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title: "瑜伽師地論 · 2目 略義(三番)"
description: "瑜伽师地论是佛教大乘瑜伽行派的重要经典，相传由弥勒菩萨口述，无著菩萨记录，唐代高僧玄奘于贞观年间从印度取回并译成汉文。该论共100卷，系统阐述瑜伽行派的教义，内容包括十七地、三性、八识、修行次第等核心理论，被誉为大乘佛教的百科全书。作为唯识学的根本论典，瑜伽师地论奠定了唯识学派的理论基础，对汉传佛教和藏传佛教影响深远，在佛教思想史上具有崇高地位，是研究唯识学和瑜伽行派必读的经典著作。"
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云何應知此中略義？謂若所受食，若如是食，當知總名此中略義。何者所食？謂諸段食。即餅、󰉓、飯、羹、臛、糜、粥，如前廣說。云何而食？謂正思擇食於所食，不為倡蕩、不為憍逸、不為飾好、不為端嚴，乃至廣說。

> ここで簡潔に言おうとしている意味とは何かというと、それは、受け取る食物と、その食物の食べ方の二つである。つまり、これがここでの要点である。 「食べ物」とは、いわゆる「段食」（物質的な食物）を指す。例えば、餅、パン、飯、スープ、煮物、粥など、前に詳しく述べた通りである。 「どのように食べるか」とは、正しく心を整えて食べ物を食べることである。それは、楽しみふけるためではなく、怠けるためではなく、外見を飾るためではなく、見た目を美しくするためでもなく（さらなる詳細は前述の通り）、という意である。

復次，應知此中略義，謂為攝受對治，為遠離欲樂行邊，為遠離自苦行邊，為攝受梵行，受諸飲食。云何為攝受對治受諸飲食？謂如說言：由正思擇食於所食。云何為遠離欲樂行邊受諸飲食？謂如說言：不為倡蕩、不為憍逸、不為飾好、不為端嚴食於所食。云何為遠離自苦行邊受諸飲食？謂如說言：為除飢渴、為斷故受、為令新受當不更生、為當存養若力若樂食於所食。云何為攝受梵行受諸飲食？謂如說言：為攝梵行、為得無罪安隱而住食於所食。

> さらに、この中で簡潔な意味を知るべきである。すなわち、対治法を取り入れるためであり、欲楽の行いの極端から遠ざかるためであり、自己の苦行の極端から遠ざかるためであり、清らかな行い（梵行）を取り入れるために、飲食を受けるのである。 いかにして対治法を取り入れて飲食を受けるのか。それは、「正しく思惟して食べ物を食す」と説かれる通りである。 いかにして欲楽の行いの極端から遠ざかって飲食を受けるのか。それは、「戯れのためではなく、驕り高ぶるためではなく、身を飾るためではなく、外見を整えるためではなく、食べ物を食す」と説かれる通りである。 いかにして自己の苦行の極端から遠ざかって飲食を受けるのか。それは、「飢えと渇きを除くためであり、古い受（感覚）を断つためであり、新しい受がさらに生じないようにするためであり、体力と安楽を維持するために、食べ物を食す」と説かれる通りである。 いかにして清らかな行いを取り入れて飲食を受けるのか。それは、「清らかな行いを成就するためであり、罪のない安らかな境涯に安住するために、食べ物を食す」と説かれる通りである。

復次，應知此中略義，謂有二種。一、無所食，二、有所食。

> さらに、ここでの要点を簡潔に示せば、二つある。一つは「食べる物がないこと」、もう一つは「食べる物があること」である。

無所食者，謂一切種都無所食；無所食故，即便夭沒。

> 何も食べないとは、あらゆるものを一切食べないことである。何も食べないために、やがて命を失ってしまう。

有所食者，有其二種。一、平等食，二、不平等食。

> 食べることには、二つの種類があります。第一は「平等な食べ方」、第二は「不平等な食べ方」です。

平等食者，謂非極少食、非極多食、非不宜食、非不消食、非染污食。不平等食者，謂或極少食、或極多食、或不宜食、或不消食、或染污食。

> \*\*平等な食事\*\*とは、極端に少なく食べすぎず、極端に多く食べすぎず、体に合わないものを食べず、消化に悪いものを食べず、心を汚すような執着を伴わずに食べることです。 \*\*不平等な食事\*\*とは、極端に少なく食べすぎること、あるいは極端に多く食べすぎること、または体に合わないものを食べること、消化に悪いものを食べること、あるいは心を汚す執着を持って食べることです。

當知此中，由平等食非極少食，令身飢羸未生不生，已生斷滅。由平等食非極多食，身無沈重，有所堪能，堪任修斷。如前廣說。由平等食非不宜食、非不消食，能斷故受，不生新受；由是因緣，當得存養若力若樂。由平等食非染污食，當得無罪安隱而住。

> ここで知っておくべきことは、適切な食事（平等食）は「極端に少ない食事」ではないということです。極端に少ない食事は、体をやせ衰えさせ、まだ生じていない苦しみを生じさせ、すでに生じているものを断ち切ってしまいます。一方、適切な食事は「極端に多い食事」でもありません。極端に多い食事は、体を重くし、活力を奪い、修行や煩悩の断ち切りに支障をきたします。先に述べたように、適切な食事はそうではありません。 さらに、適切な食事は「不適切な食べ物」や「消化できないもの」ではなく、過去の苦しみ（古い感受）を断ち、新たな苦しみを生みません。このように適切な食事によって、身体の存続と活力、そして安らぎを得ることができます。また、適切な食事は「汚れた執着の食事」ではないので

由極少食，雖存壽命，而有飢羸，亦少存活。由極多食，如極重擔鎮壓其身，不能以時所食消變。由不消食，或住身中成不消病，或生隨一身諸病苦。如不消食，由不宜食，當知亦爾。此不宜食有差別者，謂於身中集諸過患，由此復觸極重病苦。由染污食，非法追求諸飲食已，有染有愛、耽嗜、饕餮，如前廣說而受用之。

> 食事が極端に少なすぎると、命はつながっても飢えとやつれのために、長くは生きられません。 また、食事が極端に多すぎると、重い荷物を背負ったように身体が圧迫され、食べたものを時間通りに消化・変化させることができません。 消化できないと、体内に留まって消化不良の病気になったり、身体の様々な部位に病苦を生じさせます。 消化できない原因としては、体に合わない食べ物の場合も同様であると知るべきです。 ただし「体に合わない食べ物」には違いがあり、それは体内に様々な過剰な害を集め、そのためにさらに極めて重い病苦に悩まされることです。 また、汚れた食事とは、正しい方法によらずに様々な飲食を求めて、執着や愛着、むさぼりや貪りをもって、先に詳しく説いたように享受することです。

由此受用平等所食，及以遠離不平等食，故說於食平等所作。

> このようにして、平等に食を受けること、そして不平等な食を遠ざけることによって、食における平等な行いが説かれるのです。

即此於食平等所作，廣以諸句宣示開顯，所謂說言：由正思擇食於所食，不為倡蕩、不為憍逸、不為飾好、不為端嚴，如前廣說。此中說言：由正思擇食於所食，不為倡蕩、不為憍逸、不為飾好、不為端嚴，為身安住、為暫支持。由此遮止都無所食。若復說言：為除飢渴、為攝梵行，廣說乃至安隱而住。由此遮止不平等食。云何遮止不平等食？謂若說言：為除飢渴。由此遮止所食極少。若復說言：為攝梵行。由此遮止所食極多。若復說言：為斷故受、為令新受當不更生。由此遮止不消而食、食所匪宜。若復說言：為當存養、為當得力。由此顯示不極少食、不極多食。若復說言：為當得樂。由此顯示消已而食，及食所宜。若復說言：為當無罪安隱而住。由此顯示無染污食。所以者何？若以非法追求飲食，得已染愛，如前廣說而受用之，名染污食，亦名有罪。若於善品勤修習者，於住空閑瑜伽作意、受持、讀誦、思惟義中，由彼諸惡不善尋思，令心流漏、令心相續，隨順、趣向、臨入而轉，由是因緣，不安隱住。此安隱住復有二種。一者、遠離所食極多，由是因緣，身無沈重，有所堪能，堪任修斷，如前廣說。二者、於食不生味著，由是因緣，遠離諸惡尋思擾動不安隱住。

> このように、食事に関して平等に行うことを、多くの言葉で示し明らかにしている。すなわち、次のように説かれている。 「正しく思慮して食事をとる。戯れのためではなく、驕りのためでもなく、飾りのためでもなく、見栄えのためでもない。」と、前述の通りである。ここで言う「正しく思慮して食事をとる。戯れのためではなく、驕りのためでもなく、飾りのためでもなく、見栄えのためでもない」とは、体を保ち、一時的に支えるためである。これによって、全く食べないことを防ぐ。 さらに、「飢えや渇きをなくすため、梵行を修めるため」と説かれ、詳しくは「安らかに暮らすため」に至る。これによって、不均衡な食事を防ぐ。 では、どのように不均衡な食事を防ぐのか。 「飢えや渇きをなくすため」と説かれている。これによって、極端に少なく食べることを防ぐ。 「梵行を修めるため」と説かれている。これによって、極端に多く食べることを防ぐ。 「古い感覚を断ち、新たな感覚が再び生じないようにするため」と説かれている。これによって、消化されていないものを食べたり、不適切なものを食べることを防ぐ。 「生きながらえるため、力をつけるため」と説かれている。これによって、極端に少なくも多くもない食事を示す。 「楽を得るため」と説かれている。これによって、消化してから食べること、そして適切なものを食べることを示す。 「罪なく安らかに暮らすため」と説かれている。これによって、汚れのない食事を示す。 なぜなら、もし不法な手段で食べ物を求め、得た後に愛着し、前述のように享受すれば、それは汚れた食事と呼ばれ、また罪のある食事と呼ばれる。一方、善い修行に励む者は、閑静な場所でのヨガの実践、受持、読誦、法義の思索において、それらの悪しき不善の思考によって心が漏れ出し、心が続き、それらに従い、向かい、入り込んで転じる。この因縁によって、安らかに暮らせない。 この安らかな暮らしには、さらに二つの種類がある。 第一に、極端に多く食べることを避けること。これによって、体に重だるさがなく、能力があり、断ち切る修行に耐えられる。先に詳しく述べた通りである。 第二に、食べ物に味着しないこと。これによって、悪しき思考の擾乱から離れ、安らかに暮らせるのである。