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title: "瑜伽師地論 · 3目 善巧所緣境事(五種)"
description: "瑜伽师地论是佛教大乘瑜伽行派的重要经典，相传由弥勒菩萨口述，无著菩萨记录，唐代高僧玄奘于贞观年间从印度取回并译成汉文。该论共100卷，系统阐述瑜伽行派的教义，内容包括十七地、三性、八识、修行次第等核心理论，被誉为大乘佛教的百科全书。作为唯识学的根本论典，瑜伽师地论奠定了唯识学派的理论基础，对汉传佛教和藏传佛教影响深远，在佛教思想史上具有崇高地位，是研究唯识学和瑜伽行派必读的经典著作。"
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云何名為善巧所緣？

> 善巧所緣とは、どのようなものかと言いますと、

謂此所緣略有五種。一、蘊善巧，二、界善巧，三、處善巧，四、緣起善巧，五、處非處善巧。

> ここで言う「対象」とは、大きく分けて五つの種類がある。第一に「五蘊（ごうん）の巧みな理解」、第二に「十八界（じゅうはちかい）の巧みな理解」、第三に「十二処（じゅうにしょ）の巧みな理解」、第四に「縁起（えんぎ）の巧みな理解」、第五に「道理に合うことと合わないことの巧みな理解」である。

蘊善巧者，云何蘊？云何蘊善巧？

> 蘊についての巧みな理解とは、いったい「蘊」とは何か、また「蘊を巧みに理解する」とはどういうことか、ということです。

謂蘊有五。則色蘊、受蘊、想蘊、行蘊、識蘊。

> 蘊み（かみ）には五つの種類があります。すなわち、色蘊（しきうん）、受蘊（じゅうん）、想蘊（そううん）、行蘊（ぎょううん）、識蘊（しきうん）です。

云何色蘊？謂諸所有色，一切皆是四大種及四大種所造。此復若過去、若未來、若現在、若內、若外、若麁、若細、若劣、若勝、若遠、若近。總名色蘊。

> 色のまとまり（色蘊）とは何でしょうか？ あらゆる「色」、すなわち物質的なものは、すべて地・水・火・風の四つの大きな要素（四大種）と、それらから作られたものから成っています。 これらを、過去のもの、未来のもの、現在のもの、内側のもの、外側のもの、粗いもの、細かいもの、劣ったもの、優れたもの、遠いもの、近いものというように分類したものすべてをまとめて、色のまとまり（色蘊）と呼びます。

云何受蘊？謂或順樂觸為緣諸受，或順苦觸為緣諸受，或順不苦不樂觸為緣諸受。復有六受身。則眼觸所生受，耳、鼻、舌、身、意觸所生受。總名受蘊。

> 受蘊とは何か？それは、快い接触によって生じる様々な感覚、苦しい接触によって生じる様々な感覚、あるいは苦しくも快くもない接触によって生じる様々な感覚を指す。また、六種類の感覚の集まりがある。すなわち、眼の接触から生じる感覚、耳、鼻、舌、身体、心の接触から生じる感覚である。これらを総称して受蘊と呼ぶ。

云何想蘊？謂有相想、無相想、狹小想、廣大想、無量想、無諸所有無所有處想。復有六想身。則眼觸所生想，耳、鼻、舌、身、意觸所生想。總名想蘊。

> 想蘊とは何か。それは、ありありとした形のある想い、形のない想い、狭い想い、広大な想い、限りない想い、何もない境地の想いである。さらに、六つの想いのグループがある。すなわち、眼の触れ合いから生じる想い、耳・鼻・舌・身・意の触れ合いから生じる想いである。これらを総称して想蘊という。

云何行蘊？謂六思身。則眼觸所生思，耳、鼻、舌、身、意觸所生思。復有所餘，除受及想諸心法等。總名行蘊。

> 行蘊とは何か。それは、六種類の「思」（心の働き）のことである。すなわち、眼の触れ合いから生じる思、耳・鼻・舌・身・意の触れ合いから生じる思である。また、そのほかに、感受作用（受）や表象作用（想）を除いた心の働きなどを含めて、総じて行蘊と名づける。

云何識蘊？謂心、意、識。復有六識身。則眼識，耳、鼻、舌、身、意識。總名識蘊。前受、想、行蘊及此識蘊，皆有過去、未來、現在、內、外等差別，如前廣說。是名為蘊。

> 識蘊とは何か。それは心・意・識を指す。また、六つの識の集まりがある。すなわち、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識である。これらを総称して識蘊という。 先に述べた受蘊・想蘊・行蘊と、この識蘊には、すべて過去・未来・現在・内・外などの区分がある。これについては前に詳しく述べた通りである。これらを総称して蘊という。

云何蘊善巧？謂善了知如所說蘊種種差別性、非一眾多性，除此法外，更無所得、無所分別，是名略說蘊善巧義。

> どのようにして「蘊（かたまり）の巧みな理解」を得るのか。 それは、先に説かれた五蘊（色・受・想・行・識）について、その種類がさまざまであり、一つではなく多数であることをよく知ること。 そして、これらの要素（法）の他には、何も得るものはなく、何も分別すべきものがないと理解すること。 これを、簡潔に言えば「蘊の巧みな理解」の意味とする。

云何名蘊種種差別性？謂色蘊異、受蘊異，乃至識蘊異，是名種種差別性。

> さまざまな「蘊」の違いとは何か。 それは、色蘊と受蘊が異なり、さらに識蘊に至るまで、それぞれが異なっていることである。これを、さまざまな違いがある性質という。

云何名蘊非一眾多性？謂色蘊非一眾多品類。大種所造差別故，去來今等品類差別故。是名色蘊非一眾多性。如是餘蘊，隨其所應皆當了知。

> なぜ「蘊（かたまり）」は一つではなく、多くの性質を持つと言われるのでしょうか。物質の集まりである「色蘊」は、一つの存在ではなく、多くの種類に分かれています。それは、地・水・火・風の四大元素と、それらから作られた物質による違いがあるからです。また、過去・未来・現在といった時間的な分類による違いもあるからです。これが「色蘊が一つではなく、多くの性質を持つ」という意味です。同じように、残りの「受蘊」「想蘊」「行蘊」「識蘊」についても、それぞれの性質に従って理解すべきです。

云何除此法外，更無所得、無所分別？謂唯蘊可得、唯事可得。非離蘊外有我可得，有常恒住無變易法是可得者。亦無少法是我所有。故除此外，更無所得、無所分別。

> いったいなぜ、この教えのほかに、得るものもなく、分別することもないのでしょうか。それは、ただ五蘊（ごうん）が認められ、ただ現象が認められるからです。五蘊を離れて、永遠に変わらない我（が）というものが得られることはありません。また、常住不変（じょうじゅうふへん）の法が得られることもありません。さらに、わずかなものでも「我のもの」という所有物はありません。このように、この教えのほかに、得るものもなく、分別することもないのです。

云何界？云何界善巧？

> 「界」とは何か。「界」を巧みに理解するとは何か。

謂界有十八。則眼界、色界、眼識界，耳界、聲界、耳識界，鼻界、香界、鼻識界，舌界、味界、舌識界，身界、觸界、身識界，意界、法界、意識界。是名為界。

> 「界」には十八種類あります。 すなわち、眼の領域、色の領域、眼の認識の領域、 耳の領域、音の領域、耳の認識の領域、 鼻の領域、香りの領域、鼻の認識の領域、 舌の領域、味の領域、舌の認識の領域、 体の領域、触れられるものの領域、体の認識の領域、 心の領域、心の対象の領域、心の認識の領域です。 これらを「界」と呼びます。

若復於彼十八種法，從別別界、別別種子、別別種姓生起出現，如實了知、忍可、審察，名界善巧。如實了知十八種法，從別別界別別而轉，即於因緣而得善巧，是故說此名界善巧。

> さらに、その十八種類の法（はたらき）について、それぞれ異なる界（領域）、異なる種子（もと）、異なる種姓（性質）から生じ現れることを、あるがままに知り、受け入れ、詳しく観察することを、「界の巧みな理解」と呼びます。この十八種類の法が、それぞれ別々の領域から別々に働き出ることをあるがままに知るならば、すなわち因縁（原因と条件）について巧みになるのです。それゆえに、これを「界の巧みな理解」と説くのです。

云何處？云何處善巧？

> 「ところ」とは何か。また、「ところに対する巧みな知恵」とは何か。

謂處有十二。則眼處、色處、耳處、聲處、鼻處、香處、舌處、味處、身處、觸處、意處、法處。是名為處。

> 十二の処（ところ）があります。すなわち、眼処、色処、耳処、声処、鼻処、香処、舌処、味処、身処、触処、意処、法処です。これらを「処」と名づけます。

處善巧者，謂眼為增上緣，色為所緣緣，等無間滅意為等無間緣，生起眼識，及相應法。耳為增上緣，聲為所緣緣，等無間滅意為等無間緣，生起耳識及相應法。如是乃至意為等無間緣，此生作意為增上緣，法為所緣緣，生起意識及相應法。如是六識身及相應法，皆由三緣而得流轉。謂增上緣、所緣緣、等無間緣。若於如是諸內外處緣得善巧，名處善巧。

> 処に巧みであるとは、すなわち、眼を増上縁とし、色を所縁縁とし、等無間に滅する意を等無間縁として、眼識およびそれに対応する心のはたらきが生じることです。 耳を増上縁とし、声を所縁縁とし、等無間に滅する意を等無間縁として、耳識およびそれに対応する心のはたらきが生じることです。 このようにして、意を等無間縁とし、この発生する作意を増上縁とし、法を所縁縁として、意識およびそれに対応する心のはたらきが生じることです。 このように六つの識の集まりとそれに対応する心のはたらきは、すべて三つの縁によって流れ続けます。すなわち、増上縁、所縁縁、等無間縁です。 もし、このような内と外の様々な処（認識の基盤）についての縁を巧みに理解するならば、それを「処に巧みである」と言います。

云何緣起？云何緣起善巧？

> 縁起とは何でしょうか。 また、縁起を巧みに理解するとはどのようなことでしょうか。

謂無明緣行，行緣識，識緣名色，名色緣六處，六處緣觸，觸緣受，受緣愛，愛緣取，取緣有，有緣生，生緣老死，乃至招集如是純大苦蘊。是名緣起。

> 無明（むみょう）によって行（ぎょう）が生じ、行によって識（しき）が生じ、識によって名色（みょうしき）が生じ、名色によって六処（ろくしょ）が生じ、六処によって触（そく）が生じ、触によって受（じゅ）が生じ、受によって愛（あい）が生じ、愛によって取（しゅ）が生じ、取によって有（う）が生じ、有によって生（しょう）が生じ、生によって老死（ろうし）が生じます。こうして、このような純粋な大きな苦しみの集まりが生じるのです。これを「縁起（えんぎ）」といいます。

若復了知唯有諸法滋潤諸法，唯有諸法等潤諸法，唯有諸行引發諸行；而彼諸行因所生故、緣所生故，本無而有，有已散滅，體是無常。是無常故，即是生法，老法，病法，死法，愁、悴、悲、嘆、憂、苦、惱法；是生法故，乃至是惱法故，則名為苦。由是苦故，不得自在，其力羸劣，由是因緣，定無有我。若於如是緣生法中，由如是等種種行相，善巧了達，或無常智、或苦智、或無我智，是名緣起善巧。

> もし、さらに次のように正しく理解するならば――すなわち、諸々の〔現象〕が互いに他の〔現象〕を潤い育てるに過ぎず、諸々の〔現象〕が互いに他の〔現象〕と等しく潤い合うのみであり、諸々の行（形成作用）が他の行を引き起こすに過ぎないと知るならば。 そして、それらの行は、因によって生じ、縁によって生じたものであり、もともと無かったものが有となり、有となった後には消え去り、その本質は無常である。この無常であるがゆえに、それはすなわち生ずる法、老いる法、病む法、死ぬ法、憂い、悩み、悲しみ、嘆き、苦しみ、煩わしさの法である。生ずる法であるがゆえに、さらには煩わしさの法であるがゆえに、それは「苦」と呼ばれる。 この苦であるがゆえに、自在ではなく、その力は弱く劣っている。このような因縁によって、確かに「我」は存在しないと知る。 もし、このような縁起の法において、このような様々な行相によって、巧みに理解し了達するならば、あるいは無常の智慧、あるいは苦の智慧、あるいは無我の智慧が生じる。これを縁起の善巧という。

又處非處善巧，當知即是緣起善巧差別。此中差別者，謂由處非處善巧故，能正了知非不平等因果道理。則善不善法有果異熟。若諸善法能感可愛果異熟法，諸不善法能感非愛果異熟法。若能如是如實了知，名處非處善巧。

> また、道理（ことわり）に関する巧みさとは、縁起（原因と結果のつながり）に関する巧みさの別の表現であると知るべきです。その違いとは、道理に関する巧みさによって、平等でない因果の道理を正しく理解できるということです。 すなわち、善い行いと悪い行いには、それぞれ結果としての報いがあります。善い行いは望ましい報いを生み、悪い行いは望ましくない報いを生みます。このことをあるがままに理解できることを、道理に関する巧みさと呼ぶのです。

此五善巧略則為二。一、自相善巧，二、共相善巧。由蘊善巧顯自相善巧；由餘善巧顯共相善巧。

> この五つの巧みな理解の方法は、大きく二つにまとめられます。第一は「自相善巧」、第二は「共相善巧」です。 「蘊善巧」によって自相善巧が明らかになり、残りの善巧によって共相善巧が明らかになります。