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title: "瑜伽師地論 · 1"
description: "瑜伽师地论是佛教大乘瑜伽行派的重要经典，相传由弥勒菩萨口述，无著菩萨记录，唐代高僧玄奘于贞观年间从印度取回并译成汉文。该论共100卷，系统阐述瑜伽行派的教义，内容包括十七地、三性、八识、修行次第等核心理论，被誉为大乘佛教的百科全书。作为唯识学的根本论典，瑜伽师地论奠定了唯识学派的理论基础，对汉传佛教和藏传佛教影响深远，在佛教思想史上具有崇高地位，是研究唯识学和瑜伽行派必读的经典著作。"
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云何菩提分修？

> 菩提分の修行とは、どのようなものですか。

謂於三十七菩提分法親近積集，若修、若習、若多修習，是名菩提分修。

> 三十七の悟りの要素（菩提分法）を繰り返し身につけ、修行し、慣れ親しみ、何度も修めること。これを「菩提分の修習」と呼びます。

何等名為三十七種菩提分法？

> 三十七の菩提分法（悟りへの道を構成する三十七の要素）とは何でしょうか。

謂四念住、四正斷、四神足、五根、五力、七覺支、八聖道。

> 四つの心の置き所（四念処）、四つの正しい努力（四正断）、四つの超自然的能力（四神足）、五つの信の根（五根）、五つの力（五力）、七つの悟りの要素（七覚支）、八つの正しい道（八聖道）をいう。

四念住者，一、身念住，二、受念住，三、心念住，四、法念住。

> 四つの「念住（気づきの確立）」とは、第一に「身の念住」、第二に「受の念住」、第三に「心の念住」、第四に「法の念住」です。

四正斷者，一、於已生惡不善法為令斷故，生欲、策勵、發勤精進，策心、持心、正斷。二、於未生惡不善法為不生故，生欲、策勵、發勤精進，策心、持心、正斷。三、於未生善法為令生故，生欲、策勵、發勤精進，策心、持心、正斷。四、於已生善法為欲令住、令不忘失、令修圓滿、令倍修習、令其增長、令其廣大，生欲、策勵、發勤精進，策心、持心、正斷。

> 四つの正しい努力（四正断）とは、次の通りです。 第一に、すでに生じた悪い行いや心の状態を断ち切るために、強い意欲を持ち、心を奮い立たせ、努力を怠らず、心を整え、集中し、正しく断ち切ろうと努めること。 第二に、まだ生じていない悪い行いや心の状態を生じさせないために、強い意欲を持ち、心を奮い立たせ、努力を怠らず、心を整え、集中し、正しく防ごうと努めること。 第三に、まだ生じていない善い行いや心の状態を生じさせるために、強い意欲を持ち、心を奮い立たせ、努力を怠らず、心を整え、集中し、正しく生み出そうと努めること。 第四に、すでに生じた善い行いや心の状態を、保ち、忘れず、完全に修め、さらに繰り返し修習し、成長させ、広く深めるために、強い意欲を持ち、心を奮い立たせ、努力を怠らず、心を整え、集中し、正しく保ち育てようと努めること。

四神足者，一、欲三摩地斷行成就神足，二、勤三摩地斷行成就神足，三、心三摩地斷行成就神足，四、觀三摩地斷行成就神足。

> 四つの神足（しじそく）とは、第一に、欲（よく）の三昧（さんまい）によって悪を断ち切り、成就する神足。第二に、精進（しょうじん）の三昧によって悪を断ち切り、成就する神足。第三に、心（しん）の三昧によって悪を断ち切り、成就する神足。第四に、観（かん）の三昧によって悪を断ち切り、成就する神足である。

五根者，一、信根，二、精進根，三、念根，四、定根，五、慧根。五力者，一、信力，二、精進力，三、念力，四、定力，五、慧力。

> 五根とは、第一に信根、第二に精進根、第三に念根、第四に定根、第五に慧根です。五力とは、第一に信力、第二に精進力、第三に念力、第四に定力、第五に慧力です。

七覺支者，一、念等覺支，二、擇法等覺支，三、精進等覺支，四、喜等覺支，五、安等覺支，六、定等覺支，七、捨等覺支。

> 七つの覚りの要素（七覚支）とは、第一に、正しい気づきの覚りの要素。第二に、正しい選択の覚りの要素。第三に、正しい精進の覚りの要素。第四に、喜びの覚りの要素。第五に、やすらぎの覚りの要素。第六に、心を落ち着ける覚りの要素。第七に、平静でいる覚りの要素です。

八支聖道者，一、正見，二、正思惟，三、正語，四、正業，五、正命，六、正精進，七、正念，八、正定。

> 八つの正しい道とは、第一に正しい見解、第二に正しい思考、第三に正しい言葉、第四に正しい行い、第五に正しい生活、第六に正しい努力、第七に正しい気づき、第八に正しい精神統一です。

今於此中，云何為身？云何於身住循身觀？云何為念？云何念住？

> さて、この中で、何を「身」と呼ぶのか。どのようにして身の観察を修めるのか。何を「念」と呼ぶのか。どのようにして念を確かに保つのか。

略說身相有三十五。謂內身、外身、根所攝身、非根所攝身、有情數身、非有情數身、麁重俱行身、輕安俱行身、能造身、所造身、名身、色身、那落迦身、傍生身、祖父國身、人身、天身、有識身、無識身、中身、表身、變異身、不變異身、女身、男身、半擇迦身、親友身、非親友身、中庸身、劣身、中身、妙身、幼身、少身、老身。如是名為身相差別。

> 身体の特徴について、大きく分けて三十五種類があると説かれています。 すなわち、内なる身体、外なる身体、 感覚器官に属する身体、感覚器官に属さない身体、 有情に数えられる身体、有情に数えられない身体、 重さと共にある身体、軽やかさと共にある身体、 身体を構成する要素、構成された身体、 名前としての身体、物質としての身体、 地獄の身体、畜生の身体、 餓鬼の身体、人間の身体、天人の身体、 識を有する身体、識を有さない身体、 内側の身体、外側の身体、 変化する身体、変化しない身体、 女性の身体、男性の身体、 中性の身体、親しい者の身体、 親しくない者の身体、どちらでもない者の身体、 劣った身体、中位の身体、すぐれた身体、 幼い身体、若い身体、老いた身体。 これらを身体の特徴の違いと説くのである。

住循身觀略有三種。謂依身增上聞思修慧。由此慧故，於一切身、一切相，正觀察、正推求、隨觀隨覺。

> 身体に基づいて観察する方法は、大きく三つあります。それは、身体をよりどころとした「聞・思・修」の三つの智慧です。この智慧によって、あらゆる身体とあらゆる状態を、正しく観察し、正しく探求し、観察しながら気づきを保ちます。

念，謂依身增上，受持正法，思惟法義，修習作證，於文、於義修作證中，心無忘失。

> 念（ねん）とは、身体をよりどころとして、正しい教えを受け持ち、その教えの意味を深く考え、実践によって悟りを得ることをいいます。そして、教えの言葉やその意味に心を向けて、その実践や悟りを求める中で、心に忘れることなく保ち続けることです。

若審思惟：我於正法為正受持，為不爾耶？於彼彼義慧善了達，為不爾耶？善能觸證彼彼解脫，為不爾耶？如是審諦安住其念，名為念住。

> よく考えてみなさい。私は正しい教えを正しく受け入れているだろうか、そうではないだろうか。その一つ一つの意味を智慧によってよく理解しているだろうか、そうではないだろうか。一つ一つの解脱をよく体得しているだろうか、そうではないだろうか。このように、はっきりと確かに心を落ち着けて保つことを、「念住」というのです。

又為守護念、為於境無染、為安住所緣，名為念住。

> また、心を守り、感覚に執着せず、心を対象にとどめること、これを「念住（ネン・ジュウ）」と呼ぶ。

為守護念者，謂如說言：先守護念，若常委念。為於境無染者，謂如說言：念守護心，行平等位，不取其相，不取隨好，廣說乃至守護意根，修意根律儀。為安住所緣者，謂如說言：於四所緣安住其念。謂於遍滿所緣、淨行所緣、善巧所緣、淨惑所緣。

> 念を守るとは、例えば次のように説かれています。「まず念を守り、常にしっかりと念じなさい」と。 また、対象に染まらないとは、次のように説かれています。「念によって心を守り、平等な状態に保ち、形に執着せず、細かな特徴にも執着せず、さらに詳しく言えば、意の根を守り、意の根の律儀を修めなさい」と。 そして、心を対象に安住させるとは、次のように説かれています。「四つの対象に念を安住させなさい。すなわち、遍満の対象、清らかな行いの対象、巧みな智慧の対象、煩悩を清める対象である」と。

由此三相，善住其念，故名念住。

> この三つの相によって、その念をよく保つから、念住（ねんじゅう）と名づけるのです。

云何為受？謂樂受、苦受、不苦不樂受。樂身受、苦身受、不苦不樂身受。如說身受，心受亦爾。樂有愛味受、苦有愛味受、不苦不樂有愛味受。無愛味受、依耽嗜受，當知亦爾。樂依出離受、苦依出離受、不苦不樂依出離受。如是總有二十一受，或九種受。

> 「受」とは何か。それは楽（快い感覚）、苦（苦しい感覚）、苦でも楽でもない感覚の三つである。 身体で感じる楽、身体で感じる苦、身体で感じる苦でも楽でもない感覚がある。身体で感じると説いたように、心で感じる場合も同様である。 楽には執着の味わいのある受、苦には執着の味わいのある受、苦でも楽でもないものには執着の味わいのある受がある。また、執着の味わいのない受や、欲望に溺れる受についても、同じように理解すべきである。 さらに、楽には離欲に基づく受、苦には離欲に基づく受、苦でも楽でもないものには離欲に基づく受がある。 このようにして、合わせると二十一種の受、あるいは九種の受があることになる。

云何為心？謂有貪心、離貪心、有瞋心、離瞋心、有癡心、離癡心、略心、散心、下心、舉心、掉心、不掉心、寂靜心、不寂靜心、定心、不定心、善修心、不善修心、善解脫心、不善解脫心。如是總有二十種心。

> 心とは何か。それは、執着のある心、執着のない心、怒りのある心、怒りのない心、無知のある心、無知のない心、狭い心、散らかった心、低い心、高ぶった心、落ち着きのない心、静かな心、乱れた心、静まった心、集中した心、集中していない心、よく修められた心、修められていない心、よく解脱した心、解脱していない心、の二十種類である。

云何為法？謂若貪、貪毘奈耶法，若瞋、瞋毘奈耶法，若癡、癡毘奈耶法，若略、若散法，若下、若舉法，若掉、不掉法，若寂靜、不寂靜法，若定、不定法，若善修、不善修法，若善解脫、不善解脫法。如是當知建立黑品、白品、染品、淨品二十種法。

> 「法とは何か」——貪りとその対治法、怒りとその対治法、無知とその対治法、散漫と集中、沈みがちと高ぶりがち、落ち着かないことと落ち着き、静けさと静けさでないこと、心の統一と散乱、正しく修行することと正しくないこと、正しい解脱と正しくない解脱。このようにして、善悪、清らかと汚れの二つの側面を理解しなさい。これらが二十の法として示されている。

又樂受者，謂順樂受觸為緣所生平等受，受所攝，是名樂受。此若五識相應，名身受；若意識相應，名心受。如順樂受觸，如是順苦受觸、順不苦不樂受觸為緣所生不平等受，受所攝，非平等非不平等受，受所攝，是名苦受、不苦不樂受。此若五識相應，名身受；若意識相應，名心受。如是諸受，若隨順涅槃、隨順決擇，畢竟出離、畢竟離垢、畢竟能令梵行圓滿，名無愛味受。若墮於界，名有愛味受。若色無色界繫，若隨順離欲，名依出離受。若欲界繫，若不順離欲，名依耽嗜受。

> 「楽受」とは、平らかな感覚をもたらす触（接触）によって生じる、平等な受（感覚）であり、受に含まれるものを言います。これが五識（五感）に対応する場合は「身受」と呼ばれ、意識に対応する場合は「心受」と呼ばれます。 同様に、苦しい感覚をもたらす触によって生じる不平等な受、また苦しくも楽しくもない感覚をもたらす触によって生じる、平等でも不平等でもない受（これらも受に含まれます）を、それぞれ「苦受」「不苦不楽受」と言います。これらも五識に対応すれば「身受」、意識に対応すれば「心受」です。 これらの諸々の受のうち、涅槃（ねはん）に向かい、選択（迷いを断つ智慧）に向かい、最終的に世を離れ、穢れを離れ、清らかな行いを完成させるものを「愛着のない受」と呼びます。逆に、迷いの世界に留まるものを「愛着のある受」と呼びます。 また、色界や無色界に属し、欲望を離れる方向にあるものを「出離に依る受」と呼びます。欲界に属し、欲望を離れようとしないものを「耽溺（たんでき）に依る受」と呼びます。

又有貪心者，謂於可愛所緣境事，貪纏所纏。離貪心者，謂即遠離如是貪纏。有瞋心者，謂於可憎所緣境事，瞋纏所纏。離瞋心者，謂即遠離如是瞋纏。有癡心者，謂於可愚所緣境事，癡纏所纏。離癡心者，謂即遠離如是癡纏。如是六心，當知皆是行時所起三煩惱品，及此三品對治差別。

> 貪りの心があるとは、心が好ましい対象に執着して、貪欲の束縛に縛られている状態です。貪りの心がないとは、そのような貪欲の束縛から離れていることをいいます。 怒りの心があるとは、心が不快な対象に怒り、憎しみの束縛に縛られている状態です。怒りの心がないとは、そのような憎しみの束縛から離れていることをいいます。 無知の心があるとは、心が迷いの対象に惑わされ、愚かさの束縛に縛られている状態です。無知の心がないとは、そのような愚かさの束縛から離れていることをいいます。 これら六つの心は、修行中に生じる三つの煩悩の種類と、その三つに対応する対治法の違いであると知るべきです。

略心者，謂由正行，於內所緣繫縛其心。

> 心を略するとは、正しく行うことによって、内なる対象に心を結びつけることを言います。

散心者，謂於外五妙欲隨順流散。

> 散心とは、外の五つの妙なる欲望に従い、心が散り乱れ流れていくことを言います。

下心者，謂惛沈睡眠俱行。

> 「下心」とは、昏沈（こんじん）や睡眠とともにはたらく心の状態を指す。

舉心者，謂於淨妙所緣明了顯現。

> 心を起こすとは、清らかで素晴らしい対象がはっきりと心に現れることです。

掉心者，謂大舉故，掉纏所掉。

> 心が浮つくというのは、大きく盛り上がった状態であるため、浮つきの束縛によって心が乱されることです。

不掉心者，謂於舉時及於略時得平等捨。

> 心が揺れ動かないとは、高ぶっている時も沈んでいる時も、平等な心でいられることです。

寂靜心者，謂從諸蓋已得解脫。

> 静かな心とは、あらゆる五感の覆いから解脱した状態をいいます。

不寂靜心者，謂從諸蓋未得解脫言。

> 静かでない心とは、五つの覆いからまだ解放されていない状態を指します。

定心者，謂從諸蓋得解脫已，復能證入根本靜慮。

> 心が定まった状態とは、さまざまな心の覆いから解放された後に、さらに根本的な静慮（深い瞑想状態）に到達できることです。

不定心者，謂未能入。

> 心が定まらない人というのは、まだ悟りの境地に入れていない人のことを指します。

善修心者，謂於此定長時串習，得隨所欲、得無艱難、得無梗澁，速能證入。

> 善く心を修める者とは、この定め（心の統一）を長く繰り返し修習することで、思いのままに、困難なく、滞りなく、速やかにその境地に入ることができる者のことを言います。

不善修心者，與此相違，應知其相。

> 不善に心を修めない者は、これとは反対である。その様相を知るべきである。

善解脫心者，謂從一切，究竟解脫。

> 真の解脱の心とは、あらゆるものからの完全な解放を意味します。

不善解脫心者，謂不從一切不究竟解脫。

> 不善なる解脱心とは、あらゆる不完全なものから解脱できていない状態を指す。

如是十四種心，當知皆是住時所起。依淨蓋地住時所起，有八種心。

> この十四種類の心は、いずれも「安住」の状態にあって生じるものであると知るべきです。清らかな蓋（とらわれ）の境地に安住しているときに生じる心には、八種類があります。

謂從略心、散心、乃至寂靜、不寂靜心。依淨煩惱地住時所起，有六種心。謂定心、不定心、乃至善解脫、不善解脫心。

> 略心や散乱心から、寂静心や不寂静心に至るまで、煩悩を清める心の状態に基づいて生じる、六つの心がある。すなわち、定まった心、定まらない心、さらには善く解脱した心、善く解脱していない心である。

又於內有蓋，能自了知我有諸蓋；於內無蓋，能自了知我無諸蓋。如彼諸蓋未生而生，亦能了知；如彼諸蓋生已散滅，亦能了知。於眼有結乃至於意有結，能自了知我有眼結乃至我有意結；於眼無結乃至於意無結，能自了知我眼無結乃至我意無結。如彼眼結乃至意結未生而生，亦能了知；如彼諸結生已散滅，亦能了知。

> 内に障りがあるときは、自分に障りがあると知り、内に障りがないときは、自分に障りがないと知ります。まだ生じていない障りが新たに生じることも知り、すでに生じた障りが消え去ることも知ります。 眼に結びつきがあるときは、眼に結びつきがあると知り、意に結びつきがあるときは、意に結びつきがあると知ります。眼に結びつきがないときは、眼に結びつきがないと知り、意に結びつきがないときは、意に結びつきがないと知ります。まだ生じていない結びつきが新たに生じることも知り、すでに生じた結びつきが消え去ることも知ります。

於內有念等覺支，能自了知我有念等覺支；於內無念等覺支，能自了知我無念等覺支。如念等覺支未生而生，亦能了知；如生已住，不忘修滿，倍復修習，增長廣大，亦能了知。如念等覺支，如是擇法、精進、喜、安、定、捨等覺支，當知亦爾。

> 内に念等覚支（気づきの目覚めの要素）があれば、「私には念等覚支がある」と自ら知ります。 内に念等覚支がなければ、「私には念等覚支がない」と自ら知ります。 まだ生じていない念等覚支が生じるときも、それを知ることができます。 生じてとどまり、忘れることなく修め満たされ、さらに繰り返し修習して増大・広大になるときも、それを知ることができます。 念等覚支と同様に、択法・精進・喜・安・定・捨の覚支についても、同じように知るべきです。

若能如是如實遍知諸雜染法自性、因緣、過患、對治，是為法念住體。

> もしこのように、ありのままに、あらゆる煩わしいもろもろの法（現象）の本質、原因、問題点、そして対治法を余すところなく知るならば、それが「法念住（ダルマ・スムリティ・ウパスターナ）」の本質です。

如說於身住循身觀，念及念住。如是於受、於心、於法，隨其所應，當知亦爾。

> 身体についての観察を説くときは、身体に意識を留め、身体を観察し続けます。その際、気づき（念）を持ち、その気づきを確かに保ちます（念住）。同じように、感覚（受）について、心について、そして現象（法）についても、それぞれに合わせて、同じように行うべきだと知ってください。

云何於內身等住循身等觀？云何於外身等住循身等觀？云何於內外身等住循身等觀？

> どのようにして自分の身体を観察し続けるのでしょうか。 どのようにして他人の身体を観察し続けるのでしょうか。 どのようにして自分と他人の両方の身体を観察し続けるのでしょうか。

謂若緣內自有情數身色為境，住循身觀，是名於內身住循身觀。若緣外非有情數色為境，住循身觀，是名於外身住循身觀。若緣外他有情數身色為境，住循身觀，是名於內外身住循身觀。若緣依內自有情數身色所生受、心、法為境，住循三觀；是名於內受、心、法住循受、心、法觀。若緣依外非有情數色所生受、心、法為境，住循三觀，是名於外受、心、法住循受心法觀。若緣依外他有情數身色所生受、心、法為境，住循三觀，是名於內外受、心、法住循受心法觀。

> もし自分の体の中にある有情（生きとし生けるもの）にかかわる色（物質）を対象として、身体を観察する観法に安住するならば、これを「内身に対する身の観察」といいます。 もし自分の外にある有情でない物質を対象として、身体を観察する観法に安住するならば、これを「外身に対する身の観察」といいます。 もし他の有情の身体の色を対象として、身体を観察する観法に安住するならば、これを「内外身に対する身の観察」といいます。 また、自分の身体の色から生じる感受・心・法（心のはたらきとその対象）を対象として、三つの観察（受・心・法の観察）に安住するならば、これを「内受・心・法に対する観察」といいます。 もし自分の外にある有情でない物質から生じる感受・心・法を対象として、三つの観察に安住するならば、これを「外受・心・法に対する観察」といいます。 もし他の有情の身体の色から生じる感受・心・法を対象として、三つの観察に安住するならば、これを「内外受・心・法に対する観察」といいます。

復有差別。謂若緣根所攝、有執有受色為境，是名於內身住循身觀。若緣非根所攝、無執無受色為境，是名於外身住循身觀。若緣非根所攝、有執有受色為境，是名於內外身住循身觀。如是若緣依前三色所生受、心、法為境，隨其所應，當知即是住循三觀。

> さらに、別の区別がある。すなわち、もし「感覚器官に属する、執着があり感受がある物質（色）」を対象として観察するならば、これを「自身の身体において、身体の観察（身随観）に住する」と名づける。もし「感覚器官に属さない、執着がなく感受がない物質」を対象とするならば、これを「他者の身体において身随観に住する」と名づける。もし「感覚器官に属さないが、執着があり感受がある物質」を対象とするならば、これを「自身と他者の身体において身随観に住する」と名づける。このように、もし上述の三つの物質（色）に基づいて生じる「感受（受）」「心」「法（現象）」を対象とするならば、それぞれに応じて、それは「三つの観察（受随観・心随観・法随観）に住する」ことであると知るべきである。

復有差別。謂若緣自內定地輕安俱行色為境，是名於內身住循身觀。若緣自內不定地麁重俱行色為境，是名於外身住循身觀。若緣他輕安俱行、麁重俱行色為境，是名於內外身住循身觀。如是若緣依前三色所生受、心、法為境，隨其所應，當知即是住循三觀。

> さらに別の区別がある。自らの内にある定の境地に伴う軽安と共にある色（物質的な現象）を対象とする場合、これを「内身において身を観察する修習」と名づける。自らの内にある定まらない境地に伴う粗重と共にある色を対象とする場合、これを「外身において身を観察する修習」と名づける。他の者の軽安と共にある色、あるいは粗重と共にある色を対象とする場合、これを「内外身において身を観察する修習」と名づける。同様に、これら三つの色に基づいて生じる受・心・法を対象とする場合、それぞれに応じて、これが三つの観察の修習であると知るべきである。

復有差別。謂若緣內能造大種色為境，是名於內身住循身觀。若緣外能造大種色為境，是名於外身住循身觀。若緣依能造大種色所生根境所攝造色為境，是名於內外身住循身觀。如是若緣依前三色所生受、心、法為境，隨其所應，當知即是住循三觀。

> さらに別の見方があります。内側の身体をつくり出す四大元素を対象とする場合、これを「内身における身の観察」と呼びます。外側の身体をつくり出す四大元素を対象とする場合、これを「外身における身の観察」と呼びます。そして、身体をつくり出す四大元素に依って生じる、感覚器官とその対象となる物質（造色）を対象とする場合、これを「内外身における身の観察」と呼びます。 このように、前述の三つの観察対象から生じる「受（感受）」「心（心の状態）」「法（心の対象）」をそれぞれ対象とする場合も、それに応じて「受の観察」「心の観察」「法の観察」を実践していると理解すべきです。

復有差別。謂若緣有識身內色為境，是名於內身住循身觀。若緣無識身有情數青瘀等位色為境，是名於外身住循身觀。若緣無識身色於過去時有識性，有識身色於未來時無識性，相似法性、平等法性為境，是名於內外身住循身觀。如是若緣依前三色所生受、心、法為境，隨其所應，當知即是住循三觀。

> また別の区別がある。すなわち、認識を持つ身体の内部の色を対象とする場合、これを「内身における身の観察」という。認識を持たない身体（有情数）の青瘀などの状態にある色を対象とする場合、これを「外身における身の観察」という。認識を持たない身体の色が過去において認識性を持ち、認識を持つ身体の色が未来において認識性を持たないという、似た性質、等しい性質を対象とする場合、これを「内外身における身の観察」という。同様に、前述の三つの色に基づいて生じる受・心・法を対象とする場合、それぞれに応じて、それが「三つの観察における住」であると知るべきである。

復有差別。謂若緣自中身髮毛、爪、齒等相為境，是名於內身住循身觀。若緣他中身髮、毛、爪、齒等相為境，是名於外身住循身觀。若緣內表身變異、不變異青瘀等相，及緣外表身變異、不變異青瘀等相、相似法性、平等法性為境，是名於內外身住循身觀。如是若緣依前三色所生受、心、法為境，隨其所應，當知即是住循三觀。

> さらに別の区別がある。すなわち、自分自身の体の中にある髪の毛、毛、爪、歯などの特徴を観察の対象とすることを、「内身において身を観る」という。他人の体の中にある髪の毛、毛、爪、歯などの特徴を観察の対象とすることを、「外身において身を観る」という。また、自分の体の表面に見られる変化・不変化（青あざなど）の様相、および他人の体の表面に見られる変化・不変化（青あざなど）の様相を観察し、それらが似通った性質や平等な性質を対象とすることを、「内外身において身を観る」という。このように、前三つの色（物質的な身体）に基づいて生じる受・心・法を対象として観察する場合、それぞれに応じて、それが「三つの観察（受・心・法の観察）を行う」ことであると知るべきである。

如是等類身、受、心、法諸差別門當知多種，今於此中，且顯少分諸門差別。

> このように、身・受・心・法の様々な違いについて、多くの種類があることを知るべきです。ここでは、その中の一部を明らかにします。

又為對治四顛倒故，世尊建立四種念住。謂為對治於不淨中計淨顛倒，立身念住。以佛世尊於循身念住中，宣說不淨相應四憺怕路。若能於此多分思惟，便於不淨斷淨顛倒。為欲對治於諸苦中計樂顛倒，立受念住。以於諸受住循受觀，如實了知諸所有受皆悉是苦，便於諸苦斷樂顛倒。為欲對治於無常中計常顛倒，立心念住。以能了知有貪心等種種差別，經歷彼彼日夜、剎那、瞬息、須臾非一眾多種種品類心生滅性，便於無常斷常顛倒。為欲對治於無我中計我顛倒，立法念住。由彼先來有有我見等諸煩惱故，無無我見等諸善法故，於諸蘊中生起我見。以於諸法住循法觀，如實了知所計諸蘊自相、共相，便於無我、斷我顛倒。

> また、四つの顛倒（誤った見方）を対治するために、世尊は四つの念住（気づきの確立）を説かれました。 すなわち、清浄でないものを清浄であると見なす顛倒を対治するために、身念住（身体への気づき）を説かれました。世尊は、身体を観察する念住において、不浄に関連した四つの「憺怕路（恐ろしい場面）」を説かれています。これらを繰り返し心に留め、よく考えれば、清浄でないものに対する清浄という顛倒を断ち切ることができます。 苦しみの中に楽があると見なす顛倒を対治するために、受念住（感受への気づき）を説かれました。あらゆる感受を観察し、すべての感受が苦であるとありのままに知れば、苦しみの中に楽があるという顛倒を断ち切ることができます。 無常なものを常住であると見なす顛倒を対治するために、心念住（心への気づき）を説かれました。貪りのある心などの様々な区別を理解し、昼夜や刹那、瞬間、一瞬の中でも絶えず生じ消える心の性質を観察すれば、無常の中で常があるという顛倒を断ち切ることができます。 無我（自分でないもの）を我（自分）であると見なす顛倒を対治するために、法念住（現象への気づき）を説かれました。昔から我という見方などの煩悩があったために、無我という正しい見方などの善い法が欠けていたため、五蘊（心身の構成要素）の中に我という見方が生じるのです。しかし、あらゆる現象を観察し、執着していた五蘊の個々の性質と共通の性質をありのままに理解すれば、無我の中で我があるという顛倒を断ち切ることができます。

復有差別。謂諸世間，多於諸蘊唯有蘊性、唯有法性不如實知，橫計有我依止於身；由依身故，受用苦樂；受苦樂者，由法非法，有染有淨。為欲除遣我所依事愚故，立身念住。為欲除遣我所領受事愚故，立受念住。為欲除遣於心、意、識執我愚者我事愚故，立心念住。為欲除遣所執我心能染淨事愚故，立法念住。

> さらに、別の区別がある。つまり、世間の多くの人々は、諸々の「蘊」（集まり）について、単なる蘊の性質、単なる法（現象）の性質をありのままに理解せず、無理やり「我（私）」があると見なし、それが身体に依存していると考える。身体に依存することで、苦楽を受ける。苦楽を受ける者（我）は、正しい行いと誤った行いによって、汚れや清らかさを持つ。このように、「我が所有するもの」という依存する対象についての無知を取り除くために、「身念住」（身体についての気づきの確立）が説かれた。「我が領受するもの」という対象についての無知を取り除くために、「受念住」（感受についての気づきの確立）が説かれた。心・意・識において「我」と執着する者の、我という対象についての無知を取り除くために、「心念住」（心についての気づきの確立）が説かれた。「我が心」と執着する、その心が染まる・清まるという対象についての無知を取り除くために、「法念住」（法についての気づきの確

復有差別。謂若依此造作諸業，若為此故造作諸業，若造業者，若由此故造作諸業。為總顯示如是一切，立四念住。當知此中，依止於身造作諸業，為求受故造作諸業，心能造業，由善不善法能造諸業。

> さらに別の観点から説明しよう。 すなわち、「これに依って様々な行為（業）を起こすこと」、「このために様々な行為を起こすこと」、「行為を起こす者」、「これによって様々な行為を起こすこと」である。 これらすべてを総合して示すために、四つの念住（四念処）が立てられている。 ここで知るべきは、次の通りである。 身体に依って様々な行為を起こし、感受（受）を得るために様々な行為を起こし、心が行為を起こすことができ、善・不善の法によって様々な行為を起こすのである。

復有差別。謂若依此有染有淨，若為此故起染起淨，若染淨者，若由此故成染成淨。總為顯示如是一切，立四念住。當知此中，依止於身有染有淨，為求受故起染起淨，心染淨者，由諸法故成染成淨。

> さらに別の区別がある。つまり、これに依って清らかにも汚れにもなり、これのために清らかさや汚れが生じ、清らかや汚れの主体があり、これによって清らかにも汚れにもなる。このすべてを示すために、四つの念処が立てられている。この中で、身体に依って清らかや汚れがあり、感受（受）を求めるために清らかさや汚れが生じ、心が清らかや汚れの主体であり、諸々の法によって清らかにも汚れにもなると知るべきである。

問：念住何義？

> 質問：「念住（今この瞬間に気づきをとどめること）」とは、どのような意味ですか？

答：若於此住念、若由此住念，皆名念住。於此住念者，謂所緣念住。由此住念者，謂若慧、若念攝持於定，是自性念住；所餘相應諸心心法，是相雜念住。又由身、受、心、法增上所生善有漏、無漏道，皆名念住。此復三種。一、聞所成，二、思所成，三、修所成。聞思所成，唯是有漏；修所成者，通漏無漏。

> 答え：この「住念」とは、ここにとどまる念という意味と、これによってとどまる念という意味の二つがあり、いずれも念住と名づけられます。「ここにとどまる念」とは、対象に心を留める念住のことです。「これによってとどまる念」とは、智慧や念が定を支えている場合を指し、これが自性念住です。それ以外の、対応する心や心のはたらきは、相雑念住と呼ばれます。 また、身体、感受、心、法という四つの対象によって生じる善なる有漏・無漏の道も、すべて念住と名づけられます。これにはさらに三つの種類があります。第一に聞によって得られるもの、第二に思惟によって得られるもの、第三に修行によって得られるものです。聞と思考によって得られるものは、有漏のものだけです。修行によって得られるものは、有漏と無漏の両方を含みます。

## 瑜伽師地論卷第二十八

> 『瑜伽師地論』第二十八巻