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title: "瑜伽師地論 · 1目 遍滿所緣境事"
description: "瑜伽师地论是佛教大乘瑜伽行派的重要经典，相传由弥勒菩萨口述，无著菩萨记录，唐代高僧玄奘于贞观年间从印度取回并译成汉文。该论共100卷，系统阐述瑜伽行派的教义，内容包括十七地、三性、八识、修行次第等核心理论，被誉为大乘佛教的百科全书。作为唯识学的根本论典，瑜伽师地论奠定了唯识学派的理论基础，对汉传佛教和藏传佛教影响深远，在佛教思想史上具有崇高地位，是研究唯识学和瑜伽行派必读的经典著作。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cma8zhcyh02tsib04tn56m41f"
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云何遍滿所緣境事？謂復四種。一、有分別影像，二、無分別影像，三、事邊際性，四、所作成辦。

> 遍満所緣の境事とは何か。それにはさらに四種類がある。第一に、分別を伴う影像、第二に、分別を伴わない影像、第三に、事の限界性、第四に、成し遂げられた所作である。

云何有分別影像？謂如有一，或聽聞正法、或教授教誡為所依止，或見、或聞、或分別故，於所知事同分影像、由三摩呬多地毘鉢舍那行觀察簡擇、極簡擇、遍尋思、遍伺察。

> 分別された影像とは何か。それは例えば、ある人が、正しい教えを聞くこと、あるいは教授や教誡をよりどころとして、見たり聞いたり分別したりすることによって、認識すべき事柄と同分の影像を、心の統一の境地における観察（ヴィパッサナー）の行によって、よく調べ、徹底的に選別し、あまねく考え、くまなく観察することである。

所知事者，謂或不淨、或慈愍，或緣性緣起，或界差別，或阿那波那念，或蘊善巧，或界善巧，或處善巧，或緣起善巧，或處非處善巧，或下地麁性、上地靜性，或苦諦、集諦、滅諦、道諦。是名所知事。

> 知るべきこととは、すなわち、不浄観、あるいは慈愍観、あるいは縁起、あるいは界の差別、あるいは阿那波那念、あるいは蘊の善巧、あるいは界の善巧、あるいは処の善巧、あるいは縁起の善巧、あるいは処非処の善巧、あるいは下の地の粗性と上の地の静性、あるいは苦諦、集諦、滅諦、道諦である。これらを知るべきことと名付ける。

此所知事，或依教授教誡、或聽聞正法為所依止，令三摩呬多地作意現前，即於彼法而起勝解，即於彼所知事而起勝解。彼於爾時，於所知事，如現領受勝解而轉。

雖彼所知事，非現領受和合現前，亦非所餘彼種類物。然由三摩呬多地勝解，領受相似作意、領受彼所知事相似顯現。由此道理，名所知事同分影像。修觀行者，推求此故，於彼本性所知事中，觀察審定功德過失。是名有分別影像。

> たとえ、その対象を直接に経験し、それを目の当たりにすることはなく、またそれ以外の同じ種類の対象でもないとしても、心が集中した状態における確固たる理解によって、それと似たような意識の働きや、その対象がまるで現れているかのような体験を得ることができる。このような道理により、これを「対象と同じ性質を持つ影像」と呼ぶ。瞑想の実践者は、この影像を詳しく観察することで、本来の対象における功徳や過失を明らかにし、評価する。これを「分別を伴う影像」という。

云何無分別影像？謂修觀行者，受取如是影像相已，不復觀察簡擇、極簡擇、遍尋思、遍伺察。然即於此所緣影像，以奢摩他行寂靜其心，即是九種行相令心安住。謂令心內住、等住、安住、近住、調伏、寂靜、最極寂靜、一趣、等持。彼於爾時，成無分別影像所緣。即於如是所緣影像，一向一趣安住其念，不復觀察簡擇、極簡擇、遍尋思、遍伺察。是名無分別影像。

> では、無分別影像とは何でしょうか。それは、修行者が、先に述べたような影像（心に浮かぶ対象）を受け取った後、それを改めて観察したり、詳しく調べたり、あれこれと思い巡らせたり、細かく尋ね求めたりしないことです。そして、その対象となる影像に対して、奢摩他（しゃまた、心の静けさ）の実践によって心を静めること、すなわち、九つの段階を経て心を落ち着かせることを指します。九つとは、心を内に向けること、等しく留めること、安らかに置くこと、近くに留めること、調伏すること、静めること、最も静めること、一つの対象に向かわせること、平等に保つことです。 このとき、修行者は「無分別影像」を対象として実践している状態にあります。このように、その影像に対して、ひたすら一つの方向に向かって心を集中させ、念を安住させ、もはや観察したり、詳しく調べたり、あれこれと思い巡らせたり、細かく尋ね求めたりしません。これを無分別影像と呼びます。

即此影像，亦名影像。亦名三摩地相，亦名三摩地所行境界，亦名三摩地口，亦名三摩地門，亦名作意處，亦名內分別體，亦名光影。如是等類，當知名為所知事同分影像諸名差別。

> この影像は、「影像」とも呼ばれます。また、「三摩地の相」「三摩地の修行する境地」「三摩地の口」「三摩地の門」「作意の場所」「内分別の体」「光影」とも呼ばれます。このような様々な呼び名があることを、知るべき事柄と同じ性質を持つ影像の名前の違いとして理解してください。

云何事邊際性？謂若所緣盡所有性、如所有性。

> 事の側面の究極性とは何か。それは、認識の対象が「あるがままの性質」と「全ての性質」という二つの側面を持つことを指す。

云何名為盡所有性？謂色蘊外更無餘色，受想行識蘊外更無有餘受想行識；一切有為事，皆五法所攝；一切諸法，界處所攝；一切所知事，四聖諦攝。如是名為盡所有性。

> 「尽所有性」とは何かと言えば、色蘊（物質的なもの）の他に別の色はなく、受蘊（感覚）、想蘊（概念）、行蘊（意志）、識蘊（認識）のそれぞれの他にも別の受・想・行・識はないということです。つまり、すべての作り出された現象（有為）は、この五蘊（ごうん）に含まれます。また、すべての諸法（あらゆる存在）は、十八界（じゅうはっかい）と十二処（じゅうにしょ）に分類されます。そして、知られるべきすべての事柄は、四つの聖なる真理（四聖諦）にまとめられます。このようにして、あるものをその全体として尽くす性質を「尽所有性」と呼ぶのです。

云何名為如所有性？謂若所緣是真實性、是真如性，由四道理，具道理性。謂觀待道理、作用道理、證成道理、法爾道理。

> 「如所有性」とは何か。それは、心が対象とするものが真実の性質であり、真如の性質であり、四つの道理によって道理にかなっていることである。すなわち、観待の道理・作用の道理・証成の道理・法爾の道理である。

如是若所緣境盡所有性、如所有性，總說為一事邊際性。

> このように、心が向ける対象（所縁境）には、「尽所有性」（すべての現象をありのままに捉える性質）と「如所有性」（現象の本質をあるがままに捉える性質）があり、これらをまとめて「一つの事柄の限界性（事辺際性）」と呼ぶのです。

云何所作成辦？謂修觀行者，於奢摩他、毘鉢舍那，若修、若習、若多修習為因緣故，諸緣影像所有作意皆得圓滿。此圓滿故，便得轉依，一切麁重悉皆息滅。得轉依故，超過影像，即於所知事，有無分別現量智見生。入初靜慮者，得初靜慮時，於初靜慮所行境界；入第二第三第四靜慮者，得第二第三第四靜慮時，於第二第三第四靜慮所行境界；入空無邊處、識無邊處、無所有處、非想非非想處者，得彼定時，即於彼定所行境界。如是名為所作成辦。

> 修行者が、止（奢摩他）と観（毘鉢舎那）を繰り返し、熱心に修習した結果、あらゆる影像に対する作意が完全に成就します。この成就によって、心の基盤（転依）が得られ、すべての重い煩悩（麁重）が消え去ります。転依を得ると、影像を超えて、認識すべき対象について、分別のない、ありのままの智慧（現量智）が生じます。 例えば、初禅（初静慮）に達した者は、その境地で現れる対象をありのままに知ります。第二禅、第三禅、第四禅に達した者も同様です。また、空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処の各定に達した者も、それぞれの定の境地において、はからいのない直接的な智慧が働くのです。これが「所作成辦（なすべきことが成就した状態）」と呼ばれます。

如是四種所緣境事，遍行一切，隨入一切所緣境中，去來今世正等覺者共所宣說。是故說名遍滿所緣。又此所緣，遍毘鉢舍那品、遍奢摩他品、遍一切事、遍真實事、遍因果相屬事，故名遍滿。

> この四つの心の拠り所（所縁境事）は、あらゆる場面で通用し、すべての観察対象に調和して入り込みます。そして、過去・未来・現在の全ての目覚めた方々（正等覚者）が共に説かれたものです。ゆえに、これを「遍満所縁」と名づけます。 さらに、この拠り所は、「観察（毘鉢舎那）」の分野にも、「静寂（奢摩他）」の分野にも、あらゆる事柄にも、真実の事柄にも、原因と結果の関係にも及ぶため、「遍満」と呼ばれるのです。

謂若說有分別影像，即是此中毘鉢舍那品。若說無分別影像，即是此中奢摩他品。若說事邊際性，即是此中一切事、真實事。若說所作成辦，即是此中因果相屬事。

> 分別影像（分別を伴う影像）を説くならば、それはここでの毘鉢舎那（観察の修行）の部分である。無分別影像（分別を伴わない影像）を説くならば、それはここでの奢摩他（止の修行）の部分である。事辺際性（事象の極限）を説くならば、それはここでの一切の事象と真実の事象である。所作成辦（なすべきことを成し遂げること）を説くならば、それはここでの原因と結果の相互関係である。

如佛世尊曾為長老頡隸伐多說如是義。曾聞長老頡隸伐多問世尊言：大德！諸有比丘勤修觀行，是瑜伽師，能於所緣安住其心。為何於緣安住其心？云何於緣安住其心？齊何名為心善安住？

> 仏世尊がかつて長老・頡隸伐多に説かれた意味は、こうである。長老・頡隸伐多が世尊に問うた。「大徳よ、修行に励み観想を実践する比丘たち、すなわちヨーガ行者は、どのようにして心を対象に安住させるのでしょうか。なぜ対象に心を安住させるのでしょうか。どうやって対象に心を安住させるのですか。また、どこまでを『心がよく安住した』と言うのでしょうか」と。

佛告長老頡隸伐多：善哉！善哉！汝今善能問如是義。汝今諦聽，極善思惟，吾當為汝宣說開示。

> 仏は長老ガヤーカシャに告げられた。「よきかな、よきかな。あなたが今、このような意味をよく問うたことは素晴らしい。よく聞き、深く思いめぐらしなさい。私はあなたのために説き明かそう。」

頡隸伐多！諸有比丘勤修觀行，是瑜伽師，能於所緣安住其心。或樂淨行、或樂善巧、或樂令心解脫諸漏，於相稱緣安住其心，於相似緣安住其心，於緣無倒安住其心，能於其中不捨靜慮。

> ガンダバーダよ、修行に励み観想を実践する比丘たちは、まさにヨーガの修行者であり、その心を対象にしっかりと留めることができる。ある者は清らかな行いを喜び、ある者は善巧を喜び、ある者は心を煩悩から解き放つことを喜ぶ。彼らは心をふさわしい対象に留め、心を似たような対象に留め、心を誤りのない対象に留め、その中で静慮を決して手放さないのである。

云何比丘勤修觀行，是瑜伽師，於相稱緣安住其心？

> 比丘がどのようにして観行を精進し、瑜伽師として、相応する縁（条件）に心を安住させるのか。

謂彼比丘若唯有貪行，應於不淨緣安住於心，如是名為於相稱緣安住其心。若唯有瞋行，應於慈愍安住其心；若唯有癡行，應於緣性緣起安住其心；若唯有慢行，應於界差別安住其心；若唯有尋思行，應於阿那波那念安住其心。如是名為於相稱緣安住其心。

> ある比丘が、もっぱら貪りの傾向を持っているならば、心を不浄の対象にしっかりと落ち着けるべきです。これを、心をふさわしい対象に落ち着ける、といいます。もっぱら怒りの傾向を持っているならば、心を慈しみ（慈）の対象に落ち着けるべきです。もっぱら無知の傾向を持っているならば、心を縁起の理法（相依性）の対象に落ち着けるべきです。もっぱら慢心の傾向を持っているならば、心を要素の違い（界の分別）の対象に落ち着けるべきです。もっぱら妄想や分別の傾向を持っているならば、心を呼吸の気づき（阿那波那念）の対象に落ち着けるべきです。これらを、心をふさわしい対象に落ち着ける、といいます。

頡隸伐多！又彼比丘若愚諸行自相，愚我、有情、命者、生者、能養育者、補特伽羅事，應於蘊善巧安住其心。若愚其因，應於界善巧安住其心。若愚其緣，應於處善巧安住其心。若愚無常、苦、空、無我，應於緣起、處非處善巧安住其心。若樂離欲界欲，應於諸欲麁性、諸色靜性安住其心；若樂離色界欲，應於諸色麁性、無色靜性安住其心。若樂通達及樂解脫遍一切處薩迦耶事，應於苦諦、集諦、滅諦、道諦安住其心。是名比丘勤修觀行，是瑜伽師，於相稱緣安住其心。

> 頡隸伐多よ。また、その比丘が、様々な現象（行）の本来の姿について迷い、「私」「有情」「命ある者」「生けるもの」「養育する者」「人」といったものについて迷うならば、蘊（五蘊）への正しい理解に心を落ち着けるべきである。 もし、原因について迷うならば、界（十八界）への正しい理解に心を落ち着けるべきである。 もし、縁（条件）について迷うならば、処（十二処）への正しい理解に心を落ち着けるべきである。 もし、無常・苦・空・無我について迷うならば、縁起と、道理にかなうこと・かなわないこと（処非処）への正しい理解に心を落ち着けるべきである。 もし、欲界の欲望から離れることを望むならば、欲望の粗さと、色界の静けさに心を落ち着けるべきである。 もし、色界の欲望から離れることを望むならば、色の粗さと、無色界の静けさに心を落ち着けるべきである。 もし、あらゆる場所に及ぶ「自己」という執着（薩迦耶見）を理解し、そこから解脱することを望むならば、苦諦・集諦・滅諦・道諦（四諦）に心を落ち着けるべきである。 これこそが、比丘が修行を怠らず、ヨーガの修行者として、ふさわしい対象に心を落ち着けることなのである。

頡隸伐多！云何比丘勤修觀行，是瑜伽師，於相似緣安住其心？謂彼比丘，於彼彼所知事，為欲簡擇、極簡擇、遍尋思、遍伺察故，於先所見、所聞、所覺、所知事，由見聞覺知增上力故，以三摩呬多地作意，思惟分別而起勝解。彼雖於其本所知事不能和合現前觀察，然與本事相似而生，於彼所緣有彼相似唯智、唯見、唯正憶念。又彼比丘，於時時間令心寂靜，於時時間依增上慧法毘鉢舍那勤修觀行。是名比丘勤修觀行，是瑜伽師，於相似緣安住其心。

> 頡隸伐多よ！では、どのように比丘が観行を精進し、瑜伽師が似たような対象に心をとどめるのか、説明しよう。 その比丘は、様々な知るべき事柄について、詳しく選び分け、徹底的に選び分け、あまねく思考し、あまねく観察するために、以前に見聞きし、感じ、知った事柄について、その見聞き・感覚・認識の力によって、三摩呬多地（静慮）の作意を用いて、思惟分別し、確かな理解を結ぶのである。彼は、本来知っている事柄を直接目前に観察することはできないが、その事柄に似た影像が心に生じる。その対象には、その事柄に似た智慧と見解と正しい憶念だけがあるのだ。 また、その比丘は、時々心を静め、時々より優れた慧の法である毘鉢舎那（観察）によって、観行を精進する。 これが、比丘が観行を精進し、瑜伽師が似たような対象に心をとどめる、ということなのである。

頡隸伐多！云何比丘勤修觀行，是瑜伽師，於緣無倒安住其心？

> 頡隸伐多よ。どのように比丘が観行を精進して修め、瑜伽師として縁（原因と条件）に対して誤りなく心を安らかに保つのか、それを説明しよう。

謂若比丘勤修觀行，是瑜伽師，於所緣境安住其心，隨應解了所知境界，如實無倒能遍了知。是名比丘勤修觀行，是瑜伽師，於緣無倒安住其心。

> もし比丘が観行（瞑想修行）を精進し、そのヨーガ行者が、対象とする境地に心を落ち着け、それぞれに応じて知るべき境地を理解し、ありのままに誤りなく全てを知り尽くすならば、これこそを比丘の観行の精進、ヨーガ行者が縁に対して誤りなく心を安住させる、というのである。

頡隸伐多！云何比丘勤修觀行，是瑜伽師，能於其中不捨靜慮？謂若比丘勤修觀行，是瑜伽師，如是於緣正修行時，無間加行、殷重加行，於時時間修習止相、舉相、捨相。由修、由習、由多修習為因緣故，一切麁重悉皆息滅，隨得觸證所依清淨。於所知事，由現見故，隨得觸證所緣清淨。由離貪故，隨得觸證心遍清淨。離無明故，隨得觸證智遍清淨。是名比丘勤修觀行，是瑜伽師，能於其中不捨靜慮。

> 頡隸伐多よ！では、どのように比丘が観察と修行に励み、ヨーガの実践者として、その中で静慮（瞑想）を手放さないのか。 例えば、比丘が観察と修行に励み、ヨーガの実践者であるならば、このように縁（条件）について正しく修行する時、絶え間ない努力と、真剣な努力をもって、時おり時を選んで、止（心を静める）の相、挙（心を奮い立たせる）の相、捨（自然に任せる）の相を修習する。 このように修め、習い、繰り返し修習することを因縁として、あらゆる粗重（心身の重苦しさ）がことごとく消え去り、やがて依る所の清らかさを実感し、触れて証する。 また、知るべき事柄について、現に見る（はっきりと観る）ことによって、やがて所縁（対象）の清らかさを実感し、触れて証する。 貪りを離れることによって、やがて心の全体的な清らかさを実感し、触れて証する。 無明（迷い）を離れることによって、やがて智慧の全体的な清らかさを実感し、触れて証する。 これを、比丘が観察と修行に励み、ヨーガの実践者として、その中で静慮を手放さない、と言

頡隸伐多！為此比丘於所緣境安住其心，如是於緣安住其心，如是於緣安住心已，名善安住。

> ガババティよ、この比丘が、その対象に対して心を落ち着けて安らかにとどめるなら、そのようにして対象に心を安らかにおさめ、対象に心を落ち着けておさめたならば、よく安らかにおさめられたと名づけられるのです。

世尊此中重說頌曰：

> 世尊はこのことを、あらためて次の詩で説かれました。

行者行諸相， 知一切實義，常於影靜慮， 得證遍清淨。

> 修行者が様々なものごとを観じ、 そのすべての真実の意味を理解するならば、 常に分別なき静かな境地で心を集中することで、 あらゆるものが清らかであると悟るのです。

此中說言「行者行諸相」者，由此宣說修觀行者，於止、舉、捨相，無間修行、殷重修行。若復說言：知一切實義者。由此宣說事邊際性。若復說言：常於影靜慮者。由此宣說有分別影像、無分別影像。若復說言：得證遍清淨者。由此宣說所作成辦。

> ここで「修行者は諸々の相を修行する」と言うのは、これによって観行を修める者が、止・挙・捨の相を絶え間なく修行し、かつ念入りに修行することを説いています。 さらに「一切の真実の義を知る」と言うのは、これによって事の辺際性（ことわりのはて）を説いています。 また「常に影像を静慮する」と言うのは、これによって有分別影像と無分別影像を説いています。 さらに「遍く清浄を得証する」と言うのは、これによって所作の成辦（なすべきことの成就）を説いています。

此中世尊復說頌曰：

> そこで世尊は、次のように偈を説かれました。

於心相遍知， 能受遠離味。靜慮常委念， 受喜樂離染。

> 心の状態を完全に理解し、遠離の味わいを受け取る。 静かに坐り、常に気づきを保ち、喜びと安らぎを受け入れ、煩悩から離れる。

此中說言「於心相遍知」者，謂有分別影像、無分別影像，以心相名說；事邊際性，以遍知名說。若復說言：能受遠離味者。由此宣說於其所緣正修行者樂斷樂修。若復說言：靜慮常委念者。由此宣說於奢摩他、毘鉢舍那，常勤修習、委練修習。若復說言：受喜樂離染者。由此宣說所作成辦。當知如是遍滿所緣，隨順淨教，契合正理。如是名為遍滿所緣。

> ここで「心の相を遍く知る」とは、分別のある影像と分別のない影像を指し、それを「心の相」という言葉で表している。また、事柄の究極的な在り方を「遍く知る」という言葉で表している。 さらに「遠離の味わいを受ける」と言う場合、それは対象に対して正しく修行する人が、断つことを楽しみ、修めることを楽しむことを示している。 また「静慮の常に専念する者」と言う場合、それは奢摩他（止）と毘鉢舍那（観）を常に怠らずに修習し、熟達して修習することを示している。 さらに「喜びと楽を受け、染まりを離れる」と言う場合、それは修行の成果が成し遂げられたことを示している。 このように、あらゆる対象に遍く及ぶものは、清らかな教えに随い、正しい道理にかなっている。これを「遍満所縁」と名付ける。