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title: "瑜伽師地論 · 2目 標釋(十四問答)"
description: "瑜伽师地论是佛教大乘瑜伽行派的重要经典，相传由弥勒菩萨口述，无著菩萨记录，唐代高僧玄奘于贞观年间从印度取回并译成汉文。该论共100卷，系统阐述瑜伽行派的教义，内容包括十七地、三性、八识、修行次第等核心理论，被誉为大乘佛教的百科全书。作为唯识学的根本论典，瑜伽师地论奠定了唯识学派的理论基础，对汉传佛教和藏传佛教影响深远，在佛教思想史上具有崇高地位，是研究唯识学和瑜伽行派必读的经典著作。"
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云何名為具足正信？謂多淨信、多正敬順、多生勝解、多善欲樂。於諸善法及大師所深生淨信，無惑無疑；於大師所恭敬尊重承奉供養；既修如是恭敬尊重承奉供養，專心親附，依止而住。如於大師，如是於法同梵行者、於諸所學教授教誡、於修供養、於無放逸、於三摩地，當知亦爾。如是名為具足正信。

> 「正しい信仰を身につける」とは、どのようなことでしょうか。 それは、清らかな信の心が豊かであり、正しく敬い従う心が充実し、深い理解が生まれ、善いことへの願いが強い状態をいいます。 あらゆる善い教えと、大師（師匠）に対して、深く清らかな信の心を起こし、迷いや疑いがありません。大師を敬い、尊重し、お世話をし、供養します。 そのように敬い、尊重し、お世話し、供養したならば、心を込めて師に親しみ寄り添い、依拠してとどまります。 大師に対してそうであるように、教えに対しても、共に修行する仲間（梵行者）に対しても、学ぶべき教えや戒めに対しても、修行のための供養に対しても、怠らないこと（不放逸）に対しても、心の統一（三昧）に対しても、同じようにすべきであると知ってください。 これが「正しい信仰を身につける」ということなのです。

云何名為無有諂曲？謂有純質，為性正直，於其大師及諸有智同梵行所，如實自顯。如是名為無有諂曲。

> どのようなことを「媚びへつらいがない（無諂曲）」と言うのでしょうか。それは、素直な性質を持ち、生まれつき正直で、自分の師や、智慧のある共に修行する仲間たちに対して、ありのままの自分を隠さず示すことです。これが「媚びへつらいがない」ということなのです。

云何名為少諸疾病？謂性無病、順時變熟、平等執受、不極溫熱、不極寒冷、無所損害，隨時安樂。由是因緣，所食、所飲、所噉、所甞、易正變熟。如是名為少諸疾病。

> 少ない病気とはどういうものか？生まれつき病気がなく、季節に合わせて適切に消化され、体調が安定していること。体が過度に暑くなったり、過度に冷えたりせず、害を受けることなく、いつでも安らかであること。このような理由から、食べたり飲んだり味わったりするものが、適切に消化される。これが少ない病気と呼ばれるものである。

云何名為性勤精進？謂能安住有勢、有勤、有勇、堅猛，於善法中能不捨軛，翹勤無惰，起發圓滿，能有所作，於諸有智同梵行者躬自承奉。如是名為性勤精進。

> では、性勤精進（しょうごんしょうじん）とは、どのようなものか。 それは、いつも勢いがあり、怠らず、勇気があり、しっかりと強く、善い行いから決して離れず、心を奮い立たせて怠ることがなく、行動を始めて最後までやり遂げ、必要なことをなしとげ、また智慧ある同じ修行の仲間に対しては、自ら進んで尽くすことである。 これを、性勤精進という。

云何名為成就妙慧？謂聰、念、覺、皆悉圓滿。根不闇鈍、根不頑愚、亦不瘖瘂，非手代言，有力能了善說、惡說所有法義，具足成就俱生覺慧，具足成就加行覺慧。如是名為成就妙慧。

> 「優れた智慧をそなえる」とは、どのようなことを言うのでしょうか。それは、聡明さ、記憶力、そして気づきの力が、すべて十分にそなわっていることです。感覚器官が鈍くなく、頑固でも愚かでもなく、言葉も不自由ではありません。手で物を示して代わりに話してもらうようなこともなく、良い教えと悪い教えのすべての意味をしっかりと理解する力を持ち、生まれながらの気づきの智慧と、努力によって培われる気づきの智慧の両方をそなえています。このような状態を「優れた智慧をそなえる」と名づけるのです。

云何少欲？謂雖成就善少欲等所有功德，而不於此欲求他知。謂他知我具足少欲，成就功德。是名少欲。

> どのように「少欲」というのでしょうか。それは、たとえ善い行いや徳を積んでいても、それを他人に知られたいと思わないことです。つまり、「私は欲が少なく、徳を備えている」と他人に思われたいと願わないこと、これが「少欲」と呼ばれるのです。

云何喜足？謂於隨一衣服、飲食、臥具等事，便生歡喜，生正知足。於所未得所有衣服，或麁或妙，更無悕望、更無思慮；於所已得不染不愛，如前廣說而受用之。如於衣服，於其飲食、臥具等事，當知亦爾。是名喜足。

> 嬉足とは、与えられた衣服、食事、寝具などの物事に対して、ただちに喜びを感じ、正しく満足することをいいます。 まだ得ていない衣服について、粗いものであれ上等なものであれ、それ以上に望むこともなく、思い悩むこともありません。すでに得たものに対しては、先に広く説かれたように、執着せず愛着せず、それを受け入れて用います。 衣服についてそうであるように、食事や寝具などの物事についても、同じように理解すべきです。これが「嬉足」と呼ばれるものです。

云何易養？謂能獨一自得怡養，不待於他，或諸僮僕、或餘人眾。又不追求餘長財寶，令他施者、施主等類謂為難養。是名易養。

> \*\*やさしく養われるとはどういうことか。\*\* それは、ただ一人で自分自身を楽しく養うことができ、他人や召使、あるいは他の大勢の人々に頼ることがないということです。 また、余分な財産や宝を求めて、施しをする人や施主などに「養いにくい人だ」と思われることもありません。 これを「やさしく養われる」といいます。

云何易滿？謂得微少，便自支持；若得麁弊，亦自支持。是名易滿。

> 仏の教えに「満たされやすさ」とは何かと言うと、たとえごくわずかな物を得ても、それで自分を支えられること。また、粗末な物を得ても、それで支えられること。これを「満たされやすさ」と言うのです。

云何成就杜多功德？謂常期乞食、次第乞食、但一坐食、先止後食、但持三衣、但持毳衣、持糞掃衣、住阿練若、常居樹下、常居逈露、常住塚間、常期端坐、處如常坐。如是依止若食、若衣、若諸敷具杜多功德，或十二種，或十三種。

> どのようにして「頭陀行（ずだぎょう））」を完成させるのか。 それは、次のような修行をさす。 - 常に托鉢（たくはつ）による食事を求めること - 順番に托鉢すること（好き嫌いなく、一軒一軒まわること） - 一度の食事で済ませ、それ以上は口にしないこと - 食べ終わるまで、新たに食べ始めないこと（一度座って食べ始めたら、立ち上がるまで口にしない） - 三枚の衣だけを身に着けること（三衣（さんえ）） - 粗い毛織りの衣だけを身に着けること - 捨てられた布（糞掃衣（ふんぞうえ））から作った衣を用いること - 静かな林（阿練若（あれにゃ））に住むこと - 常に

於乞食中分為二種。一者、隨得乞食，二者、次第乞食。

> 托鉢には二種類あります。一つは、得られたものを受け取るままに食べること、もう一つは、順序よく次々と食べることです。

隨得乞食者，謂隨往還家，隨獲隨得而便受食。

> 乞食（こつじき）とは、托鉢（たくはつ）に歩き回り、家々を訪ね歩いて、その時に得られたものをそのまま受け取って食べることです。

次第乞食者，謂入里巷，巡家而乞，隨得隨現而便受食。不高舉手越趣餘家，願我當獲精妙飲食，乃至期願多有所得。

> 次第に乞食するとは、町や村に入り、家々を巡って托鉢し、得られたものに応じて、そのまま受け取って食べることです。手を高く上げて他の家へと越えて行くことなく、「どうか私が精妙な食べ物を得られますように」とか、「もっと多くのものを得られますように」などと願うことはしません。

當知此中，若依乞食無差別性，唯有十二；若依乞食有差別性，便有十三。

> 知っておくべきこととして、托鉢に違いがなければ、その種類は十二のみです。しかし、托鉢に違いがあれば、十三となります。

云何名為但一坐食？謂坐一座，乃至應食悉皆受食，從此座起必不重食。如是名為但一坐食。

> 一坐食とは何でしょうか？一つの座席に座り、食べるべきものをすべて受け取り、その席を立った後に再び食べないことです。これが一坐食と呼ばれます。

云何名為先止後食？謂為食故，坐如應座，乃至未食先應具受諸所應食。應正了知：我今唯受爾所飲食，當自支持。又正了知：我過於此，定不當食。如是受已，然後方食。如是名為先止後食。

云何名為但持三衣？謂但三衣而自支持。何者三衣？一、僧伽胝，二、嗢怛囉僧伽，三、安怛婆參。除此三衣，終不貯畜過此長衣。如是名為但持三衣。

> わずかに三つの衣のみを持つとはどういうことか。それはただ三つの衣だけを身につけて生活することである。三つの衣とは何か。第一に僧伽胝（そうぎゃてい）、第二に嗢怛囉僧伽（おつたらそうぎゃ）、第三に安怛婆參（あんだばさん）である。この三つの衣のほかには、決して余分な衣をため持たない。これを「三つの衣のみを持つ」と名づける。

云何名為但持毳衣？謂所持衣或三衣數、或是長衣，一切皆用毛毳而作，終不貯畜餘所作衣。如是名為但持毳衣。

> 「ただ一つの衣を保つ」とはどういうことか。それは、持つ衣が三衣の数に満ちていても、あるいは長衣であっても、すべて毛織りの布で作られており、他の素材の衣を決して蓄え置かないことである。これが「ただ一つの衣を保つ」という意味である。

云何名為持糞掃衣？謂所有衣，他捨棄擲或街、或巷、或市、或鄽、或道非道，或雜便穢，或為便穢、膿血、洟唾之所塗染。取如是等不淨衣物，除去麁穢，堅執洗浣，縫染受持。如是名為持糞掃衣。

> 糞掃衣（ふんぞうえ）とは何かというと、他の人が捨ててしまった衣類のことです。それは、通りや路地、市場や町の中、道や道でない場所、あるいは糞尿が混ざった場所や、糞尿・膿・血・鼻水・唾などで汚れた場所にあるものです。そうした清らかでない衣類を拾い集め、粗い汚れを取り除き、しっかりと洗って清め、繕い、染め、身に着けること。これを糞掃衣を保つといいます。

云何名為住阿練若？謂住空閑山林坰野，受用邊際所有臥具，遠離一切村邑聚落。如是名為住阿練若。

> 「阿練若に住む」とはどういうことか。それは、人里離れた静かな山林や原野に住み、粗末な寝具を満足して使い、すべての村や町から遠く離れて暮らすことです。これを「阿練若に住む」と言います。

云何名為常居樹下？謂常期願住於樹下，依止樹根。如是名為常居樹下。

> 常に樹の下に住むとはどういうことか？それは、常に樹の下で暮らすことを願い、樹の根元をよりどころとして生活することである。これを、常に樹の下に住むというのである。

云何名為常居逈露？謂常期願住於逈露，無覆障處。如是名為常居逈露。

> 常に露にさらされる住まいとは何か？それは常に露にさらされ、覆いや遮蔽物のない場所に住むことを願い求めることである。これを常に露にさらされる住まいという。

云何名為常住塚間？謂常期願住塚墓間，諸有命過送尸骸處。如是名為常住塚間。

> 常住塚間とは何か。常に願い望んで墓地に住み、命終えた者の遺体が運ばれる場所にいることである。これを常住塚間という。

云何名為常期端坐？謂於大床、或小繩床、或草葉座端身而坐，推度時日，終不以背或以其脇，依倚大床、或小繩床、或壁、或樹、草葉座等。如是名為常期端坐。

> 常に端座するとは、どのようなことを言うのでしょうか。大きな寝台であれ、小さな縄の床であれ、あるいは草や葉で作った座であれ、背筋を伸ばして座り、時を計ることです。決して背中や脇を、大きな寝台や小さな縄の床、壁や木、草葉の座などに寄りかけることはありません。このようにすることが、常に端座するということなのです。

云何名為處如常座？謂所坐臥或諸草座、或諸葉座，如舊敷設草座、葉座而常坐臥，一敷設後，終不數數翻舉修理。如是名為處如常座。

> 「処れいじょうざ」とは何かというと、寝たり座ったりする場所のことです。それは草で作った座布団や、葉で作った座布団など、以前から敷かれている草座や葉座のことを指します。それらをいつも通りに座ったり寝たりし、一度敷いた後は、何度も持ち上げたり直したりしません。これが「処れいじょうざ」という意味です。

問：何故名為杜多功德？

> 問：なぜ「ドゥータの功徳」と呼ばれるのですか？

答：譬如世間或毛或㲲，未鞭、未彈、未紛、未擘，爾時相著，不軟不輕，不任造作縷綫氈褥。若鞭、若彈、若紛、若擘，爾時分散，柔軟輕妙，堪任造作縷綫氈褥。如是行者，由飲食貪，於諸飲食令心染著；由衣服貪，於諸衣服令心染著；由敷具貪，於諸敷具令心染著。彼由如是杜多功德，能淨修治，令其純直，柔軟輕妙，有所堪任，隨順依止，能修梵行。是故名為杜多功德。

> 例えば、世の中にある毛や布も、打ったり、打ちはたいたり、ほぐしたり、裂いたりしていない間は、絡み合って柔らかくも軽くもなく、糸や布団を作るのに適さない。しかし、打ったり、打ちはたいたり、ほぐしたり、裂いたりすれば、繊維はほぐれて柔らかく軽やかになり、糸や布団を作るのに適したものとなる。 これと同じように、修行者も、食べ物への貪りによって様々な食べ物に心が執着し、衣服への貪りによって様々な衣服に心が執着し、寝具への貪りによって様々な寝具に心が執着する。しかし、彼がこのような「杜多（頭陀）の功徳」によって、それらを清らかに修め整え、心をまっすぐで柔らかく軽やかにし、何事にも耐えられるものとし、身を任せて清らかな行い（梵行）を修めることができるようにするのである。ゆえにこれを「杜多の功徳」と呼ぶのである。

於飲食中，有美食貪及多食貪，能障修善。為欲斷除美食貪故，常期乞食、次第乞食。為欲斷除多食貪故，但一坐食、先止後食。於衣服中，有三種貪，能障修善。一、多衣貪，二、軟觸貪，三、上妙貪。為欲斷除多衣貪故，但持三衣。為欲斷除於諸衣服軟觸貪故，但持毳衣。為欲斷除於諸衣服上妙貪故，持糞掃衣。於諸敷具有四種貪，能障修善。一、諠雜貪，二、屋宇貪，三、倚樂臥樂貪，四、敷具貪。為欲斷除諠雜貪故，住阿練若。為欲斷除屋宇貪故，常居樹下、逈露、塚間。又為斷除婬佚貪故，常住塚間。為欲斷除倚樂臥樂貪故，常期端坐。為欲斷除敷具貪故，處如常座。是名成就杜多功德。

> 飲食に関しては、美食への執着と過食への執着があり、これらは善行の妨げとなります。美食への執着を断つために、常に托鉢を行い、順番に乞食します。過食への執着を断つために、一度の食事で済ませ、最初に食べることを控えます。 衣服に関しては、三つの執着が善行を妨げます。第一に多くの衣服への執着、第二に柔らかな感触への執着、第三に上等なものへの執着です。多くの衣服への執着を断つために、三つの衣のみを持ちます。衣服の柔らかな感触への執着を断つために、粗い毛織りの衣のみを持ちます。衣服の上等さへの執着を断つために、捨てられた布で作った衣を持ちます。 寝具や住居に関しては、四つの執着が善行を妨げます。第一に騒がしい場所への執着、第二に立派な家屋への執着、第三に寄りかかったり横になったりする快楽への執着、第四に寝具への執着です。騒がしい場所への執着を断つために、静かな林の中に住みます。家屋への執着を断つために、常に木の下や露地、墓地で過ごします。また、享楽的な執着を断つために、常に墓地に住みます。寄りかかったり横になったりする快楽への執着を断つために、常に背筋を伸ばして座ります。寝具への執着を断つために、常に簡素な座を用います。これらを成就することを「杜多（頭陀）の功徳」と言います。

云何端嚴？謂能成就若往、若還、若覩、若瞻、若屈、若伸、持僧伽胝持衣持鉢，端嚴形相。是名端嚴。

> では、姿勢を整えるとはどういうことか。それは、歩くときも、戻るときも、見るときも、見渡すときも、体を曲げるときも、伸ばすときも、袈裟や衣や鉢を持つときにも、落ち着いていて美しい振る舞いを身につけていることである。これが姿勢の整った態度というのである。

云何知量？謂於淨信諸婆羅門、長者、居士，極恣衣服、飲食、敷具、病緣醫藥諸什物中，知量而聚。是名知量。

> どのように「知量」とされるのか。 信心深きバラモンや長者、在家信者たちから、衣服や食べ物、寝具、病気のための薬や日用品などを、度を越さず適度に受け取ることを「知量」という。これが「知量」の意味である。

云何成就賢善士法？謂生高族淨信出家，或生富族淨信出家，顏容殊妙，喜見端嚴，具足多聞，語具圓滿，或隨獲得少智、少見、少安樂住。由是因緣，不自高舉，不陵蔑他；能知唯有法隨法行，是其諦實。既了知已，精進修行法隨法行。是名成就賢善士法。

> 問う。どのようにして「優れた善き人」の条件を具えるのか。 答える。高貴な家に生まれ、清らかな信心をもって出家するか、あるいは裕福な家に生まれ、同様に信心をもって出家する。容姿は美しく、見る人の心を喜ばせ、端正で愛らしい。また、多くの教えを聞き知り、言葉も完全に整っている。あるいは、多少の智慧、多少の見解、少しばかりの安らかな境地を得ている。しかし、そうだからといって、自らを高く誇ることもなく、他者を軽んじることもない。ただ、真理に従った実践と、その実践に沿った生き方こそが、真実の道であると知っている。それを明確に理解した上で、精進して法に従った実践に励む。これこそが「優れた善き人の条件」を成就した者である。

云何成就聰慧者相？謂由作業相表知愚夫，由作業相表知聰慧。其事云何？謂諸愚夫，惡思所思、惡說所說、惡作所作；諸聰慧者，善思所思、善說所說、善作所作。是名成就聰慧者相。

> 賢い人の相とは、どのようなものか。 賢い人か愚かな人は、その行いによって見分けられる。 具体的には、愚かな人は悪いことを考え、悪いことを言い、悪いことを行う。 賢い人は善いことを考え、善いことを言い、善いことを行う。 これが賢い人の相である。

云何堪忍？謂如有一，罵不報罵、瞋不報瞋、打不報打、弄不報弄。又彼尊者，堪能忍受寒熱、飢渴、蚊虻、風日、蛇蠍毒觸，又能忍受他所干犯、麁惡語言，又能忍受身中所有猛利、堅勁、辛楚、切心、奪命苦受。為性堪忍，有所容受。是名堪忍。

> 「忍辱とは何か」と言いますと、例えば、ある人が罵られても罵り返さず、怒りに対しても怒り返さず、打たれても打ち返さず、からかわれてもからかい返さないことです。また、その尊者は、寒さや暑さ、飢えや渇き、蚊やアブ、風や日差し、蛇や蠍の毒に触れることに耐えることができます。さらに、他人からの干渉や荒々しい言葉にも耐え、体内にある激しく、強固で、苦しく、心をえぐるような、命を奪うような苦しみにも耐えることができます。このように、本来耐える性質を持ち、何事にも受け入れる余裕があること、これを「忍辱」と言います。

云何柔和？謂如有一，於大師等具足成就慈愍身業，具足成就慈愍語業，具足成就慈愍意業。與諸有智同梵行者和同受用應所受用；凡所飲食無有私密，如法所獲、如法所得，墮在鉢中，為鉢所攝而為受用。同戒、同見，成就如是六種可樂、可愛、可重，無違諍法，易可共住，性不惱他。與諸有智同梵行者共住一處，常令歡喜。是名柔和。

> 「柔和とは何か」とは、例えばある人が師匠などに対して、慈しみに満ちた身体的行為を完全に具え、慈しみに満ちた言葉かけを完全に具え、慈しみに満ちた心の思いを完全に具えていることである。また、智慧ある同じ修行仲間と共に、受けるべきものを分け合って受け入れる。食べ物や飲み物についても隠し立てせず、正しい方法で得られ、正しい方法で得られたものが、托鉢の鉢の中に入り、鉢に収められたものとして受けて用いる。戒律も見解も同じくして、このような六つの楽しく、愛しく、尊重すべき、争いや違背のない法を成就し、共に住みやすく、他者を悩ますことがない性質を持つ。智慧ある同じ修行仲間と共に一つの場所に住んで、常に互いに喜びをもたらす。これを柔和という。

云何賢善？謂如有一，遠離顰蹙，舒顏平視，含笑先言，常為愛語，性多攝受善法同侶，身心澄淨。是名賢善。

> ここでいう「賢善」とは、どのような人を指すのでしょうか。 たとえば、ある人が、しかめ面をせず、穏やかな顔で相手をまっすぐに見つめ、笑顔で先に言葉をかけ、いつも心のこもった優しい言葉を使い、善い行いを共にする仲間を自然と受け入れ、心も身体も清らかで澄んでいること、これが「賢善」というのです。