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title: "瑜伽師地論 · 1項 入聖諦現觀"
description: "瑜伽师地论是佛教大乘瑜伽行派的重要经典，相传由弥勒菩萨口述，无著菩萨记录，唐代高僧玄奘于贞观年间从印度取回并译成汉文。该论共100卷，系统阐述瑜伽行派的教义，内容包括十七地、三性、八识、修行次第等核心理论，被誉为大乘佛教的百科全书。作为唯识学的根本论典，瑜伽师地论奠定了唯识学派的理论基础，对汉传佛教和藏传佛教影响深远，在佛教思想史上具有崇高地位，是研究唯识学和瑜伽行派必读的经典著作。"
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云何入聖諦現觀？謂有如來諸弟子眾，已善修習世間清淨，知長夜中，由妙五欲積集其心。食所持故，長養其心，於彼諸欲生愛樂故，而於諸欲深見過患。於上勝境，見寂靜德。彼於戲論界易可安住，謂於世間一切種清淨；於無戲論界難可安住，謂於出世間一切種清淨。是故於彼厭惡而住，非不厭惡。

> どのようにして聖なる真理を現に観察する境地に入るのか。それは次のようなことである。如来の弟子たちは、すでに世俗の清らかさをよく修め、長い時を経て、優れた五つの感覚欲によって心が積み集められていることを知っている。食べ物に支えられることで心は養われ、それらの欲望に愛着と楽しみを生じるが、同時にそれらの欲望に深い過ちや患いを見ている。さらに、より優れた境地には、静かなる徳を見ている。彼らは、戯論（分別の世界）の領域には容易に安住できる。すなわち、世俗におけるあらゆる清らかさには安住できるが、無戯論（分別を超えた世界）の領域には安住し難い。すなわち、出世間におけるあらゆる清らかさには安住し難いのである。それゆえに、彼らはそれを厭い離れて住するのであり、厭い離れないのではない。

又此住正法者，於無戲論涅槃界中，心樂安住，樂欲證得。由闕沙門果證增上力故；於己雜染相應，心生厭患；於己清淨不相應，心生厭患；於己雜染相應過患，心生厭患；於己清淨不相應過患，心生厭患；於己清淨見難成辦，心生厭患。

> また、この正しい教えに安住する者は、議論を超えた涅槃の境地に心静かにとどまり、それを自ら体得しようと願う。しかし、沙門の果を得る力が十分でないために、自分に煩悩が結びついていることを厭い、清らかさが伴わないことを厭い、煩悩が結びつくことの過ちを厭い、清らかさが伴わないことの過ちを厭い、そして清らかな境地を達成することが難しいと感じて厭うのである。

此中略有三種雜染相應。一、未調未順而死，雜染相應。二、死已當墮煩惱大坑，雜染相應。三、由彼煩惱自在力故，現行種種惡不善業，往有怖處，雜染相應。

> ここでは、大きく三つの煩悩に関わる状態があります。 第一に、心が調えられず整っていないまま死を迎えること。 第二に、死んだ後に煩悩という大きな落とし穴に落ちてしまうこと。 第三に、その煩悩の力に支配されて、様々な悪い行いをし、恐れのある場所へと向かってしまうことです。

彼觀己身闕沙門果證，由彼闕故，與三種雜染相應。如是觀已，心生厭患。當知清淨不相應亦有三種。一、諸煩惱斷究竟涅槃，名無怖處。二、能證此，謂依增上心學善心三摩地。三、能證此，於增上慧學正見所攝微妙聖道。

> 自分の身には修行者の果て（沙門果）が欠けていると観じ、その欠如ゆえに三つの煩悩（雑染）と結びついていると気づく。このように観じたならば、心に厭離の念が生じる。清らかさ（清浄）と結びつかないものにも三つがあると知るべきである。第一に、あらゆる煩悩を断ち切り、究極の安らぎ（涅槃）に至ること、これは「恐れのない場所」（無怖処）と名づけられる。第二に、これを実現するものとして、より高次の心の学び（増上心学）に基づく、善き心の三昧（三摩地）がある。第三に、これを実現するものとして、より高次の智慧の学び（増上慧学）に

彼觀己身，與此三種清淨不相應故，心生厭患。當知雜染相應過患，亦有三種。一、老病死苦根本之生。二、自性苦生無暇處。三、一切處生無常性。彼觀己身，有此三種雜染相應過患，心生厭患。

> 自分のこの身をよく観ると、この三つの清らかさには全くかなっていないと気づき、心に嫌悪の念が生じます。 また、煩わしさと結びついた過ちも、三つあると知るべきです。 第一に、老い、病、死という苦しみの根本が生じること。 第二に、苦しみそのものとして生まれるため、恵まれた環境を得られないこと。 第三に、どこに生まれ変わっても無常であること。 自分のこの身には、この三つの煩わしい過ちがあると観じて、心に嫌悪の念を生じさせます。

當知清淨不相應過患有五種。一、於邊地生，未能止息。二於惡道生，未能止息。三、於在家眾諸無間業，未能偃塞。四、於出家眾無量見趣，未不相應。五、雖由世間道，乃至有頂若定、若生，而於無初後際生死流轉，未作邊際。

> 清らかさを得ていない状態には、五つの問題点があります。 第一に、辺境の地に生まれることを、まだ防げないこと。 第二に、悪道に生まれることを、まだ防げないこと。 第三に、在家の者が犯す無間業を、まだ防ぎきれないこと。 第四に、出家者に見られる無数の誤った見解と、まだ調和していないこと。 第五に、世間の修行によって有頂天までの定や生を得ても、始まりも終わりもない生死の流れを、まだ超えられていないこと。

彼觀自身，有此五種清淨不相應過患，心生厭患。於己清淨見難成辦，當知亦有五種。一、若捨不為，不能自作故。二、於所餘事非請他為能成辦故。三、決定應作故。由於自心未令清淨，必於眾苦不得解脫成吉祥性。四、非於惡業現在不作，即說彼為已作清淨，即名已得於現見法永離熾燃。無對治道，先所造作惡不善業，必不壞故。五、由彼清淨學無學道證得所顯故。彼觀清淨，由此五相難可成辦，心生厭患。

> 彼は自己を観察し、この五つの清らかさに相応しない過患があることを見て、心に厭い離れる思いを生じる。自己の清らかさを成就するのが難しいと知るとき、また五つの理由があることを知るべきである。一、もし修行を捨てて行わなければ、自ら成し遂げることができないこと。二、他の事柄について、他人に依頼しても成就させることができないこと。三、必ず行うべきことであること。自らの心を清らかにしなければ、必ず諸々の苦しみから解脱して吉祥の状態となることができないからである。四、悪業を現在行わないというだけで、それをすでに清らかにしたと言い、すでに現世において永遠に煩悩の炎から離れたと解してはならない。対治の道がなければ、以前に造った悪しき不善の業は必ず壊れることがないからである。五、その清らかさは、有学・無学の道の修行の証得によって顕われるものであること。彼は清らかさを観察し、この五つの相によって成就することが難しいと知り、心に厭い離れる思いを生じる。

又復發起堅固精進，為欲證得。彼由觀見雜染清淨，相應不相應故，心生厭患。又由觀見雜染清淨，相應不相應過患故，心生怖畏。又於清淨證得，及雜染斷滅中，有嬾惰懈怠故，心便遮止。又由作意思惟彼相故，心生厭患；即於此相多所作故，心極厭患。如厭患、極厭患，怖畏、極怖畏，遮止、極遮止，當知亦爾。

如是彼以由厭俱行想，於五處所，以二十種相作意思惟故，名善修治。

> このように、修行者が厭離を伴う想いによって、五つの対象に対して二十通りの様相を心に思い描くことで、善く修行し整えられた状態にあると言われるのです。

復有五因，二十種相之所攝受，令於愛盡寂滅涅槃，速疾多住，心無退轉，亦無憂慮。謂我我今者為何所在。

> さらに五つの因があり、二十の相によって支えられています。それにより、愛着が尽き、静まり、涅槃に至ることを、速やかに、そして長く安住し、心が退転することもなく、憂いもなくなります。すなわち、「私は今、どこにいるのだろうか」と問うこともないのです。

何等五因？

> 五つの因（原因）とは何か。

一、由通達作意故。謂由如是通達作意無間，必能趣入正性離生，入諦現觀，證聖智見。二、由所依故。謂由依此所依無間，必能趣入正性離生，餘如前說。三、由入境界門故。謂由緣此入境界門，必能趣入正性離生，餘如前說。四、由攝受資糧故。謂由此攝受資糧，必能趣入正性離生，餘如前說。五、由攝受方便故。謂由攝受如是方便，必能趣入正性離生，乃至廣說。

> 第一に、真理をよく知る正しい心構え（作意）によってです。すなわち、この真理をあるがままに見る心構えを途切れることなく保つことにより、必ず迷いの世界を超えて悟りへと至り、真実を観察して聖なる智慧と見解を得ることができるのです。 第二に、よりどころ（所依）によってです。すなわち、このあるがままの見解をよりどころとして途切れることなく保つことにより、必ず迷いの世界を超えて悟りへと至ることができるのです。その他は先に述べた通りです。 第三に、真理の世界に入るための門（入境界門）によってです。すなわち、この真理をよりどころとして心の門を開くことにより、必ず迷いの世界を超えて悟りへと至ることができるのです。その他は先に述べた通りです。 第四に、悟りに向かうための準備となる善い資質（資糧）を身につけることによってです。すなわち、このような善い行いや学びを積み重ねることにより、必ず迷いの世界を超えて悟りへと至ることができるのです。その他は先に述べた通りです。 第五に、悟りへ導くための適切な方法（方便）を身につけることによってです。すなわち、このような巧み

如是五因，當知依諦現觀逆次因說，非順次因。依最勝因，如先說事，逆次說故。

> この五つの因は、真理の洞察に基づいて逆の順序で説かれたものであり、順を追ったものではないと知るべきである。最も優れた因に従い、前述の事柄を逆の順序で説いたからである。

謂於空、無願、無相加行中，於隨入作意微細現行，有間無間隨轉我慢俱行心相能障現觀作意，正通達故。既通達已；於作意俱行心任運轉中，能善棄捨，令無間滅。依無間滅心，由新所起作意，以無常等行如實思惟。由此作意修習、多修習故，所緣能緣平等平等智生。彼於爾時，能障現觀我慢亂心便永斷滅，證得心一境性。便自思惟：我已證得心一境性，如實了知。當知是名由通達作意故，入諦現觀。

> 「空・無願・無相」の修行を進める中で、心に生じる微細な働き――修行に集中していても断続的に浮かぶ、「我あり」という慢心（おごり）を伴う迷い――が、真理を見通す妨げとなります。これを正しく理解し、乗り越えたならば、その妨げを手放し、途切れなく清らかな心が自然に続く状態へと移行します。 そうして妨げが断たれた心のもとで、新たに起こる集中した意志によって、あるべき姿（無常など）をありのままに観察します。この観察を繰り返し深めることで、観るものと観られるものとの区別を超えた、平等な智慧が生まれます。 そのとき、真理の実現を妨げていた「我あり」という混乱した心は永遠に断たれ、心は一つの対象に安らかにとどまる統一状態（心一境性）を得ます。修行者は「私はこの統一状態を確かに実現した」と、ありのままに理解します。 これこそが、「修行を導く意志（作意）によって、真理をありのままに見る境地（諦現観）に入る」と知られるべき姿です。

又若先以世間道得三摩地，亦得圓滿，亦得自在。彼或於入三摩地相，謂由此故入三摩地；或於住三摩地相，謂由此故住三摩地；或於出三摩地相，謂由此故出三摩地；於此諸相作意思惟，安住其心，入諦現觀。若得三摩地，而未圓滿，亦未自在。彼或思惟止相、或思惟舉相、或思惟捨相，安住其心，入諦現觀。如是當知由所依故，其心安住。

> また、もしすでに世俗の修行によって三昧を得て、それが完全であり自在であるならば、その人は三昧に入る際の相（これにより三昧に入る）や、三昧に留まる際の相（これにより三昧に留まる）、あるいは三昧から出る際の相（これにより三昧から出る）について思いを巡らせ、心を安らかにして、真理の観察に入る。 もし三昧を得ているが、完全でなく自在でないならば、その人は止の相、あるいは挙の相、あるいは捨の相について思いを巡らせ、心を安らかにして、真理の観察に入る。 このようにして、心はその拠り所によって安らかに定まると知るべきである。

又有二法，於修現觀極為障礙。何等為二？一、不正尋思所作擾亂，心不安靜；二、於所知事其心顛倒。為欲對治如是障礙，當知有二種於所緣境安住其心。謂為對治第一障故，修阿那波那念；為對治第二障故，修諸念住。如是當知由入境界門故，其心安住。

> さらに、現観（げんかん）を修行する上で大きな妨げとなる二つの法があります。その二つとは何か。第一に、正しくない思考によって心が乱され、安静でなくなること。第二に、知るべき事柄に対して心が逆さまに捉えていることです。このような妨げを取り除くため、対象に心を安らかに留める二つの方法があると知るべきです。すなわち、第一の妨げを取り除くためには、アーナーパーナ（呼吸の観察）の修行を行い、第二の妨げを取り除くためには、身・受・心・法の四つの念処（しねんじょ）の修行を行います。このようにして、入るべき境地の門によって、心は安らかに留まると知るべきです。

又於妙五欲樂習近者，於聖法毘奈耶，非所行處。若於隨宜所得衣服、飲食、諸坐臥具，便生喜足；隨所獲得利養恭敬，制伏其心。謂依妙五欲，不由所得利養恭敬，心便堅住；由此因緣，遠離一切非所行處。既遠離已，依諸念住樂斷樂修。於晝夜分，時時觀察自他所有衰盛等事，心生厭患。又復修習佛隨念等，令心清淨。又復安住諸聖種中。如是當知由資糧故，其心安住。此依最勝資糧道說。

> また、妙なる五つの欲望に耽る者は、聖なる法と戒律において、歩むべき道を踏み外している。しかし、身にふさわしく得た衣服、食物、寝具などに満足し、得た利得や尊敬によって心を制御する者は、妙なる五つの欲望に基づいても、利得や尊敬のために心が固執することがない。そのため、一切の道を踏み外した行いから遠ざかる。そうして遠ざかった後は、様々な心の拠り所（念住）に基づき、断つことを喜び、修行することを喜ぶ。昼夜にわたり、常に自分や他者の盛衰などの事柄を観察し、心に厭い離れる思いを生じさせる。さらに、仏を念じるなどの修行を繰り返し、心を清らかにする。また、諸々の聖者の生き方（聖種）に安住する。このようにして、修行の糧（資糧）によって心が安住することを知るべきである。これは最も優れた資糧道について述べたものである。

又彼如是資糧住已，為修相應作意加行，故有二種加行方便。何等為二？一、自於契經阿毘達磨，讀誦受持，修正作意，於蘊等事令極善巧。二、依他師教，所謂大師、鄔波柁耶、阿遮利耶。於時時間，教授教誡，攝受依止。又正加行作意思惟，當知是名第三方便。此正加行作意思惟，名正加行。此中義者，謂尸羅淨所有作意，名正加行作意思惟。彼自思惟尸羅清淨，故無悔惱；無悔惱故，便生歡喜；廣說乃至心入正定。是故宣說此正加行作意思惟，名心住方便。由如是方便故，心速安住。

> また、そのように資糧を備えた修行者は、相応の作意を修するための加行を実践するので、二種類の加行の方便がある。何が二つか。第一に、自ら経典とアビダルマを読誦し受持し、正しい作意を修して、蘊などの事柄について非常に巧みになることである。第二に、他の師の教えによること、すなわち大師、和尚、阿闍梨に依ることである。時々に教授や教誡を受け、摂受され依止される。また、正しく加行として作意して思惟すること、これを第三の方便と知るべきである。この正しい加行としての作意思惟を、正加行という。ここでの意味は、戒律が清められたすべての作意を、正加行の作意思惟という。彼は自ら戒律が清らかであることを思惟するゆえに、後悔や苦悩がない。後悔や苦悩がないゆえに、喜びが生じる。広く説けば、心が正しい定に入る。それゆえ、この正加行の作意思惟を、心を安住させる方便と説くのである。このような方便によって、心は速やかに安住する。

彼於爾時，由此五因二十種相攝持其心，於愛盡寂滅涅槃界中，令善安住，無復退轉，心無驚怖。謂我我今者何所在耶？當於如是心安住時，應知已名入諦現觀。如是名入聖諦現觀。又此聖諦現觀義，廣說應知。謂心厭患相有二十種，心安住相亦二十種。除此更無若過若增。

> その時、彼はこれらの五つの因と二十の相によって心を支え、愛欲の尽きた寂静なる涅槃の境地に、よく安住させ、再び退転することなく、心に驚き怖れることもありません。「私は今、どこにいるのだろうか？」と。このように心が安住する時、すでに「諦（たい）の現観（げんかん）」に入ったと知るべきです。これが聖諦（しょうたい）の現観に入ることです。また、この聖諦の現観の意味を詳しく説けば、次のように知るべきです。すなわち、心が厭い離れる相は二十種あり、心が安住する相もまた二十種あります。これ以上も、これより多いこともありません。