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title: "瑜伽師地論 · 2目 標釋六種"
description: "瑜伽师地论是佛教大乘瑜伽行派的重要经典，相传由弥勒菩萨口述，无著菩萨记录，唐代高僧玄奘于贞观年间从印度取回并译成汉文。该论共100卷，系统阐述瑜伽行派的教义，内容包括十七地、三性、八识、修行次第等核心理论，被誉为大乘佛教的百科全书。作为唯识学的根本论典，瑜伽师地论奠定了唯识学派的理论基础，对汉传佛教和藏传佛教影响深远，在佛教思想史上具有崇高地位，是研究唯识学和瑜伽行派必读的经典著作。"
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第一沙門復有四種。2目 標釋六種

> 第一の沙門には、さらに四つの種類があります。 その目的を六つに分類して説明します。

何等為四？一、勝道沙門，二、說道沙門，三、活道沙門，四、壞道沙門。

> 四つとは何か。第一に、優れた道を歩む修行者。第二に、道を説く修行者。第三に、道によって生きる修行者。第四に、道を汚す修行者。

當知諸善逝，名勝道沙門；諸說正法者，名說道沙門；諸修善行者，名活道沙門；諸行邪行者，名壞道沙門。諸善逝者，謂已證得貪瞋癡等無餘永盡。說正法者，謂為調伏貪瞋癡等，宣說正法。修善行者，謂為調伏貪瞋癡等，勤修正行。行邪行者，謂犯尸羅，行諸惡法。

> 知っておくべきことだが、如来（善逝）は「勝れた道の沙門（修行者）」と呼ばれる。正しい教えを説く者は「道を説く沙門」、善い行いを修める者は「道を生きる沙門」、悪い行いをする者は「道を壊す沙門」と呼ばれる。如来とは、貪り・怒り・無知などの煩悩を残らず完全に断ち尽くした者を指す。正しい教えを説くとは、貪り・怒り・無知などを調伏するために、正しい教えを説くことである。善い行いを修めるとは、貪り・怒り・無知などを調伏するために、正しい行いを熱心に実践することである。悪い行いをするとは、戒律を破り、様々な悪い行いをすることである。

又學無學名勝道沙門。以無漏道摧滅一切見、修所斷諸煩惱故。若無如來及諸菩薩，為菩提故勤修正行，諸聲聞眾持三藏者，名說道沙門。任持世俗法毘奈耶，轉正法眼令不斷故。若諸異生補特伽羅，其性調善，為自利益勤修正行，有羞有悔，愛樂正學，為得未得、為觸未觸、為證未證勤修加行，有力有能堪得未得、堪觸未觸、堪證未證，名活道沙門。由彼現有諸善法煗，堪能生長聖慧命根，名活，非死，是故名為活道沙門。若諸犯戒補特伽羅，多行惡法，廣說乃至實非梵行自稱梵行，名壞道沙門。由彼破壞最初所有正道根本，無力無能，非生道器。雖現前有說正道教，及現前有證正道者，而彼不得，是故名為壞道沙門。

> さらに、学びある者と学びなき者を、勝れた道の沙門という。それは、煩悩を断つ無漏の道によって、すべての見惑と修惑を打ち滅ぼすからである。 もし如来や菩薩たちが、悟りのために努めて修行し、三蔵を保つ声聞の衆ならば、説く道の沙門という。世俗の法や律を保ち、正しい法の眼を転じて絶え間なくするからである。 また、凡夫の補特伽羅（個人）であって、性質が柔らかく善く、自らの利益のために努めて修行し、恥じる心を持ち、正しい学びを愛好し、未だ得ざるものを得んとし、未だ触れざるものに触れんとし、未だ証せざるものを証せんと努めて修行し、力があり能力があって、未だ得ざるものを得、未だ触れざるものに触れ、未だ証せざるものを証するに堪えるものを、生きる道の沙門という。彼には諸々の善法の煖（暖かさ）が現にあり、聖なる慧の命根を生長させるに堪えるゆえに、生きるといい、死せるのではない。ゆえに生きる道の沙門という。 もし戒を破る補特伽羅（個人）が、多くの悪を行い、詳しく説けば、実は梵行にあらざるに自ら梵行と称するようなものを、壊れた道の沙門という。彼は最初のすべての正道の根本を破壊するゆえに、力なく能力なく、道を生ずる器とはならない。現前に正しい道の教えを説く者がいて、また現前に正道を証する者がいても、彼はそれを得ることができない。ゆえに壊れた道の沙門という。

世尊依彼作如是說：此初沙門，廣說乃至第四沙門，於外沙門、婆羅門教空無所有。若於是處，八支聖道安立可得；即於是處有初沙門，廣說乃至第四沙門。

> 世尊は、それに基づいて次のようにお説きになりました。「この最初の沙門（修行者）、さらに詳しく言えば第四の沙門に至るまで、外道の沙門やバラモンの教えの中には、全く存在しない。もしどこかに八つの正しい道（八支聖道）が確立され、それが得られるなら、その場所には最初の沙門があり、さらに詳しく言えば第四の沙門まで存在するのである。」

第二婆羅門復有三種。一、種姓婆羅門，二、名想婆羅門，三、正行婆羅門。

> 第二のバラモンにもまた三種類があります。第一は、生まれや家柄によるバラモン、第二は、名前や呼び名だけのバラモン、第三は、正しい行いによるバラモンです。

種姓婆羅門者，謂若生在婆羅門家，從母產門之所生出，父母圓備，名婆羅門。

> 種姓（しゅじょう）としてのバラモンとは、バラモンの家に生まれ、母親の産門からこの世に出てきた者を言います。両親ともにバラモンであることが整っており、そのような人をバラモンと呼びます。

名想婆羅門者，謂諸世間，由想等想，假立言說，名婆羅門。

> 名想婆羅門とは、世間の人々が「想像」や「様々な想い」によって、仮に名前を立てて言葉で表現しているものを、婆羅門（バラモン）と呼ぶのです。

正行婆羅門者，謂所作事決定究竟，已能驅擯惡不善法。如說：當知婆羅門，更無有所作；所作事已辨，是謂婆羅門。

> 真のバラモン（修行者）とは、為すべきことを確実に成し遂げ、すでに悪しき不善な行いを追い払った人のことです。次のように説かれています。「知るべきである——バラモンとは、もはや為すべきことはなく、為すべきことを完全に成し遂げた者である、と。」

第三梵行復有三種。一、受遠離梵行，二、暫時斷梵行，三、畢竟斷梵行。受遠離梵行者，謂能受學遠離一切行非梵行習婬欲法。暫時斷梵行者，謂諸異生，由世間道離欲界欲。畢竟斷梵行者，謂諸聖者得不還果，復得最上阿羅漢果。

> 第三の梵行には、さらに三つの種類があります。 第一に、「受遠離梵行」、第二に、「暫時断梵行」、第三に、「畢竟断梵行」です。 「受遠離梵行」とは、不浄行や婬欲の行いをすべて遠ざけることを学び、実践することをいいます。 「暫時断梵行」とは、凡夫が世間的な修行の道によって、欲界への執着を断ち切ることをいいます。 「畢竟断梵行」とは、聖者が不還果（悟りの境地）を得て、さらに最上の阿羅漢果に至ることをいいます。

第四苾芻復有五種。一、乞匃苾芻，二、自稱苾芻，三、名想苾芻，四、破壞煩惱苾芻，五、白四羯磨受具足戒苾芻。

> 第四の比丘には、さらに五つの種類があります。一に、乞食比丘、二に、自称比丘、三に、名想比丘、四に、煩悩を破る比丘、五に、白四羯磨（びゃくしこんま）によって具足戒を受けた比丘です。

第五精勤復有三種。一、止息犯戒精勤，謂能遠離一切不善身業、語業。二、止息境界精勤，謂密護根門，修防守念及常委念、如前廣說。三、止息煩惱精勤，謂能永斷見、修所斷一切煩惱，及於一切先所生起，或欲尋思、或恚尋思、或害尋思、或貪、或瞋、或諸邪見、或忿恨覆惱誑諂等，能往惡處那洛迦等諸險惡趣非沙門法，隨所生起能不忍受，尋即斷滅、除遣、變吐。當知此中，略有二種止息煩惱。一、止息隨眠，二、止息諸纏。

> 第五に、精進（努力）には三つの種類があります。 第一に、戒律を犯すことをやめるための精進です。これは、身体とことばによるあらゆる不善の行いを遠ざけることです。 第二に、感覚の対象への執着をやめるための精進です。これは、感覚の門（六根）をしっかりと守り、気づきの心（念）と絶え間ない気づきの心を修習することであり、これについては先に詳しく述べた通りです。 第三に、煩悩を鎮めるための精進です。これは、見道と修道において断つべきあらゆる煩悩を完全に断ち切ることです。また、過去に生じた、欲望に関する思い、怒りに関する思い、害を与えようとする思い、あるいは貪欲、怒り、様々な誤った見解、あるいは恨み、憎しみ、隠し立て、惑わし、偽り、へつらいなどの、悪しき境地（地獄など）や危険な悪趣へ導き、修行者（沙門）のあるべき姿に反するものすべてが、たとえ生じても、それに耐え忍ばずに、すぐに断ち切り、除き去り、吐き捨てることを言います。 なお、ここで言う煩悩を鎮めることには、大きく分けて二つの種類があると知るべきです。 一つは、煩悩の潜在的な傾向（随眠）を鎮めること、もう一つは、現れ出た煩悩（纏）を鎮めることです。

第六出家復有二種。一、於善說法毘奈耶中而出家者，二、於惡說法毘奈耶中而出家者。於善說法毘奈耶中而出家者，謂苾芻苾芻尼、式叉摩那、沙彌、沙彌尼。又若自能出離身中所有一切惡不善法，當知是名真實出家。於惡說法毘奈耶中而出家者，謂諸外道。或全無衣、或壞色衣、或塗灰等增上外道。復有所餘如是等類眾多外道。是故說言：若諸沙門、若婆羅門、若修梵行、若諸苾芻、若精勤者、若出家者，如是一切，是數取趣所有異門。

> 第六の出家には、さらに二種類ある。一つは、善く説かれた法と律のもとでの出家であり、二つ目は、悪しく説かれた法と律のもとでの出家である。善く説かれた法と律のもとでの出家とは、比丘、比丘尼、式叉摩那、沙弥、沙弥尼を指す。さらに、自らの身の中からあらゆる悪しき不善の法を出離できるならば、それを真実の出家と知るべきである。悪しく説かれた法と律のもとでの出家とは、様々な外道のことである。あるいは全く衣服をまとわない者、あるいは壞色の衣をまとう者、あるいは灰を塗るなどの増上慢の外道などである。その他にも、このような多くの外道が存在する。そのため、『もし沙門、もし婆羅門、もし梵行を修める者、もし比丘、もし精進する者、もし出家する者』というこれらの全ては、有情を指す異なる呼び名である、と説かれるのである。