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title: "瑜伽師地論 · 2目 別解(劣緣十二門)"
description: "瑜伽师地论是佛教大乘瑜伽行派的重要经典，相传由弥勒菩萨口述，无著菩萨记录，唐代高僧玄奘于贞观年间从印度取回并译成汉文。该论共100卷，系统阐述瑜伽行派的教义，内容包括十七地、三性、八识、修行次第等核心理论，被誉为大乘佛教的百科全书。作为唯识学的根本论典，瑜伽师地论奠定了唯识学派的理论基础，对汉传佛教和藏传佛教影响深远，在佛教思想史上具有崇高地位，是研究唯识学和瑜伽行派必读的经典著作。"
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云何自圓滿？謂善得人身，生於聖處，諸根無缺，勝處淨信，離諸業障。

> どのようにして自己が完成するのか。それは、善き条件を備えた人間として生まれ、聖なる場所に生まれ、感覚器官が完全に揃い、優れた清らかな信仰を持ち、さまざまな業の障りから離れていることである。

云何名為善得人身？謂如有一，生人同分，得丈夫身，男根成就；或得女身。如是名為善得人身。

> 人として生を受けるとは、どういうことを言うのでしょうか。例えば、ある人が人間と同じ種類に生まれ、男性の身体を得て男性の器官を備えているか、あるいは女性の身体を得ていること。このような状態を「人としてよく生を受けた」と言います。

云何名為生於聖處？謂如有一，生於中國，廣說如前，乃至善士皆往遊涉。如是名為生於聖處。

> 「聖なる境地に生まれる」とはどういうことか。例えば、ある人が仏法の広まる中央の地に生まれ、先に詳しく説いた通り、善き人々が皆訪れ集うような場所に生まれることである。これが「聖なる境地に生まれる」と呼ばれる。

云何名為諸根無缺？謂如有一，性不愚鈍，亦不頑騃，又不瘖瘂，乃至廣說支節無減。彼由如是支節無缺、耳無缺等、能於善品精勤修集。如是名為諸根無缺。

> 「諸根が欠けていない」とはどういうことでしょうか。 たとえば、ある人が生まれつき愚かでなく、頑固でもなく、無知でもなく、さらに言葉が不自由でなく、手足などの身体の各部に欠損がないことです。このように、手足や耳などが完全で欠けるところがないため、善い行いを熱心に積み重ねることができます。これを「諸根に欠けがない」と名づけます。

云何名為勝處淨信？謂如有一，於諸如來正覺所說法毘奈耶，得淨信心，如是名為勝處淨信。言勝處者，謂諸如來正覺所說法毘奈耶，能生一切世出世間白淨法故。此中所起前行增上諸清淨信，名勝處淨信，能除一切所有煩惱垢穢濁故。

> 「勝処浄信」とは何か。それは、ある人が如来・正覚者の説かれた教えと戒律（ダルマとヴィナヤ）に対して清らかな信心を得ることである。これを「勝処浄信」と呼ぶ。 「勝処」とは、如来・正覚者の説かれた教えと戒律が、この世とあの世におけるすべての清らかな善い法を生み出すことを指す。この信心の前に生じる、より高次の清らかな信念が「勝処浄信」であり、それはあらゆる煩悩という汚れや濁りを取り除く力を持つ。

云何名為離諸業障？謂能遠離五無間業。所謂於彼害母、害父、害阿羅漢、破和合僧、於如來所惡心出血。隨一所有無間業障，於現法中不作不行，如是名為離諸業障。若有於此五無間業造作增長，於現法中竟不能轉、得般涅槃、生起聖道。故約彼說離諸業障。唯由如是五種支分，自體圓滿。是故說此名自圓滿。

> 「業障を離れる」とは何か。それは五無間業を遠ざけることである。すなわち、母を殺すこと、父を殺すこと、阿羅漢を殺すこと、僧伽を分裂させること、如来に対して悪心をもって血を出すことである。これらの五無間業の障りのいずれであっても、現世においては行わず、犯さないこと。これを「業障を離れる」と名づける。 もしこの五無間業を造り、それを増長させるならば、現世においては決してそれを転じることができず、涅槃を得ることも、聖なる道を生じることもできない。それゆえ、これらの業障を離れることについて説くのである。 ただこの五つの条件によって、自己の体が円満に備わる。ゆえにこれを「自己の円満」と呼ぶのである。

云何他圓滿？謂諸佛出世，說正法教，法教久住，法住隨轉，他所哀愍。

> 他者の円満とは何か。それは、仏がこの世に現れ、正しい教えを説き、その教えが長く存続し、その教えに従った実践が行われ、他者から慈しまれることである。

云何名為諸佛出世？謂如有一，普於一切諸有情類、起善利益增上意樂，修習多千難行苦行，經三大劫阿僧企耶，積集廣大福德、智慧二種資糧；獲得最後上妙之身，安坐無上勝菩提座，斷除五蓋，於四念住善住其心，修三十七菩提分法，現證無上正等菩提。如是名為諸佛出世。過去、未來、現在諸佛，皆由如是名為出世。

> 仏が出世するとはどういうことか。それは、ある者がすべての生きとし生けるものに対して、善い利益をもたらそうという高次の思いやりを起こし、数多くの困難で苦しい修行を長い間積み重ね、三大阿僧祇劫という気の遠くなるような時間をかけて、広大な福徳と智慧という二つの功徳を積み集め、最後に最も優れた身体を得て、この上なく勝れた悟りの座に安らかに座り、五つの障りを断ち切り、四つの念処に心をしっかりと留め、三十七の悟りへの道を修め、現にこの上ない正しい悟りを証得する。これを仏の出世という。過去も未来も現在も、すべての仏は、このようにして出世するのである。

云何名為說正法教？謂即如是諸佛世尊出現於世，哀愍一切諸聲聞故，依四聖諦，宣說真實苦集滅道無量法教。所謂契經、應頌、記別、諷誦、自說、因緣、譬喻、本事、本生、方廣、希法、論議。如是名為說正法教。諸佛世尊及聖弟子，一切正士皆乘此法而得出離，然後為他宣說稱讚，是故說此名為正法。宣說此故，名正法教。

> 「では、正しい教えを説くとは、どういうことでしょうか。」 それは、このように諸仏・世尊が世に現れ、あらゆる声聞たちを哀れみ給うて、四つの聖なる真理（四聖諦）に基づいて、真実の苦しみ、苦しみの原因、苦しみの消滅、消滅に至る道について、無量の教えを説き示されることです。すなわち、それが経典（契経）、頌（応頌）、予言（記別）、詩句による教え（諷誦）、無問自説、因縁談、譬え話、過去の物語（本事）、前世の物語（本生）、広大な教え（方広）、希有な教え（希法）、論議（論議）と呼ばれるものです。 このように説かれるものを、「正しい教えを説く」と言います。諸仏・世尊と聖なる弟子たち、すべての正しい人々は、この教えに依って迷いの世界から脱出し、その後に他の人々のためにこれを説き、称賛します。ですから、これを「正しい教え」と呼びます。この教えを説き示すからこそ、「正しい教

云何名為法教久住？謂說正法已，轉法輪已，乃至世尊壽量久住，及涅槃後。經爾所時，正行未減、正法未隱，如是名為正法久住。如是久住，當知說彼勝義正法作證道理。

> 法教が長く世に留まるとはどういうことか。 それは、正しい教えを説き、法の輪を転じた後、世尊の寿命が長く続いている間、またその涅槃の後においても、正しい行いが衰退せず、正しい教えが隠れてしまうことがない状態をいう。これを「正法久住」と呼ぶ。 この「久住」とは、勝義の正法を現に証得するという道理に基づいて説かれていると知るべきである。

云何名為法住隨轉？謂即如是證正法者，了知有力能證如是正法眾生，即如所證，隨轉隨順教授教誡。如是名為法住隨轉。

> では、「法住随転」とはどのような意味でしょうか。それは、正しい教えを悟った人が、その教えを理解する力のある人々を見極め、自らが悟った通りに教えを伝え、適切な指導や助言を行うことです。これが法住随転と呼ばれるものです。

云何名為他所哀愍？他謂施主。彼於行者起哀愍心，惠施隨順淨命資具，所謂如法衣服、飲食、諸坐臥具、病緣醫藥。如是名為他所哀愍。

> 「他から哀れまれる」とはどういうことか。「他」とは施主のことである。施主は修行者に対して哀れみの心を起こし、清らかな生活に必要なものを惜しみなく施す。すなわち、正しい方法で得られた衣服・食べ物・寝具・病の際の薬などである。これが「他から哀れまれる」という意味である。

云何善法欲？謂如有一，或從佛所、或弟子所，聞正法已，獲得淨信。得淨信已，應如是學：在家煩擾，若居塵宇，出家閑曠，猶處虛空，是故我今應捨一切妻子眷屬、財穀珍寶，於善說法毘奈耶中，正捨家法，趣於非家。既出家已，勤修正行，令得圓滿。於善法中生如是欲，名善法欲。

> 善い法への欲求とは何か。例えば、ある人が仏陀の教えやその弟子から正しい法を聞いて、清らかな信仰を得るとする。清らかな信仰を得たならば、次のように学ぶべきである。「在家の生活は煩わしく、俗世の家にいれば塵にまみれる。出家の生活は閑静で広々としており、虚空にいるようである。ゆえに私は今すぐにでも、妻子や親族、財産や穀物、珍宝といったすべてを捨てて、よく説かれた法と戒律の中で、正しく家の生活を捨て、家なき者となろう。」そうして出家したのちは、精進して正しい行いを修め、それを円満に成就させる。このように善い法に対してこのような欲求を生じさせることを、善法への欲求と呼ぶのである。

云何正出家？謂即由此勝善法欲增上力故，白四羯磨，受具足戒；或受勞策所學尸羅。是名正出家。

云何戒律儀？謂彼如是正出家已，安住具戒，堅牢防護別解律儀，軌則、所行皆得圓滿，於微小罪見大怖畏，受學一切所有學處。是名戒律儀。

> 戒律儀とは何か？ ある人がこのように正しく出家した後、戒律をしっかりと身につけ、堅固に別解脱律儀を守り、規則や行いをすべて完全に備え、わずかな罪にも大きな恐れを抱き、すべての学処を受けて学ぶこと、これを戒律儀という。

云何根律儀？謂即依此尸羅律儀，守護正念，修常委念，以念防心，行平等位。眼見色已，而不取相，不取隨好。恐依是處，由不修習眼根律儀防護而住，其心漏泄所有貪憂惡不善法。故即於彼修律儀行，防護眼根，依於眼根修律儀行。如是行者，耳聞聲已、鼻嗅香已、舌甞味已、身覺觸已、意了法已，而不取相，不取隨好。恐依是處，由不修習意根律儀防護而住。其心漏泄所有貪憂惡不善法。故即於彼修律儀行，防護意根，依於意根修律儀行。是名根律儀。

> 根の律儀とは何か。それは、先に述べた戒律の律儀に基づいて、正しい気づき（正念）を守り、常に反省しながら気づきを修め、この気づきによって心を守り、平等な状態で行動することです。 目で色を見たとき、その形（相）に執着せず、細かな特徴（随好）にも執着しません。「もしそこで、眼根の律儀を修めずに防護しないならば、心から貪りや憂い、悪しき善ならざる法が漏れ出てしまう」と恐れるからです。だからこそ、その場で律儀の行を修め、眼根を防護し、眼根に基づいて律儀の行を修めるのです。 同様に実践する者は、耳で音を聞き、鼻で香りをかぎ、舌で味わい、身で触れ、意で法を認識したときも、その形（相）に執着せず、細かな特徴（随好）にも執着しません。「もしそこで、意根の律儀を修めずに防護しないならば、心から貪りや憂い、悪しき善ならざる法が漏れ出てしまう」と恐れるからです。だからこそ、その場で律儀の行を修め、意根を防護し、意根に基づいて律儀の行を修めるのです。これが根の律儀と呼ばれます。

云何於食知量？謂彼如是守諸根已，以正思擇食於所食。不為倡蕩、不為憍逸、不為飾好、不為端嚴食於所食。然食所食，為身安住、為暫支持、為除飢渴、為攝梵行、為斷故受、為令新受當不更生、為當存養力樂無罪安隱而住。如是名為於食知量。

> どのように食事について知量（適量を知ること）を実践するのか。修行者は、このようにして諸々の感覚器官を守り終えたなら、正しい思慮と選択によって食事を取る。遊興のためではなく、おごり高ぶるためでもなく、外見を飾るためでもなく、見た目を美しくするためでもなく、食事を取る。そうではなく、食事を取るのは、身体を安定して維持し、一時的に身体を支え、飢えと渇きを除き、清らかな行い（梵行）を保ち、古い感覚（苦受）を断ち切り、新しい感覚（苦受）が再び生じないようにし、生命力と安楽を保ち、罪過なく安穏に暮らすためである。これを「食事について知量すること」と呼ぶ。

云何初夜後夜常勤修習覺寤瑜伽？謂彼如是食知量已，於晝日分，經行、宴坐二種威儀，從順障法淨修其心；於初夜分，經行、宴坐二種威儀，從順障法淨修其心。過此分已，出住處外，洗濯其足，右脇而臥，重累其足，住光明想、正念、正知、思惟起想。於夜後分，速疾覺寤，經行、宴坐二種威儀，從順障法淨修其心。如是名為初夜後夜常勤修習覺寤瑜伽。

> では、初夜と後夜に常に精進して「覚寤瑜伽（かくごゆが）」を修習するとは、どのようなことでしょうか。それは、次のような修行者のことです。彼は、このように飲食を節度あるものとしました。そして、昼の間は、歩行と坐禅という二つの威儀によって、心を妨げる障りとなる法（煩悩など）から離れるために、心を清らかに修めます。また、初夜の間も、同様に歩行と坐禅の二つの威儀によって、心を清らかに修めます。その時間を過ごしたならば、住処の外に出て、足を洗い、右脇を下にして横になり、足を重ねます。その際、光明の想いを保ち、正しい念（気づき）と正しい知（はっきりとした認識）を持ち、起き上がることへの想い（「眠りから覚めたらすぐに起き上がろう」という決意）を念頭に置きます。そして、夜の後半（後夜）になると、速やかに目を覚まし、再び歩行と坐禅の二つの威儀によって、心を妨げる障りから離れるために、心を清らかに修めます。このように修行することを、初夜と後夜に常に精進して覚

云何正知而住？謂彼如是常勤修習覺寤瑜伽已，若往、若來正知而住，若覩、若瞻正知而住，若屈、若伸正知而住，持僧伽胝及以衣鉢正知而住，若食、若飲、若噉、若嘗正知而住，若行、若住、若坐、若臥正知而住，於覺寤時正知而住，若語、若默正知而住，如解勞睡時正知而住。如是名為正知而住。

> 正しく気づいて（正知）生活するとは、どのようなことでしょうか。 それは、このように常に精進して目覚めの修行（覚寤瑜伽）を修めた者が、 歩くときも、来るときも、正しく気づいて生活し、 見るときも、眺めるときも、正しく気づいて生活し、 曲げるときも、伸ばすときも、正しく気づいて生活し、 衣や鉢を持つときも、正しく気づいて生活し、 食べるときも、飲むときも、噛むときも、味わうときも、正しく気づいて生活し、 歩くときも、立つときも、座るときも、横になるときも、正しく気づいて生活し、 目覚めているときも、正しく気づいて生活し、 話すときも、黙るときも、正しく気づいて生活し、 眠気を解消するときも、正しく気づいて生活する。 これが「正知而住」（正しい気づきをもって生活すること）と呼ばれるのです。

云何樂遠離？謂由如是所修善法，無倒修治初業地已，遠離一切臥具貪著，住阿練若、樹下、空室、山谷峯穴、草藉、逈露、塚間、林藪、虛曠平野、邊際臥具。是名樂遠離。

> 楽に遠離するとはどういうことか。それは、このように修めた善法によって、誤りなく初めの修行の境地を整え終えた後、あらゆる寝具への執着を離れ、阿練若（あらにゃじゃ）、樹の下、空き部屋、谷間の洞窟、草の上、露の下、墓地、林の中、広々とした平野、辺境の地での寝具に安住することである。これを楽遠離（らくおんり）という。

云何清淨諸蓋？謂彼如是住阿練若，或復樹下，或空室等，於五種蓋淨修其心。所謂貪欲、瞋恚、惛沈睡眠、掉舉惡作、及以疑蓋。從彼諸蓋淨修心已，心離諸蓋，安住賢善勝三摩地。如是名為清淨諸蓋。

> さて、心の覆いを清らかにするとはどういうことか。 修行者が、このようにして静かな林の中に、あるいは木の下や、誰もいない部屋などに住み、五つの心の覆いを清らかに整えることである。 その五つとは、すなわち、むさぼりの心、怒りの心、眠気と怠け心、落ち着きのなさと後悔の念、そして疑いの心である。 これらの覆いから心を清らかにしたならば、心はそれらの覆いから離れ、賢くすぐれた心の統一（三昧）に安らかにとどまる。 これを、心の覆いを清らかにする、というのである。

云何依三摩地？謂彼如是斷五蓋已，便能遠離心隨煩惱。遠離諸欲惡不善法，有尋有伺，離生喜樂；入初靜慮具足安住。尋伺寂靜，於內等淨，心一趣性，無尋無伺，定生喜樂；第二靜慮具足安住。遠離喜貪，安住捨、念及以正知，身領受樂；聖所宣說，捨、念具足安樂而住；第三靜慮具足安住。究竟斷樂，先斷於苦，喜憂俱沒，不苦不樂，捨念清淨；第四靜慮具足安住。如是名為依三摩地。