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title: "瑜伽師地論 · 2"
description: "瑜伽师地论是佛教大乘瑜伽行派的重要经典，相传由弥勒菩萨口述，无著菩萨记录，唐代高僧玄奘于贞观年间从印度取回并译成汉文。该论共100卷，系统阐述瑜伽行派的教义，内容包括十七地、三性、八识、修行次第等核心理论，被誉为大乘佛教的百科全书。作为唯识学的根本论典，瑜伽师地论奠定了唯识学派的理论基础，对汉传佛教和藏传佛教影响深远，在佛教思想史上具有崇高地位，是研究唯识学和瑜伽行派必读的经典著作。"
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## 瑜伽師地論卷第二十七

> 瑜伽師地論 第二十七巻

彌勒菩薩說

> 弥勒菩薩の教え

三藏法師玄奘奉　詔譯

> 三蔵法師玄奘奉詔訳

### 本地分中聲聞地第十三第二瑜伽處之二

> 第二瑜伽処の二

云何緣性緣起所緣？

> 縁性縁起とは、どのようなところを対象とするのでしょうか。

謂於三世唯行、唯法、唯事、唯因、唯果，墮正道理。

> 過去・現在・未来のすべては、ただ因と果という現象（行・法・事）として存在するに過ぎず、理にかなったものなのです。

謂觀待道理、作用道理、證成道理、法爾道理。唯有諸法能引諸法，無有作者及以受者，是名緣性緣起所緣。

> 観待の道理、作用の道理、証成の道理、法爾の道理を説く。諸々の法（現象）が互いに他の法を引き起こすのであって、創造者も受け手も存在しない。これが縁性・縁起の所縁である。

於此所緣作意思惟，癡行增上補特伽羅所有癡行皆得微薄，於諸癡行，心得清淨。

> この対象に心を向けて意識を働かせると、愚かさの傾向が強い人の、あらゆる愚かさは次第に薄れていき、愚かさに関する心は清らかになる。

是名緣性緣起所緣。

> これが「縁性・縁起の所縁」である。

云何界差別所緣？謂六界差別。一、地界，二、水界，三、火界，四、風界，五、空界，六、識界。

> 「界の違いによる観察の対象とは何か」—それは、六つの要素による区別です。すなわち、 第一に地の要素、 第二に水の要素、 第三に火の要素、 第四に風の要素、 第五に虚空の要素、 第六に識（意識）の要素です。

云何地界？地界有二。一、內，二、外。內地界者，謂此身中內別堅性，堅鞕所攝、地地所攝，親附、執受。外地界者，謂外堅性，堅鞕所攝、地地所攝，非親附、非執受。又內地界其事云何？謂髮、毛、爪、齒、塵垢、皮、肉、骸骨、筋、脈、肝、膽、心、肺、脾、腎、肚、胃、大腸、小腸、生藏、熟藏，及糞穢等，名內地界。又外地界其事云何？謂瓦、木、塊、礫、樹、石、山、巖，如是等類，名外地界。

> 地界とは何か。地界には二種ある。一つは内、二つは外である。内地界とは、この身体の中にある内なる堅い性質をいう。すなわち、固くて丈夫なもの、地の要素に属し、身体に親しく付き従い、保たれているものである。外地界とは、外にある堅い性質をいう。固くて丈夫なもの、地の要素に属するが、身体に親しく付かず、保たれてもいないものである。 また、内地界とはどのようなものをいうのか。髪の毛、体毛、爪、歯、垢、皮、肉、骨、筋、血管、肝臓、胆のう、心臓、肺、脾臓、腎臓、胃、大腸、小腸、消化途中の食物、消化されたもの、そして大便などである。これらを内地界という。 また、外地界とはどのようなものをいうのか。瓦、木、石ころ、砂利、樹木、石、山、岩などである。このようなものを外地界という。

云何水界？水界有二。一、內，二、外。內水界者，謂此身中內別濕性，濕潤所攝、水水所攝，親附、執受。其事云何？謂淚、汗、洟、唾、肪、膏、脂、髓、熱痰、膿血、腦、膜、尿等，名內水界。外水界者，謂外濕性，濕潤所攝、水水所攝，非親附，非執受。其事云何？謂井、泉、池、沼、陂、湖、河、海，如是等類，名外水界。

> 水界とは何か。水界には二種類ある。第一は内なる水界、第二は外なる水界である。 内なる水界とは、この身体の中にある湿った性質、湿気に属し水の要素に含まれるもので、身体に密着し保持されているものをいう。具体的には何か。涙、汗、鼻水、唾液、脂肪、脂、髄、熱のある痰、膿、血、脳、膜、尿などが、内なる水界と名づけられる。 外なる水界とは、外にある湿った性質、湿気に属し水の要素に含まれるもので、身体に密着せず、保持されていないものをいう。具体的には何か。井戸、泉、池、沼、ため池、湖、川、海など、このようなものが外なる水界と名づけられる。

云何火界？火界有二。一、內，二、外。內火界者，謂此身中內別溫性，溫熱所攝、煖煖所攝，親附、執受。其事云何？謂於身中所有溫煖，能令身熱、等熱、遍熱。由是因緣，所食、所飲、所噉、所甞，易正消變。彼增盛故，墮蒸熱數。如是等類，名內火界。外火界者，謂外溫性，溫熱所攝、煖煖所攝，非親附、非執受。其事云何？謂於人間依鑽燧等、牛糞末等，以求其火。火既生已，能燒牛糞、或草、或薪、或榛、或野、或山、或渚、或村、村分、或城、城分、或國、國分。或復所餘如是等類，名外火界。

> 「火界とは何か。火界には二種類ある。第一は内火界、第二は外火界である。 内火界とは、この身体の中にある、内側の熱の性質である。温かさや熱さに属し、身体に親しく付き従い、保持されているものである。 具体的にはどういうことか。身体の中にある温かさや熱さが、身体を熱くし、全身を温め、満遍なく温める。この働きによって、飲食物や味わったものが、適切に消化され、変化する。その温熱が強まると、熱気に包まれた状態となる。このようなものを、内火界と呼ぶ。 外火界とは、外側の熱の性質である。温かさや熱さに属するが、身体に親しく付き従っておらず、保持もされていない。 具体的にはどういうことか。人々が火打ち石や木の摩擦、牛糞の粉末などを使って、火を起こす。火が生じると、それは牛糞や草、薪、藪、野原、山、川の中州、村やその一部、町やその一部、国やその一部を焼く。または、その他のものをも焼く。このようなものを、外火界と呼ぶ。」

云何風界？風界有二。一、內，二、外。內風界者，謂此身中內別風性，風飄所攝，輕性、動性，親附、執受。其事云何？謂內身中，有上行風、有下行風、有脇臥風、有脊臥風、有腰間風、有臗間風、有小刀風、有大刀風、有針刺風、有畢鉢羅風、有入出息風、有隨支節風。如是等類，名內風界。外風界者，謂外風性，風飄所攝，輕性、動性，非親附、非執受。其事云何？謂在身外，有東來風、有西來風、有南來風、有北來風、有有塵風、有無塵風、有狹小風、有廣大風、有毘濕婆風、有吠藍婆風、有風輪風。有時大風卒起積集，折樹、頹牆、崩山、蕩海；既飄鼓已，無所依憑，自然靜息。若諸有情欲求風者，動衣、搖扇、及多羅掌。如是等類，名外風界。

> 【風の要素とは何か】 風の要素には二種類ある。第一に内なる風、第二に外なる風である。 内なる風の要素とは、この身体の内部にある風の性質、風の動きに属するもの、軽やかさ、動きやすさ、身体に密着し保持されているものをいう。具体的には、体内には上行する風、下行する風、脇を這う風、背中を這う風、腰の間の風、臀部の間の風、小刀のような風、大刀のような風、針で刺すような風、畢鉢羅（ヒハラ）の風、出入りの呼吸の風、関節に沿って巡る風などがある。このようなものを内なる風の要素という。 外なる風の要素とは、身体の外にある風の性質、風の動きに属するもの、軽やかさ、動きやすさ、身体に密着せず保持されていないものをいう。具体的には、外には東から来る風、西から来る風、南から来る風、北から来る風、塵を伴う風、塵のない風、狭い風、広大な風、毘湿婆（ビシュバ）の風、吠藍婆（ヴァイランバ）の風、風輪（風の輪）の風がある。時に大風が突然起こり積もり集まり、木を折り、壁を倒し、山を崩し、海を揺り動かす。ひとたび吹き荒れた後は、寄る辺なく、自然と静まり止む。生きとし生けるものが風を求めたいと思うなら、衣を動かし、扇を揺らし、多羅（ターラ）の葉の掌（手のひら）であおぐ。このようなものを外なる風の要素という。

云何空界？謂眼、耳、鼻、口、咽喉等所有孔穴。由此吞咽、於此吞咽，既吞咽已，由此孔穴便下漏泄。如是等類，說名空界。

> 空界とは何か。それは、目、耳、鼻、口、のどなどの、あらゆる穴のことを指す。この穴によって飲み込みが行われ、その穴で飲み込まれた後、その穴から下方へと漏れ出ていく。このようなものの総称を、空界というのである。

云何識界？謂眼、耳、鼻、舌、身、意識。又心、意、識三種差別。是名識界。

> 識別の領域とは何か。それは、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識を指す。さらに、「心」「意」「識」の三つに区別される。これらを総称して「識の領域」と呼ぶ。

若諸慢行補特伽羅，於界差別作意思惟，便於身中離一合想，得不淨想。無復高舉，憍慢微薄，於諸慢行，心得清淨。是名慢行補特伽羅由界差別淨行所緣。

> もしも慢心（思い上がり）の傾向が強い人が、「身体を構成するさまざまな要素（界）の違い」について心を集中して考えめぐらせるならば、その人は身体に対して「一つにまとまったもの」という思い込みから離れ、不浄の観想を得ることができます。そうすれば、もう高ぶることがなくなり、驕りや慢心も薄らぎます。様々な慢心の傾向に対して、心が清らかになるのです。これを「慢心の傾向が強い人が、要素の違いによって心を清める修行の対象」といいます。

云何阿那波那念所緣？

> アーサーパーナ念（呼吸への気づき）の対象とはどのようなものか。

謂緣入息、出息念，是名阿那波那念。

> 入息と出息に意識を向けること、これを「アーナパーナの気づき」と呼ぶ。

此念所緣入出息等，名阿那波那念所緣。

> この意識が対象とする出入りの呼吸などを、阿那波那念（呼吸に気づく瞑想）の対象といいます。

當知此中，入息有二。何等為二？一者、入息，二者、中間入息。出息亦二。何等為二？一者、出息，二者、中間出息。

> ここで知るべきは、入息には二種類あるということである。その二種類とは何か。第一は入息、第二は中間入息である。出息にも二種類ある。その二種類とは何か。第一は出息、第二は中間出息である。

入息者，謂出息無間，內門風轉，乃至臍處。中間入息者，謂入息滅已，乃至出息未生，於其中間在停息處，暫時相似微細風起，是名中間入息。

> 息を吸うとは、息を吐いた後、途切れることなく体内に向かって風が巡り、へそのあたりに至るまでを言います。 中間の息（中間入息）とは、この吸う息が終わり、次の吐く息がまだ生じるまでの間、呼吸が止まっている場所に、一時的に、ほとんど気づかれないほどの微かな風が生じることを言います。これを中間の息（中間入息）と呼びます。

如入息、中間入息，出息、中間出息，當知亦爾。此中差別者，謂入息無間，外門風轉，始從臍處，乃至面門、或至鼻端、或復出外。

> 入息とその中間の入息、出息とその中間の出息についても、同じように理解すべきである。ただし、ここでの違いは、入息が途切れることなく、外に向かう風（呼吸）が動き始めることである。それは臍のあたりから始まり、顔の前面、あるいは鼻の先端に至り、さらに外部へと出ていくのである。

入息、出息有二因緣。何等為二？一、牽引業；二、臍處孔穴，或上身分所有孔穴。

> 息を吸うことと息を吐くことには、二つの因縁があります。その二つとは何でしょうか？第一に、息を引き寄せる作用（引き込む業）であり、第二に、おへそや上体にある孔（あな）の部分です。

入息、出息有二所依。何等為二？一、身，二、心。所以者何？要依身心，入出息轉，如其所應。若唯依身而息轉者，入無想定、入滅盡定、生無想天諸有情類，彼息應轉。若唯依心而息轉者，入無色定、生無色界，彼息應轉。若唯依身心而轉，非如其所應者，入第四靜慮，若生於彼諸有情類，及羯羅藍、頞部曇、閉尸等位諸有情類，彼息應轉。然彼不轉。是故當知，要依身心，入出息轉，如其所應。

> 息の出入りには、二つの拠り所がある。その二つとは何か？第一に「身体」、第二に「心」である。なぜそう言えるのか。息の出入りは、身体と心に依存して、それぞれに応じて生じるからである。もしも息が身体だけに依存して動くならば、無想定に入った者、滅尽定に入った者、無想天に生まれた生きとし生けるものたちにも、息が動くはずである。また、もしも息が心だけに依存して動くならば、無色定に入った者や無色界に生まれた者たちにも、息が動くはずである。さらに、もし息が身体と心の両方に依存して、しかもそれぞれに応じずに動くならば、第四静慮に入った者、そこに生まれた生きとし生けるものたち、また羯羅藍（受精直後）の状態、頞部曇（卵状の状態）、閉尸（肉塊の状態）にある生きとし生けるものたちにも、息が動くはずである。しかし実際には、それらの者たちには息は動かない。ゆえに知るべきである。息の出入りは、身体と心に依存し、それぞれに応じて動くものであると。

入息、出息有二種行。何等為二？一者、入息向下而行；二者、出息向上而行。

> 入息と出息には、二つの働きがあります。その二つとは何でしょうか。第一は、入息が下へ向かって行くこと。第二は、出息が上へ向かって行くことです。

入息、出息有二種地。何等為二？一、麁孔穴，二、細孔穴。云何麁孔穴？謂從臍處孔穴乃至面門、鼻門，復從面門、鼻門乃至臍處孔穴。云何細孔穴？謂於身中一切毛孔。

> 呼吸には、二種類の通り道があります。どのような二種類かというと、一つは「粗い穴」、もう一つは「細かい穴」です。 では、「粗い穴」とは何かというと、それは、おへそのあたりから顔や鼻の入り口に至り、さらに顔や鼻の入り口からおへそのあたりへと通じる道です。 では、「細かい穴」とは何かというと、それは、体中のすべての毛穴のことです。

入息、出息有四異名。何等為四？一名風，二名阿那波那，三名入息出息，四名身行。風名一種，是風共名；餘之三種，是不共名。

> 息には、吸う息と吐く息に四つの異なる呼び名があります。その四つとは何でしょうか？第一に「風」、第二に「阿那波那（あなはな）」、第三に「入息出息（にゅうそくしゅつそく）」、第四に「身行（しんぎょう）」です。「風」というのは共通した名称ですが、残りの三つは呼吸だけに使われる特別な名前です。

修入出息者有二過患。何等為二？一、太緩方便，二、太急方便。由太緩方便故，生起懈怠，或為惛沈睡眠纏擾其心，或令其心於外散亂。由太急方便故，或令其身生不平等，或令其心生不平等。云何令身生不平等？謂強用力持入出息。由入出息被執持故，便令身中不平風轉。由此最初於諸支節皆生戰掉，名能戰掉。此戰掉風若增長時，能生疾病。由是因緣，於諸支節生諸疾病。是名令身生不平等。云何令心生不平等？謂或令心生諸散亂，或為極重憂惱逼切。是名令心生不平等。

> 出入息を修める者には、二つの過患がある。何が二つか？第一は、修行法が緩すぎること。第二は、修行法が急ぎすぎること、である。 緩すぎると、怠け心が生じたり、眠気や沈み心が心を覆い、あるいは心を外の乱れに向けてしまう。急ぎすぎると、身体に不調をきたしたり、心に不調をきたす。 どのように身体に不調をきたすのか？無理に息を止めようとすることである。息を無理に抑え込もうとするので、体内にうまく巡らない風が生じる。これによって、まず体の各部位に震えが生じ、それを震えと呼ぶ。この震えの風が増すと、病気を引き起こす。このような理由から、体の各所に病気が生じる。これを身体に不調をきたす、という。 どのように心に不調をきたすのか？心に様々な乱れが生じたり、あるいは非常に強い憂いや苦しみに心が押し迫られたりすることである。これを心に不調をきたす、という。

又此阿那波那念，應知略有五種修習。何等為五？一、算數修習，二、悟入諸蘊修習，三、悟入緣起修習，四、悟入聖諦修習，五、十六勝行修習。

> また、この「阿那波那念」には、簡単に言うと五つの修行方法があると知るべきです。その五つとは何か。一つ目は、数えることによる修行。二つ目は、五蘊（ごうん）を悟る修行。三つ目は、縁起を悟る修行。四つ目は、聖なる真理を悟る修行。五つ目は、十六の優れた行いによる修行です。

云何名為算數修習？謂略有四種算數修習。

> どのようなものを「算数の修習」と呼ぶのか。それはおおまかに言って、四種類の算数の修習がある。

何等為四？一者、以一為一算數，二者、以二為一算數，三者、順算數，四者、逆算數。

> 四つとは何か？第一に、一を一として数えること。第二に、二を一として数えること。第三に、順に数えること。第四に、逆に数えること。

云何以一為一算數？謂若入息入時，由緣入出息住念，數以為一。若入息滅，出息生，出向外時，數為第二。如是展轉數至其十。由此算數非略非廣，故唯至十。是名以一為一算數。

> 一を一つとして数えるとは、どういうことか。息を吸うとき、その吸う息に意識を向け、念を保ちながら「一」と数える。吸う息が終わり、吐く息が生じて外へ出ていくとき、それを「二」と数える。このように順に数えていき、十に至る。この数え方は、粗すぎず細かすぎず、十までで止める。これを「一を一つとして数える」という。

云何以二為一算數？謂若入息入而已滅，出息生而已出，爾時總合數以為一。即由如是算數道理，數至其十，是名以二為一算數。入息、出息說名為二，總合二種數之為一，故名以二為一算數。

> 呼吸を一つの数として数えるとはどういうことか。 息を吸い込んでそれが終わり、息を吐き出してそれが終わった時、その二つをまとめて一つの数とする。 このようにして一から十まで数えることを、「二つを一つとして数える方法」という。 吸う息と吐く息、この二つを合わせて一つとして数えるため、このように呼ぶのである。

云何順算數？謂或由以一為一算數，或由以二為一算數，順次展轉數至其十，名順算數。

> 順算数とは何か。一つを一つとして数える方法や、二つを一つとして数える方法などにより、順番に繰り返し数えていって十に至ることを、順算数という。

云何逆算數？謂即由前二種算數，逆次展轉從第十數，次九、次八、次七、次六、次五、次四、次三、次二、次數其一，名逆算數。

> 逆算数とは何か。先に述べた二種類の算数のやり方を逆にして、順に十から始めて、九、八、七、六、五、四、三、二、一と数を下っていく。これを逆算数という。

若時行者，或以一為一算數為依，或以二為一算數為依，於順算數及逆算數已串修習，於其中間心無散亂。無散亂心善算數已，復應為說勝進算數。云何名為勝進算數？謂或依以一為一算數，或依以二為一算數，合二為一而算數之。

> 修行者が、一つの呼吸を一カウントとする方法、または二つの呼吸を一カウントとする方法のどちらかに基づいて、順方向と逆方向の数を数える修行をしっかりと繰り返し行い、その間、心が散乱しない状態になったとします。心が散乱せず、よく数を数えられるようになったなら、さらに「高度な数え方」について教えるべきです。 では、「高度な数え方」とは何でしょうか？それは、一つの呼吸を一カウントとする方法、または二つの呼吸を一カウントとする方法のどちらかに基づき、それらを組み合わせて、二つをまとめて一として数える方法のことです。

若依以一為一而算數者，即入息、出息二合為一。若依以二為一而算數者，即入息、出息四合為一。如是展轉數乃至十。如是後後漸增，乃至以百為一而算數之。由此以百為一算數，漸次數之乃至其十。如是勤修數息念者，乃至十十數以為一，漸次數之乃至滿十。由此以十為一算數，於其中間心無散亂，齊此名為已串修習。又此勤修數息念者，若於中間其心散亂，復應退還從初數起，或順、或逆。若時算數極串習故，其心自然乘任運道，安住入息、出息所緣，無斷無間相續而轉。先於入息有能取轉，入息滅已，於息空位有能取轉；次於出息有能取轉，出息滅已，於息空位有能取轉。如是展轉相續流注，無動無搖，無散亂行，有愛樂轉。齊此名為過算數地，不應復數。唯於入息、出息所緣，令心安住。於入出息應正隨行、應審了達。於入出息及二中間，若轉、若還分位差別，皆善覺了。如是名為算數修習。

> 呼吸の数え方について、一呼吸を一として数える場合、息を吸うことと吐くことを合わせて一とします。二呼吸を一として数える場合、息を吸うことと吐くことを四つ合わせて一とします。このように繰り返して、十まで数えます。その後さらに数を増やし、百の呼吸を一として数えるようにします。百を一として数えることに慣れたら、徐々に数えていき、十まで数えます。このようにして呼吸を数える修行を熱心に行うと、さらに十の十、つまり百の呼吸を一として数え、徐々に数えて十に達するようになります。こうして十を一として数える方法を用い、その間に心が散らばらない状態を「修行が身についた」といいます。 また、この呼吸を数える修行において、もし途中で心が散ってしまったら、再び最初に戻って数え直します。順に数えることも、逆に数えることもあります。もし数えることに非常に慣れて、心が自然に努力しなくても、呼吸という対象に安らかにとどまり、途切れることなく続くようになったなら、まず息を吸うときにその認識が生じ、吸う息が終われば、息のない間に認識が生じます。次に息を吐くときに認識が生じ、吐く息が終われば、息のない間に認識が生じます。このようにして認識が絶え間なく流れ、揺るぎなく、散乱せず、楽しみを持って続くなら、これを「数を超えた段階」といい、もはや数える必要はありません。ただ、吸う息と吐く息という対象に心を落ち着け、それに正しく従い、的確に理解します。吸う息、吐く息、そしてその中間にある、進んだり戻ったりする様々な状態を、すべて明らかに認識します。これを「数による修行」といいます。

又鈍根者，應為宣說如是息念算數修習。彼由此故，於散亂處，令心安住、令心愛樂。若異算數入出息念，彼心應為惛沈睡眠之所纏擾，或應彼心於外馳散。由正勤修數息念故，彼皆無有。若有利根，覺慧聰俊，不好乘此算數加行。

> さらに、鈍根の者には、このように息を数える修行を説くべきです。それにより、彼らは散乱した心を落ち着け、安らぎ、喜びを得ることができます。もし数息観（呼吸を数える修行）とは別の方法で出入息を観じると、心は昏沈や睡眠に悩まされるか、外へ散乱してしまうでしょう。正しく数息観を修めるならば、そのような障りは一切起こりません。もし利根で智慧が優れ、敏腕な者がいて、この数息観を好まなければ、】——ご質問の続きがあればお聞かせください。

若為宣說算數加行，亦能速疾無倒了達，然不愛樂。

> もし教えを説いて、計算や修行について話しても、素早く正確に理解することはできる。しかし、それを好んではいない。

彼復於此入出息緣安住念已，若是處轉、若乃至轉、若如所轉、若時而轉，於此一切，由安住念，能正隨行，能正了達如是加行有如是相。於此加行若修、若習、若多修習為因緣故，起身輕安及心輕安，證一境性，於其所緣愛樂趣入。

> さらに彼は、この出入息という縁（よすが）に基づいて念（おもい）を安んじて保ちます。その息がどの場所で動き、どのように動き、どのように移り変わり、どのような時に動くのか――これらすべてを、念を安んじて保つことで、正しく追い、正しく理解します。このような実践（加行）には、このような相（すがた）があると知るのです。 この実践を修め、繰り返し、何度も何度も行じることにより、身の軽安（かるきやすらぎ）と心の軽安が生じ、心の一境性（いっきょうしょう）を得て、その対象に対して深く愛着し喜んで入っていくことができるのです。

如是彼於算數息念善修習已，復於所取、能取二事，作意思惟，悟入諸蘊。

> このようにして、彼は数息観を善く修習したならば、さらに取るものと取る心という二つの事柄について心に思惟し、諸々の五蘊を悟り入る。

云何悟入？謂於入息、出息及息所依身，作意思惟，悟入色蘊。於彼入息、出息能取念相應領納，作意思惟，悟入受蘊。即於彼念相應等了，作意思惟，悟入想蘊。即於彼念，若念相應思及慧等，作意思惟，悟入行蘊。若於彼念相應諸心、意、識，作意思惟，悟入識蘊。如是行者，於諸蘊中乃至多住，名已悟入。是名悟入諸蘊修習。

> 悟入とは何か。それは、入息・出息およびその息のよりどころとなる身体について、心を働かせて思惟し、色蘊を悟り入れることである。その入息・出息に対する、念と相応する受容（感受）を、心を働かせて思惟し、受蘊を悟り入れる。さらに、その念と相応する了知（表象）を、心を働かせて思惟し、想蘊を悟り入れる。また、その念について、念と相応する思や慧などを、心を働かせて思惟し、行蘊を悟り入れる。もしも、その念と相応する様々な心・意・識を、心を働かせて思惟し、識蘊を悟り入れる。このように修行する者は、諸々の蘊において、繰り返し安住することにより、悟り入れたとされる。これを、諸蘊を悟り入れる修習という。

若時無倒，能見能知唯有諸蘊、唯有諸行、唯事、唯法。彼於爾時，能於諸行悟入緣起。

> あるがままに（顛倒なく）見、知るとき、ただ諸々の蘊（集まり）のみ、ただ諸々の行（現象）のみ、ただ事実のみ、ただ法（真理）のみを観るのです。そのとき、彼は諸々の行（現象）の中に、縁起（原因と結果の関係）を悟り入ります。

云何悟入？謂觀行者，如是尋求：此入出息何依何緣？既尋求已，如實悟入：此入出息依身緣身、依心緣心。復更尋求：此身此心何依何緣？既尋求已，如實悟入：此身此心依緣命根。復更尋求：如是命根何依何緣？既尋求已，如實悟入：如是命根依緣先行。復更尋求：如是先行何依何緣？既尋求已，如實悟入：如是先行依緣無明。

> どのように悟るのか。それは、瞑想する者が次のように探究することである。この呼吸は何に依り、何を縁としているのか。探究した後、あるがままに悟る。この呼吸は身体に依り、身体を縁とし、心に依り、心を縁としている。さらに探究する。この身体と心は何に依り、何を縁としているのか。探究した後、あるがままに悟る。この身体と心は命根に依り、命根を縁としている。さらに探究する。その命根は何に依り、何を縁としているのか。探究した後、あるがままに悟る。その命根は先行（行為）に依り、先行を縁としている。さらに探究する。その先行は何に依り、何を縁としているのか。探究した後、あるがままに悟る。その先行は無明に依り、無明を縁としている。

如是了知無明依緣先行，先行依緣命根，命根依緣身心，身心依緣入息、出息。又能了知無明滅故行滅，行滅故命根滅，命根滅故身心滅，身心滅故入出息滅。如是名為悟入緣起。彼於緣起悟入多住，名善習修。是名悟入緣起修習。

> このように知るべきである――無明が縁となって先行（行）が生じ、先行が縁となって命根が生じ、命根が縁となって身心が生じ、身心が縁となって入息・出息が生じる、と。また、このように知るべきである――無明が滅するゆえに行が滅し、行が滅するゆえに命根が滅し、命根が滅するゆえに身心が滅し、身心が滅するゆえに入息・出息が滅する、と。これを「縁起を悟ること」という。彼がこの縁起の悟りの中に安住して多くとどまるならば、それを「よく習い修すること」という。これが「悟入縁起の修習」と名づけられる。

如是彼於緣起悟入善修習已，復於諸行如實了知從眾緣生，悟入無常。謂悟入諸行是無常故，本無而有，有已散滅。若是本無而有，有已散滅，即是生法、老法、病法、死法。若是生法、老法、病法、死法，即是其苦。若是其苦，即是無我，不得自在，遠離宰主。如是名為由無常、苦、空、無我行，悟入苦諦。

> このようにして彼が縁起を悟り、よく修習したならば、さらに諸々の行（形成されたもの）を、縁から生じるものと如実に了知して、無常を悟り入る。すなわち、諸々の行が無常であるがゆえに、もともとはなくて存在するようになり、存在したならば散り滅びるのである。もし、もともとはなくて存在するようになり、存在したならば散り滅びるものであるならば、それは生の法、老の法、病の法、死の法である。もし、生の法、老の法、病の法、死の法であるならば、それは苦である。もし、それが苦であるならば、それは無我であり、自在を得ず、主宰する主体を遠く離れている。これを、無常・苦・空・無我の行によって、苦諦を悟り入る、と名付ける。

又彼如是能正悟入諸所有行眾緣生起，其性是苦，如病、如癰，一切皆以貪愛為緣。又正悟入即此能生眾苦貪愛若無餘斷，即是畢竟寂靜微妙。我若於此如是了知、如是觀見、如是多住，當於貪愛能無餘斷。如是名能悟入集諦、滅諦、道諦。於此悟入能多住已，於諸諦中證得現觀。是名悟入聖諦修習。

> さらに、彼はこのように正しく悟る──あらゆる行は様々な縁によって生じ、その性質は苦であり、病のようなもの、腫れ物のようなものであり、すべて貪愛を縁として生じる。また、正しく悟る──まさにこの苦を生み出す貪愛が、もし残りなく断たれるならば、それは究極の静寂であり、微妙な境地である。私はこれについて、このように了解し、このように観察し、このように安住するならば、貪愛を残りなく断つことができるであろう。これを、集諦・滅諦・道諦を悟り入れると名づける。この悟りに何度も安住したのち、諸々の真理において現観（明晰な理解）を証得する。これを聖諦の修習を悟り入れると名づける。

如是於聖諦中善修習已，於見道所斷一切煩惱皆悉永斷，唯餘修道所斷煩惱。為斷彼故，復進修習十六勝行。

> このようにして聖なる真理をよく修習すると、見道において断たれるべき一切の煩悩がすべて永久に断たれ、ただ修道において断たれるべき煩悩だけが残ります。その煩悩を断つために、さらに十六の勝れた修行法を進んで修習します。

云何名為十六勝行？

> 十六の殊勝な修行法とは何か。

謂於念入息，我今能學念於入息；於念出息，我今能學念於出息。若長、若短。於覺了遍身入息，我今能學覺了遍身入息；於覺了遍身出息，我今能學覺了遍身出息。於息除身行入息，我今能學息除身行入息；於息除身行出息，我今能學息除身行出息。

> 息を吸うときは、「私は今、息を吸うことへの気づきを学んでいる」と修行します。 息を吐くときは、「私は今、息を吐くことへの気づきを学んでいる」と修行します。 呼吸が長いときは長いと知り、短いときは短いと知ります。 全身で息を吸うのを感じながら、「私は今、全身で息を吸っていることをはっきりと感じ取ることを学んでいる」と修行します。 全身で息を吐くのを感じながら、「私は今、全身で息を吐いていることをはっきりと感じ取ることを学んでいる」と修行します。 息を吸うときに体の動きを静めながら、「私は今、息を吸うことで体の動きを静めることを学んでいる」と修行します。 息を吐くときに体の動きを静めながら、「私は今、息を吐くことで体の動きを静めることを学んでいる」と修行

於覺了喜入息，我今能學覺了喜入息；於覺了喜出息，我今能學覺了喜出息。於覺了樂入息，我今能學覺了樂入息；於覺了樂出息，我今能學覺了樂出息。於覺了心行入息，我今能學覺了心行入息；於覺了心行出息，我今能學覺了心行出息。於息除心行入息，我今能學息除心行入息；於息除心行出息，我今能學息除心行出息。

> 喜びを感じながら息を吸うことを、私は今、学び実践しています。 喜びを感じながら息を吐くことを、私は今、学び実践しています。 安らぎを感じながら息を吸うことを、私は今、学び実践しています。 安らぎを感じながら息を吐くことを、私は今、学び実践しています。 心の働きを感じながら息を吸うことを、私は今、学び実践しています。 心の働きを感じながら息を吐くことを、私は今、学び実践しています。 心の働きを静めながら息を吸うことを、私は今、学び実践しています。 心の働きを静めながら息を吐くことを、私は今、学び実践しています。

於覺了心入息，我今能學覺了心入息；於覺了心出息，我今能學覺了心出息。於喜悅心入息，我今能學喜悅心入息；於喜悅心出息，我今能學喜悅心出息。於制持心入息，我今能學制持心入息；於制持心出息，我今能學制持心出息。於解脫心入息，我今能學解脫心入息；於解脫心出息，我今能學解脫心出息。

> 心の状態を見つめながら息を吸うことを、私は今学んでいます。 心の状態を見つめながら息を吐くことを、私は今学んでいます。 喜びの心で息を吸うことを、私は今学んでいます。 喜びの心で息を吐くことを、私は今学んでいます。 心をしっかりと保ちながら息を吸うことを、私は今学んでいます。 心をしっかりと保ちながら息を吐くことを、私は今学んでいます。 心を解放して息を吸うことを、私は今学んでいます。 心を解放して息を吐くことを、私は今学んでいます。

於無常隨觀入息，我今能學無常隨觀入息；於無常隨觀出息，我今能學無常隨觀出息。於斷隨觀入息，我今能學斷隨觀入息；於斷隨觀出息，我今能學斷隨觀出息。於離欲隨觀入息，我今能學離欲隨觀入息；於離欲隨觀出息，我今能學離欲隨觀出息。於滅隨觀入息，我今能學滅隨觀入息；於滅隨觀出息，我今能學滅隨觀出息。

> 私は今、息を吸うときに「無常」を観察することを学びます。 私は今、息を吐くときに「無常」を観察することを学びます。 私は今、息を吸うときに「執着を断つ」ことを観察することを学びます。 私は今、息を吐くときに「執着を断つ」ことを観察することを学びます。 私は今、息を吸うときに「欲望から離れる」ことを観察することを学びます。 私は今、息を吐くときに「欲望から離れる」ことを観察することを学びます。 私は今、息を吸うときに「滅び」を観察することを学びます。 私は今、息を吐くときに「滅び」を観察することを学びます。

問：如是十六差別云何？

> 問：これらの十六種類の違いは、具体的にはどのようなものですか？

答：有學見迹已得四念住等，於入出息所緣作意復更進修，為斷餘結。是故念言：於念入息，我今能學念於入息；於念出息，我今能學念於出息。

> 答え：学びある者が見跡（けんじゃく）を得て、すでに四念住などを獲得していても、入出息という対象への心の働きをさらに修行し、残った煩悩（けつ）を断ち切ろうとします。それゆえ、次のように心に念じます。「入息を観じるとき、私は今、入息を観じることを学ぶことができる。出息を観じるとき、私は今、出息を観じることを学ぶことができる」と。

若緣入息、出息境時，便作念言：我今能學念長入息、念長出息。若緣中間入息、中間出息境時，便作念言：我今能學念短入息、念短出息。如入息出息長轉，及中間入息、中間出息短轉，即如是了知。如是名為若長、若短。若緣身中微細孔穴，入息、出息周遍隨入諸毛孔中，緣此為境，起勝解時，便作念言：我於覺了遍身入息出息，我今能學覺了遍身入息出息。若於是時，或入息、中間入息已滅，出息、中間出息未生，緣入息出息空無位、入息出息遠離位為境；或出息、中間出息已滅，入息、中間入息未生，緣出息入息空無位、出息入息遠離位為境。即於此時便作念言：於息除身行入息，我今能學息除身行入息；於息除身行出息，我今能學息除身行出息。又即於此若修、若習、若多修習為因緣故，先未串習入出息時，所有剛強苦觸隨轉，今已串習入出息故，皆得息除，有餘柔軟樂觸隨轉。便作念言：於息除身行入息，我今能學息除身行入息；於息除身行出息，我今能學息除身行出息。

> もしも息を吸うことや吐くことを感じている時に、こう心に念じます。「今、私は長く息を吸うこと、長く息を吐くことを正しく観察している。」 もしもその中間の息、すなわち入息と出息の途中にある息を感じている時には、こう心に念じます。「今、私は短く息を吸うこと、短く息を吐くことを正しく観察している。」 入息や出息が長く続く場合、またその中間にある入息や出息が短く続く場合、そのままの状態をあるがままに知るのです。これを「長さ」と「短さ」と呼びます。 もしも身体の中の微細な毛穴にまで、入息や出息が体中に満ちて入り込むのを感じ、それを観察の対象として明確に理解した時には、こう心に念じます。「今、私は全身における息の出入りを覚知している。全身における息の出入りを覚知することを学んでいる。」 もしも、入息やその中間の息がすでに消え去り、出息やその中間の息がまだ生じていない時、入出息が存在しない空白の状態、入出息が遠く離れた状態を観察の対象とする。 あるいは、出息やその中間の息がすでに消え去り、入息やその中間の息がまだ生じていない時、出息入息が存在しない空白の状態、出息入息が遠く離れた状態を観察の対象とする。 その時に、こう心に念じます。「身体の動きを静めて息を吸うことを、今、私は学んでいる。身体の動きを静めて息を吸うことを学んでいる。身体の動きを静めて息を吐くことを、今、私は学んでいる。身体の動きを静めて息を吐くことを学んでいる。」 さらに、このような修行を繰り返し、何度も何度も練習した結果、かつては慣れていなかった入出息には、荒く苦しい感覚が伴っていたが、今では入出息に慣れたことで、そうした荒い感覚はすべて静まり、柔らかく快い感覚が伴うようになる。 その時に、こう心に念じます。「身体の動きを静めて息を吸うことを、今、私は学んでいる。身体の動きを静めて息を吐くことを、今、私は学んでいる。」

又於如是阿那波那念勤修行者，若得初靜慮，或得第二靜慮時，便作念言：於覺了喜入息出息，我今能學覺了喜入息出息。若得離喜第三靜慮時，便作念言：於覺了樂入息出息，我今能學覺了樂入息出息。第三靜慮已上，於阿那波那念無有更修加行道理，是故乃至第三靜慮，宣說息念加行所攝。

> また、このような安那般那念（あなぱんなねん）を熱心に修行している人が、初禅（しょぜん）を得たり、第二禅を得た時に、こう考えます。「喜びを感じ取りながらの入息と出息を、今、私は学び、悟ることができる」と。そして、喜びを離れた第三禅を得た時には、こう考えます。「楽（らく）を感じ取りながらの入息と出息を、今、私は学び、悟ることができる」と。第三禅以上では、安那般那念に対してさらに修行を積む方法はありません。そのため、第三禅に至るまでが、息を観ずる修行（加行）に含まれると説かれています。

又即如是覺了喜者、覺了樂者，或有暫時生起忘念。或謂有我我所，或發我慢，或謂我當有，或謂我當無，或謂我當有色，或謂我當無色，或謂我當有想，或謂我當無想，或謂我當非有想非無想。生起如是愚癡想思俱行種種動慢、戲論、造作、貪愛；纔生起已，便能速疾以慧通達，不深染著，方便斷滅、除遣、變吐。由是加行，便作念言：於覺了心行入息出息，我今能學覺了心行入息出息；於息除心行入息出息，我今能學息除心行入息出息。

> さて、このようにして喜びを覚り、楽を覚りつつも、時として一瞬のうちに忘れの念が生じることがあります。あるいは「私」や「私のもの」という考えを起こし、あるいは我慢（おごり）を発し、「私は存在するであろう」とか「私は存在しないであろう」とか、「私は色を持つであろう」「私は色を持たないであろう」「私は想（概念）を持つであろう」「私は想を持たないであろう」「私は想があるのでもなく、ないのでもないであろう」と主張します。このような愚かな妄想や思考、様々な動き、傲慢、戯論（無駄な分別）、作り出し、貪りの愛着が生じるのです。 しかし、それらが生じたかと思うと、すぐに慧（智慧）によって速やかに理解し、深く染まらずに、巧みな方法で断ち消し、除き去り、吐き捨てます。このように実践を続けて、次のように心に思い起こします。 「心の働きを覚りつつある息の出入りについて、今私は、心の働きを覚りつつ行う息の出入りを学ぶことができる。心の働きを静めつつある息の出入りについて、今私は、心の働きを静めつつ行う息の出入りを学ぶことができる。」と。

又若得根本第一、第二、第三靜慮，彼定已得初靜慮近分未至依定，依此觀察所生起心。謂如實知、如實覺了，或有貪心、或離貪心、或有瞋心、或離瞋心、或有癡心、或離癡心、略心、散心、下心、舉心、有掉動心、無掉動心、有寂靜心、無寂靜心、有等引心、無等引心、善修習心、不善修習心、善解脫心、不善解脫心。於如是心皆如實知、如實覺了，是故念言：於覺了心入息出息，我今能學覺了心入息出息。

> また、もし人が初禅・第二禅・第三禅という根本の静慮（深い瞑想状態）を得たなら、その人はすでに初禅の入り口である「近分未至定」の境地を手に入れています。この依りどころとなる禅定にのっとって、心に生じる様々なはたらきを観察します。すなわち、あるいは欲に執着する心、あるいは欲から離れた心、あるいは怒りの心、あるいは怒りを離れた心、あるいは迷いの心、あるいは迷いを離れた心、狭い心、散った心、落ち込んだ心、高ぶった心、動揺のある心、動揺のない心、静まった心、静まっていない心、集中した心、集中していない心、よく修められた心、よく修められていない心、よく解脱した心、よく解脱していない心というように、これらの心のありようをあるがままに知り、あるがままに覚ります。ゆえにこう念じます。「心の動きを覚りながら呼吸をしている。私は今、心の動きを覚りながらの呼吸を学んでいる」と。

彼若有時，見為惛沈睡眠蓋覆障其心，由極於內住寂止故，爾時於外隨緣一種淨妙境界，示現、教導、讚勵、慶喜，策發其心。是故念言：於喜悅心入息出息，我今能學喜悅心入息出息。

> もし修行者が、時に昏沈（こんじん）や睡眠（すいみん）の覆いによって心が曇り、内側へと静まりすぎてしまうことがあります。そのような時には、外側の清らかで美しい対象に心を向け、それを見せ、教え、励まし、喜ばせることで、再び心を奮い立たせます。こうして彼は自らに言い聞かせます――「喜びの心を持って息を吸い、息を吐こう。今、私は喜びの心で呼吸することを学んでいるのだ」と。

彼若有時，見為掉舉惡作蓋覆障其心，由極於外住囂舉故，爾時於內安住寂靜，制持其心。是故念言：於制持心入息出息，我今能學制持心入息出息。

> もし、時に心が浮つきや後悔の覆いによって妨げられるときは、極めて外に向かってざわつき高ぶっているので、その時は内に静けさを保ち、心を制御します。そのため、「心を制御しながらの出入りの息を、今私は学ぶ」と心に留めます。

若時於心善修、善習、善多修習為因緣故，令現行蓋皆得遠離，於諸蓋中心得清淨。是故念言：於解脫心入息出息，我今能學解脫心入息出息。

> もし心がよく修められ、よく慣らされ、よく繰り返し修習されるならば、その因縁によって、現れている障り（五蓋）はすべて遠ざけられ、それらの障りに対して心は清らかになる。そのため、こう考える。「解脱の心をもって息を吸い、息を吐くことを、私は今、学びつつあるのだ。解脱の心をもって息を吸い、息を吐くことを。」

彼於諸蓋障修道者心已解脫，餘有隨眠，復應當斷。為斷彼故，起道現前。謂於諸行無常法性，極善精懇，如理觀察。是故念言：於無常隨觀入息出息，我今能學無常隨觀入息出息。

> 彼は、様々な妨げとなるもの（蓋障）を修行によって心から解き放った。しかし、なおも潜在的な煩悩（随眠）が残っているため、それを断ち切らねばならない。そのために、修行の道を再び現前させるのである。すなわち、すべての現象（諸行）が無常であるという道理を、非常に緻密に、かつ真剣に、理にかなった観察をするのである。そこで彼はこう心に誓う。「無常の観察と共に、息の出入りを学びます。私は今、無常の観察を伴った呼吸の修行を身につけることができますように」と。

又彼先時，或依下三靜慮，或依未至依定，已於奢摩他修瑜伽行。今依無常隨觀，復於毘鉢舍那修瑜伽行。如是以奢摩他、毘鉢舍那熏修心已，於諸界中，從彼隨眠而求解脫。云何諸界？所謂三界。一者、斷界，二者、離欲界，三者、滅界。見道所斷一切行斷，名為斷界；修道所斷一切行斷，名離欲界；一切依滅，名為滅界。思惟如是三界寂靜、安隱、無患，修奢摩他、毘鉢舍那。彼由修習、多修習故，從餘修道所斷煩惱，心得解脫。是故念言：於斷隨觀、離欲隨觀、滅隨觀入息出息，我今能學斷隨觀、離欲隨觀、滅隨觀入息出息。

> さらに、その修行者は、以前に第三静慮以下の境地、あるいは未至定を依り所として、すでに「奢摩他（しゃまた）」の修行を積んでいました。今度は「無常随観」に基づいて、「毘鉢舎那（びはっしゃな）」の修行を始めます。このようにして、奢摩他と毘鉢舎那によって心を鍛えた後、様々な「界（境界）」において、その潜在的な煩悩（ずいみん）からの解脱を求めます。 では、その「諸界」とは何でしょうか。それは三つの界です。第一に「断界」、第二に「離欲界」、第三に「滅界」です。 「見道」において断たれるべきすべての行（現象）を断つことを「断界」と言います。 「修道」において断たれるべきすべての行を断つことを「離欲界」と言います。 そして、すべての依存（依）が滅することを「滅界」と言います。 このように、これら三つの界が静かで、安らかで、害のないものであると観想し、奢摩他と毘鉢舎那を修行します。 その修行を繰り返し、深めることによって、修道において断たれるべき残りの煩悩から心が解脱します。 そこで、修行者はこう心に念じます。「断随観、離欲随観、滅随観の入出息について、私は今、断随観、離欲随観、滅随観の入出息を学ぶことができるのだ」と。

如是彼於見、修所斷一切煩惱皆永斷故，成阿羅漢，諸漏永盡。此後更無所應作事，於所決擇已得究竟。

> このように、彼（修行者）は、見道と修道において断たれるべき一切の煩悩を永遠に断ち切ったので、阿羅漢となり、すべての煩悩の漏れが永遠に尽きました。その後は、なすべきことは何もなく、すでに悟りの決断を究め尽くしました。

是名十六勝行。

> これが十六の優れた修行法です。

修習如是，名為五種修習阿那波那念。多尋思行補特伽羅，應於是中正勤修學，愛樂乘御。若於所緣有思遽務、有散亂者，於內各別應當親近如是觀行。

> このように修行することを「五種の阿那波那念」の修行といいます。 多くを考え巡らす傾向のある人は、この修行に真摯に取り組み、喜んで実践すべきです。 もし心の対象に対して、慌ただしく散漫になってしまうなら、内省しながら、一つひとつこの観察の修行に親しむべきです。

若於此中勤修習者，尋思散動皆無所有，心於所緣速疾安住，深生愛樂。是名第五多尋思行補特伽羅淨行所緣。

> このように努力して修練する者は、あれこれと考える雑念や心の散乱がすべて消え去り、心が対象に素早く落ち着き、深い愛着と喜びを感じるようになります。これが、第五の「多く考える傾向のある人」のための、心を清める修行の対象です。

如是總名淨行所緣。

> このように、これらを総称して「清らかな行いのよりどころ」といいます。