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title: "瑜伽師地論 · 1目 五句別釋"
description: "瑜伽师地论是佛教大乘瑜伽行派的重要经典，相传由弥勒菩萨口述，无著菩萨记录，唐代高僧玄奘于贞观年间从印度取回并译成汉文。该论共100卷，系统阐述瑜伽行派的教义，内容包括十七地、三性、八识、修行次第等核心理论，被誉为大乘佛教的百科全书。作为唯识学的根本论典，瑜伽师地论奠定了唯识学派的理论基础，对汉传佛教和藏传佛教影响深远，在佛教思想史上具有崇高地位，是研究唯识学和瑜伽行派必读的经典著作。"
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云何根律儀？謂如有一，能善安住密護根門，防守正念，常委正念，乃至廣說。

> 根の律儀とは何か。それは例えば、ある人がよく心を落ち着けて、感覚の門（六根）をしっかりと護り、正しい気づき（正念）を保ち、常にその気づきを続けることである。これについて詳しくは後に説かれる。

云何名為密護根門？謂防守正念，常委正念，廣說乃至防護意根，及正修行意根律儀。如是名為密護根門。

> どのようにして「根門をしっかりと守る」というのでしょうか。それは、常に正しい心構えを保ち、絶えず気を配り、詳しく言えば、自分の五感（視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚）や心の動き（意根）をしっかりと見守ることです。そして、心の反応を正しく整える修行をすること、これが「根門をしっかりと守る」という意味です。

云何名為防守正念？謂如有一，密護根門增上力故，攝受多聞、思惟、修習。由聞思修增上力故，獲得正念。為欲令此所得正念無忘失故，能趣證故，不失壞故。於時時中，即於多聞、若思、若修，正作瑜伽，正勤修習，不息加行、不離加行。如是由此多聞思修所集成念，於時時中，善能防守正聞思修瑜伽作用。如是名為防守正念。

> 「正念を守る」とはどういうことか。例えば、ある人が感覚の入り口をしっかりと守る力を高めることで、多くの教えを聞き、それを考え、実践するようになる。この聞くこと、考えること、実践することの力によって、正しい気づき（正念）を得る。この得た正念を忘れず、それを悟りへと導き、失わないようにするために、折に触れて、聞いた教えや考えたこと、実践したことを正しく修行し、正しく努力し、絶えず実践を続け、実践から離れることがない。このようにして、聞く・考える・実践することによって培われた正念が、折に触れて正しい教えを聞き、考え、実践するという修行の働きをよく守るのである。これを「正念を守る」と言うのである。

云何名為常委正念？謂於此念恒常所作、委細所作。當知此中，恒常所作，名無間作；委細所作，名殷重作。即於如是無間所作、殷重所作，總說名為常委正念。如其所有防守正念，如是於念能不忘失；如其所有常委正念，如是即於無忘失念得任持力。即由如是功能勢力，制伏色聲香味觸法。

> 常委正念とは何かといえば、それは常に行い続け、細やかに実践する心の働きです。ここで「常に行う」とは絶え間なく実践すること、「細やかに実践する」とは丁寧に真剣に取り組むことを意味します。この絶え間ない実践と丁寧な実践の両方を総称して「常委正念」と呼びます。こうして正念をしっかり守れば、心に留めることを忘れません。また、これらを徹底して実践すれば、忘れないという心の力を確かに身につけることができます。こうした力によって、色・声・香・味・触・法（六境）に心が惑わされることなく制することができるのです。

云何名為念防護意？謂眼色為緣生眼識，眼識無間生分別意識，由此分別意識，於可愛色色將生染著，於不可愛色色將生憎恚。即由如是念增上力，能防護此非理分別起煩惱意，令其不生所有煩惱。如是耳鼻舌身廣說，當知亦爾。意法為緣生意識，即此意識有與非理分別俱行，能起煩惱；由此意識，於可愛色法將生染著，於不可愛色法將生憎恚。亦由如是念增上力，能防護此非理分別起煩惱意，令其不生所有煩惱。如是名為念防護意。

> 「念による意の防護」とは何か。すなわち、眼と色が縁となって眼識が生じ、その眼識が途切れることなく分別意識が生じる。この分別意識によって、好ましい色に対しては執着が生じ、好ましくない色に対しては憎しみが生じる。ここで、この「念」の力を高めることにより、道理に反した分別から生じる煩悩の心を防護し、そのような煩悩を生じさせないようにするのである。耳・鼻・舌・身についても、同じように広く説かれるべきであり、知るべきである。意と法が縁となって意識が生じるが、この意識には道理に反した分別と共に働き、煩悩を引き起こすものがある。この意識によって、好ましい法に対しては執着が生じ、好ましくない法に対しては憎しみが生じる。ここでもまた、この「念」の力を高めることにより、道理に反した分別から生じる煩悩の心を防護し、そのような煩悩を生じさせないようにするのである。これを「念による意の防護」と名付ける。

云何名為行平等位？平等位者，謂或善捨、或無記捨。由彼於此非理分別起煩惱意善防護已，正行善捨、無記捨中，由是說名行平等位。如是名為行平等位。

> 平等な位置とは何か。平等な位置とは、善なる捨心、あるいは無記（善悪いずれでもない）の捨心を指す。そこにおいて、道理に反した分別によって生じる煩悩の心を、よく防ぎ護った上で、善なる捨や無記の捨のうちに正しく行じる。このことから、平等な位置を行じるという。これが平等な位置を行じることの意味である。

云何於此非理分別起煩惱意能善防護？謂於色聲香味觸法，不取其相，不取隨好，終不依彼發生諸惡不善尋思，令心流漏。若彼有時忘失念故，或由煩惱極熾盛故，雖離取相及取隨好，而復發生惡不善法，令心流漏，便修律儀。由是二相，故能於此非理分別起煩惱意能善防護。

> ここで言う「どうすれば、道理に反した分別から生じる煩悩の心を、うまく防ぐことができるのか」について説明します。 それは、色（見えるもの）・声（聞こえるもの）・香（かおり）・味（味わい）・触（触れるもの）・法（心に浮かぶもの）に対して、その表面的な特徴（相）に執着せず、またその細かな付随する特徴（随好）にも執着しないことです。決してそれらに基づいて、悪く不善な考え（不善尋思）を起こし、心を漏れ出させる（流漏）ようなことをしない。 もし時として、注意力（念）を忘れてしまったり、煩悩が非常に激しくなったために、表面的な特徴や細かな特徴への執着を離れているにもかかわらず、再び悪く不善な法（現象）が起こって心を漏れ出させてしまうことがあるならば、その時は、戒律（律儀）を修めるのです。以上の二つのあり方

云何此意由是二相善防護已，正行善捨或無記捨？謂即由是二種相故。

> では、この心はどのようにして二つの相によって善く防護され、正しく善なる捨（及び無記の捨）を行うのでしょうか。すなわち、まさにこの二つの相によってなのです。

云何二相？謂如所說防護眼根，及正修行眼根律儀。如說眼根防護律儀，防護耳鼻舌身意根，及正修行意根律儀，當知亦爾。由是二相，於其善捨、無記捨中，令意正行。

> 二つの相とは何か。それは、先に述べたように眼根を守り防ぐこと、そして眼根の律儀を正しく修行することである。同じように、耳・鼻・舌・身・意の各根についても、眼根の防護律儀に説かれた通り、それらを守り防ぐことと、正しく修行することがあると知るべきである。この二つの相によって、善なる捨（平静）と無記なる捨（中立の平静）において、意を正しく働かせるのである。

云何於眼所識色中不取其相？言取相者，謂於眼識所行色中，由眼識故取所行相，是名於眼所識色中執取其相。若能遠離如是眼識所行境相，是名於眼所識色中不取其相。如於其眼所識色中，如是於耳鼻舌身意所識法中，當知亦爾。

> 眼で認識できる色や形に対して、「どのようにしてその特徴を取り入れないようにするのか」というと、「特徴を取り入れる」とは、眼の認識が働く色や形の中から、眼の認識によってその対象の特徴を捉えることを言います。これを、眼で認識できる色や形に対して特徴を執り取る、といいます。もし、このような眼の認識が働く対象の特徴から遠ざかることができれば、これを眼で認識できる色や形に対して特徴を取り入れない、といいます。眼で認識できる色や形についてそうであるように、耳・鼻・舌・身・意で認識できる事柄についても、同じように理解すべきです。

云何於眼所識色中不取隨好？取隨好者，謂即於眼所識色中，眼識無間俱生分別意識，執取所行境相，或能起貪、或能起瞋、或能起癡，是名於眼所識色中執取隨好。若能遠離此所行相，於此所緣不生意識，是名於眼所識色中不取隨好。如於其眼所識色中，如是於耳鼻舌身意所識法中，當知亦爾。

> 眼によって認識される色について、どのようにして「随好」（対象への執着）を取らないのでしょうか。「随好を取る」とは、眼によって認識される色が生じた直後に、眼識と一緒に生じる分別意識が、その対象となる形やイメージを捉え、そこから貪り（むさぼり）や怒り、あるいは無知を引き起こすことを言います。これが、眼によって認識される色において随好を取るということです。 もし、そのような対象のイメージから遠く離れ、その対象に対して意識を生じさせないならば、それが眼によって認識される色において随好を取らないということです。 眼によって認識される色の場合と同様に、耳・鼻・舌・身・意によって認識される事柄についても、同じように理解すべきです。

復有餘類執取其相、執取隨好。言取相者，謂色境界在可見處，能生作意正現在前，眼見眾色。如是名為執取其相。取隨好者，謂即色境在可見處，能生作意正現在前，眼見色已；然彼先時從他聞有如是如是眼所識色，即隨所聞名句文身，為其增上為依為住，如是士夫補特伽羅，隨其所聞，種種分別眼所識色。如是名為執取隨好。如於其眼所識色中，如是於耳鼻舌身意所識法中，當知亦爾。又此取相及取隨好，或有由此因緣、由此依處、由此增上，發生種種惡不善法，令心流漏；或有由此因緣、由此依處、由此增上，不生種種惡不善法，令心流漏。若於此中執取其相，執取隨好，不如正理，由此因緣、由此依處、由此增上，發生種種惡不善法，令心流漏。彼於如是色類境界，遠離取相及取隨好。

> また別の種類の人々は、対象の相（特徴）を捉え、さらにその相に付随する細かな特徴を捉える。 「相を捉える」とは、例えば色の対象がはっきりと見える場所にあり、注意を向ける心の働きが今まさに現れているとき、眼で様々な色を見ることをいう。これを「相を捉える」と名づける。 「付随する細かな特徴を捉える」とは、先ほどと同じく色の対象がはっきりと見える場所にあり、注意を向ける心の働きが今まさに現れているとき、眼で色を見た上で、その人が以前に他者から「このような、あのような眼で認識できる色がある」と聞いたことがある場合、その聞いた言葉や表現をよりどころとし、それに基づいて住し、その人の心が、聞いたことに従って、眼で認識される色を様々に分別することをいう。これを「付随する細かな特徴を捉える」と名づける。 眼で認識される色の場合について述べたように、耳・鼻・舌・身・意で認識される対象についても、同じであると知るべきである。 また、この「相を捉えること」と「付随する細かな特徴を捉えること」には、ある因縁や、ある拠り所、ある力によって、様々な悪い善ならざる法を生じさせ、心を漏れ流れさせる場合があり、また別の因縁や拠り所、力によって、様々な悪い善ならざる法を生じさせず、心を漏れ流れさせない場合もある。 もしこの中で、正しい道理にかなわずに「相を捉え」「付随する細かな特徴を捉える」ならば、その因縁や拠り所、力によって、様々な悪い善ならざる法が生じ、心は漏れ流れることになる。 そのような人は、このような種類の対象に対して、「相を捉えること」と「付随する細かな特徴を捉えること」から遠く離れて進むのである。

云何名為惡不善法？謂諸貪欲，及貪所起諸身惡行、諸語惡行、諸意惡行；若諸瞋恚、若諸愚癡，及二所起諸身惡行、諸語惡行、諸意惡行。是名種種惡不善法。

> 「悪不善法とは何か。それは、むさぼりの心（貪欲）と、その心から生じる身体による悪い行い、言葉による悪い行い、心による悪い行いのことです。また、怒りの心（瞋恚）や愚かさの心（愚癡）、そしてそれらの心から生じる身体・言葉・心による悪い行いのことを指します。これらが様々な悪不善法なのです。」

云何由彼令心流漏？謂若於彼彼所緣境界，心、意、識生，遊行流散；即於彼彼所緣境界，與心、意、識種種相應，能起所有身語惡行貪瞋癡生，遊行流散。是名由彼令心流漏。

> 心が漏れ出るとはどういうことか。それは、ある対象に触れた時、心・意・識が生じて、そこへとさまよい散っていくことである。その対象に応じて心・意・識が様々に働き、身体とことばによる悪い行為や、貪り・怒り・無知を引き起こしながら、さまよい散ってゆく。これが「心が漏れ出る」という意味である。

如是於眼所識色中，乃至於意所識法中，執取其相及取隨好，由是發生種種雜染。彼於取相及取隨好能遠離故，便不發生種種雜染。

> このようにして、眼で認識される色に対して、さらに意識で認識される法に至るまで、その特徴や表面的な印象に執着することで、様々な煩悩が生まれます。そのような執着から遠ざかることができれば、様々な煩悩は生じなくなります。

若由忘念，或由煩惱極熾盛故，雖獨閑居，由先所見眼所識色增上力故，或先所受耳鼻舌身意所識法增上力故，發生種種惡不善法，隨所發生而不執著，尋便斷滅、除棄、變吐，是名於彼修行律儀。

> もしうっかりしていたり、あるいは煩悩が激しく燃え盛っているために、たとえ一人で静かに過ごしていても、以前に見た目で識別した色や形の強い影響、あるいは以前に耳・鼻・舌・身・意で識別した対象（法）の強い影響によって、さまざまな悪く善くないことが心に起こってくることがあります。しかし、その起こったことに執着せず、すぐに断ち切り、捨て去り、吐き出す。これが、「それらに対する修行による律儀」と呼ばれます。

若於其眼所識色中，應策眼根；及於其耳鼻舌身意所識法中，應策意根；即便於彼作意策發。如是策發，令不雜染。由是因緣，於此雜染防護眼根，廣說乃至防護意根；如是名為防護眼根，廣說乃至防護意根。若於其眼所識色中，不應策發所有眼根，及於其耳鼻舌身意所識法中，不應策發所有意根；即便於彼遍一切種而不策發。不策發故，令不雜染。

> もし、その眼で認識する色に対して、眼根を使うべきであり、また耳・鼻・舌・身・意で認識する法に対しても、意根を使うべきであるなら、その際にそれに対して心を働かせて策発する。このように策発することで、雑染しないようにする。この因縁によって、この雑染から眼根を防護し、広く説いて乃至意根を防護する。これを眼根の防護、乃至意根の防護と名付ける。 もし、その眼で認識する色に対して、眼根を策発すべきではなく、また耳・鼻・舌・身・意で認識する法に対しても、意根を策発すべきでないなら、その際にそれに対して一切のあらゆる種類において、策発しない。策発しないがゆえに、雑染しないようにする。

由是因緣，於此雜染修根律儀。如是名為能正修行眼根律儀，廣說乃至能正修行意根律儀。如是應知已廣分別根律儀相。

> このような理由から、この煩わしさ（雑染）の中で、感官の統御（根律儀）を修めるのです。これが眼の感官を正しく修めることであり、同様に、意識（意根）に至るまで正しく修めることと言えます。以上のように、感官の統御の特徴について詳しく説明しました。