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title: "瑜伽師地論 · 1目 廣辨(五段)"
description: "瑜伽师地论是佛教大乘瑜伽行派的重要经典，相传由弥勒菩萨口述，无著菩萨记录，唐代高僧玄奘于贞观年间从印度取回并译成汉文。该论共100卷，系统阐述瑜伽行派的教义，内容包括十七地、三性、八识、修行次第等核心理论，被誉为大乘佛教的百科全书。作为唯识学的根本论典，瑜伽师地论奠定了唯识学派的理论基础，对汉传佛教和藏传佛教影响深远，在佛教思想史上具有崇高地位，是研究唯识学和瑜伽行派必读的经典著作。"
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云何名為於食知量？謂如有一，由正思擇食於所食。不為倡蕩、不為憍逸、不為飾好、不為端嚴，乃至廣說。

> 「食を知る量」とは何か？ ある修行者が、正しい考えをもって食べ物を口にすること。 それは、遊び半分のためでもなく、おごり高ぶるためでもなく、 見た目の美しさや優雅さのためでもない。 ——（細かい説明は長くなるので省く。）

云何名為由正思擇食於所食？正思擇者，如以妙慧等隨觀察段食過患。見過患已，深生厭惡，然後吞咽。云何名為觀見過患？謂即於此所食段食，或觀受用種類過患、或觀變異種類過患、或觀追求種類過患。

> どのようにして「正しい思惟（正思択）」によって食事をとるのでしょうか。 「正しい思惟」とは、例えば優れた智慧をもって、物質的な食事（段食）のもたらす過ちや害を等しく観察することです。その過ちや害を見た後、深く厭い嫌悪し、それから初めて飲み込みます。 「過ちや害を観察する」とはどういうことかというと、この食べる物質的な食事について、あるいは摂取する際の種類の過ちを観察したり、変化する際の種類の過ちを観察したり、求める際の種類の過ちを観察したりすることです。

云何受用種類過患？謂如有一，將欲食時，所受段食色香味觸皆悉圓滿，甚為精妙。從此無間進至口中，牙齒咀嚼，津唾浸爛，涎液纏裹，轉入咽喉。爾時此食先曾所有悅意妙相一切皆捨，次後轉成可惡穢相，當轉異時，狀如變吐。能食士夫補特伽羅，若正思念此位穢相，於餘未變一切精妙所受飲食，初尚不能住食欣樂，況於此位。由如是等非一相貌漸次受用增上力故，令其飲食淨妙相沒，過患相生，不淨所攝。是名於食受用種類所有過患。

> 受用の種類における過患とは何か。例えば、ある人が食事をしようとする時、口にする段食の色・香・味・触がすべて円満で、非常に精妙であるとする。ところが、それが口に入れられ、歯で噛まれ、唾液で浸され、よだれに纏われて喉へと送られる。この時、その食べ物がかつて持っていた好ましい素晴らしい相は一切失われ、次第に嫌悪すべき汚れた相へと変わる。この変わりゆく様子は、まるで吐き戻された物のようである。食事をする人が、もしこの段階の汚れた相について正しく思いを巡らせれば、まだ変わっていない全ての精妙な食べ物に対してさえ、初めから味わう喜びを持つことができず、ましてやこの段階においてはなおさらである。このように、様々な様相をもって徐々に受用される力によって、食べ物の清らかで素晴らしい相は消え去り、過患の相が生じ、不浄なるものに摂せられる。これを、食の受用の種類における過患という。

云何轉變種類過患？謂此飲食既噉食已，一分消變，至中夜分或後夜分，於其身中，便能生起養育增長血肉筋脈骨髓皮等非一眾多種種品類諸不淨物。次後一分變成便穢，變已趣下展轉流出。由是日日數應洗淨。或手、或足、或餘支節誤觸著時，若自若他皆生厭惡。又由此緣，發生身中多種疾病。所謂癰痤、乾癬、濕癬、疥癩、疽疔、上氣、疨瘶、皰漿、噦噎、乾消、癲癎、寒熱、黃病、熱血、陰㾽。如是等類無量疾病，由飲食故，身中生起。或由所食不平和故，於其身中不消而住。是名飲食變異種類所有過患。

> では、どのような変化と種類による過ちがあるのでしょうか。つまり、この飲食物を食べた後、一部は消化されて変化し、真夜中あるいは夜明けにかけて、身体の中に養分を与え、血肉、筋、脈、骨、髄、皮など、多くの種類の様々な不浄なものを生み出します。その後、もう一部は排泄物へと変わります。変化したものは下へ向かい、次々と流れ出ます。これにより、日に何度も洗い清める必要が生じます。手や足、あるいは他の部分が誤って触れた時には、自分でも他人でも嫌悪の念を抱きます。また、このことが原因で、身体に多くの病気が発生します。すなわち、吹き出物、乾癬、湿疹、疥癬、腫れ物、瘡、喘息、せき、水疱、しゃっくり、吐き気、糖尿病、癲癇、寒熱、黄疸、血の病、陰部の腫れなどです。このような数え切れない病気が、飲食物によって身体の中に生じるのです。あるいは、食べ物のバランスが悪いために、身体の中で消化されずに留まることもあります。これらを、飲食物の変化と種類による過ちと呼びます。

云何追求種類過患？謂於飲食追求種類有多過患。或有積集所作過患、或有防護所作過患、或壞親愛所作過患、或無厭足所作過患、或不自在所作過患、或有惡行所作過患。

> 食べ物を得るための様々な求め方には、多くの苦しみや弊害があります。 積み集めることによる苦しみ、守ることによる苦しみ、愛する人を失うことによる苦しみ、満たされることがない苦しみ、自由がきかない苦しみ、悪い行いによる苦しみがあるのです。

云何名為於食積集所作過患？謂如有一，為食因緣，寒時為寒之所逼惱，熱時為熱之所逼惱，種種策勵劬勞勤苦。營農、牧牛、商估、計算、書數、雕印，及餘種種工巧業處，為得未得所有飲食，或為積聚。如為飲食，為飲食緣，當知亦爾。如是策勵劬勞勤苦，方求之時，所作事業若不諧遂；由是因緣，愁憂燋惱、拊胸傷歎、悲泣迷悶，何乃我功唐捐無果？如是名為於食積集所作過患。

> 飲食を蓄えることによる過患とは何か。例えば、ある人が食物のために、寒い時は寒さに苦しめられ、暑い時は暑さに苦しめられ、様々な努力と苦労を重ねて、農業、牧牛、商売、計算、筆記、印刷、その他様々な手工業に従事する。まだ得ていない食物を得るため、あるいは蓄えるためである。食物のためだけでなく、食物を生み出す縁（条件）についても、同じであると知るべきである。このように努力し苦労して、求めている時に、行っている事業がうまくいかない場合、その因縁によって、憂い悲しみ、胸を叩いて嘆き、泣き叫んで茫然自失し、「どうして私の労力が無駄になり、成果がないのか」と嘆く。これが、食物を蓄えることによる過患と呼ばれる。

云何名為於食防護所作過患？謂所作業若得諧遂，為護因緣起大憂慮：勿我財寶當為王賊之所侵奪，或火焚燒，或水漂蕩，或宿惡作當令滅壞，或現非理作業方便當令散失，或諸非愛、或宿共財當所理奪，或即家中當生家火，由是當令財寶虧損。如是名為於食防護所作過患。

> 何をもって「食べ物を守ろうとすることで生じる苦しみ」というのか。 それは、行っている仕事がうまくいったとしても、それを守ろうとして大きな心配が生じることである。 「どうか、私の財産が王様や盗賊に奪われませんように。 火事で焼かれませんように。 水に流されませんように。 過去の悪行によって滅ぼされませんように。 今、道理に合わない方法で行っていることが、財産を散逸させませんように。 あるいは、好ましくない者や、以前から共同で財産を持っていた者に不当に奪われませんように。 あるいは、家の中で家庭内のもめ事（家火）が起こり、それによって財産が損なわれませんように。」 このように心配することを、食べ物を守ろうとすることで生じる苦しみというのである。

云何於食能壞親愛所作過患？謂諸世間，為食因緣多起鬪諍。父子、母女、兄弟、朋友尚為飲食互相非毀，況非親里為食因緣而不展轉更相鬪訟。所謂大族諸婆羅門、剎帝利種、長者、居士，為食因緣迭興違諍，以其手足塊刀杖等互相加害。是名於食能壞親愛所作過患。

> どのようにして食べ物が親しい愛情を壊し、悩みの種となるのでしょうか。 世の中では、食べ物が原因で多くの争いが起こります。 親子、母娘、兄弟、友人でさえ、食べ物のために互いに非難し合います。 ましてや、親しくない者同士が、食べ物が原因で争い合わないはずがありません。 いわゆる大きな氏族、バラモン、クシャトリヤ、長者、在家の者たちも、食べ物が原因で次々と争いを起こし、互いに手や足、石、棒、刀などで傷つけ合います。 これが、「食べ物が親しい愛情を壊し、悩みの種となる」ということなのです。

云何於食無有厭足所作過患？謂諸國王剎帝利種，位登灌頂，亦於自國王都聚落不住喜足，俱帥兵戈，互相征討。吹以貝角，扣擊鍾鼓，揮刀、槃矟、放箭、𥎞矛，車馬象步交橫馳亂；種種戈仗傷害其身，或便致死，或等死苦。復有所餘如是等類。是名於食無有厭足所作過患。

> 食に飽くことを知らず、それによって生じる過ちとは何か。 例えば、灌頂の位にある王族・クシャトリア階級の者たちでさえ、自らの国土や都・村々に満足せず、軍勢を率いて互いに討ち合う。法螺貝や角笛を吹きならし、太鼓や鐘を打ち鳴らし、刀を振るい、矛を構え、矢を放ち、槍を突き立てる。戦車、馬、象、歩兵が入り乱れて疾駆する。様々な武器がその身を傷つけ、命を落としたり、死に等しい苦しみを受けたりする。この他にも、同様の多くの過ちがある。 これこそ、食に飽くことを知らないことによる過ちである。

云何因食不得自在所作過患？謂如一類，為王所使，討固牢城，因遭種種極熱脂油、熱牛糞汁及鎔銅鐵而相注灑，或被戈杖、傷害其身，或便致死，或等死苦。復有所餘如是等類。是名因食不得自在所作過患。

> なぜ食物に執着すると、不自由や苦しみが生じるのか？ 例えば、ある者が王に命じられて堅固な城を攻めたとする。その際、煮えたぎる油や熱した牛糞の汁、溶けた銅や鉄を浴びせられたり、槍や杖で体を傷つけられたりする。あるいは命を落としたり、死に等しい苦しみを受ける。この他にも、同様の例が数多くある。これらが、食物への執着によって不自由となり、生じる苦しみである。

云何因食起諸惡行所作過患？謂如有一，為食因緣，造作積集身諸惡行。如身惡行，語、意亦爾。臨命終時，為諸重病苦所逼切。由先所作諸身語意種種惡行增上力故，於日後分，見有諸山、或諸山峯垂影懸覆、近覆、極覆。便作是念：我自昔來依身語意所造諸業，唯罪非福。若有其趣，諸造惡者當生其中，我今定往。

> なぜ、食べ物を得るために様々な悪行を起こし、その結果として苦しみを受けるのでしょうか。 例えば、ある人が食べ物を得るために、身（身体）、語（言葉）、意（心）で悪行を積み重ねます。そして、命が終わろうとする時、重い病の苦しみに激しく苛まれます。過去に積んだ様々な悪行の影響力によって、死の間際には、自分を覆い尽くすような山や山の峰が幾重にも迫ってくる幻影を見ます。そして、こう思うのです。「私はこれまで、身・語・意で悪い行いばかりを積み、善い行いをしてこなかった。もし悪人だけが行くという世界があるなら、私は確実にそこへ行くだろう」と。

如是悔已，尋即捨命。既捨命已，隨業差別生諸惡趣。謂那洛迦、傍生、餓鬼。如是名為因食惡行所作過患。

> このように悔い改めたとしても、すぐに命を終えることになります。命を終えた後は、その行いの違いに応じて、様々な悪い世界に生まれ変わります。すなわち、地獄、動物、餓鬼の世界です。これが、「食べることに執着する悪い行い」がもたらす過ちなのです。

如是段食，於追求時有諸過患，於受用時有諸過患，於轉變時有諸過患。

> このような食べ物（段食）は、それを求める際にも様々な弊害があり、実際に食べる際にも様々な弊害があり、体内で消化され変化する際にも様々な弊害があるのです。

又此段食有少勝利。此復云何？謂即此身由食而住，依食而立，非無有食。云何名為有少勝利？謂即如是依食住身，最極久住或經百年。若正將養，或過少分，或有未滿而便夭沒。若唯修此身暫住行，非為妙行；若於如是身暫時住而生喜足，非妙喜足。亦非領受飲食所作圓滿無罪功德勝利。若不唯修身暫住行，亦不唯於身暫時住而生喜足，而即依此暫時住身，修集梵行令得圓滿，乃為妙行，亦妙喜足。又能領受飲食所作圓滿無罪功德勝利。

> さて、この「段食」には、わずかな利益がある。では、その利益とは何か。つまり、この身体は食物によって支えられ、食物に依って立ち、食物なしでは存在しないということである。では、その「わずかな利益」とは何か。それは、このように食物に依存して保たれる身体が、最も長く続く場合でも百年ほどであるということである。もし適切に養えば、それをわずかに超えることもあるが、あるいは十分な寿命を全うせずに若くして亡くなることもある。 もし、ただこの身体を一時的に保つことだけを目的として生きるならば、それは善い生き方とは言えない。また、この身体が一時的に保たれていることに満足するだけでは、それは善い満足とは言えない。さらに、飲食によって成し遂げられる、罪のない功徳や利益を完全に受け取ることにはならない。 しかし、もし身体を一時的に保つことだけを目的とせず、また身体が一時的に保たれていることに満足するだけではなく、この一時的に保たれる身体を基にして、清らかな修行（梵行）を積み重ねて完全なものにするならば、それは善い生き方であり、善い満足でもある。そして、飲食によって成し遂げられる、罪のない功徳や利益を完全に受け取ることができるのである。

應自思惟：我若與彼愚夫同分，修諸愚夫同分之行，非我所宜；我若於此下劣段食少分勝利安住喜足，亦非我宜。若於如是遍一切種段食過患圓滿知已，以正思擇，深見過患，而求出離。為求如是食出離故，如子肉想，食於段食。應作是念：彼諸施主，甚大艱難積集財寶，具受廣大追求所作種種過患。由悲愍故，求勝果故，如割皮肉及以刺血，而相惠施。我得此食，宜應如是方便受用。謂應如法而自安處，無倒受用，報施主恩，令獲最勝大果、大利、大榮、大盛。當隨月喻往施主家，盪滌身心，安住慚愧。

> よく考えるべきである。「もし私が愚かな人々と同じ立場に立ち、彼らの行いを真似るならば、それは私にふさわしくない。また、この粗末な食物のわずかな満足にとどまり喜ぶことも、私にふさわしくない。あらゆる種類の食物の過ちを完全に理解したならば、正しい思考でその過ちを深く見極め、そこから逃れようと求めるべきである。そのように食物からの解脱を求めるために、『我が子の肉』という想いをもって食物を受け入れるのだ。」 次のように心に留めるべきである。「あの施主たちは、大変な苦労をして財宝を集め、さまざまな追及による多くの苦しみを受けている。彼らは慈しみの心から、より優れた果報を求めて、まるで自らの皮や肉を切り、血を流すかのように私に施しを与えてくれる。この食物をいただく以上、私はそれにふさわしい方法で受け取るべきである。すなわち、正しい作法に従って身を置き、間違いなく施主の恩に報い、彼らに最も優れた大きな果報、大きな利益、大きな栄誉、大きな繁栄をもたらすべきである。」 月の喩えに従って施主の家に赴き、心身を清め、慚愧の心に安住せよ。

遠離憍傲，不自高舉，不輕蔑他。如自獲得所有利養，心生喜悅，如是於他所得利養，心亦喜悅。又應如是自持其心往施主家。豈有出家往詣他所，要望他施非不惠施，要望他敬非不恭敬，要多非少，要妙非麁，要當速疾而非遲緩。應作是心，往施主家：設不惠施，終不於彼起怨害心及瞋恚心而相嫌恨。勿我由此起怨害心及瞋恚心增上緣力，身壞已後生諸惡趣，多受困厄。設不恭敬而非恭敬，設少非多，設麁非妙，設復遲緩而非速疾，亦不於彼起怨害心及瞋恚心而相嫌恨。如前廣說。又我應依所食段食，發起如是如是正行，及於其量如實了達。謂我命根由此不滅，又於此食不苦耽著，纔能隨順攝受梵行。如是我今住沙門性、住出家性，受用飲食，如法清淨，遠離眾罪。由是諸相，以正思擇食於所食。

> 慢心を遠ざけ、自らを高ぶらせず、他人を軽蔑しないこと。自らがすべての供養を得たならば、心に喜びを生じるように、他人が供養を得た場合にも、心に喜びを生じること。また、このように心を整えて施主の家に赴くべきである。出家者が他人の家に赴いて、「施しを求めても与えられないのではなく、与えられることを望む。敬意を求めても敬われないのではなく、敬われることを望む。多くを求め、少なくを望まず、優れたものを求め、粗末なものを望まず、速やかであることを求め、遅いことを望まない」などということがあってはならない。 「たとえ施しがなくとも、その人に対して怨みや怒りの心を起こし、恨み憎むことがあってはならない。もし私が、この怨みや怒りの心という強い因縁によって、この身が壊れた後、悪趣に生まれ、多くの苦しみを受けることがあってはならない」という心をもって、施主の家に赴くべきである。 また、たとえ敬われず、粗末に扱われ、少なく、遅く与えられたとしても、その人に対して怨みや怒りの心を起こし、恨み憎むことなく、先に述べたように心を保つべきである。 また、私は、口にする食事によって、このような正しい行いを起こし、その量についても如実に理解すべきである。すなわち、「私の命はこれによって絶えることなく、また、この食物に執着することなく、ただ清らかな梵行を保つために、適度に受けるのだ」と。このように、私は今、沙門の資格、出家の資格に住して、飲食を法に従い清らかに受け、多くの罪を遠ざけている。これらの相によって、正しく思惟し、食物を食べるのである。

云何所食？謂四種食。一者、段食，二者、觸食，三者、意等思食，四者、識食。

> 何を食べるのかというと、四種類の食があります。第一に「段食」（物質的な食物）、第二に「触食」（感覚の触れ合い）、第三に「意志や心の食」、第四に「認識の食」です。

今此義中意說段食。此復云何？謂餅、󰉓、飯、羹、臛、糜、粥、酥油、糖、蜜、魚、肉、𦵔鮓、乳、酪、生酥、薑、鹽、酢等種種品類，和雜為摶，段段吞食；故名段食。

> ここでいう「段食」とは、どのようなものを指すのでしょうか。それは、餅、パン、飯、スープ、あつもの、かゆ、粥、バター、油、砂糖、蜂蜜、魚、肉、漬物、塩辛、乳、ヨーグルト、生バター、しょうが、塩、酢など、さまざまな種類のものを混ぜ合わせ、ひと口大にかたまりにして食べることをいいます。このように、一口ごとに分けて食べることから「段食」と名付けられています。

所言食者，所謂飡、噉、咀嚼、吞咽、甞、啜、飲等名之差別。

> 食べるということには、食べる、かむ、飲み込む、味わう、すする、飲むなどの言葉の違いがある。

云何名為不為倡蕩？謂如有一樂受欲者，為受諸欲食於所食。彼作是思：我食所食，令身飽滿、令身充悅。過日晚時至於夜分，當與姝妙嚴飾女人共為嬉戲，歡娛受樂，倡掉縱逸。言倡蕩者，於此聖法毘奈耶中，說受欲者欲貪所引、婬逸所引所有諸惡不善尋思。由此食噉所食噉時，令其諸根皆悉掉舉，令意躁擾、令意不安、令意不靜。若為此事食所食者，名為倡蕩食於所食。諸有多聞聖弟子眾，以思擇力，深見過患，善知出離、而食所食；非如前說諸受欲者食於所食；是故名為不為倡蕩。

> 何が「ふしだらな者の食べ方」でしょうか。ある欲を楽しむ者が、欲を満たすために食事をするとします。彼はこう考えます。「私は食事をして、身体を満たし、元気をつけよう。日が暮れて夜になったら、美しく飾った女と共に遊び戯れ、楽しみ、快楽を受け、はしゃぎ、ふざけよう」と。 この聖なる教えと律において、「ふしだら」とは、欲を楽しむ者が欲の貪りや淫らな楽しみに導かれて生じる、あらゆる悪しき不善な思考のことを言います。そのような者が食事をする時、諸々の感覚器官はすべて高ぶり、心は乱れ、落ち着かず、静まらないものとなります。このような目的で食事をすることを、「ふしだらな者の食べ方」と呼びます。 一方、多くの学ある聖なる弟子たちは、熟考の力によって深く過ちの恐ろしさを見抜き、そこから脱する道をよく知って食事をします。先に述べたような欲を楽しむ者たちの食べ方とは異なります。これが「ふしだらでない」と言われる所以です。

云何名為不為憍逸、不為飾好、不為端嚴？

> どのような状態を「おごりたかぶらないため」「身を飾り良く見せようとしないため」「外見を立派に見せようとしないため」と呼ぶのでしょうか。

謂如有一樂受欲者，為受諸欲食於所食。彼作是思：我今宜應多食所食、飽食所食，隨力隨能食噉肥膩，增房補益，色香味具精妙飲食。過今夜分至於明日，於角武事當有力能。所謂按摩、拍毱、托石、跳躑、蹴蹋、攘臂、扼腕、揮戈、擊劍、伏弩、控弦、投輪、擲索，依如是等諸角武事，當得勇健，膚體充實，長夜無病，久時少壯，不速衰老，壽命長遠，能多噉食，數數食已能正消化，除諸疾患。如是為於無病憍逸、少壯憍逸、長壽憍逸而食所食。

> ある人が快楽を欲し、その快楽を得るために食事をする。彼はこう考える。「今、私はもっと多くの料理を食べ、満腹するまで食べよう。力の限り、油っこいものを食べ、精力を養い、色・香り・味が整った上質な食べ物を食べよう。そうすれば今夜から明日にかけて、格技の技に力が発揮できるだろう。すなわち、按摩、毬打ち、石持ち、跳躍、蹴り、腕組み、手首掴み、戈振り、剣打ち、弩射り、弓引き、輪投げ、縄投げなど、こうした様々な格技において、強健で、体が充実し、長く病気にならず、長く若々しく、急速に老いることなく、長寿で、多くの食物を食べ、食べた後はしっかり消化し、全ての病患を除くことができるだろう。」このように、彼は「無病の驕り」「若さの驕り」「長寿の驕り」のために食事をする。

既角武已，復作是思：我應沐浴。便以種種清淨香水沐浴其身；沐浴身已，梳理其髮；梳理髮已，種種妙香用塗其身；既塗身已，復以種種上妙衣服、種種花鬘、種種嚴具莊飾其身。此中沐浴、理髮、塗香，名為飾好；既飾好已，復以種種上妙衣服、花鬘、嚴具莊飾其身，名為端嚴。

> 戦に勝利した後、彼はこう考えました。「沐浴すべきだ」と。そして、様々な清らかな香水を用いて体を洗いました。体を洗い終えると、髪を整えました。髪を整えた後、様々な素晴らしい香りを体に塗りました。体に塗り終えると、さらに様々な上等な衣服や花飾り、装飾品で身を飾りました。ここで、沐浴・理髪・塗香を「飾ること」と言います。身を飾った後、さらに様々な上等な衣服や花飾り、装飾品で身を飾ることを「端正で荘厳なこと」と言います。

如是總名為飾好故、為端嚴故食於所食。彼既如是憍逸、飾好、身端嚴已，於日中分或日後分，臨欲食時，飢渴並至。於諸飲食極生悕欲、極欣、極樂，不見過患，不知出離，隨得隨食。

> このように、人々は見た目を飾り、身なりを整えるために食事をとります。そうして驕り高ぶり、身を飾り、外見を整えた後、昼過ぎや夕方になり食事をとろうとする頃には、空腹と喉の渇きが同時に訪れます。すると食べ物に対して非常に強い欲望と喜びを感じ、その危険性に気づかず、そこから離れようともせず、得るままに、手当たり次第に食べてしまうのです。

復為數數倡蕩、憍逸、飾好、端嚴，多食多飲，令身充悅。諸有多聞聖弟子眾，以思擇力，深見過患，善知出離，而食所食；非如前說諸受欲者食於所食。唯作是念：我今習近所不應習、所應斷食，為欲永斷如是食故。

> また、繰り返し放埓にふるまい、驕り高ぶり、身を飾りたて、美食を多く食べ飲みして、からだを満足させるのです。 しかしながら、多くの教えを聞いた聖なる弟子たちは、思考と選択の力によって、深くその過ちを見抜き、そこから離れる道をよく知って、食べ物を食べます。 先に述べた欲望に執着する人々のように食べるのではありません。 ただ、こう考えます。「私は今、本来行うべきでないこと、断つべき食べ物に親しんでいる。このような食べ物を永遠に断つために」と。

云何名為為身安住食於所食？謂飲食已壽命得存，非不飲食壽命存故，名身安住。我今受此所有飲食，壽命得存，當不夭沒；由是因緣，身得安住，能修正行，永斷諸食。

> 身体を保つために何をどのように食べるべきでしょうか？ 食事をとることで命がつながれ、食べなければ命を保つことはできません。こうして身体は安らかに保たれるのです。 私たちは今、この食事を受けることによって命が存続し、早世することなく、身体をしっかりと保ち、正しい修行を成し遂げ、すべての「食」（執着）を永遠に断ち切ることができるのです。

云何名為為暫支持食於所食？

> 仏が阿難に告げた。「どのようにして『一時的な支えとして食事をとる』と言われるのか。例えば、衆生が飢えの苦しみを受ける時のために、真の仏弟子は慈悲の心をもって少量の食物をとる。しかしそれは味や楽しみのためではなく、ただこの身を持続させて修行を支え、飢えによる障害を除くためだけである。たとえば、病人が薬を服用するように、病気を治すためであって、美味しさを楽しむためではない。これが『一時的な支えのための食事』と呼ばれる道理である。」

謂略說有二種存養。一、有艱難存養，二、無艱難存養。

> おおよそ、修養には二つの種類がある。一つは困難を伴う修養、二つ目は困難を伴わない修養である。

云何名為有艱難存養？謂受如是所有飲食，數增飢羸，困苦重病。

> どのようなものが「艱難（かんなん）をともなう養い」と呼ばれるのか。それは、このような飲食を受けたとき、しばしば飢えややせ細り、苦しみや重い病が増すことをいう。

或以非法追求飲食，非以正法。得已，染愛、耽嗜、饕餮、迷悶、堅執、湎著受用。

> ある人は、正当な方法によらずに、誤った手段で食べ物や飲み物を手に入れます。そして手に入れた後、それに執着し、むさぼり、味わい、迷い、固く執わり、溺れて楽しんでしまいます。

或有食已，令身沈重，無所堪能，不任修斷。

> ある食物を食べると、体が重くなり、何もする気が起きず、修行や煩悩を断つこともできなくなります。

或有食已，令心遲鈍，不速得定；或有食已，令入出息來往艱難；或有食已，令心數為惛沈睡眠之所纏擾。如是名為有艱難存養。

> 食べ物によって、心が鈍くなり、速やかに定を得られないことがあります。また、食べ物によって、呼吸の出入りが困難になることもあります。さらに、食べ物によって、心が何度も昏沈や睡眠に悩まされることもあります。これを「艱難ある存養」といいます。

云何名為無艱難存養？謂受如是所有飲食，令無飢羸，無有困苦及以重病。或以正法追求飲食，不以非法。既獲得已，不染、不愛，亦不耽嗜、饕餮、迷悶、堅執、湎著而受用之。如是受用，身無沈重，有所堪能，堪任修斷；令心速疾得三摩地；令入出息無有艱難；令心不為惛沈睡眠之所纏擾。如是名為無艱難存養。

> 「苦なくして養う」とは、どのようなものか。すなわち、あらゆる飲食を、飢えややせ細り、苦しみや大病を招かぬよう、適切に摂ることである。また、正しい方法で飲食を求め、不正な手段を用いない。得たとしても、それに染まらず、愛着せず、むさぼったり、酔いしれたり、惑わされたり、固執したり、溺れたりすることなく、受けて用いる。このように用いれば、体は重だるくならず、力が備わり、修行や断ち行いに耐えられる。心は速やかに三昧を得られ、呼吸は滞りなく、心は眠気や昏沈に悩まされることもない。これを「苦なくして養う」というのである。

若由有艱難存養，壽命得存，身得安住，此名有罪，亦有染污。若由無艱難存養，壽命得存，身得安住，此名無罪，亦無染污。

> もし苦労して身を養うことで命が保たれ、身体が安らかに保たれるなら、それは「罪があり、汚れがある」と言う。 もし苦労なく身を養うことで命が保たれ、身体が安らかに保たれるなら、それは「罪がなく、汚れもない」と言う。

諸有多聞聖弟子眾，遠離有罪有染存養，習近無罪無染存養，由是故說為暫支持。

> 多くの学びある聖なる弟子たちは、罪や汚れのある生活を遠ざけ、罪や汚れのない生活を実践します。そのため、この生活は「一時的な支え」と言われています。

問：云何習近如前所說無罪無染所有存養，以自存活？

> 問：先に述べたような、罪がなく、汚れのない生き方を、どのようにして実践し、自らの命を支えていけばよいのでしょうか？

答：若受飲食，為除飢渴、為攝梵行、為斷故受、為令新受當不更生、為當存養力樂無罪安隱而住，如是習近無罪無染所有存養，而自存活。

> 答え：もし飲食を受けるならば、飢えや渇きを癒すためであり、清らかな修行（梵行）を支えるためであり、古い苦しみ（旧受）を断ち切るためであり、新たな苦しみ（新受）が生まれないようにするためであり、力と安楽を保ち、罪なく穏やかに暮らすためである。このようにして、罪なく汚れのない方法で身を養い、自分自身の命を支えていくのである。

云何名為為除飢渴受諸飲食？謂至食時，多生飢渴，氣力虛羸，希望飲食。為欲息此飢渴纏逼、氣力虛羸，知量而食。如是食已，令於非時不為飢羸之所纏逼，謂於日晚或於夜分，乃至明日未至食時。如是名為為除飢渴受諸飲食。

> 飢えや渇きを癒すために飲食を受けるとは、どういうことでしょうか。 それは、食事の時間になると、強い飢えや渇きが生じ、体力が衰え、気力が弱まった状態で、飲食を求めることです。 この飢えや渇きに悩まされ、体力や気力が衰えるのを鎮めるために、適量をわきまえて食事をします。 こうして食事をすることで、食事の時間ではない時、例えば夕方や夜、あるいは翌日の食事の時間に至るまで、飢えや衰弱に悩まされることがなくなります。 これを、飢えや渇きを除くために飲食を受ける、と言うのです。

云何名為為攝梵行受諸飲食？謂知其量受諸飲食，由是因緣，修善品者，或於現法、或於此日，飲食已後，身無沈重，有所堪能，堪任修斷；令心速疾得三摩地；令入出息無有艱難；令心不為惛沈睡眠之所纏擾。由是速疾有力有能得所未得、觸所未觸、證所未證。如是名為為攝梵行受諸飲食。

> 清らかな修行（梵行）を支えるために食事をとるとは、どのようなことでしょうか。それは、適切な量をわきまえて食事をとることをいいます。このようにすることによって、善い行いを修行する人は、現世においても、またその日の食事の後においても、身体が重だるくなることがなく、よく堪えられる力を持ち、修行や煩悩を断つことに適した状態となります。そして心を速やかに三昧（深い統一状態）に至らせ、呼吸が困難なく行われ、心が眠気やぼんやりとした怠惰に悩まされることがありません。この結果、後には力強く、未だ得ていないものを得、未だ触れていないものに触れ、未だ悟っていないものを悟ることができます。これを「清らかな修行を支えるための食事のとり方」と名づけるのです。

云何名為為斷故受受諸飲食？謂如有一，由過去世食不知量、食所匪宜、不消而食；由是因緣，於其身中生起種種身諸疾病，所謂疥癩、皰漿、瘶等，如前廣說。由此種種疾病因緣，發生身中極重、猛利、熾然苦惱不可意受。為欲息除如是疾病，及為息除從此因緣所生苦受，習近種種良醫所說饒益所宜隨順醫藥，及受種種悅意飲食。由此能斷已生疾病，及彼因緣所生苦受。如是名為為斷故受受諸飲食。

> 「古い苦しみを断ち切るために飲食を受ける」とはどういうことかといえば、例えば、ある人が過去世において、食事の量が適切でなかったり、体に合わないものを食べたり、消化できないまま食べたりしたことにより、その身体に様々な病が生じたとします。すなわち、疥癬、水疱、咳など、先に詳しく述べたようなものです。こうした様々な病の原因によって、身体に非常に重く、激しく、灼熱するような苦しみや、意に沿わない感覚が生じます。こうした病を鎮め、さらにその病の原因から生じる苦しい感覚を鎮めるために、様々な優れた医師が述べる、益があり、身体に適い、従うべき薬を用いたり、様々な心地よい飲食を受けたりします。これによって、すでに生じた病と、その原因から生じる苦しい感覚を断ち切ることができます。これが「古い苦しみを断ち切るために飲食を受ける」ということです。

云何名為為令新受當不更生受諸飲食？謂如有一，由現在世安樂無病、氣力具足，不非量食、不食匪宜、亦非不消而更重食，令於未來食住身中成不消病，或於身中當生隨一身諸疾病，所謂疥癩、皰漿、瘶等，如前廣說。由是因緣，當生身中如前所說種種苦受，餘如前說。如是名為為令新受當不更生受諸飲食。

> 新たに受ける苦しみが再び生じないようにするための飲食とは、どのようなものか。例えば、ある人が現在の世において安楽で病なく、気力が十分に備わっているとする。その人は、量を過度に食べず、体に合わないものを食べず、また消化しきっていないのにさらに重ねて食べることをしない。そうすることで、未来において、食べ物が体内に留まって消化不良の病となったり、あるいは体内に様々な病気、すなわち疥癬（かいせん）、腫瘍、水疱、咳などの、先に広く述べたようなものが生じるのを防ぐ。このような因縁によって、体内に前述のような様々な苦しい感覚が生じるのを防ぐのである。その他は先に述べた通りである。これを、新たに受ける苦しみが再び生じないようにするための飲食という。

云何名為為當存養力樂無罪安隱而住受諸飲食？

> どのような場合に、食べ物や飲み物を受け取ることが、「力をつけ、楽しみ、罪なく、安らかに暮らすためのもの」と言えるのでしょうか。

謂飲食已，壽命得存，是名存養。

> 飲食によって寿命が保たれます。これを「存養」といいます。

若除飢羸，是名為力。

> 飢えや弱さを取り除くこと、それを力と呼びます。

若斷故受，新受不生，是名為樂。

> もし過去の感覚（受）を断ち切ったなら、新しい感覚（受）は生じない。これが本当の安らぎ（楽）である。

若以正法追求飲食，不染、不愛，乃至廣說而受用之，是名無罪。

> もし正しい教えに従って食べ物や飲み物を求めるならば、 それに執着せず、愛着も持たず、 さらに広く説かれているように、それを受け入れて用いるならば、 これを「罪のない行い」と呼びます。

若受食已，身無沈重，有所堪能，堪任修斷，如前廣說，如是名為安隱而住。

> 食事を終えた後、体が重だるくならず、しっかりと活動でき、修行や煩悩を断つことに耐えられるなら、先に詳しく述べたように、これを「安らかに落ち着いて過ごす」と言います。

是故說言：由正思擇食於所食，不為倡蕩、不為憍逸、不為飾好、不為端嚴，乃至廣說。是名廣辨於食知量。

> よって、次のように説かれています。「正しく思慮して食事をいただくこと。遊興のためでもなく、驕りのためでもなく、容姿を飾るためでもなく、美しく見せるためでもない。」と詳しく説かれています。これを「食事の適量を知ること」についての詳しい解説とします。