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title: "瑜伽師地論 · 5項 證得極清淨道及果功德"
description: "瑜伽师地论是佛教大乘瑜伽行派的重要经典，相传由弥勒菩萨口述，无著菩萨记录，唐代高僧玄奘于贞观年间从印度取回并译成汉文。该论共100卷，系统阐述瑜伽行派的教义，内容包括十七地、三性、八识、修行次第等核心理论，被誉为大乘佛教的百科全书。作为唯识学的根本论典，瑜伽师地论奠定了唯识学派的理论基础，对汉传佛教和藏传佛教影响深远，在佛教思想史上具有崇高地位，是研究唯识学和瑜伽行派必读的经典著作。"
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云何證得極清淨道及果功德？

> いかにして、極めて清らかな道とその果ての功徳を証得するのでしょうか。

謂於三位，樂位、苦位、不苦不樂位。為諸煩惱之所隨眠。有二種補特伽羅，多分所顯。一者、異生，二者、有學。又有二種能發起雜染品。一者、取雜染品，二者、行雜染品。即為斷此二雜染品，入善說法毘奈耶時，能為障礙所有煩惱。此諸煩惱，能為隨眠，深遠入心。又能發生種種諸苦。若能於此無餘永斷，名為證得極淨道果。

> 三つの状態——楽の状態、苦の状態、苦でも楽でもない状態——において、さまざまな煩悩が潜在的に眠っている。これは主に二種類の人の姿として現れる。一つは凡夫、もう一つは有学（修行中の者）である。また、煩悩には二種類の雑染（けがれ）を引き起こすものがある。一つは「取雑染品」（執着によるけがれ）、もう一つは「行雑染品」（行為によるけがれ）である。この二つのけがれを断ち切るために、善く説かれた教えと戒律に入ろうとする時、妨げとなるものが全ての煩悩である。これらの煩悩は、心の奥深くに潜み、さまざまな苦しみを生み出す。もしこれらの煩悩を残らず永遠に断ち切ることができれば、それを「極めて清らかな道の果報を悟った」と名付ける。

又十無學支所攝五無學蘊，所謂戒蘊、定蘊、慧蘊、解脫蘊、解脫。知見蘊，名極清淨道。

> 十の無学法に含まれる五つの無学の蘊（かたまり）とは、戒の蘊、定の蘊、慧の蘊、解脱の蘊、解脱知見の蘊であり、これを極めて清らかな道と名づける。

又由證得此極淨道，離十過失，住聖所住。云何名為十種過失？所謂依外諸欲所有愁、歎、憂、苦種種惱亂，苦苦相應過失。又有依內不護諸根過失。由不護諸根故，生愁歎等。又有愛味樂住過失。又有行住放逸過失。又有外道不共，即彼各別邪見所起語言、尋思、追求三種過失。又有依靜慮邊際過失。又有緣起所攝，發起取雜染品過失。又有發起行雜染品過失。

> この清らかな道を極めることにより、十の過失から離れ、聖者の住む境地に安住する。では、十の過失とは何か。すなわち、 外的な欲望に基づく、愁い、嘆き、憂い、苦しみなどの様々な悩みや乱れ、苦しみを伴う過失。 内的に感覚の門を守らないことに起因する過失。感覚の門を守らないことにより、愁いや嘆きなどが生じる。 味わい楽しむことに執着して安住する過失。 行動や休息において放逸になる過失。 外道に共通しない、それぞれの異なった邪見から生じる、言葉、思考、追求という三つの過失。 静慮の境地の限界に執着する過失。 縁起に含まれる、執着の汚れを引き起こす過失。 行為による汚れを引き起こす過失。

若於如是十種過失永不相應；唯有最後身所任持，第二餘身畢竟不起，於最寂靜涅槃界中，究竟安住。一切有情乃至上生第一有者，於彼一切所有有情得為最勝。是故說名住聖所住。

> もし、これら十種の過失に全く相応せず、ただ最後の身（最後の生まれ変わり）のみを保ち、二度目の他の身を決して起こさないならば、最も静かな涅槃の世界に安らかにとどまることになる。そして、この世のすべての生きとし生けるもの、さらには最も高い天界に生まれた者たちに至るまで、そのすべての生きとし生けるものの中で、最も優れた者となる。それゆえに、これを「聖者の住むところに住む」と名付けるのである。

以能遠離十種過失，又能安住聖所住處，故名功德。

> 十の過ちを遠く離れ、聖者の住まう処に安らかにとどまるからこそ、「功徳」と名づけるのです。

又若彼果、若極淨道、若彼功德，如是一切，總略說名證得極清淨道及果功德。又此證得極清淨道及果功德義，廣說應知如所說相。除此更無若過若增。

> また、その果報、極めて清らかな道、その功徳、これらすべてを総じて「証得極清浄道及び果功徳」と名づける。また、この「証得極清浄道及び果功徳」の意味については、ここに説かれた特徴のとおりに広く知られるべきである。これより以上でも、増えることもない。

若得如是最上無學諸聖法者，如是聖法相應之心，於妙五欲極為厭背；無異熟故，後更不續。若世間心雖復已斷，猶得現行。彼於後時任運而滅。又煩惱道後有業道，於現法中已永斷絕；由彼絕故，當來苦道更不復轉。由此因果永滅盡故，即名苦邊。更無所餘，無上、無勝。

> もしこのような最上の無学の聖なる法を成就した者は、その聖なる法と相応する心によって、妙なる五つの欲望に対して極めて厭離し、異熟の結果がないため、その後再び続くことがない。たとえ世間の心がすでに断たれていても、なお現れることがある。それは後に自然に消滅する。また、煩悩の道とその後の業の道は、現世においてすでに永遠に断絶している。それらが断たれたことにより、未来の苦の道は再び回転しない。このように原因と結果が永遠に消え尽くしたことこそ、苦の終わりと呼ばれる。それ以上のものは何もなく、より優れたものも勝るものもない。

此中若入聖諦現觀；若離障礙；若為證得速疾通慧作意思惟諸歡喜事；若修習如所得道；若證得極清淨道及果功德；如是名為出世間一切種清淨。

> ここで、聖なる真理をありのままに観る境地に入ること、さまたげを離れること、速やかな智慧を得るために喜ばしいことを心に念じること、得られた道を修習すること、極めて清らかな道とその果報の功徳を体得すること――これらを「世を超えた、あらゆる面での清らかさ」と呼びます。

又此出世間一切種清淨義，廣說應知如所說相。除此更無若過若增。

> また、この世を超えたものに関するあらゆる種類の清らかさの意味については、すでに述べた特徴の通り詳しく知るべきです。これ以上に付け加えることも、超えるものもありません。

如是若先所說世間一切種清淨，若此所說出世間一切種清淨，總略為一，說名修果。

> このように、先に述べた世間におけるあらゆる清らかさと、ここで説く出世間におけるあらゆる清らかさとをまとめて一つにし、修行の成果と呼ぶのです。