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title: "瑜伽師地論 · 1目 廣釋"
description: "瑜伽师地论是佛教大乘瑜伽行派的重要经典，相传由弥勒菩萨口述，无著菩萨记录，唐代高僧玄奘于贞观年间从印度取回并译成汉文。该论共100卷，系统阐述瑜伽行派的教义，内容包括十七地、三性、八识、修行次第等核心理论，被誉为大乘佛教的百科全书。作为唯识学的根本论典，瑜伽师地论奠定了唯识学派的理论基础，对汉传佛教和藏传佛教影响深远，在佛教思想史上具有崇高地位，是研究唯识学和瑜伽行派必读的经典著作。"
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云何名為正知而住？謂如有一，若往、若還正知而住，若覩、若瞻正知而住，若屈、若伸正知而住，持僧伽胝及以衣鉢正知而住，若食、若飲、若噉、若甞正知而住，若行、若住、若坐、若臥正知而住，於覺寤時正知而住，若語、若默正知而住，解勞睡時正知而住。

> では、正しく知って（正知）住するとはどういうことでしょうか？ 例えばある人が、歩いていく時も戻る時も正知して住し、見る時も眺める時も正知して住し、体を曲げる時も伸ばす時も正知して住し、袈裟や衣鉢を持つ時も正知して住し、食べる時も飲む時も噛む時も味わう時も正知して住し、歩く時も立つ時も座る時も寝る時も正知して住し、目覚めている時も正知して住し、話す時も黙っている時も正知して住し、疲れや眠気を解消する時も正知して住します。

若往、若還正知住者，云何為往？云何為還？云何往還正知而住？

> もし行く時も、戻る時も、正しく気づいて行動するとしたら、一体どういうことが「行く」であり、どういうことが「戻る」であり、またどういうことが「行き戻りに正しく気づいて行動する」と言えるのでしょうか。

所言往者，謂如有一，往詣聚落，往聚落間；往詣家屬，往家屬間；往詣道場，往道場間。

> 「往く」とは、例えばある人が村へ行くこと、村々を行き来すること、家族のもとへ行くこと、家族のもとを行き来すること、道場へ行くこと、道場を行き来することを言います。

所言還者，謂如有一，從聚落還，聚落間還；從家屬還，家屬間還；從道場還，道場間還。

> ここで「還る（もどる）」と言うのは、例えばある人が、村から村へ、村と村との間へと還ること。また、家族から家族へ、家族と家族との間へと還ること。また、道場から道場へ、道場と道場との間へと還ることを指します。

所言往還正知住者，謂於自往，正知我往；及於自還，正知我還。於所應往及非所往，能正了知；於所應還及非所還，能正了知。於應往時及非往時，能正了知；於應還時及非還時，能正了知。於其如是如是應往及不應往，能正了知；於其如是如是應還及不應還，能正了知。是名正知。

> 「往還における正知住」とは、自らが赴く時は「私は赴いている」と正しく知り、自らが戻る時は「私は戻っている」と正しく知ることです。また、赴くべき場所と赴くべきでない場所を正しく識別し、戻るべき場所と戻るべきでない場所を正しく識別します。さらに、赴くべき時と赴くべきでない時を正しく識別し、戻るべき時と戻るべきでない時を正しく識別します。そして、こうした状況において、まさに赴くべきことと赴くべきでないこと、戻るべきことと戻るべきでないことを正しく識別します。これが正知と呼ばれるものです。

彼由成就此正知故，自知而往，自知而還；往所應往，非非所往；還所應還，非非所還；以時往還，不以非時。如其色類動止軌則、禮式、威儀，應往應還，如是而往，如是而還。

> 彼はこの正しい知恵を身につけたことで、自ら知りながら進み、自ら知りながら戻る。進むべきところに進み、進むべきでないところには進まない。戻るべきときに戻り、戻るべきでないときには戻らない。時に応じて進み戻り、時節を誤らない。その人の身分や立場にふさわしい、動作や立ち居振る舞い、礼儀作法、威儀のとおりに、進むべき時にはそのように進み、戻るべき時にはそのように戻るのである。

如是名為若往、若還正知而住。

> これが、「行く時も、戻る時も、正しく気づきながら行動する」ということなのです。

若覩若瞻正知住者，云何為覩？云何為瞻？云何覩瞻正知而住？

> 見るときも、また見ようとするときも、正しく知ってとどまるとは、どういうことか。何を見ることをいうのか。何を見ようとすることをいうのか。どのように見ることと見ようとすることが、正しく知ってとどまることになるのか。

所言覩者，謂於如前所列諸事，若往、若還，先無覺慧、先無功用、先無欲樂，於其中間眼見眾色，是名為覩。

> 「覩」とは、前に挙げたような様々な事柄について、行くときも帰るときも、あらかじめ意識せず、特別に努力せず、特に望むこともなく、ただその途中で目が様々な色や形を捉えること、これを「覩」と言います。

所言瞻者，謂於如前所列諸事，若往、若還，覺慧為先、功用為先、欲樂為先，眼見眾色。謂或諸王，或諸王等，或諸僚佐，或諸黎庶，或婆羅門，或諸居士，或饒財寶長者商主，或餘外物、房舍、屋宇、殿堂、廊廟，或餘世間眾雜妙事，觀見此等，是名為瞻。

> 「瞻（みる）」とは、先に述べた様々な事柄に対して、行く時も、帰る時も、まず自覚的な智慧（けん）を先立て、働きかけ（功用）を先立て、喜び願う心（欲楽）を先立てて、眼で色を見ることである。 例えば、王様やその一族、家来たち、庶民、バラモン（修行者）、在家の信者、財宝に富んだ長者や商人、あるいはその他の外にある物や、家・建物・殿堂・宮殿、あるいは世の中の様々な美しい事物――これらを見ることを、『瞻』というのである。

若復於此覩瞻自相，能正了知；於所應覩，於所應瞻，能正了知；於應覩時，於應瞻時，能正了知；如所應覩，如所應瞻，能正了知；是名正知。彼由成就此正知故，自知而覩，自知而瞻；覩所應覩，瞻所應瞻；於應覩時，於應瞻時，而正瞻覩；如所應覩，如所應瞻，如是而覩，如是而瞻。

> もしもここで、自分の見る対象や眺める対象についてありのままに正しく知り、見るべきものを正しく知り、眺めるべきものを正しく知り、見るべき時に正しく知り、眺めるべき時に正しく知り、見るままに、眺めるままに正しく知るならば、それを正知と言います。 その者は、この正知を成就したことによって、自ら知って見、自ら知って眺めます。見るべきものを見、眺めるべきものを眺め、見るべき時に見、眺めるべき時に正しく眺めます。見るままに、眺めるままに、そのように見、そのように眺めるのです。

如是名為若覩、若瞻正知而住。

> このように、見ることや眺めることにおいても、正しく知りながら行動することを、そう名づけるのです。

若屈、若申正知住者，云何為屈？云何為申？云何名為若屈、若申正知而住？

> もし体を曲げたり、伸ばしたりするときに、それを正しく認識して行動するとは、どういうことでしょうか。曲げるとは何か、伸ばすとは何か、そして「曲げるときも伸ばすときも、正しく認識して行動する」とは、どのような状態を指すのでしょうか。

謂彼如是覩時、瞻時，若往為先、若還為先，或屈申足、或屈申臂、或屈申手、或復屈申隨一支節，是名屈申。

> 彼がそのように見るとき、あるいは注意深く観察するとき、もし前に進むときも、もし戻るときも、または足を曲げ伸ばしするとき、腕を曲げ伸ばしするとき、手を曲げ伸ばしするとき、あるいは体の一部の関節を曲げ伸ばしするとき、これを屈伸という。

若於屈申所有自相，能正了知；若所屈申，能正了知；若屈申時，能正了知；若如是屈及如是申，能正了知；是名正知。彼由成就此正知故，於屈於申，自知而屈，自知而申；於所應屈，於所應申，而屈而申；於應屈時，於應申時，而屈而申；如所應屈，如所應申，如是而屈，如是而申。

> もし、曲げることや伸ばすことの一つひとつの性質（自相）を正しく理解し、その行為自体を正しく理解し、曲げ伸ばしを行う時の状態を正しく理解し、「このように曲げる」「このように伸ばす」ということを正しく理解できるならば、それを「正知」と名づける。 その人は、この正知を身につけているからこそ、曲げる時も伸ばす時も、自ら知りながら曲げ、自ら知りながら伸ばす。また、曲げるべき場面で曲げ、伸ばすべき場面で伸ばし、曲げるべき時に曲げ、伸ばすべき時に伸ばす。そして、曲げるべきように曲げ、伸ばすべきように伸ばし、その通りに曲げ、その通りに伸ばすのである。

如是名為若屈、若申正知而住。

> このように、身体を曲げたり伸ばしたりする際にも、正しく気づきをもって行動することを「正知にして住する」と名づけるのです。

持僧伽胝及以衣鉢正知住者，云何持僧伽胝？云何持衣？云何持鉢？云何持僧伽胝及以衣鉢正知而住？

謂有大衣，或六十條、或九條等、或兩重刺，名僧伽胝。

> 大きな法衣（大衣）には、六十条のもの、九条のもの、あるいは二重に縫い合わせたものがあり、これらを僧伽胝（そうぎゃち）と呼びます。

被服受用，能正將護，說名為持。若有中衣，若有下衣，或持為衣，或有長衣，或應作淨，或已作淨，如是一切說名為衣。被服受用，能正將護，說名為持。

> 衣服を身に着け、使い、正しく管理することを「持つ」と言います。 中着、下着、あるいは身に着けるための衣、予備の衣、浄め（せいめ）を施すべきもの、すでに浄めを施したものなど、これらすべてを「衣」と言います。 衣服を身に着け、使い、正しく管理することを「持つ」と言います。

若堪受持或鐵、或瓦乞食應器，說名為鉢。現充受用，能正將護，說名為持。

> もし、受持に耐える鉄製または陶製の托鉢用の器があれば、それを「鉢」と言います。実際に用を満たし、正しく大切に扱うことを「持つ」と言います。

若於如是或僧伽胝、或衣、或鉢所有自相，能正了知；於所應持或僧伽胝、或衣、或鉢或淨不淨，能正了知；若於此時或僧伽胝、或衣、或鉢已持應持，能正了知；若於如是或僧伽胝、或衣、或鉢應如是持，能正了知；是名正知。

> 僧衣や衣、鉢（はち）などの本来の姿を正しく理解し、持つべき僧衣や衣、鉢が清浄か不浄かを正しく見極め、今まさに持つべき僧衣や衣、鉢をすでに持っていることを正しく認識し、僧衣や衣、鉢をこのように持つべきだと正しく知ること、これを「正知（しょうち）」と言います。

彼由成就此正知故，於所應持或僧伽胝、或衣、或鉢，自知而持；於所應持，於應持時，而能正持；如所應持，如是而持。

> 彼はこの正しい知恵を成就したがゆえに、身につけるべき僧伽胝（そうぎゃち）や衣や鉢（はつ）を、自ら知って身につけます。また、身につけるべきものを、身につけるべき時に、正しく身につけることができます。そのように、ふさわしい形で身につけるのです。

如是名為持僧伽胝及以衣鉢正知而住。

> これを持ち物と衣鉢を正しく知りながら生活することと言います。

若食、若飲、若噉、若甞正知住者，云何為食？云何為飲？云何為噉？云何為甞？云何若食、若飲、若噉、若甞正知而住？

> 食べること、飲むこと、噛むこと、味わうことにおいて、正しく知りながら行動するとはどういうことか。何が食べることで、何が飲むことで、何が噛むことで、何が味わうことなのか。そして、どうすれば食べる、飲む、噛む、味わうという行為において、正しく知りながら行動できるのか。

謂諸所有受用飲食，總名為食。此復二種，一、噉，二、甞。

> 食事について述べると、私たちが日々口にする飲食はすべて「食」と呼ばれます。これには、噛んで食べるものと、味わって飲み込むものの二種類があります。

云何為噉？謂噉餅󰉓、或飯、或糜、或羹、或臛，或有所餘造作轉變可噉可食，能持生命。如是等類皆名為噉。亦名為食。

> 「食べる」とはどういうことか。例えば、餅・ご飯・粥・汁物・スープ、またはその他に調理して変化させたもので、食べることができ、命をつなぐことができるもの。このようなものを「食べる」といい、また「食」とも呼ぶ。

云何為甞？謂甞乳、酪、生酥、熟酥、油、蜜、沙糖、魚、肉、醯、鮓，或新果實，或有種種咀嚼品類。如是一切總名為甞，亦名為食。

> 「味わう」とは何か？乳、ヨーグルト、生バター、精製バター、油、蜂蜜、砂糖、魚、肉、酢、漬け物、あるいは新鮮な果物や様々な噛む食べ物などを味わうことである。これらすべてを総じて「味わう」と言い、また「食する」とも言う。

云何為飲？謂沙糖汁、或石蜜汁、或飯漿飲、或鑽酪飲、或酢為飲、或抨酪飲，乃至於水，總名為飲。

> 飲むものとは何か。それは、砂糖の汁、あるいは氷砂糖の汁、または粥の上澄み、または固まった乳を溶かしたもの、または酢を用いた飲み物、またはかき混ぜた酪（乳製品）の飲み物、さらには水に至るまで、これらを総称して「飲み物」と呼ぶのである。

若於如是若食、若飲、若噉、若甞所有自相，能正了知；若於一切所食、所飲、所噉、所甞，能正了知；若於爾時應食、應飲、應噉、應甞，能正了知；若於如是應食、應飲、應噉、應甞，能正了知；是名正知。

> 食べる時、飲む時、噛む時、味わう時に、そのものの本来の姿を正しく理解すること。あらゆる食べ物や飲み物を口にする時に、それを正しく理解すること。いつ、どのようなものを食べ、飲み、噛み、味わうべきかを正しく理解すること。これこそが正知（しょうち）と呼ばれるものです。

彼由成就此正知故，於自所有若食、若飲、若噉、若甞自知而食，自知而飲，自知而噉，自知而甞；於所應食，於所應飲，於所應噉，於所應甞，正食、正飲、正噉、正甞；應時而食，應時而飲，應時而噉，應時而甞；如所應食乃至如所應甞，如是而食乃至如是而甞。

> 彼は、この正しい知識を身につけたことにより、自分自身の持ち物である食べ物や飲み物について、食べるときも、飲むときも、味わうときも、それを知りながら行います。食べるべきもの、飲むべきもの、味わうべきものを、正しく食べ、正しく飲み、正しく味わいます。また、時にかなって食べ、時にかなって飲み、時にかなって味わいます。そして、食べるべきものや味わうべきものに応じて、そのように食べ、そのように飲み、そのように味わうのです。

如是名為若食、若飲、若噉、若甞正知而住。

> これが「食事をするとき、飲むとき、噛むとき、味わうとき、すべてを正しく理解して生活すること」という意味です。

若行、若住，廣說乃至若解勞睡正知住者，云何為行？云何為住？云何為坐？云何為臥？云何覺寤？云何為語？云何為默？云何名為解於勞睡？云何於行，廣說乃至於解勞睡正知而住？

> 歩いているとき、立っているとき、あるいは休息や眠気を解消しながら正しく気づいているとき、その「行」とは何か。「住」とは何か。「坐」とは何か。「臥」とは何か。「覚醒」とは何か。「語」とは何か。「黙」とは何か。そして、「休息や眠気を解消する」とはどういうことか。また、歩くことから休息や眠気を解消することに至るまで、正しく気づいて行動するとは、いったいどのようなことなのか。

謂如有一，於經行處來往經行，或復往詣同法者所，或涉道路。如是等類，說名為行。

> ある人が、経行（歩く瞑想）のために歩き回ったり、あるいは同じ修行仲間のところへ行ったり、道を歩いたりする。このようなことを「行（歩くこと）」という。

復如有一，住經行處，住諸同法阿遮利耶、鄔波拕耶，及諸尊長、等尊長前。如是等類，說名為住。

> また、ある人は、経行（歩く瞑想）の場所にいながら、同じ教えを実践する師（アーチャリヤ）や教師（ウパディアーヤ）、さらに尊い方々やそれに準ずる方々の前にいることを「住」と名づける。このような様々なあり方を、住というのである。

復如有一，或於大床、或小繩床、或草葉座、或諸敷具、或尼師檀，結加趺坐，端身正願，安住背念。如是等類、說名為坐。

> また、ある人は、大きな寝台の上であろうと、小さな縄の床であろうと、草や葉の座であろうと、様々な敷物の上であろうと、あるいは座布団（尼師檀）の上であろうと、結跏趺坐（あぐらを組んで）し、身体をまっすぐに整え、正しい願いを立て、心を落ち着けて過去を顧みない。このようなことを、一般に「坐る」と言うのです。

復如有一，出住處外洗濯其足，還入住處，或於大床、或小繩床、或草葉座、或阿練若、或在樹下、或空閑室，右脇而臥，重疊其足。如是等類，說名為臥。

> ある人が住まいの外で足を洗い、再び室内に戻り、大きな寝台、あるいは小さな縄の寝台、あるいは草や葉を敷いた座、あるいは静かな林の中、木の下、または閑静な部屋で、右わきを下にして重ねた足を横たえる。このようなことを「臥」と名づける。

復如有一，於晝日分經行、宴坐，從順障法淨修其心；於初夜分、於後夜分經行、宴坐，從順障法淨修其心；說名覺寤。

> また、ある人は、昼間にあちらへ歩き、坐って静かに瞑想し、心の妨げとなるものを払って心を清めます。そして、夜の初めの時間にも、夜の終わりの時間にも、同じように歩き、坐って、心の妨げを払い、心を清めます。これを「覚醒している」と言います。

復如有一，常勤修習如是覺寤，於未受法正受正習，令得究竟。所謂契經、應頌、記別，廣說如前。即於如是已所受法，言善通利，謂大音聲若讀、若誦。或復為他廣說開示。於時時間，與諸有智同梵行者，或餘在家諸賢善者，語言談論，共相慶慰，為欲勸勵及求資具。如是等類，說名為語。

> また、ある人が常に熱心にこのような目覚めを修習し、まだ受けていない法（教え）を正しく受け、正しく習うことで、究極に至らせる。いわゆる経典、頌、記別（分別して説明すること）など、先に述べたように広く説かれる。そして、すでに受けた法を、言葉巧みに完全に理解し、大きな声で読誦したり、あるいは他の人のために広く説いて示したりする。時おり、智慧ある同じ修行者や、在家の善き人々と共に言葉を交わし、談論し、互いに喜び励まし合い、また、励ましや必要な道具を求める。このような種類のものを「語」と呼ぶ。

復如有一，隨先所聞、隨先所習言善通利究竟諸法，獨處空閑，思惟其義，籌量觀察。或處靜室，令心內住、等住、安住，及與近住、調伏、寂靜、最極寂靜、一趣、等持。或復於彼毘鉢舍那修瑜伽行。如是等類，說名為默。

> また、ある者は、かつて聞き学んだ教えをよく習熟し、十分に理解して、静かな場所に独りで、その意味を深く考え、観察する。あるいは静かな部屋で、心を内に留め、安らかにとどめ、近づき、調え、静けさへと導き、最も静かな境地へ至らせ、一点に集中し、平等に保つ。あるいはまた、毘鉢舎那（観）の修行に励む。このような者を、「黙（もく）」という。

復如有一，於其熱分極炎暑時，或為熱逼、或為劬勞，便生疲倦，非時惛寐，樂著睡眠，是名勞睡。

> さらに、ある人が非常に暑い時期に、激しい暑さに苛まれるか、あるいは過度の疲労によって疲れ果て、そのために無理に眠ろうとしたり、睡眠に執着したりすることを、「労睡（ろうすい）」と呼びます。

若復於行，廣說乃至於解勞睡所有自相，能正了知。於所應行，乃至於應所解勞睡，能正了知。於應行時，乃至於應解勞睡時，能正了知。如所應行，乃至如所應解勞睡，能正了知。是名正知。

> 行について、さらに広く説明すれば、疲れや眠気を解消することに至るまでの、すべてのものの本来の姿（自相）を、正しく理解することです。なすべき行いについて、疲れや眠気を解消すべきことについて、正しく理解すること。行うべき時に、疲れや眠気を解消すべき時に、正しく理解すること。なすべき行いに従い、疲れや眠気を解消すべきことに従って、正しく理解すること。これを正知（しょうち）と呼びます。

彼由成就此正知故，於其自行乃至於其自解勞睡，正知而行乃至正知而解勞睡；若所應行乃至若所應解勞睡，即於彼行乃至於彼解於勞睡；若時應行乃至若時應解勞睡，即此時行乃至此時解於勞睡；如所應行乃至如所應解勞睡，如是而行乃至如是而解勞睡。如是名為於行、於住、於坐、於臥、於其覺寤、於語、於默、於解勞睡正知而住。

> 彼はこの正知を成就したことにより、自らの行いから自らの疲れを解くための睡眠に至るまで、正知をもって行動し、正知をもって疲れを解くための睡眠をとります。なすべき行いからなすべき疲れを解くための睡眠に至るまで、その行いにおいて、またその疲れを解くための睡眠において、そうします。時に行うべきことから時に疲れを解くための睡眠をとるべきことに至るまで、その時に行い、その時に疲れを解くための睡眠をとります。なすべき行いのままに、なすべき疲れを解くための睡眠のままに、そのように行い、そのように疲れを解くための睡眠をとります。これを、行・住・坐・臥・覚醒・語・黙・疲れを解くための睡眠において、正知をもって住する、と名づけます。

復次，如是正知而住，云何次第？為顯何事？

> 次に、このように正しく知りながら生活するとは、どのような順序によるものなのでしょうか。また、それは何を明らかにするためのものでしょうか。

謂如有一，依止如是村邑、聚落、亭邏而住，作是思惟：我今應往如是村邑、聚落、亭邏巡行乞食。如是乞已，出還本處。

> ある人が、こんな村や町や宿場を頼りに住んでいて、こう考えたとしよう。「さて、私は今からこの村や町や宿場に行って、托鉢して歩こう。」そうして托鉢を終えて、元の場所に戻って来たとする。

又於如是村邑等中，或有居家我不應往。何等居家？謂唱令家、或酤酒家、或婬女家、或國王家、或旃荼羅、羯恥那家；或復有家一向誹謗，不可迴轉。

> また、このような村や町において、私が訪れるべきでない家々もある。どのような家々かというと、芸人や役人の家、または酒を売る家、あるいは遊女の家、王族の家、さらに屠殺者や蔑まれた職業の家々である。あるいは、頑なに誹謗し、決して改心しない家にも行くべきではない。

或有居家我所應往。謂剎帝利大族姓家、或婆羅門大族姓家、或諸居士大族姓家、或僚佐家、或饒財家、或長者家、或商主家。

> あるいは在家の私が訪れるべきところは、クシャトリヤの大氏族の家、バラモンの大氏族の家、あるいは在家の大氏族の家、役人の家、裕福な家、長者の家、商人の家などである。

又有居家我雖應往，不應太早太晚而往。若施主家有遽務時，亦不應往；若戲樂時、若有營搆嚴飾事時、若為世間弊穢法時、若忿競時，亦不應往。

> また、在家（ざいけ）の人のもとへは、行くべき時があっても、あまり早すぎたり遅すぎたりしてはならない。 施主の家に急用があるとき、遊びや楽しみの最中、何かを建てたり飾ったりしているとき、世間の汚れた行いをしているとき、あるいは怒りや争いごとをしているときも、行くべきではない。

又如所往，如是應往。不與暴亂惡象俱行，不與暴亂眾車、惡馬、惡牛、惡狗而共同行，不入鬧叢，不蹈棘刺，不踰垣牆，不越坑塹，不墮山岸，不溺深水，不履糞穢。應隨月喻往施主家，具足慚愧，遠離憍傲，盪滌身心，不求利養，不希恭敬。如自獲得所有利養，心生喜悅，如是於他所得利養，心亦喜悅。不自高舉，不輕蔑他，心懷哀愍。又應如是自持其心，往施主家。豈有出家往詣他所，要望他施非不惠施，廣說乃至要當速疾而非遲緩。又作是心：我於今假往施主家，所受施物應知其量。又我不應利養因緣，矯詐虛誑、現惑亂相、以利求利。得利養已，無染、無愛，亦不耽嗜、饕餮、迷悶、堅執、湎著而受用之。

> さらに、赴くところに応じて、そのように赴くべきである。暴れ狂う悪象と共に行かず、暴れ狂う車、悪馬、悪牛、悪狗と共に行かず、人混みに入らず、茨を踏まず、塀を越えず、堀を越えず、崖から落ちず、深い水に溺れず、汚物を踏まない。月の喩えに従って施主の家に赴き、慚愧を具え、驕りを遠ざけ、身心を清め、利養を求めず、恭敬を望まない。自ら得る全ての利養に心から喜びを生じるように、他人が得る利養に対しても、心から喜ぶ。自ら高ぶらず、他を軽蔑せず、慈しみの心を抱く。また、このように心を保ち、施主の家に赴くべきである。出家者が他に赴いて、施しを望み、施されないことを願わないどうかは言うまでもなく、広く説けば、速やかに行うべきで、遅延してはならない。また、こう心に誓うべきである。「私は今、仮に施主の家に赴くが、受ける施物はその分量をよく知るべきである。また、私は利養の因縁によって、偽り、欺き、惑わす相を示し、利益によって利益を求めてはならない。利養を得たならば、それに染まらず、愛着せず、また貪り、むさぼり、迷い、固執し、溺れて受用してはならない。」

復於已往或正往時，觀見眾色，於此眾色一分應觀，或有一分所不應觀。於不應觀所有眾色，當攝其眼，善護諸根；於所應觀所有眾色，應善住念而正觀察。何色類色所不應觀？

> 過去、または現在において、様々な形あるものを見るとき、その中には見るべきものと見るべきでないものがある。見るべきでない形あるものに対しては、目を制御し、感覚の働きをしっかりと守らねばならない。一方、見るべき形あるものに対しては、よく心を留めて正しく観察するべきである。では、どのような種類の色が、見るべきでないのだろうか。

謂諸伎樂戲笑歡娛，或餘遊戲所作歌舞音樂等事；如是復有母邑殊勝，幼少盛年，美妙形色；或復有餘所見眾色，能壞梵行、能障梵行、能令種種諸惡不善尋思現行。如是色類所有眾色，不應觀視。何色類色是所應觀？謂諸所有衰老朽邁上氣者身、傴僂憑杖戰掉者身。

> あらゆる音楽や笑い、娯楽、あるいは遊びや歌舞音曲などのことがある。 また同様に、女性の優れた姿、若く盛りの年頃で、美しい容姿や色つやがある。 さらにその他に見られるあらゆる色（視覚対象）で、清らかな修行を破り、清らかな修行を妨げ、様々な悪しき不善の思いが生じさせるものがある。 このような種類のあらゆる色（視覚対象）は、見るべきではない。 では、どのような種類の色が、見るべきものなのか。 それは、すべての老いて衰え、息も絶え絶えの体、腰の曲がった杖につかまり震える体である。

或諸疾苦重病者身，腳腫、手腫、腹腫、面腫、膚色萎黃、瘡癬、疥癩、眾苦逼迫、身形委頓、身形洪爛、諸根闇鈍。

> あるいは重い病に苦しむ者、足の腫れ、手の腫れ、腹の腫れ、顔の腫れ、皮膚の色が衰えて黄色くなること、できものや湿疹、かゆみを伴う皮膚病、数々の苦しみに責められ、体は衰え、爛れ、五感も鈍くなっている。

或有夭喪，死經一日、或經二日、或經七日，被諸烏鵲、餓狗、鵄鷲、狐狼、野干種種暴惡傍生禽獸之所食噉。

> あるいは命を落として、死後一日、あるいは二日、あるいは七日を経た者が、烏や鵲、飢えた犬、鵄鷲、狐、狼、野干など、様々な残酷な畜生や鳥獣に食い荒らされることになります。

或命終已，出置高床，上施幰帳，前後大眾或哀或哭，以其灰土塵坌身髮，生愁、生苦、生悲、生怨、生憂、生惱。如是等類所有眾色，我應觀察。觀是眾色，能順梵行、能攝梵行、能令諸善尋思現行。

> あるいは死後、高床に安置され、その上に天幕が張られ、前後の大衆が悲しみ泣き叫び、灰や土を自らの体や髪にまぶし、愁い・苦しみ・悲しみ・怨み・憂い・悩みを生じる。このようなあらゆる相（すがた）について、私はよく観察すべきである。この相を観察することで、清らかな行いに沿い、清らかな行いを保ち、善い心の働きを生じさせることができる。

不應搖身、搖臂、搖頭、跳躑、携手、叉腰、竦肩入施主家，不應輒坐所不許座，不應不審觀座而坐，不應放縱一切身分，不應翹足、不應交足、不太狹足、不太廣足，端嚴而坐。

> 施主の家に入るときは、体を揺らしたり、腕を振ったり、頭を振ったり、跳ねたり、手を組んだり、腰に手を当てたり、肩をすくめたりしてはいけません。許可されていない座席に勝手に座ってはいけません。座る前にその座席をよく確認せずに座ってはいけません。体のすべての部分をだらしなくしてはいけません。足を上げたり、足を組んだり、足を狭く開きすぎたり、広く開きすぎたりせず、端正に座りなさい。

不應開紐、不軒、不磔，亦不褰張而被法服；所服法衣並皆齊整，不高、不下、不如象鼻；非如多羅樹間房穗、非如龍首、非如豆摶而被法服。不應持鉢預就其食，不應持鉢在飲食上，不應置鉢在雜穢處、若坑㵎處、若崖岸處。

> 衣の合わせ目を開かず、広げもせず、引き裂きもせず、またまくり上げずに法服を着ること。着る法衣はすべて整えて、高すぎもせず、低すぎもせず、象の鼻のようでもなく、多羅樹の間の穂のようでもなく、龍の頭のようでもなく、豆の団子のようでもなく法服を着ること。鉢を持ってあらかじめその食事に出向かず、鉢を食べ物や飲み物の上に置かず、鉢を汚れた場所、穴の開いた場所、崖のふちなどに置いてはならない。

又應次第受用飲食。不應以飯覆羹臛上，不以羹臛覆其飯上，不應饕餮受諸飲食，不應嫌恨受諸飲食，不太麁食、不太細食，不應圓摶食，不應舐手、不應舐鉢，不振手食、不振足食，不應齧斷而食其食。

> 食事をするときは、順序よくいただきましょう。 \* ご飯の上に汁物をかけたり、その逆をしてはいけません。 \* 欲張ってむさぼり食ってはいけません。 \* 不満や怒りの気持ちで食事をしてはいけません。 \* 一口を大きすぎず、小さすぎずにしましょう。 \* 食べ物を丸めて口に入れてはいけません。 \* 手や鉢を舐めてはいけません。 \* 手や足を振りながら食べてはいけません。 \* 食べ物をかじり切って食べるようなことは避けましょう。

從施主家還歸住處，於晝夜分，在自別人所經行處往反經行；非於他處、非不委處、非不恣處、非不與處而輒經行。非身劬勞、非身疲倦、非心掉舉所制伏時而習經行。為修善品、為善思惟，內攝諸根、心不外亂而習經行，不太馳速、不太躁動，亦非一向專事往來而習經行，時時進步、時時停住而習經行。如是於自所居住處、自院自房自別人處、僧分與處、非於他處、非不委處、非不恣處習經行已。復於大床，或小繩床，或草葉座，或尼師壇，或阿練若、樹下、塚間、或空閑室，結加趺坐，端身正願，安住背念，而習宴坐。

> 施主の家から戻って自分の住処に着いたら、昼夜の別なく、自分のために割り当てられた場所で経行する。他人の場所や、許可なく、あるいは確認せずに勝手に経行してはならない。 身体を酷使したり、疲労で倒れたり、心が動揺している時に、むりやり経行をしてはならない。 善い心を育て、良き思索のために、感覚を内に引き締め、心を散乱させずに経行する。あまり速すぎず、苛だたしくもなく、ただ無心に行ったり来たりするだけでなく、時には前進し、時には立ち止まって経行する。 このように、自分の居住地、自分の庭、自分の部屋、割り当てられた場所、僧院から与えられた場所で、他人の場所や、許可なく、確認せずに経行を終えたなら。 次に、大きな寝台、小さな縄の寝台、草の葉の座、坐具、あるいは林の中、樹の下、墓場、または閑かな部屋で、結跏趺坐し、身体をまっすぐにし、正しい誓いを立て、背念を安んじて、坐禅を修行するのである。

於夜中分如法寢息，於晝日分及夜初分，修諸善品不應太急。如是寢時，應如前說，住光明想、正念、正知、思惟起想。於夜後分速疾覺寤。

> 夜中は、正しい作法に従って休息を取りなさい。昼間と夜の初めに善い行いを修めるときは、あまり性急にし過ぎてはいけません。休息を取る際は、先に述べたように、光明の想念を持ち、正しく念い、正しく知り、起き上がる想いを思い巡らして行いなさい。夜の終わりには、速やかに目覚めなさい。

或於語論、或於讀誦，勤修加行。或為修斷，閑居宴默思惟法時，應當遠離順世典籍，綺字、綺句、綺飾文詞，能引無義，不能令證神通等覺、究竟涅槃。

> あるいは議論において、あるいは読誦において、努力精進して修行するとき。あるいは修行や断ち切りのために、静かに閑居して思索にふけるときは、世間の世俗的な典籍や、飾りたてた言葉・飾りたてた文句・飾りたてた文章表現から遠ざかるべきです。それらは無意味なものへ導き、神通力や悟り、究極の涅槃へと至らせることができません。

復於如來所說正法，最極甚深、相似甚深空性相應，隨順緣性及諸緣起，殷重無間善攝善受，令堅、令住、令無失壞，為成正行，不為利養恭敬稱譽。又於是法言善通利、慧善觀察，於諠雜眾不樂習近、不樂多業、不樂多言，於時時間安住正念。與諸有智同梵行者，語言談論，共相慶慰，樂興請問，樂求諸善，無違諍心。言詞稱量、言詞合理、言詞正直、言辭寂靜，樂勤為他宣說正法。

> 仏が説かれた正しい教えは、極めて深遠で、似て非なる深さを持つ空性に相応し、縁起の道理に従ったものである。この教えを、真剣に怠ることなく、よく受け止め、よく保ち、確固として揺るぎなく、失われたり壊れたりしないように保ちなさい。それは正しい行いを成就するためであり、利益や供養、称賛を得るためではない。 さらに、この教えを言葉として巧みに理解し、智慧をもってよく観察しなさい。騒がしい大衆に親しむことを好まず、多くの雑務を好まず、多くの言葉を好まず、時々刻々、正しい念に安住しなさい。そして、智慧ある同じ梵行を実践する者たちとともに、言葉を交わし、互いに慰め合い、質問をすることを喜び、諸々の善を求めることを喜び、争いごとを起こさない心を持ちなさい。 言葉はよく考えられ、道理にかなり、正直で、静かであり、喜んで精進して他者に正しい教えを説きなさい。

又應宴默，於惡不善所有尋思不樂尋思，又於非理所有諸法不樂思惟。於自所證，離增上慢；於少下劣差別證中，不生喜足；於上所證中無退屈；善能遠離不應思處，時時修習止觀瑜伽，樂斷樂修，無間修習、殷重修習。

又於熱分極炎暑時，勇猛策勵，發勤精進，隨作一種所應作事，勞倦因緣，遂於非時發起惛睡。為此義故，暫應寢息，欲令惛睡疾疾除遣，勿經久時，損減善品、障礙善品。於寢息時，或關閉門，或令苾芻在傍看守，或毘奈耶隱密軌則，以衣蔽身，在深隱處須臾寢息，令諸勞睡皆悉除遣。

> また、暑さが特に厳しい時期には、勇ましく励み、熱心に努力して、何か一つの為すべき事を行った後、疲れや眠気が生じ、そのために本来の時ではないのに眠くなることがあります。こうした理由から、一時的に休息を取るべきです。その眠気を速やかに解消し、長引かせて善い行いを減らしたり妨げたりしないようにするためです。休息の際には、戸を閉めるか、あるいは比丘を傍に見張りに立てるか、律に従った密かな作法として衣で身を覆い、人目につかない深い場所でしばらく休息し、疲れや眠気を全て取り除くべきです。

如是名為正知而住先後次第。謂依行時及依住時。

> これが、正しく知りながら行動するための、行動時と休息時における前後の順序の説明である。

又於善品先未趣入，心興加行如理作意俱行妙慧，說名正知。即此正知，行時、住時，一切成辦無所減少，如是名為正知而住。

> さらに、善い行いに対してまだ取り組んでいない人が、心を奮い起こして努力し、道理にかなった考えと共に働く優れた智慧のことを、正知（しょうち）と呼びます。この正知をもって行動し、とどまるとき、すべてのことが滞りなく成し遂げられます。これこそが、「正知して住する」という意味です。

當知此中，若往、若還、若覩、若瞻、若屈、若申、持僧伽胝及以衣鉢、若食、若飲、若噉、若甞正知而住，由是名為於村邑等如法行時正知而住。

> この修行において、歩を進める時、引き返す時、見る時、眺める時、体を曲げる時、伸ばす時、袈裟や衣鉢を身に着ける時、食事をする時、飲み物を飲む時、噛む時、味わう時、すべてを正しく意識して行動することを「正知而住」と言います。これにより、村や町などでの正しい行いにおいて、常に正しい気づきを保ちながら行動することができるのです。

若行、若住、若坐、若臥、若習覺寤、若語、若默、若解勞睡正知而住，由是名為於其住處如法住時正知而住。

> 歩くとき、立つとき、座るとき、横たわるとき、目を覚ましているとき、話すとき、黙っているとき、疲れや眠気に対処するとき、常に正しく気づいて（正念をもって）行動する。このことから、その場所で道理にかなった生活を送っているときは、常に正しく自覚している（正知）と呼ばれるのである。

如是應知已廣分別正知而住。