---
title: "瑜伽師地論 · 1目 辨三"
description: "瑜伽师地论是佛教大乘瑜伽行派的重要经典，相传由弥勒菩萨口述，无著菩萨记录，唐代高僧玄奘于贞观年间从印度取回并译成汉文。该论共100卷，系统阐述瑜伽行派的教义，内容包括十七地、三性、八识、修行次第等核心理论，被誉为大乘佛教的百科全书。作为唯识学的根本论典，瑜伽师地论奠定了唯识学派的理论基础，对汉传佛教和藏传佛教影响深远，在佛教思想史上具有崇高地位，是研究唯识学和瑜伽行派必读的经典著作。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cma8zh9k202e8ib04upvbhb45"
---

云何名為安住具戒？謂於所受學所有學處。不虧身業，不虧語業，無缺，無穿。如是名為安住具戒。

> 「安住具戒（戒律をしっかりと保つ）」とはどういうことか。 それは、自ら受けた学びの場（戒律の対象）において、身体の行いを損なわず、言葉の行いを損なわず、欠けることなく、穴のあくことなく守ることである。 これが「安住具戒」と呼ばれる。

云何名為善能守護別解脫律儀？謂能守護七眾所受別解脫律儀。即此律儀，眾差別故，成多律儀。今此義中，唯依苾芻律儀處說善能守護別解脫律儀。

> 「どうすれば、別解脱律儀（規則を守ることで解放を得るための戒め）をよく守ることができると言えるのか？」という問いに答えるならば、それは、七つの僧侶グループがそれぞれ受ける別解脱律儀を守り続けることを指します。この律儀には様々な種類があるため、複数の律儀が存在します。現在の議論では、特に比丘（出家僧）の律儀に焦点を当てて、別解脱律儀をよく守る方法を説明しています。

云何名為軌則圓滿？謂如有一，或於威儀路，或於所作事，或於善品加行處所，成就軌則。隨順世間，不越世間；隨順毘奈耶，不越毘奈耶。

> 「軌則が円満である」とはどういうことか。例えばある人が、立ち居振る舞いや日常の行い、善い行いの実践において、しっかりと規範を身につけていることである。世間の習わしに従い、それを越えない。また戒律に従い、それを越えない。

云何名為於威儀路成就軌則，隨順世間，不越世間；隨順毘奈耶，不越毘奈耶？謂如有一，於所應行、於如所行，即於此中如是而行。由是行故，不為世間之所譏毀，不為賢良、正至、善士、諸同法者、諸持律者、諸學律者之所呵責。如於所行，於其所住、所坐、所臥，當知亦爾。如是名為於威儀路成就軌則，隨順世間，不越世間；隨順毘奈耶，不越毘奈耶。

> 「威儀（いぎ）の道において、どのようにして規則（きそく）を成就（じょうじゅ）し、世間に従い、世間を越えず、戒律（かいりつ）に従い、戒律を越えないと言うのでしょうか。」 それは、ある人が、行うべきこと、行うべきように行うこと、まさにその通りに行うことです。 その行いによって、世間から非難されることもなく、賢者や善き人々、同じ教えを実践する人々、律を守る人々、律を学ぶ人々から咎められることもありません。 行いにおけるのと同様に、立ち居振る舞い、座っている時、横になっている時も、同じであると知るべきです。 これが「威儀の道において規則を成就し、世間に従い、世間を越えず、戒律に従い、戒律を越えない」と呼ばれるものです。

云何名為於所作事成就軌則，隨順世間，不越世間；隨順毘奈耶，不越毘奈耶？謂如有一，於其所作，若衣服事、若便利事、若用水事、若楊枝事、若入聚落行乞食事、若受用事、若盪鉢事、若安置事、若洗足事、若為敷設臥具等事。即此略說衣事、鉢事，復有所餘如是等類諸所應作，名所作事。如其所應，於所應作、於如所作，即於此中如是而作。由是作故，不為世間之所譏毀，不為賢良、正至、善士、諸同法者、諸持律者、諸學律者之所呵責。如是名為於所作事成就軌則，隨順世間，不越世間；隨順毘奈耶，不越毘奈耶。

> いったい何をもって、「行うべき事柄において規律を成就し、世間に従い、世間を越えず、戒律（ヴィナヤ）に従い、戒律を越えない」と言うのでしょうか。 例えば、ある修行者が、行うべき事柄について、衣服に関する事、用便に関する事、水を使う事、楊枝（歯木）を使う事、村に入って托鉢する事、食事を受ける事、鉢を洗う事、鉢を置く事、足を洗う事、また寝具などを敷き整える事などが挙げられます。これらを簡単にまとめれば、衣服と鉢に関する事柄であり、さらにその他、このような類いの行うべきことが全て「所作事」と呼ばれます。 その際に、それぞれふさわしい方法で、行うべき事を、行う通りに、ただそのように行うのです。そのように行うことによって、世間の人々から非難されることがなく、また、賢く善い人々、正しい境地に至った人々、善き人々、同じく法を修行する人々、戒律を保持する人々、戒律を学ぶ人々から叱責されることもありません。 このように行うことこそが、「行うべき事柄において規律を成就し、世間に従い、世間を越えず、戒律に従い、戒律を越えない」と言われる所以なのです。

云何名為於諸善品加行處所成就軌則，隨順世間，不越世間；隨順毘奈耶，不越毘奈耶？謂於種種善品加行，若於正法受持讀誦；若於尊長修和敬業，參覲承事；若於病者起慈悲心，殷重供侍；若於如法宣白加行，住慈悲心，展轉與欲；若於正法請問聽受，翹勤無墮；於諸有智同梵行者，盡其身力而修敬事；於他善品常勤讚勵；常樂為他宣說正法；入於靜室，結跏趺坐，繫念思惟。如是等類，諸餘無量所修善法，皆說名為善品加行。彼於如是隨所宣說善品加行，如其所應，於所應作、於如所作，即於此中如是而作。由是作故，不為世間之所譏毀，不為賢良、正至、善士、諸同法者、諸持律者、諸學律者之所呵責。如是名為於諸善品加行處所成就軌則，隨順世間，不越世間；隨順毘奈耶，不越毘奈耶。若於如是所說行相軌則差別悉皆具足，應知說名軌則圓滿。

> では、「善い行いを実践する場において、世間に従い、世間を超えず、戒律に従い、戒律を超えない正しい作法」とは何でしょうか。 それは、様々な善い行いの実践において、例えば、正しい教えを受持し読誦すること、師や長老に対して敬意を持って接し、お目にかかりお世話をすること、病人に対して慈しみの心を起こし、心を込めて看病すること、法にかなった申し出や実践において慈しみの心をもって互いに同意すること、正しい教えについて質問し聞き受けることに怠らず励むこと、智慧ある同じ修行仲間に対して力を尽くして敬い仕えること、他人の善い行いを常に称賛し励ますこと、常に喜んで他人に正しい教えを説くこと、静かな部屋に入り結跏趺坐して心を集中して思惟すること、これらの他にも数え切れないほどの修める善い行いを、すべて「善い行いの実践」と呼びます。 その人は、こうして説かれた善い行いの実践において、それぞれに応じて、なすべきことを、正しく行うのです。そのように行うからこそ、世間からの非難を受けず、賢明で正しい聖者や善き人々、同じく法を修行する人々、戒律を守る人々、戒律を学ぶ人々から咎められることもありません。これを「善い行いを実践する場において、世間に従い、世間を超えず、戒律に従い、戒律を超えない正しい作法が成就した状態」と言います。 もし、ここで説かれた行いの様相や作法の違いをすべて備えているならば、それは「作法が円満に成就した」と言うべきです。

云何名為所行圓滿？謂諸苾芻，略有五種非所行處。何等為五？一、唱令家，二、婬女家，三、酤酒家，四、國王家，五、旃荼羅、羯恥那家。若於如是如來所制非所行處，能善遠離；於餘無罪所有行處，知時而行。如是名為所行圓滿。

> では、どのようなことを「行動の完成」と呼ぶのか。 それは、修行者たちが避けるべき場所が五つあることによる。 その五つとは、すなわち、 第一に、芸人や遊び人などの集まる家、 第二に、遊女のいる家、 第三に、酒を売る家、 第四に、王族のいる王宮、 第五に、屠殺者や犯罪者などの家である。 これらの、如来が定めた避けるべき場所をしっかりと避け、その他の問題のない場所には、時機を見て出かけること。これを「行動の完成」というのである。

云何名為於微小罪見大怖畏？謂於諸小、隨小學處，若有所犯，可令還淨，名微小罪。於諸學處現行毀犯，說名為罪；既毀犯已，少用功力而得還淨，說名微小。由是因緣，名微小罪。云何於中見大怖畏？謂作是觀：勿我於此毀犯因緣，無復堪能得所未得、觸所未觸、證所未證。勿我由此近諸惡趣，往諸惡趣。或當自責，或為大師、諸天、有智同梵行者以法呵責。勿我由此遍諸方維惡名、惡稱、惡聲、惡頌遐邇流布。彼於如是現法、當來毀犯因生諸非愛果，見大怖畏。由是因緣，於小、隨小所有學處，命難因緣亦不故犯。或時、或處失念而犯，尋便速疾如法發露，令得還淨。如是名為於微小罪見大怖畏。

> 「微細な罪に大いなる恐れを抱く」とは、どのようなことを言うのでしょうか。 それは、小さい戒律やそれに付随する学びの場において、もし過ちを犯しても、修行に戻ることができるものを「微細な罪」と呼びます。 これらの学びの場に背く行為を「罪」と言い、それを犯した後、少しの努力で元に戻せるものを「微細」と言います。こうした理由から、微細な罪と呼ばれます。 では、その中で「大いなる恐れを抱く」とは、どういうことでしょうか。 それは、次のように観じることを言います。 「この過ちの原因によって、私は未だ得ていないもの、触れていないもの、証していないものを得る力が、再び失われてはならない。この過ちによって、悪い世界（悪趣）に近づき、そこへ向かってはならない。あるいは、自分自身を責めることになり、師匠や天の神々、賢明な修行仲間からも教えに基づいて非難されることになる。この過ちによって、あらゆる方向に悪い評判、悪い名称、悪いうわさ、悪い讃歌が遠くまで広まってはならない。 このように、現世や来世において、過ちの原因から生じる愛しくない結果を、大きな恐れとして見るのです。 こうした理由から、たとえ命を落とすような状況であっても、小さな戒律やそれに付随する学びの場を故意に犯すことはありません。時や場所によって、うっかり忘れて犯してしまった場合は、すぐに速やかに、教えの方法に従って告白し、清らかな状態に戻すのです。これが「微細な罪に大いなる恐れを抱く」と呼ばれます。

云何名為受學學處？謂於先受別解脫戒，白四羯磨受具戒時，從戒師所，得聞少分學處體性；復從親教、軌範師處，得聞所餘別解脫經；總略宣說過於二百五十學處，皆自誓言：一切當學。復從所餘恒言議者、同言議者、常交往者、有親愛者聞所學處，復於半月常所宣說別解脫經聞所學處，一切自誓：皆當修學。以於一切所應學處皆受學故，說名獲得別解律儀。從此以後，於諸學處，若已善巧，便能無犯。設有所犯，尋如法悔。若諸學處未得善巧、未能曉悟，由先自誓願受持故，得於今時求受善巧，欲求曉悟。於如前說諸所學處，從親教師或軌範師，如先請問。既得善巧及曉悟已，隨所教誨無增無減，復能受學。又於尊重及等尊重所說學處，若文、若義能無倒受。如是名為受學學處。如是廣辨戒律儀已。

> 「学処を受けて学ぶ」とは何か。 まず、初めに別解脱戒を受け、白四羯磨によって具足戒を得るとき、戒師から学処の本質の一部を聞く。 さらに、親教師や軌範師から、残りの別解脱経を聞く。 そこには二百五十を超える学処が簡潔に説かれており、すべて「私は必ず学ぶ」と自ら誓う。 さらに、日常的に語り合う者、同じ教えを語る者、常に交わる者、親しい者からも学処を聞く。 また、半月ごとに説かれる別解脱経において学処を聞き、「すべて修学しよう」と自ら誓う。 かくして、すべての学ぶべき処を受けて学ぶからこそ、「別解脱の律儀を得た」と名づけられる。 それ以降、学処にすでに巧みであれば、違犯することがない。 もし違犯があっても、すぐに法に従って悔いる。 もし学処にまだ巧みでなく、理解ができていなくても、以前に自ら誓って受持した故に、今この時に巧みであることを求め、理解を求めようとする。 前述の諸々の学処について、親教師や軌範師に、先に問いかける。 巧みとなり、理解を得たならば、その教えのままに、増減なく、再び受学する。 また、尊敬すべき方やそれに準ずる方が説く学処を、文も義も誤りなく受ける。 これを「学処を受けて学ぶ」という。 以上、戒律儀について広く説き終えた。

云何應知此中略義？謂於是中，世尊顯示戒蘊略義，有三種相。一者、無失壞相，二者、自性相，三者、自性功德相。

> この中で、どのようにして略要の意味を知るべきでしょうか。ここにおいて、世尊は戒蘊（戒の集まり）の略要を三つの特徴をもって示されています。第一に、失われたり損なわれたりしない特徴、第二に、自らの本質の特徴、第三に、その本質の功徳の特徴であります。

此復云何？謂若說言：安住具戒。由此顯示尸羅律儀無失壞相。

> ここでいう「具戒（戒律を完全に備えている）」とは何かというと、それは「戒律をしっかりと守り、欠けるところがない状態」を示しているのです。

若復說言：能善守護別解律儀。由此顯示尸羅律儀自性相。

> さらにまた、次のように説かれています。「別解脱律儀をよく守り護ることができる」と。 これは、戒律つまり「戒（尸羅）の律儀」の自らの本質（自性相）を明らかに示しているのです。

若復說言：軌則、所行皆悉圓滿。由此顯示別解律儀，如其所受，觀他增上自性功德相。

> もしこう説かれているならば、「軌則と所行は、いずれも完全に円満である」と。これによって別解脱律儀が示され、その受けたところに従って、他者の増上（より高次の）自性の功徳の相を観察するのである。

所以者何？由他觀見如是軌則、所行圓滿，未信者信，信者增長。由是發生清淨信處，心無厭惡，言不譏毀。若異於此具足尸羅軌則、所行皆圓滿者，觀他增上所有功德勝利，應無。與此相違過失，應有。若復說言：於微小罪見大怖畏、受學學處。由此顯示別解律儀，如其所受，觀自增上自性功德相。

> それはなぜかというと、他の人から見て、このような規則や行いが完全に整っていれば、まだ信じていない人が信じるようになり、すでに信じている人の信仰はさらに深まるからです。このことにより、清らかな信のよりどころが生まれ、心に嫌悪感がなく、言葉で非難することもありません。もし、これとは異なり、戒律や規則、行いが完全に整っていなければ、他人の向上から得られる功徳や利益は存在しないはずです。また、これに反する過失が生じるはずです。さらに、「小さな罪に対しても大きな恐怖を抱き、学ぶべきところを学び受ける」と言うならば、これによって別解脱の戒律が示されます。受けた通りに、自己の向上という観点から、自らの本性の功徳の特徴を観察するのです。

所以者何？雖由如是軌則、所行皆悉圓滿，獲得如前觀他增上功德勝利。然由毀犯淨戒因緣，當生惡趣；或無堪能得所未得，如前廣說。若能於彼微小罪中見大怖畏，於先所受上品學處能正修學。由是因緣，身壞已後當生善趣；亦有堪能得所未得，如前廣說。由是因緣，說此名為別解律儀，如其所受，觀自增上功德勝利。

> その理由は何か。たとえ先に述べたような規則に従い、行いがすべて完全であっても、前述した他者の立場から見た勝れた功徳や利益を得たとしても、もし戒律を破る因縁によって悪趣に生まれ落ちれば、あるいは未だ得ていないものを得る力がなければ、前述の通りである。もし微細な罪の中にも大きな恐れを見出し、先に受けた上品の学処を正しく修学するならば、その因縁によって、この身が壊れた後には善趣に生まれることができる。また、未だ得ていないものを得る力もあり、前述の通りである。この因縁によって、これを別解脱律儀と名づける。すなわち、受けたところに従い、自己の立場から見た勝れた功徳と利益を観察するのである。

復有異門。謂佛世尊此中略顯三種戒性。一、受持戒性，二、出離戒性，三、修習戒性。

> また別の分類として、仏世尊はここで三つの戒めの性質を簡潔に示しておられます。第一に「受持戒性」（戒めを受け持つ性質）、第二に「出離戒性」（迷いの世界を離れる戒めの性質）、第三に「修習戒性」（戒めを修行し習う性質）です。

謂若說言：安住具戒。由此顯示受持戒性。

> もし「戒を具足して安住す」と言うならば、これによって戒を受け持つ性質が示される。

若復說言：能善守護別解律儀。由此顯示出離戒性。所以者何？別解律儀所攝淨戒，當知說名增上戒學。即依如是增上戒學，修增上心、增上慧學；由此能得一切苦盡，究竟出離。如是出離，用增上戒以為前行所依止處，是故說此別解律儀名出離戒性。

> さらに、こう説かれています。「よくよく別解脱律儀を守り保つことができる」と。 これによって、〔在家・出家の〕出離の性質を備えた戒が示されています。 なぜか？ 別解脱律儀に含まれる清らかな戒は、「増上戒学」と呼ばれると知るべきです。 この増上戒学に基づいて、増上心学・増上慧学を修めることで、あらゆる苦しみを尽くし、究極の出離に達することができるのです。 この出離は、増上戒を先行させ、よりどころとしています。それゆえ、この別解脱律儀は「出離の戒の性質を持つ」と説かれているのです。

若復說言：軌則、所行皆悉圓滿，於微小罪見大怖畏，受學學處。由此顯示修習戒性。所以者何？若由如是所說諸相別解律儀，修習淨戒，名善修習、極善修習。

> さらに、「威儀と行持はすべて完全であり、小さな過ちにも大きな怖れを抱き、戒めを学び受持する」と言うならば、これによって戒の修行が示されるのである。なぜかというと、このように説かれた諸々の相によって別解脱律儀を保ち、清らかな戒を修行するならば、それは善く修行し、極めて善く修行したと言われるからである。

如是一種尸羅律儀現前宣說，當知六種。

> このような戒律と律儀の現前についての説法には、六つの種類があると知るべきである。