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title: "瑜伽師地論 · 6節 世間一切種清淨"
description: "瑜伽师地论是佛教大乘瑜伽行派的重要经典，相传由弥勒菩萨口述，无著菩萨记录，唐代高僧玄奘于贞观年间从印度取回并译成汉文。该论共100卷，系统阐述瑜伽行派的教义，内容包括十七地、三性、八识、修行次第等核心理论，被誉为大乘佛教的百科全书。作为唯识学的根本论典，瑜伽师地论奠定了唯识学派的理论基础，对汉传佛教和藏传佛教影响深远，在佛教思想史上具有崇高地位，是研究唯识学和瑜伽行派必读的经典著作。"
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云何世間一切種清淨？當知略有三種。一、得三摩地，二、三摩地圓滿，三、三摩地自在。

此中最初有二十種得三摩地所對治法，能令不得勝三摩地。何等二十？一、有不樂斷同梵行者為伴過失。二、伴雖有德，然能宣說修定方便師有過失。謂顛倒說修定方便。三、師雖有德，然於所說修定方便，其能聽者欲樂羸劣，心散亂故，不能領受過失。四、其能聽者雖有樂欲，屬耳而聽；然闇鈍故，覺慧劣故，不能領受過失。五、雖有智德，然是愛行，多求利養恭敬過失。六、多分憂愁，難養難滿，不知喜足過失。七、即由如是增上力故，多諸事務過失。八、雖無此失，然有懈怠嬾惰故，棄捨加行過失。九、雖無此失，然有為他種種障礙生起過失。十、雖無此失，然有於寒熱等苦，不能堪忍過失。十一、雖無此失，然有慢恚過故，不能領受教誨過失。十二、雖無此失，然有於教顛倒思惟過失。十三、雖無此失，然於所受教有忘念過失。十四、雖無此失，然有在家、出家雜住過失。十五、雖無此失，然有受用五失相應臥具過失。五失相應臥具，應知如聲聞地當說。十六、雖無此失，然於遠離處不守護諸根故，有不正尋思過失。十七、雖無此失，然由食不平等故，有身沈重無所堪能過失。十八、雖無此失，然性多睡眠，有多睡眠隨煩惱現行過失。十九、雖無此失，然不先修行奢摩他品故，於內心寂止遠離中，有不欣樂過失。二十、雖無此失，然先不修行毘鉢舍那品故，於增上慧法毘鉢舍那如實觀中，有不欣樂過失。

> まず始めに、悟りを得るための集中状態（三摩地）を妨げる要素が二十種類あります。これらが原因で、優れた三摩地を得ることができなくなります。その二十とは、以下の通りです。 一、修行を共にする仲間の中に、煩悩を断つことを好まず、やる気のない者がいるという欠点。 二、仲間は立派でも、修行の方法を教える師に欠点があること。具体的には、修行の方法を誤って教えること。 三、師は立派でも、教えを聞く者が修行への意欲が弱く、心が散乱しているために教えを正しく理解できないという欠点。 四、聞く者に意欲があり、耳を傾けても、理解力が鈍く、智慧が乏しいために教えを受け取れないという欠点。 五、智慧はあるが、執着心が強く、利益や崇拝を多く求めるという欠点。 六、常に憂いが多く、養いにくく満たされにくく、満足することを知らないという欠点。 七、まさにそうした強い傾向のせいで、様々な雑事に追われるという欠点。 八、これらの欠点はなくても、怠け者で努力を放棄するという欠点。 九、これらの欠点はなくても、他の人々による様々な妨害が生じるという欠点。 十、これらの欠点はなくても、寒さや暑さなどの苦しみに耐えられないという欠点。 十一、これらの欠点はなくても、慢心や怒りのために教えを受け入れられないという欠点。 十二、これらの欠点はなくても、教えを誤った方向に考えてしまうという欠点。 十三、これらの欠点はなくても、受けた教えを忘れやすいという欠点。 十四、これらの欠点はなくても、在家と出家が混ざり合って住むという欠点。 十五、これらの欠点はなくても、五つの欠点を備えた寝具を使用するという欠点。五つの欠点を備えた寝具については、声聞地で詳しく述べられる。 十六、これらの欠点はなくても、静かな場所で感覚の門を守らず、誤った考えにふけるという欠点。 十七、これらの欠点はなくても、食事のバランスが悪いために身体が重く、何もする気が起きないという欠点。 十八、これらの欠点はなくても、生来眠りが多く、眠気という煩悩が頻繁に現れるという欠点。 十九、これらの欠点はなくても、先に心を静める修行（奢摩他）をしていないため、心が静まり離れることに喜びを見出せないという欠点。 二十、これらの欠点はなくても、先に物事を観察する修行（毘鉢舍那）をしていないため、より高い智慧についての観察（毘鉢舍那）をありのままに行うことに喜びを見出せないという欠点。

如是二十種法，是奢摩他、毘鉢舍那品，證得心一境性之所對治。

又此二十種所對治法，略由四相，於所生起三摩地中，堪能為障。何等為四？一、於三摩地方便不善巧故；二、於一切修定方便全無加行故；三、顛倒加行故；四、加行縵緩故。此三摩地所對治法，有二十種白法對治；與此相違，應知其相。

> また、この20の対治すべき法は、おおまかに四つの相によって、生じつつある三摩地において障りとなる。その四つとは何か。第一に、三摩地への方法に巧みでないこと。第二に、修行のためのあらゆる手段を全く行わないこと。第三に、誤った行いをすること。第四に、行いが緩慢であること。この三摩地の対治法には、二十の清らかな法による対治がある。これらと反対のものこそ、その相であると知るべきである。

由此能斷所對治法，多所作故；疾疾能得正住其心，證三摩地。

> このようにして、対治法の対象となるものを断ち切ることができるからです。多くの働きがあるからであり、速やかに心を正しく安住させ、三昧（サマーディ）を証得できるからです。

又得此三摩地，當知即是得初靜慮近分定未至位所攝。又此得三摩地相違法，及得三摩地隨順法廣聖教義，當知唯有此二十種。除此更無若過若增。由此因緣，依初世間一切種清淨，於此正法補特伽羅得三摩地，已善宣說、已善開示。

> また、この三摩地（心の統一）を得るということは、初めての静慮（禅定）に近づく分の定、すなわち未至位に含まれるものであると知るべきである。 さらに、この三摩地を得ることと相反する法、および三摩地を得ることに随順する法について、広く聖典の教義を述べるならば、その種類はただこの二十種類だけであると知るべきである。これ以上もこれ以下の増減もない。 このような理由から、最初の世間における一切の清らかさに基づいて、この正しい教えを実践する人が三摩地を得ることについて、すでに巧みに説かれ、すでに明らかに示されたのである。

復次，如是已得三摩地者，於此少小殊勝定中，不生喜足。於勝三摩地圓滿，更起求願。又即於彼見勝功德。又由求願見勝功德，為求彼故；勇猛精進，策勵而住。又彼於色相應愛味俱行煩惱，非能一切皆永斷故，名非得勝。又非於彼諸善法中皆勤修故，名他所勝。

> さらに、このようにしてすでに三昧を得た者であっても、そのわずかな特別な定の境地に満足してはならない。より勝れた三昧の完成を求めて、さらに願いを起こすべきである。また、その三昧の中に勝れた功徳を見るべきである。そして、その願いと勝れた功徳を見ることによって、それを求めるために、勇猛に精進し、自らを励まして修行に安住する。 また、その者が色（物質的な対象）に執着する煩悩を、すべて完全に断ち切ることはできないため、「勝れを得た」とは言えない。さらに、その者があらゆる善法に努め励んでいないため、「他に勝れた者」とも言えないのである。

又於廣大淨天生處，無有沈沒。又彼無能陵篾於己，下劣信解增上力故。又彼如是心無沈沒，於定所緣境界法中，即先所得止、舉、捨相，無間、殷重方便修故；隨順而轉。

> また、広大な清らかな天の世界に生まれても、そこに沈むことはありません。また、下劣な信念や理解の力によって、自分を軽蔑する者はいません。また、そのように心が沈むことなく、瞑想の対象となる境地や法において、すでに得ている止・挙・捨の相を、途切れることなく、そして真剣な方法で修行するからです。そうすることで、それらに従って心がはたらくのです。

又彼如是隨法相轉，數入數出，為欲證得速疾通慧，依定圓滿，樂聞正法故；於時時中慇懃請問。

> また、そのように法（真理）のあり方に従って進み、何度も定に入ったり出たりしながら、速やかな智慧（通慧）を得ようと修行し、定（禅定）を完成させるために、正しい教えを喜んで聴くのです。 そのため、時々熱心に教えを求めます。

又依如是三摩地圓滿故，於正方便根本定攝內心奢摩他，證得遠離愛樂。又證得法毘鉢舍那。

> このように三昧が完成すると、正しい修行の基礎として心を内に静める「奢摩他（しゃまた）」を体得し、執着から離れる喜びを得ることができます。また、真理を観察する「毘鉢舍那（びばしゃな）」も実現します。

如是觀察熾然明淨所有愛樂。當知齊此已能證入根本靜慮，如是名為三摩地圓滿。

> このように、燃え盛るがごとき明らかな観察と、そこにあるすべての愛着を楽しむ心をよく見極めなさい。知っておくべきは、ここに至って初めて根本的な静慮（禅定）に証入できるということです。これを、三摩地（心の統一）の完成と呼びます。

又此三摩地圓滿廣聖教義，當知唯有如是十相。除此更無若過若增。

> さらに、この三昧が完全であり、聖なる教えの意味が広く深いものであることは、次の十の特徴によってのみ理解されるべきです。これ以外に、それを超えるものや付け加えるものは何もありません。

復次，雖已證得根本三摩地故，名三摩地圓滿；其心猶為三摩地生愛味、慢、見、疑、無明等諸隨煩惱之所染污，未名圓滿清淨鮮白。

> また、根本三摩地をすでに証得したことから、三摩地は円満であると称されるものの、その心はなお、三摩地から生じる愛着・慢心・邪見・疑惑・無明などのさまざまな随煩悩に染まっており、円満清浄で真新しいものとは言えません。

為令如是諸隨煩惱不現行故，為練心故，為調心故，彼作是思：我應當證心自在性、定自在性。於四處所，以二十二相應善觀察。謂自誓受下劣形相、威儀、眾具；又自誓受禁制尸羅；又自誓受精勤無間修習善法。若有為斷一切苦惱，受此三處，應正觀察眾苦隨逐。

> そのような様々な煩悩（伴煩悩）が生じないようにするため、心を鍛えるため、心を調えるために、修行者はこう考えます。「私は心の自在性、定の自在性を証得すべきである」と。そして、四つの状況において、二十二の相に従って正しく観察します。すなわち、自ら進んで劣った姿や振る舞い、持ち物を受け入れること。また、自ら進んで戒律を守り、身を律すること。さらに、自ら進んで怠ることなく善法を修習することです。もし一切の苦しみを断つためにこれら三つの行を実践するならば、様々な苦が付きまとうことを正しく観察すべきです。

由剃除鬚髮故，捨俗形好故，著壞色衣故，應自觀察形色異人。如是名為觀察誓受下劣形相。於行住坐臥語默等中，不隨欲行；制伏憍慢往趣他家，審正觀察遊行乞食。如是名為觀察誓受下劣威儀。又正觀察從他獲得無所畜積諸供身具，如是名為觀察誓受下劣眾具。由此五相，當知是名初處觀察。

> 髪を剃り落とし、俗人の美しい姿を捨て、染めた衣をまとうことにより、「自分の姿は世の人々とは異なる」と自ら観察せよ。これを「下劣な形相を受けることを誓ったと観察する」と名づける。 歩く、立つ、座る、横たわる、話す、黙するなどの行為において、欲望に従って行動せず、驕り高ぶりを抑えて他者の家を訪ね、正しく注意深く観察しながら托鉢のために歩く。これを「下劣な威儀を受けることを誓ったと観察する」と名づける。 また、他人から得たものであり、自ら蓄え積むことのない、身の回りの道具について正しく観察する。これを「下劣な道具を受けることを誓ったと観察する」と名づける。 この五つの観察をもって、これを「最初の場所における観察」と知るべきである。

又善說法毘奈耶中，諸出家者所受尸羅，略捨二事之所顯現。一者、棄捨父母、妻子、奴婢、僕使、朋友、眷屬、財穀珍寶等所顯。二者、棄捨歌舞、倡伎、笑戲、歡娛、遊從、掉逸、親愛聚會，種種世事之所顯現。又彼安住尸羅律儀，不由犯戒私自懇責，亦不為彼同梵行者以法呵擯；有犯尸羅而不輕舉。若於尸羅有所缺犯，由此因緣，便自懇責；若同梵行以法呵擯，即便如法而自悔除。於能舉罪同梵行者，心無恚恨，無損無惱而自修治。由此五相，是名於第二處觀察。

> さらに、よく説かれた法と戒律の中において、出家した者たちが受ける戒律は、大きく分けて二つのことを捨てることで示されています。第一に、父母、妻子、奴隷、使用人、友人、親族、財産や穀物、宝物などを捨てることです。第二に、歌舞、芸能、笑い遊び、楽しみ、交際、放逸、親しい集まりなどの様々な世間の事柄を捨てることです。 また、彼らは戒律を守ることで、戒律を犯したからといって自らを懺悔したり責めたりすることはなく、同じ修行者たちからも戒律に従って非難されることはありません。戒律を犯しても軽んじることなく、もし戒律に欠けや過ちがあれば、その理由によって自らを懺悔し責めます。同じ修行者から戒律に従って非難されたならば、ただちに正しい方法で懺悔し過ちを除きます。非難を行った同じ修行者に対しては、心に恨みを持たず、害したり悩ませたりすることなく、自らを修め整えます。この五つの相によって、第二の観察の場所と名づけられます。

如是尸羅善圓滿已，應以五相精勤方便修諸善品。謂時時間諮受讀誦論量決擇，勤修善品，如是乃應受他信施；又樂遠離，以正方便修諸作意；又復晝夜，於退分、勝分二法，知斷修習；又於生死見大過失；又於涅槃見勝功德。由此五相，是名第三處觀察。

> このように戒律が善く円満したならば、五つの観点をもって、熱心かつ巧みに様々な善い行いを積むべきである。 すなわち、 - 折に触れて教えを請い、読誦し、討論して正しく選択し、善い行いを熱心に修すること。そうすることで、はじめて他者からの信施を受けるにふさわしくなる。 - また、静かなところに喜んで住み、正しい方法で心を集中して修行すること。 - さらに、昼夜を問わず、退歩をもたらす法と向上をもたらす法との二つを理解し、退歩するものを断ち、向上するものを修習すること。 - また、迷いの世界に対して大きな過失があると見抜くこと。 - さらに、悟りの世界が優れた功徳であると見極めること。 この五つの観点をもって、第三の観察の対象とする。

如是精勤修善品者，略為四苦之所隨逐。謂於四沙門果，未能隨有所證故，猶為惡趣苦所隨逐。體是生老病死法故，為內壞苦之所隨逐。一切所愛離別法故，為愛壞苦之所隨逐。自業所作故，一切苦因之所隨逐。彼為如是四苦隨逐，應以七相審正觀察。由此七相，是名第四處觀察。

> このように善い行いを熱心に修行している者でも、おおまかに四つの苦しみに追いまわされているのです。 それは、 第一に、四つの沙門の果報（修行の成果）をまだ十分に得ていないため、悪い世界に落ちる苦しみに追われていること。 第二に、生・老・病・死という性質を持つため、内側から壊れていく苦しみに追われていること。 第三に、愛するものすべてと別れなければならない性質を持つため、愛するものを失う苦しみに追われていること。 第四に、自らの行いによってすべての苦しみの原因を作り出しているため、あらゆる苦しみの原因に追われていること。 このように四つの苦しみに追われている者は、七つの観点から正しくよく観察すべきです。この七つの観点による観察を、第四の観察の場所と呼びます。

彼於如是四處，以二十二相正觀察時，便生如是如理作意：謂我為求如是事故，誓受下劣形相威儀及資身具，誓受禁戒，誓受精勤常修善法；而我今者於四種苦為脫何等？

> 彼はこうした四つの場所について、二十二の特徴をもって正しく観察するとき、次のような道理にかなった心構えが生じる。すなわち、「私はこうした目的を達成するために、粗末な姿や振る舞い、生活道具を受け入れ、戒律を守り、精進して善い行いを絶えず修めることを誓った。だが今の私は、四種の苦しみのうち、どれから逃れようとしているのか」と。

若我如是自策自勵，誓受三處，猶為四苦常所隨逐，未得解脫；我今不應為苦隨逐，未於勝定獲得自在，中路止息，或復退屈。如是精勤如理作意，乃得名為出家之想及沙門想。

> このように自らを励まし、三つの誓いを立てたとしても、なお四つの苦しみに常に追われ、解脱を得ていない。今、私は苦しみに追われるべきではなく、優れた定において自在を得ずして、途中で止まったり退いたりしてはならない。このように精進し、道理にかなった心の働きを持つことこそ、出家の思い、沙門の思いと呼ばれるのである。

彼於圓滿修多方便以為依止，由世間道，證得三摩地圓滿故；於煩惱斷，猶未證得，復依樂斷，常勤修習。又彼已得善世間道，數數為得三摩地自在故；依止樂修無間而轉。又於正信長者、居士、婆羅門等，獲得種種利養恭敬，而不依此利養恭敬，而生貪著。亦不於他利養恭敬，及餘不信婆羅門等，對面、背面諸不可意身業、語業現行事中，心生憤恚，又復於彼無損害心。又愛、慢、見、無明、疑惑種種定中諸隨煩惱不復現行，善守念住。又非證得勝奢摩他，即以如是奢摩他故，謂己一切所作已辦；亦不向他說己所證。

> 彼は円満な修行の方便を依り所として、世間の道によって三昧の円満を証得した。しかし、煩悩の断滅についてはまだ証得していないため、さらに断滅を楽しむことに依りて、常に勤めて修習する。また、彼はすでに善き世間の道を得ており、三昧の自在を得るために何度も繰り返し、楽修に依りて絶え間なく修行を続ける。さらに、正信の長者、居士、婆羅門などから様々な利養や恭敬を得るが、それらの利養や恭敬に執着して貪りを生じることはない。また、他の人の利養や恭敬、あるいは不信の婆羅門などが、面と向かって、あるいは背後で為す意に適わない身業や語業の現行に対して、心に憤りを起こすこともない。さらに、彼らに対して害心を持つこともない。また、愛、慢、見、無明、疑惑といった様々な定中の随煩悩は再び現れず、念住をよく守る。そして、勝れた奢摩他を証得しても、その奢摩他をもって、すでに一切の所作を成し遂げたと考えることはなく、また自分の証得を他人に語ることもない。

彼由如是樂斷樂修，心無貪恚，正念現前，離增上慢。於諸衣服隨宜獲得，便生喜足。如於衣服，於餘飲食、臥具等喜足，當知亦爾。又正了知而為受用。謂如是等諸資生具，但為治身令不敗壞，暫止饑渴，攝受梵行，廣說乃至於食知量。彼由如是正修行故，於三摩地獲得自在。

> 彼はこのように、静寂と修行を喜び、心に貪りや怒りがなく、正しい念が現前し、増上慢を離れている。衣服については、得られるままに満足し喜ぶ。衣服だけでなく、他の飲食や臥具などについても、同じように満足し喜ぶと知るべきである。また、正しく了知してこれらを受用する。すなわち、これらの資生具は、ただ身体を保ち、壊れさせず、一時的に飢えや渇きをしのぎ、梵行を支えるためのものであると、さらに広く説けば、食の量を知るに至る。彼はこのように正しく修行するから、三摩地において自在を得る。

依止彼故，其心清白，無有瑕穢，離隨煩惱，廣說乃至獲得不動，能引一切勝神通慧。是名三摩地自在。此三摩地自在廣義，當知唯有如所說相。除此更無若過若增。

> それに依り止まるがゆえに、その心は清らかで白く、汚れや濁りがなく、煩悩から離れ、詳しく説けば、さらに不動の境地に至り、あらゆる優れた神通力と智慧を引き起こすことができる。これを三摩地の自在という。この三摩地の自在の広い意味は、まさにここに説かれた特徴のとおりであると知るべきである。これ以上に、過ぎたものも増したものもない。

又先所說得三摩地，若中所說三摩地圓滿，及今所說三摩地自在，總名無上世間一切種清淨。

> さらに先に述べた三昧（さんまい）の獲得、中で説かれた三昧の完成、そして今ここで説く三昧の自在さ、これらを総称して「この世において比類なき、あらゆる清らかさの完成」といいます。

當知此清淨，唯在正法，非諸外道。