙門はない。 愚かな者は戯論を喜ぶが、 如来にはそのようなものはない。

此頌所明，謂有眾生悕樂勝欲，欲求所攝；又有眾生悕樂勝身，有求所攝；又有眾生悕樂沙門及婆羅門所有解脫，梵行求攝。此中欲求、有求攝者，謂我因少分布施、少分持戒，當得往生善趣天上樂世界中，以妙五欲而自賞納，歡娛遊戲。彼既修習如是願已，得最勝欲及最勝身。譬如眾鳥翱翔虛空，遍虛空中無安足處，如是眾生，於其所得無常諸欲及身分中都無安住，當知亦爾。若樂沙門及婆羅門所有解脫梵行求攝，復有二種。或依善說法，或依惡說法。依惡說法諸外道輩，並無沙門。依善說法邪梵行求所攝受者，亦無沙門。正梵行求所攝受者，得有沙門。又此一切三門所攝，或欲求門、或有求門、或梵行求門。如是皆名樂著戲論。當知如來棄捨一切所有悕求，故無戲論。即以此義，類知如來諸弟子眾，正梵行求所攝受者，亦無戲論。

> この偈頌で明らかにされているのは、次のようなことである。すなわち、ある衆生は勝れた欲望を求め、欲求に攝せられる。またある衆生は勝れた身体を求め、有求に攝せられる。またある衆生は沙門やバラモンの持つ解脱を求め、梵行求に攝せられる。 このうち、欲求や有求に攝せられる者は、「私はわずかな布施やわずかな戒律の実践によって、善趣である天界の楽しい世界に生まれ変わり、そこでは素晴らしい五つの欲望の対象を自らの楽しみとし、歓楽に遊戯するだろう」と願う。 彼らがそのような願いを修習した後、最も勝れた欲望と最も勝れた身体を得る。例えて言えば、多くの鳥が虚空を飛び交うが、虚空のどこにも足を置く場所がないように、この衆生たちもまた、得た無常なる諸々の欲望や身体の中に、安住するところがないのである。このことを知るべきである。 もし沙門やバラモンの持つ解脱を求める梵行求に攝せられる者には、さらに二種類がある。善く説かれた法に依るか、悪く説かれた法に依るかである。 悪く説かれた法に依る外道の者たちには、沙門は存在しない。善く説かれた法に依りながらも、邪な梵行求に攝せられる者にも、沙門は存在しない。正しい梵行求に攝せられる者において、沙門が存在するのである。 さらに、これら全ては三つの門に攝せられる。すなわち、欲求の門、有求の門、または梵行求の門である。これらを全て、「戲論を楽に執著する」と名付ける。 知るべきである。如来は一切の希求を捨て去っているがゆえに、戲論がないのである。この意味によって、如来の弟子たちの集いもまた、正しい梵行求に攝せられる者であり、やはり戲論がないことを類推して知るべきである。

復次，今當略辨上所說義。謂薄伽梵此中略示，離善說法及毘奈耶勤精進者，皆空無益。當知是名此中略義。

> さらに、ここで今、上に述べたことの意味を簡潔に明らかにしましょう。つまり、世尊はこの中で、「善く説かれた法（教え）と律（戒律）から離れて、励み努める者は、皆、空しく無益である」と簡潔に示されたのです。これが、ここでの簡潔な要旨であると知るべきです。

住戲論皆無， 踰牆、塹離愛。牟尼遊世間， 天人不能識。

> 戯れの議論はすべてなく、 壁や堀を越え、執着を離れる。 牟尼（仏）が世に遊んでも、 天人すらも見分けられない。

此頌所明，謂阿羅漢苾芻永離貪愛，由四種相，於惡魔怨一切愚夫所繫屬主，解脫自在，隨意遊行空閑聚落。有諸愚夫，遇見如是真阿羅漢，於最究竟自在遊行，不如實知，便於二處妄生輕毀。云何此善男子棄捨自屬養命珍財，乃求屬他資生眾具？何故棄捨生天方便，苦勤精進求有斷滅？是諸愚夫見生天上有勝功德，見處居家有多財產，故於牟尼妄生輕忽。彼所事天，於此牟尼廣大功德尚不能了，況能事者而能識知。云何離愛諸阿羅漢由四種相，於惡魔怨一切愚夫所繫屬主，解脫自在？謂諸愚夫由四識住，為魔怨主之所驅役，令生死中往還五趣；非阿羅漢。又諸愚夫如由重過，為魔怨主之所驅役。謂或增益、或復損減諸惡見故，發起種種執刀杖等惡不善法，墮諸戲論，生諸惡趣，令造種種諸惡業緣；非阿羅漢。又諸愚夫如由中過，為魔怨主之所驅役，令處欲愛繫縛垣牆，不能出離欲界生苦；非阿羅漢。又諸愚夫如由輕過，為魔怨主之所驅役，令生色界及無色界，無明深塹周匝圍繞，閉在生死眾苦牢獄，於生等苦不得出離；非阿羅漢。

> この頌（詩句）が明らかにするのは、阿羅漢（悟りを開いた修行者）である比丘は、貪り（欲望）から永遠に離れているということです。彼らは、四つの特徴によって、悪魔の怨敵や、すべての凡夫が属する支配者から解き放たれ、自由に、閑静な場所や人里を随意に遊行します。 凡夫たちは、このような真の阿羅漢が究極の自由の中で遊行しているのを目の当たりにしても、その実態を正しく理解せず、二つの点において誤って軽蔑し非難します。「なぜこの善き人は、自らの命を養う貴重な財産を捨てて、他者に属する生活の道具を求めるのか？」「なぜ生天（天界に生まれること）の方法を捨て、苦行に勤しみながら、有（存在）の断滅を求めるのか？」と。 これらの凡夫は、天界に生まれることには優れた功徳があり、家に住むことには多くの財産があると見なすため、牟尼（聖者）を誤って軽んじるのです。彼らが仕える天でさえ、この牟尼の広大な功徳を理解することができません。ましてや、その天に仕える凡夫が、牟尼を正しく認識できるはずがありません。 どうして貪りを離れた阿羅漢たちが、四つの特徴によって、悪魔の怨敵や、すべての凡夫が属する支配者から自由になるのでしょうか？ 凡夫たちは、四つの識住（認識が依存する基盤）によって、悪魔という怨敵の主に支配され、生死の中で五つの趣（地獄・餓鬼・畜生・人間・天）を輪廻します。しかし、阿羅漢はそうではありません。 また、凡夫たちは、重い過ちによって、悪魔という怨敵の主に支配されています。すなわち、諸々の邪見を増幅させたり減損させたりすることによって、刀や杖を執るなどの様々な不善の法を引き起こし、戲論（無意味な議論）に陥り、悪趣に生まれ、様々な悪業の縁を造ります。しかし、阿羅漢はそうではありません。 また、凡夫たちは、中程度の過ちによって、悪魔という怨敵の主に支配されています。欲望という愛執の束縛という垣根に閉じ込められ、欲界の苦しみの生から出離することができません。しかし、阿羅漢はそうではありません。 また、凡夫たちは、軽い過ちによって、悪魔という怨敵の主に支配されています。色界や無色界に生まれ、無明（無知）という深い堀に四方を囲まれ、生死という衆苦の牢獄に閉じ込められ、生などの苦しみから出離することができません。しかし、阿羅漢はそうではありません。

復次，今當略辨上所說義。謂薄伽梵此中略示，一切愚夫羞不應羞，應羞不羞；於不應怖而生怖見，於應怖中生無怖見。當知是名此中略義。

> 次に、今ここで簡潔に上に示した意味を明らかにします。世尊はこの中で簡略に、愚かな人々は恥じるべきでないことに恥じ、恥じるべきことに恥じず、恐れるべきでないことに対して恐怖の見解を抱き、恐れるべきことに恐怖の見解を持たないことを示されています。これがこの箇所の簡略な意味であると知るべきです。

若有熏除諸尋思， 於內無餘離分別；超過礙著、諸色想； 四軛蠲除、不往生。

> もし、あらゆる雑念を焼き払い除き去り、 心の内に分別を余すことなくなくし、 障害や執着、あらゆる形あるイメージを超え、 四つの束縛から解き放たれて、もはや生まれ変わることがなければ。

此頌所明，謂如有一，已入有學位，未離欲界欲。依初靜慮，熏除欲界諸惡尋思。依第二靜慮，內等清淨心一趣性，初靜慮地所有分別無餘永離，無復分別。依第三靜慮，超過第二靜慮地諸喜礙著；依第四靜慮，超過第三靜慮地諸樂礙著。依無色定，超過一切所有色想。如是漸次，因依諸定，乃至有頂若定、若生，蠲除四軛。何等為四？一、蠲除染污尋思軛，二、蠲除不染污尋思軛，三、蠲除喜樂繫縛軛，四、蠲除一切色想軛。由此因緣，於諸下地不復往生。當知異生雖到有頂若定、若生，猶為四軛所繫縛故，於諸下地還復往生。

> この偈頌が明らかにしている内容は次の通りです。 例えば、ある人がすでに有学位（修行の段階に入った者）に達したが、まだ欲界の欲望から離れていないとします。その人は第一静慮に基づいて、欲界における様々な悪しき思考を徐々に取り除きます。第二静慮に基づいて、内なる清らかさと心の一点集中を得て、第一静慮の領域にあるあらゆる分別を余すことなく離れ、もはや分別を持ちません。第三静慮に基づいて、第二静慮の領域にある喜びや妨げへの執着を超越します。第四静慮に基づいて、第三静慮の領域にある楽への執着を超越します。無色定に基づいて、あらゆる物質的な概念を超越します。 このように段階を経て、様々な禅定に依拠し、有頂天（非想非非想処）に至るまでの、禅定による境地であれ、そこに生まれることであれ、「四つの軛」を取り除くのです。その四つとは何か。第一に、汚れた思考という軛を取り除くこと。第二に、汚れていない思考という軛を取り除くこと。第三に、喜びや楽への執着という軛を取り除くこと。第四に、あらゆる物質的な概念という軛を取り除くことです。 このような理由から、そうした人は下位の境地に再び生まれることはありません。ただし、凡夫は有頂天に至るまでの、禅定による境地であれ、そこに生まれることであれ、依然として四つの軛に縛られているため、下位の境地に再び生まれることになるのだと知るべきです。

復次，今當略辨上所說義。謂薄伽梵此中略示，到有邊際有學、異生二種差別。當知是名此中略義。

> 次に、ここで今、簡潔に上述の意味を明らかにしましょう。尊き方はこの教えにおいて、修行を完成した方（阿羅漢）と、いまだ学ぶべきことのある修行者（有学）、そして凡夫という二つの違いを簡潔に示されました。これがここでの要点であると知るべきです。

惠施令福增， 防非滅怨害，修善捨諸惡， 惑盡得涅槃。

> 恵施は福を増し、非を防ぎて怨害を滅す。 善を修して諸々の悪を捨て、惑い尽きれば涅槃を得ん。

此頌所明，謂如有一，於佛所證法毘奈耶獲得正信，雖處居家，而心遠離慳垢纏縛，受持七種依福業事。由此因緣，若行、若住，廣說如經，乃至生長如是福德。若有復能於善說法毘奈耶中清淨出家。既出家已，具足忍力，為護尸羅，雖遭他罵、侵惱、訶責，或以身手、瓦礫、刀杖歐擊傷害；恐壞尸羅，當為障礙，心無惡念，不出惡言，唯緣彼境與慈俱心，於一切方遍滿而住。由此因緣，於現法中自他相續所有怨害，並皆止息；當生無惱樂世界中，無多怨敵，為世欣仰，眾所樂見。如是善修正方便已，依增上戒起增上心，依增上心發增上慧。當於聖諦入現觀時，則能永捨趣惡趣業及諸惡趣。又修如先所得道故，漸次永除所有諸結，於有餘依涅槃界中而般涅槃。如是後時，於無餘依涅槃界中，復般涅槃。

> この偈頌が明らかにするのは、こうである。ある人が仏の証した法と律に正しい信を得たなら、在家にあっても心は慳吝の垢や結縛から遠ざかり、七種類の福業の行事を受持する。この因縁によって、歩く時も留まる時も、経に広説されるように、このような福徳を生長させる。 さらに、よく説かれた法と律の中で清らかに出家することができるなら、出家した後に忍力を具え、戒を護るために、たとえ他人に罵られ、悩まされ、責められ、あるいは手や足、瓦礫、刀や杖で打ち傷つけられても、戒を壊すことを恐れ、それを妨げとせず、心に悪念なく、悪口を発せず、ただその境に対して慈しみの心と共に、一切の方に遍く満ちて安住する。この因縁によって、現世において自己と他者の相続ける全ての怨みや害が共に止み、悩みのない楽しい世界に生まれ、怨敵も少なく、世に敬慕され、人々に見られることを喜ばれる。 このように善く正しい方便を修めた後、増上戒に依って増上心を起こし、増上心に依って増上慧を発する。聖諦に現観を入れる時には、悪趣に趣く業や諸々の悪趣を永く捨てる。また、先に得た道を修するが故に、次第に全ての結縛を永く除き、有余依涅槃界において般涅槃する。このように後時には、無余依涅槃界においてもまた般涅槃する。

復次，今當略辨上所說義。謂薄伽梵此中略示，得淨信者四種正行。一、感財富行；二、感善趣行，三、離惡趣苦，清淨修行；四、離一切苦，清淨修行。當知是名此中略義。

> 次に、これまで述べてきたことの意味を簡単に説明しましょう。尊い方はここで、清らかな信心を得た者のための四つの正しい行いを簡潔に示されました。 一つ目は、財産を得るための行い。 二つ目は、より良い世界に生まれるための行い。 三つ目は、悪い世界での苦しみを離れ、清らかに修行する行い。 四つ目は、あらゆる苦しみを離れ、清らかに修行する行いです。 これがここで簡潔に示された意味であると知るべきです。

諸惡者莫作， 諸善者奉行，自調伏其心， 是諸佛聖教。

> 悪い行いをせず、善い行いを行い、自らの心を調えなさい。これがすべての仏陀の教えです。

此頌所明，謂如有一，於佛所證法毘奈耶獲得正信，於一切種、一切因緣、一切處所所有惡行，皆能斷滅；於善說法毘奈耶中，能善受學尸羅律儀。彼由三相奉行諸善。謂善住尸羅，守別解脫清淨律儀，乃至受學所有學處。依增上戒學發增上心學，依增上心學發增上慧學；彼由此故，於所知境如實知見。如是具足諸善法已，復由三相調伏自心。謂如實知故，能起厭患；由厭患故，能得離染；由離染故，能得解脫。

> この偈頌が明らかにしているのは、次のようなことです。 ある人が、仏の悟られた法と戒律に対して正しい信心を得ると、あらゆる種類の、あらゆる原因による、あらゆる場面での悪い行いをすべて断ち滅ぼすことができます。そして、よく説かれた法と戒律の中にあって、戒律の規則をしっかりと学び受けることができるのです。 その人は、三つの特徴によって様々な善行を行います。すなわち、 戒律にしっかりととどまり、別解脱の清らかな戒律を守り、学ぶべきすべての学処を受けて学びます。 増上戒学に基づいて増上心学を起こし、増上心学に基づいて増上慧学を起こします。 このことにより、その人は認識の対象について、あるがままに知り、あるがままに見るのです。 このようにして善い法をすべて備えた後、さらに三つの特徴によって自らの心を調伏します。すなわち、 あるがままに知るゆえに、厭うべき思いを起こすことができ、 厭うべき思いがあるゆえに、執着から離れることができ、 執着から離れるゆえに、解脱を得ることができるのです。

復次，今當略辨上所說義。謂薄伽梵此中略示，三學學果、顯自聖教不與他共。當知是名此中略義。

> さらに、ここで先に述べた意味を簡潔に明らかにしましょう。すなわち、世尊はこの中で、三学（戒・定・慧）の学びとその果報を示し、仏陀の教えが他にはない独自のものであることを明らかにされています。これが、この箇所の簡潔な意味であると知るべきです。

難調伏、輕躁， 淪墜於諸欲；善調伏其心， 心調引安樂。

> 心を調えるのは難しい、心は軽々と揺れ動く。 欲望に落ち込んでいく。 心をうまく調えられたなら、 その調えられた心は安らぎを導く。

此頌所明，謂宣說心、若意、若識，長夜愛樂憒鬧雜處，於憒鬧處難得遠離、難可調伏。雖強安處無間修習諸善法中，而不一向能住離貪、離瞋、離癡，亦不一向能住策舉、無掉、寂靜；然復疾疾還生有貪、有瞋、有癡、下劣、掉舉及不寂靜。雖強安處內寂止中，長夜愛樂色聲香味觸故，於五欲境馳趣淪沒。諸聖弟子，於如是等樂著雜染能生苦心，終不縱其令自在轉，亦不隨順；數數思擇成辦遠離，恒修善法心一境性。彼由如是正定心故，能如實知；如實知故，能起厭患；由厭患故，能得離染；由離染故，能得解脫。彼既如是善調伏心盡苦因故，於現法中得安樂住，當來眾苦亦得永盡。

> この偈頌が明らかにしているのは、「心」「意」「識」と説かれるものが、長きにわたり、騒がしく雑多な場所を愛好し、そこから離れることが難しく、調伏しがたいということです。たとえ無間の修行に努める善法の中に強く置かれても、常に貪り・怒り・無知から離れて留まることができず、また常に心を奮い立たせ、掉挙なく、寂静に留まることもできません。それどころか、すぐさま貪りや怒り、無知、下劣な心、掉挙、寂静でない状態が再び生じます。また、内的な寂止の中に強く置かれても、長きにわたって色・声・香・味・触を愛好するゆえに、五つの欲望の対象に駆り立てられ、沈み没していきます。 聖なる弟子たちは、このような執着や雑染を楽しむ心に苦を生じることを知り、それを自在に働かせるままにせず、またそれに従うこともありません。繰り返し思惟し、選択し、遠離を成し遂げ、常に善法を修習して心を一境に保ちます。彼らはそのような正しい定の心によって、如実に知ることができ、如実に知るゆえに厭離の心を起こし、厭離するゆえに雑染を離れ、雑染を離れるゆえに解脱を得ることができます。 このようにして心を善く調伏し、苦の原因を尽くした彼らは、現世において安楽に住し、未来のあらゆる苦も永く尽きることとなります。

復次，今當略辨上所說義。謂薄伽梵此中略示，能不隨順長夜流轉左道之心，及不隨順所得勝利。當知是名此中略義。

> さらに、ここで、今述べたことの要点を簡単に明らかにしましょう。 世尊はここで簡潔に示しています。「長い夜のように長い輪廻の流れに従う、誤った道を取る心に従わないこと」、そして「その結果得られる利益に従わないこと」。 これが、この箇所の簡潔な要旨であると知るべきです。

於心相善知， 能餐遠離味、靜慮、常委、念、 受無染喜樂。

> 心のありようをよく知り、 遠離の味わいを味わいながら、 瞑想に励み、よく気を配り、 執着のない喜びと安らぎを受ける。

此頌所明，謂如有一，有學見迹，能善了知止、舉、捨相。由此因緣，得四功德。謂心住一緣，遠離麁重，能善受用身心安樂；是初功德。又淨定心盡所修故、如所修故，能正審慮諸法道理，獲得內法毘鉢舍那；是第二功德。彼由如是清淨止觀為依止故，於所修習菩提分法，勇猛無間，能常修習、能委修習，無懈無憚；是第三功德。彼由如是無懈憚心，獲得第一正念正知心善解脫，又能受用解脫喜樂及無染樂，於現法中得安樂住；是第四功德。

> この偈頌が示しているのは、ある修行者が聖者の境地「見迹」を得たとき、止・挙・捨の三つの相を正しく理解するということである。この因縁により、四つの功徳を得る。 すなわち、心を一つの対象にとどめ、粗重から離れ、心身の安楽を十分に味わう——これが第一の功徳である。 また、清らかな定の心によって、修行が完全になされ、しかもその通りに成就したことにより、諸法の道理を正しく観察し、内なる毘鉢舍那（観）を得る——これが第二の功徳である。 このようにして清らかな止観をよりどころとした修行者は、菩提分法の修行において、勇猛で絶え間なく、常に修行し、念入りに修行し、怠ることなく、ためらうことがない——これが第三の功徳である。 このような怠りなくためらいのない心によって、第一の正念・正知を得て心が善く解脱し、さらに解脱の喜びと楽、および煩悩のない楽を受用し、現世において安楽に住する——これが第四の功徳である。

復次，今當略辨上所說義。謂薄伽梵此中略示，於相善巧四種功德。謂奢摩他所作、毘鉢舍那所作、無懈憚所作、到究竟所作。當知是名此中略義。

> さらに、ここで上に述べた意味を簡潔に明らかにしましょう。世尊はこの中で、相を巧みに理解する四つの功徳を簡潔に示されました。すなわち、奢摩他（止）による行い、毘鉢舍那（観）による行い、怠りなく努力する行い、そして究極に至る行いです。これがここでの簡潔な意味であると知るべきです。

無工巧活、輕自己、 樂勝、諸根、盡解脫。無家、無所、無悕望、 斷欲、獨行真苾芻。

> 技に頼らず生き、自己を軽んじ、 勝利を楽しみ、諸根を尽くして解脱せよ。 家なく、居所なく、望みなく、 欲を断ち、独り行く者こそ真の修行者である。

此頌所明，謂成就五支，永斷五支，當知得名真實苾芻。何等為五？謂不依止矯設方便邪活命法，亦不恃賴有勢之家，亦不修治名稱族望，亦不詐受諸佛所說、聖弟子說；猶如依止工巧處所，非法悕求衣服飲食。是名初支。又復減省器物眾具，善棄珍財，衣僅蔽身，食纔充腹，知足歡喜；凡所遊行，必持衣鉢。是第二支。又悕慕沙門、愛樂沙門，悕慕學處、愛樂學處；命難因緣，尚不違越所學禁戒，何況少小利養因緣。是第三支。又彼如是正修方便，淨命喜足，愛樂學處，於諸聖諦未現觀者，能入現觀，得清淨見；或時失念，暫爾發生惡不善尋，引起貪欲、瞋恚、愚癡，遲緩忘念，速復除遣。是第四支。又彼修習如先得道，於諸結、縛、一切隨眠、隨煩惱、纏，心得解脫。是第五支。如是名為成就五支。云何復名永斷五支？謂阿羅漢苾芻，於五處所不復能犯。所謂不能捨所學處，而復退還。又復不能有所貯積，執為己有而受用之，亦不受用諸欲境界。又復不能為財、為命，知而妄語。又復不能棄捨諸欲，行不與取。亦不復能永離貪欲，獨住獨行，而更習近非梵行法，兩兩交會。或計自作而招苦樂，或計他作、或自他作、或非自作亦非他作，不由因生而招苦樂。如是名為五支永斷。

> この偈で明らかにされているのは、「五つの支えを成就し、五つの支えを永遠に断ち切った者は、真実の比丘と呼ばれるにふさわしい」ということである。では、その五つとは何か。 第一に、偽りの方便や邪な生活手段に頼らず、権力のある家にも頼らず、名声や家柄を飾らず、仏や聖弟子の言葉を偽って受け取らないこと。あたかも、技術を頼みにして衣服や食を得るように、非法に求めることをしない。これが第一の支えである。 第二に、道具や品々を減らし、財宝を惜しみなく差し出し、衣はただ身を覆うだけ、食は腹を満たすだけで満足し、喜び、少ない物で足りること。旅に出る時は必ず衣と鉢を持つ。これが第二の支えである。 第三に、沙門（修行者）の道を慕い、愛し、学びの場を慕い、愛すること。命の危険があっても、学ぶべき戒律を破らず、ましてやわずかな利益のために破ることはない。これが第三の支えである。 第四に、こうして正しく修行し、清らかな生活に満足し、学びの場を愛し、まだ聖なる真理を観ずるに至っていない者が、その観を成就し、清らかな見解を得る。時に心が乱れて、悪くない考えが一時的に生じ、貪欲や怒りや愚かさを引き起こすことがあっても、すぐにそれを払い除ける。これが第四の支えである。 第五に、先に得た道に従って修行し、あらゆる束縛や煩悩の基、煩悩の纏わりつきから心が解き放たれる。これが第五の支えである。 これらを「五つの支えを成就する」という。 では、「五つの支えを永遠に断ち切る」とはどういうことか。阿羅漢（完全に悟った者）の比丘は、五つの点において、もはや過ちを犯すことがない。すなわち、 学びの場を捨てて、後戻りすることができない。 財を蓄えて自分のものとし、それを使うことができない。 また、欲望の対象を楽しむこともない。 また、財や命のために、知りながら偽りを言うこともない。 また、欲望を捨てて、盗みを行うこともない。 また、貪欲を永遠に離れ、独りで住み、独りで歩みながら、非梵行（清らかでない行い）に親しみ、男女が交わることもない。 あるいは、自分が行ったことによって苦楽を招く、他人が行うことで苦楽が生じる、自分と他人が共同で行うことで苦楽を生じる、あるいは、誰の行いにもよらず、原因なくして苦楽が生じる、といった誤った見解を持つこともない。 これを「五つの支えを永遠に断ち切る」という。

心遠行、獨行、 無身、寐於窟；能調伏難伏， 我說婆羅門。

> 心は遠くへ行き、独りで歩み、肉体を持たず、洞窟に眠る。 この難しく調伏しがたいものを調伏する者、わたしは彼を婆羅門と呼ぶ。

今此頌中，所言心者，亦名為意，亦名為識。此於過去一切愚夫，無量差別自體展轉及因展轉，雖無作者而流生死，前際叵知，故名遠行。此於現在一一而轉，第二伴心所遠離故，一切種心不頓轉故，名為獨行。又此現在，隨其自體初起現前，或由貪性、或由瞋性、或由癡性、或由一一所餘煩惱隨煩惱性，即彼自體不畢竟轉。如五色根，或同、或異、或劣、或勝，隨其自體初起現前，即此自體畢竟而轉。心不如是。何以故？心經彼彼日夜、剎那、臘縛等位，非一眾多種種品類，異生時生，異滅時滅。由心自性染污之體不成實故，名為無身。此未來世居四識住而有隨眠，可於後生有往來義，名寐於窟。若有聰慧，由此四相，能於過、現、未來世心，如實了知，修厭離滅及心解脫；彼能超度諸薩迦耶，到於彼岸，安住陸地，名婆羅門。

> この偈の中で言う「心」は、また「意」とも呼ばれ、「識」とも呼ばれます。この心は、過去において、あらゆる愚かな凡夫たちが無数の異なる自己の姿を繰り返し作り出し、その原因も繰り返し生み出してきました。作り手はいないのに生死を巡り続け、その始まりは知ることができません。この故に「遠行（遠くを行くもの）」と呼ばれます。 この心は、現在においては一つひとつが生じていきますが、第二の伴う心（心所）が離れているため、すべての種類の心が同時に生じることはありません。この故に「独行（独り歩むもの）」と呼ばれます。 また、この現在の心は、その自体が最初に現れ出る際に、貪りの性質や、怒りの性質や、無知の性質、あるいはその他のあらゆる煩悩や随煩悩の性質によって生じます。しかし、その自体は永遠に同じままではありません。例えば五根（眼・耳・鼻・舌・身）のように、同じであったり異なったり、劣っていたり勝れていたりするものとして、自体が最初に現れ出たまま永遠に続くことはありません。 なぜなら、心はあらゆる日々や瞬間や瞬間のさらに細かい単位（刹那・臘縛など）を通して、一つの種類ではなく、多くのさまざまな種類があり、生まれる時も滅する時も異なるからです。心の自性である染まりの本質は実体ではないので、「無身（からだなし）」と呼ばれます。 この未来の心は、四つの識住（識が宿る場所）に留まりながらも随眠（潜在的な煩悩）を有しており、後に再び生まれ変わる可能性があります。この故に「寐於窟（ほら穴に眠る）」と呼ばれます。 もし聡明な人が、この四つの相（遠行・独行・無身・寐於窟）によって、過去・現在・未来の心をあるがままに知り、厭離（あきらめ離れること）と滅（煩悩の消滅）と心の解脱を修行するならば、その人はあらゆる薩迦耶（身体や自我への執着）を超え、彼岸に至り、陸地に安住する者となります。この人を「婆羅門（バラモン）」と呼びます。

復次，今當略辨上所說義。謂薄伽梵此中略示，心於過去長時染污，無作者性；於現在世性是剎那，自性清淨；於未來世由有放逸、不放逸故，染污、清淨。當知是名此中略義。

> では、ここで先に述べた意味を簡潔に明らかにします。 世尊はここで次のことを示されました。 心は過去の長い間、汚れに染まってきたものの、その汚れには作り手の実体がないということ。 現在の世において、心の性質は一瞬ごとに新たであり、本来は清らかであるということ。 未来の世においては、怠るかどうかによって、心が汚れることも、清らかになることもあるということ。 これが、この箇所の簡潔な意味だと知るべきです。

誰能覆世間？ 誰能令不顯？誰復能塗染？ 誰為大怖畏？無明覆世間； 放逸令不顯；戲論能塗染； 苦為大怖畏。諸流處處漏， 是漏誰能止？當說誰防護？ 眾流誰所偃？世間諸流漏， 是漏念能止。我說能防護， 由慧故能偃。念慧與名色， 今問是一切，何當永滅盡？ 唯願為我說。念慧與名色， 我說是一切，若諸識永滅， 於斯永滅盡。云何念所行， 諸識當永滅？今請垂方便， 為釋令無疑。於內外諸受， 都不生欣樂；如是念所行， 諸識當永滅。若諸善說法， 及有學異類，彼常委能趣， 請大仙為說。不耽著諸欲， 其心無濁染，於諸法巧念， 是苾芻能趣。

> 誰が世を覆うのか。 誰が世を隠すのか。 誰が世を汚すのか。 何が最大の恐怖なのか。 無明が世を覆い、 放逸が世を隠し、 戲論が世を汚し、 苦が最大の恐怖である。 あらゆる流れが至る所に漏れ出る。 その漏れを誰が止められるのか。 教えてください。誰が防ぎ、誰が流れをせき止めるのか。 世の中のあらゆる漏れは、 「念（気づき）」によって止められる。 私は言う――「慧（知恵）」によって防ぎ、せき止めるのだ、と。 念、慧、そして名と色。 これらすべてについて尋ねます。 それらはいつ、完全に消え去るのでしょうか。 どうか私に説いてください。 念、慧、そして名と色、 これらすべてについて私は言う―― もしも識（認識）が完全に消え去れば、 その時、これらもまた完全に消え去るのだ、と。 では、どのような心の働きによって、 諸々の識は永く滅するのでしょうか。 今、お願いします。方便を示し、疑いなく理解させてください。 内と外のあらゆる感受（受）に対して、 喜びや楽しみをまったく生じさせないこと。 このように心が働くとき、 諸々の識は永く滅するのだ。 善く説かれた教え、 そして学ぶべき段階にある様々な人々、 彼らは確実にその道を進む。 どうか大いなる仙人よ、そのことを説いてください。 諸々の欲望に執着せず、 心が濁り汚れることなく、 諸々の法（ものごと）に巧みに気づく―― そのような比丘こそ、彼岸へと至るのである。

此是波羅延中，因阿氏多所請問頌。言世間者，略有三種。一、欲世間，二、色世間，三、無色世間。今此義中，意辨出家、在家二種世間。出家世間復有二種。一、惡說法，二、善說法。惡說法者，無明所覆。善說法者，由有明故，應可顯了；由放逸故，令不顯了。若諸在家異類白衣，為諸戲論之所塗染。當知戲論略有三種。謂三種言事，名為戲論；於四種言說，有所宣談，亦名戲論；能發語言所有尋伺，亦名戲論。若於過去、未來、現在三種言事，依四言說發起異類分別思惟，或違或順，是名塗染。若前戲論，若後塗染，諸在家者多分可得，是故說彼為諸戲論之所塗染。此中惡說法者無明所覆，善說法者放逸不顯，諸在家者戲論塗染，彼於現法苦因轉時，於此苦因不能如實知是苦因；於此苦因愛樂而住。由此因緣，生當來苦，即說此苦名大怖畏。又惡說法者，由無明門，從六處流漏泄眾苦；諸在家者，由戲論門，從六處流漏泄眾苦；善說法者，由放逸門，從六處流漏泄眾苦。如是無明、放逸、戲論諸門流漏，由聞他音、內正作意，於諸行中了知過患；此相應念逆流而轉，故能遮止。如是方便，名伏對治。若出世間正見所攝諸無漏慧，於三種流皆能偃塞。如是方便，名斷對治。於此流漏，若伏、若永二種對治，皆能斷故，俱名防護。又惡說法者及在家者，一向墮於染污品攝。若善說法毘奈耶中，二種可得。諸縱逸者，墮雜染品，非顯了攝；不縱逸者，墮清淨品，顯了所攝。又若已顯了、若應顯了，當知二種皆無放逸。諸阿羅漢斯已顯了，於不放逸，無更須作不放逸事；於四念住，若念若慧已善修故，已善證得清淨識故，唯有決定。於無餘依涅槃界中，善清淨識當永滅故，若念若慧亦隨永滅。餘依所攝先業所引一切名色，亦隨滅盡。乃至彼法未永滅來，於六恒住常善安住；於離欲地所有內受，及於諸欲相應外受，不生欣樂。如是名為諸阿羅漢正念現行，乃至壽盡識方永滅。若諸有學斯應顯了，於不放逸，應更須作不放逸事。彼復二種於不放逸不放逸事，謂常所作、委悉所作。有學異類。若諸有學極七反有，或復家家、一來果等，及於現法堪般涅槃，於下分結及上分結心無染污；為斷彼故，修習對治。又於諸欲不耽著故，諸下分結不能染污。心無濁故，諸上分結不能染污。又於一切有苦法中，如實知集乃至出離，於四念住善住其心。修習如先所得聖道，能趣究竟。如是修習對治道故，彼於一切不放逸中，諸所應作不放逸事，皆得究竟。

> これは、波羅延経の中において、阿氏多（アジタ）が質問した偈頌である。ここで言う「世間」とは、大きく分けて三種類ある。一つは欲の世間、二つは色の世間、三つは無色の世間である。しかし、この教えの意味するところは、出家と在家という二種類の世間について明らかにすることにある。 出家の世間にもさらに二種類ある。一つは悪い教えを説く者、もう一つは良い教えを説く者である。悪い教えを説く者は、無明に覆われている。良い教えを説く者は、明るい智慧があるために、真理を明らかにすることができるはずだが、放逸（心のゆるみ）によって、それを明らかにしないままにしている。 一方、在家のさまざまな身分の白衣の人々は、さまざまな戲論（虚偽の議論）に塗り染められている。知っておくべきだが、この戲論には大きく分けて三種類ある。すなわち、三種の言説の対象となる事柄を戲論と言い、四種の言葉による表現を用いて何かを語ることも戲論と言い、言葉を発する元となる心の働き（尋・伺）もまた戲論と言う。 もし過去・未来・現在の三種の事柄について、四種の言葉による表現に基づいて、さまざまな分別や思考を引き起こし、それに反対したり賛同したりするならば、これを「塗り染める」と言う。 先に述べた戲論も、後から述べる塗り染めも、在家の者にはたいてい見られるものである。それゆえ、彼らは「諸々の戲論に塗り染められている」と言われるのである。 この中で、悪い教えを説く者は無明に覆われ、良い教えを説く者は放逸のために真理を明らかにせず、在家の者は戲論に塗り染められている。彼らは、現在の人生において苦しみの原因が生じている時に、その苦しみの原因をあるがままに「これは苦しみの原因である」と認識することができない。そして、この苦しみの原因に対して愛着し、それに安住してしまう。このような縁によって、未来に苦しみが生まれる。この未来の苦しみこそ、大きな恐怖と呼ばれるものである。 また、悪い教えを説く者は、無明という門を通して、六つの感覚器官（六処）からさまざまな苦しみを漏れ出させる。在家の者は、戲論という門を通して、六つの感覚器官からさまざまな苦しみを漏れ出させる。良い教えを説く者は、放逸という門を通して、六つの感覚器官からさまざまな苦しみを漏れ出させる。 このように、無明・放逸・戲論という諸々の門から苦しみが漏れ出ているとしても、（良い教えを説く者は）他人の教えを聞き、内的に正しく心を向けることによって、すべての形成されたもの（諸行）のうちに過ちや苦しみの原因を見抜く。この気づき（念）と相応した心は、流れに逆らって進むので、苦しみの漏出を防ぎ止めることができる。このような修行の方法を、「抑えつける対治法」と呼ぶ。 もし、世を超えた正しい見解に含まれる、煩悩のない智慧（無漏慧）であれば、これら三つの流れをすべてせき止めることができる。このような修行の方法を、「断ち切る対治法」と呼ぶ。この漏出に対して、抑えつける対治法も、永遠に断ち切る対治法も、共に煩悩を断つことができるので、どちらも「防護」と呼ばれる。 また、悪い教えを説く者と在家の者は、完全に煩悩に染まった状態（染汚品）に属する。しかし、良い教えを説く者の教えと戒律（毘奈耶）の中には、二種類の者がいる。すなわち、心をゆるめて放逸な者は、煩悩に混ざった状態（雑染品）に堕ちており、真理を明らかにした状態（顕了）には含まれない。心をゆるめず不放逸な者は、清らかな状態（清浄品）に堕ちており、真理を明らかにした状態に含まれる。 さらに、すでに真理を明らかにした者（阿羅漢）も、これから明らかにすべき者（有学）も、どちらも放逸ではないということを知っておくべきである。 さまざまな阿羅漢は、すでに真理を明らかにしている。彼らは、不放逸であることについて、さらに改めて不放逸であるという行為を行う必要はない。なぜなら、四つの気づきの確立（四念住）における気づき（念）と智慧（慧）をすでに善く修め、善く清らかな認識（識）を証得しているからである。ただ、決定的な境地のみがある。そして、無余依涅槃の境地においては、善く清らかな認識も永遠に滅するので、気づきと智慧もまた共に永遠に滅する。さらに、その残余の身体（余依）に含まれる、過去の業によって引き起こされた一切の名前と形（名色）も、共に滅し尽きる。そのような法が永遠に滅するまでは、六つの恒に安住する境地（六恒住）に常に善く安住している。欲望を離れた境地（離欲地）におけるすべての内的な感受（内受）や、欲望と結びついた外的な感受（外受）に対して、喜びや楽しみを生じさせることはない。このような状態を、諸々の阿羅漢における正しい気づきの現れ（正念現行）と呼ぶ。そして、寿命が尽きて初めて、認識（識）は永遠に滅するのである。 一方、さまざまな有学（修行中の聖者）は、これから真理を明らかにすべき者である。彼らは、不放逸であることについて、さらに改めて不放逸であるという行為を行う必要がある。彼らには、不放逸であることに関する二種類の不放逸の行為がある。すなわち、「常に行うべきこと」と「細心に行うべきこと」である。 有学にはさまざまな種類がある。例えば、最高で七回の再生を経て悟りを得る者（極七反有）、あるいは家家、一来果などであり、現世において涅槃に至ることができる者もいる。彼らは、下分の束縛（下分結）や上分の束縛（上分結）に対して、心に汚れがない。それらの束縛を断つために、対治法を修習する。 また、さまざまな欲望に耽らないから、下分の諸々の束縛は心を汚すことができない。心に濁りがないから、上分の諸々の束縛も心を汚すことができない。 さらに、あらゆる苦しみを含む法（有苦法）について、その集まり（原因）から解脱に至る道までをあるがままに知り、四つの気づきの確立（四念住）に心を善く安住させる。そして、以前に得た聖なる道（聖道）を修習し、究極の境地に至ることができる。このように対治法の道を修習するから、彼らはあらゆる不放逸の中において、行うべき不放逸の行為をすべて成し遂げるのである。

復次，今當略辨上所說義。謂薄伽梵此中略示，諸在家者及於外法而出家者，決定雜染；及顯於善說法毘奈耶中而出家者，若行放逸墮染污品，若不放逸墮清淨品。當知是名此中略義。

> さらに、ここで今、上に述べた意味を簡潔に説明しましょう。すなわち、世尊はこの中で、在家の人々と、仏法以外の教えで出家した人々には、必ず煩悩の汚れが伴うことを示しています。また、よく説かれた法と戒律の中で出家した人々について、もし放逸な行いをするならば汚れの範疇に入り、もし放逸でなければ清らかな範疇に入ることを明らかにしています。これを、ここでの簡潔な意味と知るべきです。

於諸欲悕求， 或所期果遂，得已心定喜， 至死而保愛。諸樂欲眾生， 若退失諸欲，其色便變壞， 如毒箭所中。若遠離諸欲， 猶如毒蛇首；彼於愛世間， 正念能超度。田事與金銀、 牛、馬、珠、環釧、女、僕增諸欲， 是人所耽樂。攀緣沈下劣， 變壞生諸漏；從此集眾苦， 如船破水溢。若永絕諸欲， 如斷多羅頂；棄捨諸愁憂， 猶蓮華水滴。

> あらゆる欲望に憧れ求め、 あるいは願いが叶えられたなら、 得たものに心は喜びに満ち、 死ぬまでそれを守り愛おしむ。 快楽を求める人々が、 もし欲望を失い退けられたなら、 その表情はたちまち曇り、 毒矢に射抜かれたかのようになる。 もし諸々の欲から遠ざかるなら、 まるで毒蛇の頭から離れるように―― その人は愛執の世にあっても、 正しい念（おもい）によって超え渡ることができる。 田畑の仕事や金銀、 牛、馬、真珠、腕輪や釧（くしろ）、 女や召使――これらは欲望を増し、 人はそれらに耽溺する。 対象に執着し卑しいものに沈み、 壊れゆくことで煩悩が生まれる。 ここから様々な苦しみが集まる、 船が破れて水があふれるように。 もし欲望を完全に断ち切るなら、 多羅樹（椰子）の頂を断ち切るように―― あらゆる憂いを捨て去る、 ちょうど蓮の花から水のしずくが落ちるように。

此是義品中依諸欲頌。謂如有一，悕求未來所有諸欲；為獲得故，發勤方便，得已現前耽著受用。如是悕求及正受用所得諸欲，由此因緣生喜生樂。如是總名諸欲愛味。

> これは「義品」における「諸々の欲望についての偈」である。すなわち、ある人が未来におけるあらゆる欲望を求め、それを得るために熱心に努力し、手に入れた後には目前のものに執着して楽しむこと。このように欲望を求め、得た欲望を実際に享受することによって、喜びや楽が生まれる。これらを総称して「諸欲の愛味」という。

又彼悕求及正受用所有諸欲，於其所得、所受用事若退失時；隨彼諸欲戀著愛味，愛箭入心，如中毒箭，受大憂苦，或致殞歿。如是名為諸欲過患。

> また、欲望を求め、それを享受している者が、得たものや楽しんでいるものを失った時、それらの欲望に執着し、その味わいを愛するがゆえに、愛の矢が心に突き刺さるのです。それはちょうど毒矢を射られたように、大きな苦しみと憂いを受け、時には命を落とすことさえあります。これを、欲望の過ちと呼びます。

又復毒蛇，譬諸欲境；毒蛇首者，譬諸欲中所有愛味。若諸愚夫愛味諸欲，貪著受用，如蛇所螫。若有多聞諸聖弟子，遠離諸欲所有愛味，如毒蛇首，終不愛染而受用之，廣說乃至不生耽著。彼於諸色所有貪愛，乃至於觸所有貪愛，皆能調伏、斷滅、超度。如是名為諸欲出離。

> また、毒蛇は欲望の対象にたとえられます。毒蛇の頭は、欲望の中にある甘美な味わいにたとえられます。愚かな人々が欲望の甘美さに執着し、むさぼり楽しむことは、蛇に噛まれるようなものです。一方、多くの学問を持つ聖なる弟子たちは、欲望の甘美さから遠ざかり、毒蛇の頭のように、決して執着して楽しむことはなく、さらに言えば、むさぼりふけることもありません。彼らはあらゆる色に対する執着や、触れるものに対する執着を調伏し、断ち滅ぼし、超えていきます。これを「諸欲からの出離（しゅつり）」と呼びます。

又諸欲自性略有二種。一者、事欲；二、者煩惱欲。事欲有二。一者、穀。彼所依處，謂田事。二者、財。彼所依處，謂金銀等事。何以故？諸求穀者，必求田事；諸求財者，必求金銀等事。求金銀等復有二種。一者、事王，二者、商賈。求穀求田，方便須牛。求財事王，方便須馬。求財商賈所有方便，若金銀等共相應者，謂諸寶珠；金銀異類不相應者，謂環釧等。此舉最勝。若買賣言說事務，當知亦爾。積集如是財穀事已，受用戲樂所有助伴，謂諸女色。若未積集，招集、守護及息利中所有助伴，謂諸僮僕。如是財穀積集廣大，於此處所耽樂不捨。如是一切皆名事欲。煩惱欲者，謂於事欲隨逐愛味，依耽著識，發生種種妄分別貪。

> また、諸々の欲望（欲）の自性には、大きく分けて二種類がある。第一は「事欲（対象への欲望）」、第二は「煩悩欲（煩悩としての欲望）」である。 事欲には二つある。第一は「穀物」。そのよりどころとなるのは、田んぼの作業である。第二は「財産」。そのよりどころとなるのは、金や銀などの品物である。なぜなら、穀物を求める者は必ず田んぼの作業を求め、財産を求める者は必ず金や銀などを求めるからである。 金銀などを求めることにも、さらに二つの方法がある。第一は「王に仕えること」、第二は「商売」である。穀物や田んぼを求めるための手段には牛が必要であり、財産を得るために王に仕える手段には馬が必要である。財産を得るための商売の手段には、金銀などと性質が合うもの、すなわち宝珠や、金銀とは種類が異なり合わないもの、すなわち指輪や腕輪などがある。これは最も優れたものを挙げたものである。売買や交渉などの事務についても、同じように理解すべきである。 このようにして財物や穀物を蓄積した後、それを楽しみ遊ぶための仲間となるものは、諸々の女性の色香である。まだ蓄積していない場合は、集めること、守ること、そして利殖することにおける仲間となるものが、諸々の使用人や召使いである。このように財物や穀物の蓄積が広大になると、その場所に執着して楽しみ、手放せなくなる。これらすべてを「事欲」と呼ぶ。 煩悩欲とは、事欲に対して愛着の味わいを追い求め、執着する識（認識）に基づいて、様々な誤った分別や貪りを生み出すことである。

又於事欲，由煩惱欲令心沈沒，成下劣性。若彼事欲變壞散失，便生諸漏，愁歎憂悲種種苦惱纏繞其心。彼由如是於現法中諸漏蔽伏無有對治，猶如船破水漸盈溢，招集當來生老病等種種苦惱。

> また、対象への欲望によって煩悩から心が沈み、卑しい状態になります。その対象が損なわれ失われたならば、心にはもろもろの悩みや悲しみ、苦しみが生じ、絡みつきます。こうして現世において、もろもろの悩みに覆われ、対処するすべがないのは、まるで船が壊れて水が徐々に満ちてくるかのようです。やがて未来における生・老・病などの様々な苦しみを招き集めるのです。

若於諸欲已得出離，便能永絕隨欲愛味發起貪著諸染污識，猶如斷截多羅樹頂，不復生長。又彼事欲可愛、可樂乃至可意若變壞時，於清淨識諸憂愁等一切苦惱皆不得住；如蓮華葉，水滴不著。

> 欲望からすでに離れたならば、それに伴う愛着や執着、汚れた意識は永久に絶たれます。それは、多羅樹の頂を断ち切れば二度と生えないのと同じです。また、欲望の対象が愛しく楽しいものであっても、それが変わってしまっても、清らかな意識には悲しみや苦しみは一切とどまりません。それは、蓮の葉に水がつかないのと同じです。

復次，今當略辨上所說義。謂薄伽梵此中略示，諸欲愛味、過患、出離三種自性。又顯愛味能為過患，及彼出離所有功德。當知是名此中略義。

> さらに、ここで先に述べた意味を簡潔に明らかにしましょう。世尊はここで簡単に、欲望に対する愛着、その過ち、そしてそこからの離脱という三つの本質を示されています。また、愛着が過ちをもたらすこと、そしてその離脱が持つ功徳についても説かれています。これこそが、ここでの簡潔な教えの要旨だと知るべきです。

於過去無戀， 不悕求未來，現在諸法中， 處處遍觀察，智者所增長， 無奪亦無動。

> 過去に執着せず、 未来を願い求めず、 現在のあらゆる事柄を、 あらゆる面から観察する。 賢者が培うこの境地は、 奪われることもなく、揺らぐこともない。

此是造賢善頌。謂如有一，於佛所證法毘奈耶獲得淨信，以正信心棄捨家法，趣於非家。由五種相修行梵行，令善清淨。謂能捨離居家諸行，無所顧戀；亦不緣彼心生追戀，還起染著。是名初相。又於現法利養恭敬未來種類所有諸行，不生悕望；亦不願求當來人天所有諸行，修行梵行。是第二相。又於現在五取蘊攝色等諸法及彼安立，能正觀察。又於現法及當來世諸身惡行及惡果報，謂我於身不應發起所有惡行，廣說如經，乃至應斷身諸惡行，修身善行。語意善行，當知亦爾。又於色等諸蘊，能隨觀察去來今世，皆是無常。無常故苦；苦故無我；由無我故，於彼一切不執我所，乃至於彼不執為我。如是如實正慧觀察。是第三相。又依初法毘鉢舍那，諸根成熟，福德、智慧二種資糧，於當來世通達增長，非諸王等所能劫奪。是第四相。又依第二法毘鉢舍那，於現法中涅槃功德能善增長，非諸煩惱及隨煩惱所能傾動。是第五相。由此五相，修行梵行，令善清淨。若依如是一日一夜，亦為賢善、第一賢善。當知超度此餘一切所有梵行。

復次，今當略辯上所說義。謂薄伽梵此中略示，於善說法毘奈耶中所修梵行、於一切相皆善清淨，不與他共。

> さらに、ここで先に述べた意味を簡潔に明らかにしましょう。それは、世尊がここで次のことを簡潔に示しています。すなわち、善く説かれた法と律において修行される清らかな行いは、あらゆる面で完全に清められており、他のものと共有されるものではない、ということです。

當知是名此中略義。嗢拕南曰：

> これが、ここで述べた教えの要点を簡潔にまとめたものです。まとめの詩（うた）は次の通りです。

惡、說、貪、流、怖、 類、與、池、流、貪、作、劬勞、得義、 論議十四種。

> 悪（あく）を説き、貪り、流れ、恐れ、そして様々な類い（種類）や、与えること、池、流れ、貪りについて述べられています。 作り（行為）、労苦、得られる意味（利益）についての論議は十四種類あります。

## 瑜伽師地論卷第十九

> 『瑜伽師地論』 第19巻