---
title: "瑜伽師地論 · 2"
description: "瑜伽师地论是佛教大乘瑜伽行派的重要经典，相传由弥勒菩萨口述，无著菩萨记录，唐代高僧玄奘于贞观年间从印度取回并译成汉文。该论共100卷，系统阐述瑜伽行派的教义，内容包括十七地、三性、八识、修行次第等核心理论，被誉为大乘佛教的百科全书。作为唯识学的根本论典，瑜伽师地论奠定了唯识学派的理论基础，对汉传佛教和藏传佛教影响深远，在佛教思想史上具有崇高地位，是研究唯识学和瑜伽行派必读的经典著作。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cma8zhfjt036dib04rkt9aqq1"
---

## 瑜伽師地論卷第二十九

> 瑜伽師地論 第二十九巻

彌勒菩薩說

> 弥勒菩薩の教え

三藏法師玄奘奉　詔譯

> 三蔵法師玄奘奉詔訳

### 本地分中聲聞地第十三第二瑜伽處之四

> 第十三章の第二瑜伽処の四

如是於四念住串習行故，已能除遣麁麁顛倒，已能了達善不善法。

> このように四つの念処（四念住）を繰り返し修めることで、粗雑な誤った見解（顛倒）を除き去り、善と不善の法を正しく理解することができるようになるのです。

從此無間，於諸未生惡不善法，為不生故；於諸已生惡不善法，為令斷故；於其未生一切善法，為令生故；於其已生一切善法，為欲令住、令不忘失，廣說如前；乃至攝心、持心。

> それ以降は、まだ生じていない悪や善くない行いに対しては、それが生じないように努める。すでに生じた悪や善くない行いに対しては、それを断ち切るように努める。まだ生じていない善い行いに対しては、それが生じるように努める。すでに生じた善い行いに対しては、それが続き、忘れられないように、前に広く説かれた通りに努める。さらには心を整え、心を保つように努める。

云何名為惡不善法？謂欲纏染污身語意業，是身語意惡行所攝，及能起彼所有煩惱。若未和合、未現在前，說名未生；若已和合、已現在前，說名已生。

> 悪しき不善法とは何か。それは、欲望の煩悩に絡め取られて、身体・言葉・心の行いを汚すことである。これらは身・口・意の悪行に含まれ、またそれらの悪行を引き起こすあらゆる煩悩を指す。もしそれらがまだ結びつかず、現われていない状態を「未生」と言い、すでに結びつき、現われている状態を「已生」と言う。

云何名為一切善法？謂若彼對治、若蓋對治、若結對治。未生、已生，應知如前惡不善法。

> 問う、いわゆる「すべての善い教え（善法）」とは何を意味するのか。 それは、対治法（あらゆる煩悩に対処する方法）であり、 すなわち「蓋（心を覆い隠すもの）」に対する対治、 そして「結（心を縛りつけるもの）」に対する対治のことである。 これらの善法がまだ生じていない場合、あるいはすでに生じている場合については、先に述べた悪しき不善の法の場合と同様に理解すべきである。

若時未生惡不善法，先未和合，為令不生，發起希願：我當令彼一切一切皆不復生。是名於諸未生惡不善法，為不生故生欲。若時已生惡不善法，先已和合，為令斷故，發起希願：我當於彼一切一切皆不忍受，斷滅、除遣。是名於諸已生惡不善法，為令斷故生欲。又彼一切惡不善法，或緣過去事生、或緣未來事生、或緣現在事生。如是彼法，或緣不現見境、或緣現見境。若緣過去、未來事境，是名緣不現見境；若緣現在事境，是名緣現見境。

> まだ生じていない悪しき不善の法（不善法）が、まだ結びついていない場合、それを生じさせないために、「私はそれらすべてを、もう二度と生じさせないようにしよう」と願いを起こすこと。これを、まだ生じていない悪しき不善の法に対して、生じさせないために願いを起こす（欲を生じる）と言う。 すでに生じた悪しき不善の法が、すでに結びついている場合、それを断ち切るために、「私はそれらすべてを、一切受け入れず、断ち滅ぼし、除き去ろう」と願いを起こすこと。これを、すでに生じた悪しき不善の法に対して、断ち切るために願いを起こすと言う。 また、それらすべての悪しき不善の法は、あるいは過去の出来事に緣（よ）って生じ、あるいは未来の出来事に緣って生じ、あるいは現在の出来事に緣って生じる。このように、それらの法は、あるいは見えない境（境）に緣って、あるいは見える境に緣って生じる。もし過去や未来の出来事という境に緣るなら、それを「見えない境に緣る」と言い、もし現在の出来事という境に緣るなら、それを「見える境に緣る」と言う。

當知此中，於緣不現見境惡不善法，其未生者欲令不生，其已生者欲令永斷，自策、自勵，是名策勵。於緣現見境惡不善法，其未生者欲令不生，其已生者欲令永斷，勇猛正勤，是名發勤精進。所以者何？要當堅固，自策、自勵，勇猛正勤，方能令彼或不復生、或永斷滅。

> ここでいう「策励」とは、明らかに直接見ることができない状況（因縁の対象）に関する悪い不善の法について、まだ生じていないものを生じさせないようにし、すでに生じたものを完全に断ち切ろうとして、自らを励まし、自らを奮い立たせることを指します。 一方、「発勤精進」とは、直接見ることができる状況（因縁の対象）に関する悪い不善の法について、まだ生じていないものを生じさせないようにし、すでに生じたものを完全に断ち切ろうとして、勇猛に正しく努力することを言います。 なぜなら、しっかりと自らを励まし、自らを奮い立たせ、勇猛に正しく努力してこそ、それらの悪法を再び生じさせないようにしたり、完全に断ち滅ぼしたりできるからです。

又於下品、中品諸纏，其未生者欲令不生，其已生者欲令永斷，故自策勵。於上品纏，其未生者欲令不生，其已生者欲令永斷，發勤精進。

> また、下品や中品の煩悩について、まだ生じていないものは生じさせまいとし、すでに生じたものは完全に断ち切ろうと努めて、自らを励まします。上品の煩悩については、まだ生じていないものは生じさせまいとし、すでに生じたものは完全に断ち切ろうと、熱心に精進します。

又若行於過去境界，如是行時，不令煩惱緣彼生起；設復失念暫時生起，而不忍受，速能斷滅、除遣、變吐。如緣過去，若行未來，當知亦爾。如是未生惡不善法能令不生，生已能斷，是名策勵。若行現在所緣境界，如是行時、不令煩惱緣彼生起；設復失念暫時生起，而不忍受，速能斷滅、除遣、變吐。如是未生惡不善法能令不生，生已能斷，是名發勤精進。

> また、過去の境地を行ずる場合には、そのように行じているときに、煩悩がそれに縁って生じることがないようにする。もし仮に、一時的に正念を失って煩悩が生じたとしても、それを受け入れずに、速やかに断ち滅し、除き去り、吐き捨てる。過去に縁する場合と同様に、未来を行ずる場合もまた同じであると知るべきである。このようにして、未だ生じていない悪・不善の法を生じさせず、すでに生じたものを断じることを、策励という。 もし現在の所縁の境地を行ずる場合には、そのように行じているときに、煩悩がそれに縁って生じることがないようにする。もし仮に、一時的に正念を失って煩悩が生じたとしても、それを受け入れずに、速やかに断ち滅し、除き去り、吐き捨てる。このようにして、未だ生じていない悪・不善の法を生じさせず、すでに生じたものを断じることを、発勤精進という。

又或有惡不善法，唯由分別力生，非境界力；或有惡不善法，由分別力生，亦境界力。唯由分別力生，非境界力者，謂於住時，思惟過去、未來境界而生於彼。由思惟力生，亦境界力者，謂於行時，緣現在境界而生於彼。當於爾時，決定亦有非理分別。當知此中，惡不善法唯由分別力生，非境界力者，彼若未生能令不生，生已能斷，是名策勵。若由分別力生，亦境界力者，彼若未生能令不生，生已能斷，是名發勤精進。

> あるいはまた、悪く不善な法には、ただ分別の力のみによって生じ、境界の力によるのではないものがある。 また、悪く不善な法には、分別の力によっても生じ、境界の力によっても生じるものがある。 ただ分別の力のみによって生じ、境界の力によらないものとは、すなわち、心が静まっている時に、過ぎ去った境界や未来の境界を思惟することによって、それ（悪不善法）が生じるものである。 思惟の力によって生じ、かつ境界の力によっても生じるものとは、すなわち、行動している時に、現在の境界に縁（よ）って、それ（悪不善法）が生じるものである。その時には、必ずや道理にかなわない分別もまた存在することを知るべきである。 この中で、悪く不善な法がただ分別の力のみによって生じ、境界の力によらないものについては、それがまだ生じていないならば生じないようにさせ、すでに生じたならば断ち切ることができる。これを「策励（はげみ励むこと）」と名づける。 もし分別の力によっても生じ、境界の力によっても生じるものについては、それがまだ生じていないならば生じないようにさせ、すでに生じたならば断ち切ることができる。これを「発勤精進（奮い立ち努め励むこと）」と名づける。

於其未生一切善法，為令生故生欲者，謂於未得、未現在前所有善法，為欲令得、令現在前，發心希願，發起猛利求獲得欲、求現前欲，而現在前，是名於其未生一切善法，為令生故生欲。於其已生一切善法，為欲令住、令不忘失、令修圓滿生欲者，謂已獲得、已現在前所有善法，是名已生善法。於此善法已得不失、已得不退，依是說言：為欲令住。於此善法明了現前，無闇鈍性，依是說言：令不忘失。於此善法已得現前，數數修習，成滿究竟，依是說言：令修圓滿。於此善法發心希願，發起猛利求堅住欲、求不忘欲、求修滿欲，而現在前，是名於其已生一切善法，為欲令住、令不忘失、令修圓滿生欲。

> いまだ生じていないあらゆる善い法（善法）について、それを生じさせようとして「欲（願い）」を起こすとは、まだ得ておらず、まだ現前していない善い法を、得たい、現前させたいと願い、心を発して強く求めることである。こうした「得ようとする欲」「現前させようとする欲」が眼前に現れることを、いまだ生じていない善い法について、それを生じさせようとして欲を起こす、という。 すでに生じたあらゆる善い法について、それを保たせ、忘れさせず、完全に修めるために欲を起こすとは、すでに得て、すでに現前している善い法のことを指す。これを「すでに生じた善法」という。 この善法をすでに得て失わず、退かないことから、「保たせようとする」と言う。 この善法が明らかに現前し、曇り鈍ることがないことから、「忘れさせない」と言う。 この善法をすでに現前させ、繰り返し修習して究極に至らせることから、「完全に修めさせる」と言う。 これらの善法について、心を発し、強く願い求め、「確実に保とうとする欲」「忘れまいとする欲」「完全に修めようとする欲」が眼前に現れることを、すでに生じた善法について、それを保たせ、忘れさせず、完全に修めるために欲を起こす、という。

策勵者，為於已得令現前故。發勤精進者，為於未得令其得故。

> 励む者は、すでに得たものを目の当たりにするためです。精進に努める者は、まだ得ていないものを得るためのものです。

又策勵者，於已生善為欲令住、令不忘故。發勤精進者，令修滿故。

> さらに、励むとは、すでに生じた善を保ち、忘れないようにするためです。精進を起こすとは、それを修行して円満に達成するためです。

又於下品、中品善法，未生令生，生已令住、令不忘失，是名策勵。於上品善法，未生令生，生已乃至令修圓滿，是名發勤精進。

> また、下品・中品の善い行いについては、まだ生じていないものを生じさせ、生じたものを保ち、忘れさせないようにすることを「策励」と言う。 上品の善い行いについては、まだ生じていないものを生じさせ、生じた後はさらにそれを修行して円満にさせることを「発勤精進」と言う。

言策心者，謂若心於修奢摩他一境性中正勤方便，於諸未生惡不善法，為令不生；廣說乃至於其已生一切善法，為欲令住、令不忘失、令修圓滿。由是因緣，其心於內極略下劣、或恐下劣，觀見是已，爾時隨取一種淨妙舉相，慇懃策勵、慶悅其心。是名策心。

> 心を励ますとは、心が「奢摩他（サマタ）」の一境性（一つの対象に集中する状態）を修行している際に、まだ生じていない悪い善くない法（現象）を生じさせないように、また、すでに生じたすべての善い法を保持し、忘れず、完全に修めるために、適切に努力し実践することを意味します。このような理由から、心が内側に過度に沈滞したり、あるいは沈滞しそうになったと観察したとき、そのときに一つ清らかで素晴らしい高める対象を取り上げて、熱心に励まし、喜ばせ、心を高揚させます。これを「策心（心を励ます）」と呼びます。

云何持心？謂修舉時，其心掉動、或恐掉動，觀見是已，爾時還復於內略攝其心，修奢摩他。是名持心。

> 問う、心を保つとは何か。 それは、修行中に心が浮ついたり、または浮つきそうになったと気づいた時、すぐに内に心を引き締めて、静寂（奢摩他）を修することである。これを心を保つという。

如是四種，亦名正勝。謂於黑品諸法，其未生者為令不生，其已生者為令斷滅，生欲、策勵、發勤、精進、策心、持心，是二正勝。於白品諸法、其未生者為欲令生，如前黑品廣說、應知是二正勝。

> この四つの実践は「正勝（しょうしょう）」とも呼ばれます。 悪い性質（黒品）の法については、まだ生じていないものを生じさせないようにし、すでに生じたものを断ち滅ぼすために、希求の心を起こし、励まし、努力し、精進し、心を引き締め、心を保ち続ける――これが二つの正勝です。 良い性質（白品）の法については、まだ生じていないものを生じさせたいと願い、すでに生じたものをさらに成長させ、広げ、満たすために、同じく希求・励まし・努力・精進・心の統御・心の保持を行う――これが残りの二つの正勝です。

如是四種，亦名正斷。一名律儀斷。謂於已生惡不善法，為令斷故，生欲、策勵，乃至廣說。二名斷斷。謂於未生惡不善法，為不生故，生欲、策勵，乃至廣說。由於已生惡不善事，應修律儀，令其斷滅，不應忍受。由是因緣，名律儀斷。於其未生惡不善事，為欲令彼不現行斷，為欲令彼不現前斷，為斷故斷，故名斷斷。三名修斷。謂於未生一切善法，為令生故，廣說乃至策心、持心。由於善法數修數習，先所未得能令現前，能有所斷，故名修斷。四名防護斷。謂於已生一切善法，為欲令住，廣說乃至策心，持心。由於已得、已現在前諸善法中，遠離放逸，修不放逸，能令善法住不忘失，修習圓滿，防護已生所有善法，能有所斷故，名防護斷。如是廣辨四正斷已，復云何知此中略義？謂為顯示於黑白品捨取事中，增上意樂圓滿及加行圓滿，是故宣說四種正斷。當知此中，由生欲故，增上意樂圓滿；由自策勵、發勤精進、策心、持心故，加行圓滿。修瑜伽師唯有爾所正應作事。謂為斷滅所應斷事，及為獲得所應得事，先當生起希願樂欲；為斷諸纏，復應時時正勤修習止、舉、捨相；為斷諸纏及隨眠故，更應修集對治善法。為現如是一切所作，說四正勝及四正斷。是名略義。

> この四つの種類は、正断（しょうだん）とも呼ばれます。第一は律儀断（りつぎだん）です。すでに生じた悪い不善の法を断ち切るために、熱意を起こし、努力を奮い起こすことなどを指します。第二は断断（だんだん）です。まだ生じていない悪い不善の法が生じないようにするために、熱意を起こし、努力を奮い起こすことなどを指します。すでに生じた悪い不善の事柄については、律儀（規範）を修めてそれを断ち滅ぼすべきであり、甘受してはなりません。このような理由から、律儀断と呼ばれます。まだ生じていない悪い不善の事柄については、それを現れ出ることを断ち、現前することを断ち、断つがゆえに断つのであり、これが断断です。 第三は修断（しゅだん）です。まだ生じていない一切の善い法が生じるようにするために、（熱意を起こし、努力を奮い起こし、心を奮い立たせ、心を保つことを）広く説きます。善い法を繰り返し修め繰り返し習うことによって、これまで得ていなかったものを現前させることができ、断つべきものがあるので、修断と呼ばれます。第四は防護断（ぼうごだん）です。すでに生じた一切の善い法を保ち続けるために、（熱意を起こし、努力を奮い起こし、心を奮い立たせ、心を保つことを）広く説きます。すでに得られ、すでに現在前に現れている諸々の善い法において、放逸から遠ざかり、不放逸を修めることによって、善い法を保ち失われることなく、修習を円満にし、すでに生じた善い法をすべて防護し、断つべきものがあるので、防護断と呼ばれます。 このように四正断（ししょうだん）を広く弁別しましたが、ここでの簡略な意味をどのように知るべきでしょうか。これは、白と黒の品（善悪の性質）について、捨てることと取ること（断つことと修すること）において、増上意楽（より高次の意欲）の円満と加行（実践）の円満を示すために、四種の正断が説かれたのです。 ここで、熱意を生じさせることによって増上意楽が円満となり、自ら励み、勤めて精進し、心を奮い立たせ、心を保つことによって加行が円満となることを知るべきです。瑜伽師（ヨーガ行者）にとって、なすべき正しい事柄はこれだけです。すなわち、断つべきものを断ち滅ぼし、得るべきものを得るために、まず希求の願いと楽欲（楽しみ求める心）を起こすべきです。また、諸々の煩悩の纏（とらわれ）を断つために、時々正しく勤めて止・挙・捨（し・ご・しゃ）の相を修めるべきです。さらに、諸々の纏と随眠（潜在的な煩悩）を断つために、対治する善い法を修め集めるべきです。このようにして一切の行いを現前させるために、四正勝（ししょうしょう）と四正断が説かれたのです。これが簡略な意味です。

從此復修四三摩地。謂欲三摩地、勤三摩地、心三摩地、觀三摩地。當知由欲增上力所得三摩地，名欲三摩地；由勤增上力所得三摩地，名勤三摩地；由心增上力所得三摩地，名心三摩地；由觀增上力所得三摩地，名觀三摩地。

> ここでさらに、四つの三昧（サマーディ）を修めます。すなわち、欲三昧、勤三昧、心三昧、観三昧です。なお、欲の力によって得られる三昧を欲三昧といい、精進の力によって得られる三昧を勤三昧といい、心の力によって得られる三昧を心三昧といい、観察の力によって得られる三昧を観三昧といいます。

若於是時純生樂欲，生樂欲已，於諸所有惡不善法自性、因緣、過患、對治，正審思察，起一境念。於諸善法自性、因緣、功德、出離，正審思察，住一境念。即由如是多修習故，觸一境性。於諸所有惡不善法現行諸纏，能令遠離，而未永害煩惱隨眠。是名欲增上力所得三摩地。若於過去、未來、現在所緣境界，能順所有惡不善法，能順所有下中上品煩惱纏中，其未生者為令不生，其已生者為令斷滅，自策、自勵、發勤精進，行彼所緣，於彼境界自性、因緣、過患、對治，正審思察，住一境念。即由如是多安住故，能正生起心一境性。於諸所有惡不善法現行諸纏，能令遠離，而未永害煩惱隨眠。是名勤增上力所得三摩地。若復策發諸下劣心，或復制持諸掉舉心，又時時間修增上捨。由是因緣，於諸所有惡不善法，若能隨順惡不善法，及諸善法，若能隨順所有善法自性、因緣、過患、功德、對治、出離，正審思察，住一境念。即由如是多安住故，能正生起心一境性，廣說乃至。是名心增上力所得三摩地。

> もし、この時において、ただ楽欲（楽しいと求める心）を純粋に起こし、楽欲を起こしたならば、あらゆる悪しき善からざる法（不善法）の自性・因縁・過患・対治について、正しく審らかに思惟し観察して、一つの境に念を集中する。また、あらゆる善い法（善法）の自性・因縁・功徳・出離について、正しく審らかに思惟し観察して、一つの境に念を安住させる。このように何度も修習することによって、一つの境に向かう性質（一境性）に触れる。これにより、あらゆる悪しき善からざる法が現れて生じる煩悩の纏（とらわれ）から遠ざかることはできるが、煩悩の随眠（潜在的な煩悩）を永遠に滅ぼすことはできない。これを「欲（願望）の増上力によって得られる三昧（三摩地）」と名付ける。 もし、過去・未来・現在の所縁の境界において、あらゆる悪しき善からざる法や、下品・中品・上品の煩悩の纏を生じさせるものがある場合、まだ生じていないものは生じさせず、すでに生じたものは断ち滅ぼすために、自らを励まし、自らを奮い立たせ、精進を発起して、その所縁の対象に向かい、その境界の自性・因縁・過患・対治について、正しく審らかに思惟し観察して、一つの境に念を安住させる。このように何度も安住することによって、正しく心の一境性（心一境性）を生じさせることができる。これにより、あらゆる悪しき善からざる法が現れて生じる煩悩の纏から遠ざかることはできるが、煩悩の随眠を永遠に滅ぼすことはできない。これを「勤（努力）の増上力によって得られる三昧」と名付ける。 もし、さらに下劣な心を励まし発起させ、あるいは浮動する心（掉挙心）を抑制し、また時々に応じて増上の捨（平静な心）を修める。このような因縁によって、あらゆる悪しき善からざる法、および悪しき善からざる法に順じるもの、そしてあらゆる善い法、および善い法に順じるものの自性・因縁・過患・功徳・対治・出離について、正しく審らかに思惟し観察して、一つの境に念を安住させる。このように何度も安住することによって、正しく心の一境性を生じさせることができる。このように広く説かれる通りである。これを「心（心の力）の増上力によって得られる三昧」と名付ける。

若於能順惡不善法，作意思惟為不如理；復於能順所有善法，作意思惟以為如理。如是遠離彼諸纏故，及能生起諸纏對治定為上首諸善法故，能令所有惡不善法皆不現行。便自思惟：我今為有現有惡不善法不覺知耶？為無現無惡不善法不覺知耶？我令應當遍審觀察。彼由觀察作意增上力故，自正觀察斷與未斷，正審思察，住一境念。即由如是多安住故，能正觸證心一境性。由是因緣，離增上慢，如實自知：我唯於纏心得解脫，未於一切一切隨眠心得解脫。我唯獲得及已修習諸纏對治定為上首所有善法，而未獲得及未修習隨眠對治。是名觀增上力所得三摩地。

> もし、不善な心の働き（悪不善法）を助長することに心を向けるなら、それは道理にかなわない（不如理）と考える。また、善い心の働き（善法）を助長することに心を向けるなら、それを道理にかなっている（如理）と考える。このようにして、それらの煩わしさ（諸纏）から遠ざかり、それらを打ち消す、とりわけ安定を優先とする様々な善い心の働きを生み出すことで、あらゆる不善な心の働きが現れないようにする。 そして、こう自ら考える。「今、私には現に気づいていない不善な心の働きがあるのだろうか？ それとも、不善な心の働きがなく、それに気づいていないのだろうか？ 私は今、あまねくよく観察しなければならない」と。 彼は、観察に専念する心の働き（観察作意）の力によって、自ら正しく観察し、断ち切ったかどうかを確かめ、正しく深く考え、一つの状態に心を留める（一境念）。このようにして心を落ち着けることで、心を一つの対象に集中させる境地（心一境性）を正しく体験する。 このような理由により、過大な慢心（増上慢）から離れ、ありのままに自ら知る。「私はただ、煩わしさからは心が解放されたが、すべての潜在的な煩悩（随眠）からはまだ心が解放されていない。私はただ、煩わしさを打ち消し、とりわけ安定を優先とする善い心の働きを得て修行したが、根本的な煩悩を打ち消すものはまだ得ておらず、修行もしていない」と。これが、観察する力によって得られる心の統一（三摩地）である。

彼由如是四三摩地增上力故，已遠諸纏。復為永害一切一切惡不善法諸隨眠故，及為修集能對治彼諸善法故，便更生起樂欲、策勵，廣說如前修四正斷加行道理。彼於如是正修習時，有八斷行，為欲永害諸隨眠故，為三摩地得圓滿故，差別而轉。

> そのように四つの三昧の力を高めたことにより、すでに煩悩の表面を遠ざけた。そして、あらゆる悪しき不善の法にまとわりつく煩悩を完全に絶ち、それと対抗する善法を修め集めるために、再び意欲と励ましを起こし、先に述べた四つの正断の修行の道筋と同様の実践を進めていく。 そのように正しく修行を積むとき、煩悩を根底から絶つため、そして三昧を完成させるため、八つの断ちの実践がそれぞれに応じて働くのである。

何等名為八種斷行？一者、欲。謂起如是希望樂欲：我於何時修三摩地當得圓滿？我於何時當能斷滅惡不善法所有隨眠？二者、策勵。謂乃至修所有對治，不捨加行。三者、信。謂不捨加行正安住故，於上所證，深生信解。四者、安。謂清淨信而為上首，心生歡喜；心歡喜故，漸次息除諸惡不善法品麁重。五者、念。謂九種相。於九種相安住其心，奢摩他品能攝持故。六者、正知。謂毘鉢舍那品慧。七者、思。謂心造作。於斷、未斷正觀察時，造作其心，發起能順止觀二品身業、語業。八者、捨。謂行過去、未來、現在隨順諸惡不善法中，心無染污、心平等性。由二因緣，於隨眠斷分別了知。謂由境界不現見思，及由境界現見捨故。如是名為八種斷行，亦名勝行。

> 八つの「断行」とは何か。 第一は「欲」である。すなわち、「いつ三昧を修して完成させることができるだろうか」、「いつ悪しき不善の法の潜在的な煩悩を断ち滅することができるだろうか」と、このような希望と願望を起こすことである。 第二は「策励」である。すなわち、修行におけるあらゆる対治法を、努力を尽くして捨てないことである。 第三は「信」である。すなわち、努力を尽くすことを捨てずに正しく安住するため、先に証得したものに対して深く信心と理解を生じることである。 第四は「安」である。すなわち、清らかな信を第一とし、心に歓喜が生じることである。心に歓喜が生じるがゆえに、徐々に悪しき不善の法の粗重が除かれていく。 第五は「念」である。すなわち、九つの相がある。九つの相において心を安住させ、止の部門において心を保持するからである。 第六は「正知」である。すなわち、観の部門における智慧である。 第七は「思」である。すなわち、心を造作することである。断じたものと未だ断じていないものを正しく観察する時、心を造作し、止・観の二部門にかなう身業・語業を発起させる。 第八は「捨」である。すなわち、過去・未来・現在にわたって悪しき不善の法に随順する中で、心が染まらず、心が平等であることである。二つの因縁によって、煩悩の断について分別し、はっきりと了知する。すなわち、境を現に見ずに思惟することと、境を現に見て捨することによる。以上を八つの断行と名づけ、また勝行ともいう。

如是八種斷行、勝行，即是為害隨眠瑜伽。此中欲者，即是彼欲；此中策勵，即彼精進；此中信者，即是彼信；此中安、念、正知、思、捨，即彼方便。如是此中，若先欲等四三摩地，若今所說八種斷行，於為永斷所有隨眠圓滿成辨三摩地時，一切總名欲三摩地斷行成就神足、勤三摩地斷行成就神足、心三摩地斷行成就神足、觀三摩地斷行成就神足。

> この八種類の「断行」（煩悩を断つ実践）と「勝行」（すぐれた実践）こそが、煩悩の眠りを害するヨーガ（修行法）である。この中で「欲」とは、その修行への欲求であり、「策励」とは、その精進にあたる。ここで言う「信」とは、その信仰心である。ここで説く「安」「念」「正知」「思」「捨」は、その修行の手段にほかならない。 このように、先に述べた四つの三摩地（「欲」「勤」「心」「観」の三摩地）と、今説いた八種の断行は、すべての煩悩の眠りを完全に断ち切るために、三摩地を円満に成就させる際の修行法である。これらを総称して、「欲三摩地断行成就神足」「勤三摩地断行成就神足」「心三摩地断行成就神足」「観三摩地断行成就神足」と呼ぶのである。

問：何因緣故說名神足？

> 問：どのような理由によって「神足」という名前が付けられているのですか？

答：如有足者，能往能還，騰躍勇健，能得能證世間所有殊勝之法。世殊勝法說名為神，彼能到此，故名神足。如是若有如是諸法，有三摩地圓滿成辨，彼心如是清淨鮮白，無諸瑕穢，離隨煩惱，安住正直，有所堪能，獲得不動，能往能還，騰躍勇健，能得能證出世間法。由出世法最勝自在，是最勝神，彼能證此，故名神足。

> 答：例えば足がある人は、行ったり来たりすることができ、力強く跳びはね、世の中のあらゆる優れた教えを理解し、身につけることができます。この世の優れた教えは「神」と呼ばれ、それを実現できることから「神足」と言います。同様に、これらの教えを修め、三昧を完全に成就した人は、心がこのように清らかで真っ白になり、汚れや濁りがなく、煩悩に惑わされることもありません。正しく安定してありのままに落ち着き、能力を備え、揺るぎない境地を得て、行ったり来たりでき、力強く跳びはね、世を超えた教えを理解し、身につけることができます。世を超えた教えは最も自由で優れており、最も優れた「神」であるため、それを実現できることから「神足」と言います。

彼由如是勝三摩地為所依持，勝三摩地為所依止，能進修習增上心學、增上慧學所有瑜伽。由進修習此瑜伽故，於他大師、弟子所證，深生勝解、深生淨信。此清淨信增上義故，說名信根。問：於何增上？答：於能生起出世間法而為上首，及於能起精進、念、定、慧為其增上。餘精進等，於能生起出世間法，及於能起展轉乃至慧為其增上。乃至其慧，唯於能起出世間法為其增上。是故信等說名五根。

> このようなすぐれた三昧に支えられ、すぐれた三昧を拠り所として、さらに向上心の学（戒・定・慧のうち定の学）と向上慧の学（慧の学）に関するすべてのヨーガ（修行）を進んで修習する。このヨーガを進んで修習することによって、他の師や弟子たちが体得したことに対し、深く理解し、深く清らかな信心を生じる。この清らかな信心が向上する作用をもつことから、これを「信根」と名づける。 問う：「何を向上させるのか？」 答える：「出世間の法を生じさせるための最上のものとして、また、精進・念・定・慧を起こすための向上の基となる。残りの精進などは、出世間の法を生じさせるためと、さらに相互に作用して慧に至るまでの向上の基となる。そして慧は、ただ出世間の法を生じさせるための向上の基となる。このように、信などの五つを「五根」と名づけるのである。」

若復了知前後所證而有差別，隨此能於後後所證出世間法，深生勝解、深生淨信。此清淨信難伏義故，說名信力。

> さらに、もし修行者が前に証得したものと後に証得するものに違いがあることを如実に理解し、それに従って後の後の出世間の法に対して深く勝解し、深く清らかな信心を生じさせるならば、この清らかな信心は容易に揺るがない性質を持つがゆえに、信力と名づけられる。

問：誰不能伏？

> 問：だれが伏せられないのですか？

答：此清淨信，若天、若魔、若諸沙門、若婆羅門、若餘世間，無有如法能引奪者，諸煩惱纏亦不能屈，故名難伏。此為上首、此為前行，餘精進等亦名為力。由此諸力具大威勢，摧伏一切魔軍勢力，能證一切諸漏永盡，是故名力。

> 答え：この清らかな信は、天や魔、修行者やバラモン、その他世の中のいかなる者も、正しい方法で奪い取ることができず、煩悩の束縛にも屈することがないので、「難伏」と呼ばれます。これが最も優れ、先立ちます。その他の精進なども「力」と呼ばれます。これらの力によって大きな威力を備え、あらゆる魔軍の勢力を打ち倒し、すべての煩悩を永遠に尽くすことを悟ることができるので、「力」と呼ばれます。

當觀此中信根、信力，即四證淨中所有淨信。何以故？以其證入正性離生所有證淨，皆由此因、此緣、此序，由彼即是此增上果。是故世尊就其因果相屬道理，說言當觀即彼證淨，非即彼體、非即彼相。當觀此中精進根、力，即四正斷中所有精進。此何正斷？謂能永斷見道所斷一切煩惱方便正斷，此中意說如是正斷。由此正斷，畢竟能斷所有諸惡不善法故。當觀此中念根、念力，即四念住中所有正念。謂四念住能無餘斷一切顛倒。當觀此中定根、定力，即四靜慮中所有正定。謂諸靜慮能為方便，證不還果。當觀此中慧根、慧力，即四聖諦中所有正智。謂聖諦智於四聖諦能證現觀，得沙門果。

> この中の信の根・信の力について観察すべきです。それはすなわち、四つの証浄におけるすべての清らかな信のことです。なぜなら、正しい境地に入り迷いの世界から離れるための、証浄と呼ばれるものは、すべてこの原因、この条件、この流れによって生じるからです。そして、それこそがこの増上果となるのです。そのため、世尊は因果の道理に基づいて、「その証浄を観察すべきだと言うのであって、その本体やその形相そのものを観察せよと言うのではない」と説かれました。 次に、この中の精進の根・精進の力について観察すべきです。それはすなわち、四つの正断におけるすべての精進のことです。では、この正断とは何か。それは、修行による観察（見道）において断つべきすべての煩悩を、永遠に断ち切るための方便としての正しい断ち切りです。ここで言う正断とは、このことを指しています。この正断によって、すべての悪しき不善の法を究極的に断ち切ることができるからです。 次に、この中の念の根・念の力について観察すべきです。それはすなわち、四つの念住におけるすべての正しい念のことです。四つの念住は、一切の誤った見解を余すところなく断ち切ることができます。 次に、この中の定の根・定の力について観察すべきです。それはすなわち、四つの静慮におけるすべての正しい定のことです。これらの静慮は、修行の方便として、不還の果を得るために役立ちます。 次に、この中の慧の根・慧の力について観察すべきです。それはすなわち、四つの聖なる真理におけるすべての正しい智慧のことです。聖なる真理の智慧は、四つの聖なる真理について現観（直接的な悟り）を証得し、沙門の果を得ることができるのです。

即由如是諸根、諸力，漸修、漸習、漸多修習為因緣故，便能發起下中上品順決擇分四種善根。何等為四？一、煗，二、頂，三、順諦忍，四、世第一法。譬如有人，欲以其火作火所作，為求火故，下安乾木，上施鑽燧，精勤、策勵、勇猛鑽求。彼於如是精勤、策勵、勇猛鑽時，於下木上最初生煗；次煗增長，熱氣上衝；次倍增盛，其煙遂發；次無焰火欻然流出；火出無間發生猛焰；猛焰生已，便能造作火之所作。如鑽火人精勤、策勵、勇猛鑽求，五根、五力，漸修、漸習、漸多修習，當知亦爾。如下木上初所生煗，其煗善根，當知亦爾，燒諸煩惱無漏法火生前相故。如煗增長，熱氣上衝，其頂善根，當知亦爾。如次煙發，其順諦忍，當知亦爾。如無焰火欻然流出，世第一法，當知亦爾。如火無間發生猛焰，世第一法所攝五根、五力，無間所生出世無漏聖法，當知亦爾。

> そのように五根・五力を次第に修め、慣れ親しみ、繰り返し修めることによって、下・中・上の三品からなる「順決択分」の四つの善根が生じます。その四つとは何か？第一に「煗」、第二に「頂」、第三に「順諦忍」、第四に「世第一法」です。 例えば、ある人が火を使って火の働きを起こそうとして、火を得るために、下に乾いた木を置き、上に火きり棒を据えて、熱心に努力し励み、勇んで火を起こそうとします。その人がこのように熱心に努力し励み、勇んで火を起こそうとしている時、下の木の上に最初に暖かさが生じます。次にその暖かさが増し、熱気が上に昇ります。さらにそれが増して盛んになると、煙が立ちのぼります。次に、炎のない火が突然現れ出ます。火が出ると間もなく激しい炎が起こります。激しい炎が起こると、それによって火の働きを実現できるのです。 火起こしをする人が熱心に努力し励み、勇んで火を起こそうとするように、五根・五力が次第に修められ、慣れ親しみ、繰り返し修められることも、同じだと知るべきです。 下の木の上に最初に生じる暖かさのように、煗の善根もまた、煩悩を焼き尽くす無漏の法の火が生じる前兆であると知るべきです。 暖かさが増し熱気が上に昇るように、頂の善根もまた、そうであると知るべきです。 次に煙が立ちのぼるように、順諦忍もまた、そうであると知るべきです。 炎のない火が突然現れ出るように、世第一法もまた、そうであると知るべきです。 火が出ると間もなく激しい炎が起こるように、世第一法に含まれる五根・五力の直後に、世を超えた無漏の聖なる法が生じることも、また同じであると知るべきです。

此復云何？謂七覺支。諸已證入正性離生補特伽羅如實覺慧用此為支，故名覺支。即此七種如實覺支，三品所攝。謂三覺支奢摩他品攝，三覺支毘鉢舍那品攝，一覺支通二品攝，是故說名七種覺支。謂擇法覺支、精進覺支、喜覺支，此三觀品所攝；安覺支、定覺支、捨覺支，此三止品所攝；念覺支一種，俱品所攝，說名遍行。

> それは何かといえば、七つの覚りの支分（七覚支）のことです。すでに正しい真理に入り、迷いの世界を離れた修行者は、真実の智慧（如実覚慧）をそのよりどころとします。このことから、覚りの支分と名づけられます。この七つの如実覚支は、三つのグループに分類されます。すなわち、三つの覚支は「止（奢摩他）」のグループに、三つの覚支は「観（毘鉢舎那）」のグループに、一つの覚支は両方のグループに含まれます。そのため、七つの覚支と呼ばれるのです。 具体的には、法を選ぶ覚支（択法覚支）、努力する覚支（精進覚支）、喜びの覚支（喜覚支）の三つは観のグループに属します。心の安らぎの覚支（安覚支）、心を統一する覚支（定覚支）、執着を捨てる覚支（捨覚支）の三つは止のグループに属します。そして、気づきの覚支（念覚支）は両方のグループに属し、あまねくはたらくものとされています。

彼於爾時，最初獲得七覺支故，名初有學見聖諦迹。已永斷滅見道所斷一切煩惱，唯餘修道所斷煩惱。為斷彼故，修習三蘊所攝八支聖道。

> その時、修行者は初めて七つの覚りの支分（七覚支）を獲得したことから、「初めて学び、聖なる真理の跡を見る者」と呼ばれます。すでに見道において断たれるべき煩悩を全て断ち切り、ただ修道において断たれるべき煩悩だけが残っています。その煩悩を断ち切るために、三つの集まり（戒・定・慧の三蘊）に含まれる八つの正しい道（八正道）を修習します。

此中正見、正思惟、正精進，慧蘊所攝；正語、正業、正命，戒蘊所攝；正念、正定，定蘊所攝。

> ここで、正見・正思惟・正精進は智慧の集まりに含まれ、正語・正業・正命は戒めの集まりに含まれ、正念・正定は心を集中する集まりに含まれます。

問：何因緣故名八支聖道？

> 問う：どのような理由によって「八支聖道」と名付けられたのですか？

答：諸聖有學已見迹者，由八支攝行迹正道，能無餘斷一切煩惱，能於解脫究竟作證，是故名為八支聖道。

> 答え：聖なる学びを修める者たちが、すでに真理の道筋を見たとき、八つの支分からなる正しい道を歩むことによって、あらゆる煩悩を余すことなく断ち切り、最終的に解脱を自ら証得する。それゆえ、これを「八支聖道」と呼ぶのである。

當知此中，若覺支時所得真覺；若得彼已，以慧安立如證而覺，總略此二合名正見。由此正見增上力故，所起出離、無恚、無害分別思惟，名正思惟。若心趣入諸所尋思，彼唯尋思如是相狀所有尋思。若心趣入諸所言論，即由正見增上力故，起善思惟，發起種種如法言論，是名正語。

> 知っておくべきは、この中で、覚りの支分を得た時に得られる真の覚りと、それを得た後に智慧によって安立し、証得したままに覚ること、この二つを総合して正見と名づける。この正見の増上力によって生じる、出離・無瞋・無害の分別思惟を、正思惟と名づける。心が様々な思索に向かうなら、それはただその相状の思索を尋ねるだけである。心が様々な言論に向かうなら、正見の増上力によって善思惟を起こし、種々の如法の言論を発する。これを正語と名づける。

若如法求衣服、飲食、諸坐臥具、病緣醫藥供身什物。於追求時，若往、若還正知而住，若覩、若瞻、若屈、若伸、若持衣鉢及僧伽胝、若食、若飲、若噉、若甞正知而住；或於住時，於已追求衣服等事，若行、若住、若坐、若臥，廣說乃至若解勞睡正知而住。是名正業。

> 正しく法に従って衣服、飲食、寝具、医療品などの身の回りの品を求める場合、その追求の過程で、行き帰りの際には正しく気づきを持って行動し、見るとき、眺めるとき、曲げるとき、伸ばすとき、衣や鉢、袈裟を持つとき、食べるとき、飲むとき、噛むとき、味わうときにも正しく気づきを持って過ごします。また、すでに求めた衣服などの品々について、歩くとき、立つとき、座るとき、横になるとき、さらには休息や睡眠をとるときに至るまで、正しく気づきを持って過ごします。これを正しい行い（正業）と呼びます。

如法追求衣服、飲食，乃至什物，遠離一切起邪命法，是名正命。

> 正しく法に従って衣服や飲食、さらには日用品を求め、あらゆる邪まな生計手段を遠ざけること、これを正命といいます。

若遠離攝正語、業、命，彼於證得無漏作意諸覺支時，先已獲得。

> 正しい言葉・正しい行い・正しい生活を遠ざけてしまえば、無漏の作意による覚りの支分を証得する時に、それらはすでに得られていたものとなります。

問：何故此名聖所愛戒？

> 問：なぜこれを「聖者の愛する戒」と呼ぶのか？

答：以諸聖者、賢善、正至，長時愛樂、欣慕、悅意：我於何時當正獲得諸語惡行、諸身惡行、諸邪命事不作律儀？由彼長夜於此尸羅深心愛樂、欣慕、悅意，故獲得時，名聖所愛。

> 答え：聖者や善き人々、正しい境地に至った人々が、長い間、心から愛し楽しみ、慕い、喜んできたことがあります。それは、「私はいつ、正しく言葉の悪行為、身体の悪行為、誤った生計の手段を行わないという戒律を身につけることができるだろうか」と願うことです。彼らは長い時を経て、この戒律を深く心から愛し、慕い、喜んできたため、それを獲得した時に「聖者の愛するもの」と名付けられるのです。

獲得如是聖愛戒已，終不正知而說妄語，終不故思害眾生命，終不故思不與而取，終不故思行欲邪行，終不非法求衣服等。即由如是聖所愛戒增上力故，於修道時，乃至所有語業、身業、養命事轉，亦得名為正語、業、命。依止正見及正思惟、正語、業、命勤修行者，所有一切欲、勤、精進、出離勇猛、勢力發起、策勵其心，相續無間，名正精進。

> このように聖者が愛する清らかな戒めを身につけたならば、決して正しい知見に反して嘘をつかず、決して故意に生き物の命を奪わず、決して故意に盗みを働かず、決して故意に邪な欲望の行いをせず、決して非道な方法で衣服などを求めることはありません。この聖者が愛する戒めの力によって、修行の道を歩むとき、言葉の行い、身体の行い、生活の糧を得るための行いのすべてが、正しい言葉、正しい行い、正しい生活と呼ばれるようになります。 正しい見解と正しい思い、そして正しい言葉、正しい行い、正しい生活に基づいて修行に励む人の、あらゆる欲求、努力、精進、迷いからの脱却への勇気、力の奮い起こし、心の励ましが、絶え間なく続くことを、正しい精進といいます。

成就如是正精進者，由四念住增上力故得無顛倒九種行相所攝正念，能攝九種行相心住。是名正念及與正定。

> このように正しい精進を成就した者は、四つの念処（四念住）の力によって、ゆがみのない九つの側面を含む正しい念（正念）を得る。その正しい念は、九つの側面を含む心の安定（心住）をもたらす。これを正念および正定という。

如是一切八支聖道，總立二種。謂無所作及住所作。無所作者，謂正語、正業、正命。住所作者，復有二種。謂奢摩他、毘鉢舍那。正見、正思惟、正精進、是毘鉢舍那；正念、正定、是奢摩他。

> 以上のような八つの正しい道（八正道）は、大きく二つにまとめられます。すなわち「なすことのないもの」と「なすことのあるもの」です。 「なすことのないもの」とは、正しい言葉・正しい行い・正しい生活のことです。 「なすことのあるもの」には、さらに二つあります。それは「奢摩他（しゃまた：心の静けさ）」と「毘鉢舍那（びばしゃな：物事をありのままに見る智慧）」です。 このうち、正しい見方・正しい考え方・正しい努力は「毘鉢舍那」にあたり、正しい気づき・正しい集中は「奢摩他」にあたります。

如是清淨正語、業、命為所依止，於時時間修習止觀，能斷諸結。無餘永斷，能得最上阿羅漢果。長時相續，名為修道，多時串習斷煩惱故。率爾智生，名為見道，暫時智起，即能永斷諸煩惱故。由是因緣，正語、業、命，於修道中方始建立。

> このように清らかな正しい言葉、行い、生活（正語・正業・正命）を基盤として、時々に止（瞑想による心の静けさ）と観（物事を見通す智慧）を修め磨くことで、全ての束縛を断ち切ることができます。残らず完全に断ち切ることで、最高の阿羅漢の境地を得ることができます。長く続けて修める道を「修道」と呼びます。これは長い間繰り返し実践することで、煩悩を断つからです。ひらめきのように一瞬で智慧が生じる道を「見道」と呼びます。それは一瞬の智慧の働きで、すぐにすべての煩悩を断ち切るからです。このようなわけで、正しい言葉、行い、生活は、修道の段階になって初めて確立されるのです。

由如是等，漸次修習三十七種菩提分法加行方便，是名菩提分修。

> このようにして、順を追って三十七種の菩提分法の実践と修行の方法を積み重ねていくこと、これを「菩提分の修行」と呼ぶ。