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title: "瑜伽師地論 · 5目 清淨因"
description: "瑜伽师地论是佛教大乘瑜伽行派的重要经典，相传由弥勒菩萨口述，无著菩萨记录，唐代高僧玄奘于贞观年间从印度取回并译成汉文。该论共100卷，系统阐述瑜伽行派的教义，内容包括十七地、三性、八识、修行次第等核心理论，被誉为大乘佛教的百科全书。作为唯识学的根本论典，瑜伽师地论奠定了唯识学派的理论基础，对汉传佛教和藏传佛教影响深远，在佛教思想史上具有崇高地位，是研究唯识学和瑜伽行派必读的经典著作。"
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又戒律儀有三種觀清淨因相。何等為三？一、觀身業，二、觀語業，三、觀意業。

> また、戒律の儀軌には、清らかな因となる三つの観察があります。どのような三つかと言えば、第一に身体の行いを観察すること、第二に言葉の行いを観察すること、第三に心の行いを観察することです。

云何觀察如是諸業，令戒律儀皆得清淨？謂希當造及欲正造身作業時，如是觀察：我此身業為能自損，及以損他，是不善性，能生眾苦，招苦異熟？為不自損，亦不損他，是其善性，能生諸樂，招樂異熟？如是觀已。若自了知我此身業，自損損他，是不善性，能生眾苦，招苦異熟；即於此業攝斂不作，亦不與便。若自了知我此身業，不損自他，是其善性，餘如前說；即於此業而不攝斂、造作、與便。復於過去已造身業亦數觀察：我此身業為能自損，餘如前說。如是觀已。若自了知我此身業，自損損他，餘如前說；便於有智同梵行所，如實發露，如法悔除。若自了知我此身業，不損自他，餘如前說；便生歡喜，晝夜安住，多隨修學。如是彼於去來今世所造身業，能善觀察、能善清淨。

> では、これらの様々な行為をどのように観察すれば、戒律の実践が清らかになるのでしょうか。 それは、まさにこれから行為を起こそうとする時、またはまさに行っている最中に、次のように観察することです。 「この私の身体的行為は、自分自身を傷つけ、また他者を傷つけるものであろうか。それは善くない性質であり、苦しみを生み、苦しい結果をもたらすであろうか。あるいは、自分も他者も傷つけず、善い性質であり、喜びを生み、楽しい結果をもたらすであろうか。」 このように観察して、もし自分の身体的行為が自分と他者を傷つけ、善くない性質であり、苦しみを生み、苦しい結果をもたらすと自ら知ったならば、その行為をすぐにやめて行わず、その機会を与えてはなりません。 もし自分の身体的行為が自分や他者を傷つけず、善い性質であり（喜びを生み、楽しい結果をもたらす）と自ら知ったならば、その行為をやめずに行い、その機会を積極的に与えるのです。 また、過去に行った身体的行為についても、繰り返しこのように観察します。「この私の身体的行為は、自分自身を傷つけるものであったか」と。先ほどと同じように観察するのです。 このように観察して、もし自分の身体的行為が自分と他者を傷つけるものであったと自ら知ったならば、（先ほどと同様に）智慧ある修行仲間の前で、ありのままに告白し、教えに従って懺悔し、清めます。 もし自分の身体的行為が自分や他者を傷つけるものではなかったと自ら知ったならば、そのことに喜びを感じ、昼夜を問わず安らかに過ごし、その善行を繰り返し学び修めます。 このようにして、その修行者は、過去・未来・現在において為した身体的行為を、よく観察し、よく清めることができるのです。

如於身業，於其語業，當知亦爾。

> 身の行いについてそうであるなら、言葉の行いについても、同じように理解するべきです。

由過去行為緣生意，由未來行為緣生意，由現在行為緣生意，即於此意數數觀察：我此意業為能自損，餘如前說。如是觀已。若自了知我此意業是其黑品，即於此業攝斂不起，不與其便。若自了知我此意業是其白品，即於此業而不斂攝、發起、與便。如是於彼去來今世所起意業，能善觀察、能善清淨。所以者何？去來今世所有沙門、若婆羅門，於身語意三種業中，或已觀察、或當觀察、或正觀察，或已清淨、或當清淨、或正清淨，或已多住、或當多住、或正多住，一切皆由如是觀察、如是清淨。

> 過去の行為から心が生じ、未来の行為から心が生じ、現在の行為から心が生じる。そこで、この心を繰り返し観察する。「私のこの心の働きは、自分自身を損なうだろうか」と、先に述べたように考察する。 このように観察して、「私のこの心の働きは、悪い性質である」と自ら悟ったならば、その心の働きを収めて起こさず、その機会を与えない。 「私のこの心の働きは、良い性質である」と自ら悟ったならば、その心の働きを収めず、起こし、その機会を与える。 このようにして、過去・未来・現在に生じる心の働きを、よく観察し、よく清らかにするのである。 なぜなら、過去・未来・現在のすべての修行者やバラモンたちは、身体・言葉・心という三つの働きについて、すでに観察した者、これから観察する者、まさに観察している者、あるいはすでに清らかにした者、これから清らかにする者、まさに清らかにしている者、すでに多く留まった者、これから多く留まる者、まさに多く留まっている者も、すべてこのように観察し、このように清らかにするからである。

如佛世尊、曾為長老羅怙羅說：

> 仏陀がかつて長老二ラーフラにこう説かれました。

汝今羅怙羅！ 於身語意業，應數正觀察； 念諸佛聖教。羅怙羅！汝應 學是沙門業。若能於此學， 唯勝善，無惡。

> ラーフラよ、そなたは今こそ、 身・口・意の行いを くり返し正しく観察しなさい。 諸仏の聖なる教えを心に留めなさい。 ラーフラよ、そなたは この沙門の道を学ぶべきである。 もしこの教えを学ぶならば、 ただ善きことが勝り、悪しきことは決してない。

若於如是身語意業審正思擇，我此諸業為能自損，廣說如前，是名觀察。若於一分攝斂不作，亦不與便，廣說乃至發露悔除。復於一分而不斂攝，造作與便，廣說乃至便生歡喜，晝夜安住，多隨修學。是名清淨。

> もし、自分の身体・言葉・心の行いについて、 「この行いは、自分を傷つけることになるのではないか」 と慎重に考え、よく観察し、それを自らのうちに見つけたならば、それを一切行わず、機会を与えず、隠さずに悔い改めて除き去る。 また、その反対に、自分を傷つけず、他者も傷つけず、自他ともに善い結果をもたらす行いについては、積極的に行い、機会を与え、その行いに喜びを見いだし、昼夜にわたってその善い行いを繰り返し学び身につける。 これこそが「清浄」と呼ばれるものである。