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title: "瑜伽師地論 · 5節 修習對治"
description: "瑜伽师地论是佛教大乘瑜伽行派的重要经典，相传由弥勒菩萨口述，无著菩萨记录，唐代高僧玄奘于贞观年间从印度取回并译成汉文。该论共100卷，系统阐述瑜伽行派的教义，内容包括十七地、三性、八识、修行次第等核心理论，被誉为大乘佛教的百科全书。作为唯识学的根本论典，瑜伽师地论奠定了唯识学派的理论基础，对汉传佛教和藏传佛教影响深远，在佛教思想史上具有崇高地位，是研究唯识学和瑜伽行派必读的经典著作。"
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云何修習對治？當知略說於三位中，有十種修習瑜伽所對治法。

> どのようにして、修行によって対治法を修めるのでしょうか。簡単に言えば、三つの段階において、十種類の修行（ヨーガ）によって対処すべき法があると知るべきです。

云何三位？一、在家位，二、出家位，三、遠離閑居修瑜伽位。

> 三つの立場とは何か。第一に在家の立場、第二に出家の立場、第三に閑居して遠く離れ、ヨーガを修行する立場である。

云何十種修習瑜伽所對治法？謂在家位中，於諸妻室，有婬欲相應貪；於餘親屬及諸財寶，有受用相應愛。如是名為處在家位所對治法。由此障礙，於一切種不能出離。設得出家，由此尋思之所擾動為障礙故，不生喜樂。如是二種所對治法，隨其次第修不淨想、修無常想，當知是彼修習對治。

> 十種のヨーガ修行における対治法とは何か。それは在家の位において、妻や夫に対して淫欲に相応する貪りがあり、また他の親族や財宝に対して受用に相応する愛着がある。これらを在家の位における対治法という。これらの障害により、あらゆる面で出離することができない。仮に出離できたとしても、このような思考に擾乱されて障害となるため、喜びや楽しみが生じない。この二種の対治法に対して、順に不浄想と無常想を修することを、その修行の対治と知るべきである。

又出家者，於出家位中，時時略有四種所作。一、常方便修善法所作。謂我於諸法常方便修為依止故，當能制伏隨愛味樂一切心識，又能如實覺了苦性。二、於無戲論涅槃信解愛樂所作。謂我當於無戲論涅槃，心無退轉，不生憂慮。謂我我今者何所在耶？三、於時時中遊行聚落乞食所作。謂我乞食受用為因，身得久住有力調適，常能方便修諸善法。四、於遠離處安住所作。謂若愛樂與諸在家及出家眾雜居住者，便有種種世間相應見聞受用諸散亂事；勿我於彼正審觀察心一境位，當作障礙。

> また、出家した身である修行者は、時々、簡潔に言うと四種類の行いがあります。 第一に、常に善い行いを修める努力をすることです。これは、あらゆるものごとに対して常に努力して善い行いを積むことによって、愛着や快楽に流されるあらゆる心の動きを抑え、さらには苦しみの本質をありのままに覚ることができるようにするためです。 第二に、分別を超えた涅槃を信じ、それに喜びを感じるための行いです。これは、分別を超えた涅槃に対して心が退いたり、自分は今どこにいるのだろうかと心配したりすることがないようにするためです。 第三に、時々、村や町に出かけて托鉢（たくはつ）をする行いです。これは、托鉢で得たものを食べることによって体が長く持ち、力がついて健康になり、常に努力して様々な善い行いを修めることができるようにするためです。 第四に、人里離れた場所に安住する行いです。なぜなら、もし在家の人々や出家の人々と共に暮らすことを好むなら、世間に関わる様々な見聞きや欲望による散乱が生じ、私がそれらを正しく観察して心を一つの対象に集中させることの妨げとなるからです。

於此四種所作事中，當知有四所對治法。於初所作，有嬾墮懈怠；於第二所作，有薩迦耶見；於第三所作，有愛味貪；於第四所作，有世間種種樂欲貪愛。

> この四つの行いには、それぞれ妨げとなる四つの心の傾向があると知るべきです。 第一の行いに対しては、怠惰と無気力。 第二の行いに対しては、自己執着（サッカーヤ・ディッティ）。 第三の行いに対しては、味わいへの執着（愛着の貪り）。 第四の行いに対しては、この世の様々な快楽への貪りと欲求。

如是四種所對治法，如其次第，亦有四種修習對治。一、於無常修習苦想；二、於眾苦修無我想；三、於飲食修厭逆想；四、於一切世間修不可樂想。

> この四つの対治法には、それぞれ順に四つの修行による対治法があります。 第一に、無常であることに対して苦しみの考え方を修行すること。 第二に、様々な苦しみに対して「私」というものがないと考えること。 第三に、飲食に対して嫌悪する考え方を修行すること。 第四に、全ての世間に対して楽しいとは思えない考え方を修行すること。

又於遠離閑居方便作意位中，當知略有四種所治。何等為四？一、於奢摩他、毘鉢舍那品有闇昧心。二、於諸定有隨愛味。三、於生有隨動相心。四、推後後日，顧待餘時，隨不死尋，不能熾然勤修方便。

> さらに、静かな場所で独り修行に専念する際には、知っておくべき対処すべき四つの障りがあります。その四つとは何でしょうか。一つ目は、心を静める修行（奢摩他）と物事を観察する修行（毘鉢舍那）に対して、ぼんやりとした暗い心が生じること。二つ目は、様々な瞑想の境地に対して、執着や甘さの味わいを求める心が生じること。三つ目は、次の生へと向かう動きに心が揺れ動くこと。四つ目は、常に「後でやろう」「明日がある」と先延ばしにし、死を免れようとする心に従って、熱心に修行に励もうとしないこと、です。

如是四種所對治法，當知亦有四種修習對治。一、修光明想；二、修離欲想；三、修滅想；四、修死想。

> このように四つの対治法があると知られるべきですが、それにはまた四つの修習による対治法があります。第一に、光明想を修すること。第二に、離欲想を修すること。第三に、滅想を修すること。第四に、死想を修すること。

又不淨想略有二種。一、思擇力攝，二、修習力攝。思擇力攝不淨想中，當知五法為所對治。何等為五？一、親近母邑。二、處顯失念。三、居隱放逸。四、通處隱顯由串習力。五、雖勤方便修習不淨，而作意錯亂。謂不觀不淨，隨淨相轉，如是名為作意錯亂。

> また、不浄想（けがれたものを観想する瞑想法）には、大まかに二種類があります。一つは「思択力」（考える力）によって行うもの、もう一つは「修習力」（繰り返し修行する力）によって行うものです。 この「思択力」による不浄想においては、五つの対治すべき法（心の状態）があると知るべきです。その五つとは何か。 第一に、女性のもとに親しく通うこと。 第二に、人前で心が正念を失うこと。 第三に、隠れ家で放逸に陥ること。 第四に、隠れた場所と人の前の両方において、習慣の力で心が動かされること。 第五に、不浄の修行を熱心に行おうと努めているのに、心の向け方が誤っていること。具体的には、汚れたものを見ずに、清らかなイメージに引き寄せられてしまうことです。これを「作意錯乱

修習力攝不淨想中，當知七法為所對治。何等為七？謂本所作事心散亂性。本所作事趣作用性。方便作意不善巧性，由不恭敬勤請問故。

> 修習力によって不浄想（体の不浄を観察する瞑想法）を実践する際、対治すべき七つの要素があることを知らねばなりません。その七つとは何か？第一に、本来なすべき事に対して心が散乱する性質、第二に、本来なすべき事が妨げとなる性質、第三に、修行の方法を適切に理解できていない性質（これは敬意を欠き、質問を怠ることから生じます）。

又由不能守根門故；雖處空閑，猶有種種染污尋思擾亂其心。又於飲食不知量故，身不調適。又為尋思所擾亂故，不樂遠離內心寂靜奢摩他定。又由彼身不調適故，不能善修毘鉢舍那，不能如實觀察諸法。如是一切所對治法，當知總說一門十二，一門十四。

> さらに、根の門を守ることができないために、たとえ静かな場所にいても、さまざまな汚れた考えが心を乱します。また、飲食の量を知らないために、身体の調子が整いません。さらに、さまざまな考えに乱されるために、心の静けさである「奢摩他（サマタ）」の定から遠ざかることを好みません。また、身体の調子が整わないために、「毘鉢舍那（ヴィパッサナー）」をうまく修行できず、諸々の法をあるがままに観察することができません。これらすべての対治法について、総じて一つの門に十二の法、一つの門に十四の法があると知るべきです。

又即如是所對治法，能治白法還有爾所。於修二種不淨想中，當知多有所作。

> また、このように対治すべき法があるならば、それを治す善い法もまた同じだけ存在する。二種類の不浄想を修めることにおいては、多くの働きがあると知るべきである。

又於無常所修苦想，略有六種所對治法。何等為六？一、於未生善法最初應生，而有嬾墮。二、於已生善法應住不忘、修習圓滿、倍令增廣所有懈怠；三、於恭敬師長往請問中，不恒相續。四、於恒修善法常隨師轉，遠離淨信。五、由遠離淨信，不能常修。六、於內放逸，由放逸故，於常修習諸善法中，不恒隨轉。

> また、無常なるものの上において苦という想いを修習するには、おおむね六種の対治法がある。その六つとは何か。第一に、まだ生じていない善法を最初に生じさせるべきなのに、怠惰があること。第二に、すでに生じた善法を留め置き、忘れず、修習を円満にし、さらに増広させるべきなのに、懈怠があること。第三に、師長を敬い、問いを請うために訪ねることに、常に続けることがないこと。第四に、常に善法を修し、師に従って転ずることから、清らかな信心が遠ざかっていること。第五に、清らかな信心が遠ざかっていることによって、常に修習することができないこと。第六に、内に放逸があり、その放逸によって、常に修習すべき諸々の善法の中において、常に従って転ずることがないこと。

如是六種所對治法，還有六法能為對治，多有所作。與此相違，應知其相。又光明想，緣多光明以為境界，如三摩呬多地中已說。今此義中，意辯緣法光明以為境界，修光明想。謂如所聞已得究竟不忘念法，名法光明，與彼俱行彼相應想，應知名光明想。何以故？真實能令心闇昧者，謂方便修止觀品時，於諸法中所有忘念。與此相違，當知即是光明。

> このように、六種の対治すべき法があるが、それに対応して六種の対治法があり、大きな利益をもたらす。これと反対のものについては、その相を知るべきである。また、「光明想」とは、多くの光明を縁として境界とすることであり、これは『三摩呬多地』においてすでに述べられている。今ここでの意味は、法の光明を縁として境界とし、光明想を修することについて説く。すなわち、聞いたことをすでに究極して忘れることなく法を憶念することを「法の光明」と名づけ、それと共にあり、それに対応する想を「光明想」と名づける。なぜなら、心を暗くするものを真実に生じさせるのは、方便をもって止観の品を修する際に、諸々の法におけるすべての忘念であるからである。これと反対のものは、まさに光明であると知るべきである。

又第一義思所成慧及修所成慧俱光明想，有十一法為所對治。云何十一？謂思所成慧俱光明想有四法，修所成慧俱光明想有七法。如是所治，合有十一。思所成慧俱光明想有四法者，一、不善觀察故，不善決定故，於所思惟有疑隨逐。二、住於夜分，嬾惰懈怠故，多習睡眠故，虛度時分。三、住於晝分，習近邪惡食故，身不調柔，不能隨順諦觀諸法。四、與在家、出家共相雜住，於隨所聞所究竟法，不能如理作意思惟。如是疑隨逐故，障礙能遣疑因緣故；此四種法，是思所成慧俱光明想之所對治，令思所成若智、若見不得清淨。何等名為修所成慧俱光明想所治七法？一、依舉相修，極勇精進所對治法。二、依止相修，極劣精進所對治法。三、依捨相修，貪著定味與愛俱行所有喜悅。四、於般涅槃心懷恐怖，與瞋恚俱其心怯弱，二所治法。五、即依如是方便作意，於法精勤論議決擇，於立破門多生言論，相續不捨。此於寂靜正思惟時，能為障礙。六、於色聲香味觸中，不如正理執取相好，不正尋思，令心散亂。七、於不應思處，強攝其心思擇諸法。如是七種，是修所成慧俱光明想所對治法，極能障礙修所成慧俱光明想，令修所成若知、若見不清淨轉。

> さらに、第一義として、思所成慧および修所成慧と共にある光明想には、対治すべき十一の法があります。その十一とは何か。すなわち、思所成慧と共にある光明想には四法、修所成慧と共にある光明想には七法があり、これら対治すべきものは合わせて十一となります。 思所成慧と共にある光明想の四法とは、次の通りです。 一、よく観察せず、よく決定しないため、思惟する事柄について疑いがつきまとうこと。 二、夜間に怠惰で眠りにふけることが多く、時間を無駄に過ごすこと。 三、昼間に悪しき食べ物に親しむため、身体が柔らかくならず、諸法を如実に観察することができないこと。 四、在家や出家と入り混じって住み、聞いたことや究めた法を、道理に従って作意し思惟することができないこと。 このように疑いがつきまとうため、疑いを除く因縁が妨げられます。これら四つの法は、思所成慧と共にある光明想が対治すべきものであり、思所成の智や見を清らかにしない原因となります。 では、修所成慧と共にある光明想が対治すべき七法とは何か。 一、挙相に依って修める際の、過度に勇猛な精進が対治すべき法。 二、止相に依って修める際の、極めて弱い精進が対治すべき法。 三、捨相に依って修める際の、禅定の味に執着し、愛と共にある喜悦。 四、涅槃に対して恐怖を抱き、怒りと共に心が弱々しくなることの二つの対治法。 五、このような方便の作意に依って、法について精進して議論し決択し、立てる・破るの門で多くの言論を続けて捨てないこと。これは寂静に正しく思惟する際の障害となる。 六、色・声・香・味・触において、道理に従わずに相や好を執着し、正しくない尋思によって心を散乱させること。 七、考えるべきでないことを無理に心に留めて、諸法について思択すること。 これら七つの法は、修所成慧と共にある光明想が対治すべきものであり、修所成慧と共にある光明想をひどく妨げ、修所成の知や見を清らかにしないものとします。

此所治法，還有十一與此相違能對治法，能斷於彼，當知亦令思修所成若知、若見清淨而轉。

> ここで説かれている対治法には、これと反対の性質を持つ十一の対治法も存在します。それらは、あの煩悩を断ち切る力を持ち、また、思惟と修行によって生まれる智慧や見解を清らかにするものであると知るべきです。

又正方便修諸想者，有能斷滅所治法欲。又於所治現行法中，心不染著，速令斷滅。又能多住能對治法，斷滅一切所對治法。

> さらに、正しい方法で様々な観想を修行する者は、対治すべき法（煩悩）への欲望を断ち滅ぼすことができます。また、現れ出た煩悩の法に対しても、心が染まらず、速やかにそれを断ち滅ぼします。さらに、対治法に多く安住することで、あらゆる対治法の対象を断ち滅ぼすのです。

如是三法，隨逐一切對治修故，名多所作。如是名為修習對治。此修對治，當知即是修習瑜伽。

> この三つの法は、あらゆる対治法の修行に伴うものであるから、「多く為すところ」と名付けられる。これを対治法の修行と呼ぶ。この対治法の修行こそが、ヨーガの修行であると知るべきである。

此第五支修習對治廣聖教義，當知唯有如是十相。除此更無若過若增。

> 第五の支分である「対治法を修習する」という広大な聖教の意味は、まさにこの十の特徴のみであることを知るべきです。これ以外には、それ以上でもそれ以下でも、何もありません。