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title: "瑜伽師地論 · 2目 廣解四問"
description: "瑜伽师地论是佛教大乘瑜伽行派的重要经典，相传由弥勒菩萨口述，无著菩萨记录，唐代高僧玄奘于贞观年间从印度取回并译成汉文。该论共100卷，系统阐述瑜伽行派的教义，内容包括十七地、三性、八识、修行次第等核心理论，被誉为大乘佛教的百科全书。作为唯识学的根本论典，瑜伽师地论奠定了唯识学派的理论基础，对汉传佛教和藏传佛教影响深远，在佛教思想史上具有崇高地位，是研究唯识学和瑜伽行派必读的经典著作。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cma8zhb9202k7ib04jxc8jwp3"
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言初夜者，謂夜四分中，過初一分，是夜初分。

> 初夜とは、夜を四つに分けたうちの、最初の一つ分が過ぎた時を言います。それが夜の初めの部分です。

言後夜者，謂夜四分中，過後一分，是夜後分。

> 後夜とは、夜を四つに分けたうちの、最後の一つ分（つまり夜の終わりの時間）を指します。これが夜の後半部分です。

覺寤瑜伽者，謂如說言：於晝日分經行、宴坐，從順障法淨修其心。於初夜分經行、宴坐，從順障法淨修其心、淨修心已，出住處外洗濯其足，還入住處，右脇而臥，重累其足，住光明想、正念、正知、思惟起想巧便而臥。至夜後分，速疾覺寤，經行、宴坐，從順障法淨修其心。

> 覚醒瑜伽（さとりのための修行）とは、次のように説かれています。 昼間は、歩く瞑想や座る瞑想を行い、心の妨げとなるもの（五蓋など）から離れて、心を清め修めます。初夜も同様に、歩く瞑想や座る瞑想で心を清めます。心を清めた後、居住所の外に出て足を洗い、再び居住所に戻り、右脇を下にして横になり、足を重ねて置きます。そして、光明の想い、正しい念、正しい知、起床の想いをよくめぐらせながら、巧みに安臥します。夜の後半になると、速やかに目覚め、再び歩く瞑想や座る瞑想を行い、心の妨げとなるものから離れて、心を清め修めるのです。

常勤修習覺寤瑜伽者，謂如有一世尊弟子，聽聞覺寤瑜伽法已，欲樂修學，便依如是覺寤瑜伽，作如是念：我當成辦佛所聽許覺寤瑜伽。發生樂欲，精進勤劬，超越勇猛勢力發起、勇悍、剛決、不可制伏、策勵其心無間相續。

> 常に精進して目覚めの修行に励む人とは、例えば仏陀の弟子が、目覚めの修行法を聞いた後、それを学び実践したいと願い、その修行に従って次のように考える人のことです。「私は仏陀が許された目覚めの修行を成し遂げよう」と。そうして、強い意欲を起こし、努力精進し、勇気を持って力強く立ち上がり、勇敢で断固として揺るがず、心を絶え間なく励まし続けるのです。

此中云何於晝日分經行、宴坐，從順障法淨修其心？

> ここで、昼間の時間帯において、どのように経行や坐禅を行い、心の妨げとなる煩悩から心を清めて修めるのでしょうか。

言晝日者，謂從日出時至日沒時。

言經行者，謂於廣長稱其度量一地方所，若往、若來相應身業。

> 経を行う者とは、広く四方にわたるその領域の場所において、行き来する身体の働きを調和させることをいう。

言宴坐者，謂如有一，或於大床、或小繩床、或草葉座，結加趺坐，端身正願，安住背念。

> 宴坐（えんざ）というのは、次のようなことです。ある人が、大きな寝台や小さな縄床、あるいは草や葉の上に座って、足を組んで座ります。背筋を伸ばし、正しい心構えを持ち、善い想念を心に保ち続けることです。

所言障者，謂五種蓋。順障法者，謂能引蓋、隨順蓋法。

> さて、この「障り」とは、五種類の蓋（煩悩の覆い）を指します。また、「障りを引き起こすもの」とは、この蓋を生じさせ、蓋に従い助長する法（はたらき）のことをいいます。

云何五蓋？謂貪欲蓋、瞋恚蓋、惛沈睡眠蓋、掉舉惡作蓋、及以疑蓋。

> 五つの覆いとは何か。それは、貪りの覆い、怒りの覆い、眠気と怠惰の覆い、落ち着きのなさと後悔の覆い、そして疑いの覆いである。

云何順障法？謂淨妙相，瞋恚相，黑闇相，親屬、國土、不死尋思，追憶昔時笑戲喜樂承事隨念，及以三世或於三世非理法思。

> 順障法とは何か。それは、清らかで美しいと感じる相、怒りの相、暗黒の相、親族・国土・不死についての妄想、過去の笑いや遊び、喜び、楽しみ、仕えたことを思い出すこと、そして三世（過去・現在・未来）あるいは三世にわたって非理なことを思うことである。

問：於經行時，從幾障法淨修其心？云何從彼淨修其心？

> 質問：経行（歩く瞑想）をする時、いくつの障りとなる法（現象）から心を清め修めるのでしょうか。また、どのようにそれらから心を清め修めるのでしょうか。

答：從惛沈睡眠蓋，及能引惛沈睡眠障法，淨修其心。為除彼故，於光明想善巧精懇，善取善思、善了善達。以有明俱心，及有光俱心。或於屏處、或於露處往返經行。於經行時，隨緣一種淨妙境界，極善示現，勸導、讚勵、慶慰其心。謂或念佛、或法、或僧、或戒、或捨、或復念天。或於宣說惛沈睡眠過患相應所有正法，於此法中，為除彼故，以無量門訶責毀呰惛沈睡眠所有過失，以無量門稱揚讚歎惛沈睡眠永斷功德。所謂契經、應頌、記別、諷誦、自說、因緣、譬喻、本事、本生、方廣、希法、及以論議。為除彼故，於此正法聽聞受持，以大音聲若讀、若誦，為他開示，思惟其義，稱量觀察。或觀方隅，或瞻星月諸宿道度，或以冷水洗灑面目。由是惛沈睡眠纏蓋未生不生，已生除遣。如是方便，從順障法淨修其心。

> 答え：昏沈睡眠の蓋、および昏沈睡眠を引き起こす障りの法から心を清めて修める。それを除くために、光明の想いに対して巧みに精励し、よく捉え、よく考え、よく理解し、よく達する。明るさを伴う心や、光を伴う心を持つ。あるいは人目のない所や、露わな場所で行きつ戻りつ経行する。経行する時、因縁に従って一つの清らかで美しい境界を、極めてよく示現し、心を勧め、励まし、称賛し、喜ばせる。すなわち、仏を念じ、あるいは法、僧、戒、施、あるいはまた天を念じる。あるいは、昏沈睡眠の過患について説く正しい教えを宣説し、その教えの中で、それを除くために、無量の方法で昏沈睡眠のすべての過失を責め戒め、無量の方法で昏沈睡眠を永遠に断つ功徳を称賛する。いわゆる経、頌、記別、諷誦、自説、因縁、譬喩、本事、本生、方広、希法、および論議である。それを除くために、この正しい教えを聴聞し受持し、大きな声で読誦し、他人のために開示し、その意味を思惟し、評価し観察する。あるいは方角を観察し、あるいは星月の運行を仰ぎ見、あるいは冷水で顔や手を洗う。これによって昏沈睡眠の纏蓋は、未だ生じていないものは生じず、既に生じたものは除かれる。このようにして、障碍を伴う法から心を清めて修めるのである。

問：於宴坐時，從幾障法淨修其心？云何從彼淨修其心？

> 質問：静かに座っているとき、どのような妨げから心を清めて修行するのでしょうか。また、どのようにしてそれらから心を清めるのでしょうか。

答：從四障法淨修其心。謂貪欲、瞋恚、掉舉惡作、疑蓋，及能引彼法，淨修其心。為令已生貪欲纏蓋速除遣故，為令未生極遠離故，結加趺坐，端身正願，安住背念。

> 四つの妨げとなる法から心を清めるために修行します。それは、貪欲（欲深さ）、瞋恚（怒り）、掉挙悪作（落ち着きのなさと後悔）、疑蓋（疑いの心）であり、またそれらを引き起こす法から心を清めます。すでに生じた貪欲の纏いと蓋（心の覆い）を速やかに除き去るために、まだ生じていないものを遠ざけるために、足を組んで座り、背筋を伸ばして正しく願いを立て、背後に念を置いて安住します。

或觀青瘀、或觀膿爛、或觀變壞、或觀膖脹、或觀食噉、或觀血塗、或觀其骨、或觀其鎖、或觀骨鎖，或於隨一賢善定相作意思惟。或於宣說貪欲過患相應正法，於此法中，為斷貪欲，以無量門訶責毀呰欲貪、欲愛、欲藏、欲護、欲著過失，以無量門稱揚讚歎一切貪欲永斷功德。所謂契經、應頌、記別，乃至廣說。為斷貪欲，於此正法聽聞受持，言善通利、意善尋思、見善通達，即於此法，如是宴坐，如理思惟。由是因緣，貪欲纏蓋未生不生，已生除遣。

> あるいは、青瘀（あおず）を観じ、あるいは膿爛（のうらん）を観じ、あるいは変壊（へんえ）を観じ、あるいは膨脹（ぼうちょう）を観じ、あるいは食噉（じきたん）を観じ、あるいは血塗（けちぬり）を観じ、あるいはその骨を観じ、あるいはその鎖（くさり）を観じ、あるいは骨鎖（こっさ）を観じます。また、そのときどきに優れた善い定めの相について、心によく念じ考えます。あるいは、貪欲の過失について説く、それにふさわしい正しい教えを聞き、その教えの中で、貪欲を断つために、無数の方法で欲や貪り、愛着、執着、我執などの過ちを責め戒め、また無数の方法で、すべての貪欲を永遠に断った功徳を称え讃えます。 いわゆる経典、頌、記別（未来予言）、さらには広く説かれたもののことです。貪欲を断つために、この正しい教えを聞き、受け止め、よく暗誦し、心でよく考え、正しく理解します。こうして、この教えについて、このように静かに座って、理にかなった思惟（しゆい）を行います。 このような因縁によって、貪欲の煩悩や覆いで、まだ生じていないものは生じず、すでに生じたものは取り除かれるのです。

如是方便，從順障法淨修其心。於瞋恚蓋法有差別者，謂如是宴坐，以慈俱心，無怨無敵、無損無惱，廣大無量，極善修習；普於一方發起勝解，具足安住。如是第二、如是第三、如是第四，上下傍布，普遍一切無邊世界發起勝解，具足安住。餘如前說。

> このような善巧な方法によって、心を汚れから離れて清らかに修行するのです。 怒りの心の覆い（瞋恚蓋）に関しては、次のように修行します。すなわち、静かに坐って、慈しみの心と共にあり、怨みも敵もなく、損なうことも悩ますこともなく、広大で限りがなく、極めてよく修習された状態で、まず一方向に対して慈しみの心を向け、その勝解（はっきりとした理解と感受）を起こして、しっかりと安住します。次に第二の方向、第三の方向、第四の方向、さらに上下そして四方八方へと、すべての限りない世界に広げて、この勝解を起こし、しっかりと安住するのです。その他の細かい点については、前に述べた通りです。

於掉舉惡作蓋法有差別者，謂如是宴坐，令心內住，成辦一趣，得三摩地。餘如前說。

> 沈みがちな心や後悔の心の覆いについては、こうして静かに座っている時に、心を内側に落ち着かせ、一つの対象に集中し、三昧（深い瞑想状態）を得ることができる。その他の点は前に述べた通りである。

於疑蓋法有差別者，謂如是宴坐，於過去世，非不如理作意思惟；於未來世、於現在世，非不如理作意思惟。我於過去為曾有耶？為曾無耶？我於過去為曾何有？云何曾有？我於未來為當何有？云何當有？我於現在為何所有？云何而有？今此有情從何而來？於此殞沒當往何所？於如是等不如正理作意思惟，應正遠離。如理思惟去來今世，唯見有法，唯見有事；知有為有，知無為無；唯觀有因，唯觀有果；於實無事不增不益，於實有事不毀不謗。於其實有，了知實有。謂於無常、苦、空、無我一切法中，了知無常、苦、空、無我。以能如是如理思惟，便於佛所無惑無疑。餘如前說。於法、於僧、於苦、於集、於滅、於道、於因，及因所生諸法無惑無疑。餘如前說。

> 疑いや煩悩に覆われた事柄についての分別とは、例えばこのように静かに座っている時に、過去に対して道理に合わない考え方で思いを巡らせることなく、未来に対しても、現在に対しても、道理に合わない考え方で思いを巡らせないことである。 「私は過去に存在したのだろうか？存在しなかったのだろうか？」 「私は過去に何だったのだろうか？どのように存在していたのだろうか？」 「私は未来に何になるのだろうか？どのように存在するのだろうか？」 「私は現在、何を持っているのか？どのように存在しているのか？」 「この人はどこから来たのか？ここで命を終えた後、どこへ行くのか？」 このような道理に合わない考え方で思いを巡らせることは、正しく遠ざけるべきである。 道理に沿って過去・未来・現在を考える時には、ただ存在するもの（法）を見、ただ存在する事柄（事）を見る。存在するものを存在すると知り、存在しないものを存在しないと知る。ただ因を観察し、ただ果を観察する。実在しない事柄に対しては、付け加えたり増やしたりせず、実在する事柄に対しては、否定したり非難したりしない。実際に存在するものについては、それが実際に存在すると正しく理解する。 すなわち、無常・苦・空・無我であるあらゆる事柄において、無常・苦・空・無我であると正しく理解する。 このように道理に沿って考えることができるならば、仏に対して迷いや疑いは生じない。残りは先に述べた通りである。 法や僧、苦しみ、苦しみの原因、苦しみの消滅、苦しみの消滅に至る道、原因、そして原因から生じるあらゆる事柄についても、迷いや疑いは生じない。残りは先に述べた通りである。

又於瞋恚蓋應作是說：為斷瞋恚及瞋恚相，於此正法聽聞受持，乃至廣說。

> また、怒りの心の覆いについては、次のように説くべきです。怒りそのものと、怒りの兆候を断ち切るために、この正しい教えを聞き、受持し、広く説き示すのです。

於掉舉惡作蓋應作是說：為斷掉舉惡作及順彼法，於此正法聽聞受持，乃至廣說。

> （落ち着きのなさと後悔の覆いについては、こう説かれるべきである。）落ち着きのなさと後悔、およびそれに伴う心の状態を断ち切るために、この正しい教えを聞き、受け止め、さらに広く説き明かすのである。

於其疑蓋應作是說：為斷疑蓋及順彼法，於此正法聽聞受持，乃至廣說。

> その疑いの覆いについては、こう説くべきです。「疑いの覆いを断ち切り、その教えに従うために、この正しい教えを聞き、受け止め、保ち、さらには広く説き示すのだ」と。

如是方便，從貪欲、瞋恚、惛沈睡眠、掉舉惡作、疑蓋，及順彼法，淨修其心。是故說言：經行、宴坐，從順障法淨修其心。

> このような善巧方便によって、心を貪欲（とんよく）、怒り（しんい）、眠気（こんじんすいみん）、落ち着きのなさや後悔（じょうきょあくさ）、疑い（ぎがい）の五つの蓋（ごがい）、そしてそれらに付随する汚れから清め、心を浄らかに修めていくのです。 ですから、このように説かれています。「経行（きんひん）や坐禅（ざぜん）によって、心の妨げとなる煩悩から逃れ、心を清らかに修めよ」と。

如是已說由法增上，從順障法淨修其心。復有由自增上及世增上、從順障法淨修其心。

> このように、法をよりどころとして、心を妨げるものから心を清める修行について述べてきました。 さらに、自己をよりどころとする方法と、世間をよりどころとする方法によっても、心を妨げるものから心を清める修行が行われます。

云何名為由自增上？謂如有一，於諸蓋中隨起一種，便自了知此非善法，於所生蓋不堅執著，速疾棄捨、擯遣、變吐。又能自觀此所生蓋，甚可羞恥，令心染惱，令慧羸劣，是損害品。如是名為由自增上，從順障法淨修其心。

> では、「自己をよりどころとする向上」とは何か。例えば、ある人が心の覆い（蓋）のうちの一つを生じさせたとする。すると、その人はすぐに「これは善いことではない」と自ら認識し、生じた覆いに固執せず、速やかに捨て去り、追い出し、吐き出す。さらに、この生じた覆いは大いに恥じるべきものであり、心を汚し悩ませ、智慧を弱らせ、害をもたらすものである、と自ら観察する。これを「自己をよりどころとする向上」と言い、心の妨げとなるものに従いながらも、心を清らかに修める道である。

云何名為由世增上，從順障法淨修其心？謂如有一，於諸蓋中隨一已生，或將生時，便作是念：我若生起所未生蓋，當為大師之所訶責，亦為諸天及諸有智同梵行者以法輕毀。彼由如是世增上故，未生諸蓋能令不生，已生諸蓋能速棄捨。如是名為由世增上，從順障法淨修其心。

> 「世の増上（世間の目を気にする力）によって、どのようにして、心の障りとなるもの（蓋）から逃れて、心を清らかに修めるのでしょうか。」 たとえば、ある修行者が、五つの蓋（貪欲・瞋恚・睡眠・掉挙・疑）のうちの一つがすでに生じているか、まさに生じようとしているときに、こう考えます。 「もし、まだ生じていない蓋を起こしてしまったなら、私は大師（ブッダ）から叱責されるだろう。また、天々や、智慧ある修行仲間たちからも、法に従って非難されるだろう。」 このように、世間の目（世の増上）を気にするゆえに、まだ生じていない蓋は生じさせず、すでに生じた蓋は速やかに捨て去ることができます。これが、「世の増上によって、心の障りとなるものから逃れて、心を清らかに修める」ということなのです。

又為護持諸臥具故，順世儀故。盡夜初分經行、宴坐，從順障法淨修其心。從順障法淨修心已，出住處外洗濯其足。洗濯足已，還入住處，如法寢臥，為令寢臥長養大種。得增長已，長益其身，轉有勢力，轉能隨順無間常委善品加行。

> また、寝具を大切に保管するため、また世俗の礼儀に従うため、夜の初めの間に経行したり坐禅したりして、心を妨げる煩悩に対処しながら心を清めます。心を清めた後、住まいの外に出て足を洗います。足を洗った後、再び住まいに戻り、正しく横になって休みます。それは、横になって休むことで体の要素を養い、それを成長させて身体を健やかにし、活力を高め、途切れることなく常に励み、善い行いを実践できるようにするためです。

問：以何因緣右脇而臥？

> 問：どのような因縁で、右脇を下にして横たわるのですか？

答：與師子王法相似故。

> 師子が王たる法に似ているからです。

問：何法相似？

> 問：どのような法が似ているのでしょうか。

答：如師子王，一切獸中，勇悍堅猛，最為第一。比丘亦爾，於常修習覺寤瑜伽，發勤精進，勇悍堅猛，最為第一。由是因緣，與師子王臥法相似。非如其餘鬼臥、天臥、受欲者臥。由彼一切嬾墮懈怠，下劣精進，勢力薄弱。又法應爾，如師子王右脇臥者，如是臥時，身無掉亂，念無忘失，睡不極重，不見惡夢。異此臥者，與是相違。當知具有一切過失。是故說言：右脇而臥，重累其足。

> 獅子王は、すべての獣の中で勇猛果敢で最も優れています。比丘もまた、常に目覚めのヨーガを修習し、努力を起こし、勇猛果敢で最も優れています。このような理由から、獅子王の寝方に似ています。他の鬼の寝方、天の寝方、欲望を享受する者の寝方とは異なります。彼らはすべて怠惰であり、精進が劣り、力が弱いからです。また、法として当然、獅子王が右脇を下にして臥すように、そのように臥す時、身体に動揺や乱れがなく、念に忘失がなく、眠りが極めて重くなることもなく、悪夢を見ることもありません。これとは異なる臥し方をする者は、これと反対の状態になります。そして、あらゆる過失を持つと知るべきです。それゆえ、「右脇を下にして臥し、足を重ねなさい」と言われています。

云何名為住光明想巧便而臥？謂於光明想善巧精懇，善取善思善、了善達，思惟諸天光明俱心，巧便而臥。由是因緣，雖復寢臥，心不惛闇。如是名為住光明想巧便而臥。

> 光明想に安住し、巧みに横たわるとは何か？ すなわち、光明想を巧みに、かつ精進と誠意をもって修め、よく取り、よく思惟し、よく了知し、よく達することである。諸天の光明と心を共にすることを思惟し、巧みに横たわるのである。 この因縁によって、たとえ横たわっていても、心は昏く暗くなることがない。 これを、光明想に安住し、巧みに横たわると名づける。

云何正念巧便而臥？謂若諸法，已聞、已思、已熟修習，體性是善，能引義利。由正念故，乃至睡夢亦常隨轉；由正念故，於睡夢中亦常記憶，令彼法相分明現前，即於彼法心多隨觀；由正念故，隨其所念，或善心眠、或無記心眠。是名正念巧便而臥。

> 正念をもって巧みに臥すとは、どのようなことか。 すでに聞き、考え、よく修習した善なる性質を持つ法（教え）は、利益を生み出すものである。正念の力によって、眠りの夢の中でも常にその法が心に現れ続ける。また、正念によって眠りの夢の中でもその法を記憶し、その法の相（すがた）を明らかに目の前に現れさせる。そのため、その法に対して心が常に随順して観察するようになる。さらに、正念によって、その時々の念に従い、善心で眠ることも、無記心（善でも悪でもない心）で眠ることもある。これを正念をもって巧みに臥すという。

云何正知巧便而臥？謂由正念而寢臥時，若有隨一煩惱現前，染惱其心。於此煩惱現生起時，能正覺了，令不堅著，速疾棄捨，既通達已，令心轉還。是名正知巧便而臥。

> どのようにして正しい智慧をもって、巧みに横たわるのでしょうか。それは、正しい気づきをもって眠りにつくとき、もし何らかの煩悩が現れ、心を汚し悩ませることがあれば、その煩悩が生じた時に、正しく気づき、それに固執せず、速やかに捨て去ります。そのことを理解したなら、心を元の状態に戻します。これを「正しい智慧をもって巧みに横たわる」と言います。

云何名為思惟起想巧便而臥？謂以精進策勵其心，然後寢臥。於寢臥時，時時覺寤，如林野鹿，不應一切縱放其心，隨順、趣向、臨入睡眠。復作是念：我今應於諸佛所許覺寤瑜伽，一切皆當具足成辦。為成辦故，應住精勤最極濃厚加行欲樂。復作是念：我今為修覺寤瑜伽，應正發起勤精進住。為欲修習諸善法故，應正翹勤，離諸嬾墮，起發具足。過今夜分至明清旦，倍增發起勤精進住，起發具足。

> 「思惟起想の巧便によって臥す」とは、どのようなものか。それは、精進をもって自らの心を励まし、その上で臥すことである。臥している間も、常に目覚めるよう心がけ、野の鹿のように、決して心をゆるめ放ってはならず、眠りに従い、向かい、入り込ませてはならない。また、次のように思うべきである。「私は今、諸仏が許された覚悟の瑜伽を、すべて成し遂げるべきである。それを成し遂げるために、最も濃厚な精進と加行への欲楽に住すべきである。」さらに、次のように思う。「私は今、覚悟の瑜伽を修するために、正しく勤め、精進に住すべきである。諸々の善法を修習するために、正しく奮起し、怠惰を離れ、励み具えよ。今夜を過ごし、明朝を迎えるまで、さらに倍して勤め、精進に住し、励みを具えよ。」

當知此中，由第一思惟起想，無重睡眠，於應起時速疾能起，終不過時方乃覺寤。由第二思惟起想，能於諸佛共所聽許師子王臥如法而臥，無增無減。由第三思惟起想，令善欲樂常無懈廢。雖有失念，而能後後展轉受學，令無斷絕。如是名為思惟起想巧便而臥。

> この中で、第一の「起きることへの思い」により、無駄に寝過ごすことがなく、起きるべき時に素早く目覚め、決して時間を過ぎてから起きることはありません。 第二の「起きることへの思い」により、諸仏が共に認める獅子王の臥所を、正しく、過不足なくとることができます。 第三の「起きることへの思い」により、善い願いや楽しみが常に怠ることなく続きます。たとえ一度忘れてしまっても、その後も繰り返し学び直すことで、途切れることなく続けていきます。 これらを「起きることへの思いを巧みに用いた臥所」と呼びます。

云何至夜後分速疾覺寤，經行、宴坐，從順障法淨修其心？夜後分者，謂夜四分中，過後一分，名夜後分。彼由如是住光明想、正念、正知、思惟起想巧便而臥，於夜中分、夜四分中，過於一分，正習睡眠。令於起時，身有堪能應時而起。非為上品惛沈睡眠纏所制伏，令將起時闇鈍、薄弱、嬾墮、懈怠。由無如是闇鈍、薄弱、嬾墮、懈怠，暫作意時，無有艱難，速疾能起。從諸障法淨修心者，如前應知。

> どのようにして夜の後半に、速やかに目覚め、経行（歩く瞑想）や静坐を行い、妨げとなる煩悩から心を清めて修行するのか。「夜の後半」とは、夜を四つに分けたうちの最後の部分を指す。この修行者は、明かりを想う心、正しい念、正しい知、起きることを思う巧みな心構えを持って臥し、夜の四分の一にあたる時間に睡眠をとるよう正しく習慣づける。そうすることで、起きる時に身体が適応でき、適切な時に起きられる。また、深い昏沈や睡眠の煩悩に強く支配され、起きる時にぼんやりとして弱く、怠惰でだらしなくなることもない。そのようなぼんやり、弱さ、怠惰、だらしなさがないので、少し心を向ければ困難なく、速やかに起きられる。「妨げとなる煩悩から心を清める」とは、先に述べた通りである。

如是廣辯初夜後夜常勤修習覺寤瑜伽已。

> このようにして、初夜と後夜に常に精進して修習する覚寤瑜伽について、詳しく説き明かしました。